ホワイトハウスのピアニスト Nigel Cliff 2018.8.14.
2018.8.14. ホワイトハウスのピアニスト ヴァン・クライバーンと冷戦
Moscow
Nights : The Van Cliburn Story
~ How One Man and His Piano Transformed the Cold War 2016
著者 Nigel Cliff 歴史家、伝記作家。処女作『The Shakespeare Riots』で、芸術関係のノンフィクションに送られるアメリカのNational Award for Arts Writingの最終候補、『ワシントン・ポスト』のベスト・ブックスとなり、第2作の『ヴァスコ・ダ・ガマの聖戦』は『ニューヨーク・タイムズ』の2011年注目の100冊に選出。最新作はマルコ・ポーロの『東方見聞録』の新訳。もと『タイムズ』の映画・演劇批評担当で、『エコノミスト』にも寄稿。現在は『ニューヨーク・タイムズ』の書評欄を含む幅広い出版活動を行う。オックスフォード大ハリス・マンチェスター・カレッジのフェロー。ロンドン在住
訳者 松村哲哉 1955年生まれ。慶應大経卒。主な訳書『音楽史を変えた5つの発明』
発行日 2017.8.15. 印刷 9.10. 発行
発行所 白水社
帯
アメリカのピアニストにモスクワが、ソ連中が熱狂した。
第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。彼を記念したコンクールに名を残し、アイゼンハワーからオバマまでの歴代大統領から招待を受け演奏したクライバーン。
東西冷戦と商業主義に翻弄されつつも、音楽への愛で米ソを動かした、その数奇な生涯を初めて明らかにする。
イントロダクション
1958.5.28.ニューヨークのブロードウェイでティッカーパレードの主役は、23歳の青年ピアニストで、冷戦の当時、敵方のロシア人のほうがアメリカ人より先にクライバーンに夢中になった。一人の青年の音楽に対する思いによって、青年と1国の国民との間に、狂おしくも激しい愛が芽生えた
5か月前ソ連はスプートニクを挙げ宇宙開発競争でセンセーショナルな勝利を収めたのに対し、米国民は自分たちの防御が心もとなく思えたが、クライバーンはピアニストというよりお守りのような存在となり自らの音楽によって病んだ世界を癒し、人々に希望をもたらした
クライバーン自身もそれを望んではいたが、彼を栄光の座に押し上げた若き日の成功が足枷となる。プライバシーを気にしながらも人々を魅了する社交家といったような二面性を持つ男となり、冷戦という不安定な状況下演奏活動を継続、心は常にモスクワにあり、歴代の大統領とソ連の指導者から招待を受け、FBIとKGBの双方から監視され、コンクールで競い合ったライバルたちが悲惨な目に会ってもなす術もなかった
アメリカで最も有名な世捨て人となり、ひとりっきりの平和使節はその使命を終わったと思われたが、誰もが途方に暮れたその時、時代の求めに応えるかのようにクライバーンの伝説は再び輝きを放つ
膨大な回数のインタビューと米ロ双方のアーカイブから新たに公開された証拠に基づき、本書は、人間クライバーンとチャイコフスキー国際コンクールの全貌を初めて明らかにすると同時に、冷戦の主役たちも重要な役割を果たし、思いがけず花を添えることになったチャイコフスキーとラフマニノフのピアノ協奏曲を巡るエピソードも紹介
20世紀前半の歴史は、若さとしたたかさを併せ持つ2つの国家の対立の歴史。ともに多民族国家として、ヨーロッパの洗練された感覚と田舎者のやぼったさを併せ持つ。ともに現実離れした理想主義を掲げ、アメリカが「丘の上に輝く町」だとすればロシアは「第3のローマ」であり、常に信仰に拠り所を見出す国家、アメリカが自由を通じて幸福を追求したのに対し、ロシアは独裁制により安定を追い求めた。アメリカを代表するヒーローがビジネスマンであり実業家だとすればロシアは比類なき集中力を発揮して人間の魂に向き合う芸術家
誰も予想していないところで、音楽を通じて両国の奥深くで通じ合える部分があることが証明された、というのも、19世紀から20世紀の初頭にかけて、当のロシアを含めて世界中のどの国よりもロシア音楽を愛していたのはアメリカだったから
ふたつのプレリュード
² チャイコフスキーをめぐる物語
チャイコフスキーの音楽は、ロシア人からするとあまりに西欧的で、ロシア以外のヨーロッパの聴衆にとっては余りにも野暮に聞こえた
1874年初めてピアノ協奏曲を作曲するに際し、広く受け入れられるであろう西欧とロシアの伝統を融合させた新たな作曲スタイルの創造に乗り出し、退屈で薄給のロシア音楽院教授の座から独立しようと考えた。モスクワ音楽院創立者のニコライ・ルビンシテインに献呈する積りでいたが、味噌くそに言われたので、代わりに当時知己を得たばかりのドイツ音楽界の巨人でピアニストのハンス・フォン・ビューローに献呈したところ、すぐに大袈裟な賛辞が返って来てチャイコフスキーを安堵させた
初演は75年にビューローのアメリカ公演に合わせてボストンで行われ、批評家は酷評だったが聴衆は熱狂、ニューヨークではさらにヒートアップ
ニコライの兄でサンクトぺテルブルク音楽院の創設者でもあるアントンも太い指をした気性の激しいピアニスト・作曲家だったがこの曲を取り上げ、最終的にはニコライも折れて演奏会でも取り上げた
第2番をニコライに献呈したが初演する前に亡くなり、81年に英国のピアニスト、シラーによってアメリカで初演
アメリカの方が自分の作品を温かく迎えてくれることを知り、カーネギーホールのオープニングへの招待には喜んで出席、演奏旅行の行く先々での大歓迎に感激しつつ、故国を思う毎日が続くにつれ帰国を決意、2度とアメリカに戻ることはなく2年後に死去
ラフマニノフとホロヴィッツはこの曲で華々しいアメリカデビューを飾る
この協奏曲が世界で最も有名なクラシックの名曲となるには、テキサス出身の若きピアニストの登場を待たねばならなかった。チャイコフスキーがその話を聞いてもさほど驚かなかったことだろう
² ラフマニノフをめぐる物語
1918年ラフマニノフは家族ともども共産党の祖国を逃れて、9年前に自作のピアノ協奏曲第3番を初演したニューヨークを目指した
同年、プロコフィエフもアメリカデビューを果たした
ロシアからの亡命者の第2波がアメリカに来た時には、第1波の音楽家たちがアメリカの音楽界を牛耳っていた
39年ストラヴィンスキーがウェスト・ハリウッドに亡命してきたのにつられ、ハイフェッツやアルトゥール・ルービンシュタインなどが集まりだし、ラフマニノフもビバリーヒルズに移り住む
戦時下の米ソ間の友好関係を深める上で音楽はまことに効果的 ⇒ 音楽を通じた両国の絆として最も印象的な出来事は、ショスタコーヴィチの《レニングラード交響曲》の総譜が連合国によって空輸され、レニングラードより先にロンドンとニューヨークで演奏されたこと ⇒ ニューヨークでは指揮者たちがこぞってこの曲を取り上げ、全米各地で6か月の間に62回も演奏。ロシア音楽がこれ程の称賛と敬意を集め、栄光に包まれた時代は初めてであり、ロシア音楽がこれほどアメリカ文化に馴染んだ時代はなかった
第1楽章
ソニャンド――夢を追いながら
1933年ピアニストの夢を追い続けたリルディア・ビーが37歳で(ラ)ヴァンを出産
リルディアはルイジアナ州で2年前に演奏に来たラフマニノフに出会う ⇒ 最も尊敬するピアニストだったが、興行は不入りでラフマニノフは「嘆かわしい」とぼやき、二度と来ることはなかった
3歳から母親の手ほどきでピアノを始め、40年に母親の先祖の土地テキサスのキルゴアーに移住。母親はピアニストを夢見てアルトゥール・フリードハイムについていたが亡命
12歳でテキサス州音楽コンテストの課題曲の1つにチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番があり21日間で曲を覚えて優勝賞金200ドルを獲得するとともに、ヒューストン交響楽団と共演
51年ジュリアード音楽院入院、71歳の絶対権力者ロジ―ナ・レヴィーンに会う
レヴィーンは、モスクワ音楽院を首席で卒業、第1次大戦中ドイツで抑留、ロシア革命で財産を失いアメリカに亡命、夫でピアニストのヨゼフが亡くなるとロシア・ロマンティシズムの黄金時代をアメリカに伝えるピアニストとして第1人者となり、24年からジュリアードの教授
ヴァンほど、ロシア・ピアニズムの伝統に大きな畏敬の念を抱いているものはなく、それだけにロジーナにつきたかったが、いつもクラスは定員超過、直接聴いてもらってクラスに入れてもらうことに成功
10代になると急に背が高くなり、手も大きくなってドから次のラまで13鍵押さえられる、縮れた髪の毛は絡み合って手が付けられなくなり、高校卒業時の知能指数は119、高校卒業の成績は103人中12番、人格、協調性、将来性は優だが、リーダーシップは可
ジュリアードに入って初めて親から独立、羽目を外して喫煙や飲酒も始まる
通常は専攻の異なる学生同士が打ち解けないが、ヴァンは誰かれ構わず近づき、レオンタイン・プライスもびっくりしていた
ヴァンが好んだチャイコフスキーやラフマニノフ、リストはインテリ学生にとっては時代遅れであり、ヴァンはそれだけでもまともな芸術家と見做されなかった
夜な夜な57丁目のスタインウェイ・ホールの地下に潜り込み、練習用に開放されたピアノを弾いていた
52年『ダラス・モーニング・ニューズ』紙社主の名に因む「G.B.ディーリー記念賞」受賞、300ドルとダラス交響楽団との共演、ソロ・リサイタルを勝ち取る
同年コシチューシコ財団のショパン賞受賞、1000ドル獲得
翌年春ジュリアードの600ドルの奨学金獲得
新学期の初め、毎年ソリストとしてジュリアード交響楽団との共演をかけたコンクールがあり、その年はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番、決勝をやるまでもなくヴァンが優勝
やることが支離滅裂、演奏会に寝坊したり練習中も気儘、音楽以外のことには全く興味を示さず
スターリンとプロコフィエフが死去
53年4月9日キルゴアーの町はこの日をヴァン・クライバーンの日とした
ヴァンが普段から実行してい最高の演奏を聴かせるための解決策は、コンサート開始直前、或いは少し遅れ気味に来て、そのまますぐにステージに出て演奏を始めるというやり方で、その日も1時間半以上も遅れて来て、いきなり派手な装飾音をつけて国歌を演奏し始め、聴衆をいっぺんに燃え上がらせた。聴衆のエネルギーはヴァンにとって神の祝福であると同時に重荷でもあった
演奏は奉仕であり、すべての聴衆を尊重する必要があるというのが、ヴァンの信条
レーヴェントリット国際コンクールでは、ゼルキンとジョージ・セルが中心的役割を果たしていて、スタインウェイ・ホールでの演奏会にはミトロプーロスやイストミン、バーンスタインなどが顔を揃える ⇒ 市公会堂で行われたファイナルではチャイコフスキーの協奏曲を弾き、審査員の全員一致で優勝
同年4月のジュリアードの卒業リサイタルでもロジーナから「優秀」の評価を得る
11月にはカーネギー・ホールでデビュー、ミトロプーロス指揮のニューヨーク・フィルとの共演。第1楽章が終わると歓声とブラボーの嵐が聴衆のみならずオーケストラからも起こるが、翌朝の批評は好意的ではあったが熱狂的というほどではなかった
55年CAMIとマネージメント契約。NBCのトークショー《トゥナイト》に出演したこともあって突如コンサートの数が増え、このシーズンだけでオーケストラとの共演が20回、リサイタルも10回を数える
