たゆたえども沈まず  原田マハ  2018.9.18.


2018.9.18. たゆたえども沈まず
Flucteat Nec Mergitur

著者 原田マハ 1962年東京生まれ。馬里邑美術館、伊藤忠商事を経て、森ビル森美術館設立準備室在籍時、ニューヨーク近代美術館に派遣され同館に勤務。その後05年『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞受賞し作家デビュー。12年発表のアートミステリ『楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞、第5R40本屋さん大賞、TBS系「王様のブランチ」BOOKアワードなどを受賞、ベストセラーに。16年『暗幕のゲルニカ』が第9R40本屋さん大賞。17年『リーチ先生』が第36回新田次郎文学賞

発行日           2017.10.25. 第1刷発行
発行所           幻冬舎

初出 『パピルス』1412月~168
          『小説幻冬』1611月~179

この作品は史実を基にしたフィクション~林忠正(明治の美術商、18531906)の評伝?

「たゆたえども沈まず」とは、パリのこと。何度も水害にあったが、その都度人々は力を合わせて街を再建
セーヌで生活する船乗りたちは、自分たちの船に”Flucteat Nec Mergitur”と書いて掲げている
あたかもシテ島のように。シテ島は、水害のあと、ことさらに、神々しく船乗りたちの目に映った

表紙
ゴッホの《星月夜》(1889年、ニューヨーク近代美術館蔵)と、歌川広重《大はしあたけの夕立》

画家・ゴッホを世界に認めさせるために――強くなってください(兄の画を世間に認めさせるために苦悩する弟のテオに対し、忠正が言った言葉)
19世紀末、パリ。浮世絵を引っ提げて世界に挑んだ画商の林忠正と助手の重吉。日本に憧れ、自分だけの表現を追い求めるゴッホと、孤高の画家たる兄を支えたテオ。4人の魂が共鳴した時、あの傑作が生まれ落ちた――。
原田マハが、ゴッホと共に闘い抜いた新境地。アート小説の最高峰。ここに誕生!

1886年、栄華を極めたパリの美術界に、流暢なフランス語で浮世絵を売り捌く1人の日本人がいた。彼の名は林忠正。
その頃、売れない画家のフィンセント・ファン・ゴッホは、放浪の末、パリにいる画商の弟テオドルスの家に転がり込んでいた。兄の才能を信じ献身的に支え続けるテオ。
そんな2人の前に忠正が現れ、大きく運命が動き出す――。


1962.7.29. ゴッホの命日に、日本のゴッホ研究者で精神科医のシキバと、オランダから来たゴッホの弟テオの息子が、ゴッホが自殺したオーヴェール=シュル=オワーズのラヴー食堂を訪ね、ゴッホが自殺した部屋を見せてもらおうとしたが、今でもそこで貸家を営む大家に断られる
テオの息子は、幼い日に亡くなった父親の遺品の中にあった林忠正から父宛の手紙を持ってきていたが、突然吹いた風に煽られて手紙は川に流され、いつまでも沈まずに、たゆたいながら離れていった
手紙は、ゴッホの死の半年前に忠正からテオに宛てたもので、ゴッホの絵は必ず世界に認められる日が来るので、テオに強くなってくださいと書いてあった


1886.1.10. 加納重吉がパリの林忠正を訪ねて渡仏
林は、高岡の出身、東京に出て開成学校でフランス語を学び、1878年パリ万国博覧会の通訳として渡仏、そのままパリに残って「若井・林商会」で美術品のセールスの仕事を始める

