満州分村の神話 大日向村は、こう描かれた  伊藤純郎  2018.9.24.


2018.9.24. 満州分村の神話 大日向村は、こう描かれた

著者 伊藤純郎(じゅんろう) 1957年上伊那郡高遠町(現、伊那市高遠町)うっまれ。筑波大人文社会系歴史・人類学専攻長・教授。博士(文学)。専門は日本近代史・歴史教育学。著書に『郷土教育運動の研究』ほか多数。『長野県民の戦後60年史』・『臼田町誌』の執筆者、『佐久の先人』監修者

発行日           2018.6.28. 初版発行
発行所           信濃毎日新聞社

²  満州分村――プロローグ
1939.7.27. 週刊『アサヒグラフ』に「村を挙げて満州大陸へ 信州大日向村の国策分村大移住」の記事掲載
大日向村は、南佐久郡の東部に位置、十石峠を経て群馬県上野村、大上峠を経て北甘楽郡と接する土地、十石峠から流れる抜井川が東西に貫通し西の千曲川と合流、それに沿って武州街道といわれる県道岩村田・万場線が貫通、沿道に9つの集落が形成南には官有地の先に茂来(もらい)1717mが聳えその南が小海村
総戸数406、うち農家が336、炭焼きを主とする林業が40、土地の9割が山林と原野、残り1割の痩せた土地からの収穫では4,5か月しか自給できず、養蚕と炭焼きによる現金収入で残りを食いつなぐ ⇒ 「大日蔭村」と呼びたいような山間の僻村
昭和恐慌で繭の価格が暴落、村民は炭焼きに頼るが、炭の生産量は上がったものの価格は下落、山林の伐採が進みはげ山が生まれるなどの悪影響が生じ、そのうえ役場での横領事件が発生
村出身で東京で出版事業をしていた浅川武麿を村長に頼み込み、土地に対して人口が多すぎるとして、村を2200戸により満州に第2の大日向村を作ることに決定
満州分村とは、農山漁村経済更生運動の一環として、過剰な農家を満洲移民として計画的に村より送出することとで満州に分村を建設し、残った農家の耕作面積を増加させ、母村の経済更生を図ることを目的とした
満州分村を最初に実行したのは、宮城県北部の遠田郡南郷村(現、美里町)で、全1000戸のうち400戸を送出
大日向村の分村計画は全国で3番目、村単独で、僅か2年で200300戸を移住させ、独立した分村である「満州大日向村」を建設する
『アサヒグラフ』の記事の他、小説、劇団、映画、教育紙芝居を通じて全国に喧伝。第23の満州分村を創出するために、様々なメディアが大日向村に光を当て、わが国最初の満州分村を描いた
本書は、メディアで語られ、描かれた大日向村の満州分村について、戦後満州から引き揚げ、浅間山麓に再入植した第3の大日向といわれる軽井沢大日向も含め記したもの

²  満州分村大日向
Ø  大日向村の分村計画
1937年後に渡満団長となる産業組合専務の堀川が第1次で満州分村した現場を視察、帰って報告会を開催し、希望者を募る
第一次先遣隊22人が小諸の県立農民学校訓練所で1か月の訓練を受ける
村議会が、農林省特別助成金や農村経済更生資金をもとに、満洲国分村移民規定を決定し、本村が経済的に成り立つことを目途に移植目標を150戸、本村を250戸、1,250人以内とした
分村で1戸を構えるものには50円の補助金を支給するが、10年以内に帰還したものは本村の特権を認めず、補助金を返還させるとした
3778日先遣隊20人が出発 ⇒ 隊員のうち妻帯者は5人のみ、後は独身の青年。支那事変勃発の翌日だったため、満州分村は出征と並ぶ「国家的奉仕」という語りが以後なされていく
計画を推進した浅川にとっては、一石五鳥くらいの理想の正業、お国に対するご奉公として認識された
2次先遣隊は17人で、うち妻帯者が14人、一家を挙げての渡満
支那事変以降、廃坑となっていた茂来山麓の鉱山が再開するなどの軍需景気が生まれ、渡満の妨げになってはいけないと、村長以下更に補助金を使って村民の訓練を実施、全村教育を通じて分村計画が推進された
村は『大日向村報』を創刊して、村を挙げての大プロジェクトの推進を煽り、村民に「一大決心」を迫るとともに、分村移民教育を積極的に推進
並行して満蒙開拓青少年義勇軍の送出も行われる ⇒ 数え年1619歳の男子、初年度2,500(全国で5万人)が長野県に割り当て、実際に送出できたのは1,479

