アメリカの汚名  Richard Reeves  2018.8.7.


2018.8.7. アメリカの汚名 第二次世界大戦下の日系人強制収容所
Infamy ~ The Shocking Story of the Japanese American Internment in World War II                  2015

著者 Richard Reeves アメリカのジャーナリスト。コラムニスト。1936年生まれ。スティーヴンス工科大卒。6671年『ニューヨーク・タイムズ』政治部長を務めたのち、主要紙のコラムニスト・編集者として活躍。エミー賞(80)を始め、活字・映像の分野で数々の賞受賞。歴代大統領の伝記を始めとする米国政治関連の著書多数。現在南カリフォルニア大で教鞭を執る

訳者 園部哲(さとし) 翻訳家。一橋大法卒。

発行日           2017.11.15. 印刷              12.5. 発行
発行所           白水社

まえがき
2次大戦中、12万人の日系アメリカ人が追い立てられ国内10か所の「転住センター」という実態は「強制収容所」といくつかの刑務所に抑留。70%以上はアメリカ生まれのアメリカ国民。1世だけは1924年の移民法により帰化が認められなかった
強い愛国心を持っていて、合衆国に対する罪で訴えられたものは1人もいない、ただ、敵国兵士に似た顔をしているというそれだけの理由で戦時中ずっと閉じ込められていた
本書を書く動機になったのは、またもや合衆国が移民を敵視し始めたから。現在では対象が、ムスリムでありヒスパニックというだけで、本書自体日系アメリカ人の物語ではなく、アメリカ人についての物語であり、アメリカという暗黒面を解き明かしたもの
このドラマの源流は、アメリカ先住民の扱いに始まり、アメリカ革命後の英国王党派に対する迫害、アフリカ人の奴隷化、第1次大戦時のドイツ系アメリカ人の扱い、ユダヤ人割当方式、「アイルランド人お断り」の貼り紙、非米活動調査委員会のような公式組織の乱立などに行き着く。そして、少なくとも著者が案じているのは、リンカンが言った、「人々の本性の善なる部分」が恐怖とヒステリーによって押し殺されてしまうとき、同じような迫害が起きる可能性は常にあるということ
真珠湾から10週間後に大統領令9066号が出され署名したフランクリン・D・ローズヴェルトは強制収用を巡る議論の政治問題化を望まず、退去者自身も数十年以上収容所での体験を自分の家族にさえあまりにも苦痛に満ちていたが故に秘匿していたが、60年代、70年代の公民権運動などを契機に日系人社会の中からも当時の状況が語られるようになるとともに、戦時中の出来事の合憲性に焦点を当てた学術論文や法律論文が現れた
最高裁も大統領を守るために44年の選挙までは耳を閉ざすことに決めた上に最終的には強制収容所を認可
憲法は紙屑だといった陸軍次官補や、ジャップは所詮ジャップで彼らの忠誠心を見極める方法など存在しないといった西部防衛司令部の陸軍将校など、悪党の数々の一方で、知名度は低いが日系人を守ろうとしたヒーローもいた。サクラメント近くの「世界に冠たるいちごの町」と称されるフロリンの消防署の副所長は、3家族のブドウ農園の経営を引き受け、日系人の資産を体を張って守った
人種差別と強欲、不正と否認――それを乗り越えて自己省察と謝罪があり、最もアメリカ的な対処メカニズム、即ち”moving on”という姿勢がある
若き2世たちは、収容所の中でも通常のアメリカ的生活を取り戻すべく努力、収用所内高校の卒業生の多くが日系アメリカ人陸軍兵3万の一翼を担い、その中には陸軍史上1人当たり最高の受勲数を誇る第442連隊戦闘団に属す者もいた。442連隊だけで14個の名誉勲章を受けたが、その中の1人がダニエル・イノウエ、後の合衆国上院議員、太平洋戦線における対日戦でひそかに語学兵や通訳として活躍した6000人以上の日系アメリカ人もいる。彼らの英雄的行為によって数万のアメリカ兵の命が救われた
60年の『タイム』誌は、日系アメリカ人とその他アジア系移民を、「模範的少数民族」と呼び、76年には太平洋戦線で海軍少佐だったフォード大統領が、強制退去が間違いだったこと、日系アメリカ人が忠誠心を持ったアメリカ人であったこと、あり続けることを知り、私たちが共有するこの国の幸福と安全のために犠牲を払い身を捧げてくれたことが歴史の中に記され続けると述べた
「日本人の収容」の一部始終は、アメリカの最悪と最良の部分を示す物語
アメリカを前方へ突き動かし、アメリカの自由を拡大したものは、建国者の伝統的なアングロサクソン=プロテスタント的価値観ではなく、次々に打ち寄せた移民――私たちが有刺鉄線の向こうに閉じ込めた人たちの盲目的信仰である。ここは単に移民が集まってできた国ではない。私たちの句には移民が作り上げたのだ。移民とは、その労働力と技術と信仰を必要とされながらも、見かけが私たちと違っていたから、「彼ら」が「私たち」になるまでは忌み嫌われていた、そういう人たちである