ゴッホの弟テオは、叔父の斡旋でグービル商会という美術商で働き、パリの店の支配人を任されている
創業者グーピルの娘婿がジェロームというフランスのアカデミーメンバーの有力者だったこともあって、伝統的絵画ではパリ一の地位を誇る
パリの美術界では、日本の浮世絵を中心にジャポニズム全盛で、ブルジョワジーが競って日本の美術を買い漁っていた
併せてパリ美術界には、印象派と呼ばれる、新たに出現した革新的な画家たちの集まりが力を広げつつあった ⇒ 1874年の展覧会に出品されたクロード・モネの作品《印象・日の出》が嚆矢で、画家の印象がそのまま絵画になって表出したかのようだった
ゴッホは、弟のところに居候として転がり込み、弟の支援で絵を描いていたが、まったく売れる見込みはなかった
林は、『パリ・イリュストレ』誌の日本特集に寄稿、表紙に渓斎英泉の《雲龍打掛の花魁》を表紙として使用、ますます浮世絵の値が上がる
ゴッホが、林商会のウィンドウで密にこの浮世絵を見て強烈な印象を受け、日本に連れて行ってくれと懇願するが、忠正はフランスにおける日本を探せと言い、例えばアルルという地方をアドバイスする ⇒ それに従ってゴッホはアルルに拠点を移し、精力的に絵を描き始めるが、どこか孤独感が立ち込める絵で、忠正はさらに仲間を作れと示唆
テオの画廊に出入りしていたゴーギャンに、自分が費用を負担するのでアルルに行ってゴッホと共に書いてくれと依頼
いっしょに新しい流れの画を書き始めるが、お互いの才能がぶつかり合ってやがて離反
それに落胆したゴッホが自分の耳朶を切り落とす事故を起こし、そのうえ切り落とした耳朶を付き合いのあった娼婦に渡したところから事件となり、ゴーギャンも疑われたが、結局自傷事故としてしばらく入院生活を余儀なくされる
事故を聞きつけて駆け付けたテオと重吉の耳元でゴッホがかすかに呟いた言葉が
Flucteat Nec Mergitur(ラテン語で、たゆたえども沈まず)
ゴッホは、生涯かけてパリを描きたかったが、最初にセーヌを描こうとしたときに警官に阻止されたことがトラウマとなって、自分はパリから拒否されたと思い込み、何とかしていつの日かパリに戻ってパリの化身セーヌを描くことを悲願としていた
入院中も絵を描きながら、精神的に不安定な状態を続けている間に、ゴッホは療養先の村の糸杉に魅入られ何枚もの糸杉の絵を描く。さらにテオの下に送り届けられてきた画は、ますます完成度を増し、最後に出てきたのが《星月夜》
忠正はこれを見て、遂に夢がかなったと思い、食い入るように見つめる
ゴッホが更なる療養のためにパリ郊外オーヴェール=シュル=オワーズの医者ガシェに引き取られ、ラヴー食堂に間借りしていたが、突然拳銃自殺の報が入る
いつまでも売れない画しか描けないまま弟に迷惑をかけるのが心苦しくて、自らの命を絶ったが、使われた拳銃がテオのものだったところから、テオも精神的に参ってしまい、半年後に後を追うように死去
未亡人が忠正の助言を入れて、ゴッホの画の価値を認めることのできなかった遺族から相続権を継承、パリ画壇に縁がなく、展覧会も開けない、画廊もついていない、画が売れる当てもないまま一旦故郷のオランダに帰る。忠正は、まずは母国で認められるよう努力したうえで、いつか必ずパリにもどって来るよう諭し、世界で認められる日が必ず来ると励ます


