勝海舟の罠  水野靖夫  2018.7.25.


2018.7.25. 勝海舟の罠 氷川清話の呪縛、西郷会談の真実

著者 水野靖夫 昭和18年東京生まれ。41年東大法卒、三和銀行入行。海外駐在を含め国際関係部門に勤務。退社後は歴史研究に専念し、現在も精力的に講演や執筆活動を行っている。著書に、『広辞苑の罠』『(Q&A)近現代史の必須知識』『「漢字の力」の鍛えかた』

発行日           2018.4.1. 第1刷発行
発行所           毎日ワンズ


はじめに
角川文庫本1972年版の『氷川清話』を読み、15年放映の《江戸無血開城》を見て、かねて山岡鉄舟に関心をもって集めた資料の内容とあまりに違うところから、どちらが真実なのか突き詰めた結果、『氷川清話』は勝の自慢話や放談で、内容的には信用できないことが判明、『英国公文書などで読み解く江戸城無血開城の新事実』を発刊したのがベース
目的は、「通説」に対する「資料による検証」であって、「通説」が実は「俗説」と判明

第1章        勝海舟、海へ
「海舟」の号は、佐久間象山の「海舟書屋」の額からとったもので、誰の号だかわからないままに拝借していると、『氷川清話』の冒頭で語っているように、同書にはそうした他人の功績を横取りした話が満載されているのは単なる偶然ではない
赤貧だった若い頃に本屋で立ち読みしていたらある奇特な人がいて200両ポンと出してくれたとあるが、本当かどうか? 
ペリー来航に際し、勝が『海防意見書』を出し、貿易で国を富ませて国防に当てることを建策したと言われるが、ペリーが来る前に竹川竹斎の『護国論』の受け売りと推定される
長崎海軍伝習所に6年いて新入生を教授したとあるが、せいぜい3年半のこと
咸臨丸での渡航についても、正使は米艦ポーハタン号に乗船、勝はあくまで副使であり、操船も日本人だけでやったように書いているが、勝はほとんど体調を崩して船倉におり、アメリカ人ブルック大尉以下のアメリカ人水兵がやっていた

第2章        交渉人・勝海舟
幕末から明治にかけて、当事者でもないのに始終外交談判を手伝ったとある。頭の回転が速く、機転が利き、能弁家ゆえに交渉役として重宝がられた
頼まれても一度は辞退し、「全権委任」を取り付けるのが常套句だったが、うまくいったように語っているがほとんど成功していない
数少ない成功例の1つが、わが国初の軍艦行進 ⇒ 1863年将軍家茂の上洛に際し、国防のためには海軍が必要だとして、各藩から軍艦を供出させ、海路上洛を決行。勝の身分は「軍艦奉行並」、勝の絶頂期でありこの功により軍艦奉行に昇格するが6か月後には罷免
1862年「対馬事件」 ⇒ ロシアの軍艦が島を占拠した事件で、勝が英国公使を動かしてロシアに圧力をかけて撤退させたように語るが、実際には正式な外交ルートからの要求と、同じように同島占領に目をつけていた英国艦隊の牽制が功を奏した結果
1864年「下関砲撃阻止」 ⇒ 前年に長州が英仏蘭の艦隊を砲撃した報復として、米国を加えた4国艦隊が下関を砲撃する際、勝が各国領事と交渉して延期させたと語るが、参与会議が朝廷に開国を進言するも却下され、開国の目途も立たないままに4国艦隊が砲撃に踏み切ったもので、勝がやったのは開国に向かわせるので待ってくれと申し入れただけ
1866年「会薩会談」 ⇒ 第2次長州征伐に当たり、京都守護職だった会津が薩摩を裏切り者として出兵に応じなかったため、勝が説得したというが、すでに薩摩は長州と薩長同盟を締結しており、両者とも出兵を拒否したままに終わる
勝の幼名は「麟太郎」だが、「麒麟」の「麒」が雄で、「麟」は雌

