完全なるチェス―天才ボビー・フィッシャーの生涯  Frank Brady  2013.8.2.

2013.8.2.  完全なるチェス天才ボビー・フィッシャーの生涯
END GAME Bobby Fischer’s Remarkable Rise and Fall - From America’s Brightest Prodigy to the Edge of Madness    2011

著者 Frank Brady 1934年ニューヨーク・ブルックリン生まれ。10代の頃にまだ子供だったフィッシャーと出会い、その才能に魅了される。以来、対局相手として、大会理事として、審判として、そして友人として長きにわたる親交を結ぶ。フィッシャーのことを最もよく知る人間として自他ともに認める。60年に編集者として『チェス・ライフ』を創刊。60年代にフィッシャーの評伝を出版。フィッシャーも通ったNYの名門マーシャル・チェス・クラブ会長、NYのセント・ジョーンズ大学コミュニケーション学部長歴任。作家としては、チェス関連のほか、著名人の評伝を数多く手がける

訳者 佐藤耕士 1958年生まれ。上智大文学部英文学科卒

発行日           2013.2.15. 第1
発行所           文藝春秋

「私は人生のゲームでは負け犬だ」
20年にもわたって姿を消していたチェス世界チャンピオンは、往年のライバルと対戦すると、再び消息を絶った―――。
クイーンを捨て駒とする大胆華麗な「世紀の1局」を13歳で達成。冷戦下、国家の威信をかけてソ連を破り、世界の頂点へ。激しい奇行、表舞台からの失踪、そしてホームレス寸前の日々。アメリカの神童は、なぜ狂気の淵へと転落したのか。少年時代から親交を結んできた著者が、手紙、未発表の自伝(10代に書いたもの)KGBFBIのファイルを発掘して描いた空前絶後の評伝

著者はしがき
彼が問題を抱える一方で、知への情熱を持つ真摯で偉大な芸術家であったことを、この物語が証明することを願う
ボビーの歪んだ政治的宗教的言動を許すことはできないが、彼がチェス盤上で見せた真の天才を忘れるべきではない。彼の対局こそが彼の本当の姿を証明するものであり、彼の究極の遺産だからだ

プロローグ
2004.7.13. 日本で3か月過ごした後、フィリピンに向かうところでパスポートが無効で成田の出入国管理局に勾留
1992年にアメリカの対ユーゴ経済制裁措置に違反して逮捕状が出され、帰る国を失ってハンガリーに落ち着いて以来、アメリカ政府からは何の連絡もなく、アメリカに近づかない限り安全だと思い込んでいた

第1章        小さなチェスの奇跡
母はノーベル賞科学者ハーマン・マラー(遺伝学者)の有能な元秘書、父はユダヤ人生物物理学者。パズルが大得意なブルックリンの少年は、姉から買い与えられた1ドルのチェス盤に熱中
13歳でフィラデルフィアのジュニア・チャンピオンになったボビーはアメリカオープン選手権に史上最年少で出場したが、両足の不自由な44歳でニューヨーク州の元チャンピオンであり有名なチェス教師、ジャック・コリンズに師事、ブラインド・チェスの対局
両親は、ノーベル賞学者のマラーが1933年レニングラードとモスクワでの研究職を引き受けた時に一緒にロシア行きに加わる。父親の旧姓はリープシャーというユダヤ系の名前だったが、当時のドイツに反ユダヤ主義が横行していたため、ユダヤ系らしくない名前に変えていた。2人は結婚して娘をもうけたが、スターリン政権下のソヴィエトでも反ユダヤ主義が勢力を伸張してきたため、39年パリに逃れる。さらに、アメリカ国籍の母はアメリカに避難したが、父はドイツ人だったためチリに避難するが、扶養義務不履行で離婚。43年ボビーが生まれるが、母親はホームレスで、生まれた子供の父親を前夫として届け出。母と姉弟の子ども3人は、極貧の生活で全米を渡り歩き、ボビーが6歳の頃マンハッタンに落ち着く。ボビーは癇癪持ちでパズル好き(今でいう多動性障碍)。姉が1ドルで買ってくれたチェスセットに夢中になる
ボビーの問題は社会性にあった ⇒ 周囲に打ち解けない
7歳にして初めて本気の相手としてチェスマスターの多面指しに参加 ⇒ 相手はスコットランドとニューヨーク州の両方でチャンピオンで絶好調だった放射線学者のペイビーで、忽ちの内に対局終了となったが、フィッシャーの指し手に感心した地元ブルックリンのチェスクラブの会長から、いつでもクラブに来ていいという許しを得る

