満洲分村移民を拒否した村長 佐々木忠綱の生き方と信念  大日方悦夫  2018.9.23.


2018.9.23. 満洲分村移民を拒否した村長 佐々木忠綱の生き方と信念

著者 大日方(おびなた)悦夫 1953年長野県生まれ。元長野県立長野高校長。現在、高校・専門学校で教える傍ら、地域の近現代史研究に従事。長野市在住。共著に『幻ではなかった本土決戦』『戦争遺跡から学ぶ』など

発行日           2018.8.15. 初版発行
発行所           信濃毎日新聞社

はじめに
戦前、中国東北部への移民は「国策」で、全国各地から32万余が海を渡る ⇒ 終戦時の移住者約27万のうち約8万は二度と故国の土を踏むことはなかった
ある時期からは「分村・分郷」という形で進められた ⇒ 上から移民数を割り当てられた、半ば強制的なものだったが、自らの良心に基づいて拒否した村長がいた
長野県南部山間地の小村・下伊那郡大下条(おおしもじょう)(現・阿南(あなん))の村長・佐々木忠綱で、分村移民を迫られた村長は苦渋の末拒否の道を選ぶ
忠綱の存在と決断が一般に知られるようになるのは1979年のこと。歴史研究者・山野晴雄が、大正期に長野県南部で開かれた「伊那自由大学」の関係者を訪ねる中で忠綱と出会い、忠綱が自由大学研究会で証言したことから発覚し、その後多数の研究発表が行われている
本書は、忠綱が、国策に背いてまでなぜ分村移民を拒んだのか、その理由と背景を考察する。そのため、忠綱の生い立ちから青年期の思想形成に着目し、村長としての軌跡を辿る。そして、起こりうる事態を予測して、未然に防ぐために何をしたのかを考える

第1章        忠綱の原点――教育と医療への思い
忠綱の生い立ちを通して教育と医療をなぜ重視するようになったのかを探る
第2章        自由大学で学ぶ――生涯の基軸
自由大学で何を学んだのか
第3章        満洲移民とは――推進の背景・経緯と長野県
満洲国と満洲移民の目的・位置づけ・背景を整理し、長野県の特色について考える」
第4章        忠綱が見た満洲移民
満洲移民地を視察した忠綱が何を見、何を思ったのか、何を決意したのかに迫る
第5章        分村移民を拒む――村長2回目での決心
移民を拒否した具体的な方法を、各種資料・証言から明らかにする
第6章        教育と医療への情熱
学校建設と病院建設に果たした忠綱の功績、それを支えた「五人組」の役割、佐々木村政の意義を考える
第7章        満洲国の崩壊と忠綱の戦後
本土決戦での満洲国の位置づけ、満洲国崩壊の経過を辿り、忠綱の生涯を総括

第1章        忠綱の原点――教育と医療への思い
忠綱は、1898年大下条村千本(ちぎ)の生まれ
下伊那郡は長野県最南部、天竜川中流域、そのさらに南部が大下条村、総世帯数約500戸、人口3,000人弱
千本村の庄屋を代々務めたのが佐々木家
16代目が知人の請け判で破産したあとを受け、分家から婿養子に入った17代目が養蚕農家として再興、村の助役を務めたが、その息子が忠綱
家業を継ぐために進学を断念
向学心が強く、父親に内緒で農学校を何回か受験、合格したが許されず、18歳で漸く上田の県立養蚕学校に1年だけ通う
上級学校への進学断念は、教育の機会均等への強い思いとなって、のちに村に学校を建設する情熱となり、自身が生涯学び続ける姿勢へと繋がる
もう一つの心の痛手となったのが、幼い頃母を亡くした後の継母に出来た2人の弟との別れで、2人とも20歳前後に結核で死去。忠綱は医者になることを本気で考えた

第2章        自由大学で学ぶ――生涯の基軸
哲学書の出版社として岩波が名を挙げていたころ、忠綱も哲学書を購入して独学、知的飢餓心を満たそうとしたが、小学校卒業だけでは限界がある ⇒ そうした農村青年の願いに応えたのが自由大学
自由大学は、ごく短期間、地元に著名な学者らを招いて講座を開き、学びを得る機会
1920年代初めから各地で開講の動きがあり、21年の上田を嚆矢として24年には伊那自由大学が始まり、忠綱の自由大学への第1歩となる
大正期に顕著となった民主主義的思潮の下、自由化運動は長野県内に広がり、とりわけ下伊那郡は盛んで、年齢制限のなかった青年会に年齢制限を設け、忠綱が会長となり、自由大学を推進。同時に社会主義研究会として大衆的青年組織である「自由青年連盟」が発足、郡内の青年活動家の多くを組織 ⇒ 非合法組織に発展、伝統量値下げなど大衆的運動を積極的に展開
伊那自由大学は、階級教育の立場に立って、自由青年連盟と密接な関係を保ちながら運営
郡北部の飯田で、2429年に22回開講、15日間で毎夜4時間
谷川徹三の哲学の講義を受講した忠綱の筆記録が残る
忠綱にとっては遠隔地のため、全てを受講することはできなかったが、自由大学での学びが、その後の思想の原点となっている ⇒ 本の選択力=本を読むことを学ぶ
「労働しつつ生涯学ぶ民衆大学」という自由大学の精神を、生涯かけて実践したのが忠綱
92歳で亡くなる前日まで本を読んでいたといい、もっぱら哲学書で、「小説を読まなかったのが失敗だった。もっと人生観を学ぶべきだった」と述懐していた
戦後県内各地で開催された夏期大学にも高齢を押して欠かさず受講

