ニュルンベルク合流  Philippe Sands  2018.7.17.


2018.7.17. ニュルンベルク合流~「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の起源
East West Street: On the Origins of “Genocide” and “Crimes Against Humanity”
2016

著者 Philippe Sands 1960年生まれ。勅撰弁護士。国際法学者。ロンドン大教授。国際司法の世界や国際法の学界ではすでに著名人であるが、読書界における著者の名声は本書によって英国内外で確固たるものになる。本書で英ベイリー・ギフォード賞(以前のサミュエル・ジョンソン賞)などを受賞。2018年イングランド・ペンクラブ会長就任。一般読者を対象とした著作に以下がある: Lawless World: Making and Breaking Global Rules(2005)
Torture Team: Deception, Cruelty and the Compromise of Law(2008)

訳者 園部哲(さとし) 翻訳家。一橋大法卒。

発行日           2018.4.5. 印刷       4.20. 発行
発行所           白水社

読者へのノート ~ 主要登場人物
本書の舞台となるリヴィウ(Lviv)の呼称 ⇒ 
l  レンベルク:      19世紀後半オーストリア=ハンガリー帝国の東端
l  ルヴフ:  1次大戦後新たに独立したポーランドの一部
l  ルヴォフ:         2次大戦のソ連占領下
l  レンベルク:      ドイツ占領後ポーランド総督府内のガリツィア県県庁
l  リヴィウ:         赤軍がナチスを掃討したあとウクライナの一部となる
191445年に8回も支配者が変わるが、場所と建物は変わらずそのまま不変

主要登場人物
l  Hersch Lauterpacht     国際法教授、1897年ジュウキエフ生、11年レンベルクに転居、兄と妹、23年レイチェルと結婚、ロンドンで1人息子エリフ生
l  Hans Frank           法律家、政府閣僚、1900年カールスルーエ生、42年レンベルクに2日間滞在して演説、25年ブリギッテと結婚、末息子がニクラス
l  Rafael Lemkin       検察官、法律家、1900年オゼリスコ()生。21年ルヴフへ転居、兄エリアスと弟サミュエル、生涯独身
l  Leon Buchholz      著者の祖父、1904年レンベルク生、38年ウィーンでレギーナと結婚、391人娘ルース(著者の母)生、97年死去


プロローグ ~ 招待状
1946.10.1. ニュルンベルク裁判最終日の第600号法廷に最後に入廷したのがヒトラーの顧問弁護士でドイツ占領下のポーランドにおける代理人ハンス・フランク。リヒャルト・シュトラウスの親友
同法廷にはケンブリッジ大で国際法教授のハーシュ・ラウターパクトが、英国検察チームの一員として着席。ニュルンベルク裁判憲章に「人道に対する罪」という概念を織り込むよう提案。これによってポーランド域内で行われた4百万のユダヤ人とポーランド人の虐殺が要約された。20世紀が生んだ国際法分野における最高の良識、現代の人権擁護運動の父
ラファエル・レムキンはパリのアメリカ陸軍病院のベッドで判決のラジオを聞いていた。ワルシャワで検察官となり、その後弁護士。39年ポーランドからアメリカに逃れ、米英検察チームと共に働く。ハンス・フランクの署名した命令書を多く持ち、それに「ジェノサイド」という罪名を付し、人間集団の保護を確保しようとした  
ハーシュ・ラウターパクトもラファエル・レムキンも、ハンス・フランク統治下のポーランドで家族が事件に巻き込まれていた
2014.10.16. 著者は、ハンス・フランクの息子二クラスの案内でニュルンベルク裁判所を訪問。フランクが収容されていた独房に座り、そこから法廷に向かう
数年前、リヴィウの町の大学から法学部での講演の招待状が届き、ニュルンベルク裁判に関する学術研究について、同裁判がこの現代社会に及ぼした影響について話をする
ニュルンベルク裁判は、国際刑事裁判制度具体化の契機であり、人権運動の追い風であり、その後の同種事例を裁く規範となった
リヴィウに興味を持ったのは、母方の祖父の生まれた場所であり、45年以前のことを語ろうとしなかった祖父が封印した過去を少しでも明らかにしようと考えた
リヴィウは、1914447月の間に支配者が8回変わる ⇒ オーストリア=ハンガリー帝国からロシアに変わり、またオーストリアに戻り、短期間西ウクライナの一部、その後ポーランド、ソ連、ドイツ、ソ連、最後がウクライナ
最初はポーランド人、ウクライナ人、ユダヤ人など複数民族が共存する場所だったが、30年もたたないうちにすべてのユダヤ人コミュニティが全滅、ポーランド人たちは強制移住
2010年にリヴィウを訪ずれるまでに、ラウターパクトとレムキンが同じ時代に同じ大学で学び、辛苦の日々を身をもって体験していた事実を知るが、町の人は2人が国際刑事裁判制度を創設したことを知らなかったのは驚き