第2章        天才の才能
IQ180だが学校嫌いのフィッシャーは、風呂の中でもチェス盤を離さず。12歳にしてトーナメントに参加
フィッシャーは、アメリカでもっとも誉れの高い倶楽部の1つ、ブルックリン・チェスクラブに入会を許された最初の子ども、女性は皆無。フィッシャーの潜在的才能に気付いた会長は、優秀なチェスの教師でもあり、父親代わりとなって面倒を見ると同時に、無数にある定跡を教え込む
8歳で公式試合に出場、勝利を飾っている
1954年 ソ連チームが初の訪米
ソ連チームは全員プロでグランドマスター、政府から経済的援助を受けていた。チェスは小学校の必須科目。チェス連盟の登録会員4百万。1回のトーナメントの登録数は70万人以上
アメリカは、会員数僅かに3千、グランドマスターは1
12歳でワシントン・スクエア・パークのチェス・トーナメントに出場、15位に入賞

第3章        クイーン・サクリファイス
敢えてクイーンを取らせて勝った「世紀の1局」を13歳で達成
14歳で全米チャンピオンに
1955年 マンハッタン・チェスクラブにデビュー、史上最年少でジュニア会員になる
同年 全米アマチュア選手権に出場して惨敗、その直後にジュニア選手権に最年少で出場、226引き分け
ブルックリンの会長がフロリダに移住した頃知り合ったのが、ブルックリンの自宅でチェス・サロンを開いていたジャック・コリンズ兄妹。兄は全米50位以内の常連
56年ジュニア選手権で優勝、史上最年少のチェスマスターとなる。直後の全米アマでは102人参加中1点差の4位タイ。大会後正式にマスターの地位を得て全米25位にランクイン
56.10. ニューヨークの名門マーシャル・チェスクラブで、インターナショナルマスターにして全米オープンの前チャンピオン、グランドマスターのサミュエル・レシェフスキーを破ったばかりの25歳の大学教授相手に、劣勢の中でクイーンを相手に取らせて逆転するという「世紀の一局」を演じる
193040年代にかけて世界屈指のチェス・プレイヤーだったアメリカ人、ドクター・ルーベン・ファインは『チェスとチェスマスターに関する精神分析考察』を著わす ⇒ 熱心なフロイト信奉者で、チェスは象徴的にリビドーと関連付けられ、オイディプス的意味を持っているという見解。チェスマスター4人を選んで彼等の精神障碍についても考察、全てのチェスプレイヤーは頭が錯乱しているという思い込みを促したことで批判される
母親のアイディアで、ファインならボビーの相談相手になってもらえると思ってファインの事務所に行かせたが、逆にボビーが懐疑的になるとともに、新聞もファインの論文をきっかけに、ボビーに対して横柄で不快な質問を浴びせるようになり、周囲にもフィッシャーいじめの風潮が強まる
56.7. 全米ジュニア2連覇。クラブのエキジビションではレシェフスキーを破り、グランドマスター狩りの始まりとなる
ロングビーチで女性最強のチェスプレイヤーでPR会社を経営する実業家リナ・グルメット邸に滞在し、後の経歴の中で重要な役割を果たすことになる、生涯の友人となった
全米オープンは、参加176名中現役上位10名に入っていたが、3者のタイブレークによりフィッシャーが14歳で最年少のチャンピオンに輝く
続く57年のアメリカ選手権でも、無敗で王者になる

