語られなかった皇族たちの真実  竹田恒泰  2013.10.16.

2013.10.16. 語られなかった皇族たちの真実
若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」

著者  竹田恒泰 75年東京生まれ。旧皇族・竹田家。慶大法学部法律学科卒。財団法人ロングステイ財団専務理事。孝明天皇研究家。明治天皇の玄孫

発行日           2006.1.10. 初版第1刷発行
発行所           小学館

序章 竹田家に生まれて
竹田家は、伏見宮の傍系。伏見宮は皇位継承のために創設された世襲親王家。102代後花園天皇は伏見宮家出身。明治以後伏見宮から北白川宮が分かれ、さらに別れたのが竹田宮家で、初代は北白川能久の第1王子竹田宮恒久親王(著者の曽祖父)1906年宮家創設。明治天皇の第6皇女昌子内親王と結婚
祖父恒徳(つねよし)47年皇室離脱
本書執筆の動機
皇族の役割 ⇒ 皇統の担保(血のスペア)と天皇の藩屏(天皇を支え守る)
05年、皇室典範に関する有識者会議が出した結論は、男系継承の大原則を覆すものであり、違和感を禁じ得ない ⇒ 伝統を軽視するのは祖先に対する冒涜
皇室にとって決して変えてはいけないことの筆頭が男系継承
なぜ女性天皇が誕生したのか、皇統断絶の危機に際して先人たちはどのように対応したのか、歴史を振り返り、平成の皇統断絶の危機を回避するための答えを先人たちの刻んだ先例に求めたい

第1章        万世一系の危機
男系継承に例外はない ⇒ 「男系」とは、父方の先祖が天皇に行き着くこと
「家」を強く意識するのは日本の伝統文化
124代の天皇のうち109回は皇子が即位、9回が公孫3回はの曾孫
女帝10代も全て男系の子孫
残る3例が皇統の危機
   26代継体天皇(在位507531) ⇒ 先代の武烈天皇とは祖父同士がはとこ。武烈天皇に息子がいなかったため、応神天皇の玄孫の子が天皇に迎えられ、武烈天皇の姉を皇后とした。継体天皇の息子たちが27代安閑天皇と28代宣化天皇で、同じく武烈天皇の妹たちを皇后としている
   102代後花園天皇(在位142864) ⇒ 称光天皇崩御に際し、伏見宮家から迎え入れて践祚させた。曾祖父が93代後伏見天皇の孫で従妹同士。伏見宮家は後花園天皇の祖父の代に皇統を安定させるために創設された宮家で、元々は持明院統(後嵯峨天皇の子が持明院統と大覚寺統に分かれて交互に即位。持明院統は北朝)の正嫡の家柄
   119代光格天皇(在位17791817) ⇒ 後桃園天皇が幼少の内親王1人を残して早逝。内親王を即位させても、その女帝が末代となって皇統断絶となるため、傍系だが4つある世襲親王家のうち閑院宮家から養子をとって即位させ、内親王が皇后に。内親王との結婚が前提ではあったが、何人かの候補者の中からなぜ光格天皇となったのかは不詳とはいうものの血筋的には最も天皇家に近い。譲位後も23年に亘って院政を敷き、幕府の勢いに陰りが見える中、明治維新に繋がる動きに多大な影響を与えたのは、崩御の後数百年振りに「高格天皇」という天皇号が贈られたことからもわかる
女帝は、過去810(2人が重祚=一旦退位して再度即位)の実績あるも、全て天皇の皇女など男系の女子であり、女系たる女帝の子息が皇位を継いだことはない。女帝は生涯独身で、出産をしないことが不文律。あくまで皇太子が制度化される以前の時代の中継ぎ役でしかなかった
世襲親王家 ⇒ 皇位継承をより安定的にするための制度の1つ。代々親王宣下を受ける特別の家で、江戸後期には4家あり、成立が古い順に伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮
初めて実態を備えた世襲親王家は、鎌倉後期の常磐井宮(ときわいのみや)で、初代は第90代亀山天皇の皇子で、以後250年に亘って代々親王宣下を受けて家を相続し継承
次いで成立したのが木寺宮(きでらのみや)家で、第94代後二条天皇の第1皇子が初代
次が伏見宮家。初代は北朝第3代崇光(すこう)天皇の第1皇子で、以後550年存続
1589年、豊臣秀吉が奏請して創設されたのが桂宮。正親町(おうぎまち)天皇の皇孫が初代で、後継がないときには天皇の皇子が相次いで相続。300年存続
その次が有栖川宮家。後陽成天皇の皇子が初代で、高松宮と称したのが後に有栖川宮と改称。300年続く。威仁親王薨去後大正天皇の勅旨により、有栖川宮の祭祀は大正天皇の第3皇子宣仁親王に継承され、高松宮の称号を賜る
1864年創立の山階宮は、初代が伏見宮の第1王子。一旦山科・勧修寺の門跡となったが、幕末に還俗し、勅命で宮家を創設
明治に入り皇室制度が改革され、親王宣下の制度は廃止され、別途10宮家が創設
世襲親王家から天皇となったのは過去3例 ⇒ 前記②と③のほかに、第111代後西(ごさい)天皇。前2例は皇統断絶の危機に当たっての即位だったが、後西天皇は有栖川宮家を継いだ後に即位。共に第108代後水尾天皇の皇子で、第110代後光明天皇の養子となっていた第112代霊元天皇が成長するまでの繋ぎとして復帰した
一旦皇族の身分を離れ臣籍降下したものの、ふたたび皇族に復帰して即位した例が1件ある ⇒ 第59代宇多天皇(在位88797)。第58代孝行天皇の第7皇子は一旦源氏の姓を賜るが、孝行天皇の発病により皇太子に戻り、崩御に伴なって即位。菅原道真を重用
側室制度 ⇒ 万世一系の皇統を維持するもう1つの安全装置
正室は、皇后、准后、女御 ⇒ 複数の正室を持った天皇は27
男系継承にこだわる理由 ⇒ 
    皇統の男系継承は2000年に亘って育まれ守られてきた伝統的慣習であり、男系によって継承された家を天皇家と呼ぶのであって、天皇家に女系天皇は相応しくないということ
    男系こそが「皇祖の血を受け継ぐ人」であると観念してきたから ⇒ 家が男系により継承されるというのは日本の伝統的な文化