第3章        江戸無血開城
勝曰く、「百万の市民が殺されもせずに済んだのは実に西郷の力、その後の繁盛の基を開いたのは実に大久保の功。おれはただ至誠をもって利害を官軍に説くばかりだ。山岡とは初めて会ったが、西郷宛に1通の手紙を預けた。山岡とはその後長く莫逆の交わりを結ぶ」
官軍の江戸総攻撃に直面し、慶喜は恭順の意を示したが、官軍に伝えるすべがなかったために、高橋泥舟を使者にしようとしたが、それでは将軍の警護がなくなるというので泥舟の推薦によって義弟の山岡が駿府にいた西郷に会いに行くことになった
勝にも相談があったが、前記の通り勝自身では打つ手がなかった
山岡の『談判筆記』によれば、「自分が直接西郷に会って降伏の条件交渉をし、慶喜の備前お預けを蹴って譲歩を獲得した」が、勝の手紙については一言も残していない。「そのあと西郷の江戸到着を待って勝とともに3人で薩摩藩邸で会談、条件履行を確認した」とある
勝と西郷の江戸会談の目的は、鉄舟に肩書(「精鋭隊頭」)がなかったため、西郷が幕閣のしかるべき地位の者に会って確証をとることで、勝の肩書は「軍事取扱」。陸海軍総裁の上に置かれた臨時のポストであり、戦う必要のなくなった軍の指揮官に過ぎない
『氷川清話』では、勝が出した手紙によって西郷が面会を求めてきて難しいネゴになったとあるが、どんな話をしたかも無血開城に至った経緯もわからない。にもかかわらず幾多の著名学者までが、勝が山岡を「派遣」して交渉に当たらせたと記している
さらに勝が行ったとされる事前工作の1つに、英国公使パークスを使って西郷に圧力をかけたというのがあるが、勝はそのことを一言も言っていない
鉄舟の手柄を勝が盗んだにもかかわらず、『氷川清話』での勝のホラ話を多くの人が信じ込み、さらには西郷勝の2者による会談を描いた聖徳記念絵画館の壁画によって、両者の会談によって江戸無血開城が実現したという俗説が出来上がった
1881年新政府が維新の功績調査を実施、勝は勲功録を提出したが、鉄舟は幕臣として当然のことを下までと何も出さず。後日徳川宗家を継いだ16代の家達がお家存続の功労者として鉄舟に家宝の武蔵正宗を下賜したが、明治の元勲に贈られるべきとして岩倉具視に譲ったのを岩倉が多として、名刀の由来と鉄舟の功績を口述して残したのが『正宗鍛刀記』

第4章        明治の勝海舟
江戸開城後の治安維持についての勝の話も出鱈目だらけ。大久保に頼まれて勝がやったように書いているが、大久保は江戸にいなかったばかりでなく、元々市中の治安維持は徳川方が約束したもの
1873年勝は海軍卿兼参議となるが、10か月で辞表を提出、その間の実績は何もない
その後の久光呼び戻しや、西郷が鹿児島で兵を挙げた際の説得役なども渋々引き受けたように話しているが、実効は上がっていないどころか、西郷が不平党のために死んだが、実に工夫のない智慧のない男だと、尊敬していた西郷を貶める話すらしている

第5章        妄友(ぼうゆう)
勝は、西郷が亡くなった直後、自分と親しかった亡友の遺墨を集めて『亡友帖』を作成したが、そこに記載されたのは、佐久間象山、吉田松陰、島津斉彬、山内容堂、木戸孝允、西郷隆盛、横井小楠、小松帯刀、広沢真臣、八田知紀
ちなみに筆者の独断でお互いに相手を嫌いだった人々を集めて妄友帖なるものを作ったとしたら、記載されるのは徳川慶喜、藤田東湖(国を思う赤心がなく不満の徒と騒いでいるだけ)、栗本鋤雲(小栗一派として嫌う)、新島襄、原市之進、小栗上野介、福沢諭吉

第6章        勝海舟の人物像
「剣」と「禅」の修行により胆力が磨かれた

あとがき
勝がホラ吹きであることは周知の事実だが、江戸城無血開城は明らかに俗説であり、正しておく必要がある
静岡市にある「西郷山岡会見之史跡」の説明文が歴史ファンの努力で、17年に改訂され、従来の「勝海舟の命を受けた幕臣山岡」から、「徳川慶喜の命を受けた」と正された



l  明治の天才画家青木繁の代表作《海の幸》千葉県布良海岸が舞台 ⇒ ブリヂストン美術館所蔵、重要文化財
恋人たねとの子が福田蘭堂、孫が石橋エータロー
l  P.111 「莫逆の交わり」には仮名ふりが必要? 「参内」や「基」にふるくらいなら
l  P.113 「死を決して...言上する」とは?
l  P.114 「兵端が開かれている」という言葉はあるのか?
l  P.130 「始まらない前から」はない
l  P.133 「四首の漢詩の一首」とは「五言絶句」のこと?
l  P.142 「西郷の情の厚さが」は「篤さ」
l  P.148 「初対面とわかっていながら、派遣したと言っているのは矛盾している」とあるが、何と「矛盾」しているのか
l  P.237 「枚挙に遑がない」には仮名ふりが必要?
l  P.250 「身を栄辱のほかにおく」
l  P.258 「その勢いに辟易して」は、「押されて」とか「圧倒されて」

コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.