いじめの政治学  中井久夫  2018.7.14.


2018.7.14.  中井久夫集6 19961998 いじめの政治学

著者 中井久夫 1934年奈良県生まれ。京大医卒。神戸大名誉教授。精神科医。『カヴァフィス全詩集』の翻訳で読売文学賞、エッセー集『家族の深淵』で毎日出版文化賞。昨年から刊行が始まった中井久夫集は全11巻の予定

発行日           2018.4.10. 第1刷発行
発行所           みすず書房

Ø  19961月・神戸(1996)
震災1周年を迎えた雑感。見ると聞くは大違い
被災地は情報の窪地
貧富の差がハサミ状に拡大 ⇒ 社会的なパワーを持ち人脈の広い人とそうでない人の格差
阪神大震災は死者6,300人の災害として理解されるべきではなく、3連休明けの午前6時前に死者6,300人の災害とされるべき ⇒ 午前10時に襲ったら、午後5時半に来たら被害の形態がどうなるかを予測するシミュレーションをやっておくべきであり、必要なのは現実に直面する勇気だけ

Ø  喪の作業としてのPTSD(1996)
阪神大震災において、精神科医は大量のPost Traumatic Stress Disordersに直面
元々の理解は、精神分析学でいう「喪の作業」、即ち大切に思う人の喪失の後に、その耐え難く、取り返しがつかない空虚さを消化していく、苦渋な心の過程そのものではないかということ
PTSDという言葉は、1980年米国の精神医学の診断基準DSMの第3版に初めて登場
不安障碍の1項目で、その特徴は極度の(心的)外傷的事件を再体験することであって、過剰覚醒症状と外傷と連合している刺激の回避とを伴う
精神障碍は、原因を特定せずに現れた現象だけをもって精神疾患としてきた、いわば「内科的疾患」だったが、PTSDに限っては原因を特定している「外科的障碍」で、従来は個人的に耐え忍び、自分の中に抱え、自力で処理されるべきものとされて来た。ところがそうではなくて、コミュニティの中で支えられ、援助されるべきと考え直されてきた
この社会的開眼の最大の文脈は女性の受苦を理不尽なものとする20世紀の認識であろう
PTSDの原因となる外傷体験として列挙されているのは、軍人の戦闘体験、個人に加えられた暴力、誘拐、人質、テロ攻撃、拷問、捕虜拘禁、天災人災、大自動車事故、死病の宣告、子どもにおいては性的脅迫や凌辱でなくても発達的に不適切な性体験を挙げ、さらに直接体験に限定せず目撃体験、家族への暴力、家族の突然死などを挙げる
変化の兆候はある ⇒ 一般医療の精神医療化、リエゾン精神医学などが市民権を得つつある
1.    心的外傷の心理学の理解を深める ⇒ 治癒のためのアプローチの研究や公衆に伝える努力も必要
2.    心的外傷の生理学も重要 ⇒ 侵襲学(術後病態生理学)から学ぶことが多い。PTSDに特徴的な症状として起こる反復回帰する被害に関連した鮮明な視覚的静止像の間歇的出現への対処は重要なポイント
3.    自助グループの必要性 ⇒ 広い社会的参集による「やさしい社会」が前提
4.    犠牲者をもう一度犠牲者として社会から排除しないことを自戒すべき ⇒ 外傷後の精神医学的異常のほうを、外傷後症候群より優先させてはいけない
5.    誰でも厄災に遭遇すれば起こりうるデモクラティックな概念としてPTSDを捉える

Ø  訳詩の生理学(1996)
詩作者としてのヴァレリーが「詩とは舞踏である」というとき、訳詩はデュエットでの舞踏
散文の翻訳のようにただ並んで歩けばいいというものではなく、原詩と完全に合わせることはできなくても、もっと微妙で多面的な波長合わせが必要であり、原詩よりも劇詩に近づく傾向があるのはそのため
訳詩が可能かという議論は永遠の問題だが、読む人の母語で原詩を読むことにかけがえのない意義があると考える
原詩を母語としない外国語学の専門家が原文を母語のように味到できる可能性は絶無ではないが、言語の生理学からは非常に至難の業
人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に1歳までの間に喃語(なんご:赤ちゃん言葉)を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後におおよそ2歳半から3歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性adult grammaticality」を獲得する ⇒ 成人になってからではほとんど習得できない能力
よい訳とは、単なる注釈の1つの形ではなく、母語による戦慄をあなたの中に蘇らせるものでなくてはならず、「かけがえのない価値」とはそういうこと ⇒ 原詩の言語を母語としない人には、訳詩が必ず独立の価値があって、それを通して原詩を味わうのに貢献している
晩年のゲーテは『ファウスト』を決してドイツ語では読まず、フランス散文詩訳を読んだという。おのれの書いた原文の迫る生々しさから距離を置きたかったのではないか
言いたいのは、2つの言語、特に2つの詩――原詩とその訳詩――の言葉は、言語の深部構造において出会うということで、表層構造の出会いは不問
暗誦に耐えられない原詩は訳せない。暗証していうるうちにどこかの部分が自然に日本語に変わってしまう