Ø  満州大日向村の誕生
381月大日向村の入植地が吉林省四家房(町の北東部)に決定、新京の東で、地元民から買い上げた既墾地 ⇒ 満鮮人部落が21あり6千人が居住、2,3年後には全部追い出す
当初の入植は、母村とは比較にならないほど広い入植地に、満州一うまい吉林米、鞏固な家屋、豊かな農耕地、内地気分の上に沃土無辺の天地と国内では喧伝された
現地の入植が順調にいったことから、本隊が出発、先遣隊の家族招致が行われる

²  語られる分村計画
Ø  単村分村という報道
大日向村の分村計画は、満州移住協会の機関誌でも「分村計画の先進村」の1つとして大きく報道された
「一村で満州に一村を造る」大日向村が、「日本最初の(単村式)分村」と見做され、行き詰まりながらも立ち上がる勇気のない本邦農村に大きな刺激を与えるものとして賞賛
大日方村に続けとばかり、長野県ではさらに県内の分村分郷計画推進の指導者150人余を対象に現地視察し、その報告書を発行、大日向村に脚光が浴びせられ

Ø  単村分村という神話
先遣隊の送出から3年たった39年、母村経済更生は必ずしもうまくはいっていなかった
減少した家の村費のリカバーや移民家庭の残された債権・債務の整理、更には鉱山開発の再興で村外から来た鉱山労働者との関係など多数の新たな問題が発生
学校で教育された子どもたちが率先して行こうとした例も多い
3次本隊送出がピークで最後、総計160戸で目標の200には届かず
東京帝国大学農学部農業経済学教室が大日向村の実地調査を実行、39年末に報告書を出し、『東京朝日新聞』にコメントが掲載される ⇒ 移民したあとの土地(跡地)が予想外に少なく母村の経済更生が難航、更には鉱山再興へ人手がとられ渡満する人が減少しているとしたうえで、村全体としての財政はさして豊かにならなかったが、渡満した個々人の様々な利得を考えれば結局はプラス
200戸という数が最優先で、どういう階層の人が行くかは二の次、また村民だけでは村としての経済が成り立たないので近隣にいた血縁者などが一緒に参加して数を増やしている
このような実態にも拘らず、最初に分村計画を成功させた村として、満州分村のモデル「大日向村」が様々な方法で描かれ、満州分村の神話が語られていく ⇒ その嚆矢が39年朝日新聞社から出版された和田傅の『大日向村』

²  描かれた大日向村
Ø  小説『大日向村』
和田は、大日向村を「半日村」「暗い日陰の村」と表現した
36年暮れから387月の第1回家族送出までの大日向村を描いたもの
農村恐慌で借金の山が残され、村長も助役も辞表を出すところから始まり、第1回家族送出の様子が詳述される
和田傳は、37年長編小説『沃土』で第1回新潮社文芸賞受賞。農民文学懇談会初代幹事長を務めるなど農民文学の第1人者
小説『大日向村』を執筆した動機と意図は、東京朝日から満蒙開拓団を紹介され、内地農村の問題が大陸との関係なしには考えられないことを知って大陸に目が向いた時、大日向村分村計画のことを聞く ⇒ 内地と満洲の村の取材を踏まえ、画期的な新分村形態について描いた物語がこの小説。あらゆる階層を網羅した分村であることを強調、率先して渡満を希望する者、村の中枢が率先して渡満したことが描かれる
実際に移住の中核となる全戸移住者は、他町村の出身者を含む中農・貧農だったことと異なる
和田の設定した舞台装置が、分村計画の「人柱」となった3つの「死」
1つは、貧農で他県に出稼ぎに行く行き帰りで木橋から転落死した2人の村民
2つ目は、渡満の足手まといになってはと自死を選ぶ肺病の娘
3つ目は、日露戦争で「人柱」となって現地戦死した息子を追って、母が再会のため渡満
風土病の項目は削除され、入植地が現地の人々が開拓し生活していた土地であることや人々を強制退去させて入植したことも小説では描かれなかった
更には、支那事変による応召者の増加や軍需景気が分村計画にどのような「悪影響」をもたらすか、という「憂い」に対する和田の対処法は、「国策」としての分村移民の強調であり、「母村再建と子村建設」という大目標に、「国策」という錦の御旗を被せた
和田が描こうとした人々の心、滅私を持って母村再建のために起き上った人々の精神や行動の美しさ、壮烈さというものの意味は失われてはいないどころか、今日こそ遥かに切実に、必要とされ、それこそが国民精神の根元であらねばならぬとされていると考え、分村移民送出のクライマックスで小説が終わっている
発行後3か月で10刷を重ねるベストセラーとなる ⇒ 文部省推薦図書に指定され、朝日新聞や前進座による宣伝効果が貢献。小説を原作に新劇の世界でも描かれる

