日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実  吉田裕  2018.9.17.


2018.9.17. 日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実

著者 吉田裕 1954年生まれ。77年東教大文卒。83年一橋大大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。同年一橋大社会学部助手、助教授を経て、96年教授。00年同大大学院教授。18年より同大学院特任教授。専攻日本近現代軍事史、日本近現代政治史

発行日           20177.12.25. 初版            2018.4.25. 9
発行所           中央公論新社(中公新書)

310万人に及ぶ日本人犠牲者を出した先の大戦。実はその9割が1944年以降と推察される。本書は「兵士の目線・立ち位置」から、特に敗色濃厚となった時期以降のアジア・太平洋戦争の実態を追う。異常に高い餓死率、30万人を超えた海没死、戦場での自殺と「処置」、特攻、体力が劣悪化した補充兵、靴に鮫皮まで使用した物資不足・・・・・。勇猛と語られる日本兵たちが、特異な軍事思想の下、凄惨な体験を強いられた現実を描く


はじめに             
太平洋戦争の戦没者数は、軍人・軍属が230(日中戦争期を含む)、民間人80万の計310万。日露戦争の9万人と比べてみるといかに大規模な戦争だったのかがよく理解できる
本書では以下3つの問題意識を重視しながら、凄惨な戦場の現実を歴史学の手法で描き出す
1.    戦後歴史学を問い直すこと
戦後歴史学の原点は、悲惨な敗北に終わった無謀な戦争への反省だったが、研究者が戦争の直接体験者であったために、平和意識がひときわ強い反面、軍事史研究を忌避する傾向も強かったため、ある時期まで軍事史研究は、自衛隊を中心とした旧陸海軍幕僚による「専有物」だった
90年代に入り、戦後生まれの研究者が空白の軍事史に関心を向け、社会史や民衆史の視点から戦争や軍隊を捉え直す研究に本格的に取り組み始めた結果、軍事史研究が大きな進展を見せる
特に東アジア地域で歴史認識問題が国際的にも大きな争点となり、侵略戦争の実態の解明が、戦争犯罪研究を中心にして急速に進む。この時期は戦争歴史学の大きな転換点
ただ、戦争そのものを対象とした「戦史」の研究は等閑なところから、本書では歴史学の立場から「戦史」を主題化する

2.    「兵士の目線・立ち位置」から戦場を捉え直してみること
「兵士の目線・立ち位置」から、「死の現場」を再構成してみる
戦後の代表的な戦史研究としては、防衛研修所戦史室編纂の『戦史叢書』があるが、旧幕僚が書いた軍中央部の立場から見た戦争指導史の性格が色濃く、戦場の現実を反映していないという批判が刊行中から存在
そのため、1つは連合軍側の記録と突き合わせることによって旧軍関係史料を相対化すること、もう1つは「兵士の目線」を重視し「死の現場」に焦点を合わせて戦場の現実を明らかにすることが考えられ、本書は後者の方法をとった

3.    「帝国陸海軍」の軍事的特性との関連を明らかにすること
「帝国陸海軍」の軍事的特性が「現場」で戦う兵士たちにどのような負荷をかけたのかを具体的に明らかにする
日米の軍事的・経済的格差については多くの著作で言及されてきたが、それに加えて「帝国陸海軍」の軍事思想の特質や天皇も含めた戦争指導のあり方、軍隊としての組織的特性などの問題も重視する
「死の現場」の問題をもう少し大きな歴史的文脈の中に位置づけ、こうした分析を通して、アジア・太平洋戦争における凄惨な戦場の実相、兵士たちが直面した過酷な現実に少しでも迫りたい

序章 アジア・太平洋戦争の長期化
1940年に入ると日中戦争も大規模な侵攻から占領地防衛に移り、「高度分散配置」態勢という小兵力による多数分散の警備となり、その長期化は兵士たちの戦意を次第に蝕む
長期戦への移行にも拘らず、軍内部での対応が大きく立ち遅れていた ⇒ 最も遅れた分野に歯科治療があり、専任の歯科医将校制度が出来たのは開戦後だいぶ経ってから
太平洋戦争第I期――425月までの日本軍の戦略的攻勢期で、戦力的にも上回り、広大な地域を占領
II期――426月のミッドウェー海戦から432月までで、日本軍の戦線拡大に対し連合軍の反撃が始まり、戦略的対峙の時期
III期――447月までの戦略的守勢期。日米の軍事力が逆転し、戦力格差が急速に拡大。日本軍は「絶対国防圏」を設定し、戦線を縮小して死守を計るが、米軍はサイパンに上陸開始、日本軍はマリアナ沖海戦を挑むが惨敗し、本土の空爆を許すことに
IV期――日本軍は敗戦必至の状況にありながら抗戦を続けた絶望的抗戦期
アジア・太平洋戦争における総死者数は2000万を超え、うち半数が中国人と推計
日本人の場合、310万の大半(90%以上と推計)がサイパン陥落後の死没者 ⇒ 政府、軍部、天皇中心の宮中グループの戦争終結決意が遅れたための悲劇
日本は、戦死者数について基本的な数値さえ把握できないのに対し、米軍では月別年別の戦死者数が公表されており、日米間の格差は、政府の責任で果たすべき戦後処理の問題にまで及んでいる

