ロンドン大火  大橋竜太  2018.8.21.


2018.8.21.  ロンドン大火 歴史都市の再建

著者 大橋竜太 1964年福島県生まれ。88年都立大工学部建築学科卒。90年同大大学院工学研究科建築学専攻修士課程修了。95年東大大学院工学研究科建築学専攻博士課程修了。博士(工学)。その間ロンドン大コートォールド美術学校に留学。95年東大大学院助手。97年東京家政学院大家政学部住居学科講師、助教授、準教授を経て、10年より現代生活学部現代家政学科教授

発行日           2017.8.21.. 第1
発行所           原書房

プロローグ
大都市の大火としては、64年の古代ローマ大火、1842年のハンブルク、1871年のシカゴ、1657年の明暦の大火(振袖火事)など
火災以外にも地震や津波による被害もあり、人類は幾度となく自然災害に苦しめられて来たが、その都度都市を再建し、発展を遂げてきた
古代ローマではネロが市内にコンクリート造りの黄金宮など新しいタイプの建築物を建設
シカゴでは鉄骨造りの高層建築が建てられ、後のスカイスクレーパー建築による高層都市の先駆けとなる
明暦の大火の後は都市改造が実施され、大名屋敷や寺社が換地など整理され、市街が拡大する一方、防火対策としても火除地の設置や延焼防止のための広小路が設けられた
ロンドン大火と明暦大火は類似点が多い ⇒ 同時期、国の首都がこれから発展しようかという時期に発生、無計画に発展してきたために防火上の弱点が多数存在、防火対策が第一に考えられ、新たなまちづくりのために建築規制を実施、鎮火直後の犯人探しなど災害の後に発生した大衆心理に基づいた行動なども類似
本書で扱うのは、都市計画に焦点を当てたロンドン大火後の再建だが、それに影響を与えた要因として、都市計画以外の様々な分野の近代化も明らかになる。それは社会の近代化であり、建築を中心とした建設業者や職人の近代化である。保険制度や自衛消防隊の誕生など、周辺環境の整備にもつながる
「近代的手法」といった観点を中心に、ロンドン大火後の再建の歴史的、また、建築史上の意義に関して考察

第1章        ロンドン炎上
1666.9.2.未明、ロンドン・ブリッジ袂のパン屋から出火、4日間燃え続け436エイカー、市内の建物の85%が灰燼に帰し、13,200戸、87棟の教区教会堂、44の同業者組合のホールやギルドホール、セントポール大寺院、王立取引所、カスタムハウスなど市内主要建築が消失、約20万人が焼け出される未曾有の被害
1666年は不気味な年 ⇒ キリスト教で666は不吉なイメージが伴う「獣の数字」とされ、ヨハネの黙示録にその元がある
当時英国文学界の巨匠ジョン・ドライデンは、後にこの年に起こったこの大火と深刻化した第2次英蘭戦争といった大事件を描いた叙事詩を『アヌス・ミラビリス』というタイトルで発表したので、1666年はアヌス・ミラビリス(驚異の年)呼ばれるようになる
1665年はペスト大流行(The Great Praig of London)で、ロンドンの人口の15%が死去
66年は、政情が最も不安定な時期で、国王チャールズ2世と議会が対立、第2次英蘭戦争の真っ只中で戦費捻出に四苦八苦
大火時の市民の臨場感が伝わる資料としてはイーヴリンとピープスの日記がある
ジョン・イーヴリン(16201706)は、2世お気に入りの学者、造園に関する本を書いたり、大気汚染など都市環境に強い関心を持ち、石炭の使用によってもたらされたロンドンの環境悪化防止策を研究。自宅が焼失を免れた所から、客観的に大火を描写
サミュエル・ピープス(16331703)は、火元近くに住んでいたが、風上だったために難を逃れる。苦学して海軍のトップに上り詰め、国会議員に。6069年の詳細な日記によって後世にその名が知られるようになった。市民が実際現場で見た大火の様子を語る
当初大したことはなかったが、テームズ河岸に沿って並ぶ倉庫群に達したところで、大量の可燃物に引火、炎は急速に巨大化
死者数に関しては不可思議なデータしか残っていない。8人という報告もあるが不詳

