春の城 阿川弘之 2012.9.22.
2012.9.22. 春の城
著者 阿川弘之 1920年広島市生まれ。42年東大国文科を繰り上げ卒業し、海軍予備学生として海軍に入る。海軍中尉(敗戦により大尉進級)。戦後、志賀直哉の知遇を得て師事。53年、学徒出陣体験に基づく『春の城』で読売文学賞。同世代の戦死者に対する共感と鎮魂溢れる作品も多い。芸術院会員。主な作品に『雲の墓標』『舷燈』暗い波濤』『志賀直哉』のほか、『山本五十六』『米内光正』『井上成美』の海軍提督三部作がある
07-03『阿川弘之全集 第16巻・第17巻』参照
発行日 1955.5.30. 発行 04.4.30. 54版
初出 1952.7. 新潮社
初出 1952.7. 新潮社
発行所 新潮社(新潮文庫)
『お言葉ですが。。。 第5巻』河盛好蔵が、高校生だった高島に、新進作家の書いた優れた本として読むのを勧めていた
学徒出陣、基地での激務と空襲、マリアナ沖大海戦、父や恩師、そして恋人を奪った広島の原爆の惨状・・・・・。
第二次大戦に遭遇した1人の青年の友情と恋愛、師弟愛と肉親愛とを、入念な筆で情緒豊かに描いた著者の処女長編。激動の時代を生きながらなお、溌剌たる若い生命の感受性、健康で素直な生活感情と故国への愛、掛替えなき青春という時の、一つの姿を浮き彫りにする。読売文学賞受賞
太平洋戦争当時の自伝的小説
『春の城』は、広島の鯉城(りじょう)のこと。原爆で天守閣を始め、門も櫓も凡ての古い建物が跡形もなく吹き払湧荒れて、一段一段と低くなった古めかしい石垣だけが、虚しい空を背にして、輪郭を浮き出していた(復員してきたときに見た春の城の情景)
当初、『新潮』と『文藝春秋別冊』の2雑誌にそれぞれ一部を発表、それを一緒にして昭和27年に処女作として新潮社から刊行
小畑耕二 著者本人 東大国文2年生、支那語に興味。42年秋繰り上げ卒業となり、この年から文科からも海軍士官候補生になる道が開け海軍予備学生制度に合格して、9月佐世保海兵団に入隊。1年後軍令部特務班(通信諜報業務、霞が関に本部)配属、対華班を担当。44年8月漢口の海軍受信所へ。そのまま終戦となり、翌年初父死去の直後に復員
伊吹幸雄 耕二より4つ年上、中学から一緒に山登りやスキー、釣りをした。阪大医学部卒業後微生物研究所勤務、海軍軍医科短期現役士官に合格、戦艦に載って南方へ
伊吹智恵子 幸雄の妹。耕二の1つ上。耕二との結婚を望むが耕二が拒否
石川 北大医学生。幸雄と中学同級。兵役を逃れ広島で父親の病院で働く
物語は、耕二が東大に入った翌年の昭和16年夏、2度目の帰郷から始まる
広島の原爆被災の様子も詳述 ⇒ 朝散髪と三和銀行京橋支店に定期の書替えをするつもりで早目に家を出た矢代先生が被爆、翌日妻を探して歩き続けたのが原爆症をひどくして9月末に死去
智恵子も朝から友達に会いに出かけて被爆、父親に助け出されたが、原爆症がひどく、1週間後苦しむ姿を見かねた父親が麻酔薬を注射して安楽死
耕二の両親も焼け出された後、父親は翌年2月末死去
8月10日の夜、2世の電話傍受員が、アメリカの兵隊の私的会話の中に、「日本の無条件降伏申し出」を聞き取り、その夜のサンフランシスコ放送で日本の対米意思表示を確認
復員後、東京へ出て作家生活に入ろうとしたが、自炊生活で肺浸潤になり一旦広島に帰り、1年半後改めて上京
解説 2002.11. 猪瀬直樹
阿川さんはとても姿勢が良い
戦争などという得体の知れない非日常の極限の世界を語る際には、きわめて軽妙洒脱
『春の城』に出会ったのは60年代半ば過ぎ、「第三の新人」の1人として注目
阿川の発言を思い出す:
台湾で海軍の基礎教育を受けていたころ、教官が日本の戦艦の名前を挙げろというから、片端から10隻挙げたところで「よろしい」と言われたが、「まだあります」といって手を挙げ「大和・武蔵」と付け加えたのがいた。そしたら教官が「そういうもんは知らんでよろしい」ってにやっとした。大井篤も、「大和」「武蔵」が国を滅ぼすんだと、戦争中既に言っていた。あれは貧乏人の娘が余計な晴着を2つ持っているようなもんだ、と。これがあるばっかりに期末試験が近づいているのに、着飾って帝劇へ芝居を見に行く。それで試験は落っこちる。ろくなことはない
第1章11.(41ページ) 「デッキは全く静かで」
第2章7.(103ページ) 「遂に決っちゃったんだよ」
第3章7.(250ページ) 「隊の外へ行ってはどんなことを云いちらしているか知れない」
第3章7.(251ページ) 「豚の他にも近頃、家鴨の雛や鷄の雛も沢山買っていた」は「飼っていた」ではないか
第3章10.(267ページ) 「上海で当分栄養を補給してきたんじゃないのか?」
第3章10.(269ページ) 「狂瀾を既倒に廻(か)えす」は、「反す」「廻(めぐ)らす」いずれ
第3章10.(277ページ) 「これで日本へ帰られるのだ」
Wikipedia
阿川 弘之(あがわ ひろゆき、1920年(大正9年)12月24日 -
)は、日本の小説家、評論家。広島県名誉県民。日本芸術院会員。日本李登輝友の会名誉会長。文化勲章受章。代表作に、『春の城』『雲の墓標』のほか、大日本帝国海軍提督を描いた3部作『山本五十六』『米内光政』『井上成美』など。
概要 [編集]
阿川は『私の履歴書』では、[私の「履歴」を一と言で記せば、「地方の平凡な中流家庭に生まれ、小学校から大学まで、ごく平坦平凡な学生生活を送り、戦争中は海軍に従軍して多少の辛酸を嘗めたが、戦後間もなく志賀直哉の推輓により文壇に登場、以来作家としてこんにちに至る」、これだけである〕と回顧している。