第4章        アメリカの神童
共産圏が覇権を握っていた当時のチェス界。憧れの最強国ソ連へ。続いて訪れたユーゴでは世界チャンピオン、ブロンシュタインと引き分け、衝撃を与える
チェスに関する本を読みまくる
過激な反共主義が広がる中、政治活動に熱心だった母親がFBIから尋問を受ける ⇒ FBI42年から、ソ連の諜報員ではないかとの嫌疑で追っていた。マッカーシズムの疑心案義が蔓延していたことを如実に物語るが、それ以上の追求はなかった
母は、フルシチョフ首相に手紙を書いて、息子を世界青年学生祭典に招待するよう頼み、ビザも降りる。クイズ番組に出演して航空券を勝tち取り、モスクワに行く ⇒ ヴァン・クライバーンが優勝した3か月後のこと
世界的なプレイヤーとの対戦を期待していったフィッシャーに対し、ソ連のもてなしは直接対決を避け、手の内を見せようとしなかったために、フィッシャーはあからさまに連に敵意を抱くようになり、恩師への手紙にもそれを書いたところからソ連の検閲に引っかかり、ソ連の20日間の滞在ビザの延長申請は却下
代わりに、世界選手権が開催されるユーゴのチェス協会から招待状が届く
22回戦の第6戦目でブロンシュタインと引き分けたことで、注目度が一気に上がり、それ以降の対局に集中できなくなりつつも、何とか上位6位に入って、挑戦者決定戦の出場権を確保した史上最年少のプレイヤーとなり、同時に史上最年少のインターナショナル・グランドマスターとなった

第5章        冷戦のグラディエーター
米ソ冷戦下、チェス対決は知の代理戦争。フィッシャーは国家の威信をかけて対局に臨む。一方、ラジオ放送で知ったカルト教会に強く惹かれてゆく
58年のユーゴのインターゾーナルで優勝したのは、ラトビア出身で2度もソ連チャンピオンになったミハイル・タリ
挑戦者決定戦は、熱心なアマチュア・チェスプレイヤーだったチトー元帥の好意により、ユーゴの3つの都市で、8人によるクアドループル・ラウンドロビン(総当たりで、同一相手に白黒交互に4局指す)により実施。ソ連圏の4人はグランドマスター・ドロー(つまらない手を指してドローに落ち込み、0.5ポイントずつ手に入れる)で体力温存を図り、フィッシャーに対抗しようとした
結局、タリの心理作戦に集中力を乱され、彼に4連敗したばかりか、惨敗
その上、2か月間の戦いで、高校を中退せざるを得なくなる
チェス盤を眺めながら聞けるラジオ放送に慰めを見出すうちに、自然の法則に従って生きることを最上とするアームストロングの「ラジオ・チャーチ・オブ・ゴッド」の説教に惹かれるようになり、少ない稼ぎの中から献金を始める

第6章        宿敵との激突
身なりにかまわなかったフィッシャーが、誂えのスーツで登場。周囲を驚かせる。宿敵タリとの激しい戦いを終え、次期世界チャンピオンへの手応えを掴む
59.12. アメリカ選手権開始時から、誂えのスーツを着て登場 ⇒ 予てから服装に拘らないフィッシャーの姿に批判が集まり、フィッシャーもチェスの実績を軽んじられたばかりか、自分こそが世界一のプレイヤーだという自負まで踏みにじられたと感じていた
アメリカ選手権は圧勝
アメリカではすっかり有名人になり、あちこちから一緒にチェスをしたり食事をしたりと声がかかり、かなり年長になるまでレストランの請求書を手に取ったことがないことで有名になる
60.10. ライプツィヒで世界チェス・オリンピアード開催 ⇒ 米ソの対決の第5回戦で当時世界チャンピオンのタリとフィッシャーが対戦、激しい乱打戦の上引き分け。結果はソ連が1位、アメリカが2位。フィッシャーは1026分けと銀メダルに貢献

第7章        アインシュタイン理論
無学で女性嫌いとの偏見記事を書かれたことで、フィッシャーのジャーナリスト嫌いは決定的に。元世界チャンピオンだった憎きタリを遂に破る
60-61年のアメリカ選手権で4連覇 ⇒ アメリカ最高のプレイヤーと称えられたことに反発した50歳の元チャンピオンレシェフスキー一派の画策で、両者の16局試合が行われた。一進一退だったが、途中で試合日程、開始時間の変更が行われ、寝坊したフィッシャーが2試合続けて現れず、フィッシャーは裁判で無効を訴えたが、結局不戦敗の宣告
この時インタビューを受けたジャーナリストが、危ない橋を渡りたがる輩で、自分の扇情主義的傾向を誇りに思い、『エロス』という雑誌を発刊して猥褻罪で刑務所行きとなったが、無学なホモ嫌い、女嫌いに見せかけた記事を掲載され、以前からジャーナリストには用心深かったフィッシャーは、その後生涯にわたって彼らに怒りと不信を抱くようになる
ユーゴからの招待に応じてインターナショナル・トーナメントに出場して宿敵タリを破り、最終的に無敗だったが2
62.1. ストックホルム・トーナメントでは、無敗で優勝。初めてソ連以外が1位に
引き続き、キュラソーでの挑戦者決定戦に向けて準備開始
キュラソーでは緒戦から番狂わせの連続で、フィッシャーもタリも初戦から敗退、優勝したのはペトロシアン(8019分け)、フィッシャーは3.5ポイント差の4(勝ちが1ポイント、分けが0.5ポイント) ⇒ ロシア人選手同士の共謀行為と、対局中の指導行為に対し抗議したけっか、ジャーナリズムも問題を取り上げ、以後新たな制度が導入されることとなった