第2章        大火の原因と都市の問題点
原因究明では、放火説が最有力で、犯人探しが始まる ⇒ スケープゴートは外国人やカトリック教徒。英蘭戦争でオランダに味方したフランス人も標的となり拘束者も出た
8日にようやく公式見解が出る ⇒ 主な原因は強風等の自然条件だったことを強調。外国人による陰謀説を明確に否定し、至る所で発生した暴徒の騒ぎを抑えようとした
ロンドン再建法に基づき、記念塔を建設し未来永劫伝えていくことを定める ⇒ 1677年に建設された「ザ・モニュメント」には、大火に対する見解が碑文として記載されているが、1681年カトリック教徒の陰謀説が刻み込まれたため、その後もこの問題を巡ってその文言が削られたり刻み直されたりしている
冷静に大火の原因を分析できるようになったのは、復興が完全に終わった18世紀で、『サーヴェイ・オブ・ロンドン』ではロンドン大火の原因に関し以下のような悪条件を挙げる
1.    出火時刻が寝静まった深夜
2.    土曜の夜だったため、上層階級は田園地方に行っていて使用人しか残っていなかった
3.    出火元は、狭い道路で消火活動が困難、延焼が容易
4.    家屋が木造で、古い家が多かった
5.    乾燥した時期で、引火しやすい状態にあった
6.    倉庫内には可燃物が多かった
7.    強い乾燥した東風が数日間も吹き続けた
8.    シティにテムズ河の水を供給していたロンドン・ブリッジ北端の給水機が火災で故障
9.    初期消火の機会を逸し、火勢を止める機会を何度も逸するなどの過ちを犯した
火災は頻発、都度予防措置が増強されていた

第3章        再建へ向けて
中世のロンドンは成長著しく、人口はうなぎ上りに増大、1100年には1518千程度だったが、1300年には810万まで成長。人口密度が上昇、その弊害も顕著。その1つが14世紀半ばに発生したペストの流行。ロンドンで最初に大流行したのは1348年、シティの人口の2/3が死亡したと言われる。ペストは1374年にも流行
自治都市ロンドン(シティ)は、市壁内に限ったコミュニティであり、その特権も市壁内に限られたもの
経済発展に伴い、人口増大が進み、1600年には20に達する
その頃には、市壁外のウェストミンスターに行政機関が集中、その重要性が増し、周辺部を含めた人口は40万に達した
市壁内の人口は1640年にピークを打ち、135千以降は下降を辿るが、過密状態からくる都市衛生の悪化が原因とされる1665年のペストの大流行でさらに人口の約15%が失われ、大火直前の人口は9万位
同時に無秩序の拡大に歯止めをかけようと、エリザベス女王は1580年の布告で、シティ市壁内と市門3マイル以内では新築禁止したが、逆に市内壁の過密化が進む結果に
1571年グレシャムの尽力により王立取引所がシティの中心部コーンヒルに設立され、経済の中心地であるシティを特徴づける建築が完成し、ロンドン港は北海において重要性を増し、国内外から人々が来航。ステュアート朝に入ると王政の安定が脅かされ、内戦期に入り、1660年王政復古なるも不安定
ロンドンの再建に当たっては、大火以前の都市の問題点の解決が最大目的 ⇒ 建築規制と防火のための条例の検討
1189年ロンドン最初の建築規制 ⇒ 隣地間の係争を防ぐための境界壁関するもの
13世紀には茅葺禁止、軒の高さの規制
17世紀に新たな問題として大気汚染が深刻化 ⇒ 対策を主張したのがイーヴリンで、「フミフギウム(煤煙)」の規制を提唱
他に、街灯、下水、ゴミ収集、悪臭とぬかるみの道路 ⇒ ハイヒールと香水の発達
科学的思考が不可欠 ⇒ 17世紀に発達した実験科学に基づく実学の推進により、ロンドン再建に当たっても科学的思考法が影響していた面が大きい

第4章        都市再建への希望
理想の都市像を探る ⇒ 国王チャールズ2世が大陸で流行していたバロック風の壮大な都市建設を目指す。ローマの都市改造やヴェルサイユの理想都市建設の影響を受ける
最初に出された案がクリストファー・レン(16321723)によるもの ⇒ フランス留学から帰国したばかりの新鋭建築家、枢密院の再建委員会の一員となって活躍
都市問題是正の第1歩は、安全で衛生的な都市としての再生であり、インフラの整備、なかでもテムズ河の護岸の整備=水路の整備、次いで街路の整備
市民が最も重要だと考えた商業の再開のためには、市壁内の特権を維持した自治都市ロンドンの再生
再建の第1条件は、ロンドンの既存の社会システムの維持しつつ、都市問題を改善することが求められ、旧市壁内は「シティ」として特別な地位を保ち続け、歴史と伝統を守ったコミュニティとして再興、市壁外は新しい方法で開発が進められ、これら住宅地もロンドンの都市施設の特徴となる