Ø  記憶について(1996)
記憶は西洋ではかつて非常な重要尾性を占め、記憶術の隆盛をみたが、紙と印刷術の普及という記憶の外化にともない、記憶の研究は記憶の異常に限定された
短期記憶は最も道具的記憶で、歳とともに衰退の一途を辿る
短期記憶は思索において最も重要なのは、発生する複数の観念を動的に意識に保持する必要があるから ⇒ 論文の執筆に際しては、書く内容に関する重要な観念の塊(キーワードとかチャンク)を常にいくつか意識の中に入れながらそれらの関係を考えどのようにして文章という一次元に収めてゆくかを考える
長期記憶の中で一般的な言語と文字については、18歳以後は急速に衰える
エピソード記憶というその人限りの個人的記憶は、人格を形成し持続するうえで不可欠な記憶で、一般記憶が衰退してもエピソード記憶の骨格が保持されていれば、その人の人格は基本的に健全 ⇒ 老人が過去の物語を語ってやまないのは、エピソード記憶を再強化して「人格の煤払い」をしているので、適応的な行動といえるので、これを笑殺すれば屎尿の面倒を見なければいけない日が早まるであろう
本から得た内容は一般記憶だろうが、その獲得過程は個人的記憶即ちエピソード記憶。とはいえ、重要な一般記憶はエピソード記憶的に支えられている

Ø  詩を訳すまで(1996)
詩の訳は生業としては成り立たず、外国も含め、大学の文学研究者か詩人が訳すのが普通
私は50歳を過ぎてから始め、主に現代ギリシャの詩人数人と現代フランスの詩人ヴァレリーを扱う ⇒ 現代といっても、私の文学世界である日露戦争以後の世代をさす
最近の言語心理学の成果として、2歳半から3歳の間に「言語爆発」が起こって急速に成人文法性が成立するというのがある ⇒ 成人文法性とは、有限の規則と有限の語彙をもって、ほとんどあらゆる場合を記述することができる魔法の道具で、個別言語に共通な深部構造があって、それは生得的なものとされる
真のバイリンガルが存在しないというのは、胎児からの言語生活の歴史を考えれば当然
文字を味わう前提として、あくまでも母語であることを求め続ければついには方言しか使えないことになる
言語行動としての文学の困難と魅力は、全くの成人言語でも母語でもあり得ないという言語の二河白道にある 
成人文法性の成立は、言語の深層構造の成人化であるから、母語からの乳離れである
もっぱら母語のみによる文学は極限的な「郷土文学」、成人言語に最も近いのは公文書
成人型の深層構造が成立してさえいれば、翻訳という行為は生理現象に近い
文体の獲得には、外国語を経由することに深い意味がある ⇒ 外国語で書くということは深部構造の一種の煤払いになる

