古都の占領 生活史からみる京都 1945-1952  西川祐子  2018.9.10.


2018.9.10.  古都の占領 生活史からみる京都 1945-1952

著者 西川祐子(ゆうこ) 1937年東京生まれ。京都育ち。同志社中・高卒。京大大学院博士課程修了。パリ大・大学博士。日本とフランスの近・現代文学研究、女性史、ジェンダー論専攻。帝塚山学院大と中部大では「文学」「フランス語」を担当。著書に女性史評伝3部作として高群逸子枝、岸田俊子、樋口一葉が、ジェンダー論や生活史として『借家と持ち家の文学史』などがある

発行日           2017.8.25. 初版第1刷発行
発行所           平凡社


I 序章 歴史と記憶/忘却
現在の駅ビルは4代目の駅舎
「古都の占領」と題したアジア・太平洋戦争後に連合軍により行われた日本占領期(1945-52)研究は、京都地区に範囲を限り、生活史から入り、野外調査と文献調査を行ってきた
京都の南元伏見区には日本陸軍第16師団の司令部があり、その南の宇治市には火薬製造所と火薬庫が、さらに南の大久保には飛行場、軍需工場等があったため、占領が始まると旧日本軍の武装解除のため、真っ先に占領軍の進駐がなされた地域
戦争や占領に共通する容赦ない仕組みを知りたい。戦争と占領の残したものは、日々の生活の中に根強く残っているかもしれない。微細な生活誌に分け入って、そこから大きな問題を問うことが出来ないものか
憲法の不戦条項を始め、戦後価値といわれていたものの柱が無効になろうとする今、戦後が築いた生活と思想に脆さがあったとすれば、戦後の根源でもう一度捉えなおしてこれからを考えなければならない。廃墟に立ち生き残った個々人は、戦争中の挙国一致の集団としてではなく、その瞬間に生きる個人として生き延び、私利私欲にも拘らず他者をも生かすにはどうしたらいいかと自問し、煩悶したのではなかったか。そこへ戻って、私と多くの人々はその後、何を無意識の奥深くに突っ込んで忘れてきたのかを思い出してみたい。長い戦後が、もう一つの戦前となって終わることだけは食い止めたい
1945.9.25. 占領軍が京都駅前広場に進駐 ⇒ 約1万人とされる
本書で用いる資料と方法の特徴:
1.    住民に対する記憶インタビュー
2.    日付のある文章を重視する文献調査
3.    調査結果を地図に書き込む
4.    備考欄に私的記憶を書き込んだ年表の作成
本書では、こうしたインタビュー調査、多様な文献調査、そこから作成した地図と年表をもとに、現代に生きる私が、「古都の占領」という時空間を読者とともに辿る。多数の記憶を多彩な布切れのようにつなぐ集合的記憶のパッチワークを、次世代へ手渡すことが出来ればと願う
見えなくされてきた占領を、多様な資料を組み合わせることによって出来るだけ可視化し、目に見えにくかった状況を人々の生活に直接かかわる側面から少しづつ見えるようにする試み
地図上で占領軍の動線を辿りながら、住民の記憶証言の集合と京都府文書の解読に基づいて、占領期の京都市内の生活と、その生活を覆っていた占領の構造を明らかにするとともに、その動線を府全域に延長することによって、占領の影響がサンフランシスコ講和条約によって終わるのではなく、戦後といわれる時代の全体を覆う体制が占領期に形作られ続いたのだということを明らかにする(IIIIIIV)
地図に現われにくい、地層下に埋もれた占領期の記憶も掘り起こす。織田作之助の虚実織り交ぜた実験小説『それでも私は行く』の分析を通して、占領期の市内繁華街の賑わいを描く(V)。さらに、敗戦直後の全ての人々の課題であった、「生きるために何を売り、何を買うか」の問題を、物資の闇市と人身売買のブラックマーケットに分けて論じる(VIVIII)。また、朝鮮戦争という、連合軍による日本占領の制作を大きく転換させた事件を、戦争反対のビラを撒いて逮捕され、軍事占領法廷で裁かれた1人の青年の獄中日記を通して描く(VIII)
最後に、改めて占領とは何かを考える(IX)
生活史研究の立場から占領期を考えた本書も、歴史学を始めとするさまざまな領域の先行研究に多くを負っている

