巡り逢う才能 音楽家たちの1853年  Hugh Macdonald  2018.9.1.


2018.9.1. 巡り逢う才能 音楽家たちの1853
Music in 1853 The Biography of a Year     2012
                                                                   
著者 Hugh Macdonald 1940年イギリス生まれ。音楽学者。ワシントン大セントルイス校名誉教授(音楽)。これまでケンブリッジ大、オックスフォード大で教えたのち、グラスゴー大とセントルイス・ワシントン大で教授を務める。スクリャービンやベルリオーズに関する著作があるほか、ベーレンライター社から刊行された『新ベルリオーズ全集』(26)の編集主幹を務めた。08年ベートーヴェンを中心にした研究書。本書は唯一一般読者向けの作品

訳者 森内薫 翻訳家。上智大外国語学部フランス語学科卒

発行日           2017.12.25. 第1刷発行
発行所           春秋社

献呈:1853年に創立されたワシントン大セントルイス校の全ての生徒と友人たちへ

l  ブラームス(1833)
l  ヨアヒム ⇒ ユダヤ系ハンガリー出身。1853年ハノーファーのコンマスに就任
l  ベルリオーズ
l  レメーニ(本名エドゥアルト・ホフマン) ⇒ ハンガリー出身のヴァイオリニスト。ウィーン音楽院で学ぶ。1849年ハンブルクでの演奏の伴奏の代役になったのがブラ-ムス
l  リスト(1811)
l  ワーグナー
l  ロベルト・シューマン(1810)
l  クララ・シューマン



はじめに
本書は音楽の「水平的な伝記」
1853年春から約10か月間という短い時間軸の中で多数の音楽家の人生を追う試み
1853年は、19世紀の音楽界の主役らが続々と登場する需要な出来事が驚くほどたくさん起きている。ショパン、メンデルスゾーン、ドニゼッティは世を去っていたが、ベルリオーズやリストやヴェルディは活動の全盛期にあり、ワーグナーは重要な躍進を間近に控え、ブラームスに代表される新しい世代は、広い世界に向けて最初の一歩を歩みだそうとしていた
50年代のどこかで、シューベルトの《冬の旅》、ベルリオーズの《幻想交響曲》、シューマンの《謝肉祭》、ショパンの《バラード全集》に代表される純粋なロマン主義は終息し、音楽の流れはワーグナーの《指輪》やチャイコフスキーの《悲愴》のようなもっとダイナミックで強烈なものへと変容を遂げた。ロマン主義は後期へと移り、音楽のスタイルも変化、ナショナリズムやリアリズムなど多種多様な「イズム」が音楽の世界にも生まれた
50年代は、まさに音楽や文学の巨人が地上を闊歩した10年。ベルリオーズの超大作オペラ《トロイアの人々》、ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》、トルストイの『戦争と平和』など、ゲーテやナポレオンの例に倣うかのように、ごく当たり前に超人的な量の作品を生み出し、大量の手紙を書き、多様で多忙な社会生活を送り、巨大な夢をはぐくみ、政治活動にも関わり、決して休むことがなかった。リストはこの強烈なまでに生産的なライフスタイルを音楽の世界で体現した1
一体当時のどんな環境が巨人を生んだのか
19世紀中ごろの芸術家たちが想像力を凄まじい勢いで発揮した陰には、集団的エネルギーが作用。当時の大半の音楽家は互いに密に連絡を取り合い、批判的な意見や新しい作品についての情報も認識していたが、郵便と鉄道の発達に負うところも大きく、様々なコミュニケーションに郵便が多用され、残された大量の手紙のお陰で人々の日々の行動はおろか、内面の動きまでも知ることが出来る。鉄道も作曲家同士を密に結びつけるのに貢献。音楽家は都市から都市へと移動し、互いに交流し、自由に国境を越え、国の垣根を越えて心を通わせることが出来た。それはナポレオンが旧来の体制を転覆させたことによる大きな利益の1
当時のドイツの政治地図は、半独立状態の王国や公国や自由都市がパッチワークのように寄り集まり、多くの場合自国の文化を誇りに思い、火花を散らし合っていた。その状態が音楽家にとっては大いにプラスに働き、宮廷や教会、劇場で職を得て活躍の場となった
本書でも大半はドイツ、スイス、オランダに集中、これらの都市間に継続的なコミュニケーションが成立していたのはこの時代の稀有な特徴の1つで、ロンドンやパリでの音楽活動は断然首都に集中して限られたもの
当時の国際言語はフランス語で、多くがフランス語を学び、フランス語が堪能
本書は、18534月にブラームスがハンブルクの生家を旅立つところから始まり、10か月後にシューマンがデュッセルドルフでライン川に身を投げ創作活動に終止符を打つところで終わる。その間にシューマンとブラームスの歴史的な出会いがあり、ベルリオーズやリスト、ワーグナーは19世紀後半の音楽の風景を塗り替える複雑で創造的な作品に取り組み始めた
50年に一旦作曲から退いたベルリオーズは、3年後に《キリストの幼児》を完成させて創作活動を復活させる。彼を説得したのはライプツィヒの友人たちで53年末のこととされるが、性格も音楽のスタイルも正反対といえるブラームスが影響していたのではないか。というのもこの時期両者ともリストやシューマン、ヨアヒムを始めとする多勢のドイツの音楽家たちと交流し、その万華鏡のような相互作用の中で影響を受けていたことは間違いない。ワーグナーも偶然の一致か、ベルリオーズと同時期に長い中断を経て作曲活動を再開、紙に書きつけた有名な変ホ音をもとに、歴史上最大かつ最も野心的な作品を書き始めた。ワーグナーの《指輪》が53年の音楽界全体の興奮から着想されたと考えるのは誤りだろうが、ベルリオーズ、ブラームス、リストを始めとするその他音楽家にとっては、彼らが次に踏み出すステップに、時代精神が大きな影響を与えていた
同じようなアプローチが文学史の世界でも行われていた ⇒ 1846年ロンドンの文学的情景として、ベンジャミン・ハイドン、カーライル夫妻、ブラウニング夫妻の関係を取り上げて見たり、1819年のイギリスや、1599年のシェ―クスピアを取り上げたりしたのも同じ視点からのもの