l  強制収容internment ⇒ 外国人(交戦国の捕虜、居留敵国人)に適用される政府の規制力であって、米国籍保有者には適用されないが、戦時中は米国籍の有無にかかわらず日系アメリカ人の抑留という意味で一般的に使われた
l  強制収容所concentration camp ⇒ 戦時中政府役人たちが国内10か所の「転住センターrelocation center」に言及する場合、無意識に使用。強制収容所と呼んだのはローズヴェルト大統領で、40年代のアメリカ人も公式に認可された「退去evacuation」や「転住センター」と共に併用

第1章        真珠湾 1941.12.7.
ダニエル・イノウエはハワイにいて攻撃直後に負傷者を助けるべく現場に急行
合衆国最大の日本語新聞『羅府新報』は社説で、「我が同胞アメリカ人よ、祖国に命を捧げる覚悟を持とう」と呼び掛けたが、こうした愛国的な言葉にも拘らず、何百人という「ニッケイ」が逮捕されていく
マイク・マサオカ(正岡優)も、FBIが国勢調査局の協力を得て秘密裏に作成した「不審敵国人」リストに挙げられた1200人以上の日系コミュニティ・リーダーの一人として拘束されたが、ユタ州の上院議員の働きかけで釈放されサンフランシスコに向かう
ローズヴェルトの上下両院合同議会での宣戦布告演説では「127日は今後恥辱の日として記憶されるであろう」と述べ、独伊の宣戦布告と同時に両国民も拘留されたが、イタリア人の場合は、56試合連続安打を達成し、メイジャーリーグのMVPにノミネートされたニューヨーク・ヤンキースのジョー・ディマジオの両親や、ニューヨーク市長のフィオレロ・ラガーディアやサンフランシスコ市長のアンジェロ・ロッシの両親については手加減される一方、メットの筆頭バス歌手だったエツィオ・ピンツァはFBIに無視され逮捕
日系人の帰化禁止は、1922年の連邦最高裁でのタカオ・オザワ(小沢孝雄)の帰化権訴訟での、「自由白人」ではないがゆえに帰化を否認したことを嚆矢とする
検挙リストは粗雑、スパイなどを恐れるヒステリーが数年前から高まっており,1924年の移民法は、米国籍の授与は「自由な身分でよい性格の」白人に限定するという1790年制定の帰化法、すべてのアジア諸国からの移民を禁止した
特に西海岸では、郡保安官のレベルまで、日系社会の監視を白人住民に依頼し、報償金まで支払っていたという
真珠湾後瞬くうちに、恐怖と偏見、利害と強欲がカリフォルニアの白人社会の中に蔓延し始め、集団ヒステリー現象に広がり、「愛国的」自警団による日系社会への急襲に発展
2世の生徒たちは往々にしてあざけりの対象となったり、憎悪がどんどん伝播、真珠湾直後にはまだ残っていた12世に対する温情も消滅
カリフォルニア日系農民6000軒、耕地25万エーカー、合計価値75百万ドル以上、州内農作物の40%以上は日系農家によって生産、それも白人農家が痩せ地ゆえに農耕に適さずと放棄していた土地活用による場合が多かった
ローズヴェルト夫人は、自身恐怖を抱きながらも、ロスに住む高名な2世女性との公式面会のため旅立つ。全米の新聞に配信されていた自分のコラム「マイデイ」にこう書いてる。「建国以来最大の試練を課されている。あらゆる国籍を出自とする私たち市民間の公平を実現できなければ、いままさに全人類が拠り所にしなければならない未来に対する唯一確かな希望を、私たちは抹殺してしまうでしょう」