第1部        目に見える占領――地図から読む京都占領
II 占領期の京都地図を歩く 1 南北動線 1、長期占領の布石
1945.9.25. 京都新聞は通行禁止区域を掲載。公務以外の外出は禁止
進駐した米第6軍の司令部は四条烏丸の大建ビル、戦前は丸紅本社があり、現在は隈研吾の手によって8階建ての市内で最もファッショナブルなビルCOCON(古今の意) KARASUMAに改修されている
クルーガー司令官の宿舎は、烏丸丸太町交差点北西の大丸社長宅、通称下村ハウスとなる。ヴォーリズの設計になるチューダー様式の建物
当初の第6軍は「戦時(軍事)占領」で武装解除を目的としたが、翌年交代した第8軍は「保障占領」即ち「民主化」を目的とする ⇒ 講和条約締結までは休戦期間中
軍政部の教育改革を先導したのがケーズ課長で、そのやり方があまりにも強硬だったため、市民から「イケーズ」の異名をとる ⇒ 府立一中、府立第一高女(現在の府立鴨沂(おうき)高校)がターゲットとして解体され、第一高女の校舎で午前は府一が、午後は女子が授業
軍による民主化の矛盾は、「民主化」を軍事力を背景にして強制的に行ったところにあった
京都御苑が米軍将校宿舎のために接収される際は、京都府が反対して、代わりに上賀茂に近い植物園を提供 ⇒ 占領政策に天皇制利用が明記されたため
宿舎の完成によって動線1が京都駅から北に向かう烏丸通りに敷かれる ⇒ 司令部、軍政部、司令官・将校宿舎、五条署にはMP司令部などが置かれ、植物園が北端

III 占領期の京都地図を歩く 2 南北動線 2、占領軍と住民のそれぞれの生活圏
占領直後の第6軍部隊は岡崎公園に進駐し第8軍と代った時には単身者用宿舎に変わる
岡崎一帯は平安貴族の別荘地で白河院政の根拠地
植物園から南下する線が動線2で、百万遍から東山通(現・東大路)に入る
進駐軍の接収は東半分が大半で、西大路の方は遅れて始まる
「進駐軍事故見舞金」文書には、進駐軍の車両によるひき逃げや、金目当ての強盗事件等によるものが多かったが、中には、高台にあった接収された将校宿舎から進駐軍家族の投げたドライバーが下から見上げていた日本人少年の頭蓋骨を貫通した事件もあった

IV 京都市地図を府地図に拡大、動線をのばす
府下での最も大きな空爆被害は舞鶴港とその周辺
その他、市内より郡部に日本軍基地が多く、戦時中は空爆目標となり、戦後はまず武装解除が行われるが、その際の火薬爆発が人身事故や住宅被害、農地被害を引き起こす
京都府最北端は丹後半島の経ヶ岬で、海軍の監視所が置かれていたが、戦後は米軍のレーダー基地となり、米軍将兵と軍属が駐留

第2部        目に見えにくい占領――「闇」の生産/流通/消費の仕組み
V 占領期京都メディア空間
クルーガー図書館は、クルーガー中将が寄付した520冊の本を中心してできた図書館で、市内を転々とした後、現在は岡崎の府立図書館に残されっている
占領軍の掲げた民主化政策の中でも、言論、出版の自由と図書館の市民への開放は強力に推し進められ、図書館の多くが焼失を免れた京都は一つのモデルケースと見做された
19464月創刊の『京都日日新聞』の連載小説『それでも私は行く』は、京都の繁華街を歩き回る人々を題材にした小説。主人公は女スリ