第1章        ブラームスの旅立ち ~ 4,5月、ハンブルク、ハノーファー
1853.4.19. 19歳のブラームスがハンブルクの両親の家を出た
ヨアヒムは、ライプツィヒでメンデルスゾーンの指揮のもとにソリストとしてデビュー、シューマン夫妻とも知遇を得、ベルリンではベルリオーズの指揮で演奏50年にはリスト率いるワイマールのコンマスに就任、531月ハノーファー王国のコンマスに就任、そこに旧友レメーニが伴奏者として一緒に演奏旅行していたブラームスを連れて現れ、紹介されたブラームスの演奏にすっかり魅了されたヨアヒムはブラームスが44年後に死ぬまで深く名高い友情を結ぶ
1853年のニーダーライン音楽祭の開催地はデュッセルドルフで、取り仕切っていたのはシューマンだったが、健康状態がすぐれず、指揮も不評だった
その頃チューリヒに逼塞していたワーグナーは《ニーベルングの指輪》の台本を書き上げ、リストに見せたところ、ぜひ音楽を書き始めるよう勧められる
ヨアヒムの斡旋でハノーファー王ゲオルク5世の御前演奏の機会を得たレメーニは宮廷ピアニストの伴奏を勧められたが断ってブラームスと演奏するもブラームスの演奏は国王には不評。20年後にブラームスの活躍を見た国王は王位を失って国外にいたが、そのときの判断を後悔したという
ハンガリーのナショナリストとしてブラックリストに載っていたレメーニは、危うく警察の手にかかるところだったが、ハノーファー王の助けでブラームスと共にリストのいたワイマールに向かう
 
第2章        再起をかけて ~ 57月、ロンドン
5月ベルリオーズは4度目の訪英のためパリを出発、興行の成功に気をよくしていた。当時のイギリスは、音楽家や芸術家については外国人をありがたがる空気が根強く存在
生地のパリでの評価が不芳で、ドイツやロシア、イギリスでの客演指揮者としての道が開きかけていたこともあって移住も考えたが、結局忸怩たる思いを抱きながらパリで過ごすことになる
前年にはロンドンで、由緒あるオールド・フィルハーモニック・ソサエティに対抗して立ち上げられたニュー・フィルハーモニック・ソサエティと契約し6公演の指揮、うち2度含まれていたベートーヴェンの《第九》は長く語り継がれる名演で、指揮者としての地位が絶大になる一方、作曲への意欲はほぼ消失
そのあと、ワイマールでリストが「ベルリオーズ祭」を企画、ドイツの若手音楽家をベルリオーズの音楽に開眼させる1つの手本として機能した
5月の訪英は、コヴェント・ガーデンで自作のオペラ《ベンヴェヌート・チェッリーニ》を振る準備のため ⇒ ヴィクトリア女王夫妻、いとこでベルリオーズの音楽に魅せられていたハノーファー王ゲオルク夫妻、リストのパトロンだったワイマールのアレクサンダー大公までいたが、直前にコヴェント・ガーデンとの競争に負けて解散に追い込まれたハー・マジェスティーズ・シアターのグループが演奏を妨害、ブーイングで台無しにされ、1838年のパリ初演時に散々な目に会った不幸なオペラが二度目の災難に見舞われ、ベルリオーズは意気消沈。妨害もさることながら、ヴィクトリア女王も作品の出来の悪さを指摘
コヴェント・ガーデンの仲間は、ベルリオーズを悪く言う者はいなかったが、新しいものを避けて古い伝統に回帰し、シュポアの音楽に戻った

第3章        宮廷楽長フランツ・リスト ~ 6月、ワイマール
ザックセン=ワイマール=アイゼナハ大公のカール・フリードリヒは、ゲーテとシラーのパトロンとして知られるカール・アウグストの息子で、1828年父を継いで大公になったが、リストをワイマールに呼び寄せたのはさらにその皇太子のカール・アレクサンダーで、その妃のオランダ皇女ゾフィーはリストの生徒(フリードリヒの妃マリア・パヴロヴナはロシアのニコライ1世の姉)
リストは1848年ワイマールに到着してから10年間住むが、競争者も含めて必ずしも社会に受け入れられたわけではなかったのは、結婚を望んで一緒に連れてきたロシア貴族の娘ヴィトゲンシュタインが既婚者で、ロシア貴族の夫が離婚を望まないため、公式には結婚が認められなかったから。それでも、リストの教えたアンテンブルクと呼ばれた音楽院からリストは、53年初頭のロ短調ピアノソナタという名曲を含め偉大な管弦楽曲のほとんどを生み出していて、ワイマールが音楽を生み出す源泉のような町として世界中から音楽家たちを引き寄せていた
レメーニとブラームスがヨアヒムの紹介状を持ってリストを訪ねてこの町に来たのは、ちょうどカール・フリードリヒの在位25周年記念式典行事の直前
アンテンブルクで自信過剰気味な音楽の天才たちに気圧されて、リストから自作の演奏を求められたにも拘らず尻込みしたが、持参した草稿をリストが演奏し始め、ブラームスは呆然として、レメーニは深く感動。ホ短調スケルツォの冒頭がショパンの変ロ短調スケルツォに似ていると言われたブラームスは、見たことも聞いたこともないと答えた
リストとブラームスの不和が、後に2人が別の道を歩む一因であったのは確かだが、その原因は不詳。このときは自邸に滞在させた上に出版社まで紹介している
このときブラームスとレメーニの決裂が決定的になった ⇒ リストがロマの音楽について執筆中であり、ハンガリーの民族歌謡についてのレメーニの知識に飛びつき、2人でフランス語で果てしなく話し合い、レメーニは19のハンガリー民族戦慄を含む手書きの楽譜を壮大な献辞と共にリストに捧げたが、その間ブラームスはなす術もなく取り残されるが、1年もしないうちにクララ・シューマンの前でハンガリー風の舞曲を演奏しているし、リストが受け取った手稿譜の一部の旋律は16年後、ブラームスが4手のピアノ用に発表した《ハンガリー舞曲》の第9番に登場。ハンガリー人は自分たちの民族旋律の多くがある編曲者から次の編曲者へと受け渡されていくことを常に認めてきたが、ハンガリーの血を受け継ぐわけでもなくハンガリーの運動に共鳴するわけでもないブラームスが《ハンガリー舞曲》で大成功を収め、しかもその出典が示されなかったことが、後年のレメーニにとって癪の種になる。その上、ブラームスは出版社への個人的な手紙ではあるが、リストにいくつかの旋律を提供したのは自分とレメーニだとさえ語った
ヨアヒムの下でもっと真摯で共感できる音楽づくりの世界を垣間見たブラームスは、リストの目がレメーニに向いていることもあって、リストがカールスルーエ音楽祭の打ち合わせでワイマールを去る時に、ヨアヒムを訪ねてゲッティンゲンへと向かう
レメーニは、後年ブラームスを見出したのは自分だと、そしてブラームスが輝かしい名声を手にする上で自分は極めて重要な役割を果たしたのだと思いたがっただろうが、二人の協力関係は日に日に悪化していったのは明らか
レメーニは生涯放浪者で、7年後ハンガリーに戻ることを許され、アジアやアフリカにも足を伸ばし、リストとも断続的に仕事をしたが、1898年シスコで公演中に客死

