コナン・ドイル  Hesketh Pearson  2012.9.17.

2012.9.17. コナン・ドイル シャーロック・ホームズの代理人
Conan Doyle, His Life and Art, Methuen & Co., Ltd., 1943

著者 Hesketh Pearson(18871964) イギリスの演劇人、作家。1887年に聖職者の一家に生まれる。少年時代はシェ-クスピアの演劇に熱中、1911年から俳優。第1次世界大戦では中東で従軍し、十字勲章を授かる。1930年エラスムス・ダーウィン(チャールズ・ダーウィンの祖父)の伝記によって作家デビュー。18冊の伝記を書きそのほとんどがベストセラー。自伝もある

訳者 植村昌夫 1945年生まれ。東大法卒。翻訳家。シャーロック・ホームズ研究家

発行日           2012.8.8. 初版第1刷発行
発行所           平凡社

ドイルはアイルランドの血を享け、スコットランドに生まれ、長じてイングランドに住んだ。感じやすい彼は、この3国はいずれもその性格形成に与り、アイルランド人の侠気と熱情、スコットランド人の誇りと気骨、イングランド人の一徹とヒューモアを兼ね備えることとなった
祖父は1815年にダブリンからロンドンに出て、風刺画家として名を成した
4男のチャールズがドイルの父。公務員で余暇に絵を描く。アイルランド人と結婚し、59年にアーサー誕生。薄給で芸術家気質の父にかわって、母の才覚で教育を受ける
幼少の頃から本が好きで、詩歌に早熟な趣味を示す ⇒ マコーリー(180059、歴史家、詩人、政治家)の作品に感化
カトリックのカレッジを卒業後、医学の道へ進むべくエディンバラ大学に進学
在学中も本を読み耽り、エドガー・アラン・ポーに影響される
カトリックの信仰を捨てた後、不可知論者となる ⇒ 信仰に代わって信ずるものを必要とした。ダーウィンやハックスリーの新知識に影響され、宇宙の背後には善の力があるはずだと考える
在学中から、ドイルの手紙に感心した友人の勧めで、小説を書き始め、原稿料を手にする
81年に医学士号、85年には博士号取得
81年船医としてアフリカ西海岸へ
大学時代の友人で医者の息子の奇想天外な行動や話が、後年ドイルの小説にいくつも登場
この友人と一時期一緒に医者を開業したが、友人の下を去る時、友人がドイルを医者として破滅させようとして、作家になるのを助けてくれる結果になったことも知らなかった
ポーツマスに移り住んで医者を開業したが患者は来ず、雑誌に短編を書いて前借りで凌ぐ
弟も呼び寄せ、地域社会ではスポーツ・クラブでの活躍等で名前が広がり、患者の関係で知り合った娘と結婚
そのうち、サッカレーが一時編集長だった雑誌に匿名で載った小説が認められる。アクションのシーンは第一級で、後に彼の最上の短編の魅力となるヒューモアに満ちた表現が既に現れていたが、当時本業の医者が貧しくも忙しく、執筆中に度々中断されたせいか、小説が全編にわたりパッチワークのように見えた
1886年『緋色の研究』でシャーロック・ホームズがデビュー。25ポンドでの版権買取りで、実際に雑誌に掲載されたのは翌年
その間歴史小説に興味を抱き、ピューリタンを主題に『マイカ・クラーク』を書き、89年に出版 ⇒ オスカー・ワイルドが原稿を読んで褒めてくれたのが契機となったもので、この時同時にホームズを再登場させた『四人の署名』を書き、ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』と同じ雑誌に掲載されることが決まる
次の歴史小説は『白衣の騎士団』 ⇒ ドイルが英国史上最高の時代と見做した(その理由は、フランスとスコットランドの王がロンドン塔に囚われていたからというもので、兵士としてはごく普通だが、作家には珍しい見方)エドワード三世の治世を描いたもの
ドイルは、マコーリーの百科事典的精神(著者が読者の手を取って小説の時代や背景に案内してくれる手法)に感銘を受けて、あたかも小説家というより野外劇の監督によるト書きのように時代背景なり舞台装置の細かい説明に走りすぎ、いくら正確で写実的であっても時代を甦らせるものではなく却って描写を損なうことが彼には終生分からなかった
ドイルは自分の歴史小説を高く評価、晩年になって『白衣の騎士団』と『サー・ナイジェル』の2篇を合わせたものが「私の目標を完全に達成した。偉大な時代を正確に描き、1つの作品として私が成し遂げた最も完全で満足できる野心的な事業である」と書いている。その結果彼は楽に書いた小説を過小評価することになる。今日ではシャーロック・ホームズの気楽な冒険譚のほうが歴史物より遥かに価値が高いことを理解できるし、自然に流れ出た作品、著者が自分のベスト以下であると見ていた作品のほうが後世に残ることはよくあること
『白衣の騎士団』は、評判もまずまずでドイルの文学者としての名声を確立した ⇒ 鬱陶しい商業の雰囲気から逃れて騎士道の爽快な空気を吸いたいという時代の嗜好に適ったが、戦争の現実を忘れて戦争を理想化した時代で、ドイルが時代の代弁者となって皆が漠然と感じていたことを同時代の誰よりも徹底的に熱心に語った。「普通の人間」が意見を言うようになったのがドイル
精神的に未発達な人間らしく、ドイルも精神感応術、神智学、催眠術、そのほか普通の経験の範囲を超えるものに惹きつけられ、凝っていた ⇒ 90年半ば以降の小説に表れてくる。『パラサイト』
仏教の影響もうけ、『クルンバーの謎』では全て偉大なる動きは東方から来るとしている
91年眼科医の勉強のためウィーンに渡り、ロンドンで眼科医となるが、患者が少なく、執筆に没頭することに