第3章        満洲移民とは――推進の背景・経緯と長野県
第1期        試験移民期 193236
第2期        本格的移民期 193741
第3期        衰退・崩壊期 194245
満洲とは、現在の中国東北地方を指すが、元々は国名であり、民族名
満洲への移民は、日露戦争後に本格化 ⇒ 旅順・大連の租借を拡大し、新京に司令部を置いて満洲国を創出、日本人移民も4万人弱に激増、当初は満鉄と関東庁役人が中心で、農民は極めて少なかったが、15年岩国市から最初の農民を入植させる
29年満鉄が出資して満洲移民の専門会社「大連農事株式会社」し、500戸の移住を目標としたが、土地分譲価格の高値や借入金返済の重圧などから不成功に終わる
31年の満州事変を契機として植民地化を決定
3245年の14間で、計14次、開拓団1,000余、移民数220,359人、青少年義勇隊員数101,514人、計321,873人を送り込む
満州事変以後は「国策」移民 ⇒ 農本主義者・加藤完治が中心となって、日本国内の農業恐慌対策として満蒙開拓団を位置づけ。アメリカ向け生糸輸出の減退から繭価が暴落、豊作による米価の暴落と翌年の大凶作などが相俟って農業恐慌が進行。併せて関東軍による屯田兵的な役割を担った農民移民の入植が必要とされた
拓務省と陸軍省が中心となって第1次移民者が送り出され、試験移民が動き出す ⇒ 東北6県と長野を含む上信越5県を対象区域で、「在郷軍人で農業に従事中の者」が対象
「土竜山(どりゅうざん)事件」を始めとする反満抗日武装勢力による襲撃が後を絶たず、種蒔きも容易ではなかった
3次からは、中国人を刺激しないように、一般人や技能者に拡大、武装を避け、営農第一主義を印象付ける
問題はあったものの、広大な未墾の沃野は魅力的で、36年からは大量移民の時代に入る
拓務省主導の移民とは別に、民間による自由移民の入植もあった ⇒ 天理教や下伊那郡の松島が率いた移民団
36年拓務省が関東軍の軍事的必要性に立脚して「移住計画」を立案、広田弘毅内閣の下「7大国策」の1つとして移民が本格化 ⇒ 国の年度目標達成のため、府県に割り当て
農林省の参画が特に重要な意味を持つ ⇒ 農林省は深刻な農村不況に対し経済更生運動を進めていたが、国策移民を取り込んで、「分村計画」へと発展させる。適正規模を超える過剰農家を満洲に移住させる。「分村」が困難な場合には地域を広げて「分郷移民」とした
毎年1,000町村を指定し補助金を支給したため、窮乏した村々は補助金攻勢に翻弄
37年「20か年100万戸送出計画」がスタートしたが、日中戦争の本格化に伴う徴兵と軍需産業への労働力確保のため、移民が集まらず、青壮年層の移民者不足を補うために動員されたのが「満蒙開拓青少年義勇軍」 ⇒ 1619歳、ソ連との国境地帯で訓練され配属
計画の破綻は、戦争の拡大と長期化によって露見、移民応募者が激減、ノルマ達成のための各府県への割り当て体制の強化、対ソ防衛と食糧確保が前面に強調され、「五族協和」も「王道楽土」も後退し満洲移民の本質が露呈、現地召集の「根こそぎ動員」によって開拓団は老人と婦女子ばかりとなり、遂に45.8.9.「棄民」が明かとなる
長野県は、開拓団員も青少年義勇軍も、全国で断トツの1(37,859) ⇒ 養蚕業の衰退による経済的困窮と耕地面積の狭さが背景にあり、補助金が得られる分村移民は経済更生運動の柱となって推進されたこと、更にはもともと信濃海外協会が行政と連携してブラジル移民を推進したように、海外移民事業に積極的な土壌があった
現在、伊那郡阿智村には満蒙開拓に特化した全国唯一の満蒙開拓平和記念館がある
県内でも多かったのが飯田・下伊那地域で8,354人 ⇒ 養蚕業依存度が高かったことと社会主義思想の拡大撲滅のための地域右翼の台頭が背景にあった
特に経済更生の困難な町村から先行して、1町村からの集団移住で1部落を建設させる分村移民を推進、先陣を切ったのが38年の南佐久郡大日向村から送り出した第8次大日向村開拓団で、分村移民のモデルとして全国に喧伝された
43年の全国地方長官会議の席上、天皇が創出1位の長野県知事に対し移民の状況を下問、県知事は感激して一層送出を強化したことが、終戦の悲劇を一層悲惨なものとした

第4章        忠綱が見た満洲移民
37年忠綱が村会議員に選出され、互選で村長に ⇒ 村長は通例無給の名誉職
38年長野県は「ブロック分村計画」を打ち出し、郡あるいは町村単位で移民計画立案
大下条村も近隣6か村で構成する移民計画を立案するが、単独分村を決定した村があったため、残りの5か村は移植民後援会が組織され、大下条村の後援会は忠綱が会長
村長就任1年後に下伊那郡の現地視察団に参加 ⇒ 帰国後、政策推進の立場が一層鮮明にされ、4つの分村と1つの分郷計画が実行される
後に忠綱は、県の移民奨励は報告したが、村を挙げての分村移民は進めなかったとし、耕地が中国人を追い出したものであること、日本人が中国人を見下していることを問題点として挙げたと証言
視察団で同行した仲間の2人も移民に否定的な意見を共有したはずだったが、2人とも公には国策に沿った移民の推進をすべきと公言。忠綱だけが「自ら見たもの」を信じた
忠綱は、率先して分村移民に導くことはなかったが、戦争の本格化による景気好転で移民熱は一時静まり、非難されることはないまま、40年辞任