好書好日 2018.8.24. 
【谷原店長のおススメ】ゴッホの壮絶な生涯、支えた者たち「たゆたえども沈まず」
 フィンセント・ファン・ゴッホは、世界的に有名な「ひまわり」や「アルルの女」を描いた、ポスト印象派を代表する画家。彼はオランダの生まれですが、作品の多くをフランスで描きました。大胆な色使いのカンバスからは、ほとばしる感情が痛いほど伝わってくるようです。37歳の若さで亡くなりますが、その人生は本当に壮絶でした。
今回、ご紹介する一冊は、そんな彼が駆け抜けた人生を、彼を支えた人たちの息づかいと共に描いた『たゆたえども沈まず』(幻冬舎)。著者は、原田マハさんです。
 じつは僕、もともとマハさんが大好きなんです。学芸員の資格をお持ちで、ニューヨーク近代美術館(MoMa)などいくつかの美術館に勤務した経験がおありだそう。美術への造詣がとても深い作家さんです。僕自身、美術作品に触れるのが好きで、3年ほど前にMoMaでゴッホの代表的な作品「星月夜」を鑑賞したことがありました。この本に触れた時、僕の中で改めてあの時の感動が蘇ってきました。
 今作の舞台は1886年、「ジャポニスム」旋風の吹き荒れるパリ。栄華を極めるこの街で、フランス語を流暢に操り、浮世絵を売る一人の日本人美術商がいました。その名は、林忠正。彼のもとを、東京の開成学校時代の後輩・加納重吉が訪ね、林の助手として働き始めます。ちょうどその頃、売れない画家のゴッホは、パリにいる画商の弟・テオのもとに身を寄せます。兄ゴッホの画才を信じ、支え続けるテオ。ある日、兄弟の前に忠正たちが現れるところから、ゴッホの人生の歯車が大きく動き出します。
 まず驚いたのは、画家・ゴッホを世に送り出すため、日本人が関わっていた――。もちろんフィクションではあるのですが、とても誇らしい気持ちになりました。僕はずっとずっと後の世代の人間ですが、「こんなすごい画家に日本が影響を与えたのか」という、新鮮な驚きと喜びがあったんですね。
 それと同時に衝撃をうけたのは、ゴッホがあの素晴らしい作品を生み出した背景にある深い哀しみ、苦悩と喪失です。37年間の彼の人生のなかで、果たしてどれほど幸せを実感することが出来たのか。画家としての名声が高まったのは亡くなってからです。生きている間に報われることはありませんでした。それでも描かずにはいられない、その背中に胸をえぐられます。僕自身、何かにそこまで情熱を注ぐことが出来るのか……
もし、目の前に悪魔が現れ、「短い命と才能か、長い命と平凡か」。そんな二者択一を迫られても、僕は平凡を選んじゃうような気がします。
 自分は時に家族のために仕事をしていますけれど、ゴッホはきっと誰かのためにではなかった。自分の芸術のため、描かざるを得ない。他のものをすべて捨て、集中しないと生み出せなかった絵なのかも知れないですね。もはや仕事では無かったのでしょう。そしてすべてを捨てたゴッホが絵を描けたのは支えてくれる弟がいたからこそ。弟テオは、兄を物心両面で支えつづけました。画商として兄を稼げるようにしてあげられませんでしたが、彼の作品を愛し大事にしてきたことは間違いないと思うんです。
 是非手に取ってご自身で確かめてほしいのですが、2人の人生は、互いへの思いの深さを感じさせる結末を迎えます。ゴッホはテオがいなければ生きていけなかったし、兄に頼られつづけたテオもどこかゴッホに生かされていた。ゴッホとテオは「2人で1人」だったのかもしれません。たくさんの人達がゴッホに惹かれ続ける理由を、この本が教えてくれた気がします。
 ぜひ、彼の画集などを横に置き、その絵を実際に見ながら読んでみてください。そうすると、より味わい深くなると思います。絵には、そこに込められた、言語化されないもの、そこから立ち上ってくるエネルギーがあります。嗅覚、味覚、触覚、視覚、聴覚。それでも感じることができない第六感。特にゴッホの絵には、ただそこに塗られている色、描かれている物だけじゃない何かを強く感じます。それが彼の最大の魅力だと思います。
 マハさんは今、日本を代表する「アート小説」作家の一人です。テレビがどんなに画家の人生を解説し作品に隠された意味合いを教えてくれたとしてもそれは事実の羅列です。アート小説は一人の人間を立体的に描き、作品が作られた背景を教え、その人生や作品を包括して物語にしてくれる。まるで自分がそこに居合わせているかのように。中でもマハさんの本は、深く作品を知った上で作家の人間性を垣間見せてくれる、キュレーターだからこそ描ける世界です。
 この本が気に入ったあなたにマハさんの著作をもう1冊。『楽園のカンヴァス』(新潮社)。MoMaのキュレーターがスイスの大邸宅で見た、巨匠ルソーの名作「夢」に酷似した絵。持ち主は「正しく真贋判定をした者に絵を譲る」と告げ、手がかりとなる古書を読ませます。リミットは7日間……。美術のミステリー、手に汗を握る展開で、虜になりますよ!
(構成・加賀直樹)


