法学の誕生  内田貴  2018.8.11.


2018.8.11.  法学の誕生 近代日本にとって「法」とは何であったか

著者 内田貴 1954年大阪生まれ。 76年東大法卒。同大学院法学政治学研究科教授、法務省経済関係民刑基本法整備推進本部参与を経て、現在東大名誉教授、早大特命教授、森・濱田松本法律事務所客員弁護士。法学博士。専門は民法学

発行日           2018.3.30. 初版第1刷発行           18.7.5. 初版第3刷発行
発行所           筑摩書房


日本が驚くほど短期間に近代化を果しえたのは、西洋法の継受に成功したからである。
だが、「法」を自らのものとして運用するには、それを支える法学的思考様式、つまりは「法学」を受容することが不可欠だった。
法学とは西洋社会に深く根差した思想であり、文化である。
全く異質な文化的土壌を持った日本社会が、それまでにない思考様式を受容するのには幾多の困難があった。
いったい日本人は、いかにしてそれを乗り越えたのか?
欧米列強と対等に伍するため、国を代表する俊英たちが競って法学を学び、近代国家としての骨格を作り上げ
た明治日本。
先人たちの苦闘の歴史を鮮やかに描き出す。


はしがき
日本の近代化の鍵は「法」だった。短期間に日本が近代国家の形成に成功したのは西洋の法と法学の受容に成功したからだが、西洋の法学の引き写しではない「日本の法学」が必要
本書は、法学の受容の課題を明らかにした
『坂の上の雲』で活躍した伊予松山出身の秋山兄弟に対し、ほぼ同じ時代に法の世界で活躍した伊予宇和島出身の穂積陳重(のぶしげ)と八束(やつか)の兄弟がいた
陳重は、東京帝大教授を経て最晩年には枢密院議長にまで昇りつめ、学者として栄達を極め、明治民法の起草者の1人として知られるが、学問的業績に関してはダーウィンの進化論を法学に適用したものといわれ、壮大な全体構想のごく一部しか公刊することが出来なかったうえ、学問的には失敗作との評価もある。八束は、東京帝大の初代憲法担当教授となり、天皇を絶対視する国家主義のイデオローグとして知られ、今日では学問的に全否定された存在
本書では、2人の業績を改めて見直し、アジア初の近代国家を樹立しようとしていた当時の日本の姿に新たな光を当て、最も初期の法学者として、そもそも法学という学問のない国に最初の法学を打ち立て、最初の憲法解釈学を打ち立てた人物として、西洋の法や法学という最も西洋的な文化を受容することはどのような挑戦だったのか、日本人は何に苦労し何に拘ったのかを明らかにしたい
穂積兄弟を通して眺める近代日本の草創期は興味が尽きない

第1章        西洋法との遭遇
1857年日米通商条約締結交渉の冒頭、米国初代駐日総領事タウンゼント・ハリスに対し、公使を置いた場合の法的地位について質問したところ、「万国普通之法」に従うと回答され、何のことかわからず、「万国公法」についての知識なしに西洋との駆け引きが出来ないことを知るが、その背景となっている学問である法学を理解することは容易ではなかった
西洋の法学を学ぶために留学を希望したのが西周と津田真道 ⇒ 62年オランダへ行き、ライデン大のフィッセリング教授から、自然法、国際法、国法学、経済学、統計学を学ぶ
65年に帰国後、津田が講義録を翻訳した『泰西国法論』を出版、西洋法学を紹介する最初の書物 ⇒ 「人道は仁義礼譲を説き、法学は惟事の曲直、理の当否を論ず」
西が翻訳した「自然法」は、日本にない概念であり、西洋法学を理解するうえで不可欠の重要な概念 ⇒ 人間が人間であることによって必然的に導かれる法
西洋の自然法思想では、社会や国家を規律する規範には人間の本質的な性質に由来する自然法則的な意味での正しい法があるはずと考える。とりわけ私法は、市場を支える法的ルールなので、取引が行われる社会、つまり、対等な市民によって構成される社会という観念が不可欠
学問としての法学は、西洋文化に固有であり、起源はギリシャ・ローマにあり ⇒ それぞれの国固有の歴史的伝統を持った法学が存在