第5章        分村移民を拒む――村長2回目での決心
4312度目の村長に推挙されたが、長男が出征していたため養蚕業を見る者がおらず一旦辞退したが、実績のある忠綱しかいなかったところから引き受け
時局悪化への対応がすべてで、1つは農業の全国統一組織化による農業会の発足、もう1つが満洲移民。農業会の発足により、会長が村長を兼務することとなったため辞任
42年移民の第25か年計画開始 ⇒ 戦争の長期化による軍事動員や労務需要拡大による人手不足から開拓民送出は困難になったにも拘わらず、計画は変更されないまま強行
42年度と43年度に、長野県は特別指導郡に指定され集中的に資金や人材を投入、下伊那郡も特別指導郡として2,000戸の目標を与えられた
送出基準案によれば、大下条村は総戸数726、うち過剰農家177、商工戸数177、農家1戸当たり耕地面積6.7(基準案では1町歩=10)、計画送出戸数100
5か年計画中に近隣5か村とともに、分郷移民を300戸送り出すこととされた
移民送出の実行機関は、県知事をトップとする信濃海外協会で、下伊那支部は全村長がメンバーとなり、衆議院議員を務めた国粋主義者が顧問に就任
具体化の段階で、単独分村が10か村、分郷が6組合となり、大下条村は近隣2か村とともに200戸の割り当てとなる ⇒ 下伊那郡全体で3,200戸積み上げ
忠綱は、自らの信念に基づき国策移民拒否を決めるが、戦時即応の国家統制下、ましてや433月の改正町村制の公布により、国政―県政―市町村政の一元化が強化され、国策の批判や拒否などできない状況下、僅かに残されたのは消極的姿勢/抵抗だった
忠綱の村長在任は431月末から同年12月初までの10か月余り。318日までは議会は開いたが議論したのは中学校建設についてで分村には手を付けず、次の1か月で分村を決議したが、丁寧かつ慎重に扱い時間をかけて現地視察を決めただけ、残る期間で分村を議題にしたのは僅かのまま退任。後任の農業会長が村長を兼務してから分村計画が急加速するも、結果として忠綱村政下の準備の遅れが阿南地域の分村移民計画の瓦解へと繋がる
忠綱は、反移民論者でもなく、反戦主義者でもない。青年時代に培った「本質を見抜く力」と「先を見る力」、そして人道主義的精神が、個人の段階におけるギリギリの抵抗を可能にした

第6章        教育と医療への情熱
忠綱が信念を貫けた背景には、それなりの村民の支持があったことは想像に難くない
右翼から圧力を受けながらも、分村移民以外では村長と村民の間に争いはなかったという
教育熱心で、中等学校の建設に注力 ⇒ 県立以外にも組合立が望月で設立されたことに驚きと希望を抱く
県立を交渉するも困難とわかり、近隣町村と協議して組合立を模索することになったが、時間がかかるため、まずは許可の降りやすい高等女学校を国民学校に村単独で併設することを優先し、43年度から開校を目指すが1年先送りされ、結局戦局悪化で断念
戦後48年になって、教育の機会均等の立場から阿南地域に新制高校を建設する方向となり、大下条村への開設が決定 ⇒ 動いたのは忠綱村政の収入役で当時の久保田助役

教育と並んで重視したのが医療
38年国民健康保険法公布 ⇒ 昭和恐慌下、医療費が農村家計を圧迫したことからその対策として出された施策で、長野県内でも市町村を範囲とする国保組合が作られた
翌年早々にも忠綱が中心となって組合を設立、下伊那郡下では最初の認可を受ける
終戦末期、千葉医科大からの疎開要請を受け、忠綱は村会議員として村長と交渉の結果、疎開を受け入れ、天竜分室を開校するも、僅か5かで終戦、短期間で終了したが、医専は医療資材の一部を残し、その後も施設育成を支援した結果、7か村共立を経て48年に県立阿南病院として総合病院が実現、現在も千葉大医学部の農村医学研究阿南分室がある
自称「五人組」 ⇒ 忠綱村政を支えた仲間で、2期目の肩書が助役、村会議員、収入役、書記の4人と忠綱。助役と村会議員は伊那自由大学時代の仲間

第7章        満洲国の崩壊と忠綱の戦後
満洲における本土決戦の準備 ⇒ 44.9.18.大本営は関東軍に「対ソ攻撃」から「持久戦」への転換を命令。本土決戦の後ろ盾として45.1.17.までに満洲東南部と朝鮮北部を確保する内容で、日本人開拓団が点在するソ満国境地帯の防衛は放棄され、更に45.5.30.大本営が関東軍に全面的戦争準備状態に入るよう命じ、関東軍は新京より南と東で対ソ持久戦の準備を進めたため、満洲全域のうち3/4が放棄された
同時に、本土決戦のため関東軍主力部隊の内地への移動も加速化、その補充として現地召集されたのが満洲在住の1745歳の日本人男性約15万で、うち開拓団からの応召は約47千で。開拓団には老人と女子供が残された
45.8.9.ソ連が157万の総兵力で満国境を超えて攻撃、8.15.には一部が新京に到達。終戦後も戦闘は続き、樺太の戦闘が終わったのは823
新京に残された居留民には避難命令が出されたが、避難用の列車に乗れたのは準備をしていた関東軍家族のみで、13日以降は鉄道もストップ
開拓地からの脱出が始まるが、情報もない中、ソ連の攻撃や中国人の襲撃に晒されながらの逃避行であり、避難民収容所の生活も極寒の中不衛生でチフスが蔓延する地獄の様相
463月ソ連軍が撤退、日本人引き揚げが始まったが、2年間の引き揚げで105万人が帰国、犠牲者は245千、うち8万人が開拓団
長野県の犠牲者は16,447人で、送出者の約半数が死亡
忠綱は、伊那自由大学で共に学んだ下伊那郡河野村(現、豊丘村)胡桃沢村長と開拓団を回顧 ⇒ 同時期村長を務めた胡桃沢だったが、時局乗り切りのために積極的に国策に沿って分村移民の道を選ぶが、2年にわたって入植した開拓団は終戦翌日73人が集団自決、自責の念に駆られた胡桃沢も翌年自決
満洲移民は、"歴史の過誤を告発し続ける
忠綱は、戦後は一転して分村による集団入植方式で、日本国内の開拓に村民を積極的に送り出す ⇒ 461月朝霧高原に送り出されたのが西富士長野開拓団130人。国策事業として農地拡充のための軍用地解放のニュースを聞いた忠綱が、戦後の引き揚げ者対策も兼ねていち早く議会として取り上げ、水に恵まれない不毛の原野だったが、6年で酪農地帯のとしての目途をつける
全国的にほとんどの戦後開拓は失敗に終わっているが、大下条村の西富士は成功の1
47.1.4.2次公職追放で、公職から追われるが、59年合併で誕生した阿南町の町議選に当選し地方政治に復帰、14年で引退し、以後政治に関わることもなく、叙勲の話にも興味を示さず、家業の養蚕業に専念、10年かけて果樹園に転換
68年妻死去(享年66)20年後、89年に忠綱死去(享年92)