ホロヴィッツが、「ピアニストには3種類しかいない。ユダヤ人とゲイと下手くそ」と言ったように、学生部長がゲイだったジュリアードも例外ではなかったが、ヴァンは自分の性的嗜好を口外することはなく、南部出身の紳士であることを守った
フルタイムの仕事についている音楽家の給与 ⇒ 映画業界で働く数百人は平均年収8,677ドル、旅回りのダンスバンドの数千人は6,000ドル、コンサート・オーケストラで働く2,671人は1,980ドル、オペラやバレエの関係者は1,000ドル前後
ヴァンの55年の税込収入は19,000ドル ⇒ 当初から1公演につき1,000ドルを要求
大戦後初めてアメリカを訪れるソ連の音楽家としてギレリスが訪米、オーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団とカーネギー・ホールデビューを飾る ⇒ 聴いていたヴァンは、ちょうど同じ曲を練習中だったが、あれほどの演奏は出来ないと暫く譜を見なかった
直後にオイストラフが訪米、圧倒的な技量と集中力でアメリカ人を驚愕させる
アイゼンハワーが大統領になって、文化交流に注力し始め、冷戦が初めて米国政府に公的な芸術支援を実現させたが、派遣対象から共産圏は外された上に、アーティストを選抜する音楽委員会が保守的で、バーンスタインの《ウェスト・サイド・ストーリー》も認めず、ジャズも対象外としたため、当初は効果が出なかった
56年ソ連では、フルシチョフによるスターリン批判が行われ、スエズ紛争に介入した英国に対し、ミサイル攻撃を示唆すると英国は撤退
開放政策をやめる気がなかったフルシチョフは、文科相が持ってきた世界の注目を集めるような音楽コンクールをモスクワで開催するというアイディアに乗る。クラシック音楽こそはソ連社会の優位を示す明確な証拠でありソ連の政治体制が過去のいかなる体制にも勝るという証。芸術愛好家ではなかったが、芸術分野への支出を削る気はなく、ソヴィエトの各共和国は、503の常設の劇団、芸術全般を教える314の中等学校、48の高等学校、43の音楽院、演劇学校、美術大学を運営、文化省は90万人の芸術家を直接管理していた
57年カザフスタンで初の人工衛星スプートニク打ち上げ
同時に、20メガトン級の水素爆弾を爆発させ、最終兵器ICBMの完成を公表
30日後には、犬を乗せたスプートニク2号の打ち上げを発表
ヴァンの身辺ではリサイタルの数が尻すぼみに ⇒ 兵役が近づいたことが原因の1つだったが、徴兵検査では持病の鼻血が止まらず、アレルギーもあって免除になるも、仕事の機会がなくなったヴァンは、大怪我をした母親の代わりに故郷で母親の生徒を教える
ヴァンの環境が最悪で自信も失いかけていた時にチャイコフスキー国際コンクールの応募冊子がロジーナの目にとまり、ジュリアードからヴァンを推薦するが、プロになって4年目のヴァンにとって、またコンクールを受ける生活に逆戻りするをするのは納得がいかず、気が進まなかった
CAMIも、課題曲はロシア音楽に偏り、審査員は東側の人ばかり、フルシチョフのソ連ではすべてが政治的な判断に基づくので、コンクールは茶番だと言って参加に反対
ジュリアードの学生部長が審査員となって選抜のためのコンクールを開催するが、プロの演奏家はコンクールのためのコンクールに参加するのを嫌ったので、ピアニストはヴァンに、ヴァイオリニストもジュリアード出身のジョイス・フリスラーに決定
審査委員長はショスタコーヴィチ、委員にはギレリスやリヒテルの名が並び、膨大な数の課題曲があり、第1次予選はバッハ、モーツァルト、ショパン、リストにスクリャービン、ラフマニノフ、チャイコフスキーの曲、第2次予選はほとんどがロシアないしソ連の作曲家で占められ、西側ではほとんど知られていない曲も含まれていた。本選ではさらにチャイコフスキーの協奏曲とコンクールの2か月前に楽譜が配布されるソ連の作曲家への特別委嘱作品、そして参加者の自由選択による協奏曲が課題曲
ヴァンが選んだ協奏曲は、チャイコフスキーの1番ともう一つは技術的に非常に難しく、多くのピアニストを震え上がらせたことで知られる難曲のラフマニノフの3番。ヴァンはこの楽譜を母親からもらっていていつも手元に持って歩いていた
申込書を送付したのは12月20日、締切の年内に間に合わないことを恐れ、ヴァンはショスタコーヴィチ宛に申込書を送付した旨の電報を打つ
競争相手としてすでにモスクワに乗り込んでいたのが天津出身の劉詩昆。17歳の時ブタペストで行われたリスト・ピアノコンクールに中国代表として出場、ソ連のヴラセンコが優勝、劉は3位となるが、中ソの確執による出来レースと割り切る。チャイコフスキー国際コンクールへの応募はその2年後中国文化省の後押しを受けて、顧聖嬰と共に11月にモスクワの音楽院へ
ソヴィエト文化省は困惑、自主的に参加する有能なピアニストが見つからず、各地音楽院出身の70人の音楽家を対象に選抜した結果、ピアノ・ヴァイオリンとも9名が1名を除きモスクワとレニングラードの出身者で、地方都市の教育レベルについての反省が先立ち、これで勝てるという気にはなれなかった ⇒ 世界のコンクールを席捲してきたためにコンクール疲れが広がり、これ以上コンクールに時間を費やすのを拒否、20歳になったばかりで2年前にエリザベートで優勝したアシュケナージにも打診したが断られ、遂にヴラセンコを担ぎ出す
第2楽章
ヴォランテ――飛ぶように
3月にはヴァオリンのコンクールの本選があり、オイストラフ委員長ジンバリストが審査員を務める中、優勝はキエフ出身のクリモフでアメリカのフリスラーは7位、本選に残った8人のうち6人までがソ連、残りがルーマニアとアメリカ。ジンバリストは審査員たちの決定に不満で、賞状へのサインを拒否、さらにピアノの審査員だったマルグリット・ロンに審査員に加わるのを辞めるよう警告
ヴァイオリンの参加者は29人の予定のところ25人、ピアノは50人の予定に対し36人にとどまる。ピアノについては、国際コンクール優勝実績のある6人は第1次予選免除、ヴァンのレーベントリットはソ連では認知されておらず、30人中14番目で演奏することになる
審査員には、リヒテル、ギレリスの他、両者の師でもあるネイガウス、アシュケナージの師オボーリン、作曲家代表でロシアのカバレフスキーと英国のブリス、そのほかに10か国+ソ連から審査員。ソヴィエト・ブロックから12人、それ以外が5人
一般民衆の関心が高かったため、予選から音楽院のボリショイ・ホールに変更
ヴァンの予選の最初の曲は、バッハの《平均律クラヴィーア曲集》第1巻のプレリュードとフーガ、続けてモーツァルトのピアノソナタ ハ長調K330、聴衆の大歓声を受けて3回も立ち上がって礼をした後、ショパン、スクリャービン、リスト、ラフマニノフの各練習曲、最後が課題曲のチャイコフスキー《6つの小品》作品10の第6曲〈創作主題と変奏〉ヘ長調。聴衆は我を忘れて喜んでいた
審査員の中では、リヒテル(43)が初めての審査員を引き受けて愛想がよかったのに対し、ライバルのギレリスは、ネイガウスがリヒテルを贔屓しているとして両者を非難、一緒にいること自体が苦痛で、全体の雰囲気を深刻にしていた。さらにネイガウスはカバレフスキーを作曲家として全く評価しておらず「安っぽいプロコフィエフ」と呼んでいた
ヴァンの評価は審査員の間で最も議論を呼んだが、リヒテルの他2人が満点の25点をつけ、ギレリスは24点、最低がフランスとポルトガルで17点。リヒテルは多くのピアニストに7点をつける
ヴァンが1位、劉が僅差の2位、松浦豊明が僅差の3位。20人が第2次予選へ進む
ロストロポーヴィチ夫妻に自宅に招かれて食事。夫人がソプラノ歌手のヴィシネフスカヤ
ベルギーの”赤い王妃”エリザベートが訪ソ、大歓迎を受けていた
第2次での曲目は、タネーエフの前奏曲とフーガ嬰ト短調に続いて課題曲であるチャイコフスキーのピアノソナタ ト長調、ショパンの幻想曲 へ短調。終わるとスタンディング・オベーションが起こる。さらにリストの《ハンガリー狂詩曲》第12番、最後がサミュエル・バーバーの技巧的なピアノソナタのフーガによる終楽章
審査ではリヒテルがヴァンに25点、ヴラセンコに24点、劉が23点、ポラック(米)など4人が15点、残りは0点という厳しいものだったが、集計の結果はヴラセンコが411点で順当にトップ、2位が404点の劉、3位がヴァンとソ連のシュタルクマンで393点、5位がポラックで345点。7人もソ連の優秀なピアニストが脱落するのを見て審査員は決勝進出者の枠を1名増やし9名とし、ミアンサロフが入った結果、決勝進出はソ連から3名、アメリカから2名、劉、松浦、ブルガリアのモローヴァ、フランスのゲッダ=ノヴァ
本線の様子は逐一ソ連全土へテレビ中継。ヴァンの演奏にはエリザベート妃も臨席
オーケストラはコンドラシン指揮のモスクワ交響楽団
チャイコフスキーの第1番に続いて、カバレフスキーの《ロンド》の途中でピアノの弦が1本切れ5分の休憩。そのあとラフマニノフの協奏曲第3番ニ短調では、あまりに難しいために簡潔版が代わりに弾かれる「オッシア」と呼ばれる大カデンツァを弾き、ロシアの音楽を自国の音楽家以上にロシアっぽく演奏する様に聴衆が圧倒的な感動、リヒテルは涙すら流していた。スタンディング・オベーションは8分半続き、モスクワ音楽院92年の歴史の中で初めての出来事。ソ連の人々のアメリカ人に対するイメージを一変させたという意味で、何よりも大きな役割を果たした資質がヴァンにはもう1つあった、それは純粋さであり、偉大なアーティストに共通する率直さと独創性の持ち主であることの証明
アメリカのピアニストに対する一般大衆の支持があまりにも熱狂的で、もはや挑発的な政治的発言の域に達していたことから、ソ連を世界に門戸を開いた国にするというフルシチョフの政策がまたも予期せぬ事態を引き起こす ⇒ アメリカ人の勝利を認めることは単に音楽コンクールでの敗北を認めるだけでなく、大衆が自由を渇望しているのを認めることと同じであり、その一方でアメリカ人の勝利をもみ消せば、始まったばかりのコンクールの権威が損なわれ、それがプロパガンダの試みであったことが露呈し、コンクールによって獲得するはずだった国際的信用に傷ついてしまうのみならず、マルクス=レーニン主義の観点からすると、ブルジョワジーが共産主義を凌駕することはあり得ず、筋金入りの共産主義者にとっては考えるだけでも反革命的な行為
ギレリスとカバレフスキーは、ヴァンとヴラセンコで第1位を分けるのすら公正ではないと反対
審査の結果は、17人中15人がヴァンを1位に推し、ブリスがヴァンと劉を同等、ハンガリーのラヨシュがヴァンとヴラセンコを1位に推した。2位に劉とヴラセンコ、4位がシュタルクマンで、5位がミアンサロフ、ブルガリアのモローヴァが6位、7位がゲッダ=ノヴァ、8位が松浦、9位がポラック
フルシチョフにまでお伺いを立てた結果、ヴァンの優勝が決まる
『ニューヨーク・タイムズ』の1面トップ4段組の記事になるとともに、「架け橋としての芸術」という社説が載り、超大国間の敵意と誤解から生まれた溝に橋を架けようとして明らかに失敗した政治家に代ってヴァンのようなアーティストが成功を収めるのではないかという考えが紹介された
世界的な事件となり、チャンスを手に入れた半面、いまだかつてクラシック音楽家が誰も負ったことのないような責任を負わされた
ギレリス審査委員長が結果を発表、25,000ルーブル(公式レート換算6,250ドル)はヴァンへ