第2章        戦争と皇族
東郷平八郎亡き後、唯一の元帥として、また3241年までは軍令部総長として海軍の最高権力者だった伏見宮博恭王は、開戦を渋る天皇に対し開戦を強く勧め、開戦後も対英米戦積極論者の永野修身を後任として発言力を維持するが、42年末ごろから体調不良、終戦1年後に薨去。東条退陣の引き金を引いたのも伏見宮
高松宮は海軍中佐で軍令部に在籍、開戦直前まで避戦のため動く ⇒ 職責を超えて勝算の薄いことを説くが、海軍が直接戦勝への確信を述べたため、開戦に突入
秩父宮は参謀本部勤務で日中戦線の不拡大を主張していたが、肺結核のため40.6.から御殿場で闘病中、高松宮を通じて避戦を働きかけ ⇒ 開戦直後、米英の駐日大使宛に「遺憾の意」を伝えるが、これが終戦後に天皇制存続の過程において重要な意味を持つことになる
42.6.ミドウェーの敗戦で、高松宮は天皇に、これ以上の戦争継続の無益を説明し速やかに終戦を図るべきと説くが無視
高松宮日記(192147)が薨去から4年後に発見され、97年に中央公論から公刊
12-03 人間 昭和天皇』では、高松宮は開戦論者で、昭和天皇とは不仲。戦後雑誌の皇族による座談会で、高松宮が「和平に奔走」と発言したのを昭和天皇が見て削除を迫ったという。86年高松宮が病気になって2人の関係は改善したとある
東条首相と皇族の対決:
高松宮は、44年に入ると真剣に負ける方法を考え始め、近衛内閣の首相秘書官だった細川護貞を御用掛につけ、東条暗殺まで考えた
秩父宮も、東条が陸相と参謀総長を兼任するに及び、違憲である旨質す
終戦直後に首相となった東久邇稔彦王も、陸大で1年後輩かつ近衛連隊で一緒だった東条とは、開戦を巡って激論、その後も何度も東条とはぶつかるが、受け入れられず