紀伊国屋書店
内容説明
19世紀末、パリ。浮世絵を引っさげて世界に挑んだ画商の林忠正と助手の重吉。日本に憧れ、自分だけの表現を追い求めるゴッホと、孤高の画家たる兄を支えたテオ。四人の魂が共鳴したとき、あの傑作が生まれ落ちた。原田マハが、ゴッホとともに闘い抜いた新境地、アート小説の最高峰。ここに誕生!
出版社内容情報
誰も知らない、ゴッホの真実。天才画家フィンセント・ファン・ゴッホと、商才溢れる日本人画商・林忠正。二人の出会いが、〈世界を変える一枚〉を生んだ。


Wikipedia
忠正(はやし ただまさ、1853127嘉永61171906明治39年)410)は、明治時代に活躍した日本美術商越中国高岡(現在の富山県高岡市)出身。
1878(明治11年)に渡仏。多くの芸術的天才を生んだ19世紀末のパリに本拠を置き、オランダベルギードイツイギリスアメリカ合衆国中国)などを巡って、日本美術品を売り捌いた。美術品の販売ばかりではなく、日本文化や美術の紹介にも努め、研究者の仕事を助けたり、各国博物館の日本美術品の整理の担当をしたりした。1900(明治33年)のパリ万国博覧会では日本事務局の事務官長を務めた[1]。その文化的貢献に対し、フランス政府からは1894(明治27年)に「教育文化功労章フランス語版2級」を、1900年(明治33年)に「教育文化功労章1級」及び「レジオン・ドヌール3等章」を贈られた。また、浮世絵からヒントを得て、新しい絵画を創りつつあった印象派の画家たちと親交を結び、日本に初めて印象派の作品を紹介した。1883(明治16年)に死没したエドゥアール・マネと親しんだのも、日本人として彼一人である。1905(明治38年)の帰国に際し、500点もの印象派のコレクションを持ち帰り、自分の手で西洋近代美術館を建てようと計画したが、その翌年に果たせぬまま東京で死没した。52歳没。
l  幼年期から渡仏、開店まで[編集]
1853嘉永6年)、百万石前田藩領の越中国高岡(現・富山県高岡市)の蘭方外科医・長崎言定の次男として生まれた。幼名、志芸二(しげじ)。祖父の長崎浩斎は著名な蘭学者であり、幼い頃から日本国外への憧れを育てられた。1870明治3年)、明治維新を機に富山藩大参事に就任した従兄の富山藩士・林太仲の養嗣子となり、「林忠正」を名乗る。翌1871(明治4年)、富山藩貢進生(各藩の俊秀を藩費で大学南校に学ばせる制度)として上京し、大学南校に入学。大学南校は1873(明治6年)に改編されて「開成学校」となり、1877(明治10年)には「東京大学」と改称した。授業はお雇い外国人教師により、すべて外国語で行われた。1878(明治11年)、パリで行われる万国博覧会に参加する「起立工商会社」の通訳として渡仏した。すでに1875(明治8年)、従兄の磯部四郎がパリ大学に留学していたこともあり、大学を中退して憧れのフランスに渡った。当時のパリでは日本美術への人気が高く、博覧会でも日本の工芸品は飛ぶように売れた。トロカデロ宮殿フランス語版)(現・シャイヨ宮)内の「歴史館」では各国の参考品が展示され、特に日本に興味を持つ印象派の画家や評論家などは連日、日本の展示物を見物に来ていた。林はそこに立って、流暢なフランス語で詳しく説明した。その熱のこもった解説を通じて彼らとの親密な交友が始まり、その友情は林の死の日までも続いた。博覧会の後もパリに残った林は、1881(明治14年)頃から美術の仕事に戻り、元起立工商会社の副社長・若井兼三郎とともに、美術雑誌の主筆ルイ・ゴンスフランス語版)の『日本美術』(全2巻。1883年(明治16年)に刊行、1885(明治18年)に改訂)の著述を手伝うことになった。