第2章        大統領命令 1942.2.19. 行政命令9066号の署名
在米の日本人全員を収容所へ移動させるべきと天下に呼び掛けた最初の声は42.1.14.サクラメントの東の町の新聞『プラザヴィル・タイムズ』に掲載。2週間後には穏健派の重鎮で州司法長官ウォーレンが180度立場を変えて、何らかの対策をとらないとパールハーバーの二の舞となる可能性があると発言、米の政治家がすぐさま共鳴、特に南部出身の連邦議会議員が多く、「人種間の戦争だ」として日本人の駆逐を主張
ローズヴェルトは、大西洋と太平洋の2正面作戦の兵站と策略に没頭、西海岸の日本人立ち退きは既に心に決めていた
陸軍が戦闘意欲旺盛で、日系人を標的にしていたこと、西部防衛軍の司令官が出鱈目なデマ情報を盛んにワシントンに送って日系人の一斉退去を主張していたことなど、日系人を標的にした攻撃は強まるばかり
連邦司法長官ビドルは、一斉退去が憲法違反となる懸念もあって反対の立場をとっていることが公にされると、陸軍からも、西海岸報道界からも集中攻撃を受ける
首都を本拠地とする国内評判随一の新聞コラムニストリップマンがウォーレンから聞いた一字一句を転写したコラムの反響は凄まじく、西海岸3州の全ての国会議員が大統領宛の一斉退去奨励の書簡に署名
スティムソン陸軍長官はビドルの意見を入れて強硬策には否定的で、大統領に電話でその意向を確認したが、大統領は日本がシンガポールなどに侵略したというその日のニュースに心が揺れて、日系人問題は「出来るだけ筋の通ったやり方で」決めてほしいと指示。それをスティムソンは攻撃的な副官に伝えたところ、副官は大統領が白紙委任状をくれたものと理解し、大統領の承認のもとに一斉退去に着手
大統領は219日、陸軍に大統領命令草案を準備させ、特に何の書簡も述べずに大統領令第9066号に署名、スティムソンに全権が委任された
西海岸3州の西半分とアリゾナ州南部が西部防衛司令部の第1軍事地域に指定された

第3章        持てるだけのもの 布告第1号――1942.3.2.
223日日本の潜水艦がサンタバーバラ近くの石油貯蔵所を砲撃、多くの住民が目撃して大騒ぎとなり、各新聞も真珠湾の再来と書き立てた ⇒ 1812年の米英戦争の際の英軍によるワシントン攻撃以来の本土攻撃
1月下旬ノックス海軍長官は、ロス南端のサンペドロ沖合のターミナル島からの日系人の退去を通告、226日連邦・地方政府による合同作戦が開始され、強制退去が始まり、日系アメリカ人大量検挙の最初の実行例となる
陸軍省副官がシスコの日系アメリカ人市民同盟のリーダーに政府に対する助力と退去時の協力を求める。退去時に資産が理不尽に価値を失い損害を受けることがないよう、可能な限り人道的かつ快適な環境を提供したいと思う旨の表明があった
陸軍省の計画は、日系人たちを17か所の臨時集合センターに転住させたうえで、シエラネバダ山脈東部に建設中の10か所の転住キャンプへ送り込むというもの。リーダーは農務長官のアシスタントをやっていた陸軍准将ミルトン・アイゼンハワーで後の大統領の末弟、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルが寵愛。戦時転住局長に就任
転住センターの予定地は、砂漠や沼沢地など、過去にほとんど人が住んだことのない、また将来も誰も寄り付きそうのない、凄まじい地域にある政府所有地とかインディアン用特別保留地だった
42.3.24. 加州内大都市では、集合場所が指定され、「持てるだけのもの」の持参が許可された ⇒ 一旦、競馬場や家畜競売場などに集められ、戦時民間管理局の監視下に置かれる。マンザナーだけは集合センターがそのまま転住センターとなる
オーウェンズ・バレーにあったマンザナーは、アメリカ先住民の複数部族が最初に住み着く。特にバイユー族は、1860年半ば、肥沃な土地とオーウェンズ湖とオーウェンズ川の豊富な水に惹かれて移住してきた白人開拓者、鉱山労働者、そして農民たちによって労働力として利用された。20世紀初頭ロス市が水の確保と領域拡大に躍起となり、シエラネバダ山脈の雪解け水を水源とするオーウェンズ川沿いの農場や牧場を秘かに買い上げ始め、1905年には川の水は送水路で市に送られ、特にサンフェルナンド・バレーの灌漑に利用、さらに13年には320㎞の送水路が完成してロスは川や湖の全ての水を独占してきたが、29年には不毛の地となり、干上がった湖底の砂土が町を廃墟とし、46年に日本人が立ち去ったあとは、他の多くの転住地と同様無人の土地となった
サクラメントの消防士は、日系人3家族と農場3+90エーカーのブドウ園の維持管理に合意、戦後元のママの土地と積み上がった利益を返還した。フレズノでも同じことがあったものの、こうした話は稀
人身保護令状の請求を申請する者もいたが、最終的に最高裁までいった2件とも全員一致で敗訴。戦時下にあって政府が外出禁止令を出すことは合憲との判断。残りの2件は、44年の大統領選を考慮し、判決の言い渡しを選挙後に延期

