ドキュメント 東京大空襲 発掘された583枚の未公開写真を追う  NHKスペシャル取材班  2012.9.27.


2012.9.27. ドキュメント 東京大空襲 発掘された583枚の未公開写真を追う

別ファイル『12-09 東京大空襲』とセット

著者  NHKスペシャル取材班

発行日           2012.8.10.
発行所           新潮社

ハンカチにくるんだコッペパンを手に、防空壕で息絶えていた妹―――
焼夷弾の威力を知らされずに、バケツリレーで消火に励む人々
67年前、銀座空襲の「衝撃写真」と当事者による「証言」
「精密」から「無差別」へ、米軍が企図した戦術の背景
未公開写真が伝える、「史実の裏側」にある、壮絶なドラマを克明に再現

存在しないとされてきた583名の被害写真が、文京区のある家族経営の小さな写真店から発見された
戦時下で軍の特別許可を受けた軍関連のカメラマンが撮影したもの
11年夏 東京大空襲・戦災資料センターに持ち込まれ、センターはNHKに共同研究を持ちかけ、「東京大空襲プロジェクトチーム」が始動

第1章     B29が初めて東京を空襲した日
東京への空襲は、424月海上の空母から発進したB25による小規模な攻撃で、住宅地に被害
空襲が本格化したのは、南洋諸島が米軍に陥落させられ、マリアナ基地が出来てから。同時期に航続距離の長いB29が投入され、44.11.東京空襲が始まる
これまで、310日以前を「精密爆撃が行われていた時期」とし、それ以後を「無差別爆撃が行われていた時期」と区分、それを裏付ける米軍の作戦文書も存在していたが、今回発見された写真は、作戦当初の時期でも第2目標だった「市街地」に被害が集中していることを実証する資料となった ⇒ 「荏原 11-24」のネガを基に当時近隣の在住者を訪ね当て、自宅のすぐ裏手に爆弾が落ち、娘が防空壕に避難したがコッペパンを掴んだまま息絶えていたとの証言を得る

第2章     カメラマンが記録した空襲 陸軍参謀本部傘下「東方社」その実態
戦時中に写真雑誌『FRONT』が発刊、4244年に撮影されたとは思えないグレードの高い本格的なもの。東方社は、ノモンハン事件でソ連に敗北した陸軍が、軍の威信低下を恐れ、国威発揚を掲げて、ソ連に対する謀略・宣伝強化のための「ソヴィエト研究所」を開設。ソ連が制作していたグラフ雑誌の様な写真雑誌を日本でも制作して、対外的に国をアピールしていこうと参謀本部中心に画策、その後米英との対決姿勢を強くした事から、方針を転換し、米英の影響を排除するために中国や東南アジアなどで日本軍の影響力を誇示していくための軍事宣伝誌として『FRONT』が始まる。初代理事長は俳優の岡田桑三、松竹の退職金で会社を始め、木村伊兵衛を部長に招くとともに、映像文化を担う一流のオールスターが集められた
終戦で、会社は解散、全ての資料が焼却処分に ⇒ 一部自宅に隠し持っていた
東方社の写真は、軍部によって加工され、事実を捏造していた

第3章     米軍が計画していた緻密な「無差別爆撃」
米軍の東京空襲の意図を明らかにするための資料をアメリカで探す ⇒ 1999年以降年1回刊行の『空襲通信』が、素人集団にも拘らず、アメリカの原資料を読み解いて事実を解明しようとしている
44.11.24. 第1回攻撃 ⇒ 111機のB295編隊に分かれ、富士山を超えて東京の上空に達したのはそのうちの88機。第1目標が「中島飛行機」、第2目標が「東京市街地と港湾地区」。どちらをターゲットとするかは富士山到達の直前に天候を見て判断することになっていたが、曇りのため第1目標は困難とされ向かったのは第1陣の24機のみ、命中率は7%と不芳、残りの64機が第2目標に向かう。第2目標はエリアとして広大な地域が予定されており、とても精密爆撃のターゲットと呼べるものではなく、後の無差別爆撃そのもの。3日後もその2日後も空襲は第2目標のみ
B29のパイロットたちの証言でも、東京に爆弾を落としさえすれば任務の功績として認められたため、安易な逃げ道として目標以外にも任務評価のために爆弾を投下することはあった
関東大震災の記録からアメリカは早い時点で日本の都市が火災に極めて弱いことを把握しており、陸軍航空戦術学校でも焼夷弾攻撃が最も効果的と教えていた ⇒ 43.10.には陸軍航空隊参謀部に「日本焼夷弾攻撃データ」なる東京空襲の青写真ともいえる資料が出来た
無差別攻撃の正当性 ⇒ 労働力を引き離すことに加えて、人種蔑視的な意識が働いた
M69ナパーム弾を開発したイーウェル博士から、東京大空襲の事実上の司令官アーノルド大将に対し、「実戦で使用する際には、人道上、政治上の疑問に対する最高指導者の決定が不可欠の要件」との覚書が渡されたが、ルーズベルト大統領やスティムソン陸軍長官に計画の決定を要請した形跡は見当たらない
スティムソン長官の公開された日記には、「東京の皆殺しに対して、アメリカで何の抗議も上がらないのは怖ろしいことだ」とある