第2章        人材養成
穂積陳重(18551926) ⇒ 英独留学後82年東大法学部長。日本への西洋法学と法学教育の導入、定着発展をリード。93年からは民法起草で活躍。法制審議会初代総裁。枢密院枢密顧問官から副議長、議長。帝国学士院院長。息子が重遠
穂積八束(18601912) ⇒ 東京帝大教授、憲法学者。家族国家観のイデオローグとして活躍
陳重は、条約改正と近代化のために西洋の学問に通じた人材を養成するために70年から始まった明治政府の貢進生として宇和島から選ばれ、大学南校で訓練
72年には、江藤新平司法相の下で、フランスから弁護士が招聘されて法学教育を始めた所から、英米法とフランス法の2本立てで法学教育がスタート。ドイツが後から追加される
西洋法学の受容は、漢学というフィルターを通しての翻訳によるもの

第3章        「留学」の時代
西洋法学受容の第1歩は、お雇い外国人の招聘
次いで留学 ⇒ 75年より文部省貸費留学制度開始、第1回は11名中9名がアメリカへ、さらに法学を専攻したのが、鳩山、小村寿太郎他4
陳重は第2回で、ロンドンのミドル・テンプル法曹学院へ、78年にはスカラシップを受けるとともにバリスターの資格を得てドイツに転国 ⇒ 実務教育中心のイギリスが、法学教育改革のモデルとしたのがドイツであることによる
帰国間近の陳重が東京大の法学に招聘され、ドイツ法が中心となっていく
陳重は帰国早々に渋沢栄一の長女歌子と結婚 ⇒ 留学前に宇和島藩士の家への入り婿の話が決まってたいたがひっくり返る

第4章        日本が出会った法学――「歴史の世紀」のヨーロッパ
1.    ヴィクトリア時代のイギリス法学
政治力と軍事力がますます工業技術の力に基礎を置くようになり、工業技術の発展がもたらす政治的影響がかつてないほど重要となる ⇒ ヨーロッパの世紀
明治維新のタイミングは、経済の世界的規模での拡大の歴史の中の微妙な転換点 ⇒ 自由貿易に大きく振れたヨーロッパが、アジア、アフリカの分割へと乗り出す
イギリスの法学は、判例法として裁判の蓄積として長い時間をかけて形成 ⇒ 「身分から契約へ」の変化といわれ、家父長制という身分制度によって規律されていた社会関係が、個人と個人の自由な契約によって関係が築かれるような社会へと変化。さらに法の発展をもたらす3つの契機として、①擬制fiction、②衡平equity、③立法が考えられ、功利主義的発想が主流となっていく

2.    歴史主義の時代のドイツ法学
英仏共に法を作ってきたのは実務家だったが、ドイツでは大学教授が法学という学問を通して法を創出し、かつ、学際的な環境下に育まれた ⇒ 外国文化を受容する窓口としての学問の殿堂である大学の社会的地位が際立って高く、大学内で学際的コミュニケーションを通して独特の大学文化が生まれ、法学も同様に当時の時代思潮を吸収しながら発展
「学問としての法学」という法学観が確立

第5章        条約改正と法典論争――近代日本のナショナリズム
当時の日本の状況から見て、西洋の法学が前提としていた社会との異質さは、法学受容の困難さを物語る
1.    外国人の見た日本
ハーンやベルツの見た「神国日本」

2.    ナショナリズムと条約改正
諸外国との不平等条約がナショナリズムの昂進を煽り、大隈重信の暗殺事件や大津事件へと発展 ⇒ 大津事件では大審院院長だった児島惟謙が、皇室に対する罪で裁くべきと主張する政府に対し、法律の正文を適用した判決を通して。児島は陳重の同郷の大先輩であり媒酌人と同時に姻戚関係にもあり、この判決の際陳重の意見を求めている

3.    法典論争
お雇い外国人法学者の下で法典編纂を進めようとした ⇒ その1人がフランス法学者ボワソナード

第6章        法学の受容
陳重の学問的な軌跡を辿りつつ、西洋法学の受容をリードした人物が何を考えていたのかを探る
1.    啓蒙の時代
陳重の基調は、「自然法論の排撃」と「進化主義の称揚」 ⇒ 自らの普遍性を主張する自然主義の受容は、西欧文明と異質な日本の歴史や文化の否定につながりかねないとするとともに、既に移入が進んでいたフランス流の自然法論への反発もあって排撃、進化論を採用して歴史法学的視点から日本の法学教育を主導

