ゴッホの耳  Bernadette Murphy  2018.8.20.


2018.8.20. ゴッホの耳 天才画家の最大の謎
Van Gogh’s Ear  The True Story    2016

著者 Bernadette Murphy イギリス生まれの作家。成人してから南フランスに移住、アルル時代にゴッホについて調べ始める。デビュー作となる本書は大きな反響を呼び、「BBC RADIO 4」が選ぶ「Book of the Week」に選出。16年本書に基づくBBCのドキュメンタリー番組に出演し話題を呼ぶ

訳者 山田美明 英語・フランス語翻訳家。東外大英米語学科中退。

発行日           2017.9.20. 初版印刷                    9.25. 初版発行
発行所           早川書房

188812月南フランスのアルル。画家のフィンセント・ファン・ゴッホ(185390)は自らの片耳を切り落とす――。
彼はなぜこんな衝撃的な事件を引き起こしたのか?
新発見資料を通して、美術館だけでは知り得ないゴッホが生きた世界が浮かび上がる。
娼館の女将や娼婦、カフェのパトロンや警察、彼が愛した弟のテオ、芸術家たち、そして同居したゴーギャン。
耳を贈られた謎の女性「ラシェル」とは何者なのか?
また、ゴッホが切り取ったのは耳たぶなのか、それとも耳全体をそぎ落としたのか?
「天才画家」ゴッホの知られざる一面をあぶり出す傑作ノンフィクション

プロローグ
1888.12.23.アルルの売春宿街で起きた常軌を逸した異常な事件 ⇒ 顔の辺りを無数の布切れで覆われた男が殺され、切り取られた耳が新聞紙にくるまれて警察に届けられた
翌朝友人の画家と一緒に暮らしていた男が《黄色い家》を訪れ、警察署に殺人容疑で逮捕されたのはゴーギャン

第1章        未解決事件の謎を追う
アルルはゴッホが過ごした家があることで有名。耳を切り落とす事件を起こしたのもあるるだが、地元の人も含め、ゴッホの生涯を詳しく知る人は少ない
耳の事件がゴッホの性格や芸術を決定づけている。確かに神経衰弱については様々な記録があり、それに照らして解釈しなければゴッホの作品は理解できないが、それにしてもこの耳のエピソードは虚構に彩られ過ぎている
ゴッホの世界的権威であるアムスのゴッホ美術館の説明によれば、「23日夜ゴッホは激しい神経衰弱に見舞われ、耳の一部を切り落として娼婦に手渡し、翌日自宅で警察に発見されたのち入院」とされるが、いったい何があったのか
絵画以外でゴッホの生涯の主な情報源となっているのは、頻繁に書いた手紙だが、耳の事件の記述はない
疑問に答えれそうなのは、同居していたゴーギャンだが、事件直後と数年後で異なる証言をしており、混乱に拍車をかけている
実証できるものはほとんどなく、自画像2点と1つの新聞記事だけ
当時のアルルの模様を資料で調べながら、ゴッホの置かれた状況を想像し、描かれた画の背景を考える

第2章        痛ましい闇
18862月パリの弟テオと一緒に暮らすために、活気溢れる現代美術の都パリに来る
父は牧師だったが、家系的には美術関連の仕事が多く、おじの3人までが美術商。特に有名な国際的な画廊の共同経営者だった伯父のセントに面倒を見てもらい16歳でハーグ支店で働き始め、すぐにロンドンに栄転、弟もブリッセル支店で働き始める
ロンドンでプロテスタントの改革派に傾倒したのが原因で76年解雇
牧師になろうとして失敗、恋愛関係でも一方的な感情を抱くことが多く失敗、奇矯な振る舞いが多く両親は施設に入れようとしたが、本人の拒絶にあって断念
85年父が死去、家族とは一時的に休戦となったが、すぐに喧嘩して家を去り、二度と戻ることはなかった
弟はパリで画廊の経営者になっており、兄に毎月小遣いを渡し、兄を美術界に紹介し、その画業を支える ⇒ 同時代の画家と会って、作品を制作したり、他人の画家の絵と交換したため、現代画家や日本の浮世絵を大量に収集している
弟の惜しみない無償の援助を得て、ゴッホの天才は開花したが、パリでの共同生活は対立の繰り返しで、87年に入ると2人の関係は危機的状況に達する
印象派の時代は終わって象徴主義が流行し始めると、ゴッホ得意の分野で、展示会を開くが売れずに転地を考え、882月南フランスへと出立