第5章        再建の始動
イニシアチブをとったのは国王 ⇒ 市長に書簡を送り、シティの統治維持を要請
まずはマーケット(市場)の存続と、仮住まいの提供による商売の再開支援が行われ、市壁内に土地を提供して商売を行うための仮設小屋の建設を許可
次いで、被害の全容把握のための実測調査し、不燃都市の実現を目標に、市内では石造りもしくは煉瓦造りに限定、道幅の確保等の規制ができる
向こう7年間の暖炉税の免除も注目に値 ⇒ 市民の税負担の軽減
枢密院に再建勅命委員3名を選出
1666/7年ロンドン大火紛争法制定 ⇒ 火災後の市民の紛争を解決するための法律で、「火災法廷」を設置し個別に焼け出された人々の権利の主張の調整に当たる。通常リースホールダーが家屋修復の義務を負うが、大火による被害を地主(または家主)とリースホールダーで公平に分担することとし、現実の負担能力を前提とした解決をはかる
もう一つが、1666/7年ロンドン再建法 ⇒ 再建のための建築制限と資金確保のための税制に関する法律で、近代的な建築規制を定めた最初の法律であると同時に、石炭税を新設して資金を確保
再建資金の総額は、インフラと公共建築の再建だけで10万ポンドと、大火直前のシティの年平均収入の7倍と予想されたが、国会は国庫の利用を拒否、ロンドン市は独自で市内に持ち込まれる石炭に課税。年平均45千ポンドを20年間確保、結果的には約73万ポンド徴収、うちシティでは38万ポンドが再建に充当
ロンドンの新しい都市計画が決定するまで、建築行為はすべてストップ、再建の手法等が検討されるのと並行して、他の公共サービスは場所を確保して業務を再開。5か月後には新法が成立し、翌月には最初の杭打ち実施。土地の収用が優先されインフラ整備に活用される。1677年復興のシンボルとして建設されたザ・モニュメントが完成し、復興が完了

第6章        ロンドン再建を建築史から考える
世界初とも言える画期的な建築規制の実施 ⇒ 最大の目的は都市の不燃化であり、個々の建築を規制すると同時に道路幅の規制を行う
全ての街路を「主要道路」「道路」「重要な路地」「路地」に分類、街路に面して建てる家屋の屋根を一様にするとともに、煉瓦又は石造りに限定、街路毎に階数や天井高を制限
7年後には、ほとんどの公共建築、民間建築の再建が完了
後回しになっていた教会堂の建築は、生活の復旧と共に信仰のシンボルとして再建が熱望されたが、70年ロンドン再建追加法の制定により、既存109の教区を51に統廃合し、石炭税を活用して再建が進められた ⇒ 設計は全てレンが担当
再建の功績ではレンが突出しているが、ロバート・フック(16351703)の活躍も顕著で、サーベイヤーとして市内の土地を測量し、土地の所有権確定に貢献したほか、科学者としても「毛細管現象」の原因の解明や「フックの法則」として知られる弾性の法則の発明者。実験科学をベースとするフックが理論科学にシフトしていったニュートンの発明を強烈に批判したために仲違いしたのは有名な話で、フックの死後ニュートンがロイヤル・ソサイアティの会長になり、フックの業績を抹殺したため、資料が残っていない