Ø  いじめの政治学(1997)
いじめbullyingは英米にもある
いじめは、その時その場での効果だけでなく、生涯にわたってその人の行動に影響を与えるもの
いじめのかなりの部分は、学校という場でなければ立派に犯罪を構成するもので、学校が法の外にあるかのような錯覚を多くの人が共有している
いじめの基準は、相互性があるかどうか ⇒ 鬼ごっこで相互に鬼になるのはいじめではないが、鬼が常に決まった人であればいじめ
子供の社会は権力社会であるという側面を持つ ⇒ 家族や社会の中で権力を持てないだけに、権力に飢えている
加害者側の研究は少ない ⇒ 家庭内でのいじめや一部教師の態度から学んだものが実に多い
権力欲とはどういうものか ⇒ 実際上無際限に多数の人を巻き込み上限がない。その快感は思い通りにならないはずのものを思い通りにするところにあるため、真の満足がない 
ルールに従って遊べるのは4年生から ⇒ 遠近法が描けるようになるのは35年生と言われるので、それを頭の中の抽象空間に移せば、物事の軽重の順序、緊急か猶予があるか、優先順位が何かなどを整合的に表彰できること
いじめが権力に関係しているからには、必ず政治学がある ⇒ 子供が政治学的存在であるという面を持つ
いじめが分かりにくいのは、ある一定の順序を以て進行するからで、その順序が政治的に巧妙
いじめの3段階 ⇒ 「孤立化」「無力化」「透明化」の3つで、政治的隷従=奴隷化の過程と同じ
孤立化 ⇒ 標的化して、誰かがマークされたということを周知する。仲間が離散すると同時に大人が介入できない構造を持つことへのしっかりした思い込みを被害者に持たせる
PR作戦 ⇒ いじめられる者がいかにいじめに値するかということを強調し、周囲の差別意識に訴えると同時に、被害者にも理不尽な事態に自分なりの釈明を与えようと必死になる機会を与え、加害者と傍観者とを勇気づける
被害者の警戒的超覚醒状態 ⇒ 被害者は絶えず周囲にも自己の振る舞いにも気を配らなければならない
無力化 ⇒ 被害者に反撃が一切無効であることを教え、観念させる。そのためには反撃は必ず懲罰的な過剰暴力をもって罰せられ、その際誰も味方にならないことをくりかえし味わわせる必要
隷従化が進むほど、加害者が被害妄想的になる ⇒ スターリンが好例で、人間は隷従者にはなりえないという加害者側の意識に基づく
透明化 ⇒ 周囲の目にいじめが見えなくなる。善良なドイツ人に強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意」という人間の心理的メカニズムによって見えなくなる
被害者は孤立無援、世界が狭まり、時間的にも加害者との関係が永続するように思える
子供の時間感覚は単位時間を大人より遥かに長く感じさせる ⇒ 2年で卒業とわかっていても、2年後が永遠のまだその向こうにしか思えない
透明化の過程で行われるのが「搾取」で、その為に被害者は犯罪に手を染め、家族・社会との最後の絆を自ら切り離し、絶滅収容所への道を歩む
外でのいじめられっ子は時には内で暴君となるが、最後の誇りとしての家族の前では「いい子」を演じ続け、最後の誇りが失われそうになった時に行われるのが自殺
対策としては、まず安全の確保と孤立感の解消であり、二度と孤立させないという大人の責任ある保障の言葉と実行。大人があくまでいじめは悪であり犯罪で、道徳的には被害者の立場に立つことを明言すること。被害者がいじめのワナのような構造の犠牲者であることを話して聞かせ、罪悪感や卑小感、道徳的劣等感を軽くしていくことが最初の目標

Ø  日本人は外国語がなぜできないことになっているのか(1998)
日本人の外国語下手は定評で、今や会話重視というがそれが必要か、できるか、それでよいか
外国人に道を聞かれて困るというが、何回聞かれるか。欧米では標識が整っているから読めれば不自由しない
スピーチができても、質問で立ち往生しては役に立たない
学会での講演でも、質問などは分担しなければとても一人ではこなせない
日本人が外国語に弱かったのは、ニーズがなかったからで、アメリカ人も同様
また、海外に留学等しても日本人仲間が大勢いれば本当の外国語習得には役立たない

Ø  須賀敦子さんの訳詩について(1998)
須賀敦子の現代イタリア詩の訳は珠玉の訳詩だが数は多くない
『ミラノ 霧の風景』(1990)のパスコリ1篇、サバ2篇を始めとして計68篇のみ
ここで取り上げる『イタリアの詩人たち』(98)は、『スパツィオ』に7779年掲載の、極めて早いイタリア現代詩の紹介。須賀は41篇を紹介、高い水準の時には辛口の解説批評をつけている
前述のパスコリの訳詩の語感、母音と子音の暗さを見事に使い分け、彼女の詩感覚は共通感覚にまで到達する。朗誦すれば口腔感覚も発音筋運動感覚も翼となって軽々と「詩」を運んでくれるのが実感できる。詩文の気品、須賀は今の世に稀な品格の文章を書かれる。読書界を一挙に捉えたのは何よりもまずこれだと思う
この感覚には年季が入っている。彼女にあっては詩の目覚めがかけがえのないただ一人の自分の発見の時期と一致する。精神医学でいう「唯我論的自己」そのもの
彼女にとって詩とはまずリズムであり、イメージの喚起する色彩であり、揺さぶられる情動であった。それが英詩の暗誦によって詩は受肉する。この体験が訳詩者にとっていかに大きいか。言語感覚は的確で繊細な日本語散文にもたっぷり活かされている
彼女が詩人よりも翻訳家になった機微には才能以上の運命的なものがあると思う
殊に詩の翻訳は散文以上の辛さがある。詩の翻訳は不可能という命題がある
彼女自身、しっかりした自分の世界を秘密の宝箱の様に隠し持っていなければ精神衛生が危ういと告白している。持っていたとしても周囲から実に理解されにくいもの
彼女の散文は、「魅力的であって自分に多くを与えてくれながら大切な母を悲しませる父」との精神的和解という大仕事でもあったと思う
彼女のエッセイを私小説と区別するものは、私小説とは自己主張する人の作品なので、彼女は常に目立たない仲介者として登場するから。彼女は常に人を照らし出す人。貧しい人々への近しさもそこからかもしれない
彼女が庄野潤三の『夕べの雲』のイタリア語訳者であることに驚く。一家の日常を記して筋があるかどうかというものだが、彼女は自分から、「日本の本当の一断面がある。写真にも映画にも表せない、日本のかおりのようなものであり、本当であるがゆえに、日本だけでなく、世界中、どこでも理解する普遍性を持っている」として翻訳を申し出、66年刊行され好評だった。同時に彼女は、「この作品を読んでもらったら、どれだけ私の果てしない、「日本を説明しようとする」仕事の助けになるだろうか」とも述べていて、これも狭くは北イタリアの家族、知人たちの中での、広くはイタリアと日本との中での仲介者の位置である
前述のサバの詩は初期の訳で、『ウンベルトオ・サバ詩集』の訳とではだいぶ違う
須賀の訳詩は、沈黙、「間」が織り込まれて詩の一部になっているのが特徴 ⇒ 「字あけ」の多用、句読点の徹底的省略或いは多用、改行。日本詩には稀な「跨(わた)り」の多さは、西脇順三郎や池澤夏樹を継いで開拓した日本詩の新たな可能性