旧大下条村長、録音発見 「王道楽土」に疑問 /長野
会員限定有料記事 毎日新聞201639日 地方版
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2016/03/09/20160309dd0phj000233000p/7.jpg?1
佐々木忠綱・旧大下条村長の肉声が収められたテープの複製CD=阿智村の満蒙開拓平和記念館で
住民へ横暴、土地の強制収用 旧満州への分村移民反対の心情吐露
 戦時中、国策だった旧満州(中国東北部)への「分村移民」に反対した旧大下条村(現阿南町)の村長、佐々木忠綱さん(1898〜1989年)が生前に語った録音が見つかり、阿智村の満蒙開拓平和記念館に複製したCDが寄贈された。分村移民を進めなかった理由などを述べており、同記念館は「難しい決断をした心情や、反対した実態が分かる貴重な資料だ」と話している。【湯浅聖一】
 音声はカセットテープに記録されており、元八十二銀行文化財団常務の笠原孟(はじめ)さん(68)=長野…


土の戦士 (1)~(10) 満州開拓そして悲劇/朝日新聞・長野

囲炉裏の火を囲み、父親が同年配の男の話に耳を傾けていた。男は夜、しばしば家にやって来て、熱心に何かを働きかけていた。1939(昭和14)年冬のことだった。


 当時満州と呼んでいた中国東北部に、泰阜村は分村移民の開拓団を送りだそうとしていた。勧誘は周辺の村にも及んだ。隣の富草村(現阿南町)の熊谷秋穂(79)は小学生だった。貧農の父親は男と何回か会った後、「満州に行けば10町歩(10ヘクタール)の土地が手に入る」と母親を説き伏せた。母親は「乳飲み子もいるから」と反対していたが、兄一家も渡満を決めたことから、渋々と応じた。熊谷一家は7人で40年3月、海を渡った。


      


 旧陸軍の関東軍が31年9月に起こした柳条湖事件の翌年3月、日本はかいらい国家・満州国をつくり出す。その地に敗戦の年まで開拓移民を送り続けた。


 敗戦時に在籍した満州移民の総勢は約27万人とされるが、正確な人数は今も分からない。県内からは全国最多の3万3千余人が移り住み、4分の1を下伊那地域が占める。開拓団に様々な形態がある中で、母村を挙げて送り出したのが分村移民だ。


 昨秋以来の世界不況は、米国の金融危機から広がった。80年前の前回も米国発で、日本では昭和恐慌と呼ばれた。そのさなか、満州への分村移民は疲弊した農村の再建策として登場する。母村の過剰人口を満州に送り出すとともに、処分した田畑を村民で分け合って農業の経営基盤を広げる――という図式だった。


      


 泰阜分村の総勢1千余人は、満州北東部の樺川県大(ター)八(パ)浪(ラン)に入植した。今の黒竜江省に当たる。鉄路に近く、沿線には他の開拓団が南北に並んでいた。ソ連(当時)との国境から約200キロだった。


 「割り当てられた土地は荒れ地なんかじゃなかった。耕地なんだ。中国人が耕作しておった土地を、そのまま使った。家だって初めの1年は、誰かが住んでいた古い家に入った」。熊谷は振り返る。「あれは開拓ではなかった」


 新聞は届かず、熊谷の集落にラジオはなかった。電話は本部(役場)と各区長の家にあるだけ。「暮らしはまずまずだった」が、戦況は分からないまま5年が過ぎた。45年6月、39歳の父親に赤紙(召集令状)が届いた。父親とは、その夕方に慌ただしく別れたのが最後。後に戦時死亡宣告を受けた。


 父親に赤紙が届いたのと同じころだった。長い編成の満員列車が南下するのが、農場から毎日のように見えた。「何かおかしい」。それでも、敗戦が迫っているとは予想もつかなかった。8月9日、ソ連軍が満州に攻め込んできた。


 合流して3千人前後になった開拓団員は、なぜか最後の避難列車を見送り、逃避行が始まる。長蛇の列は銃撃を受けたり、母親が幼子を連れて激流に身を投げたりして多くの人が死んだ。1カ月近く歩いてたどり着いた方正県で、ソ連軍に武装解除されて収容所に入った。


 熊谷はその後、中国の内戦に巻き込まれ、帰国は53年8月。この間、満州で生まれた末の妹は栄養不良から収容所で死亡。末の弟は、避難途中で中国人に預けられ、行方不明になった。戦時死亡宣告を受けたが、中国で生きていたことが後に分かる。


 熊谷は今、泰阜分村開拓団の帰国者でつくる大八浪会の会長を務めている。


      