第3章        終戦と皇族
皇族男子が日本の降伏を知らされたのは812日 ⇒ 宮中の御文庫附属室に召集され、天皇からポツダム宣言受諾について説明を受ける
817日、天皇の特使として3皇族が前線に終戦の聖旨を伝達するために飛び立つ
朝香宮は支那派遣軍に、竹田宮は関東軍と朝鮮軍に、閑院宮は南方総軍に
同時に、東久邇宮には組閣の大命降下
竹田宮は、出発に先立ち東久邇宮から満州国の溥儀皇帝の亡命を助けるよう依頼されていた。竹田宮は新京赴任中溥儀皇帝とは特別親しくしていたが、皇帝は1日の違いで奉天に出てきたところをソ連に抑留されてしまう。竹田宮を護衛していた4機の隼のパイロットも、宮を送り届けて奉天に戻ったところ、既にソ連軍が占拠していたため、4機揃って飛行場の真ん中に突っ込み壮絶な最期を遂げる
国内での武装蜂起の動きに対しても、皇族が派遣され直接天皇の御心が伝えられた
10月伊勢神宮お参り後、神武天皇(畝傍陵)、明治天皇(桃山陵)、大正天皇(多摩陵)には天皇自らお参りされたが、その他歴代天皇の御陵への報告のために7名の皇族が派遣される ⇒ 山陵御差遣=御代拝。敗戦の報告と復興に対しての加護を祈る
戦死した皇族 ⇒ 戦争においては皇族は命を落として当然というのは明治天皇の思召しであり、男子皇族は全員軍人となることが義務付けられていた=ノーブレス・オブリージュ
   音羽正彦侯爵 ⇒ 朝香宮家次男、明治天皇の第8皇女の息子。臣籍降下して音羽侯爵家を創設。軍艦「陸奥」の副砲長。44年クエゼリン島激戦で突撃し戦死。死後海軍少佐
   伏見博英伯爵 ⇒ 伏見家4男。徳川慶喜の娘の子。海軍少尉に任官して臣籍降下し「伏見」の名と伯爵を賜る。インドネシア上空で米軍機に撃墜され戦死。死後少佐
   北白川宮永久王 ⇒ 若くして第4代当主。陸大から駐蒙参謀となるが演習中の飛行機事故で死去。軍神とされ、親子3代にわたり海外で戦死又は事故死しているため「悲劇の宮様」と言われる。第2代の能久王は日清戦争後の台湾平定において戦病死、第3代成久王(永久王(能久王の3)はパリ郊外で自動車事故により薨去。永久王の長男道久王は3歳で家督を継ぎ、現在は伊勢神宮大宮司
太平洋戦争では、皇族を危険な任務から遠ざける傾向があったのは間違いない ⇒ 高松宮は海大から戦艦「比叡」の乗員となるが、周囲から特別扱いされ、何もさせてもらえないことで自らを「比叡の油虫」と自嘲していた
「皇族の3人や5人は死ね」とは、明治天皇の皇女である竹田宮妃昌子が息子の恒徳王に宛てた手紙で死を恐れずに奉公しろと励ましたときの言葉

