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日本語の科学が世界を変える  松尾義之  2015.6.24.

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2015.6.24.   日本語の科学が世界を変える 著者 松尾義之 白日社編集長。科学ジャーナリスト。東京農工大非常勤講師 ( 技術者倫理 ) 。 1951 年東京生まれ。都立国立高卒。東京農工大工学部応用物理学科卒。日本経済新聞社入社。 85 ~ 11 年 TV 東京系列の科学技術番組「シンクタン ク」のキャスター。 00 年退社。 01 年から現職 発行日            2015.1.15.  初版第 1 刷発行           3.15.  初版第 2 刷発行 発行所            筑摩書房 ( 筑摩選書 ) 世界をリードする日本の科学・技術。その卓抜した成果の背景には「日本語による科学的思考」がある !  江戸から明治期、西欧から入る外国語の知を翻訳して取り込み、母国語の知識体系に位置付け直してきた歴史に遡り、また多くの科学者たちの証言を手掛かりにして、この命題に迫る。そして、本来質の高い日本の科学が直面している問題に対峙、さらなる発展への道を提起する。ユニークな視点から解く、新しい「科学論」 はじめに 益川博士のノーベル賞受賞スピーチの冒頭、 ”I can not speak English.” といったことは、改めて英語のスピーチなど流暢でなくとも、日本語による精密な思考や議論を通じて、人類が迫り得る最も深遠な理論や考察は出来る、英語なんかより、日本語の数学や物理学が大事だということを改めて教えてくれた 日本の科学者の大半は英語で論文を書くのが普通になっているが、それゆえの問題が生じていると指摘する研究者もいる 科学知識には「英語以外の言葉による表現形式」が存在すること、その代表的なものが日本語の科学であること、それを最初に認識したのはネイチャー誌の名編集長ジョン・マドックス氏 ⇒ 後述のように、半世紀も前にハイゼンベルクが日本人理論物理学者の貢献を高く評価して指摘している 日本 ( と中国 ) だけが、最初から英語で科学教育をしないのは、日本語の中に、科学を自由自在に理解し創造するための用語、概念、知識、思考法までもが十二分に用意されているから ⇒ 過去 1500 年以上にわたり、異文化の持つ新しい知識や概念、文化を積極的に取り入れてきたが、その際新しい言葉を創造して

辰野金吾  河上眞理・清水重敦  2015.6.22.

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2015.6.22.  辰野金吾 美術は建築に応用されざるべからず 著者 河上眞理  1963 年千葉県生まれ。美術史家。ヴェネツィア・カ・フォスカリ大学大学院博士課程修了。現在、京都造形芸術大准教授 清水重敦  1971 年東京都生まれ。建築史家。東大大学院工学系研究科博士課程単位取得退学。現在、京都工芸繊維大准教授。工学博士。『建築保存概念の生成史』で建築史学会賞、日本イコモス奨励賞受賞 発行日            2015.3.10.  初版第 1 刷発行 発行所            ミネルヴァ書房 ( 日本評伝選 ) 建築界の礎を築き、東京駅や日本銀行本店など日本を代表する建築作品を設計したことで知られる辰野金吾。ヨーロッパで学んだ「美術建築」という考え方をどう日本に根付かせようとしたのか。新たな資料を元にその足跡を丹念に辿りなおし、従来とは異なる辰野像を提示する はじめに 辰野の没後、記念事業として辰野家に贈呈するために肖像画を描いた松岡壽と辰野との関係は、これまで注目されることはなかったが、ここにこそこれまでに知られてこなかった新たなと言っても過言ではない辰野像を投影するための鍵がある。その鍵とは、 2 人を結びつけていた「美術建築」と言う思想 辰野の美術への関心は、卒論で建築装飾について考察せざるを得なくなったことに発しているが、ヨーロッパ留学においてその課題解決の方法論を様々な側面から学ぶ中で、この「美術建築」概念と出会う。この考え方は、留学時代の師で 19 世紀イギリスを代表するゴシック・リヴァイバル期の建築家で自らを「美術建築家」と標榜したウィリアム・バージェス (1827 ~ 81) から学んだものであり、辰野の建築観を醸成する土台となった 留学時代のスケッチブック『辰野金吾滞欧野帳』の発見等の新たな資料から、これまでの評伝にはなかった辰野像と揺籃期の日本の建築界の姿を見つめ直してみる 第1章         辰野金吾という人 仇名の「辰野堅固」は、建築に向き合う時の真摯な態度から作り上げられたイメージ もうひとつが「辰野おやぢ」で、家族や同級生、教え子に対しては慈愛に満ちた内の顔 辰野の身に大きな変動が訪れたのは、同年生まれの高橋是清との出会い ⇒ 唐津藩が新設