エリザベート王妃主催のレセプションのゲストで呼ばれ、フルシチョフと抱擁
授賞式では、ロシア語で簡単なスピーチをし、コンドラシンの指揮でチャイコフスキーの1番を弾いた
音楽家たちの自由な表現への目覚めに対し批判もあって、ネイガウスは、審査ではヴァンを支持したが、ロマンティックな要素を出し過ぎて少々品がないと不満を述べたし、ヴラセンコも、コンクールでは自分の心の底に潜む感情を素直に表現してよいのだということを教えられたが、そうするのをひどく恥ずかしく感じられることがあるとコメント
ヴァンの優勝がスプートニク級のショックをソ連にもたらしたことは間違いなく、各方面に多大の影響を及ぼした
ハチャトゥウリアンは、ヴァンのラフマニノフは本人の演奏よりもよかった、こんなヴィルトォオーゾに出会えるのは100年に1回か2回しかないと公言
新聞やラジオでも、彼の先生は移民とはいってもロシア人であり、母親の先生もロシア人、彼の才能はモスクワで初めてその才能にふさわしい評価を受け、広く認められたことを嬉しく思うと、まるでヴァンがソ連のピアニストであるかのような報道ぶり
一方アメリカの国務省はこれまでヴァンに対し冷たい態度をとってきたが、今回も国務長官でタカ派として知られるダレスは、ソ連がらみで自分の名が出るのを嫌い、特別補佐官の名前で祝電を打っただけでヴァンをがっかりさせたが、すぐにアイゼンハワー大統領から直接祝電が入る。大使館では、ヴァンがのぼせ上がることを懸念していたが、ヴァンがUP通信のために書いた文章がアメリカ中のメディアに転載されると、警戒感が高まる ⇒ 「音楽に政治的な壁は存在しない」で始まり、政府同士は激しく対立していても、音楽の下で一つになった、その偉大なる精神を目の当たりにして興奮を覚えたと
ヴァンは、ソヴィエト各地を回る優勝記念ツアーに出たのを含め、5月中旬まで演奏会と取材に明け暮れた
その月の終わりフルシチョフは、核実験の一時停止を一方的に宣言。アメリカが実験を継続したためフルシチョフは激怒。その直後、56年にハンガリーで起きた反ソヴィエト革命の指導者イムレ・ナジを反逆者グループへの見せしめとして秘密裏に処刑
『タイム』誌には、「ロシアを征服したテキサス人」という見出しが躍る
帰国直後にヴァンの推薦によってコンドラシンが、シンフォニー・オブ・ジ・エアー(トスカニーニの頃のNBC交響楽団が名前を変えたもの)との共演のため来米、翌日のチケットは5ドルのものがダフ屋によって150ドルで売られていた
凱旋コンサートのプログラムは、チャイコフスキーの1番とラフマニノフの3番
ヴァンの優勝を巡る興奮は、音楽以外の分野にも影響を及ぼす。スプートニク・ショック以降アメリアがソ連の挑戦を受けて立ち勝利を収めることが出来たのはこれが初めて
文化に対する自信のなさは、領土拡張論やプロテスタント的な職業倫理と相俟って、アメリカを大国へと押し上げる原動力となったが、歴史的に見てアメリカの優越性が確実となった今になって、アメリカ人は新たな種類の自信が欲しくなった。その自信を、旧世界と比較して自分たちが劣っていると感じていた分野で与えてくれたのがヴァンだった
58.5.20.はニューヨーク市が定めた「クライバーンの日」で、ティッカー・パレードを用意
翌日はフィラデルフィアに場所を移して、全米最古のコンサートホールであるアカデミー・オブ・ミュージックでのコンサートでは聴衆の喝采が鳴りやまず、チャイコフスキーの協奏曲は第2,第3楽章が繰り返し演奏された
そのあと大統領官邸に招待され、コンドラシンと共に出向いたが、彼がアメリカ大統領と会う最初のソ連の民間人となった
ただ、コンスティテューションホールでの演奏会には大統領も副大統領も出席できず、ソ連大使が主賓となって開かれ、さらにそのあとの大使館での豪華な晩餐会の主賓の座に座らされ、アメリカ政府に背を向ける形となった。FBIからは、ヴァンが演奏の後コンドラシンと「ヨーロッパ風のキス」を2回して唇にもキスしたという報告が上がり、そのような不健全な行動は愛国心に欠ける人間の退廃的な傾向を示すものであると受け止められたのは明らかだった
ヴァンは、パレードとスピーチ、誰も経験したことのないプレッシャーの中で演奏を続けたせいで、神経をすり減らしてしまった
テレビの「スティーヴ・アレン・ショウ」の出演ギャラは前回の30倍の3,000ドル、その次の出演者がルイ・アームストロングだった
コンドラシンが帰国してしまったので、再度フルシチョフ宛に電報を送り、今度はロンドンで共演したのちアムステルダムを経てブラッセルの万国博に臨み、フィラデルフィア管弦楽団と共演、パリのも立ち寄ってシカゴに凱旋、ハリウッド・ボウルでは2日連続で満席にしたばかりか、映画界のスターの仲間入りをした
キルゴアーは12月2日を「テキサスのヴァン・クライバーンの日」と定めたが、生きている人物を称える州の記念日としては2例目
59年1月ミコヤンが「休暇」と称して、ソ連の高官としては初めて訪米、大統領や国務長官と会見したほか、大使館の豪華なレセプションにヴァンを招き歓談したが、「アカ」に対するアメリカ人のアレルギー故に、ヴァンに対する強い反発を招く結果となる
ヴァンがモスクワを留守にしていた間その空白を埋めたのは国務省がスポンサーとおなった演奏旅行でソ連を訪れたバーンスタイン率いるニューヨーク・フィルで、ショスタコーヴィチの5番で締めくくると万雷の拍手を浴びたが、それよりもっと衝撃的だったのは、ニューヨークのコロシアムで開かれたソ連博覧会のお返しとしてモスクワ郊外で開かれたアメリカ博覧会。オープニングで訪ソしたニクソン副大統領とフルシチョフの白熱したやり取り(キッチン討論)は、展示されたアメリカのハイレベルの文化生活を彩る機器の数々にソ連国民が圧倒され、ニクソンもここで箔をつけて翌年の共和党大統領候補の指名を勝ち取っている
9月フルシチョフが国賓として訪米、さんざん報道陣の意地悪な質問にあって機嫌を損ねたが最後に大使館でレセプションを開催、ヴァンと会って元気を取り戻す
結果的には外交的な進展は見られなかったが、帰国するとフルシチョフは、アイクを「賢い政治家」と称賛し、平和共存への見通しが立ったのでソ連軍の全兵力の1/3に当たる120万人を削減すると発表、周囲を驚かせた ⇒ 超大国の外交は新時代の幕を開けた
60年スパイ機U-2がソ連のミサイルに撃墜される事件勃発、再び緊張が走る中、フルシチョフからヴァンにだけは訪ソして欲しいとの要請が来て出発、2年ぶりの来訪に大歓迎を受ける ⇒ コンドラシンと共にソヴィエト各地を回る演奏旅行に出る
ヴァンのモスクワへの凱旋は、最初にソ連で注目を浴びたときよりさらに政治的現実とはかけ離れた方向へと突き進んでいた。何のために役立ったのかはわからない
その2週間後にはまたフルシチョフが国連総会出席のため訪米、国連総会の場で脱いだ靴で机を叩きフランコ政権の破滅に言及したため、議場が混乱
アメリカでは、実体のない「ミサイル・ギャップ」のお陰で民主党のケネディ政権が誕生、ニクソンの敗北をフルシチョフは大いに喜ぶ
61年ヴァンは音楽と外交の両面で新たな挑戦を開始 ⇒ ブルーノ・ワルターに師事して指揮を学び、2,3週間後に来たニューヨークフィルとのプロコフィエフの3番の弾き振りのオファーに乗ることですぐに役立ちカーネギーホールでの演奏は高い評価を得る
数ある共演の中でフリッツ・ライナーのシカゴ交響楽団とは特に強い絆で結ばれた
RCAのゴールドディスクをもらったチャイコフスキーの1番のレコードは、クラシック音楽のアーティストとして初のミリオンセラー
いつまでたっても時間に関する正しい感覚が身に着かなかったため、ロシア出身で興業界では大物のヒューロックは、母親のリルディア・ビーをツアー・マネジャーに指名、そのせいもあってヴァンは誰かと恋愛関係になろうという気持ちをなくしていた
62年の第2回チャイコフスキー国際コンクールが始まる時期、ソ連の音楽家は怒涛の快進撃で、39の国際コンクールで27回の優勝、2位3位の数も35を数えた。新たに7人のピアニストを選抜。アシュケナージも含まれ、自分の手にはチャイコフスキーの1番は無理といったが聞き入れられず、結果としてイギリスのジョン・オグドンと優勝を分け合い当局をほっとさせる。アメリカもスーザン・スターが中国の殷承宗を2位を分け合い、両国のメンツが立ったが、そのほかの入賞者は1人を除く全てがソ連からの参加者
ヴァンは、ソ連訪問が国家行事であるためコンクールには出席しなかったが、ヨーロッパへの演奏旅行に出る。その途中で突然ソ連からの招待が来てゴーリキーでコンドラシンと共演、さらにモスクワに足を伸ばし母親とともにフルシチョフの歓迎を受ける
その間にキューバ危機が進行
9月にはフォトワースで第1回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール開催。参加は54名、モスクワ音楽院からも4名参加 ⇒ 当初、ヴァンは開催を望まず、開催決定後も関わるのをやめようと考えていた時期もあったが、最終的には協力することにした。ミルウォーキー出身でロジーナの弟子であるラルフ・ヴォタペックが優勝
雪解けが期待された矢先にケネディが暗殺され、その後フルシチョフも引退し、何事にも無感動なブレジネフの時代に移り、改革はお仕舞になり一段と予測不可能な素朴な時代に入ろうとしていた
第3楽章
フォルテピアノ――強く、ただちに弱く
30歳を迎えたヴァンは、アメリカを代表するピアニストとなり、国の宝として、様々な国家行事に引っ張り出されるようになる ⇒ 64年のジョンソン大統領就任記念コンサートではリストのピアノ協奏曲第1番を弾き、ホワイトハウス芸術祭でも目玉となる
ジョンソンは、ヴァンの祖父が選対委員長をやった現連邦下院議長サム・レイバーンの養子も同然だったので、大統領一家とクライバーン家は昔からの知り合いだった
ヴァンは65年訪ソ、再び各地でもみくちゃにされる歓迎を受けたものの、フルシチョフ時代とは明らかに違ったモスクワ当局の扱いに、初めて本物の逆風を経験し、自分が切望する安らぎを求めてオカルトに目を向けた
66年夏コンドラシンがフィラデルフィアのロビン・フッド・デル管弦楽団とハリウッド・ボウル・オーケストラに客演し、チャイコフスキーとラフマニノフの協奏曲で再びヴァンと共演、9月にはジョンソン大統領がその年チャイコフスキー国際コンクールで入賞した5人のアメリカ人音楽家をホワイトハウスに招待した時の主役はヴァン。同月開催の第2回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールではルーマニア出身ながらモスクワ音楽院で教育を受けたラドゥ・ルプーが優勝。ただ、参加者が年々減少、半分以上はアメリカ人、クレムリンはベトナム戦争への派兵増強に抗議して自国音楽家の参加を禁止
劉詩昆は61年モスクワから北京に戻り、音楽院でピアノを教え、同年葉剣英元帥の娘と結婚。毛沢東の前で演奏した際には、毛が「西洋音楽はつまらないが、君の演奏した曲は素晴らしかった。西洋の音楽・美術を何でもかんでも拒絶すべきではない」と言ったという
66年の「文化大革命」では絶好の攻撃対象となり拘禁
67年ヴァンはコンスティテューション・ホールでリサイタルをした際、機内に燕尾服を忘れ、ホワイトハウスの大統領に助けを求め、大統領は自分の服をピン止めして着させて間に合わせた ⇒ ヴァンのお陰でアメリカのアーティストたちは権力の中枢にいるエリートたちと付き合うようになり、彼等の芸術的才能はアメリカという国の理念の一部を体現するものとして高く評価されるようになる