第8章        伝説同士の衝突
世界チャンピオンのボトヴィニックと対戦する。また、カストロとの政治的応酬後に臨んだハバナ・トーナメントは、NYからの難儀なテレタイプ対局となった
62.10.ブルガリアのチェス・オリンピアードにアメリカの代表として出場
レニングラード出身で3度世界の王座に就いた51歳のボトヴィニックと初めて対戦、前半を有利に進めたが、翌朝までの間にロシア側が総力を挙げて対策を検討、引き分けに持ち込まれる ⇒ チームも4位に留まる
その後2年間、フィッシャーは国際試合の招待を受けなかった
63-64年 アメリカ選手権では1111勝という快挙
64.3. 徴兵 ⇒ 協会の役員が徴兵猶予を働きかけてくれたが、自ら徴兵事務所に出頭。結果は不適格とされ。入隊することはなかった
65年 ハバナのトーナメントに招待されたが、外交関係が緊迫しており、一般人のキューバ行きは禁止されていたため、考え出されたのがテレタイプでの参加。準備に一番尽力してくれたのは、チェスの強かったチェ・ゲバラ。結果はあまり冴えず、0.5ポイント差の2位タイ
悪条件下でのフィッシャーの好成績に感嘆したソ連のチェス界は、フィッシャーを徹底的に研究するためにグランドマスターを動員して極秘研究所を創り、成果をソ連のトッププレイヤーたちに流した

第9章        世界チャンピオンへの挑戦
ペトロシアンとの対決。ロシアの牙城を崩して世界チャンピオンへの挑戦権を得る。一夜にしてアメリカにチェスブームが巻き起こり、国民的英雄となった
60年代のフィッシャーは、輝かしい活躍をする一方で、傍若無人の振る舞いで自ら転落することもあった ⇒ モナコで優勝しながら、国王との記念写真を拒否したり、グレース王妃から賞金を渡された時も礼を言う前に札を数えたり、67年のチュニジアでのインターゾーナルでは優勝ほぼ確実のタイミングで棄権したり、とムラ気様々
70年のパルマ・デ・マジョルカのインターゾーナルではあっさり優勝。勝ったことのなかった苦手のゲレル(ソ連)から試合開始早々に侮辱的に引き分けを持ちかけられたが、堂々と斥けた
71年の世界選手権挑戦者決定戦から、リーグ戦方式に代わってマッチ方式(ノックダウン・トーナメント)を採用。最初の対戦相手はソ連の45歳、絶好調のタイマノフ。フィッシャーが6局連続で勝利、グランドマスターの完封負けは史上初で、ソ連政府は国家の恥として処罰、給料を打ち切り海外渡航を禁止、タイマノフにとって事実上のチェス人生の終りとなる。次のラーセンとの試合も完封勝ち ⇒ マジョルカから(?)通算19局連続勝利の記録達成。3人目の相手はペトロシアン。第1戦に勝って20連勝達成。21連勝はならなかったが、513分けで元世界チャンピオンを下し、非ソ連圏・非ロシア人で初の世界タイトルの挑戦者となる
タイムズの1面をチェスが飾ったのは、1954年ソ連チームがアメリカを訪問した年以来のこと。一夜にして国民的英雄となった