シャーロック・ホームズの誕生 ⇒ 英文学史上で普通人が頭に思い浮かべ名前を口にする人物としてホームズに比肩するものは他に3人。いずれも登場作品を読んだことのない人にも知られていると同時に、それぞれが人間の感情を表している
ロメオ ⇒ 「…みたいにいい男」、愛の象徴
シャイロック ⇒ 「…並に強欲」、欲の象徴
ロビンソン・クルーソー ⇒ 「…みたいに忌々しい」、冒険の象徴
ホームズ ⇒ 「…みたいにベラボウだ」、狩りの象徴、人の跡を追う探偵sleuth
ドイル自身は奇妙なほど観察力に欠ける ⇒ 下宿には張り出し窓があると書いているが、ベーカー街の大きな特徴は、張り出し窓が1つもないこと。この手の間違いを10以上も犯している ⇒ 歴史小説では時代考証をやっているのに、シャーロック・ホームズでは事件の年代等が入り繰っている。ドイルは、シェークスピアを再読すると随分間違いがあるのでびっくりすると書いているが、自らの作品でも同じことが言える
シャーロック・ホームズのモデルは、エディンバラ大学病院の外科医だったジョゼフ・ベル博士で、ドイル自身が随分借りがあると思っていた人、それにヒントを得て、更にポーのデュパンにオーバーラップさせて描いているが、ドイルこそ初めて探偵に活力と人間らしさを与えた作家であり、主人公が生き生きとして短編としてスリルがあり面白いものを書いた最後の作家
歴史小説では、小説より歴史を重視して台無しにしたが、探偵小説では探偵より小説を大事にして、同じ間違いを犯さなかった
915月 インフルエンザで危篤になったのを機に執筆に専念
ドイルが、ホームズを主人公にして一連の短編小説を書こうと思ったのは、列車通勤客向けの雑誌が増えてきたのを見ていたから ⇒ 長編連載だと一号買い損ねると筋が分からなくなるが、人物は前号からの持ち越しで話自体は毎号読み切りにすれば、読者は心置きなく雑誌の内容を楽しむことが出来る
ホームズの挿絵は、掲載誌ストランド・マガジンの初期の挿絵を担当したシドニー・バジェットが自分の弟をモデルにして描いたもので、ドイルが元々考えていた「痩せて剃刀のように鋭い男で、大きな鷹の嘴のような高い鼻の両側に小さな寄り目がついている」のとはだいぶ違った
後期の作品が初期のものに比べて水準が低いとの批判に対し、ドイル自身は、「真剣に書いたものではないので立腹はしないが、それは我々が年と共に擦れてきて鈍くなるからであって、初めて読む若い読者には十分受け入れられている。水準以下に落ちればすぐに止める」と言って、192760篇目の冒険を載せ、併せて最後の挨拶をした
ホームズは、小説の登場人物では唯一、伝記の対象となっている
同時代の作家の中で一番親しくしていたのはジェームズ・バリー(Sir James Matthew BarrieOM(メリット勲章)18601937スコットランド生まれの劇作家童話作家、ファンタジー作家。『ピーター・パン』の作者)。バリーのクリケットチームに参加
作家としての成功が家族を助ける
ドイルは、ジョンソン博士(伝記作家の祖)を褒め称えたけれども、本当はよくわかっていなかったようだ ⇒ 博士がパリに行っているにもかかわらずフランス革命を予見できなかったとか、見学したビール醸造所のオーナーのサンテールが後に処刑台で太鼓をたたいてルイ16世の声を消したあの極悪人になると予見できなかったと言っているが、どうやら博士とシャーロック・ホームズを混同しているようだ
1894年 アメリカから招かれて、東海岸の主要都市で自らの作品を朗読 ⇒ 稼いだ1000ポンドを財政危機に瀕していたサム・マクルーアの雑誌(ダブルデイ、27年には英語圏最大の出版社に)に投資、20年後には大きな利益を得た
歴史小説『勇将 ジェラール』 ⇒ 軍人の回想録としては世界初の『ド・マルボ男爵の回想』に負うところがるのは、シェークスピアがプルタークから借りたのと同様であり、シェークスピアが想像力ではプルタークに遥かに優るように、ドイルがマルボに優っていることも明白。英国の読者がフランスの主人公を受け入れるのは滑稽な主人公の場合だけ。ジェラールはたちまち人気者になった。読者の求めに応じて『ジェラールの冒険』を1902年から雑誌に掲載し始めたが、ドイルはジェラールものを自身の文学的業績に数えていない。シャーロック・ホームズ同様自分の中から自然に湧き出してきたものであり、ドイルのモットーは「刻苦勉励」であった
1895年 ダヴォスに滞在中のドイルはナンセンの『スキーによるグリーンランド横断記』に感銘を受け、スイスが理想的なスキー場になると思い、地元の人にスキーを勧めたのがきっかけとなってスイスでスキーが広まる
1900年 ボーア戦争に野戦病院の篤志監督として従軍 ⇒ 『ボーア戦争の歴史』執筆するとともに、戦争でのイギリス軍の残虐行為に対する非難への反論に努める ⇒ 彼の書いたパンフレットが欧州各地の輿論を落着かせ、その功により1902年ナイトの位を受け、サリー州の副統監に任命
1900年 人類への貢献の一環として、下院議員選挙に立候補したが、ダブリンにカトリックの大学を作るべきと言って北部プロテスタントの票を失い、アイルランドの自治には反対して南部カトリックを敵に回したため、善戦はしたものの僅差で敗退。05年にもう一度だけ立候補したが落選
その後はもっと直接的な方法で影響力を行使しようとした ⇒ ライフル・クラブを設立、狭窄弾射撃場の先駆けとなり、第1次世界大戦では大いに役立った。英仏海峡トンネルの建設も訴え、第1次世界大戦中にはその必要性が痛感された
「弱者に対する義務は他のすべての義務に優先し、状況に左右されない」と言い、同時代の誰よりもこの義務を認め、実際に個々の人間のために戦うという珍しい美徳を備える ⇒ 時には突飛な行動のために嘲笑されることも厭わなかったがその例として2
1.      バールーシー人(ペルシャ系インド人、ゾロアスター教徒が多い)の牧師が脅迫状を送られたり馬が襲われたりしたため、警察が捜査に入って牧師の勤勉な弁護士の息子を逮捕・起訴、懲役7年の刑に処せられた事件で、息子の陳述書を新聞でたまたま目にしたドイルは、全ての仕事を擲って事件の真相解明に奔走、バールーシー人牧師などにキリスト教を教えてもらいたくないという近隣住民の偏見に阿った警察のでっち上げだということを暴露、息子は冤罪が認められて3年後に解放されたが、弁護士協会への復帰は認められたものの、補償金は一切払われなかった
2.      冤罪をはらしたドイルの名声を聞きつけて沢山の同種要請が殺到、その中で老婦人の強盗殺害事件で、無期懲役の宣告を受けた容疑者を庇って何度も再審請求をしたが、結局18年後に釈放。その後さらに再審を請求した結果、警察による証言者の買収が判明して判決が破棄され容疑者は補償金を受領 ⇒ 裁判費用を巡って容疑者とドイルが揉め、最終的には容疑者が支払ったものの容疑者の忘恩に大いに傷つく