第1部        レオン
1960年代パリに住んでいた祖父母の家には、2人の結婚式の写真以外に写真がなかっただけでなく、不吉な影と沈黙の重苦しさを感じさせる部屋で、2人は若い頃の話を一切してくれなかった。小さい頃ウィーンへ移住し結婚、Anschlussのためにドイツ軍が侵攻してきた数週間後に著者の母ルースが生まれ、39年パリに移住、大戦後に長男が誕生するが90年自動車事故で息子2人とともに死亡
リヴィウに出かける前に祖父レオンの残した書類を点検 ⇒ 出生証明書(04年発行、レンベルク生まれ)、ポーランドのパスポート(23年、ルヴフ市民)、フレムデンパス(38年、ドイツ帝国のウィーンでポーランド国籍を剥奪されて無国籍者になったために発行された通行証、同じものが祖母と母に対しても発行された)49年に撮ったミス・ティルニーと男性の写真、44年にレオンがド・ゴールと一緒に撮った集合写真
1914年第1次大戦の煽りを受け、ガリツィア地方はロシアに占拠され、レオンは叔母についてウィーンへ。各地の公文書館の協力を得てレオンの過去が徐々に明らかになると、思っていたよりも大規模な一族だったことが推測された
23年のポーランドのパスポート取得は、ヴェルサイユ条約と同じ日に締結されたポーランド・マイノリティ保護条約に基づくもの ⇒ 条約は、近代的人権協定のモデルとされ、19年の条約署名日以前にルヴフで生まれた者はすべて無条件でポーランド国民と見做され保護されたため、10年ほどウィーンに住んでいたがポーランドに戻って取得したもの。後にレオンと著者の母ルースの命を救うことになる
23年レオンはパスポート取得のためにルヴフに戻り夏を過ごしたので、ラウターパクトやレムキンと町ですれ違っていたかもしれない。以後レオンがルヴフに戻ったことはない
レオンはウィーンで蒸留所製造業者として成功、反ユダヤ主義や人種浄化を掲げるキリスト教社会主義やドイツ国家主義とは一線を画す進歩的な社会民主主義を支持するが、33 年にはバイエルン州司法大臣に就任したハンス・フランクをリーダー格とするナチスの官僚が訪墺、34年にはナチを非合法化した首相がナチ一味によって暗殺され
37年ウィーンっ子のリタ(レギーナ)と結婚
383月ドイツとの併合が実施され、アイヒマンが「ユダヤ人問題解決」事務所を任されユダヤ人への迫害が始まる ⇒ レオンも資産を没収され無一文で移住申請を出す
387月母ルースを出産
3811月警視庁長官から1か月以内の退去命令を受領 ⇒ レオンと娘に発行されたパスポート(通行証)は無国籍となっていた。リタは義母の面倒を見るために残留しパスポートが発行されたのは3年後。レオンがウィーンを出てパリに着いたのは391月と推測されるが、ルースはその6か月後にパリに到着。その間の事情は不明
403月フランス陸軍に志願、外人部隊の派生部隊に入隊するが、1か月で高齢のため除隊。語学学校で働き始め、ルースは父親と離れて施設を転々とする
4111月リタは奇跡的にパリへの片道切符を入手して間一髪逃れる、直後に国境閉鎖
43年レジスタンス活動の中心だったフランス西北の小さな町発行の身分証明書を入手
4411月にパリの墓地でド・ゴールとともに撮った写真は、レジスタンスの闘士が埋葬された場所にレオンが案内したときのものと判明
娘とは再会するが、その他70人もいたブフホルツ家や母方の親戚は全てこの世にいなかったが、レオンはそれらの情報を全く知らない
4510月が裁判所に提出され、罪名に初めてジェノサイドという言葉が出てきて、その提案者レムキンが記者会見でウィーンとポーランドの件を例示して説明
レオンは戦争中の出来事も親族についても一切語らず、著者がリヴィウでの講演を引き受けたのを契機に、20世紀末まで生きた彼の人生に付きまとった途方もない規模の蹂躙を少しづつ理解できた。祖父母の小さなアパートを浸していた沈黙の理由はそこにあった

第2部        ラウターパクト
45年夏、トルーマンから国際軍事裁判の主任検事に任命されたジャクソンが、古くからの知己だった英国ケンブリッジ在住のラウターパクトを訪問 ⇒ ナチの被告人を告訴する正当性を仏ソに納得させる法理を議論
ラウターパクトは、リヴィウの北20kmのジェウキエフ生まれ。偶然にも誕生の立会人がレオンの母親の遠縁。大家族で中流階級に属し、教育ある敬虔なユダヤ教徒
1910年より良い教育を求めてレンベルクに移住。町は信仰心や政治的信念を巡ってグループ間の不和、分裂、抗争が日常生活に深い溝を刻んでいた
14年ロシア軍が町を占拠、翌年オーストリア=ハンガリー帝国陸軍がドイツ軍の支援を得て町を奪回、ラウターパクトはオーストリア陸軍に徴集されるが、レンベルク法学部に入学 ⇒ 著者が公文書館に行って在学中1519年の学業内容を突き止める
1811月、「赤い大公」と呼ばれたオ―ストリア大公ヴィルヘルムがオーストリア=ハンガリー帝国陸軍のポーランド人部隊にレンベルクからの退却を命じ、代わりにウクライナ連隊を招き入れ、新規独立国である西ウクライナ人民共和国の主都として宣言したため、第1次大戦とは無関係に同時独立を認められたポーランド派とウクライナ派が戦いを始め、ポーランドが勝ったものの町には混乱が残り、ユダヤ人は自警団を作って中立を守ったが、1000人を超える大虐殺に遭い、ウィルソン米大統領に圧力がかかっていく
ラウターパクトは勉学の傍ら、ガリツィア・シオニスト学会のリーダーになってユダヤ人の擁護に邁進。アイデンティティと自治権を守る抗争の中で、マイノリティや個人の権利を法律で守るにはどうすればいいのかを追求
195月ヴェルサイユ条約締結 ⇒ ポーランドは、独立と国連加盟の見返りとして、別途マイノリティ保護条約に強制的に署名させられ、ルヴフとその周辺で生まれたすべての人にポーランド国籍を付与したため国内の多数派との間に軋轢が増し、禍根を残す
ラウターパクトは、大学がユダヤ人に対して扉を閉じたために卒業できず、混乱の最中のウィーンを目指す ⇒ ウィーン大学で法哲学教授のケルゼンに師事