第4章        「この国は白人だけのもの」 強制収容所オープニング――1942.3.22.10.6.
西部10州の知事は、自分の州がカリフォルニアのゴミ捨て場になることに反対、もし連れてきたら全員木からぶら下がる羽目になると脅した
日本人と日系アメリカ人を探し出すのはたやすい ⇒ 国勢調査局が40年に調査を完了、そのデータがシスコのプレシディオに流れ(明らかになったのは07年になってから)、陸軍とFBIはほぼすべての住所を網羅していた
転住が困難なことを連邦政府も悟る ⇒ 42年の56月は、フィリピン戦線でコレヒドールが陥落し、米国西部のヒステリーが頂点に達していた時期
322日から転住センターへの移送が始まり、最後は106日のアーカンソー州ジェローム収容所で、ピーク時120,313人の日系人を収容
不服や散発的な暴力もあったが、大部分の人々は、生活の苦難に負けまいと頑張っていた

第5章        砂漠のクリスマス 1942.12.25.
ニューヨーク在住だった帰米2世で彫刻家のイサム・ノグチは、単身で来たボランティア ⇒ サンディエゴに向かう車中で真珠湾を聞き、戦争協力を申し出、最終的に新設の収容所で美術を教えることを提案されて受け、アリゾナ州ポストンへ行くが、誰も来なままに6か月で立ち去った
日系アメリカ人市民同盟が全米に収容所の子供たちにプレゼントを贈るよう訴えたところ、激しい抗議とともに、温かい気持ちも数多く届けられ、居住者たちを励ました

第6章        アメリカ政府は、遅まきながら君を必要としている 二世の入隊――1943.1.29.
43.1.29.スティムソン陸軍長官が新聞発表し、戦争時に武器を持つことは出自を問わず全国民の固有の権利だとし、ローズヴェルトも公文書で、アメリカ魂は心の問題で、人種や祖先を意味するものではないと宣言
収容所の2世が陸軍に志願できるようになるが、42年半ばから陸軍内部で、日系人の召集について議論が始まる ⇒ 421月現在2000人以上の日系アメリカ人が陸軍内にいたが、特に情報部には、日本語の堪能な者が集められ、最終的には6000人以上の日系アメリカ人が語学兵として活躍。当初は敵意と当惑が彼らを襲ったが、次第に活躍の場を広げ、戦後マッカーサーの情報参謀だったウィロビー少将は、陸軍が実戦前に敵に関する情報をかくも多く得たというのは世界の戦史上前例がなく、そこで活躍した通訳と翻訳士は、100万人以上の命と2年間という時間をセーブしてくれたと語っている
43.2.1.陸軍参謀総長マーシャルが、2世からなる2つ目の隔離部隊第442連隊戦闘団を創設したが、収容所から応募したのは僅かしかいなかった
ワシントンの政府と戦時転住局は出来るだけ多くの退去者を解放し、早期に大半の収容所の閉鎖をすべく方法を模索したが、カリフォルニア州では、前司法長官ウォーレンが日系人を犠牲にして知事選に勝ち、日本人帰還に関する戦時転住局との交渉を拒否
言論界も43年中ずっと戦時転住局の収容所居住者に対する甘さを非難し続ける

第7章        「忠誠」と「反逆」 トゥーリレイク収容所――1943.9.
収容所から解放しようという動きは、あらゆるところで抵抗を受けるとともに、解放された2世は、故郷のカリフォルニアからは歓迎されず、「潜在的破壊活動家」と見做された
写真家のアンセル・アダムスのように、自分たちの知名度を使って日系アメリカ人への敵意に対抗しようとした著名人も多少いた ⇒ 兵役に志願したが年齢(40)を理由に拒否され、代わりに収容所の写真を撮って、全国の同情を呼び起こそうとしたが、そこでの暮らしが一番よく見える写真しか撮らせないことに苛立った
43年を通じて高学歴者を中心に10%強の退去者が出たことで、被収容者をまとめるリーダーが減り、暴力沙汰、殴り合い、殺人未遂などが激増、被収容者は「反逆者」と「忠誠者」に区別されるようになる
忠誠心に関する質問票により、ノーと答えた者を「反逆者」として、トゥーリレイクに隔離することになり、最盛期で18700人が収容され、厳しい警戒の下に置かれ、あたかも捕虜収容所のように扱われた
質問27:命令を受けた場合戦闘任務に参加する覚悟はあるか
質問28:合衆国に対し無条件の忠誠を尽くし、他の組織に対する献身は断固拒否することを宣誓できるか