第10章     ついに頂点へ
親チェス国アイスランドで行われたスパスキーとの頂上決戦。何かと難癖をつけるフィッシャー。だが、3局目から盛り返しアメリカ人初の世界王者に輝く
1972年のチャンピオン防衛戦は、「ロシアの熊対ブルックリンの狼」と名付けられた
アイスランドは、世界で最も識字率の高い国の1つ、読書量が最も多く、国民のほとんどがチェスをする。数年前からチェスの国際大会のスポンサーになっている
フィッシャーは出だしから不満を並べ、アイスランド人の反感を買う ⇒ まずは金銭面の配分で揉め、飛行便を何度も土壇場でキャンセルし、世界を敵に回す
開会式にも姿を現さず、開会が2日間延期され、その間イギリスのチェス愛好家が125千ドル提供、賞金を倍額にして金銭面での問題を解決しようとし、さらにニクソン大統領の国家安全保障問題担当補佐官だったキッシンジャーがフィッシャーに直接電話で「ロシア人を彼等のゲームで叩きのめすべきだ」と告げ、漸くフィッシャーが「アメリカ合衆国の利益は自分の個人的利益よりも大きい」と言ってレイキャビクに向かう
最終的にフィッシャーをアイスランドに向かわせたのは、プライド、金、愛国主義
セコンド役を引き受けたのは、6つ年上のカトリック神父であるウィリアム・ロンバーディというカトリック教会のチェスマスター
スパスキーは、2日間の延期に対し、謝罪と不戦勝を要求したが、最終的に謝罪の手紙だけで何とか試合開始に漕ぎつける
初戦はフィッシャーの負けで、通算の対戦成績は042分けとなる
2局は、フィッシャーが会場からカメラの撤去を要求して揉め、結局フィッシャーは会場に姿を現さないまま不戦敗。フィッシャーは不戦敗の決定に不服を唱え帰りの飛行機を予約
審判の配慮で、第3局はステージ裏の対局室で、誰も入れずに行うこととし、漸くフィッシャーも同意。41手で差し掛けとなった翌日の対局開始と同時にスパスキーが投了
アメリカでの試合の中継の視聴者の数は軽く百万を超え、アメリカのみならず各国のチェスに対するイメージと地位を激変させ、ニューヨークではデパートでチェスセットが飛ぶように売れた
盤外の様々なプレッシャーが、フィッシャーほど嵐の中心にいることに慣れていなかったスパスキーに、間違いなく大きなストレスを与え、第5局では過去最大のミスを犯し投了
6局は、フィッシャーが自らベストマッチというほどの一方的勝利。マッチの転換点となる
多くの点で「不運な第13局」は、対スパスキー戦中最も重要な対局となる ⇒ 9時間半の長丁場に疲れたスパスキーが僅かなところでミス、スパスキーの恐怖がフィッシャーの憐れみと重なった瞬間だった
13局から20局は全て引き分け ⇒ フィッシャーが11.58.5ポイントでリード、残り4局を2分けか1勝でチャンピオンに
21局もフィッシャー優勢で指しかけ。翌日午後スパスキーは電話で投了を連絡し、フィッシャーの勝利が確定。賞金153千ドルを獲得
凱旋したフィッシャーをリンゼイ市長が迎えたが、ティッカーパレードは断る
一番誇りに思ったのはニクソン大統領からのお祝いの手紙だったが、試合前に大統領が勝敗にかかわらず官邸に招待するといった約束は、とうとう履行されず仕舞いだった

第11章     荒野の時代
世界チャンピオンの称号を放棄したフィッシャーは、20年に渡る隠遁生活に入る。反ユダヤ主義へ傾倒し奇行が目立つように。各地を転々と放浪する
ロスに戻って、ワールドワイド・チャーチ・オブ・ゴッドから月200ドルで借りたアパートで新たな人生が始まる ⇒ チェス以外にも目を開いて、精神的生活を充実し直す必要を感じていた
あちこちから合計10百万ドルもの対戦のオファーが来たが無視 ⇒ 自分をダシに金を稼ごうとする連中が許せなかった
受けたのは報酬2万ドルの73年の第1回フィリピン・インターナショナル・トーナメント ⇒ 67年に訪問した時に世界チャンピオンのように扱ってくれたのがその理由
72年には大災害が起こって救世主が復活するという予言が実現しなかったことでワールドワイド・チャーチに疑問を持ったフィッシャーは、巨額の寄付をしたにもかかわらず、金目当てのインチキであることを見破り、さらには反ユダヤ主義、反キリスト教主義へと変化
母親も、息子の言動から、フィッシャーの中に人種的宗教的偏見が傾向としてあることに気付き始める
世界に対して頑なになり、支えを必要とする人々への思いやりを失いつつあった
1975年の世界選手権は、フィリピンがスポーツとしては史上最高となる5百万ドルの賞金をオファーして開催権を獲得、カルポフという23歳のレニングラードの学生が挑戦権を得たが、フィッシャーは連盟に試合方法の変更を申し入れる。試合数の制限を撤廃し、10勝先勝方式を提案し、それが受け入れられなければ試合に出ないし、チャンピオンの称号も放棄すると通告 ⇒ カルポフが戦わずして第12代の世界チャンピオンとなる
簡易宿泊所を転々とする生活となり、警察の職務質問に引っかかって疑われ、放浪罪で留置場送りになったことも
チェスの試合はもちろん、人前から姿を消して20年振りに目撃