第3章        失望と発見
ゴッホの絵の上に、名前とともに「自分はダメな人間のような気がする」と書かれていた

第4章        あまりにも美しい
ゴッホがアルルに着いた時、珍しい大雪で20cm積もっていた
4か月ほどデンマークの画家と交流、一緒に絵を描いた

第5章        ゴッホが暮らした世界
プロヴァンス地方特有のミストラルという強風に悩まされながら画業を続ける
アルルに来て決まった日課が出来、朝食後にホテルを出て周辺の田園に足を運び、散歩したり絵を描いたり、訪れるのはたいてい市の北部で、ローヌ川の川岸や農場、トウモロコシ畑に行っていた。夜はホテルで食事、手紙を書いたり新聞を読んだり、パイプをふかしたりする。決して倹約家ではなく、週末にある程度の金が残ればホテル近くの娼婦街にも向かった

第6章        娼婦
娼婦街は市議会が管理する売春機関で、ゴッホはいつも「衛生目的の訪問」と記している
切り落とした耳を渡したという娼婦ラシェルを探したが見当たらなかった

第7章        ヴァンサンさん
ホテル代が払えなくなって差し押さえされそうになり、弟に宛てて絵を何枚か送り、《黄色い家》を借りる
そこで親しい交友関係を結んだのが郵便局員のジョゼフ・ルーランで、その家族とも密な関係を結び、家族一人一人がモデルになっている
安定した生活を手に入れたゴッホは、ここで次々に自身の最高傑作となる作品を生み出す
ヴィンセントはここではヴァンサンに

第8章        苦境の友人
パリで会った画家たちの中で頻繁に手紙をくれたのはベルナールくらい。86年に出会って親しくなり、ブルターニュ地方を訪れた際、ゴーギャンに紹介される
ゴーギャンは船乗りから転じて印象派の画家ピサロと親しくなって画を始め、いったん結婚するが、生業につかないまま妻は故国に帰ってしまい、独り身になってようやく絵に本腰を入れる
87年末ごろゴッホとゴーギャンがパリのゴッホの展示会で出会い、互いの絵を交換することを約束したが、ゴーギャンは中米旅行中のマラリアや赤痢、肝炎などに悩まされ、絵も売れず、苦境に陥ったところをゴッホが手を差し伸べる。ベルナールにゴーギャンの様子を見に行ってもらったところ、2人はたちまち意気投合、ゴッホも交えた「3人組」とも言える画家グループが誕生
886月テオはゴーギャンに手紙で、固定給を支払う代わりに絵を提供してもらい、ゴッホと同居することを提案、借金生活だったゴーギャンには願ってもない話だったが、借金の肩代わりも申し出てゴッホを怒らせるも、結局は提案を受け入れて一緒に暮らすことが決まる。その際ゴッホはベルナールとゴーギャンに、互いの肖像画を描いてそれを自分の絵と交換するよう提案。日本の浮世絵師が浮世絵を交換し合っていたという伝統に触発されたもの
ゴッホはゴーギャンに対し、英雄崇拝的な気持ちを抱いていたが、10月末になってようやく共同生活が始まる段階になっても、2人はお互いのことをほとんど知らなかった
ピサロは、ゴーギャンの絵のことを、「あちこちで拾い上げた絵を寄せ集めた船乗りの芸術」だと、批判していた

第9章        ついに見つけたわが家
6か月の間に、風や太陽、ハエ、自分の精神状態に悩まされながらも、プロヴァンス地方の美や色に触発され、真に偉大な画家へ成長