3.      タイタニック沈没事件を巡るバーナード・ショーとの論争 ⇒ アイルランド人には2つのタイプがあって、1つは衝動的で真面目でロマンティックなカトリックであり、もう1つは論理的で皮肉で現実的なプロテスタント。
事件を書きたてた新聞に対し、バーナード・ショーは「言及されざる教訓」という見出しの記事を書いてイギリスの新聞を非難。曰く、[大きな衝撃であり、悲しみと同情、生存者への祝福、憐れみと哀しみで浄化された魂の詩的表現の高まりは理解できる。しかし、言語道断なほどロマンティックはウソが爆発して無情な運命と否定しがたい事実を捻じ曲げようとしている」
ロマンティックなウソの第1は、救命ボートに女子供を先に乗せろということだが、男手がなければボートを動かせない
2は、全ての男が英雄だが、船長は超英雄だったということ。スミス船長が拳銃で自殺したか撃たれたかで始末をしたと信じこまされ、ネルソン提督以上の讃辞が贈られているが、氷山の漂う海域に最高速度で船を突っ込ませて沈めたことに対して罰を受けたものであり、無事航海を終えていれば誰も船長には注目しなかったはず
3のウソは、英国人の高級船員たちは、清潔で誇り高く冷静沈着だったと言っているが、実際は、われ先を争って救命ボートに駆け付けた外国人を拳銃で撃ったり、救命ボートが海面でもがく人たちの救助に行くことを拒否したりしている。恐怖に駆られての行動であれば非難は出来ないが、だからと言って英国人が他の国に比べて英雄的な行動をしたと言えるか
4は、誰もが死に面して身震い一つしなかったというもの。船内の楽団が《主よ御許に近づかん》を演奏していたと公式に宣言されたが、実際は、船長も高級船員もパニックを恐れて乗客――特に3等船客には事実を隠していたため、安心した乗客は船が垂直に傾くまで状況を理解しなかった
こうした冒涜的で増上慢のウソは何のためなのか? ジャーナリストの書くことが正しく、輿論を反映しているのであれば、国民的な恥辱を感じざるを得ない
この記事に対し、いくつかの賛成反対の投書がいくつか載った後、6日後にドイルの投書が掲載され、新聞記事を散漫で軽佻と非難しながらも、ショーの意見に反撃を加えている
1の点は、ショーは最初の1隻に男が10人と女が2人乗っていることを採りあげて、ヒロイズムも騎士道もないと言っているが、その他では女ばかりで操船が困難だったのもあり、言うことが極端
2の船長にしても、輿論が船長に示した同情は操船ミスを大目に見るという形を取ったとしているが、皆が同情したのは老年の船長が生涯ただ一度犯したミスに対し自ら命を捨てたことに対してであり、実際救命胴衣を投げ捨てて人々の救助に尽くしたことが分かっている。高級船員についても、殺到する外国人に対して威嚇射撃をしたのは已むを得ないこと
4の楽士の演奏にしても、パニックを避けるために出された命令に従ったもので、命令が賢明であり楽士たちが英雄であったことには変わりない
さらに、この事故が英国人の美質を誉め称えるために利用されたのだと告発するが、勇気と規律が最高度に示された時にこれに敬意を払うことが出来なければ、我々は亡国の民であって、共感が示されたのは英国人のみならず、悪口の対象だったアメリカ人の男の乗客や百万長者の行動も大いに賞賛されている
これに対してショーの反論が載った。曰く、「何もウソは書いていない。詳しいことが何もわからないうちからジャーナリストどもがでっち上げたことを非難している。事実に無頓着な恥ずべき妄言を読んでどうにも我慢がならなくなった」
最後にドイルが、「ウソつき呼ばわりはしていない。ただ、ショーには、良き趣味というか、人間性というか、無用に人の感情を傷つけるのを避ける配慮がない」と言って論争を終えた。新聞の読者もショーの正論には与したいとは思わず、間違っていてもドイルの肩を持ちたかった
大柄な体を生かしてスポーツには熱心 ⇒ クリケットは一流
ドイルの短編に対する需要は衰えを知らず、スポーツとミステリとスリルと恐怖を求める読者に答えた。普通の人の中では、様々な欲望がない交ぜになっている。家族愛も残虐性も優しさも病的嗜虐性も彼の中にあったので、ドイルの作品には彼の立派な面と同様に芳しからざる面もよく現れている。時には普通人の残虐趣味の媒体にもなり、デカメロンのようにハンサムな海賊が女の子と仲よくするような話は、ドイルのレパートリーになると放火と略奪と拷問の血も凍るような恐ろしい話になった
想像力に欠ける者は、奇怪なもの、恐ろしいもの、異常なものを偏愛する。微妙な味が分からないものの好物がカレーなのと同じ。想像力に富むものはそんな刺激を必要としない。ドイルは奇想を想像力と取り違えていた。奇想は生を弄んで話を作り上げようとする
想像型の作家は、シェークスピアがその代表で、日常生活という現実と取り組む
ディケンズのような奇想型の作家は、もっぱら無気味なものに関わり、普通の現実にはたまに触れるだけ ⇒ 読者を惑わせるプロットを考えるのを好む
奇想型の代表はエドガー・アラン・ポー。ドイルはポーの弟子で、奇想は溢れるほどあったが、想像力には乏しかった
多くの友人知人に愛されたが、それはドイルの何事にも示した高い関心のお蔭で、いつでも他人に適切なアドバイスをする一方、仲間の不適切な行為は厳しく指弾 ⇒ 歳を取るとともに説教するようになる
1905年 エディンバラ大学から法学博士号を授与される
1906年 妻逝去 ⇒ 肺結核で10年以上も転地しながら療養を続けていた
1907年 再婚 ⇒ 時代の変化もあったが、再婚によってドイルの苦闘時代は終わり、病人の世話からも家計に気を配ることからも解放され、厳格なヴィクトリア朝の父親が、典型的なジョージ五世時代の父親に変貌
新しい家族を支えるために、演劇の世界に向かう ⇒ すでにシャーロック・ホームズの演劇化はアメリカの俳優ウィリアム・ジレットが脚色・主演して成功をおさめ、1901年にはロンドンでも公演された ⇒ 自ら劇場を借り切った公演に失敗して破産に瀕したこともあるが、劇作家に専念してからは順調
その他少しでも冒険の要素がある投資話に惹きつけられたが、損も多かった
数社の役員を長年務め、「健全な常識と優れたビジネス感覚を発揮」した
1912年 『失なわれた世界』で新境地 ⇒ 恐竜を描いた子供向けの本。子供向け作家は性格に著しく病的なところがあり、ドイルもその例外ではなく、その病的性格は想像力が未発達で奇想が過剰であることから生じる
1914年の第1次世界大戦では、地元で「志願兵団」の前身となるものを組織 ⇒ 大部分は兵役年齢超で、やがて全国で20万人を超えた
新聞への投書によって多くの提案をした ⇒ ほとんどが救命用具に関わるもの、鉄兜や戦車の開発に役立ったはずだが、軍からは一言の感謝もなかった
戦時中は、直接従軍将兵と文書交換により情報を収集して戦記にしたが、軍部による検閲で発刊許可が下りず、1917年になって大分削除されたうえで刊行されたが、あまり受けなかった