『タイム』誌はヴァンを、ビートルズやマーシャル・マクルーハン(メディア論で有名なカナダの文明評論家)と並んでトップクラスの文化的英雄と断言、映画やテレビなどでも盛んにヴァンのことが取り上げられ、ヴァンも各大学などに寄付金を贈り、名誉博士号も次々に授与、《お気に入りのショパン》と題されたレコードは。クラシック音楽のLPは5000枚で御の字という時代に300万枚も売れた
ベトナム戦争への抗議と厭戦気分が蔓延し、次第に世論も既成の権力や体制に対し反発し出すと、ヴァンに対する風当たりも強くなり、非難の声や否定的な批評が載るようになる
70年フルシチョフの息子が父の口述テープを西側に持ち出したのをもとに『フルシチョフ回顧録』が出版され、6年ぶりに元首相の名前が公共放送に登場、本の内容を全面否定したが、翌年9月11日心臓発作で死去、クレムリンの壁への埋葬を拒否され、2流の共同墓地に埋葬、人々は、「ロシアの支配者はみな人殺しだったが、フルシチョフとアレクサンドル2世だけは我々に自由を与えたが故にロシアは二人を葬った」と嘆き、『ニューヨーク・タイムズ』のモスクワ特派員も「硬直した体制の扉と窓を開け放ち、すでに時が証明しているように不可逆的かつ根本的な変化をもたらした。今にして思えば彼は巨人であった」と数年前であれば想像もできないような言葉が並んだ
72年ニクソンの訪中が、モスクワでの米ソ首脳会談に発展、ヴァンも大使公邸での演奏のため訪ソ、7年ぶりとなるソ連演奏旅行の最初のコンサートをモスクワ音楽院の大ホールで行い、変わらぬ熱狂ぶりに驚く
大使公邸での演奏会にはブレジネフ書記長夫妻を始めソ連首脳のトップ3人が欠席、ロシアに対してロマンティックな愛情を抱き、自分の歴史的役割に大きなプライドを持っているヴァンにとって、最も残酷な仕打ちとなった
中国では、ニクソン訪中の後徐々に国境を開きつつあり、文化交流プログラムがすすめられたが、ニクソン訪中で主導的役割を果たした葉剣英の力もあって、劉詩昆が解放され、文化交流で最初に訪中したオーマンディー率いるフィラデルフィア管弦楽団と、中国に2つしかなかったピアノ曲の1つ《黄河》を演奏。中国には世界的に通用するピアニストが2人しかいなかった。劉の他は62年のチャイコフスキー国際コンクールで2位に入った殷承宗しかいなかったが、殷は69年に初演した《黄河》の大成功により優遇されていた
3年後毛の死去とともに4人組は逮捕され文化大革命は正式に終了、《黄河》は演奏禁止となり、今度は殷が粛清
ニクソンは、優秀なアマチュア・ピアニストで、人を楽しませることのできるヴァンの手腕を高く評価し、政治的支持者に含めることの重要性を認識
73年の就任式の演奏を皮切りに、しばしばホワイトハウスに呼び出されたが、ブレジネフに無視されたことで、米ソ友好のシンボルとしてのヴァンのステータスは下がり、その後の米ソ首脳交流では声がかからなかった
より輝かしい機会だったのが、第4回のヴァン・クライバーン・コンクールで、モスクワ音楽院で学んだウラディーミル・ヴィアルドがソ連出身者として初めての優勝を飾った時。ヴァンはヴィアルドを養子のように世話を焼いたが、帰国後国外で得た報酬で賄賂を贈るという当たり前の習慣を守らなかったせいでパスポートを取り上げられ、12年間海外への演奏旅行を禁じられた。これをきっかけにコンクールは先細りとなっていく
フィリピンのマルコス夫妻との親交を深め、たびたびフィリピンに旅行
フォードの時代も、ホワイトハウスからのお呼びは頻繁で、日本の天皇皇后の訪米の際も指名
優勝した時に予想していた通り、チャイコフスキー国際コンクールは、恩恵をもたらすと同時に重荷となってヴァンにのしかかる ⇒ 77年エルヴィスが長年にわたる処方薬の乱用が原因で死亡したように、過去の栄光を越えられないこともわかって、次第に疲れ果ててしまい、全てを投げ出す心積りが出来ていた
最後の頃には疲れ切って常習的な遅刻癖が高じ、7時のコンサートに11時になって現れたり、飛行機の時間に乗り遅れたりしていた
自分の潮時に常に敏感で、自分の時代は終わったと感じていた
74年には新規のコンサートの予定を全て受け付けなくなり、既存契約の残っていた4年分の演奏に限定 ⇒ 78年全てのコンサートを終えヴァンは生まれて初めて普通の市民に戻る。グレタ・ガルボに次いで伝説的な世捨て人、「アメリカのコンサート史上最も有名なドロップアウト」になった
フォートワースに73,000㎡の広大な邸宅を買い、ピアノを14台置いたが、たいていは母親とともにオペラを聴く
ヴァンが公の場で鍵盤に触れぬまま9年が過ぎたが、講演や授賞式などで世間の目には触れており、83年には「音楽活動に打ち込み、人類のために貢献した」としてシュヴァイツァー賞
ヴァンの隠遁に合わせるかのように米ソ関係は冷却の度を深めていたが、87年ゴルバチョフ夫妻が首脳会談でワシントンを訪れる際にヴァンが演奏を依頼され、中距離核戦力全廃条約締結という歴史的偉業をなし遂げたものの、お互いの主導権争いに緊張が走ったまま、なおかつ夫人同士もいい印象を持たないまま臨んだ夜会で弾くことになる
ソ連の国家に続いてアメリカ国歌を演奏、プログラムはブラームスの間奏曲作品118の6から始め、ラフマニノフの練習曲集《音の絵》作品39の5、リスト編曲になるシューマンの《献呈》、ドビュッシーの《喜びの島》
演奏が終わってブラボーの声が部屋を満たす中、ライサ夫人からチャイコフスキーの協奏曲のリクエストがあったもののオーケストラがいないことから、《モスクワの夜》のロシア語の弾き語りを始め、ライサ夫人の唇が動き始めるとやがてロシア人の中に歌が広がり、重い雰囲気に包まれていたパーティは声を張り上げての歌の集いへと変貌
翌日各放送局は例外なくこのシーンをトップで取り上げ、ヴァンはソ連の指導者から人間性豊かな側面を引き出した人物として再び世界中の新聞の見出しを飾る。ナンシー・レーガンも、夫の在職中最大の出来事の1つとしてこのヴァンの演奏を挙げている。そして翌日歴史上最も大規模な軍縮協定、世界の核兵器の4/5を廃棄するという画期的な協定の締結に向けて両首脳が協議に入り、ゴルバチョフの態度も目に見えて軟化していた
コーダ――終結部
ゴルバチョフは、官僚制度とイデオロギーの改革を狙っただけで、連邦自体の解体までは意図していなかったが、音楽を先駆けとして西側の価値観が浸透するにつれ、ソ連という国家は自国民からの信頼を失っていき、大衆が暴動を起こす前に、91.12.26.躁状態を思わせる幻想と様々な混乱、大きく傾いた虚構と共にソヴィエト連邦が消滅
混乱からの着地はみなが考えていたほど混乱した状態をもたらしはしなかったが、冷戦の勝利に酔う西側諸国は、ロシア国民の自国に対するプライドの強さを読み違う。そして歴史的にみれば、ロシアが付き合いやすい隣人や西側への熱心な協力者になったためしがない、ということを改めて思い知らされた
ヴァンの秘密、それはロシア文化が世界に誇る特質とでもいうべき情熱、内省的な激しさを、愛をこめてソ連の人々に演奏で表現して見せたと同時に、ほとんどのアメリカ人にとっては当たり前でありながら彼等には決定的に欠落していた、自由な精神を体現して見せたことにある。これは衝撃的な組合せであり、単純すぎる故に恐らく2度と起こりえないものだった
劉は、社会復帰後アメリカに演奏旅行に出た間にまた脱税等で挙げられ、亡命を進められたが敢えて帰国し拘束されたものの、社会復帰を果たし、91年香港に移住、ピアノ教師として現在では中国全土に広める幼稚園の巨大ネットワークを経営、西洋クラシック音楽ブームの先導的役割を果たす
ヴラセンコは、39年にわたりモスクワ音楽院の教授を務めたのち渡米、ボストンなどで教授を務めた後オーストラリアに移り死去、享年67
シュタルクマンは、長い間拘束されていたが、ゴルビーの改革で復帰し、モスクワ音楽院の教授に迎えられた。息子が89年のヴァンのコンクールで本戦に勝ちあがる
ヴァンも、センセーショナルなカムバックの後、徐々に隠遁生活から抜け出す。チャイコフスキーのディスクがプラチナ・ディスクになったあと、89年にはライサ夫人の招きで母親とともに17年ぶりに訪ソ、ヴァン・クラブの面々から熱く迎えられ、チャイコフスキー・ホールでのコンサートでもゴルビー夫妻はじめ満席のファンの喝采を浴びる
2週間の演奏旅行の後は、故郷に戻って時折慈善コンサートを開く
ヴァン母子が通うバプティスト教会には母親の名をつけた10,615本のパイプを持つオルガンを寄贈、テキサス州最大のオルガンであると同時にフレンチスタイルでは世界最大
94年モスクワ・フィルとの演奏旅行にカムバック、シカゴでは自身の記録を上回る35万人を集めたコンサートを行い、以前と変わらぬ125千ドルの出演料を受け取ったが、ハリウッド・ボウルでの60歳の誕生日のコンサートで目眩の発作に襲われて、ツアーは頓挫
何とかカムバックしてメトロポリタン・オペラでは見事な演奏をしたが、途中で激しい痛みが頭と右腕を襲う ⇒ 母の死の虫の知らせだった。享年97
若きパートナ―だったザレンバとは疎遠となり、慰謝料として数百万ドル要求したため、訴訟には勝ったもののゲイであることが露見、大変な苦痛を味わう
そのころは災難続きで、ヴァンは弱気になり、酒量も増え、友人とも口論が多くなり、ナンシー・レーガンと一緒に電話で星占いをしながら悩みを語り合った
01年テキサスのブッシュの牧場で行われたプーチンとの会談にゲストとして招待され、3年後にはモスクワに戻って70歳の誕生日を祝う演奏旅行を行い、プーチンから米ソ両国の相互信頼と理解を深めていくうえでのヴァンの貢献に対し友好勲章を授与される
復活したロストロポーヴィチの功績に敬意を表して開かれた音楽祭で、初めてマスターコースを担当するため09年に再び訪ロした時も大歓迎を受ける
2年後チャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門の名誉審査委員長となったが、どうしても参加者に優劣をつける気にならないまま審査には加わらなかった
チャイコフスキー国際コンクール優勝から50年が近づくと、アメリカでも、ケネディ・センター名誉賞、大統領自由勲章、グラミー賞生涯業績賞、全米芸術勲章など数多くの名誉ある賞が贈られた
最も偉大なピアニストという称号を手にしたものの、それにふさわしいキャリアを積むことが出来たとは言い難い。(訳者注:ホロヴィッツやリヒテルに比肩するような大ピアニストにはなれなかった) ⇒ どのレパートリーというわけではなく、常に、といういわけでもなかったが、ベストの状態の時は素晴らしく、めくるめくテクニックの冴えという点ではホロヴィッツに、常に安定した名演を聴かせるという点ではアシュケナージに及ばなかったかもしれないが、純粋な音楽への愛情と興奮を聴衆に伝える能力にかけてはヴァンにかなうピアニストはいなかった。彼は自分だけでなく音楽を聴きに来る人々を、謙虚な世界へ、音楽で嫌なことを忘れられる世界へ、感動に涙する世界へと誘った
12年末期の骨肉腫との診断、13.2.27.逝去。最も感動的な弔辞は親友だったロストロポーヴィチの娘オルガのもので、「ロシアの人々にとって、ヴァンがどれほど大きな存在だったか言葉に表せない。私たちの人生の一部であり、私たちのプーシキンでありラフマニノフだった。私の父母もヴァンという名を聞くだけで顔がほころんだ」と語る