第8章        「これがアメリカ的なやり方か?」 ハートマウンテン収容所における徴募拒否
――1944.2.
『ニューヨーク・タイムズ』のコラムに載ったポストン収容所の見聞記で、「もう少し勇気があったなら自分たちの公民権のために戦っていただろう」とあったことが、ホワイトハウスで深刻な懸念を呼び起こし、44年の大統領選で日系アメリカ人の幽閉やその取扱いが賛否両論の両翼から攻撃され始めていたため、選挙の争点になることを望まなかったローズヴェルトは、大統領令によって戦時転住局を穏健派率いる内務省の管轄下に移す
戦局の好転とともに、西海岸から日系人を強制退去させる軍事的必要はなくなったとして44年春までには、陸軍局から大統領に対し、強制収容を終了させる提案が出されていたが、大統領からは選挙を控え極端な動きは賢明ではないとし、段階的に処理するよう指示
有刺鉄線内部でも欲求不満と暴力は一向に収まらず、ワイオミングのハートマウンテンではフェアプレー委員会が組織され、出所許可申請書の質問に対し、憲法と権利章典で保証されている適法手続きもなく追い立てられ収容され、「これがアメリカ的なやり方だというのか」と抗議して徴兵公募を拒絶したため、義務兵役を拒否したとして収容所の2世たちを起訴、州大陪審は州の歴史でも最大規模の裁判となったが、全員有罪、控訴に当たってアメリカ自由人権協会に弁護士の提供を頼んだが拒否、個人的に弁護を引き受ける弁護士がいて、政府の弾圧に対抗
447月国籍剥奪法が成立、被収容者に国籍を放棄させ、トゥーリレイクでの収容を合法化しようとしたために、放棄申請者が5600人に達し収容所内は一層「日本化」が進む

第9章        「当たって砕けろ」 失われた大隊――1944.10.30.
ハワイでは、日系人が15万いて全島民の40%を占めていたため、強制収容は不可能
真珠湾当時、州兵軍であるハワイ臨時歩兵大隊には1432人の日系アメリカ人が属していて、425月総動員が掛けられ、除隊を阻止、サンフランシスコに異動して米国陸軍第100歩兵大隊となり、ずば抜けた能力を示す
43年初頭スティムソン陸軍長官が「忠誠心をのある」に製なら入隊を許可すると決めた時、収容所からの希望者は少なかったが、ハワイでは1万人以上が応募、その中にダニエル・イノウエがいた。438月第100歩兵大隊は北アフリカへ向かう
ハワイ出身者と米国本土出身者はお互いを毛嫌い。ダニエルはサイコロ賭博で月に1500ドルは稼いでいたという。「当たって砕けろ!」というのは第442連隊のモットーになったが、元はサイコロ賭博の掛け声に由来。訓練中にハワイ出身の上下士官を収容所見学に連れて行ったところ、本土出身者が厳しい環境から応募して来ていることを知り、一気に打ち解けた
100歩兵大隊はイタリア戦線に編入され25%の死傷率。遅れてイタリア戦線に到着した第442連隊は、第100歩兵大隊を吸収して、446月ドイツ軍に対峙、900人の死傷者を出して、大統領殊勲部隊章を得る。9月にはマルセイユに移動、フランス北東部でドイツと交戦、厳しい状況の中であっぱれな戦いぶりを見せる。さらに10月には敵軍内に孤立したのちに「失われた大隊」として全米で有名になった「アラモ部隊」の救出に向かい多くの犠牲を出しながら作戦に成功するが、4週間の軍事行動で2000人以上の死傷者を出し、最後の戦闘では参加した400人のうち生存者は26人のみ
442連隊の全兵士が前線を離れる頃、ローズヴェルトは4選を果たし、日系人の抑留について質問された際、収容については憲法が許さないと多くの法律家が考えていると言ったので、補佐官たちは唖然とした
最高裁も3年もの間延期していた判断を下し、政府と陸軍の肩を持ったが、陸軍省は判決の前日に日系人は合衆国内の居住希望地のどこに住んでもよいと通告
全国の主要メディアが帰還を喜ぶ中で、在郷軍人会を中心に帰還を非難する声も上がる。特に真っ先に反対の声を挙げたオレゴンのフッドリバーはアメリカの不寛容の国家的シンボルとなる
453月第442連隊は再度イタリア戦線に呼び戻される。ヒットラーが連合国軍とドイツを隔てる最後の防壁と呼んだアペニン山脈の尾根に添って築かれたイタリアからオーストリアへの侵入を防ぐゴシックラインへの最終攻撃に際し、先鋒隊としての役目を期待、それほどずば抜けて優れた戦士の集団との評判だった。突撃開始後5日間に起きた英雄談は、アメリカの伝説になり、多くの名誉勲章が下賜された