経歴 [編集]
山口県人の父阿川甲一の長男として広島市白島九軒町土手通り(現中区白島九軒町)に生まれた(本籍地は山口県美祢郡伊佐村(現美祢市伊佐町)。母キミは大阪出身で生家は刀剣・骨董商であった。阿川によれば「母は広島で私を生んだけれど、もともと生粋の大坂女、父甲一は山口県の出、私の本籍は今も山口県美祢市に在り、広島県人会から会の案内など送られて来ると、多少の違和感を覚える。少年時代、学校では広島弁、家へ帰るとそれに大阪アクセントの相当まじった言葉、両方使い分けていた。」という。
父甲一は50歳を迎えて間もなくの1920年(大正9年)初め、事業の第一線を退き、大阪の家をたたみ、広島へ居を移した。弘之が物心ついて以後、父はいつも、奥座敷に碁盤2つ並べて、午後の小半日、近所の知り合い3、4人と碁を打って暮らしていた。
1946年(昭和21年)2月「ポツダム大尉」という身分で、揚子江を上海へ下り、3月末博多へ上陸復員する。広島市への原子爆弾投下により焼き尽くされた故郷の街を見る。家は丸焼けだったが、両親は無事だった。少し離れた牛田という町の、雨漏りのするボロ家にのがれて、中風の父親と、白内障の母親と甥にあたる若者と三人でひっそり暮らしていた。
主な著作は『春の城』(読売文学賞)、『雲の墓標』、『山本五十六』(新潮社文学賞)、『米内光政』、『井上成美』(日本文学大賞)、『志賀直哉』(野間文芸賞、毎日出版文化賞)、『南蛮阿房列車』、『食味風々録』(読売文学賞)など。
人物像 [編集]
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二・二六事件
1936年(昭和11年)2月26日、中学3年の時二・二六事件が起った。阿川はひどく興奮し、帰宅するなり母親に向かい“こういうことは大嫌いじゃ。無茶苦茶じゃ。これじゃけぇ陸軍はいやなんじゃ。”と大声の広島弁でまくし立てた。この発言の時、阿川家では父親がいつもの通り、奥座敷で丸橋さんという近所の退役陸軍大佐と碁を打っていた。母から“大きな声を出しなはんな、丸橋さんに聞こえたら悪いがな”と小声でたしなめられたが、阿川は“何が悪いもんか、聞いてもらったほうがいいのだ”と胸のうちで思っていたという。
二・二六事件とその歯切れの悪い後始末を見て以後、徹底的な陸軍嫌いになった。
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採用試験
海軍経理学校で第二期兵科予備学生の採用試験の際の口述試問で志望動機を聞かれ“はい。陸軍が嫌いだからであります”と述べた。あとで考えて、反軍思想の持ち主と取られかねない返答だったなと思ったが実際は、試験官が“にやっ”としただけですんだ。
主要作品は、戦記文学記録文学である。
志賀直哉の最後の内弟子として薫陶を受け、その文学上の後継者である。 当代一の作家と紹介されることがある。(ちくま文庫 「蛙の子は蛙の子」) 時代に媚びることのない正確で淡い情感を呈する文体や表現に定評があり(新潮社 「春の城」「雲の墓標」)、しばしば国語教育の教材などに取り上げられた。近年では、自身や長女である阿川佐和子、北杜夫、遠藤周作の随筆に登場してくる、短気で頑固で究極の自分本位とも思える一面の他、ユーモアが横溢し、軽妙洒脱で洒落のわかる粋人(講談社 「春風落月」)としても読者層に知られる。
月刊文藝春秋で巻頭随筆『葭の髄から』を1997年6月号から2010年9月号まで連載。連載をまとめた単行本・文庫本が数冊出されている。老衰を理由に連載を終了し、連載を単行本化した『天皇さんの涙』を以て文筆活動を終えることにすると表明した。
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第三の新人と言われた作家グループの遠藤周作や、吉行淳之介、また紀行文等で知られる開高健らとは親友で、北杜夫、三浦朱門、安岡章太郎、元編集者の大久保房男らとの交友も知られており、随筆などでその交友ぶりが存分に記されている。
受賞歴 [編集]
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1979年 第35回恩賜賞・日本藝術院賞[文芸/小説・戯曲]
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1983年 第30回交通文化賞
家族・親族 [編集]
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姉
公子(きみこ)
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妻
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二男
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三男
三男は阿川が満51歳のときに生まれた子供であり、このときの妊娠発覚から出生までの様子は小説「末の末っ子」で詳しくユーモラスに記している。
系譜 [編集]
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家系