第10章     芸術家の家
10月漸くゴーギャンがアルルに到着、まずゴッホが描いた場所を自分なりに描いてみることにした
ゴーギャンはゴッホの生活習慣に秩序と日課をもたらした。ゴーギャンは料理上手だったので、ゴッホが買い物に行き、ゴーギャンが料理を作るという役割分担ができ、芸術家の家らしくなっていった
ゴーギャンはゴッホほどアルルに魅力を感じてはいなかった
2人の関係は、お互いに敬意を抱いてはいたが、決して本当の意味での友人ではなかった
確かに他の画家と一緒に仕事をすれば双方の利益になるが、ゴッホの絵画のスタイルにゴーギャンが多大な影響を与えたと考えるべきではない。ある程度の相互作用はあっただろうが、ゴッホの芸術がこの上ない表現力を獲得したのは、一緒に暮らし始める前の夏のことで、ゴッホの死から10年後に執筆されたゴーギャンの自伝によれば、ゴーギャンは自分の知っているあらゆることをゴッホに教え、ゴッホは自分を師と見做していたというが、それについてはテオの妻が怒って反論している
だが、ゴッホがそれまでと違う創作手法を見つけたのは、ゴーギャンのお陰でもある。ゴーギャンはアルルに来る前から、想像力を使って絵を描くようゴッホに勧めていた。ゴッホはそれまで見たものをそのまま描いていたが、ゴーギャンの提案により、創作手法を大きく変化させ、実物を見ずに室内で制作出来るようになったのは間違いない。これにより全く新たな方向性を見出したゴッホが、それを教えてくれた新たな友人を褒めちぎった
1か月後には2人の関係にひずみが生じ始める。ゴッホは次第に気紛れで喧嘩腰になり、同居が難しい相手になっていった

第11章     嵐の前触れ
12月に入ると気温が下がり、家の中で口論ばかりが絶え間なく続く
結局ゴーギャンはパリに帰る決心をするが、借金の返済等で動くに動けず、何もしない道を選ぶ。ゴーギャンは融通が利いたが、ゴッホは趣味や意見の違いを2人の仲たがいと切り離しては考えられず、怒りと疑念に苛まれ、議論をすればするほど、その過敏な感受性は悪い方向へ向かうばかり
2人の確執に加え、クリスマス直前の3日間は大雨に慣れていないプロヴァンス地方が土砂降りの雨に見舞われ、2人は《黄色い家》の狭い空間に閉じ込められていた
ゴーギャンは、ゴッホのさらなる奇矯に、冷静を保つ自信を失い、パリに戻ろうとしたが、テオに借りがある上に、ゴッホが不調に苦しんでいるのを見捨てるわけにもいかなかった

第12章     真っ暗な一日
事件の当日、一時的な休戦となった。ゴーギャンは明らかにどこかおかしい男を見捨てることなどできないと考え直し、平静を保ってもう少しアルルに留まろうとしたが、結局その日が終わると、ゴーギャンはアルルを離れる決意を固め、ゴッホは入院することになる
その日2人に起こったことは、無数の議論や推測があるが、ゴッホが正気を失わせるギリギリのところに追い込んだものは何か、明確な答えはない
夕食が終わってゴーギャンは一人で外に出たら、あとからゴッホが手に剃刀をもって追ってきたが、ゴーギャンの厳しい目線を見て家の方へ戻って行った、と15年後に地球の反対側で書いた自伝の中で、真実か作り話かは不明だが、と断ったうえでとにかく記しておくとある。が、事件の4日後にパリに戻ったゴーギャンはある友人に出来事を詳細に物語り、友人はそれを書き留めていた

第13章     あいまいな伝説
ゴッホが88年末に神経衰弱に陥ったのは間違いないが、冬に精神異常をきたしたというのは糊塗されている。それは陽光の照りつける地で起きた、誤解された画家の激情の物語というイメージにそぐわないから。
精神異常の原因はアルコール、特にアブサンと言われるが、記録を見る限り、アルコールの濫用という事実は浮かび上がってこない ⇒ 「アブサン好きのゴッホ」というイメージはゴーギャンが書いた文章から生まれた
事件の4日後にゴーギャンから詳細を聞いたのはベルナールで、事の重大性に驚きそのままを友人に手紙で知らせる。それによると、剃刀を手にしたということは一切触れらえていない。警察からの情報を地元紙が取り上げた限りでは、当日深夜にゴッホが耳を切り取って娼館の娼婦に手渡し、夜の街に消えたとあり、その後についてはベルナールの手紙によれば、ゴーギャンがホテルに1泊して戻ると、警察が来ていて逮捕され、ヴァンサンは病院へ連れていかれ、ゴーギャンは解放されたとあるが、ゴーギャンの自伝では自分をよく見せようと脚色が多い