VI 生きるために何を売り、何を買うか 1 物資の闇市/自由市場
戦後の子供たちは、民主主義とは何かを教わるのではなく、自分で考えなければならなかった。教師たちも同じ問題を考え中だったからで、学級討論会が至るところで開かれ、自由と平等の問題に日々出くわした
町の中では、統制経済と不法な闇市とがせめぎ合っていた
金融緊急措置令という政府の強硬策により、下限近くで揃える平等と格差解消が束の間とはいえ実現 ⇒ すべての階層が物資不足、困窮の感覚を抱いた
空襲はあったが市内全焼の被害を受けなかった京都では、食糧事情が最も深刻
日中戦争下の39年に始まった米の配給統制と、砂糖、清酒、ビール、木炭、絹織物など、主要な生活物資について強制的に価格設定をする公定価格制度によって、窮乏生活が始まり、戦中戦後を通じて年々悪化していった
窮乏を助けたのは、どんどん価格の吊り上がる闇市と、進駐軍による食糧放出
「担ぎ屋」「運び屋」が横行すると、その上前を撥ねる奴や偽警官も出現
市内で最大だった七条警察署での乱闘事件は、47年初に米の買い出し現行犯を逮捕しようとした人物が朝鮮人連盟に逃げ込み引き渡しを拒否、逆に連盟側が事務所の看板を警官が割ったとして集団抗議、付近の闇市から警察に加勢する男たちが集団で警察署に乱入、両サイドの集団が急激に膨れ上がって乱闘事件に発展、死者まで出したもの
小屋掛け物売りと各種興業は至るところに出現、 店の数が100,200と増えて闇市と呼ばれるようになり、468月には闇市閉鎖命令の対象となる
預貯金が凍結され、経済統制が敷かれて実現した闇市の時代には、市場の内でも外でも、食つなぐための物々交換と様々な取引が激しく行われ、交換財を持たない者は市場に入ることが出来ない。ものだけでなく、親族関係や信用といった社会関係資本、技術、知識、体力、教養も含む文化資本の全てを元手にした命がけの交換が行われた

VII 生きるために何を売り、何を買うか 2 自分を売る
京都駅北口駅前広場がきれいに片づけられて、京都市観光連盟会長らが発起人となって、「非戦災感謝記念塔」の建設計画が持ち上がる。さすがに反対の声が強く上がって取りやめとなったが、誰が誰に感謝するのかわからないままに有耶無耶に立ち消えとなった
最も追いつめられた女性たちは「街娼」という行政語で呼ばれた
京都は長年にわたって住民の階層棲み分けがなされてきた都市だが、そこに被さるように進駐軍が侵入、労務関係、商取引、性関係など持続的な関係が形成されていった
戦争中の統制による原料不足、人手不足、流通の仕組みは壊滅状態
48年臨時的な戦時花嫁法成立 ⇒ 1225日までに合衆国へ行くと即、市民権が取得できるというもので、国際結婚が奨励された
植物園に設置された進駐軍用住宅は、”dependent house”という用語で呼ばれ、アメリカでも扶養家族個々人、特に妻は独立した市民ではなかったことを知った
占領軍将兵を対象とする慰安施設は、占領前から周到な準備がなされ、『京都新聞』には、「急テンポでキャバレー6か所、ダンサー志望も既に200名、新粧する京都」という見出しの記事が掲載されている
敗戦の翌年、占領軍は民主化路線に基づいて日本の公娼制度を廃止。祇園も占領軍のオフリミット地域に
公娼制廃止と私娼承認を決めた後の占領軍と日本側の方針は、占領軍将兵の性病対策と予防対策に終始、街娼の取り締まりと衛生管理は、占領軍地方軍政部の公衆衛生課、占領軍MPと日本の警察が担った

VIII 京都の朝鮮戦争
連合国軍による7年の占領期の京都を考えるとき、占領軍の配置、占領行政のあり方ないしは仕組み、住民と占領軍の将兵との接触の様には変化がある ⇒ 3期に分けて考える
1期は、第6軍進駐による日本の「非軍事化」、即ち武装解除の時期
2期は、第8軍に取って代わり、軍政部によって地方行政の支配と総司令部から来る指令に基づいた改革が進められた時期
3期が、朝鮮戦争の動乱期 ⇒ 戦争勃発の506月以前から住民の気付くところ
50年には、中小企業の倒産が続き、世情は騒然、京都でも大きな火事が相次ぎ人々の不安を煽る。金閣寺炎上、松竹下賀茂撮影所火災、京都駅舎焼失
朝鮮戦争反対のビラを配布したことが、ポツダム政令325号違反(占領行為の妨害)とされ、米軍の軍事法廷で実刑判決 ⇒ 投獄された人たちは、講和条約発効恩赦で出所したが、「恩赦」なのか、軍事法廷判決の「失効」と考えるべきなのかは残る問題