解説  最相葉月
中井は戦時中札付きのいじめられっ子で、その原体験を踏まえつつ、いじめの被害者の心理と集団力動について考察したのが『いじめの政治学』で、97年に発表後、特に少年事件を扱う教育関係者や法曹関係者によく読まれた
阪神大震災の一周忌に書かれた文章は初出に10倍以上の追記を加えたレポートで、診療や心のケアセンターの活動を通して浮き彫りになった災害精神保健の重要なポイントが網羅されている ⇒ 最大の発見がPTSD(心的外傷後ストレス障碍)
本巻の通底するテーマは「記憶」 ⇒ 辿り着いた1つの仮説が『記憶について』と『詩を訳すまで』に記されている




(書評)『中井久夫集6 1996-1998 いじめの政治学』 中井久夫〈著〉
2018.5.20. 朝日

 見えない隷従化が進む時代に
 本書は、精神科医中井久夫の全集の第六巻であり、一九九六年から九八年までに書かれた論文やエッセイが収録されている。私の知る限り、かつて精神医学に向かった人は、同時に文学に造詣(ぞうけい)の深い人が多かった。その中でも中井氏は際立っている。たとえば、本書にも、ギリシア語・フランス語の詩を翻訳してきた経験にもとづく論考が三つ載っている。また、九五年、阪神淡路大震災のあと、中井氏が地元で救援活動に取り組んだ記録、さらに被害者のPTSD(心的外傷後ストレス症候群)についての考察が載っている。それらは、必ずしも精神医学と直結するものではないが、同時に、精神医学なしにはありえない洞察に充(み)ちている。
 この巻の表題となった、「いじめの政治学」という論文についても同じことがいえる。これは比較的短いものだが、タイトルとするにふさわしい内容をもっている。重要なのは、それが「いじめの心理学」や「いじめの精神病理」を論じたものではなく、「いじめの政治学」を論じたものであるということだ。《いじめが権力に関係しているからには、必ず政治学がある。子どもにおけるいじめの政治学はなかなか精巧であって、子どもが政治的存在であるという面を持つことを教えてくれる》
 いじめはたんに「いじめる」ことではなく、人を全面的に「隷従化」するものである。それはつぎのような過程を通して実現される。第一に、いじめられる者の「孤立化」である。第二に、孤立した者をいっそう「無力化」する段階がある。この時期にはしばしば暴力がふるわれる。第三の段階は、いじめが第三者には見えなくなっていく「透明化」である。被害者は無理難題を押しつけられるが、孤立無援となって、反撃・脱出することもしなくなる。そして、自ら加害者側の末席に加わったりもする。また、この段階では、金銭の搾取がある。
 以上のような過程は、第三者には観察できない。いじめがあったことが判明するのは、被害者が自殺するときである。そして、ほとんどの場合、親も教師も驚くだけである。むろん、いじめから解放された者にもPTSDが残る。中井氏がこのような過程を見出(いだ)したのは、心的外傷に苦しむ患者の分析を通してであろうが、何よりも自身が子ども時代に体験したいじめを長年にわたって反芻(はんすう)してきたからだろう。「ここに書けば政治屋が悪用するのではないかとちょっと心配なほどである」と中井氏はいう。しかし、私は学校などの現場で、この論文を読んでほしいと思う。のみならず、これはまさに政治学としても読まれるべきである。人に見えないような「隷従化」が進行している時代だからだ。
 評・柄谷行人(哲学者)
    *
 『中井久夫集6 1996-1998 いじめの政治学』 中井久夫〈著〉 みすず書房 3672円
    *
 なかい・ひさお 34年生まれ。精神科医。『カヴァフィス全詩集』の翻訳で読売文学賞、エッセー集『家族の深淵』で毎日出版文化賞。昨年から刊行が始まった中井久夫集は全11巻の予定。


コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.