第4章        亡命者ワーグナー ~ 57月、チューリヒ
540歳の誕生日をチューリヒで迎えたワーグナーは、毎年誕生日は重要な意味を持たせていたが、この年は自身の作品だけを演奏するオール・ワーグナー・コンサートという初めての試み。49年にドレスデンでの革命運動に無分別に参加したため、逃亡生活の身となり同年5月からスイスに居住、20年連れ添った妻はワーグナーのほとばしるエネルギーに無理解で夫婦の決裂は決定的
ワーグナーの強烈な個性と活動的な精神は、大勢の人を引き寄せ、ワーグナーのためなら喜んで支援を申し出た
49年のバーデン=バーデンの蜂起に関与しスイスに亡命してきたシュトゥッツガルト出身の詩人ヘルヴェークは、ワーグナーと対等に政治談議や哲学的論争をしたが、のちにショーペンハウアーの哲学の手ほどきもした
ワーグナーとかけがえのない友情で大きな活力を与えた夫婦がヴェーゼンドンクで、ブッパタール出身、ニューヨークで絹織物の商売で財を築いて前年チューリヒに来る。ワーグナーの音楽に心酔した妻とともに精神的・物質的な援助を与えた
重要な意味を持ったのはリストとの交流で、49年ワーグナーがワイマールを訪問して以来会っていなかったが、彼らの芸術性が極めて近かったことは互いに交わした書簡にはっきり現れている。リストは50年ワイマールでワーグナーの《ローエングリン》の世界初演を行い、《さまよえるオランダ人》や《タンホイザー》もワイマール劇場のレパートリーとして保持する傍ら、財政的援助も折に触れて行った
ワーグナーは、スイスに亡命した49年以降楽曲を書いていなかったが、それはオペラという芸術の大きな変革にこそ自分の芸術の未来があると確信していたからで、新メロディーやオーケストレーションを着想し、思考と言葉と音との新しい関係を模索する一方、書物や論考が次々と生まれ、それらはやがて《指輪》という前代未聞の超大作オペラの台本の草稿へと結実
当代のオペラをエリート主義的かつ商業的だと批判、未来の劇場は音楽と劇を理想的に表現するという唯一の目的のために作られるべきと強弁。舞踏と音楽と詩が一体化したギリシャ演劇を手本として、全てが完全に調和した新しい芸術の形を模索すべきと訴える  
53年まずワーグナーがしたのは完成した劇詩を印刷し、リストにも送る一方、友人たちの前で朗読会を行うが、称賛と困惑の入り混じった反応に気落ちし、精神状態は非現実的な楽観と深い絶望の間を揺れ動いていた  
一方指揮者としての活動はスイスに来てからも続け、ちょうどこの時期チューリヒにやってきたハンス・フォン・ビューローはワーグナーの手助けをするとともに、巨匠直々の指導を受けながら指揮の経験を積んだ
ただ、ワーグナーはそれまでのようなソロ曲でプログラムを埋め尽くすやりかたから、メインの交響曲を必ず最後に持ってくるという現代ではほぼ普遍的なスタイルで演奏会を行ったため、周囲からは非難の声も上がっていたものの、次第に聴衆を惹きつけ、53年の自らの誕生日に自作3作で3夜の演奏会を提案、当時は珍しかった台本朗読会を開催、演奏家を広く集めて、大編成のオーケストラを組成、プログラムも《指輪》の構造を想定し各晩の公演が3幕で構成されたものとなっている
7月にようやくリストがチューリヒを訪問、ワーグナーとの再会を果たす

第5章        新音楽の胎動 ~ 7,8月、バーデン=バーデン、フランクフルト
ベルリオーズはリスト宛に、ロンドン公演での惨憺たる結果を詳細に報告
ベルリオーズは、作曲も指揮もやめ、文筆活動に専念。特にパリ社会の音楽的な貧しさ、殊に国立高等音楽学校の公演の陳腐なレパートリーを批判し、イギリスのように音楽を味わっているのとは大違いと書く
ベルリオーズは、ロシアやイギリスでの実績もあってドイツでも指揮者としての名声を確立、各地からの演奏会開催の要請に応えて、8月夏の最高リゾートだったバーデン=バーデンに行き、上流社会の優美な人々を前に演奏
次いでフランクフルトへ向かい、ベルリオーズの作品だけで組まれた2つの公演を聴く