林はこの大きな仕事によって、日本美術を体系的に学び、また日本工芸の第一人者若井から鑑定の知識や資料も譲り受けた。ゴンスは著書の冒頭で林の能力を高く評価し、協力への感謝を記している。1884(明治17年)1月、「日本美術の情報と案内」と銘打った美術店を開く。林の日本文化の豊富な知識と人柄に魅せられた日本美術愛好家たちは、その小さな店に足繁く通った。同年7月には、若井と合同して「若井・林商会」を作った。若井が日本で厳選した工芸品をパリに送り、ヨーロッパ各地で行動的に販売する林によって商売は順調に伸び、1886(明治19年)には大きなアパルトマンに移った。同年、若井から完全に独立、「林商会」を開いた。だが同じ頃、日本商社のパリ支店は次々に店を閉じた。その理由は、彼らが「ヨーロッパの客が日本美術の何を求めているか」を知らなかったからである。林のパリの店舗も1891(明治24年)には門を閉め、大金持ちの客のみを相手にするようになっていた。
l  浮世絵と林忠正[編集]
喜多川歌麿鳥居清長などの絶頂期の浮世絵がパリに現れたのは、1883年(明治16年)後半頃と推察される。その頃まで「日本美術」とは主に工芸品のことであり、浮世絵は印象派の画家や少数の愛好家だけのものであった。その浮世絵も肉筆画や挿絵本、葛飾北斎の作品、そして幕末期の戦記物”“化物などの芸術性の乏しい浮世絵が中心であった。だが、日本を知る人々は、時代を遡る優れた作品がまだ日本に眠っている筈と信じて、華麗な錦絵を探し出し、パリに送った。初めて見る絶頂期の浮世絵にパリの人々は驚喜した。だが日本では浮世絵は卑しいものとされ、町の浮世絵店でも、歌麿や清長の艶やか浮世絵など存在さえ知らなかった。林も主に工芸品を扱っており、浮世絵に重きを置かなかった。だが、優れた工芸品が次第に少なくなり、浮世絵の販売に転じたのは1889(明治22年)頃だった。若井との協同も解いて日本に本店を移し、何人もの専門家を置いて優れた浮世絵を探らせた。早くから浮世絵を扱っていた日本美術商のサミュエル・ビングは、1888(明治21年)頃から度々浮世絵展を開き、浮世絵に夢中になっていた富豪たちを浮世絵コレクション作りに狂奔させた。浮世絵の価格は高騰し、「日本美術イコール浮世絵」という時代が始まったのである。 1902年(明治25年)、パリに残した林のコレクションはサミュエル・ビングによって売りたてられ、そのうち浮世絵版画は約1800点に上り、写楽だけでも24点があった。
林が取り扱った浮世絵は優れた作品が多い。それらの浮世絵には「林忠正」の小印が捺され、現在でもその作品の価値を保証するものとされている。彼は「浮世絵を卑しんで、その芸術性を認めないならば、日本から浮世絵は失われてしまうだろう」と日本人に警告している。そして、どれほど金を積まれても優れた作品は手放さず、自分のコレクションとして日本に持ち帰った。だが、林の死後、浮世絵に高い値がついて日本に戻ってきたとき、人々は「浮世絵を流失させた国賊」と林を罵った。だが、彼ほど浮世絵の卓越した芸術性を知り、200年にわたる日本版画のすべてを守った者はいない。
l  印象派と林忠正[編集]
林が印象派のコレクションを作り始めたのは1890(明治23年)頃からである。まだ貧しかった印象派の画家から、浮世絵の代金代りに受け取った作品が手元に溜まって、祖国の若い画家たちのためにコレクションを作ろうと思い立った。