第7章        都市開発手法の新機軸
ロンドン再建に用いられた手法と科学的思考の影響 ⇒ 実学を目指した科学が再建にもさまざまな知識や経験が役立てられているが、レンやフックも科学的発想で建築に取り組んだが、次第に科学はニュートンの登場とともに理論科学にシフト、他方建築界では新古典主義建築が台頭し、過去の建築に正当性を求めるようになる ⇒ 建築様式リヴァイヴァリズムとなり、「建築」と一般の「建物」が区別され、「建築」は芸術の1分野として扱い、「建物」を扱う建築科学は下火になる。建築の機能性を追求することを建築科学の一環として捉えるとすると、モダニズム建築は建築科学の産物で、ロンドン再建では、モダニズム建築誕生の200年以上前に、近代的な発想が建築界にもたらされたといえよう
大火による再建は、市壁内のみを自治都市と限定し、市壁外の商人を排他的に扱ったが、18世紀に入るとロンドンの都市機能の変化により、ウェストミンスターでの宮廷文化の発展とともに、貴族やその従者たちもロンドンに住まいを求めるようになるが、市壁内の特権を必要としなかったところから、より清潔で美しい住宅をロンドンとウェストミンスターの間に構えるようになる ⇒ もともと宗教革命によって修道院から王室経由で貴族の所有となったものがほとんどで、貴族たちが王室に勅許料を払って開発を認められたが、その際住宅建設に用いられた手法がテラス・ハウスという、34層の石造又は煉瓦造、敷地境界線に接して建てられる縦割りの集合住宅で、起源は1630年代のコヴェント・ガーデン・ピアツッァ
貴族以外にも投機目的で集合住宅を開発するディヴェロッパーが登場、なかでも著名なのがホルボーンの開発をしたニコラス・バーボン(1640頃~1698) ⇒ 火災保険とセットでテラス・ハウス(=集合住宅)を販売して成功
海上保険の原理を建物の火災に応用したのが火災保険で、ロンドン大火後に急速に普及したが、考え方自体は1635年にもあった
ロンドン再建における近代化に向けたイノヴェ-ションは以下の4
    住民合意の都市計画 ⇒ 支配者の理想像の実現ではなく、住民の意思が尊重された
    法律による都市計画手続きの厳格化 ⇒ 社会科学の成果の一端
    科学手法に基づく都市コントロール ⇒ 都市の不燃化のための施策
    都市財産を守るための諸制度の確立 ⇒ 火災保険

エピローグ
再建の最も顕著な特徴の1つは、市民の力で成し遂げたこと ⇒ 公的資金が用いられたのは、一部の公共建築と教会堂のみ
ロンドンの自治都市としての存在を死守することが最優先事項という市民のプライドがものを言い、再建のリーダーシップを市民がとった
自治都市としての社会基盤を守り、都市構造も基本的に維持したという保守的な側面と、建築規制による不燃化という革新部分のバランスこそが、英国的手法
ロンドンの再建では、近代的手法をいち早く導入した点が最大の特徴 ⇒ 社会の近代化に先駆けて建築や都市の近代化が起こる。建築の近代化をモダニズム建築の誕生と見做すのであれば、200年以上も早い近代化だったと言える





ロンドン大火 大橋竜太著 社会変えた最大の都市災害
2017/10/21付 日本経済新聞 朝刊
 この何日か、米カリフォルニア州の北部で多数の犠牲者を出している原野火災に眼(め)を向けているうちに、私は大橋竜太氏の『ロンドン大火 歴史都市の再建』を手に取ることになってしまった――この本は、一六六六年にロンドンを襲ってとてつもない被害をもたらした大火のすさまじさと、そこからの立ち直りを、第一級の歴史的史料を読み込んで、明らかにしようとしたものである。
https://www.nikkei.com/content/pic/20171021/96959999889DE0E0E7E2E0EAE1E2E0E2E3E2E0E2E3E59F8BE5E2E2E2-DSKKZO2250284020102017MY7000-PN1-1.jpg
 「ロンドン大火は、世界史上、最大規模の大災害であり、その損害ははかりしれない」という書き出しのすぐあとには、「一九〇六年四月一八日のサンフランシスコ地震にともなう大火は……約三〇〇〇人の死者を出す」とある。もっともこの本は単純な被災史といったようなものではない。
 著者は数多くの一次史料にあたって、ロンドンの建築の歴史を適確(てきかく)に説明し、一六六六年の九月の初めの四日間の火災で、ロンドン市内の建物の約八五パーセントが灰燼(かいじん)に帰したことを明らかにする。そして、それに対する科学者や文人の反応を説明してみせる。更(さら)に、イギリスにおける火災保険の成立についても。
 ともかく、オランダやフランスと対立状態にあった当時のイギリスの諸々(もろもろ)の活動に、政治から自然科学にいたる諸々の行動に眼を向けていくのである。例えば、その中には石炭問題と呼べるものもあった。「市内で使用される石炭に対して税金を掛ければ、かなりの資金が確保できる」と考えられたのである。
 ともかくロンドン大火のあとにとられた諸々の政策については、実に丹念に説明されていて、実に刺激的な力をもっていると断言するしかない。そして、もうひとつ強い印象を与えるものがある。それは、絵図だ――例えば、セント・ポール大聖堂の建替案を提示する図。ベドラム病院の図。ザ・モニュメントの図。ブルームズベリーの図。ロンドンの各地域を描いた図。ロンドン市内の約八五パーセントを焼きつくした大火の図。W・モーガンの手になるロンドンのパノラマの一部分――これには唖然(あぜん)としてしまうしかない。見事である。これらの絵図の中には、間違いなく、単なる絵図とは違う都市があるのだ。
(原書房・2800円)
 おおはし・りゅうた 64年福島県生まれ。東大院修了。東京家政学院大教授。著書に『英国の建築保存と都市再生』など。
《評》立正大学教授
富山 太佳夫