IX 終章 目に見えにくい/目に見えない占領
改めて全体を振り返ると、多くのことが分からないまま ⇒ 空白があることが分かっただけで、その輪郭さえも定かではない。占領期地図にも目には見えない空白がある
占領期に書かれ、「占領とは何か」についてそれぞれ違う立場から考えた4冊の本を読み直す
l  宮崎茂樹『占領に関する一考察』⇒ 若き法学者が、占領期の最中にいながら占領の定義を考え、連合国軍による占領の特徴は、国民の生活に「立ち入った占領」であるとした
l  ルース・ベネディクト『菊と刀』⇒ 文化人類学者が、戦時情報局から委託され、米軍による戦時中と日本占領第1年の間に行われた情報収集諜報活動の成果を踏まえて書いた日本占領の中間報告書として読む。『菊と刀』以降も占領軍が日本列島において繰り広げた情報収集と宣撫の活動こそが、被占領地帯の住民からは隠されていた、占領の最も見えない部分
l  三島由紀夫『金閣寺』⇒ 小説の虚構が、ドキュメンタリー作品では入ることのできない空白を含む占領期を描いた作品として読む
l  石川フミヤス『青春日記』⇒ 占領の終わり方ないしは続き方について描いた劇画



古都の占領 西川祐子著 文書に残らぬ生活史の細部
2017/9/30付 日本経済新聞 朝刊
 連合国による日本占領を論じた読み物はたくさんある。この本は、場を京都に限定し、生活史的な細部にこだわったところが出色。
 また、占領の開始を終戦や敗戦とみなさず、休戦のはじまりとみなす視座も、新しい。一九四五年以後も、潜在的に戦争状態はつづいている。そんな認識にたち、占領下の出来事へこれまでとはちがう角度から、光をあてて見せた。
 著者は行政文書を、可能なかぎり、網羅的に読みこんでいる。もちろん、新聞や雑誌、そして書物からうかがえる占領模様も、見すごさない。圧巻は、なんといっても、百人近くにおよぶ占領体験者への聞きとりである。
 著者は、これらをつきあわせることで、たとえば文書が書かない歴史を、ほりおこす。あるいは、文書が何から目をそむけていたのかも、うかびあがらせた。また、人びとが何を記憶しやすく、何をわすれやすいのかも、あぶりだしている。あるいは、何をわすれたがっているのかもと言うべきか。
 戦時の空襲で、米軍は京都府にも、爆弾をおとしていた。その投下場所を、著者は地図にしるしていく。そして、その分布が占領軍のおこした事故現場の分布とつうじあうことを、見いだした。なぜ、戦時の空爆と占領期の事件は、場所が近いのか。その分布をとおしても、占領期に戦争がおわらなかったことを、かみしめる。
 織田作之助は『それでも私は行く』で、一九四六年の京都をえがきだした。その舞台となった場所が、占領軍の拠点とどうかかわるのかも、よくわかる。三島由紀夫の『金閣寺』が、織田作の先行小説を意識していたことも、のみこめた。また、三島の『金閣寺』に、占領政策の空間配置が、色濃く影をおとしていたことも。
 ほかにも、文芸史や学問史上の逸話を、私はそこかしこでたのしんだ。この本には、著者じしんの人文知もちりばめられている。
 しかし、一個人の働きだけで、この労作は、とうていみのらない。著者は共同研究の仲間、および厖大(ぼうだい)な情報提供者にもささえられ、これをなしとげた。もちろん、著者もそのことは、じゅうぶんわきまえている。みんなの力添えは、いかしきりたいにちがいない。そんな想(おも)いも、叙述に張りをあたえたと考える。
(平凡社・3800円)
 にしかわ・ゆうこ 37年東京生まれ。京大大学院修了。元京都文教大教授。専門は日仏の近現代文学とジェンダー研究。著書に『借家と持ち家の文学史』など。
《評》風俗史家


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