ハンス・ケルゼンは、フロイトの学友で、戦時にはオーストリア政府陸軍大臣の法律顧問、戦後同国の憲法草案作成に貢献、同憲法はその後ヨーロッパ各国がモデルに下もので、憲法の解釈と適用の権限を有する独立した憲法裁判所を設置し、かつ個人が法律の合憲性を同裁判所に直接問うことを可能にした嚆矢。21年ケルゼンは憲法裁判所の判事に任命
個人が憲法に規定された不可侵の権利を持ち、その権利実行のために裁判所への出訴権を持つという斬新な考え方を提唱
ラウターパクトは、21年学位を取得するが「可」 ⇒ 出身丸出しのドイツ語の訛りが原因。国際連盟をテーマとした論文で取った政治学の博士号は「優」
23年、大学の行事で知り合ったパレスチナ出身の音楽学生レイチェルと婚約、ロンドンへ向かい、ラウターパクトはLondon School of Economicsに入学、レイチェルは王立音大へ。国際法分野で3つ目の博士号取得
22年常設国際司法裁判所業務開始 ⇒ 国際法の法源は条約と慣習法だが、国際法と国内法のリンクが国際法規の進化に画期的な可能性をもたらし、国家権力に制限を課すことができると主張、その理論は広範囲の人々に認められ学界でも絶賛を博した
人権は「絶対不可欠」、どこの国にいようと人権を持つべきという斬新で革新的な思想、ただし母と妻はこの限りではない
ラウターパクトはLSEで法律学准教授に昇格
「個人の福利こそがすべての法の究極の目的である」と主張、ドイツのユダヤ人迫害についても真正面から取り組み、人種と宗教を理由にした差別を防止する為の国際連盟のアクションを求める
33年弁護士となる ⇒ エチオピアの皇帝からイタリアによる併合についての鑑定依頼が来たり、スイスの学者からはシレジア地方のユダヤ人保護についての鑑定書の依頼が来たりした。ポーランドがマイノリティ保護条約を破棄したので、両親に英国移住を勧めたが実現せず
37年ケンブリッジ大の国際法の教授に就任。トリニティ・カレッジのフェローとなる
399月ドイツのポーランド侵攻によりルヴフもジェウキエフもドイツ領となったがすぐに退却して代わりにモロトフ・リッペントロップ協定に基づきソ連占領下となるが、日常生活上の危険はなかったという
409月カーネギー財団の招聘による講演ツアーで家族ともどもアメリカに行き、家族はニューヨークに避難。ラウターパクトは2か月間で15の法科大学院と大学で講義し、国際法による個人の保護を説く
ラウターパクトは、ジャクソン司法長官とも会い、アメリカが中立法規に違反することなく連合国を支援するための大義を国際法に求められ、英国大使館の支援も得て法的意見書を作成、そこからアイディアを借りたジャクソンが数週間後にルーズベルト大統領が連邦議会を通過させた武器貸与法に繁栄させ、これにより合衆国が英国や中国を支援することが可能となる。ほかにもジャクソンはラウターパクトの考え方を引き、現代的(ママ→現実的では?)アプローチをすべきと説き、拍手喝采を浴びる
416月ヒトラーが東方侵攻、ルヴォフもドイツ占領下に入り、教授虐殺事件やユダヤ人の一斉検挙が始まる ⇒ 8月にはポーランド総督府に併合
421月ヨーロッパ9か国の亡命政府が共同声明を決議、残虐行為につき「有罪」で「有責」者を裁判にかけて処罰することが戦争遂行目的の1つとなる ⇒ 戦争犯罪に関する委員会を立ち上げ、後の連合国戦争犯罪委員会の母体となる。ポーランド政府が10人の主要犯罪人を指名、そのトップにフランク、ヴェヒター(ウィーンでラウターパクトの級友)が挙げられた
この頃、ナチス側ではベルリンのバンゼー湖畔の別荘で、「最終的解決」が合意されていた
43年夏戦況が一変しドイツ軍の退却が始まる ⇒ 連合国軍政府が連合国戦争犯罪委員会を創設、ラウターパクトは個人の保護を謡いながらも、世界ユダヤ人会議から残虐行為の調査への協力依頼があり、ユダヤ人が、ドイツが犯した犯罪の最大の犠牲者ゆえに、反ユダヤの残虐行為を特別捜査と報告の対象とすることは適切と理屈付けをした
11月にアメリカで、以前ポーランドで検察官をしていたレムキンが『占領下のヨーロッパにおける枢軸国の支配』と題する本を出版し、集団の保護を目的とし、そのために犯罪行為の新概念として「ジェノサイド」という集団の抹殺行為という意味の言葉を考案したが、書評を書いたラウターパクトは、、貴重な労作としながらも考え方や「ジェノサイド」という言葉には感心しない旨を仄めかす
456月国際連合憲章調印 ⇒ 「基本的人権」の導入と、「人間の尊厳及び価値」を尊重することに合意。ただし、拷問の禁止とか女性差別には振れず、南アにおける非白人の状況と、合衆国のいくつかの州における黒人住民の大多数が市民的権利を剥奪されているという難問を容認していた
戦争犯罪裁判のためのドイツ人指導者を裁く史上初の国際刑事伊裁判所創設 ⇒ 裁判所の権限が及ぶのは個人であって国ではない、被告人が国の権威の陰に隠れることは許されない、裁判官は8名、連合国各国が正予備判事各1名と検事1名を出すことまでは合意したが、訴因となる犯罪事実に何を列挙するかで議論
ソ連は、侵略、侵略時の文民に対する残虐行為、戦時法違反の3
アメリカはそれに加えて、違法な戦争の遂行とナチス親衛隊やゲシュタポ要員の犯罪性
両陣営の論争に先立ち、ラウターパクトがジャクソンに、「文民に対する残虐行為」に対し「人道に対する罪」という定義を入れてはどうかと提案、ジャクソンがソ連陣営を説得し、8月国際軍事裁判所憲章調印 ⇒ 裁判所でカバーされる犯罪の定義は以下の通り
(a)  平和に対する罪 Crimes against peace
(b) 戦争犯罪 War crimes
(c)  人道に対する罪 Crimes against humanity: Namely, murder, extermination, enslavement, deportation, and other inhumane acts committed against any civilian population, before or during the war;
or persecutions on political, racial or religious grounds in execution of or in connection with any crime within the jurisdiction of the Tribunal, whether or not in violation of the domestic law of the country where perpetrated.
戦争前あるいは戦争中にすべての文民に対して行われた殺害、殲滅、奴隷化、強制移送およびその他の非人道的行為; あるいは、犯行地の国内法の違反であると否とを問わず、本法廷の管轄に属する犯罪の遂行としてもしくはこれに関連して行われた政治的・人種的・宗教的理由に基づく迫害行為
;」が、ロシア語訳では「,」になっており、「;」は修正される。前者は戦前の行為がすべて含まれるが、後者では戦前の行為は処罰の対象外ということになるが、判断は裁判官に任されることとなる
また、アメリカが起訴状作成の最後の段階で強く主張して入れられた「ジェノサイド」という具体的罪名は法的検討にも耐えられず、気に入らないと英国が非難
4511月開廷が決まる ⇒ 被告は24
ラウターパクトは、英国のアドバイザーとして開廷当初の臨席を求められ快諾

第3部        ノリッジのミス・ティルニー
397月母ルースが1歳と3日でウィーンからパリに来るときの付き添いだったのがティルニー ⇒ 名前と住所を書いたメモだけを頼りに、著者が2年かけて探し遂に宣教師として活動していた女性に行き当たり、住所地の教会で見た資料からルースがパリに来た経緯を知るが、そこまででなぜルースだったのかは不明。ただティルニーがユダヤ人であることを誇りに、ナチスの所業に対して勇敢に戦っていたことが判明