第10章     「家」に帰る VJデー――1945.8.15.
「当たって砕けろ」の第442連隊は、18000以上の個人勲章を受けた。陸軍の中では、1人当たり最多の勲章数を誇る ⇒ 名誉勲章1、殊勲十字章53、銀星章588、銅星章5200、パープルハート章9486、戦闘単位に授与される最高褒章の大統領殊勲部隊章8
00年にはクリントン大統領が、第100大隊と第442連隊のメンバーに対し、20の名誉勲章を授与 ⇒ 日系兵士のファイルを再検証し、当時の上官の人種的偏見によって受勲が拒否されていた可能性を吟味した結果
ホワイトハウスが公告第21号によって正式に強制退去に終止符を打った後、45年初頭までに被収容者は9万まで減少。幽閉開始後の3年間で25,000人が就職、就学、兵役のために出所していた
合計25, 778人の二世男女が40.7.45.6.の間に陸軍に入隊し、18,143個の勲章を受章。本土とハワイ出身がほぼ半々
45年初頭、戦況が明白となったために、陸軍も戦時転住局も収容所閉鎖を加速
戦争のせいで白人労働者を失っていた大都市では、積極的に帰還者を受入
キリスト教とは、教会やその組織が、信徒のために住居と仕事を探してくれた
若者と高齢者では対応が分かれた ⇒ 若者は積極的にとらえ、高齢者は悲観的
トゥーリレイクでは、収容所に冷静さが戻るとともに、米国籍回復の請願が多数出た
西海岸の日本人と日系人は資産の75%を失ったと言われている ⇒ 82年政府の「退去者資産の戦時処理」の中の公式発表では、250百万ドルの不動産、商業資産、個人資産を失った。13年の価値では約30億ドル
ダニエル・イノウエが帰郷の途中でシスコの床屋に入ったところ、ジャップの髪は切れないと言われたエピソードはホライトハウスまで届き、トルーマンがエレノア未亡人に、「こうした出来事に接すると、多くのアメリカ人の中には、ナチスと同じ性向が宿っているのではないかと考えてしまう」と書いた
故郷に帰った人々にはそれぞれの悲喜こもごもの話があった ⇒ 第442連隊にいた負傷兵の帰還は、故郷の人に感銘を与えた