第6章        大学に憩い、ラインの川辺を歩く ~ 79月、ゲッティンゲン、ボン
ブラームスは、ヨアヒムのいる古い大学町ゲッティンゲンに行く
ゲッティンゲンは、ドイツ国内で最高レベルの図書館が有名で、国中から学者がこの図書館に集まってきた
ヨアヒムとブラームスはこの2か月間で個人的な絆を強めただけでなく、ほどなくアンチ・ワーグナーやリストとして団結する名もなきグループの代表者としての立場も強固にする
ゲッティンゲンの音楽界を率いていたのは大学の音楽監督アーノルト・ヴェーナーで、シュポアやメンデルスゾーンの直弟子、シュポアの甥。ヨアヒムはヴァイオリンで、ブラームスはピアノでヴェーナーと共演
ブラームスは、《偉大なるヨアヒムを称える賛歌》を作曲。その他にも精力的に作曲
夏休みに入ってヨアヒムと一緒に演奏会を開いて得た収入でライン川沿いの旅に出る。ラインはドイツの様々な神話の舞台であると同時に、ワーグナーの新しい巨大なオペラのテーマでもあった
ヨアヒムは、ブラームスが一日も早くシューマンに会うべきだと考え、自ら連れだってブラームスを紹介しようと、10月にデュッセルドルフで会うことを約束
ブラームスは、それまでの間、マインツからボンに向けて川を下る ⇒ その間の川並みはヨーロッパ屈指の絶景で、特にロマン派時代の画家や伝記作家から賛美されていた。両岸にはブドウ畑が広がり、多くの丘の上には城や要塞が点々と建ち、川幅が広いために橋を架けることもできず、川面を大小さまざまな船が行き交っていた。両岸には道らしい道もなく、徒歩で移動するのは地元の人間だけ。その年は例年になく非道い暑さ
途中訪れたリューデスハイムでは、74年以降何度か訪れすっかりその魅力の虜となり、83年には交響曲第3番をこの町で作曲
1824年ハイネが作ったローレライの詩によって、ローレライの伝説は全てのドイツ人に知られるようになり、ブラームスも一番傍から見ることばかりを考えて先を急ぎ、オーバーヴェーゼルは急いで通り過ぎる。ドイツロマン派の詩にどっぷりつかっていたブラームスは、こうした場所や伝説に深い帰属意識を感じていた。その晩は岩を少し下ったザンクト・ゴアーハウゼンのアドラー・ホテルに宿泊
モーゼル川とラーン川が流入してくるコブレンツは古くから交易の中心で、古代ローマ人は橋を架けたが、近代最初の橋が造られたのは1864
赤ワインで有名なアール渓谷を通り、ラインに戻ってレマーゲンで休む
ボンではベートーヴェンの生家と、1845年にリストの尽力で近くの広場に建てられた彫像を見たことだろう
ブラームスは、マインツからボンまでの約150㎞を10日間かかって踏破
ボンで世話になったのは、ヨアヒムに紹介されたヴァジェレフスキ。コンコルディア合唱団の指揮者でヴァイオリニスト、ライプツィヒでメンデルスゾーンに師事し10歳下のヨアヒムとは弟子仲間。さらにケルンに移ってチェロ奏者のライマーストピアニストのヴェルナーに紹介され、さらに作曲家でケルン音楽院の教師だったライネッケを訪問。ライネッケはのちにライプツィヒ音楽院の全盛期を院長として支えた。ライネッケはブラームスの作品と演奏を聴いて驚嘆し、ケルン一の音楽家フェルディナンド・ヒラーに紹介。ライネッケもひらーもシューマンと深いつながりがあり、シューマンと会うことを強く勧められる

第7章        保養地にて ~ 79月、フランクフルト、ワイマール、カールスバート
ワーグナーの兄の養女ヨハンナは、歌姫(ディーヴァ)としてすでに名声を確立、リストはワイマールの次のシーズンでの出演の約束を取り付ける
ワイマールの大公崩御に伴い、皇太子が大公になり、父親の代で衰えたワイマールの文化を再建することをリストにも伝え、来る就任式典のための行進曲作曲を依頼、リストは《忠誠行進曲》を贈るが、未亡人の機嫌を損ねないようにと演奏はされなかった
リストは、保養地を回って音楽家はもとより、休暇を過ごしている貴族たちとも顔を合わせ、これまでで最も休暇に近い稀な1か月を過ごし、その間に英気を養い、自分の現在と未来についてじっくり考えることが出来た

第8章        楽劇が動き出す ~ 79月、サンモリッツ、ラ・スペツィア
リストを見送ったあとワーグナーは、一緒にいた怒涛の1週間で、霊感に溢れたリストの演奏やその近代的なスタイルを通じて自身の巨大な音楽的構想へと押し出された気がしたが、改めて亡命者の身の惨めさを噛み締めた
心気症と腸のトラブルに対する医者の勧めに従ってサンモリッツで1か月保養したあとイタリアに向かい作曲の仕事に着手、年末までには4つのオペラの第1作《ラインの黄金》のスケッチを書き上げるつもりでいた。ワーグナーとリストは、3,4年先にはチューリヒに新しくできる劇場で《指輪》を初演しようと計画
サンモリッツは豊かな鉱泉が有名で夏の保養地、標高2300mのユリアーパスを抜けてサンモリッツに入ったワーグナーは、《ラインの黄金》の第2幕のイメージしていた「広々とした山の高み」とそっくりだと感じる
チューリヒに戻って、フランス経由モン・スニ峠を越えてトリノに入り、ジェノヴァで初めて地中海を見る。ジェノヴァとさらに東に行ったラ・スペツィアに長期滞在して曲想を練るという計画だったが、到着後すぐにホームシックに罹り、体調が悪かったこともあってすぐにチューリヒに引き返すと決断 
1868年に書き留めたメモには、スペツィアで2日目に午睡から目覚めた時、《ラインの黄金》のオーケストラの序奏(変ホ音の三和音)を着想とあり、スペツィアこそ《指輪》の音楽が突然心に満ちた地として神秘的な性格を与えたとして後世の人々の興味を惹くことになる。ただ、メモの翌年書かれた自伝《わが生涯》では、一種の夢遊状態に陥って、突然激しい水音が自分の中で変ホ長調の和音に変化し、分散和音になって何度も繰り返しこだましたとある
ワーグナーがラインの水底で始まる冒頭の場面を書きあぐねていたのは明らかで、壮大な構想に釣り合う革新的なアイディアが必要だった。それが変ホという音であり、曲が始まって5分以上、ずっと途切れることなく保たれる変ホ長調の和音だった
《指輪》のために作った旋律はこれが最初のものではなく、曲のスケッチは折に触れて書いていたが、こうした予備的な努力とは別に、あの晩ラ・スペツィアでワーグナーがラインの水流そのもののような不思議な感触の音を頭の中に聴いたのは事実だろう
この時以後、ワーグナーが長期間作曲から遠ざかることは二度となく、次々に名作が生み出されていく