阿川弘之は山口県・阿川八幡宮の伊藤宮司から「阿川氏」の歴史について詳しい説明を聞いたことがあった。伊藤宮司は「鎌倉時代の武将佐々木定綱の孫秀綱は13世紀の中ごろ長門国豊浦郡阿川の地を賜って移り住み佐々木姓を阿川に改めた。最初に阿川姓をなのった秀綱の父行綱は勲功をたて、美祢郡の伊佐に土地を拝領し“伊佐の阿川氏”を名乗る。“阿川の阿川”と“伊佐の阿川”は養子縁組その他、絶えず交流があった。」というようなことを述べたという。
しかし父甲一の生家の阿川家は代々の農家であり、近江源氏直系の鎌倉武将一族の末裔であるということについては、弘之はやや疑問をもっている。弘之によると、「近江源氏直系の鎌倉武将一族と伊佐のお寺の墓石の下に眠る私のひいぢいさんひいひいぢいさんたちが縁つづきであることを必ずしも疑ふわけではなかつたけれど時代のへだだりが大き過ぎる。太七さんの言ふ「初代」と宮司さんの言ふ「初代」とではおよそ五百年のひらきがある。宇治川の先陣乗りの長兄が持つてゐた遺伝子が自分に伝はつて来てゐるといふ想定はどうも実感を伴ひにくかつた。
…祖父利七以前の御先祖に正直なところ私はあんまり興味が湧かない。三之助七五郎から利七夫婦まで併せて総計二百五十四人にのぼる爺さん婆さんの“サムシング・グレート”が父を生かし今の自分を生かしてゐると考へてもそれは頭で考へるだけで実在感は乏しい。親しみの情なぞ皆無に近い。興を催すのはやはり肌身の感触を知ってゐる父甲一の前半生、伊佐の農家の小倅(こせがれ)が志を立てて家郷を出て学を修めシベリアへ渡り満洲へ移つて事業を起すまでの立身の道程である 。
…初代三之助の歿年を西暦で記すと一七四三年、ざつと数へて幕末維新まであと百二十年、その間(かん)七たび代替りしながら我が阿川家からは、朱子学蘭学を学んだ者も、勤皇の志士も、郷土史に名を残すほどの篤農家も出てゐないらしい。要するに代々、平々凡々たる中くらゐの自作農であつたと思はれる」という。
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父・甲一について
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母・キミについて
大阪の没落商家の娘キミは十八、九の時一度結婚するが、相手の男がひどい酒乱だったためすぐ別れて下宿屋兼業の旅館へ女中奉公に出た。その旅館が父甲一の内地へ帰って来た時の定宿であった。やがて甲一とキミとの間に関係が生じた。
阿川弘之によると、「我が家の本籍地、山口県美祢市役所の住民係に頼んで取り寄せた戸籍謄本を見ると―こんなもの丹念に見るのは実に久しぶりだが、戸主欄冒頭“明治四拾参年弐月拾四日石井キミト婚姻届出仝日云々”と、受附けた大阪市西区役所戸籍吏の名前が記されている。これは、数への八つに成長したひとり娘の静栄が小学校へ上る二ヶ月前の日附である。実質上の夫婦となってから約八年間、母は何故阿川の籍へ入れてもらへなかつたのだらう。その八年間に日露戦争があって、ロシア語の通訳官として従軍した父は、戦勝後長春で満鉄下請けの土木事業を始める。戦勲により南満洲鉄道株式会社専属実業家の地位を得た父甲一にとつて、おキミさんは“内縁の妻”或は単なる“大阪の女”に過ぎなかつたのか。
ともあれ、幼い娘がもうすぐ学校へ通ひ出す。娘の世間躰と、一方、満洲に置いてゐた隠し子(幸寿)を連れ帰つて“育ててやつてくれ”と押しつけた負ひ目とそれやこれやでやうやく内縁の“大阪の女”を正妻と認め入籍したのではないかと想像するのだけれど本当のところは何も分らない。」という。
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異母兄・幸寿について
兄幸寿は父甲一の庶子であり、ハルビンの日本料理屋の抱へ芸者たちの髪を結う髪結女(田中シツ)との間に出来た子供で、のちに母が引き取って養育したのだと小学生の時母から打ち明け話を聞かされ、弘之はショックを受けた。
著書 [編集]
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年年歳歳 京橋書院 1950 新編「水の上の会話」新潮文庫
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春の城 新潮社 1952 文庫・改版
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魔の遺産 新潮社 1954 新編PHP文庫
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志賀直哉の生活と作品 創芸社 1955
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雲の墓標 新潮社 1956 文庫・改版
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夜の波音 東京創元社 1957
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お早く御乗車ねがいます 中央公論社 1958、中公文庫 2011
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なかよし特急 中央公論社 1959