ヴァンの生きていたのは現実の世界ではなかった。高潔と美徳の世界、悲しみながら昇華され優しさが救ってくれるような、理想化された過去の世界に生きていた。無垢な心と奉仕の精神によってこの世界に自分の足跡を残したとき、一番驚いたのはヴァン本人で、何故なら心の中で、自分は愛する作曲家に仕える存在に過ぎないといつも思っていたから
彼の音楽、それは、世界のリーダーたちが世を去り、彼自身もこの世から姿を消したのちも、人々の心の糧となる、人間性への讃歌だったのである
訳者あとがき
歴史に名を刻んだという点では、リンドバーグに劣らず、あるいはそれ以上に劇的なもの
人生最高の演奏が、ニューヨークに凱旋公演時のラフマニノフの3番だというのも、20代半ばで人生の頂点を迎えたかのように見えるリンドバーグと重なり合う。二人とも時代に翻弄されながら、自分が進むべき道を必死に探し求めた
ホワイトハウスに呼ばれて演奏したピアニストは、クーリッジのお気に入りだったラフマニノフ始め、ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、ゼルキンなど少なからずいるが、ヴァンほど歴代大統領に愛され、利用されたピアニストはいないが、フルシチョフこそアメリカ大統領の誰よりもヴァンのことを理解していたのは間違いない
本書のタイトル《モスクワの夜》は、コンクールの前年開催の世界青年学生祭典のソング・コンテストで優勝した流行歌。元は《レニングラードの夜》だった。YouTubeでは《モスクワ郊外の夕べ/モスクワの世は更けて》。ヴァンがアンコール・ピースとして使用
初のセッション録音が3枚目となるLPで、フリッツ・ライナー指揮のシューマンの協奏曲で、レコード・アーティストとしてのキャリアは、ライナーとの共演で幕を開けた
ライナーは、シカゴ交響楽団の黄金期を築いた名指揮者で、共演者を選ぶ指揮者。訪米したリヒテルとの録音はそりが合わずラインスドルフが代役となったという逸話が残る
同じ60年に同じシカゴ交響楽団との録音では別の指揮者であり、ライナー死後オーマンディ指揮のシカゴ交響楽団との録音ではヴァンがずっと余裕をもって演奏している
ヴァンが印象に残った音楽家への思いを語ったインタビュー記事には、ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、ギレリスといったピアニスト、さらにソプラノのスティーバー、指揮者は二人、オーマンディとカラヤンでライナーは出てこない。オーケストラとしてフィラデルフィアとシカゴの名を挙げていながらライナーが出てこないのは不自然であり、ライナーとの距離を窺わせるエピソード
ホワイトハウスのピアニスト ナイジェル・クリフ著 政治が利用した音楽の使徒
2017/10/14付 情報元
日本経済新聞 朝刊
フォームの終わり
「音楽に政治を持ち込むな」という声を最近よく耳にするようになった。そもそも複数の人間の営みにかかわる本質的な行為である以上、音楽が政治と無関係であるはずがないのだが、本書はその最もダイナミックなケースを描くドキュメンタリーである。
テキサスからやってきた一人の純朴な青年が、ソ連が国威発揚のために開始した1958年の第1回チャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門で、並みいる強豪を退けて優勝をさらってしまう。組織委員長の作曲家ショスタコーヴィチ、そしてリヒテル、ギレリス、ネイガウスら巨匠ピアニストを揃(そろ)えた審査員も天才性を認め、何よりもモスクワの聴衆がすさまじい熱狂ぶりを示したのである。
彼の名はヴァン・クライバーン。ニューヨークでは10万人がパレードで歓迎し、「インテリ版のエルヴィス・プレスリー」としてその後もカリスマ的人気を保ち続け、アイゼンハワーからオバマまで歴代の大統領に招かれて演奏したほどの、国民的英雄となった。
ソ連での人気はそれを上回るほどで、フルシチョフとの個人的な信頼関係も強く、ダーチャ(ロシア風別荘)を借りるほどにまでなっていく。彼自身は政治には無頓着だったが、ロシアの音楽と聴衆への愛情に忠実であろうとするほど、その言動は大胆となり、政治的意味合いを帯びてしまう。冷戦期に米ソ両大国の数少ない文化的な絆であったがゆえに、明らかに彼は利用されたのである。本書ではクライバーンの言動を追跡した米連邦捜査局(FBI)の捜査ファイルまでが参照され、米国政府がいかにソ連要人と親密な彼の動向に神経をとがらせていたかが暴露されている。
クライバーンはただただ音楽の純粋な使徒であり続けた。ピアニストとしては玄人受けするタイプには成長できなかったにせよ、それ以上に彼は幅広い一般の人々の心をつかむ魅力を持っていた。それは他の人にはなしえない偉大な才能であった。
レーガンとゴルバチョフの険悪な雰囲気を、晩餐会(ばんさんかい)でのクライバーンのピアノ演奏が一気に和ませ、軍縮交渉の成功へと導くくだりの描写はとりわけ印象的。音楽と政治の関係を考える上で、またとない面白い読み物である。
原題=MOSCOW NIGHTS
(松村哲哉訳、白水社・4800円)
▼著者は英国在住の歴史家。著書に『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』など。
《評》音楽評論家
林田 直樹
Wikipedia
Van Cliburn
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基本情報
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出生名
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Harvey Lavan Cliburn, Jr.
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別名
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Van Cliburn
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生誕
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死没
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ジャンル
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職業
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担当楽器
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活動期間
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1946–2013
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レーベル
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目次
人物・来歴[編集]
6歳でテキサス州に家族とともに引っ越した。12歳で州のコンクールに優勝してヒューストン交響楽団と共演した。ロジーナ・レヴィーンに師事した後、1958年、23歳で世界的に権威のある第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。このコンクールは1957年10月のスプートニク1号打ち上げによる科学技術での勝利に続く芸術面でのソビエトの優越性を誇るために企画された。クライバーンのチャイコフスキー協奏曲第1番とラフマニノフ協奏曲第3番の演奏後はスタンディングオベーションが8分間も続いた。審査員一同は審査終了後、ニキータ・フルシチョフに向かって、アメリカ人に優勝させてもよいか、慎重に聞いた。フルシチョフは「彼が一番なのか?」と確認、「それならば賞を与えよ」と答えた。冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、一躍アメリカの国民的英雄となる。このコンクールに審査員として参加していたスヴャトスラフ・リヒテルは、クライバーンに満点の25点を、他の者すべてに0点[1]をつけた。凱旋公演では、コンクール本選で指揮を担当したキリル・コンドラシンを帯同させている[2]。この優勝を祝してヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールが1962年より開催されている。1966年には初来日も果たした。
クライバーンの『チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番』(コンドラシン指揮RCA交響楽団)(1958年)は、ビルボードのポップアルバムチャートで1位(7週連続)を獲得した唯一のクラシック作品である(2007年現在)。キャッシュボックスのポップアルバムチャートでも最高2位を記録。続く『ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番』(コンドラシン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア)もビルボードのポップアルバムチャートで最高10位を獲得している。その後、フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団との共演で、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番とピアノ協奏曲第5番「皇帝」、ワルター・ヘンドル指揮シカゴ交響楽団との共演でプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番なども録音した。
その後、クライバーンは健康上の理由で長期間のブランクに入り、1980年代には公の場で演奏する機会をほとんど失ってしまうが、1990年代にカムバックした。
1990年代に、ピアニストの中村紘子は「その演奏はもはや正面きってどうのこうの、といえるような対象ではありませんでした。[3]」と論じつつ、「彼が芸術家として成熟することなく終わってしまったのは、結局アメリカのこの豊かさ、楽しい生活に問題があったのではないか、と考えたものです」と述べている[4]。
クライバーンが書かれている本[編集]
中村紘子著「チャイコフスキー・コンクール」に、一介の「田舎のピアニスト」だった彼が、チャイコフスキーコンクールの第一位になり、文字通りの「アメリカン・ドリーム」を実現するまでと、その後の停滞と挫折までが、アメリカのクラシック事情と共に詳しく述べられている。
目次
歴史[編集]
1958年の第1回チャイコフスキー国際コンクールピアノ部門優勝者、ヴァン・クライバーンを記念して行なわれている。ヴァン・クライバーン財団英語版により開催されており、第1回は1962年に、テキサス州のフォートワースで行なわれた。当初はテキサスクリスチャン大学を会場とし、2001年からはナンシー・リー・アンド・ペリー・R・バス・パフォーマンス・ホール英語版で開催されている。 ヴァン・クライバーン国際コンクールは4年おきの開催となっており、開催年はアメリカ合衆国大統領選挙の翌年にあたっている[2]。優勝者と準優勝者には、高額の賞金に加えて、自らの選曲による世界各地のホールでのコンサート・ツアーの権利が与えられる[3]。クライバーンは、存命中もこのコンクールの審査には関与せず、金融支援と事業運営のみを行なった[4]。しかしながら、彼は定期的に出場者の演奏する場に出席し、終演後は出場者に挨拶をしていた[5]。