第9章        カールスルーエ音楽祭 ~ 9,10月、カールスルーエ
カールスルーエ音楽祭はドイツ中の音楽からその年最大のイベントとして着目
町は1715年に全く新しく造られ、辺境伯の宮廷を中心に32の放射状の通りがあり、いくつかの同心円状の環状道路で結ばれている。バロック様式の極致として名高く、ワシントンDCのモデルにもなっている
24年に楽団長を引き継いだヨーゼフ・シュトラウスは力強い音楽の文化を打ち立て、52年に引き継いだデヴリエントが劇場監督に就任すると最初の企画としてリストの指揮下で行う大規模な音楽祭が計画され、総勢200人近い規模のオーケストラと大人数の合唱団を作るため、周辺地域にも呼び掛けた ⇒ ベートーヴェンの第九のほか、作曲されてから4年経つのにいまだ初演されていないベルリオーズの《テ・デウム》の初演も目論んだ
そうそうたるメンバーが集まってきたが、ベルリオーズは自分の作品が人の手で演奏されるのを聴きたがらなかったため来ず、マイアベーアもパリでの新作オペラの発表の準備で忙しく顔を見せなかった
4日間にわたるプログラムは」、2つの演奏会と2つの新演出の演劇で構成
当時新装なった劇場は、1944年に空襲で焼失
リストの強く擁護する前進的な音楽への反発よりも、話題になったのはリストの指揮そのもので、当時まだ歴史の浅い技術だった。その昔、指揮はヴァイオリンの弓で行われ、指揮棒を使うようになったのはシュポアやメンデルスゾーン、客席を向くかオーケストラを向くかも人によって違い、シューマンが指揮を明らかに不得手としたのはピアノ以外の楽器の経験が不足していたからで、オーケストラがどのように機能しているのかを内部から理解していなかった。リストもオーケストラの経験が浅く。指揮の手引書などもなかった
リストにとって指揮者とは、音楽を描き、音楽の本質を引き出すための存在で、指揮者の仕事は、音楽を表し、自分自身が音楽となって奏者や歌手にインスピレーションを与えることであり、何より聴衆に音楽の本質を伝えることだった。自己顕示欲の強いリストの指揮にベルリオーズが我慢ならなかったのも不思議はない
ベートーヴェンの第九でのトラブルは、問題のパッセージが弱拍から始まるという難しい書かれ方に起因 ⇒ リストは音のない最初の強拍を示さなければならないのに、楽器が入る拍を示してしまったために、それを最初の拍と捉えた奏者は1拍遅くなった
毒を含んだ批評もいくつか存在し、特にリストは指揮者として不適格としたが、リストは指揮者と奏者の間には厳密な拍が生み出す以上の密な絆がなければいけないし、芸術的及び詩的な真実の交流によって全ての心を包み込むには、古びた決まりごとは不要で、前進的な感覚と進歩的なスタイルの演奏が必要だと反論
時計のように拍を刻むのは芸術とは言えないと言ったものの、自分の指揮をめぐる論争のせいで、近代音楽の最高峰のお披露目という音楽祭の本来の意義が隠れてしまったことに腹を立てた ⇒ リストによる失敗イベントとして文献に伝えられ、リストの自己顕示癖ばかり注目を集めてしまい、ベートーヴェンの第九の偉大さを真に受け継ぐものとして、ワーグナーに人々の関心を集めるというリストにとっての一番重要な目標が掠れてしまった。リストこそ、ワーグナーがこれから乗り出そうとしていることがどれだけ素晴らしいことかを僅かなりとも知る唯一の存在

第10章     「新しい道」 ~ 9,10月、デュッセルドルフ
9月末にブラームスがシューマンを訪問、会えなかったその日のシューマンの日記にはただ「ブラームス氏、ハンブルクより」とあったが、翌日の日記には「ブラームス来訪(天才)」とある ⇒ 音楽評論家としての年月でごく稀にしか使わなかった「天才」という言葉を、たった1日でこの来訪者に与えた。ブラームスの不安もすぐに消え去ったろう
ブラームスの来訪と彼が持参した楽譜は、職業上も大きなトラブルを抱え健康状態が急速に悪化していたシューマンに生きる活力を蘇らせた ⇒ 《子供のための3つのソナタ》などたくさんの魅力あふれる作品など作曲に没頭していたが、心臓発作から失語状態になったり、自分の作品を認識できなくなったりしていた
そんな状況の時にブラームスはシューマンを訪問、自作のピアノソナタ第1番ハ長調を弾いたが、その時の演奏だけを根拠にシューマンは「天才」という言葉を日記に記した
それからの1か月はシューマン夫妻とブラームスにとって素晴らしく刺激的なものとなる。夫妻の日記には毎日のようにブラームスの名前が登場、一緒に作曲に勤しむ
ブラームスはピアノソナタ第2番嬰ヘ短調を弾く。ブラームスの才能を余すところなく示した作品で、3つの初期のソナタをシューマンは「ヴェールで覆われた交響曲」と呼んだ。メンデルスゾーンの影響もほとんどなく、ベートーヴェンの深みをすでに湛えながら、近代のピアノと近代のピアニストのために新たに命を得たような作品
クララは、「まさに、神から地上につかわされた人」と書いている
自己批判精神の極めて強いブラームスは、出来上がりに満足しなかった多くの曲を廃棄しており、クララがこのときの日記に書いている曲でも楽譜の残っていないものが多い
生涯画家や絵画を愛好したブラームスは、デュッセルドルフでも多勢の画家と交流
『新音楽時報』は当時ドイツで最も広く読まれていた音楽新聞であり、その創設者であり、前主筆のシューマンの、神の託宣の如きブラームスを称える言葉は、津々浦々の音楽家たちの大きな関心を呼び、「シューマンの記事はもう読んだか?」が合言葉になった
これを機に、ブラームスが生涯を通じてシューマンとその音楽を敬愛したことは、その作品からはっきり見て取れる ⇒ 和声やリズムの面で影響が見られる
出版社にも紹介してもらい、多額の報酬をもらう
クララはブラームスに対し、生涯にわたって計り知れない影響を与え続けた
まだブラームスが滞在していたころ、シューマンは教会の指揮で、演奏が終わっても指揮を続けるという大失態を犯したが、その後も指揮の合図を出さなかったことが重なって舞台から完全に降りてしまい、デュッセルドルフとの契約も破綻、肉体的にも打撃となる