人が何を信じたかは、伝記作家にとって重要である、それは人の性質を明らかにするのだから ⇒ ドイルの性質は何か宗教を必要とした。イエズス会のたわごとにはウンザリで、かといって何か出来合いの宗旨を受け入れるにはドイルは理性的に過ぎた
長い時間をかけてようやく辿り着いた結論は、心霊主義の代弁者
心霊主義にはドイルの空想を刺激する派手な面があった
幽霊が出るのは想像力に富む者よりもむしろ凡人の方に多い
ドイル自身は、物質主義から心霊主義に転向したと思っていたが、究極的に物質主義的な信仰に達した ⇒ 自分の五感の証拠のみを信ずる者の信仰
大戦を契機に、心霊主義の福音を広めることを決意。特に60歳以降は小説を書くのも止め、筆力のすべてを注いで心霊主義の宣伝に専念。一部の不興を買って爵位を棒に振る。人間は来世があるから向上しようと努力する、必ず死後には信賞必罰がある、と考える
1929年 最後の小説『マラコット海淵』 ⇒ マラコット教授が大西洋の海底に古代文明の末裔を発見する話。英国文明の凋落の様子を描く



『ポーカーフェイス』  グレアム・グリーン(本書の初版が出たときの書評)
伝記作家としてのピアソン氏にはジョンソン博士(サミュエル、170984、辞書を作ったほかに伝記を書き伝記に書かれた。英国で伝記という格調高いジャンルを作った人)に通じる特質があって、叙述は端的で誠実であり、背後には常に普通の生活が続いていることを感じさせる。鈍い作家ではあのポーカーフェイスの裏側は見抜けない、書き手が興奮してしまっては読者は信じられなくなる
この伝記ではピアソン氏がワトソン役を務めて、イエズス会の教育が作った奇妙な謎の人物、シャーロック・ホームズの心を持ったドイルを語る
実に壮快な伝記で、しかも語り口が見事。そしてピアソン氏の長所は、伝記作家に対して主人公を擁護してやりたいという気持ちを我々に起こさせること