Ø  新劇《大日向村》
3910月前進座が小説『大日向村』を原作に、大阪中座で秋季大公演《大日向村》を上演 ⇒ 本格的な芸術的時局演劇の創造を期して、小説発行の1か月前から企画
前進座は、歌舞伎界の門閥制度に反発した中村翫右衛門や河原崎長十郎ら若手役者たちが31年に結成、39年には各地で「当たり祝」を連発していただけに、特に《大日向村》はその存在意義を再確認するための企画でもあった
それまで前進座が公演した時局演劇では、満足な準備期間が与えられなかったところから、時局の意義的内容やそこに登場する人物の血の通った生き生きとした個性に関する認識が曖昧で「芸術的感銘」をもって大衆に訴える優れた芝居にはなっていなかったとの反省があり、今回の企画によって「銃後報国に邁進」するため、利益を度外視して国策に沿う時局新大衆劇を目指した
脚本の第1次稿を、和田や浅川村長はじめ陸軍大将・前拓務省の小磯国昭や関連省庁トップに配布して意見を求め、おおむね好意的な反応を得る
第1幕     貧農が村長に生活苦を訴え、村長が「海の向こうへ分村する」と答える場面
第2幕     分村計画立案のため村で賛否の意見が出る場面
第3幕     分村移民の準備段階で、村民たちが渡満を決意する場面
第4幕     万歳の怒涛の中移民団を送出する場面
山場は、第3幕で肺病で自死したすゑの遺書を読んで、その死を無駄にしないよう渡満に立ち上がる村民と、最後の送出の場面
満州ロケまでしたが、その場面は登場しない
一方で、油屋が渡満する家の借金を棒引きした事実はなかったが、さすが地主は偉いと持ち上げるセリフが入っていて、和田は事実に反すると抗議
農林省と拓務省の推薦、陸軍省情報部の後援で行われ、山田耕筰が音楽を担当
評価は二分 ⇒ 満州文学評論家は今までの新劇の水準を抜いていると評価したが、新聞各紙は称賛しつつも脚本や演出の不備を指摘するものが多かった。地主などの唐突な最後の妥協的態度がいささかご都合主義だとか、あまりにハッピーエンドでいいのかとの批判。演劇批評家はさらに厳しく、武智鉄二は、「移民事業遂行途上における他の現実との矛盾争闘」が「正当なる計算を以って劇化」されなかったため「煽情―移民への盲目的な慫慂」に終始、前進座の全レパートリーの中でも最悪のものと酷評
東京公演では、大阪での批判を踏まえたとされるが、大きな変化はなく、評価も様々

²  描かれた満州大日向村
Ø  満州へのまなざし
393月第3次本隊71団員が出発し、大規模な送出は終了したことにより、メディアの関心は満州の現地に集まり、現地への視察が増加
岡山市の『合同新聞』の記者による現地ルポを憲兵分隊が問題視して始末書をとられ、記者は退社 ⇒ 現地の非道い道路事情やコメの質の悪さ、借金の重さなどが不適切とされたのではないか
開拓文学 ⇒ 「新しき村」として、伊藤整や高見順など大陸開拓文芸懇話会に名を連ねる農民文学作家によって描かれた
島木健作『満州紀行』⇒ 393月農村文学懇話会から満州に派遣され、大日向村を含む100日間の満州見聞録を翌年4月に出版。『合同新聞』同様、立ち退いた満鮮人への疑問を素直に記述しているが、そうした批判を描いたのは少数派