第12章     フィッシャー対スパスキー、ふたたび
17歳の少女プレイヤーに心を開いたフィッシャー。彼女がきっかけとなり、スパスキーとの復帰戦が、米の経済制裁下にある東ヘルツェゴビナで行われる
チェス以外の世界で暮らしてみたが、チェス盤から離れたとことに喜びと歓喜は存在しなかった ⇒ 1990年世界連盟の会長の立候補者がスパスキーとの再戦に興味を示し、2.5百万ドルの賞金と、全ての費用を持つというオファーがあり、フィッシャーとスパスキーはブリュッセルで再会するも、フィッシャーのユダヤ人に対するネオナチ的発言に危機を感じてオファーが撤回されたため再戦は実現せず
ハンガリーの17歳女性チェスプレイヤー、ツィタ・ラジャクサニからの、なぜチェスを止めたのかとの問い合わせの手紙に興味を覚え、直接電話でロシア人たちが不正をしているからだと説明、文通が始まり、彼女をロスに呼び寄せる
フィッシャーが、ちゃんとしたオファー(フィリピンが提供した5百万ドル)を待っているという手紙を書き、ツィタを代理人と認めたことから、ツィタは国際的に有名なチェス・オーガナイザーのヤーノシュ・クバトに渡りをつけ、19929月にユーゴのスヴェティ・ステファン(東ヘルツェゴビナ)でスパスキーとの対戦が実現
ボスニア政府に忠実な軍隊とセルビア不正規軍との激しい戦闘の最中で、フィッシャーは対戦直前に米財務省から警告の手紙を受け取る ⇒ 92.6.の大統領令によりユーゴでの商業活動が禁止されており、違反すれば25万ドルの罰金と10年の禁固
フィッシャーは殆ど無政府主義的にアメリカ政府を軽蔑していて、77年以降納税も拒否してきたこともあり、周囲は対戦の延期を勧めたが、フィッシャーは無視
フィッシャーの反米主義は、世界の各紙で報道され、恩師のコリンズも愛想を尽かす
初戦はフィッシャーの勝利。2,3局はフィッシャー有利だったが終盤のミスで引き分け。4,5局はスパスキーの勝利。6局が山場でフィッシャーのミスからスパスキーの勝利が見えたが、フィッシャーがマッチを放棄してチェスから永遠に遠ざかってしまうのではないかと恐れたスパスキーが手を抜いて通算成績がイーブンに。その後は一進一退で、9局から調子を戻したフィッシャーがリードを奪い返し、29局まででフィッシャーの94敗。30局目でスパスキーが投了し、フィッシャーは自身の基準で世界チャンピオンに復帰
米連邦大陪審がフィッシャーの起訴を決定し、フィッシャーはユーゴとハンガリーの国境の小さな町に滞在していたが、何とかブタペストに移動