2.    生きている遺制
93年民法・商法起草に着手 ⇒ 比較法的視野に立って、西欧の民法のうち支持できる原則を、可能な限りシンプルに定めた条文にすることで対応した結果、独仏とも2400条の条文が原案では1146条に圧縮。対処できなかったのが家族法であり、「家制度」の位置づけが最大の争点となる
遺制の1つは「隠居」 ⇒ 財産権移転の1つの原因。消滅しつつあるとしながらも西洋法学の中で正当化した
他にも「戸主制度」や「分家制度」、「養子制度」など個別に議論

3.    伝統への沈潜
基本的な法典の編纂が終わったあと、日本の法学は急速に法実証主義に支配され、西洋から継受された法典の解釈に精力が注入され、ドイツ概念法学が圧倒的な影響力を持つ
陳重の研究は古俗・遺制に移る ⇒ 「祖先祭祀」の積極的意義、「五人組制度」、「忌み名」、「仇討」、「末期養子」など
1904年セントルイスの万博に合わせて万国学術会議が開催され、日本も列強に伍して参加したが、主催者のミスで日本が名誉副議長から欠落、開会式当時の挨拶からも外されたために次席として参加していた陳重以下の代表は抗議の意を表して途中退席、主催者のアメリカは慌てて謝意を表し、以後の会議では丁重に扱われたというエピソードが残る

4.    陳重の変化
進化論ではあるが、進化に関わる要因として倫理的思想的要因を重視
「法の実質は社会力」 ⇒ 社会的条件のないところで法を作っても実効性がない

5.    法律進化論
1924年陳重は『法律進化論』を刊行、第3冊目の途中で死去 ⇒ 法の発生と進化を扱うが、今日では評価が低い

6.    西洋法学の深層への接近
儒学の基本概念である「禮()と法との関係」 ⇒ 規範を人々の行為の外形的な形式として定めたのが「禮」であり、慣習化して一定の行為様式が生まれ規範意識を生めば、現存の規範を変える力を持ち得るので、「社会力」をもって「法」の性質を共有する

第7章        祖先祭祀と国体――伝統の進化論的正当化
陳重は、日本の伝統的法制度を、世界に広く目を配り人類の歴史という視野の中で進化論的に正当な位置づけを与えようとした。西洋法学はそのための武器
さらに陳重は、新たな時代においても意味を持ち得る制度として再評価する立場へと変化

第8章        国家主義の法理論――明治国制の法的正当化
弟八束は、帝大憲法担当教授となり、「天皇即国家」と説いて、国家主義的な憲法理論を展開し、明治憲法体制における最高のアポロジスト(護教家)=「国体論」最強のイデオローグと呼ばれる。美濃部達吉の天皇機関説を批判
日本固有の統治構造を西洋法学の概念と論理を用いて正当化することを目指したため、東大で11年、不ドイツ留学で5年学んだにしては極端過ぎると、海外の法学者からも批判
体制に阿る曲学阿世の徒との批判もあって、学界では孤立するも、陳重の官位嫌いとは異なり、山縣有朋に接近、帝大法科大学長を異例の14年近く務める
最初の結婚相手は、同郷の重臣西園寺公成の長女だったが早逝、2度目が渋沢家の仲介で浅野財閥の長女と結婚


第9章        近代日本にとっての「法」と「法学」
明治初期の日本の法学は、外国法制度の盲目的模倣などと言われるが、当時のナショナリズムや知識人のプライドが許さず、日本の歴史や伝統を否定し去ることなく西洋法文化を導入するための日本で最初の法学者たちによる知的格闘の歴史があった。それゆえに、次世代は違和感なく日本語で法学を論じ、継受法の日本的運用に成功し得た。にも拘らず、その時代の存在自体が次第に見失われていった
穂積兄弟の法学には、西洋法学の受容という視点で見ると、共通する面が多い ⇒ 西洋法学の土俵で正当化しようとした日本の伝統を遡れば、結局日本的な家族観、国家観へと行き着く
現代日本の法とその運用は、現代日本の法学によって支えられている ⇒ ここで言う法学とは、個々の専門分野の法学の前提となる法についての知識や思考様式を広く意味し、法は進化するものなのか、正しい法を観念できるか、各国で法の内容が異なるのはなぜか、等を問い、法の分類、基本概念、基本原則等々を用意する学としての法学であり、法学者や法律実務家など法に関わる人々は全てこの法学を頭の中に持っている
穂積兄弟が去って間もなく、西洋の普遍的な土俵の上での日本の伝統の正当化は、次第に西洋の土俵を無視してなされるようになり、同時に彼等が西洋化のなかで守ろうとした伝統は、異論を権力で圧殺する方向へと進んでいった