第4部        レムキン
1900年現在のベラルーシで生まれ、第1次大戦終了時ポーランド国籍取得
1次大戦中の15年に起きたアルメニア人の大量虐殺に注目、「1民族が殺され、犯人は逃げおおせた」とレムキンは回想録で書き、オスマン帝国の大臣を「最も恐ろしい犯罪人」と名指しした
26年法学博士号取得 ⇒ ラウターパクトとルヴフの大学で同じ教授の下で学んでいた
1918年短命に終わった西ウクライナ人民共和国の大統領、反レーニン主義者のペトリョーラがパリでユダヤ人に殺害された事件の裁判が行われ、被告はユダヤ人虐殺を命じた大統領に報復するための殺人だったと反論、弁護士がロシアの作家ゴーリキー、さらにウクライナ赤十字の看護婦が大虐殺(ポグロム)を目撃したと証言したため、パリの法廷は「フランス万歳」の歓声で埋まる。レムキンはこの判決に注目、虐殺者に復讐した男を罰するわけにはいかないが、裁判所は「人類の道徳基準を守るために勝手に正義の味方になった」男を容認するわけにもいかず、被告を狂人と宣言し無罪釈放とした
レムキンは、裁判所の職員から検察官を務め、ワルシャワの控訴裁判所の事務官になり、幾多の経験を踏んだことが多くの著作に繋がり、「賛同者と影響力」を増やす。さらに国連で刑法の発展に関わる仕事をし、33年にはヒトラーの支配下でマイノリティに対する攻撃の広がりに対抗するために、「残虐行為(バーバリティ)」と「破壊行為(ヴァンダリズム)」を禁じる新たな国際的ルール作成を提唱 ⇒ 実践的理想主義の立場から、マイノリティ保護条約は無力で、人々の生命を守るため、具体的に種族集団の絶滅を防ぐための「残虐行為」と、文明や伝統に対する攻撃を防ぐための「破壊行為」という新ルールを構想、重大な犯罪の場合、世界各国のすべての法廷がその加害者を裁判にかけることができるという考え
この普遍的管轄権により、60年後にはチリのピノチェットが英国で裁かれることになる
レムキンの考えは、国連の会議の場には挙げられたが議論された形跡はなく、逆に直後にドイツは国連から脱退、ポーランドもレムキンを個人的に攻撃、国の代表とは認めず、1年以内にドイツと不可侵条約を締結して国連を脱退、レムキンも検察官を辞任しワルシャワで商法関連の弁護士に ⇒ 自宅兼事務所は08年に「国際的に名高い学者」という銘板がはめ込まれた
399月ドイツ軍のポーランド侵攻に伴い、ワルシャワから故郷を目指し北上、ロシア領となった実家に着いてヒトラーとロシアの組み合わせは最悪の事態として脅威を訴えるが家族は残留を決め、一人アメリカの叔父を尋ねる
ポーランド難民のごった返す中、スウェーデンのビザ取得に成功、40年早春ストックホルム着、以前あったデューク大学からの招請を待って、スウェーデンで講義する傍らナチスの占領政策の本質を追求するための調査に没頭 ⇒ ドイツが犯した犯罪の「議論の余地を残さぬ証拠」を公式文書や官報から収集・整理した結果、ドイツが支配下に置いた国々の絶滅が最終目的であることを見極める
ヒトラーがポーランドで最初に署名した命令は10月で、占領地域を「東部編入地域」と命名しその後「帝国」に吸収されるが、土地と住民が「ドイツ化」されるべき領土とした
41年初頭から発せられた一連の命令がユダヤ人を「漸進的」な段階を踏んで「完全に壊滅する」ことを目的にしていると突き止める
412月ノースカロライナのデューク大から教授ポストの提供とビザ発行の知らせが届き、大西洋航路が危険だったため、モスクワ経由シベリア鉄道から敦賀太平洋シアトル経由で渡米、ヨーロッパの現状につき各地で講演 ⇒ ラウターパクトと同じ時期
42年春ワシントンから副大統領直轄で戦争遂行支援をする戦時経済局の法律顧問に招聘され受諾。米政府のトップに近づいたのを奇貨として副大統領からローズヴェルト大統領にも大量殺人禁止を働き掛けるが、時期尚早として却下されたため、『 枢軸国の支配』の執筆によりアメリカ大衆に訴えようとする
ドイツ軍による大量虐殺の事実がマスコミで伝えられたのは8月の「トレブリンカの地獄」の記事
ヨーロッパが終戦を迎え、ジャクソンを主任検事に任命してドイツ人指導者を戦争犯罪法廷で裁きたいという米大統領の要望に直接関わりたいとして、ジャクソンに自分の業績を添えて訴える ⇒ ジャクソンは軍事裁判の準備のためのロンドン会議に提出する米国案の中にジェノサイドを「人種的少数派と被抑圧住民の殺害」として犯罪リストに加える
5月レムキンの働きかけが奏功して、戦争犯罪局で働き始めるが、彼の知識は尊重されたものの、やり方と気性が問題とされ、ロンドンに行くチームからは外される
ニュルンベルク憲章の犯罪内容からもジェノサイドは外されたが、レムキンの占領下でなされた犯罪についての知識が役立つとしてロンドンに招かれ、レムキンの性格ややり方に対する激しい批判の中、最終的に訴因3の戦争犯罪の本文中に、占領地域における文民の迫害と、被告が「計画的かつ組織的なジェノサイド」を行ったという主張がなされることになった ⇒ 国際的法律文書の中でこの言葉が使用された最初の例で、特にイギリスは厳密な法律文書の中で使うには「あまりに風変り」だとか「異様だ」といって強硬に反対
レムキンが提唱した定義は、
特定の人種や階層に属する人々、及び国民、人種、宗教集団、とりわけユダヤ人、ポーランド人、ジプシーその他を絶滅させる目的をもって、占領地域の民間住民に対して行われた、人種・国民集団の殲滅
レムキンは、訴状にジェノサイドを含ませたのを見届けるようにして、10月に風邪でアメリカに帰される ⇒ ラウターパクトと逆方向のすれ違い

第5部        蝶ネクタイの男
祖父の残した書類の中の1枚の写真、499月ウィーンからとなっているだけだったが、たまたま紹介してくれた人がウィーン生まれで昔の話になり裏面のサインから名前が判明、さらに本人が特定され、その遺産書類を入手、そこから遺族(孫娘が実在)を探り出して、39年のウィーン時代を推測、祖母が残ったあとの41年に写真の男と今まで見たこともないような笑顔で仲良く映っている写真を目にして、なぜレオンが生後間もないルースとリタ母子を残してパリに発ったのか、なぜルースはティルニーとパリに来たのか、リタもその後を追ったのか、いろいろと考えてみた