第11章     古巣パリにて ~ 10月、パリ
リストとワーグナー、ヨアヒムらは連れ立ってパリへと向かう
ヨアヒムは、ワーグナーの主張する反ユダヤ主義に困惑しながらも、ワーグナーを敬愛し、《指輪》の朗読に深い感銘を受け、上演される時には自分がコンマスを務めると約束
リストのパリ訪問の目的は3人の子供と、離婚後に3人の面倒を見ていた自身の母親に会うことだったが、育った場所であると同時に初めての友情や成功を得た場所でもある
パリは、ピアノとグランド・オペラに関しては世界の中心的地位を維持。フランスのオペラはドイツにおいて、イタリアオペラと同じかそれ以上に広い人気を博していた
ワーグナーにとってパリは、2年半過ごしたが不幸や失敗だらけであり、ベルリオーズを除けば、フランスの音楽を高く評価していなかった。ただ、オペラに関してはパリ・オペラ座での上演を音楽家が目指す最高の栄誉だと考えていたが、61年漸く《タンホイザー》パリ初演が叶ったものの、栄誉という考えは雲散霧消する
ワーグナーはこのときはじめてリストの次女コジマに会っているが、その時彼の関心は明らかにヴィトゲンシュタインの娘マリー(コジマの異母姉妹)の方に向いていた
ベルリオーズが加わって初めて3巨頭が一堂に会し、家族もいれた夕食の後ワーグナーが《神々の黄昏》を朗読
マイアベーアもこのとき、コメディ・フランセーズで大掛かりなオペラ《北極星》の上演準備をしているところ、実際の上演はこの4か月後。ワーグナーはマイアベーアをペテン師と決め込み、反ユダヤ主義からも攻撃していたので、お互い会うことはなかっただろう
当時世界で最高の質のピアノとハープを製作していたエラール社の社長ピエールは、リストがウィーンからパリに移った12歳の時から一家の後ろ盾として支援
1月に《イル・トロヴァトーレ》を、3月には《椿姫》を初演したヴェルディは成功の階段を上り始めていたが、12月からは台本作家と一緒に仕事をしようと考え、10月後半にはパリに生涯の伴侶ともども来ていたはずで、リストやワーグナーの泊まっていたホテルから徒歩5分くらいのところに居を構えたが、お互いに近くにいることは知らなかった
リストはヴェルディのオペラを指揮していたが面識はなく、ワーグナーはヴェルディのことを巨匠の1人として認めていなかったし、ヴェルディもワーグナーについては噂程度しか知らなかった。リストとヴェルディは、86年オペラ座で同じオペラを観劇しているが、対面はしていない
リストとワーグナーは滞在中に、生涯忘れられない感動的な経験をした ⇒ ベートーヴェンの後期の四重奏曲演奏を目的に前年末に結成されたモーリン=シュヴィヤール四重奏団による、当時パリではまだほぼ知られていないはずのベートーヴェンの作品の演奏を聴き、ドイツの音楽家がまだ不器用に演奏しているこれらの音楽的至宝に、フランスの芸術家がこれほどの熱意を傾けていることに感動
パリ滞在中にアドルフ・サックスの工房も訪問、サクソフォーンやサクソルン、サクスチューバなどの楽器を見ながら、特にサクソルンの陰のある暗い音色と響きはワーグナーが描こうとしているオペラの様々な場面の独特な音色や響きを果てしなく広げてくれるはずだった。通常「ワーグナーチューバ」と呼ばれる楽器は、元々はこのサクソルンを楕円の形状にしたもの。ワーグナーは後年自分が望んでいた楽器に初めて出会ったのはサックスの工房だったと話している
チューリヒへの帰途について、111日にはワーグナーは《指輪》の作曲を開始

第12章     すれ違い ~ 10,11月、ハノーファー 
ベルリオーズにドイツ各都市から招請が来て、そのたびに聴く耳を持つ聴衆の前で規律正しいオーケストラを指揮できる見込みが高く、音楽づくりのあるべき姿を思い出すことが出来ると胸が高鳴った
10月パリを発ってブラウンシュヴァイクに向かい、10年ぶりの公演は大成功、収益金の一部は「ベルリオーズ基金」として音楽家の未亡人や孤児のために残された
そのあと北ドイツ最高峰のブロッケン山1141mに行く ⇒ ゲーテ『ファウスト』に魔女が集会を開く山として登場するほか、ベルリオーズが愛好するメンデルスゾーンの《最初のヴァルプルギスの夜》所縁の地
そのあとハノーファーに滞在、ヨアヒムがコンマスになったのに惹かれてきた若い新団員が多く、ベルリオーズは拍手で迎えられた
ヨアヒムに会いにブラームスが到着、ベルリオーズのリハーサルにブラームスも同行、初めて顔を合わせる
ハノーファーでの公演も成功し、国王の要請で2回目の公演も行う