(書評)『法学の誕生 近代日本にとって「法」とは何であったか』 内田貴〈著〉
 普遍と特殊、心をくだいた兄弟
 穂積陳重(ほづみのぶしげ)・八束(やつか)の名を耳にしたことはおありだろうか。評者にとってもほぼ名前だけの存在だったが、本書を通じて、伊達宇和島藩出身のこの兄弟が、「法」はあっても「法学」のない社会にいかにその基礎を築こうとしたかをよく知ることができた。
 本書が強調するのは、陳重や八束による法学の受容は、西洋を忠実に模倣する、あるいはそれに単純に反撥(はんぱつ)する類いのものではなかった、という点である。彼らは、普遍的とみなされた西洋法学の土俵のうえで、日本の伝統を正当化することに心をくだいた。
 八束は、これまで家族国家観を唱導した、「天皇即国家」の没論理的な国体イデオローグと見られてきた。その八束にあっても、天皇主権原理の正当化は、西洋世界にも十分通じる仕方でなされた、と著者は指摘する。
 他方、排外的な民族観を批判し、リベラルと評されてきた陳重も、西洋法学をそのままなぞろうとしたわけではない。彼は、民法典の編纂(へんさん)にのぞんで、「祖先祭祀(さいし)」の慣習にも根ざす日本の「家」制度を法の歴史的進化にどう位置づけるかという緊張を孕(はら)んだ課題を抱えていた。
 「普遍のもとでの特殊」と「普遍に背を向ける特殊」とは大きく異なる。本書によれば、陳重や八束の議論は、あくまでも普遍から離れない特殊の自己主張だった。このことが、陳重たちの死後、伝統の正当化が「西洋の土俵を無視して」進められるようになったことと対比される。
 おそらく著者の念頭にあるのは、近年における特殊の自己主張だろう。「自民党憲法改正草案」は、「長い歴史と固有の文化」を自明のものであるかのようにその前文に掲げている。日本国憲法前文の「人類普遍の原理」からの乖離(かいり)はいちじるしい。
 法はいかなる価値にもとづくべきか。明治期にこの問いを受けとめた2人の苦闘から学ぶことは多い。
 評・齋藤純一(早稲田大学教授・政治学)
     *
 『法学の誕生 近代日本にとって「法」とは何であったか』 内田貴〈著〉 筑摩書房 3132円
     *
 うちだ・たかし 54年生まれ。東京大名誉教授(民法学)。著書に『民法改正』『契約の再生』など。

Wikipedia
穂積 陳重(ほづみ のぶしげ、入江陳重、いりえ のぶしげ、18558月23安政27月11 - 1926大正15年)4月7)は、明治から大正期の日本の法学者。日本初の法学博士の一人[1]東京帝国大学法学部長[2]英吉利法律学校中央大学の前身)の創立者の一人。貴族院議員(勅選)。男爵枢密院議長。勲一等旭日桐花大綬章。現在の愛媛県宇和島市出身。

目次

·        1人物
·        2学説
·        3エピソード
·        4年譜
·        5栄典・授章・授賞
·        6系譜
·        7家族
·        8著作
·        9脚注
·        10参考文献
·        11関連文献
·        12外部リンク

人物[編集]

穂積家宇和島藩伊達家仙台より分家する以前からの、伊達家譜代の家臣である。饒速日命を祖に持つと言われる。祖父重麿は宇和島藩に思想としての国学を導入した人物であった。父重樹は長子として父の学問を継ぎ、明治維新後藩校に国学の教科が設けられるとその教授となり、また国学の私塾も営んだ[3]。兄の重頴は第一国立銀行頭取。憲法学者穂積八束は弟。長男の穂積重遠は「日本家族法の父」といわれ、東大教授・法学部長、最高裁判所判事を歴任。妻歌子(または宇多)は、渋沢栄一の長女。孫の穂積重行大東文化大学学長(専攻は近代イギリス史)。
梅謙次郎富井政章とともに現行民法典の起草にあたり、中心的な役割を果たす[4]。商法法典調査会の委員を務めた。また、英吉利法律学校中央大学の前身)の創立者の一人でもある。