第4章        占領下の皇族
東久邇宮稔彦(なるひこ)王は首相就任要請を拒絶 ⇒ 父久邇宮朝彦新王は、孝明天皇の懐刀として天皇の意向に従い公武合体派に与したため、維新後明治政府からにらまれて蟄居させられ、蟄居が解かれた後も他の皇族とは異なる差別的扱いを受ける。稔彦王も他人の家に預けられ、苦難と貧乏を経験し、生涯政治には関わらないと決意していた
天皇の心痛を慮って組閣を引き受ける ⇒ 皇族が政府の長に立つのは、明治政府樹立の際有栖川宮が「総裁」になったのに次ぐ2例目
学習院時代からの古い友人である近衛文麿の助けを得て、内閣書記官長(現在の官房長官)に穏健な新聞人として知られた緒方竹虎を登用
内閣の最初の仕事は軍の武装解除 ⇒ 820日の陸軍によるクーデター計画に対しては、自ら首謀者を説得して直前に中止させる
マッカーサーとの間に信頼関係を築きかけたかに見えたが、天皇がマッカーサーを訪問した際撮られた2人並んだ写真が内閣総辞職に繋がる ⇒ 内務省によるこの写真の掲載紙の発行停止処分が総司令部を激怒させ、内務大臣の罷免、思想、宗教、言論、集会の自由に対し制限している一切の法令の廃止を命ずるとともに、内務省首脳、都道府県の警察部長、特高関係者全員合計4000名の免職を要求、同時に政治および思想犯全員の釈放を要求されたため、総辞職を決意。54日の短命内閣となった
皇族唯一の戦犯 ⇒ 梨本宮。皇族軍人の最長老、皇族では唯一の陸軍元帥、軍事参事官。数々の団体の総裁を務めていたこともあって総司令部の目についた。12月収監、翌年4月釈放
臣籍降下 ⇒ 新憲法発布により「臣籍」が廃止されたため、以降は皇籍離脱という
最初に言い出したのは東久邇宮で45.11. ⇒ 天皇に何ら進言しなかった道徳的責任を取るとの理由だったが、大半の皇族は降下に反対
45.11. 総司令部は皇室財産を凍結、天皇から下賜される歳費を含む財産上の特権の剥奪を指示。さらに46.11.には財産税法を施行、最高税率90%でほとんどが物納により国庫に帰属 ⇒ 天皇家の財産は37.4億、納税額は33.4億 ⇔ 大財閥の資産が35
終戦時の宮家 ⇒ 直宮3家と、皇族11(すべて伏見宮から分立)
47.10.14.をもって51名が皇籍を離脱 ⇒ 皇族方と旧11宮家との交流は現在も続き、天皇自ら「菊栄親睦会」と命名

終章 雲の上、雲の下
竹田宮 ⇒ 622万円の財産に465万円の財産税が課され、家屋敷は西武に売却され、現在の高輪プリンスホテルとなった。当主恒徳に下賜された一時金544万円での「タケノコ生活」が始まる
48年日本スケート連盟、馬術連盟会長に相次いで就任 ⇒ 秩父宮に手ほどきをされていて、宮薨去後は遺志を受け継いでスポーツ界にのめり込む。54年スポーツ界で日本では初めての男子スピードスケートの世界選手権を開催、さらに東京、札幌のオリンピック誘致にも奔走
恒徳の妻光子は、明治の元勲三条実美の孫。32女をもうけ、長男恆正は三菱商事、次男恆治は伊藤忠商事、三男(著者の父) 恆和は不二サッシ勤務を経て旅行会社を起こす
恆和は、馬術で世界へと飛び出し、現在はJOC会長
著者の世代には男子が5名、いずれも独身(05.12.現在)
11宮家のうち、現当主以降残るのは5家のみ ⇒ 賀陽家、久邇家、朝香家、東久邇家、竹田家
北白川宮邸は新高輪プリンスに、東久邇宮邸はパシフィックホテルに、横浜の東伏見宮邸は横浜プリンスホテルに、広尾の久邇宮邸は聖心女子大に、白金の朝香宮邸は東京都庭園美術館に、永田町の閑院宮邸は参議院議長本邸に、赤坂の李王邸は赤坂プリンスになっている
東久邇稔彦王は、新宿西口での闇市から始まって事業に没頭、新興宗教の教祖に祭り上げられて騙されたりしながらも、天皇の最期を見届けて102歳で他界
久邇宮朝融王も11人の大家族を養おうとして事業に手を出すが失敗する
閑院宮も、ホテルやタクシー、倉庫など本格的に事業展開したが失敗、箱根の別荘は人手に渡る(現在の強羅花壇)
賀陽宮 ⇒ 「野球の宮様」としてチームを作ったが解散。社会福祉事業は成功
朝香宮 ⇒ 「ゴルフの宮様」としてゴルフ三昧の生活を送る
伏見宮 ⇒ 米国留学を経てモービル石油勤務
北白川宮 ⇒ 東芝に就職後、神宮大宮司
旧皇族の実系による子孫のうち、著者の世代には8人の未婚の男子がいる(久邇家2名、東久邇家1名、竹田家5) ⇒ 皇統断絶の危機に際しては責任を感じるべき
傍系男系男子が皇籍復帰するに当たり、内親王か女王との結婚が伴うべきならば、そのような御縁のある人に皇族復帰をお願いするのが天意に沿う
女系天皇の議論は、時期尚早であり、万世一系を冒涜する考え方











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