第6部        フランク
455月バイエルン地方の実家に戻ってきていたところをアメリカ軍将校に連行される
1900年カールスルーエ生まれ。ミュンヘンで学業を終えドイツ軍に徴集され、反共反ユダヤ主義の組織に入る。20年ミュンヘンでヒトラーの演説を聞き、23SAに入隊
クーデターが失敗してイタリアに逃げ、2年後戻ってミュンヘンでヒトラーに会う
26年キール大法卒。弁護士として働いているとき、起訴されたナチス党員の弁護士募集広告に目を付け応募、政治裁判の表舞台に登場、その後党内で法律部門の権威者となる
30年ライプツィヒでの反逆罪裁判で、ドイツ国防軍内にナチスの組織を作ろうとした党員が起訴された際、フランクはヒトラーに法廷で合法性の宣誓を実質的に公約として行わせ、この裁判を通じて2人の堅固な関係が築かれた
帝国議会議員となり党内の「法理論家」として押し出し党の指導層との関係を深め、ヒトラー首相就任後、33年にバイエルン州司法大臣 ⇒ 33年以前にヒトラーが頻繁に法廷に召喚されていたがその後ろに添っていたのがフランクで、世間にも顔は知れていた
バイエルン州司法大臣就任と同時に、州の法体制整備にかかり、特にユダヤ人を狙い撃ちにした指令を発出、ユダヤ人裁判官と検察官を職場から追放
335月ヒトラーの露払いとしてウィーンを訪問、オーストリア国民を不安に陥れる
フランクは「外国の国内問題への不干渉の原則」を支持、普遍的管轄権を否定、新生ドイツでの個人の人権を完全否定、さらにはヒトラーの唱える優生保護政策を支持、絶対不適合人種との混血を避けるための新しい人種法を制定
4年後の39年ポーランド総督就任、ドイツに併合されたため、占領地域であれば適用されるはずの国際法ではなくドイツ法適用地域とし、「人民の共同体」だけが法的主体で、諸個人は主権者である総統の意思に隷属するとした
428月レンベルクで一斉検挙が始まる ⇒ ゲットー内にいたユダヤ人を強制収容所へ送り込む。ラウターパクトの家族もレオンが残してきた家族もこのとき絶滅
フランクの末子は。父親の犯罪に肯定的だが、ガリツィア県知事に指名されてヴェヒターの息子(39年生)は、父親のことを誇りに思い、当時の記録を家の宝の様に保存
43年フランクは、ニューヨークタイムズが彼を戦争犯罪人に指名していることを誇りとし、バルバロッサ作戦の失敗で戦況が不利になったあともなおフランクはポーランド人やユダヤ人絶滅への手を緩めず次々とゲットーを潰し、ワルシャワの人口は100万人減少
リヒャルトシュストラウスから、彼の運転手が東方戦線に召集されそうになった所を助けてあげたことに感謝してシュトラウスから曲を贈られてもいる ⇒ 楽曲は見つからず
ポーランドの美術品を保護下に置くという寛大な計画を立て、有名美術品を没収。中にはデューラ―のスケッチやダ・ヴィンチの〈白貂(テン)を抱く貴婦人〉などを含み、後者はフランクの生存中は個人コレクションに加えられていたが、現在は元の居城に飾られている
44年春、総督府にソ連軍が侵入、フランクは構わず過酷な指令を出し続ける。8月ワルシャワ蜂起、9月フランクは殺人工場に関し初の言及、2か月前にはソ連軍がその工場を解放し、現場を証拠としてドキュメンタリーフィルムに残す
451月フランクはバイエルンに脱出、2月にバート・アイブリングに臨時総督府を設立、3か月幻想の権威を持ち続け、総統の死の直後アメリカ軍によって拘束される
フランクは被告人リストに含められ、ダッハウ収容所を解放した米国陸軍兵に打ちのめされ、2度も自殺を図った後、他のナチス幹部とともに拘束され尋問を受ける
錯乱状態にあり、尋問に対しても親衛隊に責任をなすり付け足り、強制収容所のことなど知らないと言ったり、ヒトラーと不仲になったが、殺す勇気がなかったことに良心の呵責を覚えるなどと責任回避に必死
8月ニュルンベルク法廷の裏側にある独房に移送、24名の戦争犯罪人のトップ近くに挙げられていた
10月末フランクは独房の中でカトリックの洗礼を受けるが、ソ連は最近信仰心に目覚めたという話には感心もしなかった
フランク、ラウターパクト、レムキン3人の人生が、ニュルンベルク裁判の場で初めて合流

第7部        よるべなき子
4510月レオンは「社会的支援と復興のためのユダヤ人委員会」の仕事を終えて帰宅、以前として家族の消息は不明
著者は、これまでの調査で判明したことを母親に伝えると、母は全く別に保管していた書類を見せ、それは「魂の医者」と称する精神科医からレオンに宛てた手紙で、レオンがウィーンを去ったあと、レオンの妻と「よるべなき子」に対する深い愛に基づきリタが「浅はかな不行跡」を認めて「完全な回帰」への扉を開くことができたとあった ⇒ 旧字体のドイツ語で書かれたおかしな手紙で、翻訳しても文法もおかしく意味不明なところが多かったが、リタの不倫が別離の原因で、リタが非を認めて復縁したという意味にとれる。ただ、「よるべなき子とはルースには違いないが、レオンの子なのか不倫の結果なのかは不明
蝶ネクタイの男の割り出しに協力してくれた孫娘と著者の祖父が同一かどうかのDNA鑑定をやったところ、限りなく「可能性はゼロ」でホッとした
それでもなお、レオンの家族のことについての疑問は残された