学説[編集]

穂積は、イギリス留学時代に法理学及びイギリス法を研究するかたわら、法学の枠を超え、当時イギリスで激しい議論の的になっていたチャールズ・ダーウィン進化論ハーバート・スペンサー社会進化論などについて、幅広い研究をした。
その後、ドイツへ転学し、ハインリヒ・デルンブルヒの講義を聴講してドイツ法を研究し、サヴィニーに触発され、日本民法へのパンデクテン法体系の導入のきっかけを作った。
穂積の学説は、歴史学派・進化主義の立場に立つもので、民法典論争では、富井と共に延期派にくみし、断行派にくみする梅と対立した[5]
刑法では、ロンブローゾの生来犯罪人説を研究し、新派刑法理論を日本に紹介した。
進化論的立場から、天賦人権論を厳しく批判するとともに、日本古来の習俗も研究し、法律もまた生物や社会と同様に進化するものと考え、後掲『法律進化論』を完成させ出版することを企図していたが、未完のままに終わっている[6]

エピソード[編集]

穂積橋
穂積橋記念碑
  • 死後、出身地の宇和島市で銅像の建立の話が持ち上がったが、「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」との生前の穂積の言葉から遺族はそれを固く辞退した。それでは改築中の本開橋を「穂積橋」と命名することにしてはという市の申し入れに対して遺族も了承し、現在も宇和島市内の辰野川にかかる橋の名前としてその名が残っている。
  • 大正10年(1921年)に故郷宇和島町と隣接する八幡村の合併協議が頓挫した折、反対派を東京の私邸に招き、懇切丁寧に合併の必要性を説き、翻意させて合併実現に貢献した。
  • 大正11年(1922年)に皇太子の宇和島市行啓に同行し、宇和島城に於ける茶会の折、皇太子の前の席には県知事を配するという県の方針に対し英国の例を引用し「殿下には宇和島市民が敬意を表すべき」との理由から市長を配すると主張、実現した。
(出典:山村豊次郎傳)

年譜[編集]

  • 1855823日(安政2711日) - 伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)に宇和島藩家老で国学者の穗積重樹の次男として生まれる。
  • 1870年(明治3年) - 貢進生として大学南校に入学[2]
  • 1874年(明治7年) - 開成学校に転学
  • 1876年(明治9年) - ロンドン大学キングズ・カレッジ入学 / 同年中にミドル・テンプル法曹院入学。
  • 1879年(明治12年) - 同校卒業 バリスター(法廷弁護士)の称号を受ける。
  • 1880年(明治13年) - ドイツに移りベルリン大学入学
  • 1881年(明治14年) - 同校卒業 帰国。東京大学法学部講師に就任
  • 1882年(明治15年) - 東京大学教授兼法学部長に就任。その後、民法のみならず比較法学・法史学・法哲学等の法律学の幅広い分野で日本の先駆者、開拓者として活躍。
  • 1885年(明治18年) - 増島六一郎菊池武夫らとともに英吉利法律学校中央大学の前身)を創立。
  • 1888年(明治21年) - 日本国最初の法学博士の学位取得
  • 1890年(明治23年) - 貴族院議員に勅撰される(- 1892年(明治25年)2月まで)
  • 1891年(明治24年) - 大津事件において同郷の大審院長児島惟謙を激励し犯人死刑論を非難。民法典論争において延期派に与し、旧民法を停止にいたらせる。
  • 1893年(明治26年) - 富井政章、梅謙次郎とともに法典調査会主査となり、民法・戸籍法などを編纂。 帝国大学法科大学長に就任。
  • 1896年(明治29年) - 民法典公布(1898年(明治31年)施行)。東京学士会院会員となる。
  • 1912年(大正元年) - 大学退職
  • 1915年(大正4年)121 - 男爵叙爵[7]
  • 1916年(大正5年) - 枢密顧問官就任
  • 1917年(大正6年) - 帝国学士院院長に就任
  • 1922年(大正11年)1120日午後、小石川植物園で開かれた学士院のアルベルト・アインシュタイン夫妻の公式歓迎会に長井長義夫妻らとともに出席。
  • 1925年(大正14年) - 枢密院議長就任。
  • 1926年(大正15年)48 - 心臓麻痺のため逝去(72歳)[8]