エピローグ
戦前と同じ住み処に戻ることが出来たのは僅か
高齢退去者の大半、ほとんど1世は、やり直しを迫られたが、75%以上は無一文
4245年に起こったことを誰も語らなかったし、両親も祖父母も語ることを恥じ、子供たちも話題にしないことが賢明だと学んだ
収容所の物語を積極的に語り、米国政府の謝罪と賠償金を求める日系アメリカ人団体を組織する人権活動家として、残りの人生を捧げた人もいる
60年代に黒人の公民権運動やベトナム戦争反対運動に刺激を受けた多くの3世たちが、収容所時代のことを掘り起こし始め、恥辱と沈黙を行動に変えようとした
76年フォード大統領が布告4417号で、「強制収用を許可した大統領令を破棄」
80年連邦議会が戦時中の民間人の転住と強制収容に関する報告書をまとめ、大統領令第9066号は軍事的必要性によって正当化されるものではなく、これらの決定を形成した一般的歴史的要因は、人種的偏見、戦時期のヒステリー、政治的リーダーシップの欠如だったと結論
88年「市民の自由法」がレーガンの署名を経て成立、連邦政府による正式な謝罪と、12億ドルの損害賠償が認められた
55年集団国籍放棄は違憲と連邦裁判所が判断、告訴なしで国民を抑留した政府の言語道断の違憲行為は許されないとし、控訴審もこれを支持したが、国籍放棄については個別に判定されるとした
他方、強制収容に押し込んだ役人のほうはキャリアに傷はつかず
西海岸の陸軍に派遣されて強制移住を推進した張本人のベンデットセンは、陸軍次官補への指名承認公聴会の証人が、「ヒトラーの人種差別に比すべき人種観を口にしていた人物が指名されるとは残念」といったが、承認された
加州司法長官から知事になったウォーレンは、53年にアイゼンハワーにより最高裁長官に指名されたが、回想録で僅かに「退去命令を支持する声明を出した点につき深く後悔してきた」と一言述べたにとどまったが、54年の「ブラウン対教育委員会(*)」での歴史的判決は、彼の戦時中の不名誉な行為に端を発していたに違いない
(*)アメリカの公立学校での人種分離が終了するとともに、これを1つのきっかけとして始まった公民権運動で、アフリカ系アメリカ人の法的権利が完全に認められた。歴史学者は、この判決を司法が下した史上最も重要な判決の1つと考えている
戦時中被収容者の日系人から提起された3件の訴訟の敗訴に対し、日系3世の若き弁護士からなるチームが訴状を準備し、同じ裁判所で受けた有罪判決を覆すことに成功
現在投じるべき問いは、日系アメリカ人の体験がどのようにして起きたのか、そして再度起きる可能性はあるのか
強制収容について異議申し立てをしてきた日系アメリカ人とその仲間たちは、公民権と自由を尊重する多くのアメリカ人にとってヒーローとなった。皮肉の最大のものは、10年にアメリカ自由人権協会のボールドウィン自由メダルが有罪判決を覆したコレマツに贈られたが、ボールドウィンは人権協会がコレマツを後押しすることを拒否した当人だった
コレマツとヒラバヤシの両者は大統領自由勲章を授与され、コレマツはワシントンDCのナショナル・ポートレート・ギャラリーの「自由への闘争」セクションにその肖像画が掲げられた最初のアジア系アメリカ人となる。さらにカリフォルニア州オークランドの30トンの「ヒューマニティの闘士群像」のガンジー、マンデラ、キング牧師と並んで、コレマツもモニュメントの一部となった

登場人物のその後
戦時転住局によって収容された日本人は、120,313(米国籍の有無にかかわらず)
うち、太平洋岸3州に帰還した者は、54,217
うち、米国のその他の州とハワイに移住した者52,978
うち、日本へ送還された者は、4,724(ほとんどは米国籍放棄が無効とされ米国に戻る)
うち、司法省管轄下の収容所に入れられた者は、3,121
うち、米国陸軍に入隊した者は、2,355
うち、連邦施設に引き渡された者は、1,322
死者は、1,862
ビドル ⇒ ローズヴェルトの死後司法長官を辞任。トルーマンからニュルンベルク裁判の米国人主席判事に任命。自伝の中で、もっと断固とした態度で強制収容に反対すべきだったと後悔
トム・クラーク ⇒ 戦後司法長官を辞任したあと連邦最高裁の陪席裁判官。辞任に際し、いくつも間違いを犯した中の1つが強制収容で、あれは全く不要だったが、最高裁までがよく許可したものだと驚いた
ジョン・デウィット中将 ⇒ 西海岸から日系人を退去させた功績に対し陸軍から殊勲賞授与。退役大将
ミルトン・アイゼンハワー ⇒ 43年カンザス州立大、50年ペンステイト、56年ジョンズ・ホプキンス大学の各学長に就任
ミツエ・エンドウ ⇒ 過去に対する訴訟を連邦最高裁に到達させた唯一の女性。加州州職員としての勤務実績に鑑み、最高裁から「忠誠証明」を得てシカゴに移住して秘書業務に
ゴードン・ヒラバヤシ ⇒ ワシントン大で博士号。カイロとベイルートのアメリカン大で教鞭。カナダ・エドモントン州のアルバータ大社会学部長
ダニエル()・イノウエ ⇒ ハワイ出身初の下院議員、後に上院議員。殊勲十字章はクリントン政権で見直され、名誉章に格上げ
ベン・クロキ ⇒ 機上射手。戦後人種的寛容を説きながら全米を行脚して有名に。05年種勲章受章
マイク・マサオカ ⇒ ワシントンでロビイストになり、日系アメリカ人の権利主張をする。下院議員ノーマン・ミネタの妹と結婚
ノーマン・ミネタ ⇒ サンノゼ市長。連邦議会議員。商務長官、運輸長官歴任