訳者解説
ドイルの伝記は英語で二十数冊刊行。その決定版が本書
グレアム・グリーンもオブザーバー紙も激賞したが、執筆に全面的に協力した遺族は、「頭が単純で精神的に未発達な男」として描かれたのが気に入らず、45年に息子がThe True Conan Doyleというパンフレットを書いて本書に反論、遺族は改めて探偵小説作家だったジョン・ディクスン・カーに委嘱し、49年ドイル伝を上梓
本書執筆に当たっては、ドイル自身の書いたものによるべきとして、自伝と自伝的小説『わが思い出と冒険』(1924)、『スターク・マンローからの手紙』(1895)および4冊の旅行記を活用
2004年 相続問題が解決して、ドイル家文書がクリスティーズのオークションに出て、大英図書館が落札 ⇒ すでに実娘から遺贈を受けた900点と併せて2100点の文書を確保。その資料を使って新しい本が何冊か書かれた
伝記作家を悩ますのは、ドイルのspiritualism ⇒ 「心霊術」「心霊学」等と訳したが、人の霊が霊媒を通じて生者に物理的な信号を送ってくるという考え方が特異
ピアソンによれば、ドイルはごく単純な男であって、カトリックの信仰を捨てた後何かを信ずるものが必要なので心霊術に凝るようになったという。また、ドイルの恐怖小説を採りあげて、その欠点はグロテスクではあるが少しも怖くないことだという。その理由は、ドイル自身が想像力に欠けるために実生活で一度も恐怖を感じたことがなかったからだという。この辺りの記述が遺族を怒らせたが、ピアソンの筆致はあたたかく、ドイルが71年の生涯を立派に生き抜いたと感銘させられる
伝記であって、評伝ではない ⇒ 「評伝」は日本独特のジャンルで筆者の好悪をコッソリ織り込むやり方、本格的伝記を書くだけの事実追求の執念もなく、批評と言えるだけの分析能力も価値判断力もなく、手頃な規模と手間でお茶を濁すもの。本書以外のドイルの伝記と称されるものは、みな「評伝」に過ぎない


