知ってるつもり  Steven Slomanほか  2018.7.14. 


2018.7.14.  知ってるつもり――無知の科学
The Knowledge Illusion ~ Why We Never Think Alone         2017

著者
Steven Sloman 認知科学者(25年以上にわたり知性の働きを研究)。ブラウン大教授(認知、言語、心理学)Cognition(認知)誌の編集長
Philip Fernbach 認知科学者。博士(認知科学)。コロラド大リーズ・スクール・オブ・ビジネス教授(マーケティング論:消費者の意思決定のあり方の研究)

訳者    土方奈美 翻訳家。日本経済新聞記者を経て独立。米国公認会計士資格保有

発行日           2018.4.10. 初版印刷         4.15. 初版発行
発行所           早川書房

を営まるのはなぜか?
l  インターネットを検索しただけで、わかった気になりがち
l  極端な政治思想の持ち主ほど、政策の中身を理解していない
l  多くの学生は文章を正しく読めていないが、そのことに気づいていない
人はなぜ、自らの理解度を過大評価してしまうのか? それにもかかわらず、私たちが高度な文明社会を営めるのはなぜか?
気鋭の認知科学者コンビが行動経済学から人工知能まで各分野の研究成果を総動員して、人間の「知ってるつもり」の正体と、知性の本質に挑む。思考停止したくない全ての人必読のノンフィクション

序章 個人の無知と知識のコミュニティ
1954年の核実験「キャッスル・ブラボー」では、爆発が広島(TNT16キロトン)300倍以上の核出力6メガトンと想定したが、実際には15メガトンあったため、第5福竜丸のように避難区域外の漁船やロンゲラップ環礁などの住民が多大な被害を被った
原因は、リチウム7の性質と風向きを読み誤ったこと ⇒ リチウム7は、比較的不活性な物質と思われていたものが中性子の衝突に強い反応を示し、他の水素原子と融合してさらに中性子を生み出し、大量のエネルギーを放出した
この事例には、人類の本質的なパラドックスがよく現れている。人間の知性は天才的であると同時に哀れを催すほどお粗末であり、時に思い上がりと無謀さを示す
殆どの人は水爆の具体的な仕組みをまるで分っていないのに爆発させてしまう
本書の目的は、なぜ人間は惚れ惚れするような知性とがっかりするような無知を併せ持っているのか、大抵の人間は限られた理解しか持ち合わせていないのに、これほど多くを成し遂げてこられたのかという疑問に答えること
認知科学という学問分野が登場したのは1950年代、人の知性の働きとその目的を解明
人間の能力は、大抵の人にとって極めて限られていることを示す研究成果が溢れている
個人の知識は驚くほど浅いにもかかわらず、大抵は自分がどれほどわかっていないかを認識していない ⇒ 往々にして自信過剰で、殆ど知らないことについて自分の意見が正しいと確信している
人間の知性は、大量の情報をストックするのではなく、新たな状況下での意思決定に最も役立つ情報だけを抽出するように進化した、柔軟な問題解決装置 ⇒ 人間はミツバチ、社会はミツバチの巣に例えられる(ミツバチ・マインドセットの典型例)。知性は個体の脳の中ではなく、集団的頭脳の中に宿り、個人は生きていくために他人の中に蓄積された知識をも頼る。すべての人の知識を足すと人間の思考は感嘆すべきものになるが、それはコミュニティの産物であり、特定個人のものではない
水洗トイレの発明者は、ヴィクトリア王朝に仕えた衛生技師で19世紀後半の発明だが、実際は設計を改良して大儲けしただけで、基本設計はサイホンの仕組みを使った単純なもの。ただ、実際にトイレを製造・設置して稼働させるためには多方面にわたる多大の知識が必要にもかかわらず、多くの人は知っていると思っている ⇒ 人間は自分が思っているより無知である
知識の錯覚 ⇒ なぜ私たちは自らの無知の深さを認識できないのか、なぜすべてを理解できるような体系的知識を持ち合わせていると錯覚するのか
錯覚が思考を支配する理由を理解するには、なぜ思考するのかを考える
思考の目的は「行動」であり、思考は有効な行動をとる能力の延長として進化。目的を達成するために必要なことを、より的確にできるようになるために進化
知識のコミュニティに生きてことこそが、人類が成功を収めてきた鍵だが、一方で思考の性質として入手できる知識はシームレスに活用できるところから、自らの頭の内と外の知識の間に明確な線引きができずに知識の錯覚に陥る
自らの理解の限界を認識すれば、もっと謙虚になり、他の人々のアイディアや考え方に素直に耳を傾けられるようになる
知識の錯覚は、社会の進化とテクノロジーの未来にも重要な示唆を与える ⇒ テクノロジー・システムが一段と複雑化するに伴い、それを完全に理解できる個人はいなくなる
知性の働きについて理解を深め、自分の知識や思考のうち、身の回りの物や人に左右される部分がどれほど大きいか認識を新たにしていただければ幸い
                                      