(書評)『アメリカの汚名 第二次世界大戦下の日系人強制収容所』 リチャード・リーヴス〈著〉
2018240500分 朝日
 憎悪のあらゆる構図を追跡調査
 1941年12月、日本軍真珠湾奇襲攻撃により太平洋戦争が始まった。このときからアメリカ国内(とくに西海岸)に住む日系アメリカ人はどのような状況に置かれたか、その詳細なリポートがアメリカ人ジャーナリストによってまとめられた。「一二万人以上の日系アメリカ人が自宅から追い立てられ、第二次世界大戦のあいだ中、国内一〇カ所の『転住センター』といくつかの刑務所に抑留」されたのである。
 転住センターとはいえ砂漠に建てられたその収容所は、まさにジャップと謗(そし)られる敵国人のゲットーであった。ここには財産をすべて奪われた日系アメリカ人が集められ、世代による意識の違い、所内の協力者へのリンチ、さらには巡視のアメリカ軍兵士からの侮辱と、それこそ憎悪のあらゆる構図がある。著者はこの収容所をアメリカ近代史の汚点とみるだけでなく、戦時下の人間心理の歪(ひず)みを問題にする。
 ルーズベルト大統領によって出された命令(42年2月)。それに先立ち、コラムニストのリップマンの「外と内からの攻撃」という一文はワシントン・ポストにも掲載され、「日本人の血を引く全員」を「戦略的地域から即刻一斉退去」させる方針が、国会議員らによって確認される。アメリカ国民の真珠湾攻撃への怒りは、日系アメリカ人に向けての暴力と化す。収容所内でも、日本軍の攻撃を讃(たた)える1世とアメリカに忠誠を誓う2世との間には、この状態をどう受けいれるかの対立があった。
 著者は、日系2世を含む第100歩兵大隊(第442連隊と合体)の欧州戦線でのバンザイ攻撃や2世語学兵の戦い、2世兵士の個々の体験を追跡調査している。戦後、アメリカ国内で日系2世兵を見る視線の変化についてもふれている。第2次世界大戦の裏側にひそむそれぞれの国の「戦争犯罪」の総括を本書は教えている。著者の執筆の姿勢に学ぶべき点は多い。
 評・保阪正康(ノンフィクション作家)
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 『アメリカの汚名 第二次世界大戦下の日系人強制収容所』 リチャード・リーヴス〈著〉 園部哲訳 白水社 3780円
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 Richard Reeves 36年生まれ。ジャーナリスト、コラムニスト。ニューヨーク・タイムズ政治部長などを歴任。

日系米国人の差別知って

大戦時に強制収容「過ち正す」全米で展示会


【ワシントン=共同】米首都ワシントンのスミソニアン米国歴史博物館が2019年1月下旬から、第2次大戦中に「敵性外国人」として強制収容された日系米国人の差別と苦難の歴史を振り返る巡回展示会を全米各地で始める。まずアリゾナ州で10週間展示し、約4年かけて各州を回る計画だ。
特別展を訪れたチャブさん(奥)ら(2018年12月)=共同
企画した歴史博物館学芸員の実藤紀子さん=福岡県出身=は「同じ米国人でありながら見た目が違うというだけで差別を受けた歴史を、広く知ってほしい」と説明する。
歴史博物館は17年2月に「過ちを正す」の題で日系人強制収容を伝える特別展を始めた。好評を博し、当初1年の予定だった展示期間が19年3月まで延長された。ワシントンに来ることができない人にも触れてもらうため、各州の博物館などの協力を得て、巡回展が実現することになった。
特別展では、強制収容につながった「大統領令9066号」の写しや、米国への忠誠を証明するため入隊した日系人が着ていた米軍の制服、当時の写真や絵など約100点が展示されている。
12月に特別展を訪れた南部フロリダ州のクリス・チャブさん(47)は、西部ワイオミング州ハートマウンテンにあった収容所の元収容者が寄贈した子供用の手編みのワンピースに見入っていた。「人種差別は今もどこにでもある。同じことが、またいつか起きるかもしれない。学ぶ必要がある」と語り、娘の高校生サラさん(15)は「戦争の恐怖が人を不合理なことに駆り立てる」と話した。
日系人の主要な収容所は全米に10カ所設置され、1942年から戦後数年まで約12万人が収容された。

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