コナン・ドイル ヘスキス・ピアソン著 壮大で魅惑的な英作家の生涯 
日本経済新聞朝刊2012年9月9日付フォームの始まり

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 本書は1943年に刊行されたアーサー・コナン・ドイルの伝記である。コナン・ドイルと聞いてぴんとこなければ、名探偵シャーロック・ホームズを創造した作家といえば誰もがわかるだろう。サブタイトルに「シャーロック・ホームズの代理人」とあるように、作家自身よりも小説の主人公の方が世界的に有名なのだ。
(植村昌夫訳、平凡社・2400円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(植村昌夫訳、平凡社・2400円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 しかし、だからこそ世界一の名探偵を生み出した作家とはいかなる人物であったのかとの興味がそそられる。読んで驚かされるのは、ホームズの生みの親のその生涯の多彩さと壮大な物語性なのである。アイルランドの血を享(う)け、スコットランドに生まれイングランドに住んだ、イエズス会の厳格な教育のもとに育った奇妙なスピリチュアリスト。医学士号を得て船医としてアフリカ西海岸への航海に発(た)ち、作家として名声と富を獲得しながら、晩年には心霊主義のあらゆる文献を集め、英国内はもとよりオーストラリアやアメリカまで健康を損なうほど各地を講演して回った伝道者。粗いツイードの服を着た近衛騎兵のような堅物で、少しも芸術家めいたところのない素朴な印象でありながら、残虐な血も凍るような話を好んで来客にした人物。スポーツ・宗教・政治・科学・殺人・戦争その他何にでも関心を持ち、自らも行動的でありながら、自制心と謙遜を忘れずによき家庭人であった紳士。仮面と素顔の区別を容易につけられぬ、天才と凡人のあわいの尾根づたいを慎重に、そして自由に大胆に歩き通した、永遠の冒険作家。
 ピアソンは伝記作家として、このドイルという魅惑的存在を冷静な筆致で描いてみせる。本書は数多くのドイル伝のなかでも決定版と評価の高いものであり、その経緯については訳者の詳細な解説(ひとつの評論として読みごたえがある)に述べられているが、これはホームズ・ワトソンのファンのみならず評伝というジャンルの傑作として堪能できる。ドイルの死(新しい冒険)に旅立つピアソンの記述は読者に感銘と共に、不思議な勇気を与えてくれるだろう。
(文芸評論家 富岡幸一郎)


Wikipedia
サー・アーサー・コナン・ドイルSir Arthur Conan Doyle、本名:Arthur Ignatius Conan Doyle1859522 - 193077)はイギリススコットランエディンバラ生まれの小説家で、推理小説歴史小説SFを多く著した。190289Knight Bachelorに叙せられた[1][2]

概要 [編集]