第1章        「知っている」のウソ
説明深度の錯覚 ⇒ 説明できると思っていたが、自分が思っていたほどの知識は持ち合わせていなかった(ファスナーの仕組みや自転車の絵)

第2章        なぜ思考するのか
超記憶症候群、自伝的記憶(HSAM)
脳は、特定のタイプの問題を解決できるように、進化のプロセスを通じて形作られてきた

第3章        どう思考するのか
人間は地球上で最も因果的思考に長けた生き物 ⇒ メカニズムについて十分な知識があるために様々な事象を理解できる

第4章        なぜ間違った考えを抱くのか
2つのタイプの思考 ⇒ 直観と熟慮。染みついた直感や習慣を熟慮によって克服するのは難しい

第5章        体と世界を使って考える
物事を考えるのは脳だけでなく、時に体を使って思考や記憶をする

第6章        他者を使って考える
コミュニティで知識を共有すると、「志向性」をも共有できる ⇒ 共通の目標を追求
コミュニティで知識を共有するためには、異なるメンバーがそれぞれに持っている知識のかけらに互換性がなければならない ⇒ 集団意識の強みと危険性

第7章        テクノロジーを使って考える
テクノロジーをコミュニティの構成員として扱うようになってきたが、まだ志向性を共有するには至っていない

第8章        科学について考える
遺伝子組み換え食品の安全性は、従来の食物交配技術などに比べて問題ないことが既に確認されているし、食物に高エネルギーの放射線を照射して殺菌する食品照射も、安全で食物由来の病気を減らすのに有効であることが証明されているが、依然として抵抗は強い
いずれのケースも仕組みに対して誤った因果モデルを当てはめていることが反発の原因
人の信念を変えるのは難しい。それは価値観やアイデンティティと絡み合っていて、コミュニティと共有されているから ⇒ 我々の頭の中にある因果モデルは限定的で、誤っていることも多い
知識の錯覚は、自分の理解を頻繁に、或いはじっくりと検証しないことを示てしており、反科学的思考が生まれるもとになっている

第9章        政治について考える
集団浅慮(グループシンク) ⇒個々にはあまり知識がないにもかかわらず、互いにわかっているという感覚を助長し、同じような考えを持つ人々が議論すると一段と極端化する
道徳的思考停止 ⇒ 道徳的判断が合理的思考に基づいて下されることは滅多にない。自分の価値観の中には絶対譲れないものがあり、それはどれだけ議論しても変わらない
知識の錯覚を打ち砕かれると、新たな情報を求めることに消極的になる傾向が強い

第10章     賢さの定義が変わる
偉大な科学者は世界を変えたと尊敬されるが、広範なコミュニティの中で活動していたのは間違いなく、コミュニティの存在無くしては彼らの業績もなしえなかった
知能を個人的属性と見ずに、個人がどれだけコミュニティに貢献するかだと考えると、個人の知能はその個人がチームにとってどれだけ重要な存在であるかを表す

第11章     賢い人を育てる
全員に何もかも教え込もうとするのは不毛」、」個人の強味を考慮し、それぞれが最も得意とする役割において才能を開花させられるようにすべき
自分が何を知らないのかを知っていることが、意思決定に際して成功をもたらすこともあるのは、知らないことへの対処方法を考えることができるから ⇒ そういう学習経験によって知識が深まり、より良い意思決定につながる