 下伊那郡からは当時の5村が満州に分村移民を送り出した。一方で、分村を拒み通した村長がいた。旧大下条村の佐々木忠綱(1898~1989年)だ。天竜川を挟み泰阜村と隣り合わせた大下条村は、戦後合併して阿南町になった。隣接の村と比べて特に豊かとは言えない大下条村が分村移民を踏みとどまったのは、佐々木の信念に基づく行動によるものだった。


 敗戦の逃避行で、開拓団は各地で集団自決した。ある村長は敗戦の翌年に自殺した。分村移民を送り出した責任を感じての行為と受け止められている。佐々木はこの出来事を意識して、「もしあの時に分村しておったならば、大勢の犠牲者を出し、自分も生きておれなかったのではないか」と振り返っている。


 国策として分村移民を迫った時代は、前回の「百年に一度」の真っ最中だった。(敬称略)


(この連載は田中洋一が担当します)

http://mytown.asahi.com/nagano/news.php?k_id=21000380905060002

 (2)やせる村 すがる助成
天竜川に沿って伊那谷を南下する。飯田の市街地を過ぎると、山が幾重にも迫り、国道の起伏は激しくなる。平地はあまり目につかず、稲作に向かない傾斜地が続く。


 「百年に一度」の大恐慌が米国から飛び火した80年前、下伊那地域をはじめ信州の村々は、桑畑一色と呼べるほど養蚕が盛んだった。生糸は輸出産業の花形で、9割以上が米国向け。養蚕は農家に貴重な現金収入をもたらしていた。


 米国で女性用ストッキングの素材は、綿から絹(シルク)へと変わっていた。脚を美しく見せるからだ。絹は高価だったが、第1次大戦後の好景気に支えられて需要は伸びた。
 それが恐慌で一転する。横浜の生糸相場は1930(昭和5)年6月に30年来の安値をつける。連動して、農家が売り渡す繭価は同じ月、前年9月の3分の1に暴落したからたまらない。桑に偏った畑作が裏目に出たのだ。


 一家7人で40年3月に満州(中国東北部)へ渡った泰阜村の中島多鶴(83)の家は、養蚕を軸とする小農だった。「渡満する2、3年前に養蚕はやめていました。もうからなくなったからでしょう」。そのためか父親は地元小学校の職員も務め、始業や終業の鐘をたたいていた。


      


 満州移民は33年の第1次試験移民(武装移民とも呼ぶ)の弥栄(いやさか)村入植に始まる。36年に広田弘毅内閣は、関東軍の計画に基づき、20年間に100万戸(500万人)を満州に送り出す計画を重要国策に位置づけた。恐慌で疲弊した農村の再建策として国が、経済更生計画に満州への分村移民を加えたのは38年だ。


 分村移民を拒否することになる佐々木忠綱が、今の阿南町の東部を占めた旧大下条村で村長を務めたのは、こんな時代だった。


      


 長野県経済部が38年11月に立てた「満州分村計画樹立指針」の文書が残っている。分村計画の目的は、外に「友邦満州国の健全なる成生発展を促進」、内に「苦(く)悶(もん)せる農村の病根を芟(さん)除(じょ)(刈り取りの意味)」とある。


 他の集団移民と同じ政府補助を受けられるのに加え、分村なら移住地施設への融資や母村の自作農創設維持資金・負債整理資金が加わる。さらに経済更生特別助成村に指定されれば、助成金や資金融資のうまみがある。分村は200~300戸単位で、中心になる村からの戸数が過半数を占めれば、これらの助成や融資を受けられた。


 村々は競って分村移民計画を立てる。「バスに乗り遅れまい」。そんな競争心理が輪を掛けたといわれる。(敬称略)


 (3)移民地で見た「不安」
背広姿に帽子をかぶった佐々木忠綱が、下伊那郡の他の村長ら40人と共に写った集合写真がある。1938(昭和13)年5月15日の撮影で、大下条村(現阿南町)村長の佐々木は40歳だった。


 一行はこの日、天竜峡駅をたち、豊橋で列車を乗り換えて敦賀へ、そこから海を渡る。下伊那郡町村長会が主催する満州農業移民地視察だ。郡下の町村長のほぼ全員に、県社会課と郡農会の担当も加わり、総勢41人が24日間の視察旅行に赴いた。


 目的は、満州(中国東北部)への農業移民の促進だ。帰国後にまとめた報告書は、「はしがき」で人口増加と耕地の狭い農村を襲う深刻な不況を挙げ、「我が下伊那郡に至っては(略)零細農の見本」としている。


 その上で、「瞳を海の外に転ずるならば其(そ)処(こ)に満州の大陸が広漠たる未墾の沃(よく)野(や)を抱いて横(よこた)はってゐる」と満州を位置づけ、「農業移民の問題は、我が国の対満政策の一基調」と国策を強調。「町村当局が、自らこれを視察し現地の実相をよく認識する」よう求めている。


      


 視察の前年に盧溝橋事件が起き、日中は全面戦争に突入していた。そのあおりで視察は延期されていたが、満州の旅に支障は出なかった。


 この参加を機に村々の移民送出熱が盛り上がる。分村移民計画を立てると、国・県からの助成・補助や低利貸し付けのうまみがあった。川路村(現飯田市)を先頭に泰阜村、千代村(同)、上久堅村(同)が競うように分村移民を送り出した。郡下の複数の村が連合する分郷移民「下伊那郷」の計画もまとまる。


 だが、大下条村は最後まで分村移民の計画を立てなかった。佐々木村長が頑として首を縦に振らなかったからだ。


      