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カリフォルニヤ 新潮社 1959
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空旅・船旅・汽車の旅 中央公論社 1960
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ぽんこつ 中央公論社 1960 のち潮文庫
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坂の多い町
新潮社 1960
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ぽんこつぱとろうる 雪華社 1961
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へりこぷたのぶんきち フレーベル館(トッパンのキンダー絵本) 1962
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カレーライス 新潮社 1962 のち「カレーライスの唄」講談社文庫上・下
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あひる飛びなさい 筑摩書房 1963 のち集英社文庫
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ヨーロッパ特急 中央公論社 1963
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山本五十六
新潮社 1965 のち新潮文庫上下・改版
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銀のこんぺいとう 集英社 1965 のち「こんぺいとう」集英社文庫
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舷燈 講談社 1966 文庫、新編・講談社文芸文庫
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私のソロモン紀行 中央公論社 1967
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軍艦ポルカ
東方社 1967 のち集英社文庫
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黒い坊ちゃん 集英社 1967
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水の上の会話 新潮社 1968 文庫
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犬と麻ちゃん 文藝春秋 1969 文庫上・下
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いるかの学校 文藝春秋 1971 文庫上・下
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私記キスカ撤退 文藝春秋 1971 文庫
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私のなかの海軍予備学生 昭和出版 1971
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乗りもの紳士録 ベストセラーズ 1973 角川文庫、旺文社文庫
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暗い波濤 新潮社上・下 1974 文庫上・下
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蒸気機関車
平凡社カラー新書 1975
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軍艦長門の生涯 新潮社上・下 1975 文庫上・中・下
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鮎の宿 六興出版 1975 のち講談社文芸文庫
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山本元帥!阿川大尉が参りました 中公文庫 1975
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末の末っ子
文藝春秋 1977 文庫
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ある海軍予備学生の自画像 現代史出版会 1978
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米内光政 新潮社 1978 文庫・改版
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あくび指南書 毎日新聞社 1981 講談社文庫