第12章     賢い判断をする
リバタリアン・バターナリズム(自由至上主義における家父長主義→穏やかな介入主義) ⇒ 人は常に最高の判断を下すわけではないので、行動科学によってより良い方向に変え、意思決定を改善できるという主張
後悔するような意思決定する理由を特定し、意思決定のプロセスを変化させることにより、将来はもっと良い意思決定ができるようになる。このような変化を促す行為を「ナッジ(軽く突くこと)」と呼ぶ。行動科学を使ってより良い判断、すなわち意思決定者が本当に望んでいることと整合性のある判断をさりげなく勧めるという発想
個人を変えるより、環境を変える方が簡単で効果的であり、また認知には癖があるのでそれによってどんな行動が引き起こされるかを理解できれば、そうした癖がマイナスではなくプラスに作用するように環境を設計することができる ⇒ 知識の一員である我々の意思決定を考えるうえで役に立つ。大抵の人は説明嫌いであるという事実、意思決定に必要な詳細な情報を理解する気も能力もないことが多いという事実を認める必要がある。しかし理解していてもいなくてもなるべく優れた判断ができるように環境を整えることはできる  
教訓1.   かみ砕く ⇒ 5歳児に説明するように教える
教訓2.   意思決定のための単純なルールを作る ⇒ 「収入の50%は貯蓄に回す」というルール。なぜそのルールを守るべきなのかという簡単な説明をつければ有用性は高まる
教訓3.   ジャスト・イン・タイム教育 ⇒ 必要とするときに情報を与える
教訓4.   自分の理解度を確認する ⇒ 個人としてできることは、説明嫌いの傾向があることを自覚すること

結び 無知と錯覚を評価する
学者が自らの思想にそぐわない新たな発想と出会うと、まず否定(無視)し、次に拒絶、最後にわかりきったことだと主張する
わかりきったことを本書に書いたのは、あらためて考えてみるまでこうした考えを明らかだとは思わないからで、そうしない限り、つまり普通に生活していればこんなことに気づきもせず、全く違う枠組みの中で生きている
自明な事実を知っているというだけでなく、それに対して自覚的であるということ、そうした認識に基づいて個人と社会に関わる意思決定をすることが重要
本書の主題は、①無知、②知識の錯覚、③知識のコミュニティ
本書の教訓は、無知を解消するための秘策ではなく、無知は避けられないものであり、幸せは主観的なものであり、錯覚にはそれなりの役割があるということ
無知は絶対的に悪か ⇒ 歓迎すべきことではないが悲嘆すべきものでもない。問題は無知を認識しないがゆえに、厄介な状況に陥ることで、無知な人が、自分がどれだけ無知であるかを知らないこと
ダニング・クルーガー効果 ⇒ パフォーマンスが低い人ほど、自らのスキルを過大評価するという認知バイアスの原因。スキルが低い人ほどどんなスキルが足りないかという知識もなく、反対にスキルが高い人はその分野の全体像が見えやすいのでスキルを伸ばす余地があるというのが分かる
コミュニティの判断力を高める ⇒ 根本的な営みであるモノを考えることにおいて、私たちは一蓮托生。個人の知識を超えて何かを成し遂げようと思えば、コミュニティが必要
誤った主張や嘘をできるだけ避けようとするコミュニティを選ぶ自由がある。社会がここまで進歩してきたのは、人はたいてい協力的であるとするためで、日頃付き合う相手はたいてい信頼できるからこそコミュニティで生きていくことが可能
錯覚を評価 ⇒ 知識の錯覚の中で生きている人は自分の知識に過大な自信を抱いている。それには新たな領域に足を踏み入れる自信を与えるというメリットもある
少しばかりの錯覚は悪くない


訳者あとがき
なぜ人は薄っぺらな主張に流され、浅はかな判断をするのか、という問いに向き合ったのが本書
認知科学という学問分野が登場して明らかになったのは、人間の知性の素晴らしさではなく、その限界だった ⇒ 無知という自覚の欠如が時として不合理な判断や行動いう形で個人や社会に危険な影響をもたらすところから、我々は個人や社会としてどうすれば無知を乗り越えていけるのかをテーマにしたのが本書
知識のコミュニティは両刃の剣で、危険が潜むが、それを克服する道筋を考察 ⇒ ファスナーやトイレの仕組みを理解していなくても実害はないが、社会的、政治的問題となると話は違い、社会の重要な課題のは、知識の錯覚から生じている。オバマケアを巡る論争は最高裁まで行って国論を二分したが、判決の内容を知っている人は半分に過ぎなかったにもかかわらず明確な賛否を示すことができたのは、知識のコミュニティに強く依存しているから
西洋思想の土台となってきた「合理的な個人」という発想を否定するのみならず、思考が個人の営みであることまで否定し、人間の知的営みが集団的なものなのであれば、本当の「賢さ」とはIQではなく、「集団にどれだけ貢献できるか」を基準とすべきと説く