第1章        死にゆく兵士たち――絶望的抗戦期の実態 I
1.    膨大な戦病死と餓死
異常に多い戦病死者数 ⇒ 近代初期の戦争では、常に伝染病などによる戦病死者数が戦死者数を上回っていたが、日露戦争で初めて逆転
日中戦争の長期化に従って戦病死者数が増大し、41年の時点で戦病死者数が戦死者を上回る ⇒ 病死や自決などを戦死扱いとした例も多いので、戦病死はもっと多い可能性大
餓死と、栄養失調に伴う体力消耗の結果伝染病などで死んだ広義の餓死者は140万とも
前線部隊に無事到着した軍需品の割合(安着率)は、42年の96%が45年には51%に低下、補給路の寸断による食糧不足が飢餓の最大の原因
439月には天皇も飢餓の現状を把握し、侍従武官に「補給について遺憾なからしむ」よう指示
ソロモンでは、444月ごろから急にマラリア感染が増え、体力が弱まったところに食糧がなく、極度の栄養失調に陥って、食事も薬も受け付けなくなって死ぬ。諸病の根源は食糧不足による栄養低下
戦争神経症とも関連する戦争栄養失調症が日中戦争初期から頻発、治療が困難で死に至るケースが多い ⇒ 原因は高度の羸痩(るいそう:痩せ衰えること)、食欲不振、下痢

2.    戦局悪化の中の海没死と特攻
狭義の戦死者の中に、艦船の沈没による海没死が、海軍182千、陸軍76千、計358千、船舶輸送中の戦死(溺死)が半数
潜水艦攻撃による被害が大きいが、特に43年半ばが大きな転機
船舶不足が、搭載量過重に繋がり、貨物船の劣化から8ノットなどという船まで徴用
水中爆傷 ⇒ 海上浮遊中に爆雷攻撃による水中衝撃で、肛門からの水圧が腸内に波及し、内部から腸管を破るもので、外傷はないが次第に腹部が異常に腫れて悶絶する
特攻死 ⇒ 4410月開始当初の目的は米軍空母の飛行甲板の一時的使用不能と限定的であったが、次第にエスカレート。「桜花」250機の配備に関しては、1人乗りの小型グライダーで、母機の陸上攻撃機に懸吊して離陸し、敵艦船に接近したところで母機から発進、体当たり直前にロケット推進器に点火して速度を上げて体当たりする
特攻による死は、海軍2431人、陸軍1417人、撃沈の合計は47隻で小型艦艇のみ

3.    自殺と戦場での「処置」
世界一高い自殺率 ⇒ 精神的失調によるものが多い
硫黄島守備隊の死者内訳 ⇒ 戦死30%、自殺60%、他殺10%、事故死一部
「処置」という名の殺害 ⇒ 傷病兵の殺害。37年時点では陸海軍ともジュネーブ条約に傷病兵の残置を容認していたが、ノモンハン事件以後捕虜となることを事実上禁じる方針に転換、軍医にも浸透していったところから、自殺を促すか「処置」するか迫られた
4212月のガダルカナル島の戦いが転機となって、撤収に際し動けないものには昇汞錠(毒薬)が分配され自決が促されたが、以後離島撤収に当たっての患者処置の鉄則となる
食糧強奪のための殺害や、人肉食のための殺害なども横行 ⇒ 目撃証言も多い
軍法会議の手続きを省略した「処刑」(死刑)もあった ⇒ 逃亡兵の射殺

実に様々な形での無残な死の集積で、その11つの死に対するこだわりを失えば、私たちの認識は戦場の現実から確実にかけ離れていく

第2章        身体から見た戦争――絶望的抗戦期の実態 II
1.    兵士の体格・体力の低下
1927年兵役法により満20歳の青年は徴兵検査を義務付けられた
41年の兵力 陸軍210+海軍31万人、45年 陸軍550+海軍169万人
戦時中は、年と共に現役兵の体格が劣化
知的障碍者 ⇒ 40年の検査基準の緩和により徴兵の対象となるも、脱走や自殺多発
結核の拡大 ⇒ 集団感染が原因
虫歯の蔓延 ⇒ 後年の健康に深刻な影を落とす