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南蛮阿房第二列車 新潮社 1981 文庫
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テムズの水
新潮社 1982
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贋車掌の記
六興出版 1982
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桃の宿 講談社 1982 のち講談社文芸文庫
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海軍こぼれ話 光文社 1985 文庫
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井上成美 新潮社 1986 文庫
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大ぼけ小ぼけ 講談社 1986 文庫
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国を思うて何が悪い 一自由主義者の憤慨録 (口述筆記)光文社カッパ・ホームス 1987 のち文庫
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断然欠席 講談社 1989 文庫
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女王陛下の阿房船 講談社 1990 文庫
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国を思えば腹が立つ 一自由人の日本論 (口述筆記)光文社カッパ・ホームス 1992
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七十の手習ひ 講談社 1995 文庫
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雪の進軍 講談社 1996 文庫
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故園黄葉 講談社 1999 文庫
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食味風々録
新潮社 2001 文庫
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春風落月 講談社 2002 文庫
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人やさき犬やさき 続葭の髄から 文藝春秋 2004 文庫
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亡き母や 講談社 2004 文庫
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エレガントな象 続々葭の髄から 文藝春秋 2007 文庫
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大人の見識 新潮新書 2007 (口述筆記)
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言葉と礼節 文藝春秋 2008 (対談・座談集)
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我が青春の記憶 文藝春秋 2008.8
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天皇さんの涙 葭の髄から・完 文藝春秋、2011
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森の宿 新編・講談社文芸文庫、2011.4
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阿川弘之集 新鋭文学叢書 第1.筑摩書房 1960 小説9篇
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阿川弘之の本 ベストセラーズ 1970 小説4篇と随筆18篇
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阿川弘之集 新潮日本文学 51.新潮社 1970
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阿川弘之自選作品 全10巻 新潮社 1977-78
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阿川弘之自選紀行集 JTBパブリッシング 2001、新版ベストセラーズ 2011
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阿川弘之全集 全20巻 新潮社 2005-07
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