第13章     3人目の「B」 ~ 11,12月、ライプツィヒ
ライプツィヒは実質上、ドイツ音楽の首都
名指揮者オットー・ニコライが49年に38歳で亡くなり、ウィーンは音楽やオペラの領域におけるかつての栄光をもはや保てなくなっていたし、ベルリンは良い音楽家が集まってはいたが、陰謀や不愉快な出来事が多く、メンデルスゾーンも本拠地ベルリンでの好条件の仕事を断り、ライプツィヒに移る決断をしたほどだった
ザクセン王の領土ではあるが宮廷はドレスデンにあったため、ある程度の自治を許されていて、リベラルな伝統が強く、商業も盛ん
町の音楽文化の深まりは、バッハとともに始まる。バッハは市議会に雇われた聖トーマス教会のカントールで、オルガン奏者兼合唱指揮者を務めた
ゲヴァントハウスという音楽団体のお陰で、音楽会開催についての伝統が今や絶頂期にあり、1781年に建てられた劇場のほか、劇場付き管弦楽団は欧州でも名だたるオーケストラに成長していたが、それはメンデルスゾーンが183547年に努力した賜物
43年メンデルスゾーンは、シューマンとコンマスのシュポアの弟子だったフェルディナント・ダーヴィトの助けを借りて音楽院を創設、ほどなく欧州屈指の音楽学校に成長
ライプツィヒは音楽出版の中心地でもあったし、音楽新聞も2つも出ていた
この先、音楽における保守の牙城のような存在になり、近代的で危険な潮流に保守の信奉者が常に目を光らせるようになる
ブラームスはこの町で大手出版社に紹介され、4つの作品が直ちに引き受けられ多額の謝礼が支払われる ⇒ 作品1のピアノソナタはヨアヒムに、作品2のピアノソナタはクララ・シューマンに、作品36つの歌曲はアルニム(60年劇作家グリムに嫁ぐ)に、作品4のスケルツォはヴェンツェル(シューマンの友人でメンデルスゾーンがライプツィヒ音楽院のピアノ教授に選んだ人)にそれぞれ献呈した
ブラームスに続いてベルリオーズがダーヴィトの招きで10年ぶりに訪れ、2度の公演をして演奏の素晴らしい出来には喜んだものの、ブラウンシュタイクやハノーファー、ブレーメンでの嵐のような喝采には遠く失望は隠せなかった ⇒ 3年前に作曲した《エジプトへの逃避》の完全版を初めて上演し、劇団員からもっとこの作品を広げるよう勧められ、自分にはもう作曲家としての未来はないと言って作曲から遠ざかっていたのに、迷いから覚めたようにライプツィヒの合唱団に捧げるために作曲を開始
リストもベルリオーズを聴きに取り巻き連中を連れてやってきて、ベルリオーズとの再会を喜び合ったし、ベルリオーズも何とか気分を持ち直していた
さらにそこにブラームスも加わって、ダーヴィト夫妻主催の宴が開かれる
リストの弟子のコルネリウスは、ベルリンで発行されている音楽誌の54年最初の号で、バッハ、ベートーヴェンに次ぐ3人目の「B」はベルリオーズだとする記事を書く。3大「B」という概念はのちにビューローに横取りされたが、ビューローが3人目に据えたのはブラームスだった
ライプツィヒでのベルリオーズは、ライプツィヒにとって歴史的瞬間だと述べた論評が象徴するように、いくつかの批判はあったものの、ベルリオーズこそ今世紀最高の音楽家だと断定され、勝者としての味を噛み締めることになった。『新音楽時報』主催の晩餐会はブラームスがライプツィヒの音楽家達の前で初めて演奏を披露した時に最高潮に達した
ベルリオーズの2回目の特別公演は、ベルリオーズの音楽が普通の音楽とはどこか違うという噂が広まったことから、音楽を真剣に愛好する人々は見逃してはならじと会場を訪れた。リストもまた、ワイマールから戻って来て聴いていた
そのあとブラームスは、ライプツィヒで初めて公の場で演奏を披露。仲間の音楽家によれば、類まれな才能に恵まれたこの青年が、いつの日か音楽の歴史に新しい時代を切り開くだろうことをその場にいたすべての人々が文句なしに認めた
ドイツにおけるブラームスの最大の擁護者となるハンス・フォン・ビューローもすれ違いでライプツィヒに来たが、初めてハノーファーでヨアヒムも交えて会うのは年明けになってから
ブラームスは、この年のクリスマスには故郷のハンブルクに凱旋、母親を喜ばせた

第14章     冷たいライン川に ~ 112月、オランダ、ハノーファー、デュッセルドルフ
シューマン夫妻は、デュッセルドルフの音楽協会と決裂し、町を去ることを決意、2人が望んだのはクララがピアニストとしての初期に華々しい活躍をして「王宮廷内室内楽奏者」の称号を得たウィーンだったが、その前にオランダから初めてとなる演奏旅行の依頼が来て11月下旬に出発、26日のユトレヒトを皮切りに25日間で4都市計13回の公演となったが、既に指揮者としての信用も低下していたシューマンはクララのピアノを中心としたプログラムを組んで大成功を収める。ただ道中は非常に寒くシューマンも目眩や聴覚障害に悩まされ、クララも妊娠3か月で体調がすぐれず
演奏会では、当時の通例とは異なり、声楽作品を含まない、シューマンの言葉を借りれば「珍しい」ものも組まれた。管弦楽だけの演奏会が主流になるのはまだ先のこと
当時のオランダにおける音楽の活況は、今日なお称えられるような作曲家が存在しなかったこともあって、意外なほど知られていないが、ベルリオーズの序曲《宗教裁判官》は44年からの22年間で38回も上演されている。ただ、ベルリオーズは一度も来ていない
年明けにはヨアヒムからの招きを受けハノーファーで公演、ブラームスなども加わって楽しい時を過ごす
デュッセルドルフに戻ったシューマンは、自身の著作集の編集と、『詩人の庭』というタイトルでアンソロジーを編むことに熱中
2月に入ると激しい耳の痛みに悩まされ、耳の中で休みなく鳴り響く旋律や和音に苦しめられるとともに頭痛にも見舞われ、26日には精神病院に入らなくてはならないと言って準備を始める。翌日の昼過ぎ、突然シューマンがいなくなり、しばらく後に見るも哀れな状態で運び込まれてきた姿は、部屋着のままでずぶ濡れ、目撃した漁師の話では、ラインに架かる「船橋」(つなげた船の上に板を渡した橋)から飛び込んだという
翌日シューマンはもう大丈夫とクララに手紙を送ったが、医師には精神病院に入れて欲しいと主張、数日後に入院し二度と戻ることはなかった

