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横浜の時を旅する ホテル ニューグランドの魔法  山崎洋子  2013.6.29.

2013.6.29.  横浜の時を旅する ホテル ニューグランドの魔法 著者 山崎洋子  1986 年『花園の迷宮』で第 32 回江戸川乱歩賞受賞、小説家としてデビュー。横浜を舞台とした著作が多い。舞台の脚本・演出も手掛ける。 2010 年地域放送文化賞 (NHK 主催 ) 受賞 発行日            2011.12.15.  初版発行 発行所            春風社 2013.6.9. ホテル ニューグランドに行った時に見かけた本 ²   時の扉を開けて 生島治郎のエッセイ『横浜感傷旅行』に登場 ⇒ 港を見下ろす食堂でフランス料理を食べているのは、まさに夢の思いだったが、それはまた日本人全体が味わっている夢でもあった ²   開港横濱の大パノラマ タワー最上階からの大パノラマは圧巻、開港横浜の歴史を物語る一大歴史絵巻 元々は洲干島と呼ばれる砂州で、元町の堀川から桜木町のランドマーク辺りまで広がる 後背地は沼地で、その奥は江戸初期にできた埋立地 ( 伊勢佐木町あたり ) で吉田新田と呼ばれた ペリー来航を機に、艦隊の饗応施設建設 1854 年開港 ⇒ 条約上は神奈川だったが人の往来が激しく、代わって横浜が浮上 59 年最初の波止場築港 ( 大桟橋の辺り ) 、山手の丘との間の運河を整備 関内を外国人居留区と日本人町に二分 66 年の大火を機に、本格的な西洋式街造りを取り入れ、耐火建築が立ち並ぶ ²   日本の職人技・横浜家具 ニューグランド本館の設計は渡辺仁。銀座の和光や東京国立博物館の設計者。当時 38 歳 ロビーの華は家具 ⇒ 開業当時の特注品で「横浜家具」と呼ばれる、日本初の洋家具。各国の様式に日本の技術とオリジナリティを加えたもの クラフトマンシップ・ストリート ⇒ 職人が住みこんだ 安楽椅子に帯地を張った ⇒ 「オビ・チェア」として人気 ²   関東大震災復興のシンボル 1923 年の関東大震災で灰燼に。横浜が最大の被害地 復興委員会 ( 会長・原富太郎・三渓 ) 立ち上げ ⇒ 生糸貿易を復活させるとともに、各方面から支援を取り付け、東京より早く復興を成し遂げる。山下公園も瓦礫を埋めて建造 震災前のグランドホテルは

新・手紙読本  村尾清一  2013.6.28.

2013.6.28.  新・手紙読本 著者 村尾 清一 (むらお きよかず、 1922 年   - )は、 日本 の ジャーナリスト 、 文筆家 。   香川県 生まれ。 東京大学 法学部政治学科卒業。 読売新聞社 社会部記者、論説委員 (69 年から 18 年間『よみうり寸評』担当 ) 、取締役を経て、 日本エッセイスト・クラブ 理事長、会長。 1981 年 日本記者クラブ賞 受賞。「死の灰」の造語者。著書に『鉛筆の芯 - よみうり寸評 17 年』など 発行日            1987.6.15.  第 1 刷発行 発行所            講談社 本田靖春『 我、拗ね者として生涯を閉ず』で絶賛、著者の先輩で、日本を代表する文章家の 1 人とする 言葉に心が籠ることの大事――山本健吉 書簡を書くことが少なくなったのは、まず第 1 に電話の普及があるが、それを認めた上で、村尾氏はなおかつ、電話だけでは代行できない、いろいろの場合があることを挙げる この書から受けた最大の感動は、村尾氏が常に、言葉に心が籠ることの大事を言っていること ⇒ 終戦直後に天皇が皇太子に宛てた手紙で、敗因について率直に意見を吐露している 種々心のこもった手紙の紹介を通じて、村尾氏自身の「心」と「人柄」が漲り、広がり、読む心にひしひしと伝わってくることを感じる ²   現代手紙事情――現代人はなぜ手紙を書かなくなったのだろう ? 戦後の日本人が、考えながら一生懸命、手紙を書く習慣を失ってしまったのは、電話の発達だけが理由ではない フランスで電話が発達しないのは、電話よりも手紙 ( その日のうちに着く ) や直接会いに行くのを好むから イギリスでは手紙が必須。アポイントを取るにしても電話の後必ず手紙を書く 英国人にとって、「私は筆不精で」という弁解は、「社会生活の不適格者」という告白と同じ フランスでも、電話より手紙 ⇒ エチケット集にも「手紙には必ず返事を、それもなるべく早く」とある 手紙を書くのが億劫、面倒という人のために昔の人が考え出したのが、手紙の形式、手紙を書くときの決まりで、手紙の書き方の ABC を知っておくと書きやすい 目上には葉書より封書 ⇒ 古い 「拝啓」には「敬具」、「前