第14章     事件の謎を解く
耳を切ったことについて、ゴッホ自身は何も書いていないし、病院の記録も残っていない
耳に包帯をした自画像を2枚描いている
09年ドイツの研究家が、ゴーギャンがフェンシングの剣でゴッホの耳を切り落とし、2人の間では沈黙を守る密約をしていたと発表し、世界中のメディアを驚かせた
一般的には、かみそりと考えられるが、耳のどの部分を切ったのかは不明。プロヴァンス地方では何事も大袈裟な話をすることで有名なので、耳朶しか切らなくても耳全体を切ったことになった可能性も大
『炎の人ゴッホ』が出世作となったアメリカの作家アーヴィング・ストーンが1930年に、事件後にゴッホを診たアルルのフェリックス・レー医師を訪ねた際、医師に図示するよう依頼、レー医師は処方箋用紙に2つの耳の絵を描いて切る前と切った後を表示、後では耳朶の一部だけが残っている
なぜこうもゴッホの物語は歪んでしまったのか。ゴッホがなぜこのような精神状態に陥ったのかと同様、周囲の関係者が揃って耳の一部しか切っていないと主張するのはなぜか

第15章     その後
事件翌日の市立病院の当直だったレー医師は、患者と一緒に届いた耳の切片を縫い付けようとしたが、すでに肉が縮んで硬化しており、縫合出来ないので、傷口を消毒して包帯を巻くに留める。数年前だったら汚い水でゆすいでいれば感染症などで命取りになったかもしれないが、若いレー医師が学んだばかりの最新の医療技術により助かった
(地元紙の日付が「188816日号」となっている。事件の証拠を集めていながら肝腎の年号が誤植とは、杜撰な校正に呆れる)
当時アルルは、年末最後の10日間で5か月分の雨が降るという豪雨に見舞われていた
レー医師以外は誰もゴッホの耳の状況を見ていない。自画像のようにいつも包帯が巻かれていたはずであり、ゴッホ自身が言ったことを信じて耳朶だけだと思い込んだ可能性が大

第16章     「早く来てくれ」
パリのテオは、事件直前に親友の妹と長年の思いがかなって婚約したところに、兄危篤の報がゴーギャンからもたらされ、25日には病院で兄と面会し、無事を確認したので後事をルーランに託して翌日ゴーギャンとともにパリに戻る
レー医師は、精神病よりも傷に伴う処置を優先したが、26日から容態が悪化し、次第に奇異な行動をするようになったので監禁室に入れられた
傷は問題なくなったが、精神病の治療をどうするかで揉める

第17章     「寂しい海に一人」
年が明けると、奇跡的にゴッホの精神状態が戻ったので、レー医師も一時的な心神喪失として片づけ、「黄色の家」への一時帰宅が認められた
ゴッホは家に帰って、テオやゴーギャンにも手紙を書く
2週間余りで退院の許可
大家が新たな賃貸契約をしたという噂に悩まされ、慌てて自画像を2点制作。1点が《包帯をしてパイプをくわえた自画像》であり、もう1点が《耳に包帯をした自画像》
専門家の間でも、いずれかが贋作であるとの議論が喧しい ⇒ 《耳》の方はゴッホが所有していた浮世絵が背景にあることが信憑性を高めている一方、《パイプ》の方は、この作品を一時期ゴーギャンの友人シェフネッケルが所有していたことが問題視。シェフネッケルはゴッホの死後、ゴッホの贋作を数点制作したという噂がある
自宅に戻って絵の制作だけに専念しようとしたが、周囲の住民からは精神異常者と見做され、魔女狩りの標的になった ⇒ たった一人の友人ルーランも転勤でアルルを去り、テオへの手紙でも、「寂しい海に一人」でいるようだと書いている

第18章     裏切り
2月になるとゴッホは再び精神障碍の兆候を見せ、またも監禁室に入れられる
住民が揃って、市長に対応を請願、警察署長が事情聴取することになったが、恰も地域住民がこぞって請願に署名したかのようにゴッホ研究者は捉えているが、僅か2人の男が近隣住民の不安をうまく利用したもので、アルルではこのエピソードはゴッホの物語から注意深く削除されている

第19章     聖域
アルルでの入院生活は5か月にわたり断続的に続く ⇒ この間ゴッホの手紙がないので曖昧な部分が多い
いつまでも病院にもいられず、「黄色い家」にも帰れないとあって、病院ではゴッホにふさわしい民間の療養施設を探し始める。公立の施設ではまず退院の見込みはない
転地が決まって描いたのが《アルルの病院の中庭》と《アルルの病院の病室》の2
5月ゴッホは、サン=レミにある修道院の療養所に入る ⇒ ゴッホが死ぬ15か月前のこと