エピローグ
ドイツ音楽の世界が分裂する兆候は1853年から既に現れ始め、50年代の残りの年月その亀裂はさらに広がる
メンデルスゾーンやシューマンは古典の遺産に敬意を表していたが、ベルリオーズは、そこから一歩引いて何かを表現してこその「音楽」という立場だった
53年当時、若い音楽家たちは、ワーグナーの掛け声に従って全てを包括する楽劇の方向に進むか、あるいは音楽という言語そのものの美しさや深みを追求するかという二者択一を迫られていた ⇒ ワーグナーの楽劇への道は近代化のメッセージを明確に掲げ、その音楽にはあらゆる種類の人間らしさが染みわたっている。一方後者では、哲学や感情のダイナミクスに支えられてはいない。ウィーンの音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックが54年に出版された『音楽美について』で予言的なメッセージとして語った、「音楽は自身の外にテーマを見出す必要はなく、テーマすら見出す必要もない。音楽がそれを聴く者にもたらす感情は、人間その他の経験から生じる感情とは全く別の、まったく独立したもの」という、ロマン派の考える表現や意味の核心を突く考え方で、必然的にワーグナーやリストに敵対することになった
62年にウィーンに来たブラームスは、ハンスリックと友人同士になり、ハンスリックはブラームスをメディアにおいて常に力強く擁護し続けた
55年にはヨアヒムも、かつての師であるリストの楽才を多かれ少なかれ公然と批判するようになる
シューマンの音楽及びクララに対するヨアヒムとブラームスの忠誠は、音楽的立場の表明と同義で、特にブラームスの中には、リストやワーグナーの道には向かうまいという意思が誰よりも強かった ⇒ 60年ブラームスは、「新ドイツ楽派」をドイツ音楽界のリーダーとする見方に公式に抗議を表明したが、ブラームスは後年こうした党派心からは距離を置くようになる
ドイツ音楽界を二分したもう1つの要因は、「演奏習慣」の問題で、フラームスやヨアヒムは古典に敬意を払うことを重視し、音楽は出来る限り作者が書いたとおりに演奏すべきという立場をとる。ベルリオーズと通じるところがある
一方リストは、今日では論外とされるが、作品の解釈は創造行為に他ならないと考え、演奏者の義務は過去の音楽をそれぞれの時代精神に合わせて再創造することとした
ベルリオーズとシューマンは、43年に会って以来互いに敬意を抱き、ベルリオーズの《幻想交響曲》に熱狂したが、シューマン自身の作品にその影響は見られない。クララが39年パリでリサイタルをしたとき、当然得られると思っていたベルリオーズの熱狂的な批評を彼が書かなかったとして婚約者のシューマンに嫌悪を吐露したこともあって、共通言語の欠落も手伝い、それ以上の親交を深めることはなく、ベルリオーズが演奏旅行でデュッセルドルフを訪れることもないまま音信は途絶えていった
シューマンとリストの関係はもう少し複雑。お互い高い敬意を払い、重要な作品を献呈し合ったが、クララはリストのピアノ演奏を嫌い、リストを悪魔的、破壊的な影響を持つ人物と見做していた。リスト自身、個人的に誰かに恨みを抱くようなことがほとんどなかったが、彼らは後年、必然的に別々の道を歩み始める
ワーグナーとブラームスという対極的な2人の天才は、19世紀後半のドイツ音楽界を完全に支配、ヴェルディはイタリア音楽界に君臨、フランスでは強力な門弟を持たなかったベルリオーズの影響力は時代まで及ばず、「ベル・エポック」という豊かな文化に呼応してたくさんの作曲家が登場、バイロイト的な色に強く憧れる一方、ドイツ的なモデルからは明らかに距離を置こうとしていた
60年以降、ヨーロッパの音楽界には大きな変化が訪れる ⇒ 1つはロシアの音楽界が急速に発展し、ロシア人作曲家が数多く輩出、重く扱われるようになったこと。ボヘミアでは地元の音楽家たちがそれまでにない愛国的な色合いのアイデンティティを獲得。その1人スメタナは66年に初めてオペラを発表。もう1つの変化は、アマチュアやディレッタント(芸術や学問を趣味として愛好する人)が影を潜め高等音楽院やオーケストラなど現在まで続く多数の施設や団体が堅牢さと重みを増すようになったこと

シューマンは567月死去。クララは面会を禁じられ、ようやく死の数日前に面会。入院中のシューマンをヨアヒムやブラームスなど少数の友人が献身的に見舞う。31年感染した梅毒が死因だが、永続的な神経障害も抑鬱的な傾向の原因
クララは、54年末子出産。生涯再婚せず。96年没迄ピアニスト兼教師、作曲家としても尊敬を集める。ブラームスとは終生親交を持ち続けた
ブラームスは、クララの死の翌年没。忠実かつ献身的な友人同士。生涯独身。ヨアヒムとは77年ヴァイオリン協奏曲を献呈したが、81年妻と決別した際妻の肩を持ったのが原因で二人の仲は一旦破局したが、87年和解。ワーグナーとは64年にウィーンで会っただけでその時ブラームスはピアノを演奏。74年ベルリオーズの曲を指揮したが、ブラームスがベルリオーズの作品の中で終始愛好したのは《エジプトへの逃避》だけだったという
ヨアヒムは、07年没。室内楽の唱道者として、さらにはベートーヴェンやフラームスのヴァイオリン協奏曲のソリストとして名を馳せた。63年メゾソプラノと結婚するが81年離婚。アルニムを慕い続けた。68年ベルリン高等音楽院初代校長。作曲も続けたが、今日演奏されるものはほとんどない
ベルリオーズは543部作《キリストの幼児》を完成させ、パリでの初演で成功し、自信を取り戻す。《トロイアの人々》も書いたが生前には一部が上演されたのみ。69年死去
リストは、54年《ファウスト交響曲》を完成。58年ワイマールの宮廷楽長辞任。子供を次々に亡くし、ヴィトゲンシュタインとは結局結婚せず。65年僧籍に入り、86年没
ワーグナーは、54年に《ラインの黄金》を、56年に《ワルキューレ》を、71年に《ジークフリート》を書き上げ、《指輪》は74年に完成、76年に第1回バイロイト音楽祭で初演。61年以降はドイツ全域への入国を許可される。70年ビューローの妻でリストの娘コジマと再婚。83年ヴェネツィアで没
ビューローは、57年コジマと結婚、69年離婚。65年ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》を、68年には《ニュルンベルクのマイスタージンガー》の初演を指揮。生涯を通じてソロピアニスト、指揮者として活動。後年ブラームスの作品を擁護するようになり、85年にはブラームスの交響曲第4番の初演を指揮。94年没
コルネリウスは、コミック・オペラ《バグダードの理髪師》を作曲したが、58年のワイマール初演後に論争が起こり、それがもとでリストはワイマールを去る。ワーグナーの熱心な信奉者となり、2つのオペラを書く。合唱作品、歌曲の評価が高い。詩作も。74年没
レメーニは、60年ハンガリーへの帰郷を許される。断続的にリストと仕事をし、世界規模の演奏を続けル。98年シスコでの演奏会の最中死去


訳者あとがき
1853年とは、無名だったブラームウスがブレイクした年であり、革命運動に加担してドイツを追われたワーグナーが作曲を再開した年
登場する6人の音楽家は、それぞれこの年に何らかの転機を迎え、そこには互いの交流が恐らく作用していたと著者は指摘
l  ブラームスは19歳で、すらりとした金髪の美青年、まだ無名
l  ワーグナーは39歳で、ドイツを追われ、チューリヒで贅沢な亡命生活中
l  リストは41歳、ワイマールの宮廷楽長として、ピアニストというより指揮者・作曲家として活動、女性ファンを「失神させ」てはいない
l  シューマンは42歳、デュッセルドルフで、作曲家として結果的に最後となる1年を送っている
l  ベルリオーズは49歳、20年前に《幻想交響曲》で成功を収めたがいくつかの作品の失敗と酷評がもとで、この頃は作曲から距離を置いている。6人中唯一のフランス人
l  ヨアヒムは21歳、天才ヴァイオリニストとして活躍してきたが、夏の間名門ゲッティンゲン大に通って勉強しなおしている

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