Ø  映画《大日向村》
3912月東宝が前進座に映画化を提案、計画を聞きつけ分村移民をより広く宣伝したいという関係省庁が乗り出して、国策映画として製作(ママ)することが決定
大日向村当局は、あまりの宣伝紹介に当惑顔
配役は、前進座の公演とほぼ同一、演出(監督)は豊田四郎
検閲(手数料免除)の結果、映画の種類は「日(本製作)、現(代劇)、社(会物)、正(:主人公が破滅に終わらないもの)」とされ、40年度の文部省推薦映画に認定(賞金の対象)
評価は低かった。失敗の最大の原因は脚色者と俳優の選択の誤りとされたが、注意深く読むと、本当の理由は検閲制度にあることを慎重に言及しているのがわかる ⇒ 「経済的な部分や人間の弱点などはなるべく避けるべし」という検閲の方針では、、古きものと新しきものの対照を狙うこの作品では、円満な表現を完遂できるものではない
映画の出来とは裏腹に、満州移民を賛美する気運は加速され、急速に高まり、満州移民の志望者が増え、宣伝効果がはっきりと認められた
移民計画が実行されつつあった南佐久郡野沢町での移動映写会では、嵐のような絶賛の拍手で終わった
満州では、国務院の広報処が検閲し、上映禁止とされた ⇒ 理由は不明だが、渡満者が「内地で食い詰めたもの」と見做されることを憂慮したのか
翫右衛門は、「現代人に扮した翫右衛門は陸に上がった河童」と酷評されたが、「前進座の初めての現代ものは不成功。戦時下の農村が抱えていた矛盾を突くという意図は失敗」と後年記している
豊田も、「大変なやり損ない。自分と時代の食い違いをわかりながら、無理に合わせようとしている。無理やり連れていかれたという疑いが消えなかった」と、戦後に自戒

²  描かれる母村と分村
Ø  その後の信州大日向村
移民が小作農以下が多かったため耕地は増えなかったが、濫伐からは逃れ、山を計画的に払い下げ、薪炭から用材本位の山にすることを可能にした
同時に、新たな鉱山再興により、他所から流れてきた鉱山労働者が、移民した人々の空き家を移築して第2の大日向村を造り始めた
銃後農村の記録として、大日向村が取り上げられ、7,8か月の食糧自給が可能となり、桑園を整理し陸稲や麦などの雑穀を栽培し食糧の不足分を補い、1戸当たりの薪炭原木が増えたことなど、村経済の合理化が進む

Ø  紙芝居《大日向村》
40年分村計画は大きな転換期を迎える
戦時下にあって、過剰人口の収容所でもあった農村は、軍需方面への人員供出により労力不足となったのに加え、農産物価の値上がり、農業労賃の高騰から、農民が満足感に陶酔、種々宣伝しても開拓民応募者が出なくなってきた
417月日本教育紙芝居協会が、和田傳の原作で紙芝居の《大日向村》を製作、日本教育画劇から発行。後々も各省や大政翼賛会からの依頼で国策宣伝のための紙芝居制作を行ない、公的機関に買い取られ、国民教化の教材として注目
協会は、各市町村などと連携し、紙芝居講習会を開き、紙芝居の実演指導を行う ⇒ 長野県内でも13か所で講習会が開かれたが、どの程度国策遂行に影響を与えたかは不詳
戦争進捗とともに、大日向村に関する報道は非常に少なくなり、4112月に政府が策定した「満州開拓第25か年計画要綱」により、満州移民政策の重点は、「佐久郷」に代表されるような戦時統制経済によって転廃業を余儀なくされた中商工業者を移民として送り出す大陸帰農開拓団(転業開拓民)や戦争完遂に向けた食糧増産を可能にする戦時下のモデル農村(皇国農村)を創出する分村・分郷移民となっていった
こうした新たな政策の中では、大日向村がメディアに登場することは大幅に減少