『シャーロック・ホームズ』シリーズに登場する史上最高の名探偵シャーロック・ホームズを生み出した事で知られ、エドガー・アラン・ポーとともに現代の推理小説の生みの親とされている。
現実社会でもジョージ・エダルジ事件[3]、オスカー・スレイター事件[4]被疑者の無実を主張し、冤罪を晴らすために力を尽くした。また、冤罪を防ぐために刑事事件の控訴院を設立することに尽力した。
SF分野では『失われた世界』、『毒ガス帯』などチャレンジャー教授が活躍する作品群を、また歴史小説でも『白衣の騎士団』、『勇将ジェラールの回想』などを著している。

年譜 [編集]

1859年、スコットランドの首都・エディンバラで、イングランド生まれの役人の父とアイルランド人の母の間に生まれた。父方の祖父・ジョンJohn Doyle)はダブリンで生まれロンドンに出て"H.B."の筆名で著名な風刺画家となり、伯父のリチャード・ドイルRichard Doyle)はイラストレーターで、ドイル家はアイルランド系で芸術の職につくものが多かった。
イエズス会系のインデペンデント・スクールであるストーニーハースト・カレッジStonyhurst College)に学んだが、学校を離れた1875キリスト教を拒絶して不可知論者となった。その後1876から1881にかけてエディンバラ大学医学を学んだ。この時、アストンAston:現在はバーミンガムの一地域となっている)の町で外科医師の助手として働いている。この頃、古典文学の廉価版の古本やエミール・ガボリオエドガー・アラン・ポーの作品を愛読した[5]。父親がアルコール依存症により精神病院に入院したため、在学中に北氷洋行きの捕鯨船に船医として8箇月程乗り込み、弟妹の多い一家の家計を支えた。
級友より数箇月遅れて22歳で大学を卒業した後はアフリカ航路の荷物汽船の船医として3ヶ月程働く。山師の気を持つ級友とプリマスで診療所を共同経営したが喧嘩別れした。その後1882ポーツマス市のサウスシーSouthsea)地区に眼科を専門とする診療所を開いた。診察所は振るわず、患者を待つ間に小説を書き三文雑誌へ送ったが、その度に返却され終いには切手代すらも怪しくなった。 なお「そのころ、現在フットボールリーグ・チャンピオンシップに属しているポーツマスFCの創設時に同チームに所属しており、初代ゴールキーパーを務めていた」と広く信じられているが、実際に所属していたのはポーツマスFCとは別のポーツマスAFCというクラブで、このクラブはポーツマスFCが結成される4年前に解散している。
1884、『J・ハバクック・ジェフソンの証言』(J.Habakuk Jephson's Statement)という1872年のメアリー・セレスト号Mary Celeste)乗組員失踪事件に基づいたフィクションであるマリー・セレスト号(Marie Celeste)事件についての短編小説が『コーンヒル・マガジン』(Corn-hill Magazine1月号に匿名で投稿掲載され評判になる(この小説のためメアリー・セレスト号失踪事件がマリー・セレスト号と誤った名称のまま有名となる)。
1885、患者の姉であったルイーズ・ホーキンズと結婚した。彼女は結核のために1906に死去した。ドイルはその後1897の出会いのときに一目ぼれをしたものの、妻を気遣って精神的なかかわりをもち続けていたジーン・リッキー1907に再婚した。
1887クリスマス、最初のシャーロック・ホームズシリーズである『緋色の研究』が『ビートンクリスマス年鑑』に発表された。あちこちの出版社から断られ続けた挙句ワード・ロック社と25ポンドで著作権買取という条件にて世に出た作品である。発表後はしばらく売れずドイルはもうホームズ物は書くまいと考えていたが、アメリカの雑誌リピンコット・マガジンからの依頼を受けて書いた『四つの署名』がリピンコット・マガジン18902月号に掲載されるとホームズは莫大な人気を博した。だが、ドイル自身は自らの歴史小説やSF物のほうに価値を感じ、シャーロック・ホームズシリーズを快くは思っていなかった。『白衣の騎士団』のような中世の騎士道を描きたかったといわれる。
1890、ドイルはウィーン眼球の研究をし、翌1891にロンドンへ移り、眼科専門医として診療所を開いたが、患者が訪れない暇を執筆時間に充てた。ドイルは医者を止めて作家として暮らしを立てていくことを決心したが、作者が望む以上のホームズ人気の高まりに、同年11月の母親への手紙で「僕はホームズの殺害を考えている……そして彼を永久に消してしまいたい。ホームズは僕の心をよりよいものから取り払ってしまった」と書いた。1893に「悪の組織の首魁」として登場させたモリアーティ教授と共に『最後の事件』でスイスイヘンバッハの滝壷へとホームズを突き落としてしまった。しかし読者はホームズの復活を声高に要求した。「ホームズの死」を悼んでこれ見よがしに喪章を着けて外出する熱狂的読者もいたという。これに押された作者ドイルはホームズが日本の「バリツ」という武術を用いてモリアーティを滝壷へ突き落とし、自身はモリアーティの手先から逃れるために身を隠し、辛くも助かったことにして復活させた(『空家の冒険』冒頭部)。モリアーティは母親メアリのスペルをもじったもので、ドイルが母親のことを快く思っていなかったことの表れとも言われている。
シャーロック・ホームズは結局、56の短編と4つの長編に登場した。最終作『最後の挨拶』で引退した事になっている。ドイルを最も有名たらしめたホームズシリーズではあるが、その甚大な人気のゆえに実際の事件がドイルのもとへ持ち込まれたり、時にはドイル自身が名探偵と思い込まれることもあり、随分閉口させられたようである。またある日、ビリヤードにドイルが遊びに行った際、謎の客からキューを贈られ、それを使用しているうちにキューが壊れ、中空になっていたキューの中から「アルセーヌ・ルパンからャーロック・ホームズへ」と書いた紙が出てくるという手の込んだイタズラがあったという。なお、ホームズシリーズには多くの矛盾が存在することも知られ、大部分はストランド・マガジン誌上で発表されているが、ドイルはそれらに気付いていながらも敢えて書き直しをすることはせずに、読者にその穴を探させたりするという方針を採っていた。
19世紀20世紀世紀転換点の時期に南アフリカで起こり、世界中からイギリスによる露骨な帝国主義的行動に非難が集中したボーア戦争に従軍し、『南アでの戦争:原因と行為』と題された小冊子を執筆した。この冊子は他国でも広く翻訳出版されることとなった。この冊子の功績により、1902イングランド南部のサリー副知事に任命され、また同年Knight Bachelorに叙せられた。したがって「サー」の称号はホームズシリーズの功績とは無関係である。20世紀初頭に、彼はエディンバラとボーダー・バラズの議員にそれぞれ立候補した。かなりの票を得たが、いずれも落選した。
1903、『勇将ジェラールの冒険』(Adventures of Gerard)を執筆。1912、『失われた世界』(The Lost World)というチャレンジャー教授、ロクストン卿、マローン記者らが猿人恐竜と遭遇する小説を執筆。後に同一登場人物シリーズで『毒ガス帯』、『霧の国』を出版。
晩年は、第一次世界大戦での息子キングスリーの死もあってか、心霊学に傾倒し英国心霊現象研究協会会員となるが、科学的すぎるとして脱退。交霊会や心霊学の講演、それに関する執筆などを行ない、「心霊主義聖パウロ」の異名を取った。そして、コティングリー妖精事件において大失態を演じてしまった。
1948、短編の遺稿が発表された。