第4章     原宿が炎に包まれた 東京空襲 3日目の悲劇
44.11.27. 第2回目の空襲で、原宿界隈に被害 ⇒ 作戦指示書の目標は中島飛行機だったが、出撃81機中中島に向かった機はない
防空法に基づく消火活動が義務付けられており、バケツリレーで消火作業に励む住民の姿が写っている

第5章     東京のシンボル・銀座が空襲で破壊された
45.1.27.銀座空襲 ⇒ 単なる無差別から、「繁華街の破壊」という特定のゾーンに集中投下するやり方に変わる。街全体が焼き尽くされ、完全に都市機能を失っていく

第6章     東京大空襲は計画的な無差別大量殺戮だった
マリアナ基地開設時の航空隊司令官はハンセル准将だったが、成功率が極めて低く、44.11.24.の東京空襲も第1目標の被害は軽微で失敗とされていた。空軍の独立を画策していたアーノルド大将は、45.1.20.中国で高い命中率を挙げていたルメイ少将をマリアナの司令官に任命、ルメイは早く成績を上げるためにも効果的なやり方を選んで成果を挙げ、高い評価を得る。アーノルドにとっても、空爆が如何に戦争の終結に役立つのかを見せつけることこそが重要で、東京への焼夷弾爆撃は単なるステップであり、彼は日記でも日本への攻撃方法について人道的な観点を失っていく様子が読み取れる。空軍の独立は479月に実現、アーノルドは「空軍の父」と称えられたが、アーノルドは戦後すぐに退役、50年死去。コロラドスプリングスの空軍士官学校には「空軍の父」と銘打つ彼の銅像が立つ

第7章     「三・一〇」わずか一夜に10万人の命が奪われた日
279機のB29が飛来、1665tの焼夷弾を投下、墨田、江東、台東に集中
罹災家屋268千棟、罹災者百万人、東京の1/4が焦土に

第8章     全国で展開された都市空襲 罹災1千万人、今も癒えぬ苦しみ
310日以降、大規模な空襲だけでも4回あり、そのほとんどが310日を上回る規模の「焼夷弾の大量投下」で、全てが「夜間低高度爆撃」による無差別爆撃
413日から14日にかけて ⇒ 328機、2038t、死者2459人、罹災者64万人
415日 ⇒ 東京南部から川崎に被害、死者841
524日 ⇒ 東京への最大規模の空襲で山手線西側、520機、3646t、死者762
525日から26日 ⇒ 山手線北側、皇居周辺(宮殿も消失)464機、3258t、死者3242

529日 横浜大空襲 100機を超えるP-51戦闘機が初めて本格的な護衛につき、517機が5カ所を集中爆撃、2570t、死者3650人、罹災者31万人
攻撃目標として選別されたのは人口規模順に全国180都市にのぼり、7大都市(太字)に続き57の地方都市が爆撃を受けたところで敗戦。82日の富山市は市街地の98%が焦土に。終戦当日も熊谷や伊勢崎が爆撃されている
爆撃された都市 ⇒ 1東京2大阪3名古屋5横浜6神戸8福岡、9川崎10呉、11八幡、13仙台、15静岡、16熊本、17佐世保、19下関、20和歌山、22鹿児島、24境、25尼崎27大牟田、28岐阜、29浜松、31岡山、33豊橋、34門司、36富山37徳島、38松山、39西宮、40高松、42高知、43姫路、44四日市、45甲府、46宇部、47青森、48福井、51千葉、55宇都宮、57前橋、60岡崎、61日立、62延岡、63大分、68一宮、70津、71清水、73長岡、75水戸、79八王子、81銚子、89福山、90大垣、91今治、93沼津、94宇治山田、95宇和島、101佐賀、105熊谷、111明石、120平塚、123桑名、126伊勢崎、130徳山、163敦賀






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