 89年に他界した佐々木の一周忌に回想録ができた。晩年の講演を基に、長男(故人)が編んだ。その中で佐々木は視察旅行をこう振り返っている。
 「一次の弥(いや)栄(さか)村と五次の信濃村はよく広野を開拓しつつあって感心しましたが、二次の千(ち)振(ぶり)郷と松島自由団は旧満人(満州の人々への蔑称(べっ・しょう))の耕地を追い出して日本人が入植した様(よう)な形跡も見られ何となく不安な感じが残りました」


 中国人と朝鮮人を追い出した後に日本人が入植したことを佐々木は見て取った。その結果、他の村長と異なり、国策に沿わない判断に至った。視察から7年後の敗戦で、日本人移民と現地中国人の力関係は逆転し、佐々木の「不安」は不幸にして的中する。(敬称略)


 【土の戦士4】中国人追い、入植
大下条村(現阿南町)の佐々木忠綱村長は1938(昭和13)年、下伊那郡の他の村長らと集団で満州(中国東北部)を視察旅行する。そこで彼が何を見て、どう感じたのかを直接に伝える記録は残っていない。


 数少ない戦後の資料が、前回引用した回想録の他にもう一つある。79年の座談会での発言だ。20年代の民間教育「伊那自由大学」に参加した佐々木が、当時の仲間や研究者に語っている。


 「視察してきて日本人が非常に威張っているということと……満人(満州の人々への蔑称(べっ・しょう))の土地を略奪してどんどんやっていくというようなやり方をしているのを見たり、日本人が(中国人を)侮辱しているところを見たり……はたしてよいものかどうか私も非常に疑問をもちまして……


      


 泰阜分村で40年に渡満した中島多鶴(83)は振り返る。「本当に肥えた土だった。日本から持って行った小豆をまくと、たくさん取れたので、母はびっくりしていた」


 それもそのはず。「畑はほとんどが中国人の耕した土地だった。『あの中国人はどこへ行ったの』と聞いたら、『分からない』と大人は首を振った」


 畑だけではない。一家が暮らす棟割り長屋の完成は入植の1年後。それまでは、中国人を追い出して彼らの家に入っていた。「天(てん)秤(びん)棒を担ぎ、子どもを何人も連れた中国人家族が出ていくのを見た。『どこに行くの』と大人に尋ねると、『じきに戻ってくる』と言われた」


 分村移民の全国的モデルとなった大日向分村の入植体験も同様だ。大林作三(91)は農林業を営む家の三男で、38年に大日向村(現佐久穂町)から満州中央部の現吉林省舒蘭県に入り、戦後は軽井沢町に再入植した。


 「分村の田畑には、国が良い既耕地を用意してあった。戦後の引き揚げ後は、噴石がごろごろする浅間山(さん)麓(ろく)で開墾から始めなければならず、はるかに大変だった」


 大日向分村も泰阜分村も、満州拓殖公社が畑は中国人から、田は朝鮮人から安く買い取っていた。有無を言わせなかったはずの買収に応じた人々は何を感じただろうか。


      


 佐々木村長らの視察旅行には、朝日新聞の記者が同行取材していた。一行の帰国直後、「小松特派員」による連載記事が長野版に載る。


 最終回はこう始まる。「記者の最も強調したい点は移民の何等(なん・ら)憂ふべきでないといふことである」――


 「広漠たる沃(よく)土(ど)に/農業施設は完全/行け憂ひなきこの大地へ」の見出しが躍る。視察旅行をした多くの参加者の心証が反映しているに違いない。(敬称略)

【土の戦士5】翼賛壮年団、詰め寄る
 満州(中国東北部)の入植地を集団視察して、村民を送り出すことに不安を感じた佐々木忠綱・大下条村(現阿南町)村長は、妻にだけ相談し、移民を出さない決断をしたとみられる。村職員に1940(昭和15)年春に採用され、後に助役を務めた熊谷龍男(93)は、佐々木の妻てる(故人)から聞いた話を明かした。
 「主人から『分村移民はやめようと思うけど、どうか』と相談された。『あなたがそう考えるなら、それがいいでしょう』と答えました」。満州視察から戻った佐々木は、分村移民を送り出すべきではないとの考えを固め、熊谷ら職員にも話していた。
 佐々木の孫で県飯田保健福祉事務所長の隆一郎(60)は祖父からこう聞いている。「『どうしたらいいだろう』とばあさんに話したら、『身内を行かせたくないような所に、人を送れないのではありませんか』」。隆一郎は「じいさんは好奇心が旺盛で、自分が経験したことしか信じない人でした」と振り返る。
 妻にだけ相談して決断した後、佐々木の判断と行動はぶれない。
      
 翼賛壮年団というグループが戦前の社会で幅を利かせていた。戦時体制下で市町村に根を張り、国策推進を強調した。それだけに、国策の分村移民に踏み切ろうとしない佐々木の姿勢に不満だった。
 翼壮の役員数人が村役場に何度か乗り込み、佐々木に詰め寄ったことを熊谷は覚えている。分村移民の重要性を説き、村からも送り出すよう迫ったという。だが佐々木は譲らず、「お前たちの言うことをそのまま聞くわけにはいかない」と突っぱねた。
 熊谷の目に、翼壮たちの態度はけんか腰というほど強硬には映らなかった。「翼壮の連中の中には村長の信奉者もいたし、分村以外で争いはなかったのだから」
 佐々木自身は81年の伊那自由大学の記念集会で語っている。「ある時は壮年団が全部寄ってきて、『村長なんだ、分村すべきじゃないか、各村が全(すべ)て分村しているのに、なぜ分村せんのか』と詰め寄られた」。「各村が全て」は誇張だが、緊張感が漂う。
      
 村長は戦前、村会議員の中から選ばれていた。公選は戦後の47年からだ。佐々木は37年5月と43年1月の2回、村長に就く。いずれも村会の全会一致で選出された。
 2回目に佐々木は「家事の都合」で辞退するが、村会は「飽(あ)く迄(まで)佐々木氏に受諾を乞(こ)ふ以外方法なし」と説き伏せる。村政への姿勢が不評なら、少なくとも2回目は選ばれなかっただろう。(敬称略)
http://mytown.asahi.com/nagano/news.php?k_id=21000000905080004