演奏順序は、出場者自身によるくじ引きで決定される[6]。1997年からは、コンクールの演奏がネット上でストリーミング配信されるようになり[5]、2009年には、このコンクールの歴史において初めて、全ての演奏がライブ配信された[7] 。
特徴[編集]
設立当時、世界最高額の優勝賞金を提供することでチャイコフスキー国際コンクールに負けない国際コンクールを目指した。フォートワースは富裕層が多数住んでいる都市で、高額な資金提供が可能であった。当時ピアノ教師だったMs.Grace Ward Lankford(ランクフォード夫人)が運営していたが、その後石油資産の相続人マーサ・ハイダー夫人に代わり、ハイダー夫人はダラスとフォートワースの上流社会をまとめて多数のスポンサーを獲得、このコンクールを破格の規模にまで大きくして商業主義のスタイルをコンクール運営に持ち込んだ。その後、運営は指揮者アルトゥール・ロジンスキの息子リチャード・ロジンスキが引き継いでいる。
かつての参加者中村紘子は「『優勝賞品』とした与えられたおびただしい数のコンサートを1年以上にもわたって続けさせられていくうちに、かえって消耗し切って燃えかすのようになってしまうのでしょうか」と論じた[8]。中村紘子著『コンクールでお会いしましょう』で述べられたいくつかの問題点のうち、このコンクールの優勝者はメジャーデビューが難しい、ということがあり、中村は著書内で「ラドゥ・ルプがメジャーデビューを果たせたのはリーズ国際コンクールの知名度によるもの」と分析している。ルプは全てのアメリカの契約をキャンセルしてモスクワへ戻り、リーズ国際コンクールの優勝後デッカレーベルと契約し、そのディスクの売れ行きによって再度知られ、1972年に改めて米国デビューを果たした[9]。
課題曲[編集]
このコンクールの2017年度課題曲は、45分の選曲自由なプログラム、新作初演[10]を含む45分のプログラム、モーツァルトの有名なピアノ協奏曲と60分の選曲自由なプログラム、ロマン派の室内楽と選曲自由な協奏曲の演奏により構成されている[11]。他のコンクールと違い、練習曲を選択することは強制されないが、コブリンはラフマニノフの『音の絵』、ホロデンコはリストの『超絶技巧練習曲』で優勝し、その模様がCD[12]になった。
歴代優勝者[編集]
15
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14
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13
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12
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11
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10
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6
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5
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4
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3
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2
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1
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チャイコフスキー国際コンクール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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目次
概要
ロシアの作曲家ピョートル・チャイコフスキーに因んで名付けられ、1958年より4年おきにモスクワで開催される。当初はピアノとヴァイオリンのみが審査対象であった。1962年開催の第2回コンクールよりチェロが加わり、1966年より声楽部門が加わった。1990年からはヴァイオリン属の楽器と弓の製作技術を競う、ヴァイオリン製作者部門が設けられている。2006年はモスクワ音楽院大ホールの修理や、FIFAワールドカップが重なること、スポンサーの未決定などの理由から開催が一年見送られ、第13回コンクールは、前回から5年おいた2007年6月に開催された。数々の著名な芸術家を輩出してきたコンクールである。
冷戦まっただ中で行われ、ソビエト連邦の文化的優位を誇示することが目的でもあった第1回コンクールでは、ピアノ部門でアメリカ人のヴァン・クライバーンが優勝し、ソ連とアメリカ合衆国の国交にまで影響を与えたと言われている。第2回はウラジミール・アシュケナージとジョン・オグドンの同着優勝であったが、その翌年アシュケナージがロンドンへ亡命し、ソ連ではその優勝記録が抹消された。当時のソ連政府は「合宿」まで行ってコンテスタントのレヴェルアップを行っていたことが、ソ連崩壊後レフ・ヴラセンコにより明らかにされた。旧ソ連時代は賞金の国外持ち出し額にも厳しい制限があったと言われる。
コンクールは著名なロシア人音楽家からなる委員会によって組織され、Russian State Concert Company(Sodruzhestvo) が運営している。また著名な演奏家、音楽教授、音楽監督、元コンクール入賞者による国際審査員団が選出され、演奏の審査、入賞者の決定に携わる。現行の方式では、コンクールは6月に開催され、予備審査を含めて3次の予選が行われる。(旧ソ連時代は予備審査抜きで三次まで課された)初期には、点数順に8位まで表彰されていた。2007年時点では各楽器部門に6賞と男女声楽部門にそれぞれ4賞の、合計26の賞が授与される。歴史的には、1位を含め、いずれの賞にも該当者無しの場合もあれば、複数の演奏家が選出された例もある。1970年代までは誰でも応募でき、なおかつ演奏も可能な状態だった(観光の目的のコンテスタントまでいた)。アジア勢が大挙して押し寄せる時代を迎えた後、国内予選で選抜されたものしか第1次予選に進めなくなっていた。
AAFに加入と脱退を繰り返し、スポンサーに弱いなどの点を抱えているものの、第一級のソリストを輩出している点は不動である。2011年度から規約が一新され、コンチェルトを三曲も演奏させる部門まで登場するなど、「破格の」実力を求める点は変わっていない。また、国内予選で精鋭を選出する方式から、DVD審査と書類選考で一律に選考する方式に改められた。
開催年と入賞者
第1回(1958年)
ピアノ部門
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第1位 ヴァン・クライバーン(アメリカ)
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第3位 ナウム・シュタルクマン(ソ連)
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第4位 エドゥアルド・ミアンサロフ(ソ連)
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第5位 ミレーナ・ヴァセリノヴァ=モローヴァ(ブルガリア)
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第6位 ナディア・ゲッダ=ノヴァ(フランス)
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第7位 松浦豊明(日本)
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第8位 ダニエル・ポラック(アメリカ)
ヴァイオリン部門
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第1位 ヴァレリー・クリモフ(ソ連)
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第2位 ヴィクトル・ピカイゼン(ソ連)
·
第4位 マルク・ルボツキー(ソ連)
·
第5位 ヴィクトル・リベルマン(ソ連)
·
第6位 ヴァレンチン・ジューク(ソ連)
·
第7位 ジョイス・フリッサー(アメリカ)
·
第8位 ザリウス・シフムルザエーヴァ(ソ連)
第2回(1962年)
ピアノ部門
·
第1位 ウラディミール・アシュケナージ(ソ連)、ジョン・オグドン(イギリス)
·
第3位 エリソ・ヴィルサラーゼ(ソ連)
·
第4位 マリーナ・ムディヴァニ(ソ連)
·
第5位 ヴァレリー・カミショフ(ソ連)
·
第6位 クリスティアーヌ・ビロー(フランス)、アレクセイ・ナセトキン(ソ連)
ヴァイオリン部門
·
第1位 ボリス・グートニコフ(ソ連)
·
第2位 シュムエル・アシュケナジ(イスラエル)、イリーナ・ボチュコヴァ(ソ連)
·
第4位 アルベルト・マルコフ(ソ連)
·
第5位 エドゥアルド・グラチ(ソ連)
·
第6位 ヴァジム・セリツキー(ソ連)
·
第7位 アレクサンドル・メルニコフ(ソ連)
·
第8位 ベティー・ジャン・ハージン(カナダ)
チェロ部門
·
第1位 ナターリヤ・シャホスカヤ(ソ連)
·
第2位 レスリー・パーナス(アメリカ)、ヴァレンチン・フェイギン(ソ連)
·
第3位 ナターリヤ・グートマン(ソ連)、ミハイル・ホミツェル(ソ連)
·
第5位 ダグラス・リン・デイヴィス(アメリカ)
·
第6位 トビー・サクス(アメリカ)
第3回(1966年)
ピアノ部門では、優勝確実と見られていたニコライ・ペトロフが手の故障のため本選会を棄権し、グリゴリー・ソコロフが史上最年少で優勝した。
ピアノ部門
·
第1位 グリゴリー・ソコロフ(ソ連)
·
第2位 ミッシャ・ディヒター(アメリカ)
·
第3位 ヴィクトル・エレシュコ(ソ連)
·
第4位 アレクサンドル・スロボジャニク(ソ連)、ゲオルギー・シロタ(ソ連)
·
第5位 エドワード・アウアー(アメリカ)、ジェイムズ・ディック(アメリカ)
·
第6位 フランソワ=ジョエル・ティオリエ(フランス)、ペーター・レーゼル(東ドイツ)
·
第7位 アンドレ・デ・グロート(ベルギー)
·
第8位 エティエンヌ・リュシアン・カルヌセッカ(フランス)、ブルーノ・リグット(フランス)
ヴァイオリン部門
·
第1位 ヴィクトル・トレチャコフ(ソ連)
·
第4位 ニコラス・チュマチェンコ(アルゼンチン)
·
第5位 ジーノ・ヴィンニコフ(ソ連)
·
第6位 ルーベン・アガロニアン(ソ連)、エリック・フリードマン(アメリカ)
·
第7位 なし
·
第8位 チャールズ・マーティン・キャッスルマン(アメリカ)