²  描かれる軽井沢大日向――エピローグ
46913日満州大日向開拓団が決死の脱出行の末帰国
93日から現地民6,000人による略奪開始、24日ソ連軍の退去命令で新京に退避、陸軍病院で避難生活が始まり、翌年717日新京出発、24日舞鶴着、コレラ患者発生のため99日佐世保港に上陸帰村。団員389人はソ連産戦時に在籍した796人の49
47.1.20. 浅間山麓の追分国有林地への再入植が決まる ⇒ 入植したのは65165
再入植は、新聞各紙や週刊誌などでも報道 ⇒ 「新しい村作り」「新しいユメ」だけが強調され、大日向村の描かれ方は戦前と変わっていないように思われる
47.10.7. 天皇巡幸 ⇒ 歩いて登られ、田畑の他建築中の開拓民住宅などをご覧になり、開拓民を激励
御製 浅間おろし つよき麓に かへりきて いそしむ田人 たふとくもあるか
「国策」という太陽に代わり、「皇室」という新たな太陽が当たるなか、「大日向村」の新たな歩みが始まった
浅川村長は、453月多年満州開拓事業に尽力した功労者として、大東亜大臣重光葵から表彰されていた

あとがき
15.8.22.昭和天皇が大日向開拓村を訪問されたのは、戦後70年の節目に両陛下が望まれたもの


Wikipedia
満蒙開拓移民は、1931昭和6年)の満州事変以降、1945(昭和20年)の太平洋戦争敗戦までの期間に日本政府の国策によって推進された、満州内蒙古華北に入植した日本人移民の総称である。満蒙開拓団とも言われる。1932(昭和7年)から大陸政策の要として、また昭和恐慌下の農村更生策の一つとして遂行され、14年間で27万人が移住した[1]
概要[編集]
1931年の満州事変以降に日本からの満州国への移民が本格化。1936広田内閣は「満州開拓移民推進計画」を決議し、1936年から1956年の間に500万人の日本人の移住を計画、推進した。同時に、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画(「二十カ年百万戸送出計画」)も打ち出された。
日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。加藤完治が移住責任者となり、満州拓殖公社が業務を担っていた。この移住は、日本軍が日本海及び黄海制空権制海権を失った段階で停止した。満蒙開拓に送り込まれた27万人のうち、長野県出身者が約34千名で最も多く、全体の12.5%を占め、第二位の山形県2.4倍であった[2]
背景[編集]
日本政府により戦前に進められていた、北アメリカブラジルなど南米諸国への日本人移民の入植移民数に段階的制限が加えられるようになった。また、昭和恐慌によって当時の日本の地方農村地域は疲弊と困窮を極めており、窮乏生活を送らざるを得ない農業従事者らの強い移民志向もあったとみられている。
また、日本の対満政策における治安維持の方針として、兵力増進による地域的治安の保持、兵匪を警備等に雇う兵工政策の他に、農業集団移民を12年間屯墾義勇組織として治安維持に当たらせる屯田移民政策が考案されていた[3][4][5]。軍事移民により、財政負担を減らせるとされていた[6]
費用案[編集]
中島仁之助の論文「我が農業と満蒙移民」より[6][7]
土地購入費(二十五エーカー)一千円
家屋二百円
農具その他必要品二百円
生活費(移住後一年間)四百円
渡満費(一人当り五十円)二百円
開拓移民団[編集]
満州開拓移民は農業従事者を中心に、村落や集落などの地縁関係に重点をおいた移民団(開拓団)が日本の各地で結成された。彼らは農業研修や軍事的な訓練を渡航前に受け、大陸へ「満州開拓武装移民団」として送り込まれる方式がとられた。
満州開拓移民の募集には、『王道楽土』や『五族協和』などをスローガンに喧伝したキャンペーンが大々的に行われ、多くの人々が募集に応じた。
入植の実態[編集]