2.    遅れる軍の対応――栄養不良と排除
給養(兵員に食糧や生活必需品を供給すること)が、40年前後ごろから悪化
食糧品の自給自活、日中戦争の戦費節減と「現地自活」 ⇒ 中国民衆の隠匿物資の略奪
結核対策は、軍隊生活の改善という問題とも関係 ⇒ 内務班による過酷な生活とも関連

3.    病む兵士の心――恐怖・疲労・罪悪感
「兵を戦場に慣れさせるためには殺人が早い方法」だとして、捕虜を相手に「刺突」訓練を行うことが一般化
戦争神経症 ⇒ 戦局の悪化に比例して増大。定義や判定は難しい。現代では戦争が兵士にもたらすトラウマの一種として理解され、戦時に軍隊に発生する神経症の総称。第1次大戦の塹壕戦で多数の患者が発生、ヒルテリー性の痙攣発作、驚愕反応、不眠、記憶喪失、失語など。砲弾の破裂が原因と考えられ、shell(砲弾) shockと呼ばれた
覚醒剤ヒロポン(製品名:中枢神経興奮剤)が多用され、パイロットの精神的疲労に対応
休暇制度が整備されていなかったことも、総力戦・長期戦を考えるとき大きな問題

4.    被服・装備の劣悪化
被服とは武器以外の多くの装具の総称であり、その劣悪化が急速に進む
38年服制改正 ⇒ 立襟から折襟へ、階級章も肩章から襟章へ
軍内部では縫製の仕事が多くなり、ミシンが徴発され、家庭における死活問題となった
ゴム底鮫皮の軍靴は、水をよく通したので使いものにならなかった
無鉄軍靴、孟宗竹による代用飯盒・代用水筒、背嚢に代わる背負袋等

第3章        無残な死、その歴史的背景
前線の兵士に大きな負担をかけるような構造的要因が帝国陸海軍に内在していたが、その構造がどのようにして歴史的に形成されてきたのか
1.    異質な軍事思想
    短期決戦、速戦即決を重視する作戦思想が主流 ⇒ 1907年の帝国国防方針に明示
    作戦至上主義 ⇒ 作戦、戦闘を最優先させ、補給、情報、衛生、防禦、海上護衛などを軽視。補給は現地徴発=住民からの略奪が基本方針
    極端な精神主義 ⇒ 白兵主義が、火力や航空戦力の充実や、機械化、軍事技術の革新を阻む
軍事思想の教条化により、連合軍戦力の過小評価・研究の懈怠
注目すべきは、44年に入ったころから、軍関係雑誌にも戦局の深刻な実相を部分的な形ではあれ、認めるような論説が掲載されるようになったこと ⇒ 米軍の上陸部隊の主戦力となったM4中戦車に対して現有兵器では対抗不可能で、爆弾を抱いて突入する肉弾戦法しかないと書いた記事が掲載されたのは、限定的ではあるが検閲政策の変化があった

2.    日本軍の根本的欠陥
国力を超えた戦線拡大や戦争終結という国家意思の決定が遅れた背景には、明治憲法体制そのものの根本的欠陥がある
    統帥権の独立 ⇒ 統帥権行使の輔翼(補佐)が陸軍は参謀総長、海軍は軍令部総長だが、軍司令官や連合艦隊司令長官は天皇に直属し、天皇が発する最高統帥命令(大陸/海令)に従って作戦を実施するため、理念上は参謀総長などの権限が小さかった
    国家諸機関の分立制 ⇒ 国務大臣による単独輔弼制のため、内閣総理大臣は国務大臣に命令する権限もなければ、国務大臣の任免権も天皇に属した。さらには枢密院が天皇の最高諮問機関として内閣をけん制し、皇族や華族で構成される貴族院が衆議院を牽制、そのうえ宮中の官職である内大臣や侍従長が天皇の側近として政治的影響力を増大させた
戦時中、国務と統帥の統合を目的に大本営が設置され、更に大本営と政府両首脳による大本営政府連絡会議が始まり、特に重要な国策決定には御前会議が設けられた
そのほか首相権限の強化も企図されたが、統一した国家戦略を決定する政治システムを持たないまま戦争を戦う
軍隊内の改革の動きもあったが、太平洋戦開戦と共に「日本精神」の強調と上官の命令への絶対服従が徹底され、私的制裁が跋扈し、戦争の長期化とともに軍紀の弛緩・退廃が顕著になる一方、軍では精神主義のみ強化され、有効な対策を打つ術がなかった

3.    後発の近代国家――資本主義の後進性
欧米列強の軍隊と比較してみると、日本資本主義の後進性が軍備の増強や近代化にとって大きなマイナス要因となっていたことが分かる
    兵力動員と労働力動員との競合関係がより深刻 ⇒ 日本では労働生産性が低く、多数の熟練労働者が労働現場に必要。農業でも労働集約な零細農業が支配的だったため、兵力動員に当たって深刻な競合関係に遭遇。日本では男子人口に占める軍人の割合が44年でも10%に対し、ドイツでは43年で28
植民地からの兵力動員、女性の動員、少年兵への依存
    機械化の遅れ ⇒ 自動車産業が未発達のため軍馬への過度の依存と、体重の5割を超える装備の容認、飛行場設営能力の格差、通信機器は10年遅れていた