知ってるつもりS・スローマン、P・ファーンバック著
人間の賢さと愚かさ論じる
日本経済新聞 朝刊
2018414 2:30
トイレの水がどういう仕組みで流れ、止まるのかを説明できる人は多くないだろう。いわんや抗生物質が細菌に効く理由、国会で論議されている政策の中身、住宅ローンの返済期間と借入総額の関係となれば、何となくわかった気になっているだけで、まるで理解していないことばかりではないか。
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実際は無知なのに、知っているつもりでいる。そんな「知識の錯覚」は、万事複雑な現代を生きる人間の宿命だ。本書は認知科学者が、どうすれば無知のわなにはまらずに生き、社会生活をよりよく営めるのかを考察する。とはいえ、無知を克服するためにどしどし知識を蓄えるべしと説くわけではない。
知識は社会に分散して保持されている。個人はジグソーパズルの一片のようなものであり、自分は知らなくてもほかの人が知っていることが何かを理解するのが大切だ。だから現代社会に求められる知能とは、個人の知識の多さよりむしろ、集団の問題解決に効果的に貢献できる力だと著者はいう。
その結論はいささか平凡だが、人間の賢さと愚かさを論じる事例の数々は興味深く、楽しく読みながら考えさせられることが多かった。「真実」とは何かという問いがかつてなく切実なものになっている今、一読の価値はある。土方奈美訳。(早川書房・1900円)


(書評)『知ってるつもり 無知の科学』 スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック〈著〉
2018.6.9. 朝日
 天才1人だけでは何もできない
 「水洗トイレはどういう仕組みか知っていますか」と聞かれたら、知っていると答える人が多い。では説明して、と言われると、ほとんどの人はできない。気候変動についても、保険制度についても、住宅ローンの金利についても。ところが、みんなよく知っていると思い込んでいる。
 世界は複雑であり、私たちが世界を認知するのは行動するためだ。要は、うまく行動できればよいのであり、脳は、そうさせる装置として進化してきた。著者らは認知科学者で、人は世界をどう知り、どう知ったと思っているのか、多くの研究結果に基づいて説明してくれる。ある事柄について情報があり過ぎると、人々は聞きたがらず、必ずしも最適な判断には至らない。「専門家たちが解明した」と聞かされると、それだけで自分自身もわかったような気になる。こんな「知識の錯覚」を示すデータは、大変におもしろい。
 しかし、本書の神髄はこの先だ。なぜこんな錯覚が起こるのかと言えば、世界に対する知識は、コミュニティーの各所に分散しており、みながそれを共有しているからなのだ。誰もが、どこかに専門家がいて、きちんと理解していることを知っている。そしてみな協力して分業・協業しているからこそ、社会はうまくいっているのだ。そして、みんな「自分が知ってるつもり」になっている。
 誰も一人ではよくわからない。誰も、自分だけで判断してはいない。人間の知は、みんなが互いに協力し合ってなされる集合知なのである。孤高の天才が一人だけでできることなど、ほとんどない。
 そうすると、教育も、個人の理解力を上げるばかりでなく、自分は何を知らないかを知り、どこに知識があるかを探る方法を知り、知識のある人たちと協力するすべを知ることに重点を置くべしとなる。認知のゆがみだけでなく、知識の構造について、新たな目を開かせてくれる好著である。
 評・長谷川眞理子(総合研究大学院大学学長・人類学)
     *
 『知ってるつもり 無知の科学』 スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック〈著〉 土方奈美訳 早川書房 2052円
     *
 Steven Sloman ブラウン大教授Philip Fernbach コロラド大教授。共に認知科学者。



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