第8部        ニュルンベルク
451120日裁判の初日 ⇒ 英国控訴院裁判官ローレンス卿が裁判長となって開廷を宣言、本裁判が「世界の司法の歴史上類例のない裁判である」と短い声明を述べ、戦勝4か国の検察官から訴因14の起訴状朗読、一般的事実の陳述ののち、検察官がゲーリングを筆頭に一人一人の行為に焦点を当てる
ジャクソンの冒頭陳述は、前代未聞の脅威に打ち勝つために国際法の現実的な運用を訴え、ラウターパクトと話し合った「人道に対する罪」を適用して「本当の原告」である「文明」そのものに対する罪の償いを求めるもので、その証拠としてフランクの残した克明な日記は大いに役だったが、唯一レムキンの主張を支持していたはずなのに「ジェノサイド」という言葉だけは発することがなかった
大量殺戮を防ぐために、法はどのように貢献できるか? 個人を保護せよとラウターパクトは言い、より現実的には集団を保護せよとレムキンは言う
イギリスの主張はラウターパクトの意見を反映し、国は抽象的な存在はなく、その権利と義務は、人間の権利と義務であり、その行為は政治家の行為であって、国家の不可侵性を盾に免除されるものではない、個人の義務という考え方を重視し、新しい国際システムの中心に「根源的な人権」と「根源的な人間としての義務」を置く革新的なものとなった
ラウターパクトは、親族の一人と連絡がつき、家族全員が死亡したことを知る
フランクは、彼の精神と魂の健康状態を監視する役目を負った米国陸軍の心理学者と打ち解けて話をしていたが、盛んに二重人格を主張、縛り首から逃れようとしていた
被告人各人が焦点となった時、トレブリンカの生存者が証言に立つ ⇒ トレブリンカはレオンの母親が殺されたところだったが、レオン後その事実を知ったのは晩年のこと
463月からゲーリングを筆頭に被告人弁論が始まり、4人目にフランクが立ち、直前にアウシュヴィッツ所長だったヘスが証人として淡々と虐殺の模様を語ったことを受けて、初めて残虐行為の全貌を認識したと話し、ドイツの罪は1000年経っても消えないが、自らは関わっていないものの全貌を知った以上自分より下位の者がやったことの責任は負わなくてはならないと被告人の中で唯一責任を認めて、裁判官に自らの誠実さを訴えようとしたが、仲間からは軽蔑された

第9部        思いださないことに決めた少女
レオンは家族のことについて一切話をしなかったが、姉の次女()92歳でテルアビブで元気にしていることが分かって、その息子と一緒に会いに行ったが、著者が知る限りの当時の話をしても、すべてを忘れた分けではないが思い出さないことに決めたと言われる
子どもの頃の写真を見せると、特にレオンのことはやさしお兄さんとしてよく覚えていた

第10部     判決
ラウターパクトは、体調を崩していたが、現実主義と原則の葛藤を考察、長い目で見た場合は、「法原則」の遵守がより重要で優先されるべきと結論付けた。親族で唯一生き残った女性をイギリスに引き取ったあとニュルンベルク裁判に戻る英国法律家チームに入って裁判官を説得するための論理を整理する ⇒ 「人道に対する罪」は、「人間の権利」を守るため、「彼が属する国の残虐行為と破壊行為」から保護するための出発点であり、そのような行為は仮にドイツの法律が許容していたとしても違法とし、国家のために行為した者は何らかの形で刑事責任から免除されるというのはもはや通用しない時代遅れの考え方と切って捨てた
レムキンは、ジェノサイドの復活を期して裁判関係者とのコンタクトを熱心にとり続けた結果、ようやくケンプナーという米国の検察官が取り上げる ⇒ アメリカは先住民や黒人問題があり英国には植民地支配という問題があるので、ジェノサイドが人種差別ととられることを懸念、またある集団を破壊しようとする意図を実際にどうやって証明するかという困難性等から否定的だった
さらに、ノイラートの反対尋問でイギリスの検察官ファイフが、レムキンの著書とジェノサイドに言及したことにより、戦争中の行為が問われる人道に対する罪という概念とは違い、ジェノサイドによる訴追は、戦争勃発以前に起きた行為を含むすべての行為が対象になる可能性をもたらした。他の被告もレムキンがいろいろ手をまわした結果ジェノサイドへの反発という形でクローズアップされた
さらに、イギリスの検察官も、ラウターパクトの原稿になかった言葉が、ナチスの広範な目的としてのジェノサイドが何度も繰り返し意表を突いて出てくる。ジプシーやポーランド、ユダヤ人のみならず、ユーゴでも、アルザス、オランダ、ノルウェーで様々に異なったやり方でジェノサイドが遂行されたと追及し、さらには計画的な集団の虐殺で終わる提携パターンを描いてみせる。その上で、問題とされている行為はすべて大半の国内法ですでに犯罪とされているので、ドイツ法で合法とされていても、国際社会を害するものであり国際法に対する犯罪として処罰の対象となる。被告が主張する、国際法上「個人ではなく国家のみ」が犯罪を犯す(ママ)というという言い分に対し、国際法にそのような原則はなく、国家が人道に対する罪を犯した場合、それを助けた個人は責任から逃れることはできないとした
フランスの検察官もジェノサイドの有罪判決を求める
ソ連もジェノサイドを試みた連中を極刑に処する権利が我々に与えられていると言明
検察官による論告求刑では、被告人全員に死刑を求め、裁判官の審理へと移る
19468月、由緒ある国際法協会(創設1873)の定例会議開催の冒頭、レムキンはジェノサイドが国際犯罪であり、それに関与した者は犯罪者として扱われるべきと訴えるが、聴衆の反応は冷ややかだった
被告人の最後の陳述で、ローゼンベルクは、ジェノサイドを罪として認めるが、それはドイツ人という集団を守るためだったと言い、彼自身はその罪を負うものではないと主張
フランクも、一集団の他集団に対する対峙という図式を描いて、ロシアほか他の国々もドイツに対して同じ様な凄惨な犯罪を犯したことが本裁判では考慮されていないとしてドイツの罪は戦時中の敵による我が国と我が兵士に対する行為によって帳消しにされたと主張
判決は930日と101日に渡って言い渡された ⇒ 初日は全般的な事実確認と規範定立のみ。453件の公開審問、94人の証人(うち検察側33人、被告人側61)
ナチスの指導者層、ゲシュタポ、公安局、親衛隊とその指揮下にあった50万の人員と共にすべて有責と認められる一方、ナチス突撃隊、帝国閣僚、ドイツ国防軍の参謀本部と最高司令部は司法的妥協の結果追及を免れる
「人道に対する罪」に対する罪は判決の中心部を占め、史上初めて国際法の確立した一部として認知される。殺人、虐待、略奪、奴隷労働、迫害全てが国際的な犯罪のレベルに引き上げられた
抽象的な団体ではなく個人によってなされた国際犯罪を犯した個人を罰することによってのみ国際法の規定が実施される。個人には、「国家によって強制される服従という国民的義務をしのぐ」国際的義務がある
ジェノサイドに対する言及はなく、人道に対する罪は「;」が「、」に訂正されたために戦争状態を前提とし、したがってそれを構成する行為は、399月の開戦以降に成された行為のみとされた ⇒ 戦前にも大規模な犯罪行為が行われたのは明白だったが裁判官は無力と認める以外なかった
2日目は21人の被告についてそれぞれ有罪・無罪が宣言される ⇒ ローレンスがゲーリングを始め5人の被告人に有罪を、続くにキチェンコがローゼンベルクに、人種政策の目的を述べたことには評価の価値がないとして有罪
フランクへの判決は美ドルが言い渡し、訴因1侵略戦争の謀議への加担は証拠不存在で免除、訴因3の戦争犯罪と4の人道に対する罪では自己の統治領域内で行われた残虐行為によって国家体制としてのポーランドの破壊に加担したとして有罪
無罪は3名で、ライヒスバンクの元総裁シャハト、18か月間ヒトラーの副首相だったは戦争の侵略計画をあらかじめ知っていったとは立証されず、ゲッペルスの宣伝局にいたフリッチェはドイツ国民を残虐行為に走らせようと計画した旨の証拠不存在でそれぞれ無罪
午後から、一人一人が順に入廷し判決を言い渡される。刑の宣告の場は被告人たちの尊厳を守るために撮影されない ⇒ 最初の6人のうち終身刑となったヘスを除く5人が死刑
続くフランクも死刑(通訳は「ロープによる死」) ⇒ ビドルの同僚のドヌデューは最後まで死刑に反対していたが押し切られた。かれは、戦前にフランクと直接の面識があり、それゆえ当初からソ連に任官を反対されていた
12人が死刑、ローマ法王がフランクの恩赦を願い出たが拒否
1016日ゲーリングが最初の処刑とのスクープがあったが誤報で、彼は処刑予定の時間前に自殺。同日、リッペントロップから順に処刑、フランクは5番目。処刑場は裁判所の体育館に設置
フランクの末っ子二クラスは、法廷で部分的に罪を認めたときの父親に真の誠意がなかったことには疑義を抱かず、絞首刑も当然と考えていた。個人的には死刑に反対だが、「父親のケースを除いて」と言う。処刑前夜に弁護士宛に書いた手紙には「私は犯罪者ではありません」とあり、法廷で告白した全てを撤回していたことを息子は疎ましげに話した。「彼が死んだことを忘れないために、確認するために」、常に父親の死直後の写真を持ち歩く