1870年代当時、初めて印象派の作品を見たパリの人々は、「狂人の絵」とまで酷評した。パリの保守的な市民は、伝統的な絵画とはあまりにも異質な色彩や構成、その画題に肝を潰した。1890年代に入って、クロード・モネエドガー・ドガなどの作品は高値で売れ始めたが、保守的な人々は容易に認めなかった。印象派の画家たちと親しかった林は、彼らの絵画を理解し、彼らを経済的にも援助した。貧困のうちに死亡したアルフレッド・シスレーの遺族を救うために、700フランもの拠金をしている。
当時、パリに留学していた日本人画家は、印象派の改革運動も知らず、関心も持っていなかった。日本に西洋画が採り入れられて日も浅く、まして西洋画排斥の激しい逆風の中で、西洋画の古い技法を学ぶのが精一杯であった。帰国後も、印象派が否定した茶褐色の古い西洋画や、和洋折衷の絵を描いていた。
1893(明治26年)頃から、林は帰国する度に参考品として印象派の作品を展示していたが、見向きもされなかった。新しい絵画の担い手にしようと、黒田清輝を絵の道に転向させたのは林である。後に「日本の印象派」と呼ばれた黒田も、印象派を真に理解していたとは言えない。林は病のために、計画していた美術館建設を断念した時、誰かが実現してくれるよう遺言を残している。しかし、1913大正2年)、アメリカ合衆国で競売に付された林コレクションは、理解もされないまま林の夢とともに散逸した。黒田もまた、手を貸すことはなかった。
l  万国博覧会と林忠正[編集]
明治政府は貴重な貿易の機会である万博に熱意を持たなかった。だが林は最後まで万博に関わった。国の政策を批判しながらも、種目別の博覧会にも個人で参加した。1900年パリ万国博覧会は、日清戦争に勝利した日本にとって重要な博覧会だった。パリに強い基盤を持ち、博覧会の経験も多い林は、伊藤博文西園寺公望有栖川宮などの推挙によって、博覧会事務官長に抜擢された。本来であれば農商務省の次官が就くべき地位に、一介の商人が就任したことに人々は驚き、嫉妬の混じった悪口を浴びせた。しかし、それまでの事務官長と違い、林は自ら陣頭に立って職務をこなした。そして事務官長の報酬は一切受け取らなかった。その代わり、彼はかねてからの念願を実現させた。1000年にわたる日本美術の総体を「日本古美術展」として万博会場に展示したのである。国宝級の美術品を、1月半もかかる船便で送る危険を冒して、日本の芸術・文化を世界に顕示したかったのである。それは世界の知識人に、大きな感動を与えたのだった。しかし、博覧会の終了後、林と出品人との間に大きな諍いが起きた。万博終了後、出品人は売れ残った品を投げ売りして帰国するのが慣例だった。それは開催国の商人に大きな損害を与え、日本商人の商道徳のなさを各国から指弾されていた。その非難を受け止めた林は、「世界の商法に従え」と投げ売りを絶対に許さなかった。「自国民の利益を護らない売国奴」「国賊」の悪罵は最近まで残った。
l  林忠正の交遊[編集]
30年にも及ぶパリを中心とした仕事の中で、林は世界中に友情を培った。日本人らしい濃やかな心情、巧みなフランス語の話術は、信頼と友情を尊敬にまで高めた。またルイ・ゴンスや、「ジャポニスム」の用語を作ったフィリップ・ビュルティ (Philippe Burty) など多くの研究者を助けることで、彼らからの援護も得ている。エドモン・ド・ゴンクールの晩年の2つの著作『歌麿』『北斎』は、林の助けによって刊行された。世界中を旅しながら、各地の港から資料を送り続け、船中で構想を練った。難しい日本語を懸命に翻訳、口述している林の姿を、ゴンクールは日記に書き留めている。以下の証言は、その交流の一例である。