満蒙開拓移民団の入植地の確保にあたっては、まず「匪情悪化」を理由に既存の地元農民が開墾している農村や土地を「無人地帯」に指定し、地元農民を新たに設定した「集団部落」へ強制移住させるとともに、満州拓殖公社がこれらの無人地帯を安価で強制的に買い上げ日本人開拓移民を入植させる政策が行われた。およそ2000万ヘクタールの移民用地が収容された(当時の「満州国」国土総面積の14.3%にあたる)。日本政府は、移民用地の買収にあたって国家投資をできるだけ少額ですまそうとした。1934(昭和9年)3月、関東軍参謀長名で出された「吉林省東北部移民地買収実施要項」では、買収地価の基準を1ヘクタールあたり荒地で2円、熟地で最高20円と決めていた。当時の時価の8%から40%であった。このような低価格での強権的な土地買収は、吉林省東北部のみで行われたのではなく、満州各地で恒常的に行われた。浜北省密山県では全県の私有地の8割が移民用地として取り上げられたが、買収価格は時価の1割から2割であり、浜江省木蘭県徳栄村での移民用地の買収価格は、時価の3割から4割であった。そのうえ土地買収代金はなかなか支払われなかった[8]。このように開拓民が入植した土地の6割は、地元中国人が耕作していた土地を強制的に買収したものであり、開拓地とは名ばかりのものであった。そのため日本人開拓団は土地侵略の先兵とみなされ、初期には反満抗日ゲリラの襲撃にあった。満州国の治安が確保されると襲撃は沈静化したが、土地の強制買収への反感は根強く残った[9]
満洲国は、日本の本土の延長である「外地」ではなく、日本政府の承認した一国家(日本から見て「外国」)であった。移住した日本人開拓団員たちは開拓移民団という日本人社会の中で生活していたことに加え、渡満後もみな日本国籍のままであった(満洲国には国籍法は存在せず、満洲国籍は存在しなかった。)そのため、「自分たちは住む土地が変わっても日本人」という意識が強く、現地の地元住民たちと交流することはあっても現地人と同化しなかった。開拓民は、役場と農協を兼ねる団本部を中心に、学校、神社、医療施設、購買部を中心とする、日本人コロニーを形成しており、コロニー内で生活が完結していた。学校も民族ごとに別々に設けられていた。そのため中国人集落と接しながらも、在地社会との接触は限られていた。また、一戸あたり10町歩から20町歩の広大な農地を割り当てられたが、これを自家のみで耕作するのは困難であり、結局は中国人労働者を「苦力」として雇ったり、小作に出したりという、地主的経営にならざると得なかった。「五族協和」が唱えられながらも、「地主ー小作関係」に民族問題が絡み合うことになり、「五族協和」は実現困難だった[10]
満洲開拓政策基本要綱」は「第一.基本方針」「第二.基本要領」「第三.処置」の3部からなり、さらに「付属書」「参考資料」が添付されている(開拓総局 1940)。具体的な政策実施方針を定めた「基本要領」の内容は、以下の4点にまとめられる。
1. 日満両政府の責任分担を明確にするとともに、日満間の連携を維持、強化するとした。
日本国内での業務は日本政府が、満洲国内での業務は満洲国政府が統轄する。移民入植地の行政経済機構は「原住民トノ共存共栄的関連ヲ考慮シ」満洲国制度下に融合させる(開拓総局 194012‑13)。行政機構は街村制によるものとし、経済機構は協同組合を結成させる。また、指導員の身分は従来の日本政府嘱託から日満両政府の嘱託に改め、移民の訓練は日本国内での訓練を日本政府が、従来は満洲拓植公社が管理していた満洲国内での訓練を満洲国政府が統括するとした。満洲開拓青年義勇隊については、日満両国の開拓関係機関合作による訓練本部を新京に置き,各機関の協議によりこれを運営するとした。さらに日満両政府がそれぞれ開拓関係行政機構の整備拡充を行って関係機関との連絡に適切な処置をなすとともに、両政府間直接の協議連絡を緊密にするとした。
2. 移民の区分と入植地域,入植形態を規定した。
日本人移民,朝鮮人移民を開拓農民、林業、牧畜、漁業等との半農的開拓民、商、工、鉱業その他の開拓民に区分した。また中国人農民を国内開拓移動住民、開拓民移住にともなう「補導原住民」に区分した。前者は一般の中国人の国内移動、後者は日本人入植にともなう現住農民の立ち退きを指す。日本人開拓民の定着を推進するとともに、朝鮮人開拓民の移住・定着、現住農民の「補導」・移動についても積極的な助成、「補導」を行うとした。さらにこうした開拓民の入植や現住農民の移住「補導」では、満洲国協和会の活動が重視された。
3. 開拓用地の整備、利用開発、配分などに関する要領を定めている。