チェロ部門
·
第1位 カリーナ・ゲオルギアン(ソ連)
·
第2位 スティーヴン・ケイツ(アメリカ)、アルト・ノラス(フィンランド)
·
第3位 エレオノーラ・テステレツ(ソ連)、安田謙一郎(日本)
·
第4位 ローレンス・レッサー(アメリカ)
·
第5位 タマラ・ガバラシヴィリ(ソ連)
·
第6位 ミッシャ・マイスキー(ソ連)
声楽部門・女声
·
第1位 ジェーン・マーシ(アメリカ)
·
第2位 ヴェロニカ・タイラー(アメリカ)、エヴェリナ・ストイツェヴァ(ブルガリア)
·
第3位 マリア・ビエシュ(ソ連)
声楽部門・男声
·
第1位 ヴラジーミル・アトラントフ(ソ連)
·
第2位 ニコライ・オホトニコフ(ソ連)
·
第3位 サイモン・エステス(アメリカ)
·
第3位 コンスタンティン・リソフスキー(ソ連)
·
第4位 ヴァーツラフ・ダウノラス(ソ連)
·
第5位 ヴァジル・マルティノイウ(ルーマニア)
第4回(1970年)
ピアノ部門
·
第1位 ウラジミール・クライネフ(ソ連)、ジョン・リル(イギリス)
·
第2位 オラシオ・グティエレス(アメリカ)
·
第3位 アルトゥール・モレイラ=リマ(ブラジル)、ヴィクトリア・ポストニコワ(ソ連)
·
第4位 アルカージー・セヴィードフ(ソ連)
·
第5位 ジェイムズ・トッコ(アメリカ)
ヴァイオリン部門
·
第1位 ギドン・クレーメル(ソ連)
·
第2位 ウラディーミル・スピヴァコフ(ソ連)、藤川真弓(日本)
·
第3位 リアーナ・イサカーゼ(ソ連)
·
第4位 タチヤーナ・グリンデンコ(ソ連)、アンドレイ・コルサコフ(ソ連)
·
第5位 グレン・ディクテロウ(アメリカ)
·
第6位 アンドレイ・アゴストン(ルーマニア)
チェロ部門
·
第1位 ダヴィド・ゲリンガス(ソ連)
·
第2位 ヴィクトリア・ヤグリング(ソ連)
·
第3位 岩崎洸(日本)
·
第4位 イーゴリ・ガヴリシュ(ソ連)、ヴァグラン・サラジャン(ソ連)
·
第5位 ダヴィド・グリゴリアン(ソ連)
·
第6位 ラルフ・カーシュバウム(アメリカ)
声楽部門・女声
·
第1位 エレーナ・オブラスツォワ(ソ連)、タマーラ・シニャフスカヤ(ソ連)
·
第2位 なし
·
第3位 エフドキア・コレスニク(ソ連)
·
第4位 ナジェジダ・クラスナヤ(ソ連)
·
第5位 エステル・コヴァーチュ(ハンガリー)
·
第6位 エドナ・ガラベジャン=ジョージ(アメリカ)
声楽部門・男声
·
第1位 エフゲニー・ネステレンコ(ソ連)、ニコライ・オグレニチ(ソ連)
·
第2位 ヴラジスラフ・ピアフコ(ソ連)、ズラブ・ソトキラヴァ(ソ連)
·
第3位 ヴィクトル・トリーシン(ソ連)
·
第4位 アレクサンドル・プラヴィロフ(ソ連)、アレクサンドル・ルドコフスキー(ソ連)
·
第5位 トーマス・トマシュケ(東ドイツ)
·
第6位 サルキス・グユムジャン(ソ連)、ヴァレリー・クチンスキー(ソ連)
第5回(1974年)
ピアノ部門
·
第1位 アンドレイ・ガヴリーロフ(ソ連)
·
第2位 スタニスラフ・イゴリンスキー(ソ連)、チョン・ミュンフン(鄭明勲、アメリカ)
·
第3位 ユーリ・エゴロフ(ソ連)
·
第4位 エチェリ・アンジャパリーゼ(ソ連)、アンドラーシュ・シフ(ハンガリー)
·
第5位 ドミトリー・アレクセーエフ(ソ連)
·
第6位 デイヴィッド・ライヴリー(アメリカ)、ブリジット・エンゲラー(フランス)
ヴァイオリン部門
·
第1位 なし
·
第2位 ユージン・フォドア(アメリカ)、ルーベン・アガロニアン(ソ連)、ルスダン・グヴァサリア(ソ連)
·
第3位 マリー=アニク・ニコラ(フランス)、ヴァニヤ・ミラノヴァ(ブルガリア)
·
第4位 リジア・シュトコ(ソ連)
·
第5位 ヴァジム・ブロドスキー(ソ連)
·
第6位 アナトリー・メルニコフ(ソ連)
·
第7位 モイセイ・セクレル(ソ連)
チェロ部門
·
第1位 ボリス・ペルガメンシチコフ(ソ連)
·
第2位 イヴァン・モニゲッティ(ソ連)
·
第3位 菅野博文(日本)
·
第4位 ジェイムズ・クレーガー(アメリカ)、セタ・バルタヤン(ブルガリア)
·
第5位 なし
·
第6位 イヴァン・シフォロー(フランス)、アンジェラ・シュウォーツ(アメリカ)
·
第7位 なし
·
第8位 イオシフ・フェイゲルソン(ソ連)
声楽部門・女声
·
第1位 なし
·
第2位 リュドミラ・セルギエンコ(ソ連)、シルヴィア・シャシュ(ハンガリー)、ステフカ・エフスタティエヴァ(ブルガリア)
·
第3位 ガリーナ・カリーニナ(ソ連)、タチヤーナ・フラストヴァ(ソ連)
·
第4位 なし
·
第5位 リンマ・グルシュコヴァ(ソ連)
·
第6位 ゴルダナ・イェフトヴィチ(ユーゴ)
声楽部門・男声
·
第1位 イワン・ポノマレンコ(ソ連)
·
第2位 コロシュ・コヴァーチュ(ハンガリー)
·
第3位 アナトリー・ポノマレンコ(ソ連)、ヴラジーミル・マリチェンコ(ソ連)
·
第4位 アレクサンドル・デディク(ソ連)、アナトリー・ボイコ(ソ連)
·
第5位 アナトリー・コチェルガ(ソ連)、ペテル・ドヴォルスキー(チェコ)
第6回(1978年)
ピアノ部門
·
第1位 ミハイル・プレトニョフ(ソ連)
·
第2位 パスカル・ドヴォワヨン(フランス)、アンドレ・ラプラント(カナダ)
·
第3位 ニコライ・デミジェンコ(ソ連)、エフゲニー・リュイフキン(ソ連)
·
第5位 クリスティアン・ブラックショウ(アメリカ)
·
第6位 ナウム・グルベルト(ソ連)
ヴァイオリン部門
·
第1位 イリヤ・グルーベルト(ソ連)、エルマー・オリヴェイラ(アメリカ)
·
第2位 ミハエラ・マルティン(ルーマニア)、ディラーナ・ジェンソン(アメリカ)
·
第3位 イリーナ・メドヴェデヴァ(ソ連)、アレクサンドル・ヴィニツキー(ソ連)
·
第4位 ダニエル・ハイフェッツ(アメリカ)、キム・サン・チョー(北朝鮮)
·
第5位 清水高師(日本)
チェロ部門
·
第1位 ナサニエル・ローゼン(アメリカ)
·
第3位 アレクサンドル・クニャーゼフ(ソ連)、アレクサンドル・ルーディン(ソ連)
·
第4位 フランス・スプリンゲル(ベルギー)
·
第5位 マルシオ・カルネイロ(ブラジル)
·
第6位 セルゲイ・スドジロフスキー(ソ連)
声楽部門・女声
·
第1位 リュドミラ・シェムチェク(ソ連)
·
第2位 リュドミラ・ナム(ソ連)
·
第3位 エヴァ・ポドレシュ(ポーランド)、マリアーナ・シャロミラ(ルーマニア)
·
第4位 ジャクリン・ペイジ=グリーン(アメリカ)、カタリン・ピッティ(ハンガリー)
·
第5位 ネリー・ボズコヴァ(ブルガリア)
声楽部門・男声
·
第1位 なし
·
第2位 ヴァレンチン・ピヴォヴァロフ(ソ連)、ニキタ・ストロジェフ(ソ連)
·
第3位 ユーリー・スタトニク(ソ連)
·
第4位 ピョートル・スクスニチェンコ(ソ連)
第7回(1982年)
ピアノ部門
·
第1位 なし
·
第2位 ピーター・ドノホー(イギリス)、ウラディーミル・オフチニコフ(ソ連)
·
第3位 小山実稚恵(日本)
·
第4位 ドミトリー・ガイジュク(ソ連)、カレ・ランダル(ソ連)
·
第5位 マリア・ロウェナ・アリエタ(フィリピン)
·
第6位 ニノ・ケレセリジェ(ソ連)、マイケル・ヒューストン(ニュージーランド)
·
第7位 ジェイムズ・バーバガッロ(アメリカ)、エンマ・タフミジャン(ブルガリア)
ヴァイオリン部門
·
第1位 ヴィクトリア・ムローヴァ(ソ連)、セルゲイ・スタドレル(ソ連)
·
第2位 加藤知子(日本)
·
第3位 ステファニア・シェーズ(アメリカ)、アンドレス・カルデネス(アメリカ)
·
第4位 アニク・ルサン(フランス)
·
第5位 なし
·
第6位 ラルフ・エヴァンズ(アメリカ)
チェロ部門
·
第1位 アントニオ・メネセス(ブラジル)
·
第2位 アレクサンドル・ルーディン(ソ連)
·
第3位 ゲオルク・ファウスト(西ドイツ)
·
第4位 マリーナ・タラソヴァ(ソ連)
·
第5位 デイヴィッド・ハーディ(アメリカ)
·
第7位 アントニー・ロス(アメリカ)
·
第8位 ミヒャル・カオカ(チェコ)
声楽部門・女声
·
第1位 リディア・ザヴィリャスタ(ソ連)
·
第2位 フロマン・カシモヴァ(ソ連)
·
第3位 ドローラ・ザージチ(アメリカ)
·
第4位 エルズベタ・アルダム(ポーランド)
·
第5位 スヴェトラーナ・ストレゼヴァ(ソ連)
·
第6位 マリレーナ・ミカイルセク(ルーマニア)、ヴァレリア・ミルチェヴァ(ブルガリア)
声楽部門・男声
·
第1位 パータ・ブルチュラーゼ(ソ連)
·
第2位 ゲガム・グリゴリアン(ソ連)
·
第3位 ヴラジーミル・チェルノフ(ソ連)
·
第4位 ペテル・ミクラエ(チェコ)
·
第5位 アレクサンドル・ホメリキ(ソ連)
·
第6位 ラドスラフ・ズコフスキ(ポーランド)
第8回(1986年)
ピアノ部門
·
第1位 バリー・ダグラス(イギリス)
·
第2位 ナタリア・トゥルーリ(ソ連)
·
第3位 イリーナ・プロトニコワ(ソ連)
·
第4位 アレクサンドル・ツェリャコフ(ソ連)、ロジェ・ミュラロ(フランス)
·
第5位 イフチョ・クルシェフ(ブルガリア)、イゴール・アルダシェフ(ソ連)
·
第6位 ヴィクトル・ロドリゲス(キューバ)、デイヴィッド・ベクナー(アメリカ)
·
第7位 コン・シャン=トン(中国)
·
第8位 セルゲイ・イェローヒン(ソ連)、ウィリアム・ウォルラムフ(アメリカ)
ヴァイオリン部門
·
第2位 シェ・ウェイ(中国)、マクシム・フェドトフ(ソ連)
·
第3位 ジェーン・ピーターズ(オーストラリア)
·
第4位 クリスティナ・アンゲレスク(ルーマニア)
·
第5位 なし
·
第6位 ドミトリー・ベルリンスキー(ソ連)、デイヴィッド・キム(アメリカ)
·
第7位 アイマン・ムサハジャエヴァ(ソ連)、ムフセス・ポゴスヤン(ソ連)
チェロ部門
·
第2位 スレン・バグラトゥーニ(ソ連)、マルッティ・ロウシ(フィンランド)
·
第3位 サラ・サンタンブロジオ(アメリカ)、ジョン・シャープ(アメリカ)
·
第4位 ミハエラ・フカチョヴァー(チェコ)、ヨハンナ・ピケル(オーストリア)
·
第5位 ビョン・ツァン(アメリカ)
·
第6位 なし
·
第7位 ケルスティン・フェルツ(東ドイツ)、秋津智(日本)
·
第8位 レヴォン・ムラジャン(ソ連)
声楽部門・女声
·
第1位 ナターリヤ・エラーソワ(ソ連)
·
第2位 バーバラ・キドゥフ(アメリカ)、アンナ=フェリチア・フィリプ(ルーマニア)
·
第3位 マリア・グレギーナ(ソ連)
·
第4位 ニーナ・ラウティオ(ソ連)
·
第5位 ゾー・ヘン・ゲン(韓国)
声楽部門・男声
·
第1位 グリゴリー・グリチューク(ソ連)、アレクサンドル・モロゾフ(ソ連)
·
第2位 バルセト・トゥマニアン(ソ連)
·
第3位 セルゲイ・マルチュノフ(ソ連)
第9回(1990年)
予定されていたオーケストラがストライキに入り、代わりにアマチュアのロストフシンフォニーが伴奏を引き受けた。
ピアノ部門
·
第1位 ボリス・ベレゾフスキー(ソ連)
·
第2位 ヴラジーミル・ミシチュク(ソ連)
·
第3位 ケヴィン・ケナー(アメリカ)、アントン・モルダソフ(ソ連)、ヨハン・シュミット(ベルギー)
·
第4位 ロルフ・プラッゲ(西ドイツ)、スティーヴン・ニーソン・プラツマン(アメリカ)