エピソード [編集]

§  上記の通り、ホームズシリーズの高すぎる人気とホームズを実在する人物のように扱われることにうんざりしていたという。
§  あまり知られていないが世界最初のボディビル・コンテストに、審査員の一人として参加した。
§  出身地であるエディンバラには、「コナンドイル」という店名のパブがある。
§  2006522日には彼の誕生日を記念し、一日限定で検索サイト『google』のロゴになった。ロゴには彼の有名作品「シャーロック・ホームズ」シリーズに登場する架空の探偵、シャーロック・ホームズのシルエットや足跡、街灯があしらわれたものであった。

著作 [編集]


§  緋色の研究』(別題:緋色の探求、緋色の習作)
§  四つの署名』(別題:四人の署名、四人のサイン)
§  恐怖の谷
§  シャーロック・ホームズの思い出』(別題:回想のシャーロック・ホームズ)
§  シャーロック・ホームズの帰還』(別題:シャーロック・ホームズの生還)
§  毒ガス地帯
§  霧の国
原題:Through the Magic Door (魔法の扉をくぐれば)

脚注 [編集]

1.   ^ 「コナン・ドイル」川村幹夫著、講談社現代新書、1991
2.   ^ ドイルは、ボーア戦争における功績により Knight Bachelor に叙せられ、Sir Arthur Conan Doyle または Sir Arthur と呼ばれる資格を得た。日本語の文献で「アーサー・コナン・ドイル卿」という表記がされることがあるが、『卿 Lord  は貴族(男爵 Baron 以上、慣例として準男爵 Baronet 以上)に用いられる敬称であるので、「サー・アーサー・コナン・ドイル」の表記が正しい。「敬称#英語の敬称」の Sir の項を参照。
5.   ^ 新潮文庫 シャーロック・ホームズの冒険(訳者 延原謙









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