6)職務で出せぬ「本心」
村を割っての分村移民を一貫して拒んだ大下条村(現阿南町)村長、佐々木忠綱の本心は、分村に限らず、どのような形の満州移民も送り出したくなかったようだ。


 孫の隆一郎(県飯田保健福祉事務所長)が地元の大下条中学(現阿南第一中学)に通っていた1960年代前半のことだ。担任の中繁彦(76)は、佐々木から戦前の話を聞いたことがある。佐々木は教育ママならぬ「教育じいさん」で、学校にもよく足を運んだ。「お会いしたのをきっかけに、家を訪ねて話をお聞きしたのだと思う」


 満州移民に触れると、佐々木はこう語ったという。「村長時代に村役場の用務員から『村長、満州に移民で行きたい』と相談を受けた。私は『やめた方がいい』と彼をとめた」。彼から戦後、「あの時、行かないでよかった。村長に助けてもらった」と礼を言われたという。


 中は、満州移民に関心を強め、後に著書を出す。「泰阜村は分村にまで進み、多くの犠牲者を出した。当時の流れにあえて踏みとどまった佐々木さんの信念に、私は敬意を感じた。温厚で立派な方だった」と振り返る。


      


 満州移民の送り出しに反対のはずだった佐々木だが、村長として「本心」を表に出せなかったことがある。


 満州の集団視察から戻って4カ月後の38(昭和13)年10月、17歳の少年が満(まん)蒙(もう)開拓青少年義勇軍の願書を拓務相に提出する際、佐々木は推薦をしている。翌11月には21歳と26歳の女性を、義勇軍の寮母に推薦した。どちらも、阿南町が保管する旧大下条村の記録「満州移民一件」に残る。


 10代の少年を募る義勇軍は、3年間の訓練の後も現地にとどまり、農村建設に移ることを佐々木は知っていたはずだ。村の満州移民後援会長でもあった佐々木にとって、推薦は職務だったのだろう。


      


 満州移民は36年、広田弘毅内閣が7大国策に組み入れ、大量移民時代に移る。目的は、昭和恐慌に陥った農村の生き残り策から、「(日本と満州国の)不可分関係を強化し、満州国の健全なる発展に寄与」(広田首相)へとすり替わる。戦時体制が強まる中で、関東軍の対ソ連戦略としての位置づけが強化された。


 佐々木は村長として、移民や青少年義勇軍のすべてに反対したわけではない。だが、村の責任で送り出す分村移民だけはぎりぎりの線で認めたくなかったに違いない。


 新たな犠牲を出さずに済む佐々木の判断は、若き日に参加した社会教育運動で培われていた。
http://mytown.asahi.com/nagano/news.php?k_id=21000380905090002


810はみつからず





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2013
12051317分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201312051317154

地域


【安房海より】国策を拒んだ村長が信州にいた   田中洋一

 1930年代から敗戦直前まで、信州は全国で最も多い満蒙開拓団員を送り出した。開拓という美名の下に3万3千人余りが海を越えて満州国に渡った。しかし傀儡国を操る日本政府、端的に言えば陸軍関東軍は、ソ連との戦いに備える防波堤としての満州の強化に国民を巻き込んだのだ。満蒙開拓は36年に国策に位置づけられた。その国策を拒んだ村長が信州にいた。伊那谷南部の大下條村(現在の阿南町)の佐々木忠綱(18981989)だ。(本文から) 
 
  安倍政権が遮二無二(しゃにむに)今国会での成立をめざす特定秘密保護法。首相は「各国の情報機関との情報の交換……を行っていく上では、秘密を厳守することが大前提」(衆院予算委員会)と強調する。だが世論の反発は根強い。福島市での公聴会では、自民党推薦を含むすべての意見陳述者が法案に反対した。 
 
  問題の肝は、国家主権の伸長と市民社会の自由のどちらを優先するかにある、と私は受け止めている。私自身は、かつて敗戦に至った反省の下に市民社会の自由を最大限尊重し、国策の遂行は憲法の許す範囲に留めるべきだと考えている。 
 
  本業の中でも取り上げたい課題だが、苦慮している。館山は戦前は海軍航空隊の基地で、現在も自衛隊最大のヘリコプター基地がある。秘密漏洩と疑われた事例を探しているが、見当たらない。その中で信州(長野県)伊那谷で取材したある人物を思い起こす。 
  1930年代から敗戦直前まで、信州は全国で最も多い満蒙開拓団員を送り出した。開拓という美名の下に3万3千人余りが海を越えて満州国に渡った。しかし傀儡国を操る日本政府、端的に言えば陸軍関東軍は、ソ連との戦いに備える防波堤としての満州の強化に国民を巻き込んだのだ。満蒙開拓は36年に国策に位置づけられた。 
 
  その国策を拒んだ村長が信州にいた。伊那谷南部の大下條村(現在の阿南町)の佐々木忠綱(18981989)だ。佐々木は郡内の他の村長ら指導者と合同で満州農業移民地視察に参加する。そこで見聞きしたことが、彼の満州開拓像を形作る。「日本人が非常に威張っている……満人の土地を略奪してどんどんやっていくというようなやり方をしている」と後に振り返っている。 
 
  40人近い村長らが参加した視察で、佐々木ひとりが否定的に受け止めた。妻とだけ相談し、その信念を曲げない行動を貫いた。 
 
  少し説明がいる。満蒙開拓には様々あった。佐々木が頑として応じなかったのは、村(母村)の責任で住民を送り出す分村移民。住民の半ばを新天地の満州に送り出し、残る母村は耕地を広げて農道を拡幅する。国県が補助を優遇する、いわば村おこしだった。 
 