終章 深く刻まれた「戦争の傷跡」
再発マラリア ⇒ 海外で感染し帰国後発症する「海外マラリア」が増大。更に「戦後マラリア」には、「再発マラリア」と他人に感染した「新鮮マラリア」があり、特に「再発」が長期化した場合は何十年にわたって苦しんだ
栄養失調症 ⇒ 独特の土色の膚が人並みに戻るまでは数年を要した
水虫 ⇒ トレンチ・フットと呼ばれる塹壕足は、深刻な凍傷と水虫の合併症で、切断や完治に長期を要した
夜間視力増強食と昼夜逆転訓練 ⇒ 夜間戦闘機に必要な射撃用レーダーの開発が難航し、実用化に至らなかったため、夜間視力増強食として卵黄やビタミンを取り入れた食事が効果を発揮したり、昼夜逆転訓練で、昼と夜の生活を逆転させて夜間視力の向上に努めた結果、ノイローゼが何人も出た
覚醒剤中毒 ⇒ 眼精疲労防止や暗視ホルモンと称してヒロポンが使われたり、鎮痛剤としてのモルヒネの使用が戦後の生活に支障を来した
ペリリュー島の戦いでは、日本軍の戦闘力に対する過大評価とある種の思い入れから、日本軍礼讃のような風潮が根強く残っているからこそ、戦場の凄惨な現実を直視する必要がある

あとがき
21世紀に入る前後から、会員の死去や高齢化に伴って全国組織を持つ戦友会の解散が相次いだ。1つの時代の終わりを告げる象徴的な出来事である。その頃から、無残な死を遂げた兵士たちの死のありようを書き残しておきたい気持ちが自分自身の中で次第に強くなっていった。99年に靖国偕行文庫が開室し、多くの部隊史や兵士の回想録を閲覧できるようになったことも、書き残しておきたいという思いを一層強くした。そうした思いが1つの形になったのが本書





ベストセラーの裏側『日本軍兵士』 吉田裕著 「ブラック企業」に重ねる

2018/8/4付
[有料会員限定]
1941~45年に日本が米英など連合国と戦ったアジア・太平洋戦争。当時の日本陸海軍兵士の凄絶な体験を描いた新書『日本軍兵士』が売れている。昨年12月の刊行から7カ月で12刷、14万部に達した。補給の軽視が招いた極度の飢えなど、末端の兵隊が直面した状況を史料や統計データに基づき再現する点が幅広い読者層を得る要因になったようだ。
著者の吉田裕・一橋大特任教授は54年生まれ。戦後生まれの研究者が日本近現代の軍事史に関心を持ち始めた90年代以降、研究をリードしてきた。「戦場を司令部ではなく、兵士の立場から書きたいと長らく願っていた」のが出発点という。「従軍経験のない読者に関心を持ってもらおうと、一番身近な『身体』の話を細かく取り上げた」(吉田氏)
例えば軍装の重量について、44年のインパール作戦に従軍した兵士1人あたりの装備は40キロ超という証言を紹介する。戦争末期の兵員の平均体重は54キロ。体重の7割を超える装備を抱えてビルマ・インド国境の山岳地帯を行軍したことになる。ある読者が試しにリュックサックに水を40キロ詰めて背負ったところ、持ち上げるだけでも厳しかったという感想を吉田氏に送ってきた。編集を担当した中央公論新社の白戸直人氏は「(従軍経験のある)父や祖父から断片的に耳にした戦場体験の意味を確認する読み方が目立つ」と話す。
戦死者に占める餓死の割合は少なくて4割弱、多く見積もると6割という過去の研究も紹介される。兵士たちは物資欠乏でサメ皮の軍靴を履き、疲労回復の名目で覚醒剤まで打たれた一方、戦争神経症の治療や休暇の必要性は軍上層部に十分認識されていなかった。「まるで『ブラック企業』を見るかのよう。現代の日本社会が抱える問題と重ねて読む人もいる」と吉田氏は述べる。
(郷原信之)
(中公新書・820円)











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戦争を知らない世代から見れば、もはや物語の域に近いことばかり
いまや日本の自衛隊予算は世界第8位となる軍事大国、その一方でかつての戦争犠牲者310万人のうち110万柱もの遺骨がいまだに収集されていない
平和を守ることを誓ったはずの日本にも、敗戦から73年がたった現在、再び戦争に踏み出す可能性が常にあることを忘れてはならない
これは、日本人自身に自戒を促す1

中央公論 189月号






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