第20章     傷ついた天使
この頃から子守歌や海に揺られるイメージは、ゴッホの手紙に繰り返し現れるようになる
精神衰弱は、いずれも女性と結びついている ⇒ 最初は娼婦に会いに行ったとき、次はルーラン夫人が病院に面会に来ている時
「ラシェル」と書かれた娼婦を突き止めることに成功したが、なぜゴッホが自分の耳を彼女に手渡すことにしたのかは謎のママ

第21章     問題を抱えた遺伝子
アルル時代のゴッホの病院記録は一切存在しない
サン=レミ精神科病院の医長の診断書が唯一の記録 ⇒ 幻視・幻聴を伴う旧姓躁病の発作を起こし自らの耳を切り落とした。現在は理性を取り戻しているが、一人暮らしの気力がなく、長い間隔を置いて癲癇の発作を起こす傾向があるところから当施設で長期観察下に置く
精神疾患は母方から来ているとゴッホが自ら述べているし、おばが癲癇、ゴッホの兄弟6人中4人に精神障碍

第22章     「確実にやって来る不幸」
最近ゴッホの死をめぐる状況が議論の的に ⇒ 11年発表の伝記で10代の若者たちに殺されたという説が出た
ノートルダム教会がゴッホの葬儀での宗教儀式の執行を拒否しているのは、自殺故
ゴッホの自殺願望は強く、最初の神経衰弱から1年目の89年末には絵の具を食べて自殺しようとした
サン=レミにいた1年の間に重篤な精神衰弱を4回経験した後、905月に
退院して、テオの世話でパリの北のオーヴェル=シュル=オワーズに転地し、また熱心に絵を描き始めるが、7月銃で自殺。享年37
テオも、精神的肉体的にも衰弱し、ユトレヒトの精神科病院に入院となり、911月死去、享年32

エピローグ
当初の目的は、ゴッホの生涯における1つのエピソードを理解することにあった。ゴッホの伝説の核心となり、一般大衆のゴッホのイメージを形作ってきたエピソード
アーヴィング・ストーンの『炎の人ゴッホ』で定着したゴッホのイメージがいつの間にか事実と見做されるようになった
19世紀には精神疾患の治療法がほとんどなかったにもかかわらず、ゴッホがこれほど多くの作品を生み出したことに驚きを禁じ得ない
ゴッホやその精神状態に関する単純化されたイメージは、まるで的を射ていない。その不安定な精神状態にもかかわらず独創性の頂点を極めたのであって、決して不安定な精神状態だったから独創性の頂点を極めたわけではない
最大の誤解は耳の傷に関するもので、レー医師のスケッチによってゴッホが実際に何をしたのか理解できた
ゴッホは時に深刻な精神的危機に陥ったが、その作品や交友関係、手紙が示すように、こうした不幸を経験しながら決して創作を諦めず、苦悩の総量を遥かに超える高見に達した
そのお陰でこの世界は遥かに豊かになった