  満州移民は大きな犠牲を招いた。分村ではないが、移民の募集に応じようとした村役場の用務員は、佐々木に止められた。「あの時、行かないでよかった。村長に助けてもらった」と述懐する。 
 
  翼賛壮年団の若者らが国策遂行を叫んで役場に度々押し掛けたが、佐々木の決心は揺るがない。若き日に参加した社会教育運動の伊那自由大学が心の支えになり、ここで学んだ自由主義の精神が根付いていたからだ。講師陣には「山宣一人孤塁を守る」と治安維持法に反対し、右翼に刺し殺された代議士の山本宣治もいた。 
 
  特定秘密保護法案の先行きが不透明な今、信念に基づき、孤立を恐れない。そんな精神力と行動力を、佐々木から学びたい。 



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·        2015/11/8() 午前 11:34
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<ニュースを問う> 満蒙開拓と2人の村長 

2015/10/11
中日新聞 朝刊

河野村長時代の胡桃沢盛
 国策に抵抗し、村民の命を救った村長の足跡をたどっていたとき、村民らを死に追いやった責めを負って自死したもう一人の村長を知った。信州版で書いた連載記事「国策の大地~満蒙開拓と2人の村長」(八月十二~二十二日)でその対照的な生きざまを描いたのは、政治家の責任とは何か、という素朴な問いからだった。

 戦前の旧満州国(現中国東北部)への移民事業「満蒙開拓団」では、村民の一部を丸ごと移民させる見返りに助成金が出る「分村移民」が推奨され、全国約二十七万人、長野県から最多の三万三千人余が送り出された。

現地視察で決断

 大下条村(現長野県阿南町)の村長佐々木忠綱(一八九八~一九八九年)が国策を拒否したのは、現地への視察旅行がきっかけだった。回想録には「旧満人を追い出して日本人が入植した様な形跡も見られ(中略)ちょっと威張りすぎではないか」と記されている。

 親交があった中繁彦さん(84)は「土地を取り上げた日本人が威張っている様子に『これはまずい』と疑問を持ったそうだ」と佐々木の言葉を思い起こす。国会議員が「おまえの首を切るぐらい世話ないぞ」とどう喝し、翼賛壮年団が「全て分村しているのに、なぜ分村せんのか」と押しかけたが、佐々木は信念を貫いた。

 一方、河野村(同豊丘村)の村長胡桃沢盛(一九〇五~四六年)は分村を決断し、約百人を送り出した。もともと社会主義に共鳴する青年期を過ごし、当初は移民に消極的な胡桃沢だったが、国や県の強い要請で揺れていく。模範的な皇国農村に指定され、助成金を貧しい村に得るため、最終的に分村移民を決断したようだ。日記には「安意のみを願っていては今の時局を乗り切れない」とつづられている。

 河野村開拓団は集団自決に追い込まれた。当時十五歳で、一人だけ生きて故郷に戻った久保田諫さん(85)は、母親たちともんぺのひもで子らの首を絞め、苦しんで抵抗する子らのみぞおちを蹴って絶命させる役を担わされた。「お父さんのところに行くぞ、と声をかけると手を合わせる子もおった。あれは忘れたくても忘れられない」。胡桃沢は四六年七月、四十一歳の若さで自ら命を絶った。遺書には「開拓民を悲惨な状況に追い込んで申し訳がない」と記してあったという。

 拒否と推進。その決断は村民の生死を分けた。

 佐々木の人物像を論文にまとめた元高校教諭の大日方悦夫さん(62)は、国策拒否の判断を、孔子の逸話になぞらえる。

 孔子は、重い荷物に苦しむ一頭の牛を見て、助けようと言った。弟子は、この国には荷物に苦しむたくさんの牛がいるから、助けてもしょうがないと言った。すると、孔子は弟子にこう言った。私の目の前にいるから助けるのだ、と。

 大日方さんは「佐々木さんは、声高に反対を唱えたわけではない。個人の行動では国策という大きな流れは変えられない。でも、自分にできるぎりぎりの行動で、目の前の多くの命を救った。危機の時代には、良心的な一つの行動が命を救う」と語る。

 では、悲劇を招いた胡桃沢の決断を断罪できるか。長男の健さん(77)は「おやじは真面目で村を思ったからこそ、時代の流れにのまれていった」と振り返り、つぶやくように言った。

 「きちんと責任を取る政治家がいない中、おやじなりの責任の取り方だったと思うとほっとする。だけど同時に、なぜそれがおやじだったのか、とも思う」

8万人が犠牲に

 「王道楽土」「五族協和」のスローガンで理想の地と宣伝、推進した政治家たちは口を閉ざし、何事もなかったように戦後を生きた。逃避行での襲撃、病気などによる八万人もの犠牲に対し、その責任は問われないままだ。

 安全保障をめぐり、今また日本は大きな転換点を迎えている。政治家の振る舞いに目をこらしたい。何を言ったか。責任をどうとるつもりか。国政、地方問わず、見つめ続けなければならない。

 分村拒否を貫いた佐々木の信念がぶれなかった理由を、孫の男性(66)は祖父から直接聞いていた。

 苦悩する佐々木はある日、妻のてるに相談し、てるから「身内をやることができる場所なのですか。やれないならやめておきなさい」と助言された、という。

 「じいさんの最後の判断基準は、家族だった。家族をやれないのに他人を送り出せない。当たり前の感覚を貫いた」

 今の政治家たちの目線は、その当たり前のところにあるのだろうか。二人の村長が突きつける問いは、いっそう重みを増している。誤った政治判断を、二度と不問に付してはならない、と思う。

(穴水通信部=前長野支局・武藤周吉)


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