開拓用地の整備は「未利用地主義」にもとづき国営により実施するとした。また湿地干拓,アルカリ地帯の利用、森林原野の開拓などを重点的に行うとした。これにより、満洲拓植公社の業務であった開拓用地の取得および管理が満洲国政府に移管された。
4. 満洲拓植委員会の運営の規制および満鮮拓植会社の満洲拓植公社への統合を決定した。
ただし満洲拓植公社改組については意見がまとまらず、今後引き続き協議するとされた[11]
「満洲開拓政策基本要綱」により、日本人移民政策における満洲国政府の位置づけは大きく転換した。満洲拓植委員会は存続したものの、以後日本人移民政策の基本方針決定過程では両政府間の直接協議が重視され、満洲国内の政策実施は基本的に満洲国政府に委ねられることになった[11]
石原莞爾甘粕正彦は満蒙開拓武装移民には否定的であった点では共通するが、甘粕の場合、大型機械などを用いた産業化とは対極的な、過酷な身心鍛練を通した農本主義的・精神論的な加藤完治の日本主義のそれにあり、屯田兵の役割を担う開拓武装移民団には肯定的であった[12]
戦局の悪化による兵力動員で1942以降は成人男性の入植が困難となり、15歳から18歳ほどの少年で組織された「満蒙開拓青少年義勇軍」が主軸となった。少年らは茨城県水戸の「内原訓練所」で2か月間訓練され、満州へ送られた。その後さらに満州では「満州開拓青年訓練所」にて3年間現地にて軍事訓練を受け、各地へ開拓移民として配属される。対ソ連への戦略的観点から、主にソ連国境に近い満州北部が入植先に選ばれた。
移住後の問題[編集]
入植後の不協和音からもめ事や内紛がおき、幹部の対立による離脱や構成員の反発による紛争も生じた。1940528日、寧安近郊で起きた香川県出身者の開拓村の紛争事件では、憲兵が出動し11人の団員が帰国通告の処分となった。開拓移民団の中には鉱山開発やダム建設のため、開墾し入植した土地を事業者に移転させられたり引き払わされた事例もあったが、彼らの反発は関東軍によって抑えられた。 日本の開拓政策を知る一部の地元の農民には、日本人開拓移民団を自分たちの生活基盤を奪った存在として反感を抱いている者が少なからずおり、団員との衝突やトラブルに発展するケースも相次ぎ、絶えることがなかった。これらの日本人移民団への反感が、抗日レジスタンスの高揚につながった。そして、のちのソ連参戦時に移民団員が現地住民たちに襲撃される伏線ともなってゆく。[要出典]
開拓団の引き揚げ[編集]
引揚者」、「引き揚げ」、および「戦後開拓」も参照
青少年義勇軍を含む満州開拓移民の総数は27万人とも、32万人ともされる。ソ連の参戦でほとんどが国境地帯に取り残され、日本に帰国できたのは11万人あまりだった。各地の開拓移民団は引き揚げの途中で多くの死者、行方不明者、収容所での感染症による病死者を出し、無事に帰国できた開拓団はなかった。また、国境を越えてきたソ連兵に捕らえられシベリアへ送られた男子入植者は、シベリア抑留者となり帰国は更に困難を極めた。
敗戦後の日本の混乱により、開拓移民団を中心とした大陸から帰国した「引揚者」は帰国後の居住のあてもなく、戦後も苦難の生活を余儀なくされた。政府は、彼らに移住用の土地を日本の各地に割り当てることにしたが、非耕作地が多く開墾の必要な土地であった。いずれの土地も荒れ、耕作には適さず、多くの人々は過酷な状況にさらされた。敗戦によって日本全体が困窮しており、政府も満足な支援をすることが出来なかった。
このような移住用集落は戦後、全国各地の農村で「引揚者村」と呼ばれた。千葉県成田市三里塚地区に移住用の土地を割り当てられた引揚者たちは、1960年代後半には成田空港建設に伴う強制的な土地収用に抵抗し、三里塚闘争を引き起こした。また、山梨県の旧上九一色村に入植した開拓者の多くは、バブル期前後までに耕作を放棄して村外に転出し、その不動産の多くがオウム真理教に売却され、サティアンと呼ばれる宗教施設が乱立した。
文学者たち[編集]
開拓団には、日本本土から作家たちが訪れ、そこに取材したルポや小説を書いたものもいる。島木健作の『或る作家の手記』「満洲紀行」、徳永直の『先遣隊』、長野県大日向村からの分村に取材した和田伝の『大日向村』などがある。また、葉山嘉樹はみずからも開拓団の一員として現地で生活し、引き揚げ途上で没した。




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