(書評)『ゴッホの耳 天才画家 最大の謎』 バーナデット・マーフィー〈著〉
2017..11.19. 朝日
 素人探偵の異常な骨折り損?
 時間を持て余しているひとりの退屈な暇人が、たまたまゴッホが住んでいたアルルに近い土地の住人であるという理由だけで、ゴッホの絵をあまり見たことも関心もないというのに、あの有名なゴッホの耳切り事件に異常な興味を覚えて、研究者も顔負けの追跡調査を始めた。
 アルルに住んでいた1万5千人以上のデータベースから膨大な情報を得て、この一風変わった事件の全容解明に何千時間も費やす。美術の専門家でさえ今さらさほど重視しないと思うエキセントリックなエピソードに全身全霊取り組むその執念はまるでFBIだ。
 当時の警察でさえ軽く素通りした出来事を128年後にこの偏執狂的素人探偵が再発掘。
 全容の解明に7年間の歳月をかけて、ゴッホの耳切り事件がなぜ起こったのか、その理由は? 意味は? 目的は? と問いかけていく。
 ゴッホの耳がスコーンと全部切り落とされたのか、いや耳たぶだけなのか、凶器がナイフなのか剃刀(かみそり)によるものなのか、切られた耳を献上した相手が娼婦(しょうふ)だったのか娼館の掃除婦だったのか、どっちでもよさそうなそんな疑問を執拗(しつよう)に追いかける。
 本書の主題はあくまでも耳切り事件の真相の究明のはずであるが、そんなことよりも、著者の偏執狂的かつ俗臭性に僕はあきれ果てて、この猟奇的事件に全人生(?)をかけて追求していくそのひとりの人間の執念に視点が移されてしまった。
 耳がどうした、こうしたというような別に犯罪でもなく犯人がいるわけでもなく、真相(?)がわかったからとて、ゴッホの芸術の評価が根底からひっくり返るわけでもない一見無駄!としか思えない事柄に、ここまで情熱をかけるその精神的根拠は一体どこにあるのか? 興味尽きない著者への関心である。
 著者は様々な事象を結びつけながら迷路の底に墜(お)ちていく。真相解明が複雑化する。寄せられる情報の中にはガセネタもあるだろうし、そんなものに振り回されながらも終わりのない結論に向かう。
 しかし著者はこのプロジェクトで価値ある多くの経験と収穫を得たと満足げに語る。
 本書のエピグラフに著者はシェークスピアの『恋の骨折り損』から次の言葉を引用する。
 「真理の光を求め、大変な思いをして本にかじりついたとしても、そうしている間に真理に惑わされて目が疲れ何も見えなくなってしまう」
 この言葉に著者自らの本心が露呈しているように見えなくもない。ゴッホの耳に恋した著者の行為が果たして「骨折り損」であったかどうかは読者の決めるべき問題ではなさそうだ。
 評・横尾忠則(美術家)
     *
 『ゴッホの耳 天才画家 最大の謎』 バーナデット・マーフィー〈著〉 山田美明訳 早川書房 2376円
     *
 Bernadette Murphy 英国生まれの作家。成人後、南フランスに移住。様々な仕事に従事しながら、アルル時代のゴッホについて調べ始める。本書がデビュー作。

ゴッホの耳 バーナデット・マーフィー著 精神と創作への影響を推理
2017/10/21付 日本経済新聞
 ゴッホはその強烈な作品の魅力にとどまらず、苦悩に満ちた人生行路によっても世界中の人々を惹きつけてきた。謎も多い。病名は何だったのか、なぜ耳を切り落とし、それを娼婦にプレゼントしたのか、自殺の理由は、等々。
原題=VAN GOGH’S EAR
(山田美明訳、早川書房・2200円)
▼著者は英国生まれで、成人後南仏に移住した作家。本作でデビュー。
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原題=VAN GOGHS EAR
(山田美明訳、早川書房・2200円)
著者は英国生まれで、成人後南仏に移住した作家。本作でデビュー。
 かつては統合失調症とされていたゴッホだが、昨今ではてんかん説が主流だという。耳は当時同居していたゴーギャンがフェンシングの剣で切り落としたとの説が一時話題になった。ロンドンでの切り裂きジャック事件の影響説まである。死因もピストルが見つかっていないので他殺説を唱える者がいる。
 そうした中、著者マーフィーが追求したのはタイトルどおり「耳」だ。それもゴッホが剃刀(かみそり)で切り落としたのが耳たぶにすぎなかったのか、それともほぼ耳全部だったのかという一点。生前の関係者の証言が食い違っているため、これは未(いま)だ定説のない問題なのだ。
 そんな些末(さまつ)なことと思われるかもしれない。だがそこからマーフィーは、新聞紙にくるまれた耳を贈られた女性が本当は誰だったのか、なぜ彼女でなければならなかったのか、またゴッホを町から追放しようとした人たちの真意は何だったのか、それがゴッホの精神に、ひいては創作にどんな影響を与えたかまで推理してゆく。
 この新説については、今後さまざまに検証されてゆくだろう。賛否両論あるはずだ。しかしその一(いち)途(ず)な研究者魂には敬意を表さずにおれない。イギリス人の彼女は成人してからフランスへ移住し、職を転々としながらゴッホにのめりこんでいったという。経歴はどこか謎めき、ゴッホと何らかの共通点があるのではないかと読み手は想像してしまう。
 それはさておき、膨大な資料を読み込んでゴッホ時代のアルルの住人1万5000人ものデータベースを作成したマーフィーは、19世紀フランスの因習的な田舎町に、オランダからやって来た赤毛の異邦人がどんな存在だったかを浮かび上がらせる。
 訳者の山田美明氏が言うように、本書の真の価値は「当時のアルルの生活や社会状況を克明に調べ、それを通じてゴッホを血の通った人間として描き出した点にあると思う」。
《評》ドイツ文学者 中野 京子








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