栄典・授章・授賞[編集]

穂積陳重
梅謙次郎(中央)・富井政章()とともに(1895年)
位階
勲章等
外国勲章佩用允許

系譜[編集]

穂積家 (伊予国)」も参照
 ∴
鈴木重麿
 ┃
 ┃
 ┃
穂積重樹
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 ┃    ┃    ┃
穂積重頴 穂積陳重 穂積八束
      ┃
 ┏━━━━┻━━━┳━━━━━┳━━━━┳━┳━┓
 ┃        ┃     ┃    ┃ ┃ ┃
穂積重遠     穂積律之助 穂積真六郎 女 女 女
 ┃        ┃
 ┣━━━━┓   ┃
 ┃    ┃   ┃
穂積重行 美代子 富士子
·        穂積重頴 - 長男。第一銀行頭取。
·        穂積陳重 - 次男。東京帝国大学法学部教授、民法起草者の一人。ベルリン大学に学ぶ。
·        (婚族)渋沢歌子 - 渋沢栄一尾高惇忠妹の千代の長女。
·        穂積八束 - 三男。憲法学者。東京帝国大学法科大学長。貴族院議員。ベルリン大学等に学ぶ。
·        (婚族)まつ - 浅野総一郎の長女

家族[編集]

著作[編集]

訳書
著書
編書


穂積 八束 (ほづみ やつか、18603月20安政72月28 - 191210月5)は、日本法学者東京帝国大学法科大学長。貴族院議員。法典調査会査定委員。
民法典論争に際し発表した論文『民法出デテ忠孝亡ブ』で非常に有名である。また、日本法律学校(現在の日本大学)の設立に参画したことでも知られる。
美濃部達吉らが主張した天皇機関説に対し、天皇主権説を唱えた。

目次

·        1人物
·        2経歴
·        3栄典・授章・授賞
·        4系譜
·        5家族
·        6著作
·        7脚注
·        8参考文献
·        9関連文献
·        10外部リンク

人物[編集]

伊予宇和島藩士の穂積家に生まれる。鈴木(穂積)重樹の三男。長兄の穂積重頴第一銀行頭取。東京帝国大学法学部教授、民法起草者の一人である穂積陳重は次兄。正三位勲一等。妻は浅野総一郎(初代)の長女まつ。

経歴[編集]

栄典・授章・授賞[編集]

1900年頃の肖像
位階
勲章等
外国勲章佩用允許

系譜[編集]

 ∴
饒速日命
 ┃
 :
 ┃
 ┣━━━━┓
 :    ┃
 ┃   弟橘姫━━日本武尊
鈴木重麿
 ┃
穂積重樹
 ┃
 ┣━━━━┳━━━━┓
 ┃    ┃    ┃
穂積重頴 穂積陳重 穂積八束
           ┃
 ┏━━━━┳━━━━┻┳━━━━━┳━━━━━┳━━━┳━━━┓
 ┃    ┃     ┃     ┃     ┃   ┃   ┃
穂積重威 穂積秀二郎 穂積義三郎 穂積隆四郎 千鶴子 万亀子 寿賀子
 ┃
 ┣━━━━┳━━━━┳━━━━┓
 ┃    ┃    ┃    ┃
穂積重憲 穂積英夫 穂積信夫 穂積忠夫

家族[編集]

著作[編集]

単著書
共著書
  • 『国民道徳ニ関スル講演』 文部省編、文部省、19114
    • 『国民道徳ニ関スル講演』 文部省編、大空社〈日本教育史基本文献・史料叢書〉、19914
  • 『修身科講義録』 井上哲次郎吉田熊次共述、東京府内務部学務課、19119
    • 『修身科講義録』 東京府内務部学務課編、大空社〈日本教育史基本文献・史料叢書〉、19914
  • 『穂積陳重八束進講録』 穂積重遠、穂積重威編、岩波書店192911



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