エピローグ ~ 森へ
裁判は様々な影響をもたらす
4612月の国連総会の議題に出された、新世界秩序を守るための決議草案に裁判に関連して2つの決議が上がる ⇒ 決議95ではラウターパクトの考えを支持し、新世界秩序の中で個人の位置づけを明確にすることを決定。国際人権章典に至る道筋の準備を期し、ニュルンベルク憲章で認められた国際法の諸原則が国際法の一部をなすことを確認した
決議96ではジェノサイドが「全人間集団の存在の権利」を否定するものと特筆し、国際法上の犯罪であると確認
レムキンは、裁判では人生中「最悪の暗黒日」を味わったが、立ち直ってジェノサイドに関する条約案を準備し、4812月の「集団殺害罪(ジェノサイド)の防止及び処罰に関する条約」の採択に貢献 ⇒ 現代に入り最初の人権関連条約であり、レムキンは晩年を各国に参加を促す交渉に費やし、59年心臓発作で死去。それまでに仏ソが批准、英国は70年、米国は88年に批准
ラウターパクトの著作『国際人権章典』は4812月国連で採択された「世界人権宣言」に影響を与えるが、人権宣言に強制力がないことに失望 ⇒ 50年の欧州人権条約で実現
55年ラウターパクトは、ハーグの国際司法裁判所の英国代表判事に選出されるが、任期途中の60年死去 ⇒ 生え抜きの英国人とは見做せないという反対があった
98年国際刑事裁判所ICC創設 ⇒ 国際犯罪の処罰についてのコンセンサスが得られずに難航していたが、ルワンダと旧ユーゴでの残虐行為が引き金になって150以上の国の合意で50年後にようやく実現。「国際的な犯罪について責任を有する者に対して刑事裁判権を行使することがすべての国家の責務である」との前文を規定し、国際法の下で国家がそうした義務を認めた最初のケースとなる
ICC創設の2か月後、タンザニアに設置されたルワンダ国際刑事裁判所で、アカイェスがジェノサイドの罪で有罪判決を受けた最初
次いでロンドン貴族院が、ピノチェットの問われている拷問が人道に対する罪であるがゆえに、英国法廷の裁判権からの免除を主張できないとした ⇒ 国内法廷がこのような判断を下した最初の例
99年ミロシェヴィッチは、コソボにおける犯罪容疑を理由に人道に対する罪で起訴された最初の現役国家元首で、01年辞任後にはボスニア等での残虐行為に関連するジェノサイドの罪も付加
07年にはアメリカの地裁が、カリモンから米国籍を剥奪 ⇒ 42年ウクライナ補助警察のメンバーとしてユダヤ人の大量検挙に参加していたから。一般市民の迫害を幇助
07年国際司法裁判所が、セルビアはスプレニツァでの集団殺害を阻止せず、ボスニア・ヘルツェゴビナに対する保護義務に違反したと認定 ⇒ 国家がジェノサイド条約違反を理由に国際裁判所に糾弾された最初の事例
10年スーダンのアル=バシール大統領がICCでジェノサイドで起訴された最初の現役国家元首
12年リベリアのテイラー大統領が、人道に対する罪で有罪となる初めての国家元首で、50年の拘禁刑
ラウターパクトとレムキンを突き動かした考え方は、それぞれ異なった軌跡を描きながら発展 ⇒ ジェノサイドが「犯罪の中の犯罪」として、集団の保護の方が個人の保護より上位に位置付けられるようになり、人道に対する罪の犠牲者はジェノサイドの犠牲者に比べたらまだましというような犠牲者の比較を招いた
ジェノサイドという犯罪の立証の難しさとともに、集団全体または一部を破壊する意図の証明の必要性が不幸な心理的結果を招く ⇒ 犠牲者集団の連帯意識が強烈なものとなる一方で、加害者集団に対する否定的感情が高まり、本来その解決を目的としていた悪しき状況が無意識のうちに生じてしまい、和解はますます難しくなる。ジェノサイドの犠牲者というレッテルを貼ってもらいたがる被害者の強い望みの前に検察がプレッシャーを感じて起訴へ傾きがちになる
人間性の基本的要素とは、「どこかの集団に属したくてたまらず、属したあとは自分たちは競合する他集団よりも優れていると思い込む」ことらしい
ジェノサイドという犯罪概念は、それが糾弾し改善しようとする状況そのものを生み出してしまいかねない危険性を孕む