Wikipedia
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b6/Great_Fire_London.jpg/250px-Great_Fire_London.jpg
炎に包まれたロンドン ロンドン橋(左)、ロンドン塔(右)遠くに見えるのがセント・ポール大聖堂
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c3/GreatFireOfLondon1666_VictorianEngravingAfterVisscher300dpi.jpg/250px-GreatFireOfLondon1666_VictorianEngravingAfterVisscher300dpi.jpg
対岸のSouthwark方面から ロバート・チャプマン著の"Book of Days"より
ロンドン大火(The Great Fire of London)とは1666ロンドンで起こった大火のこと。これによって中世都市ロンドンは焼失し、木造建築の禁止などからなる建築規制やセント・ポール大聖堂をはじめとする教会堂の復興が行われた。
概要[編集]
92日の午前1時過ぎに、パン屋かまどから出火して4日間にわたって燃え続け[1]、ロンドン市内の家屋のおよそ85%13200戸)が焼失した。意外にも死者は少なく、記録されているのは5名だったが、市民は燃え広がる火を前になすすべもなかった。このように燃え広がった原因は大火以前のロンドン市内では家屋のほとんどが木造であり、街路も狭かったためである。
復興[編集]
建築家クリストファー・レンジョン・イーヴリンは大火後直ちに壮大な都市計画を構想したが、大地主などの反対にあい実現しなかった[2](ただし、実際は反対はなく、そもそも検討すらされていなかったという説もある[3])。しかし、レンの尽力によって1667年には「再建法」が制定される。家屋は全て煉瓦造または石造とされ、木造建築は禁止、また道路の幅員についても規定された。ロンドンの復興にはノルウェーの木材が輸入され使用された。
地下鉄モニュメント駅近くにはロンドン大火記念塔英語版)がある。高さ62メートルでこの高さは塔から大火が始まった地点までの距離と同じである[1]。復興を記念してレンとフックの設計により1677年に建てられた。
影響[編集]
当時ロンドンでペストが流行していたが、この大火によって多くの菌が死滅し、感染者低減の一因になったとする説もある。
さらに世界初の火災保険もロンドンで生まれることになった(1681年)。
その他[編集]
1666年をアヌス・ミラビリス(驚異の年、ラテン語Annus Mirabilis)と呼ぶことがある。前年からのペストの流行に加えて、第2英蘭戦争のノースフォアランド沖の海戦(6月)、ロンドン大火と大きな事件が続いたためで、ジョン・ドライデンの叙事詩「驚異の年」に基づく。(同じ頃、ペストによりケンブリッジ大学が閉鎖されたため、ニュートンは故郷に戻り、微積分法、万有引力の法則などの研究を進めた。これによって「驚異の年」と呼ぶこともある)
ロンドンの都市を大きく変えたこの大火を、日本では「世界の三大大火」の一つなどと数えることがある(後の2つはローマ大火64年)、明暦の大火1657年)あるいはハンブルク大火1842年)、シカゴ大火1871年)、サンフランシスコ地震に伴う大火(1906年)などが挙げられる)
脚注[編集]
^ a b 中村久司 『観光コースでないロンドン イギリス2000年の歴史を歩く』 高文研2014年、124頁。ISBN 978-4-87498-548-9
^ この他にもロバート・フックなどが都市計画案を提案している。ロンドンのギルドホール博物館には、これらを含めて5つの都市計画案が所蔵されている。
^ 『ロンドン=炎が生んだ世界都市:大火・ペスト・反カソリック』(講談社1999 見市雅俊)によると、王権側は興味を示したが議会では議論された記録が見つかっていない。
参考文献[編集]
『ロンドン=炎が生んだ世界都市:大火・ペスト・反カソリック』(講談社1999 見市雅俊



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