ヴァイオリン部門
·
第1位 諏訪内晶子(日本)
·
第2位 エフゲニー・ブシコフ(ソ連)
·
第3位 アリッサ・パーク(アメリカ)
·
第4位 アントン・バラホフスキー(ソ連)、ナターリヤ・リホポイ(ソ連)
·
第5位 デイヴィッド・チャン(アメリカ)
·
第6位 ドミトリー・ベルリンスキー(ソ連)、ルシア・リン(アメリカ)
·
第7位 マリア・バックマン(アメリカ)
チェロ部門
·
第1位 グスタフ・リヴィニウス(西ドイツ)
·
第2位 フランソワーズ・グローベン(ルクセンブルク)、アレクサンドル・クニャーゼフ(ソ連)
·
第4位 ナターリヤ・ホマ(ソ連)、アレクセイ・マサルスキー(ソ連)
·
第5位 グイド・シーフェン(西ドイツ)
·
第6位 アレクサンドル・ザゴリンスキー(ソ連)、マルコ・ユロネン(フィンランド)
声楽部門・女声
·
第1位 デボラ・ヴォイト(アメリカ)
·
第2位 マリーナ・シャグチ(ソ連)
·
第3位 エミリア・オプレア(ルーマニア)、マリア・ホフロゴルスカヤ(ソ連)
·
第4位 アスミク・パピャン(ソ連)
·
第5位 水野貴子(日本)
·
第6位 小濱妙美(日本)
声楽部門・男声
·
第1位 ハンス・チョイ(アメリカ)
·
第2位 ボリス・スタツェンコ(ソ連)
·
第3位 オレグ・クルコ(ソ連)、ヴォイチェフ・ドラヴォヴィツ(ポーランド)
·
第4位 ニコライ・レシェトニャク(ソ連)
·
第5位 ユー・ピン(アメリカ)
·
第6位 セルゲイ・ザドヴォルニー(ソ連)
第10回(1994年)
ピアノ部門
·
第1位 なし
·
第2位 ニコライ・ルガンスキー(ロシア)
·
第4位 アレクサンドル・ギンジン(ロシア)、シュ・ツォン(中国)
·
第5位 アレクサンドル・シュタルクマン(ロシア)
·
第6位 なし
ヴァイオリン部門
·
第1位 なし
·
第2位 アナスタシア・チェボタリョーワ(ロシア)、ジェニファー・コー(アメリカ)
·
第4位 エゴル・グレチシニコフ(ロシア)、オフェル・ファルク(イスラエル)
·
第5位 横山奈加子(日本)
·
第6位 リー・キュン・スン(韓国)
チェロ部門
·
第1位 なし
·
第2位 なし
·
第3位 なし
·
第4位 アイリーン・ムーン(アメリカ)、グリゴリー・ゴリュノフ(ロシア)
·
第5位 なし
·
第6位 キリーヌ・フィールセン(オランダ)
声楽部門・女声
·
大賞 ヒブラ・ゲルズマーワ(グルジア/アゼルバイジャン)
·
第1位 マリーナ・ラピナ(ロシア)
·
第2位 ラウラ・クレイカム(アメリカ)、タチヤーナ・ザハルチュク(ウクライナ)
·
第3位 イリーナ・ゲラホヴァ(ロシア)
声楽部門・男声
·
第1位 ユアン・チェン・イェ(中国)
·
第2位 なし
·
第3位 ミハイル・ダヴイドフ(ロシア)、ホー・グァン・スー(中国)
第11回(1998年)
ピアノ部門
·
第1位 デニス・マツーエフ(ロシア)
·
第2位 ワディム・ルデンコ(ロシア)
·
第3位 フレディ・ケンプ(イギリス)
·
第4位 セルゲイ・タラソフ(ロシア)
·
第5位 マクシム・フィリィポフ(ロシア)
·
第6位 オレグ・ポリャンスキー(ウクライナ)
ヴァイオリン部門
·
第1位 ニコライ・サチェンコ(ロシア)
·
第2位 ラティサ・ホンダ=ローゼンベルク(ドイツ)
·
第3位 イジョン・パン(中国)
·
第4位 ビン・フアン(中国)
·
第5位 アレクサンドル・トロスティアンスキー(ロシア)
·
第6位 ナターシャ・ロメイコ(イギリス)
チェロ部門
·
第1位 デニス・シャポヴァロフ(ロシア)
·
第2位 リー・ウェイ・クィン(オーストラリア)
·
第3位 ボリス・アンドリアノフ(ロシア)
·
第4位 フランソワ・サルク(フランス)
·
第5位 なし
·
第6位 ヴォルフガング・エマヌエル・シュミット(ドイツ)、ドミトリー・ツィリン(ロシア)
声楽部門・女声
·
第1位 佐藤美枝子(日本)
·
第2位 エレナ・マニスティナ(ロシア)
·
第3位 マイラ・ムハメド=キジ(カザフスタン)
·
第4位 ヴィクトリア・エフトディエヴァ(ロシア)、ズラタ・ブリチェヴァ(ロシア)
声楽部門・男声
·
第1位 ベシク・ガビタシヴィリ(グルジア)
·
第2位 エフゲニー・ニキーチン(ロシア)
·
第3位 アレクサンドル・キセレフ(ロシア)
·
第4位 ガンバト・プレフザフ(モンゴル)
第12回(2002年)
審査員に予定されていた中村紘子が、直前になってキャンセルした。
ピアノ部門
·
第1位 上原彩子(日本)
·
第2位 Nabiulin Alexei (ロシア)
·
第3位 Jin Ju (中国)、Ponotchevny
Andrei (ベラルーシ)
·
第4位 なし
·
第5位 Onischenko Dmitry (ウクライナ)、Lim Dong-Min (韓国)
·
ディプロマ Dombrovsky Pavel (ロシア)、Teterin Dmitry (ロシア)
ヴァイオリン部門
·
第1位 なし
·
第2位 川久保賜紀(日本/アメリカ)、Chen Xi (中国)
·
第3位 Samouil Tatiana (ロシア)
·
第4位 Kazazyan Gaik (ロシア)
·
第5位 Koeckert Nickolas (ドイツ)、Ovrutsky Mikhail (ロシア/アメリカ)
·
第6位 Liu Yang (中国)
·
ディプロマ Stembolsky Evgeny (ロシア)
チェロ部門
·
第1位 なし
·
第2位 Moser Johannes (ドイツ)
·
第3位 Popp Claudius (ドイツ)、Chaushyan Alexander (アルメニア)
·
第4位 石坂団十郎(ドイツ)
·
第5位 Shao Sophie (アメリカ)、Garioud Romain (フランス)
·
第6位 Prokofjev Dmitry (ロシア)
·
ディプロマ Khramouchin Alexander (ベルギー)
声楽部門・女声
·
第1位 Afanasieva (Adamova) Aitalina (メゾソプラノ、ロシア)
·
第2位 Wu Bi Xia (ソプラノ、中国)
·
第3位 Samuil Anna (ソプラノ、ロシア)
·
第4位 Bakastova Anastasia (ソプラノ、ロシア)
·
ディプロマ Lungu Irina (ソプラノ、ロシア)、Shvachka Angelina (メゾソプラノ、ウクライナ)
声楽部門・男声
·
第1位 Kazakov Mikhail (バス、ロシア)
·
第2位 Dunaev Andrey (テノール、ロシア)
·
第3位 Dong Seub Kim (バリトン、韓国)
·
第4位 Kocan Stefan (バス、スロバキア)
·
ディプロマ Dudar Victor (バス、ウクライナ)、Tae Hyun Kim (バリトン、韓国)
第13回(2007年)
ピアノ部門
·
第1位 なし
·
第2位 ミロスラフ・クルティシェフ
·
第3位 アレクサンダー・ルビアンツェフ
·
第5位 ベンジャミン・モーザー
·
第6位 フェオドール・アミーロフ
ヴァイオリン部門
·
第1位 神尾真由子
·
第2位 Nikita Borisoglebsky (Russia)
·
第3位 有希・マヌエラ・ヤンケ (ドイツ)
·
第4位 Soyoung Yoon (Republic of Korea)
·
第5位 Hyon-Su Shin (Republic of Korea)
·
第6位 Zhijiong Wang (China)
チェロ部門
·
第1位 セルゲイ・アントノフ
·
第2位 Alexander Buzlov
·
第3位 Várdai István
声楽部門・男声
·
第1位 Alexander Tzimbaluk
声楽部門・女声
·
第1位 Albina Shagimuratova
第14回(2011年)
ピアノ部門
·
第1位 ダニール・トリフォノフ
·
第2位 ソン・ヨルム
·
第3位 チョ・ソンジン
·
第4位 アレクサンダー・ロマノフスキー
·
第5位 アレクセイ・チェルノフ
ヴァイオリン部門
·
第1位 なし
·
第2位 Sergey Dogadin (Russia)、Itamar Zorman (Israel)
·
第3位 Jehye Lee (South Korea)
·
第4位 Nigel Armstrong (USA)
·
第5位 Eric Silberger (USA)
チェロ部門
·
第1位 Narek Hakhnazaryan (Armenia)
·
第2位 Edgar Moreau (France)
·
第3位 Ivan Karizna (Belarus)
·
第4位 Norbert Anger (Germany)
·
第5位 Umberto Clerici (Italy)
声楽部門・男声
·
第1位 Jongmin Park (South Korea)
·
第2位 Amartuvshin Enkhbat (Mongolia)
·
第3位 なし
·
第4位 なし
声楽部門・女声
·
第1位 Sun Young Seo (South Korea)
·
第2位 なし
·
第3位 Elena Guseva (Russia)
·
第4位 なし
第15回(2015年)
ピアノ部門
·
第1位 ドミトリー・マスレエフ(Russia)
·
第2位 George Li(USA) ルーカス・ゲニューシャス(Russia/Lithuania)
·
第3位 Daniel Kharitonov(Russia) Sergey
Redkin(Russia)
·
第4位 Lucas Debargue(France)
ヴァイオリン部門
·
第1位 なし
·
第2位 Yu-Chien Tseng (Taiwan)
·
第3位 Kazazyan, Haik(Russia) Conunova,
Alexandra(Moldova) Milyukov, Pavel(Russia)
·
第4位 Kang, Clara-Jumi(Germany)
·
第5位 Kim, Bomsori(South Korea)
チェロ部門
·
第1位 Andrei Ionuț Ioniță (Romania)
·
第2位 Alexander Ramm (Russia)
·
第3位 Alexander Buzlov (Russia)
·
第4位 Pablo Ferrandez-Castro (Spain)
·
第5位 Seung Min Kang (South Korea)
·
第6位 Jonathan Roozeman (Netherlands)
声楽部門・男声
·
第1位 Ariunbaatar Ganbaatar (Mongolia)
·
第2位 Chuanyue Wang (China)
·
第3位 Hansung Yoo (South Korea)
·
第4位 Dmitry Grigoriev (Russia)
声楽部門・女声
·
第1位 Yulia Matochkina (Russia)
·
第2位 Svetlana Moskalenko (Russia)
·
第3位 Mane Galoyan (Armenia)
·
第4位 Antonina Vesenina (Russia)
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