登場人物のその後:
ティルニーは、74年フロリダで死去。13年「諸国民の中の正義の人」に認定 ⇒ ホロコーストからユダヤ人を救った人への称号
ヴェヒターは、戦後姿をくらましたが、ヴァチカンに匿われ、49年映画にエキストラ出演の後不可解な状況で死去。ポーランド政府からルヴフにおける大量虐殺の罪で有罪判決を受けて逃走中だった。息子は父親を善人だと信じ込んでいる
二クラスは、一流のジャーナリストになり、シュテルン誌の外信部長 ⇒ 14年に著者はニクラスとヴェヒターの息子と3人でジュウキエフを訪問、親友の映画監督による『What Our Fathers Did: My Nazi Legacy』という映画の撮影のためだったが、途中ヴェヒターが創設した武装親衛隊の戦死者顕彰式典に臨み、主催者の過激なウクライナのグループがいまだに親衛隊を崇拝してその制服を着ていたが、ヴェヒターの息子は気にも留めず今が最高の時だと言って満足していた
レオン夫妻はパリで晩年を過ごしたが、ルースはイギリス人と結婚してイギリスへ、その長男が著者。ケンブリッジではラウターパクトの息子の国際法の講義をとるが、我々の関係を知ったのは30年後、リヴィウからの招待状がなければこの偶然に気付かなかった
現在のリヴィウは、当時の住民は掻き消え、ウクライナ人が支配勢力として立ち現れたが、消えた者たちの名残はまだそこかしこにある
ラウターパクトとレムキン、2人に共通しているのは、善をなし、人々を守る法の力に対する楽観的な信頼と、そうした目的を達成するためならば法の変更も必要だという意識。2人とも、個人の命の価値と、その個人がコミュニティの一員であることの大切さには同意する。彼らが根本的に意見を異にするのは、こうした価値を守るためにはどのような方法が最も効果的かという1点。個人に焦点を当てるべきか、集団に焦点を当てた方がいいのか ⇒ 著者は学問的な曖昧域にいて、どちらにも価値を見出している


訳者あとがき
この作品の駆動力は「偶然」 ⇒ 中でも、10年のウクライナの大学からの講演要請と、34年のポーランドによるマイノリティ保護条約の破棄(著者の母親が生まれる契機)
歴史書と著者自らの家族の話が混在 ⇒ 国際法の優れた啓蒙書であると同時に、著者そのもののパーソナルな記録であり、「自分は誰なのかという探求」と著者も本書で書きたかったことをと問われて答えている
著者は、人権関連問題に軸足を置き、何よりも個人の人権を、人種等を括りとした集団の殲滅よりも個々人の殺戮を重大視する、個人重視の立場で、ラウターパクトを支持
ハンナ・アーレントが、アイヒマンは組織に盲従しただけの殺人装置の歯車とした考え方を拒否、彼こそ誇り高い狡猾なナチ高官で熱狂的な「最終解決」の支持者だったとする
組織の背後に隠れて責任を逃れようとする者を糾弾する姿勢は本書のそこかしこに読み取れ、命令に従っただけという弁明を許さぬ著者は、個人の責任を断固追及する一方、それゆえに個人の人権を絶対尊重する
人権は、人種や文化的背景などとは無関係だと強調する著者は、世界の一部、一部の民族、社会の一部が特権を得る状態を嫌悪し、「我々」と「彼ら」という分断を危険視する
こうした立場から、英国のEU離脱に愕然とし、社会の分断に力を得たトランプ政権を非難し、国際法学者として米英両国の現象を懸念





(著者に会いたい)『ニュルンベルク合流』 フィリップ・サンズさん
2018.6.9. 朝日
 家族の原点と国際法の歴史探る フィリップ・サンズさん(57歳)
 「この本は偶然の産物なのです。始まりは、なじみのない国からの一通の招待状でした」
 発信元は、ウクライナのリビウ大学。国際人権法の専門家でロンドン大教授でもあるサンズ氏に講演を依頼する手紙だった。リビウという地名にひかれた。亡くなった祖父レオンの故郷だったからだ。
 「祖父は自分の人生の最初の41年間について一切話をしませんでした」。ユダヤ人だった祖父の前半生に何があったのか。謎解きが始まった。
 祖父が生まれた1904年にオーストリア・ハンガリー帝国内の古都だったリビウは、ウクライナ、ポーランド、ユダヤの三つの民族が交わる地であり、歴史の激流にもまれ続けた。
 驚いたことにリビウは祖父の故郷というだけではなかった。国際法の重要な概念である「ジェノサイド(集団殺害)」と「人道に対する罪」を考えついた2人のユダヤ系法学者もまたこの地で学んでいたのだった。
 「家族の原点を探す旅が、『ジェノサイド』と『人道に対する罪』の起源を求める旅に重なりました。彼らが国際正義を求める理論を打ち出した背景には、多民族がぶつかり合うリビウでの原体験があったのです」
 そしてすべては、ナチスドイツの戦争指導者を裁いたニュルンベルク裁判へと流れ込む。
 そこにはもうひとり重要な人物がいた。ナチスの幹部、戦争中のポーランド総督フランクである。フランクはポーランドに残っていたユダヤ人の抹殺を命じた。祖父の家族も2人の法学者の家族も犠牲になった。
 フランクはニュルンベルク裁判で絞首刑になる。サンズ氏は取材の過程で息子にも会った。
 「彼は、『私はあらゆる死刑に反対です。ただし父の場合をのぞいて。父は死に値します』と語り、ポケットから一枚の写真を取り出しました」
 その写真が本の終わりに掲載されている。読者は、そこで息をのむことだろう。
 国際法の歴史を語りながら家族のドラマを描くこの異色のノンフィクションで、英ベイリー・ギフォード賞などを受賞。著者は今年1月、イングランド・ペンクラブ会長に就任した。
 (編集委員・三浦俊章)
 (園部哲訳、白水社・5616円)
     *
 『ニュルンベルク合流 「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の起源』





コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.