林が言うには、「何せ哲学的な観念については私たち日本人はどこか収集家に似ているのですよ。つまりガラスケースを持っていて、その中には完全に引き付けられる物しか入れないのですが、かといってそのひかれる理由そのものは、あまり詮索しない収集家(コレクター)なのですよ。」、なんとも独創的な考察だ。エドモン・ド・ゴンクール、『ゴンクールの日記』(1885319日付、斎藤一郎訳、岩波書店、新版 岩波文庫下巻)より、訳文は一部改変。
ドイツのフライブルク大学教授エルンスト・グロッセドイツ語版)との交遊は、林の死後まで続いた。帰国の時、グロッセから受けた数々の援助に対して、もはや報いる力を失った林は遺書の中で、自分のコレクションの中から、グロッセの意のままに美術品を選ばせ、低い値段で譲ることを妻に命じた。来日したグロッセは700点もの工芸品を選び、2万円余の値段で譲り受けた。ベルリン東洋美術館は、この友情によって誕生した。
在留日本人も少ないパリに独り生きた林は、世界を巡り、美術品を売り捌きながら日本を紹介した。その世界的な視野を以って、祖国の近代化にも力を尽くした。しかし、悪口雑言は残っていても、林忠正を知る人も、真に理解する人も少ない。彼の仕事は「浮世絵を世界に紹介し、印象派の作品を初めて日本にもたらした」だけではない。19世紀末のパリの華やかな時代と同時代の、決して明るくなどない明治を知る上でも、常に「世界の中の日本」を見据えて、日本の真価を守った林忠正の識見は貴重なものであろう。
l  没後ほか[編集]
林の没後その美術コレクションは、数度に分けられ売却処分され日本国外等へ流出、また蔵書もバラバラに処分された。目録は「林忠正蔵書売立目録」(『反町茂雄収集古書販売目録精選集 3巻 昭和31 - 411月』 柴田光彦編、ゆまに書房(復刻版)、2000年)を始めとして、多く遺されている。林忠正の研究検証が本格化したのは近年である。
美術史家・児島喜久雄は、晩年執筆した若き日の回想で、林コレクションの一端しか知り得ず、本格的に調査できなかったことを悔やんでいる(『ショパンの肖像 児島喜久雄美術論集』に収録、岩波書店、1984年)。
なおパリでの林の活動は、由水常雄『ジャポニスムからアール・ヌーヴォーヘ』(美術公論社、のち中公文庫)、鹿島茂『パリの日本人』(新潮選書、のち中公文庫)の、各「林忠正」の章で紹介されている。
l  林忠正の旧蔵品[編集]
カミーユ・コロー 『ヴィル・ダヴレー』1835 - 40 ブリヂストン美術館

ウジェーヌ・ドラクロワ 『馬の習作』(水彩)ブリヂストン美術館蔵
上記2作品は、日本にある西洋絵画のうちもっとも早い時期に収集されたもので、コローは1891年、ドラクロワは1892年に林忠正がパリの画商アルフォンス・ポルティエから購入した。林はコローの作品を好み、『ヴィル・ダヴレー』はお気に入りの作品だった。1905年(明治38年)に帰国した時、新橋にあった自宅の洋館の一室を「コローの間」と称し、コローの作品3点と、クールベの作品を飾ったという[2]。これらや同じくブリヂストン美術館蔵のマネの素描「裸婦像」は、同人の収集品の多くが散逸したなかで、珍しく日本に残ったものである[3][4]。他に前田育徳会にも、1910明治天皇の行幸に際して洋館の室内装飾のため購入した林旧蔵の、ウジェーヌ・ブーダン『洗濯婦図』やジャン=レオン・ジェローム『アラビア人に馬』、ラファエル・コラン『緑野に三美人』などを所蔵し[5]東京国立博物館には遺族が寄贈したポール・ルヌアールのデッサン197点・油彩画1点を所蔵している[6][7]
l  栄典[編集]
1900(明治33年)320 - 従五位[8]







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