第13章     流浪する魂
ハンガリーに滞在中、ラジオで反ユダヤ発言をして問題に。その後親しい女性のいるフィリピンと日本を行き来する。9.11時の反米発言が波紋を呼ぶ
ユダヤ人を貶める発言を繰り返していたため、イスラエルの過激派やモサドからの攻撃にも用心しなければならなかった
フィッシャーは、「自分には一般化する権利がある」類型化を好む傾向があるとして、「悪い人」はJewであり、「いい」人はユダヤ人であってもJewではないと言い張った
チェスの名人にはユダヤ人が多く、匿ってもらったり親切にしてもらったりしたが、彼等の前でも言動は変えようとしなかった
8年余りのハンガリー生活で、ツィタを含め親しかったチェス仲間のすべてを失い、たくさんのユダヤ人を貶める増悪本を読んだ
「フィッシャー・ランダム」という新しいチェスをやり始める
93年アメリカ映画『ボビー・フィッシャーを探してInnocent Moves』が公開され、大評判となる ⇒ 天才チェス少年を追った実話で、フィッシャーのアイスランドでの偉業がきっかけで作られ、アカデミー賞にもノミネートされたが、フィッシャーはその話を聞いて激怒。映画も、野心的なタイトルが仇になって客入りは期待したほどではなかった
米当局の追求がないのを知ってあちこちの国に旅行、97年にはパスポートの期限が来て、スイスの米大使館に出向いたが、何の問題もなく10年延長を確保するも、母が亡くなった時の葬儀にはさすがに参列できなかった
異文化の中で、フィッシャーの妄想は年を追うごとにひどくなってきた
2000年訪日、交流のあった日本チェス協会会長代行の渡井美代子の招きに応じたもので、大田区の池上に住んで3か月の滞在期間が迫るとフィリピンに行き、自分の子どもを生んでくれる相手を探し、また戻るという生活を続け、ついに娘を授かる
9.11では、フィリピンの放送局からの電話インタビューに応えて、被害を受けたアメリカを全面的に攻撃するコメントをし、それがノーカットでネット上に流されたため、世界中の怒りを買う

第14章     成田での逮捕
パスポートの無効を理由に成田で逮捕されたフィッシャー。救出に奔走する渡井と結婚する。釈放されるが、絶望が彼を包み込む
フィッシャーは、逃亡生活を通じて、まともな判断力が衰えつつあり、自分自身を見失っていた
9.11の発言が、アメリカ政府による新たな調査を招く
03年税関でパスポートのページを追加してもらう必要があると言われ、この時もスイスの米大使館で何の問題もなく増ページしてもらうが、その直後に米司法省から国際緊急事態経済権限法に基づきパスポート取り消しの旨の手紙が発出されるが、フィッシャーには送達されないまま、04.7.成田を出国しようとして逮捕・拘束
渡井の尽力で「フィッシャーを救う会」が組織され、まずアメリカに移送されないために市民権放棄を画策するが相手にされず、次いで政治難民としての日本滞在を主張したがこれも却下、受け入れてくれそうな国を探して連絡をとる ⇒ 1972年の偉業が伝説化していたアイスランドでもフィッシャーの頭文字をとった「RJF委員会」が立ち上げられ、釈放に向けた働きかけが行われた
問題はフィッシャー自身の信用で、収容所からも通話時間に一切制限のなかった公衆電話を使って反ユダヤ、反米の発言を繰り返し、ネットで世界中に伝えられていた
渡井と収容所で結婚式を挙げる ⇒ 偽装とも言われたが、日本での永住ビザ取得の助けになることを狙ったことは渡井も認める
フィッシャーは、アイスランドの外務大臣宛に在留許可を求め、直ちに許可されたが、日本の裁判所は受け入れず
日本でも国会議員が救出の手を差し伸べ始め、社民党の福島瑞穂党首が法務大臣の南野知恵子を批判し、考え直すように訴える
05.3. アイスランド議会がフィッシャーに市民権を与える法律を400、棄権2で可決、日本も釈放に同意、漸く10か月の収監生活から解放される

第15章     氷の国の終着駅
行き場のないフィッシャーの受け入れ先となったアイスランド。しかし晩年の彼は、アイスランド人にも悪態をつき、医者嫌いのまま病に蝕まれてゆく
チェスの試合のオファーを断り、マスコミからの追いかけからも避けて静かに暮らす
スイスの銀行が、アメリカ国税庁からの非難もあって、口座の解約を通告
プライバシーを強く求める一方で、幼少期から続く注目への渇望があり、常に憧れの的、注目の的でありたかった
2年もすると、アイスランドの人々に対する不満を口にし始め、ヨーロッパが恋しかったし、ヨーロッパの友人たちが懐かしかったが、捕まって強制送還されるのを恐れて、国外に出ようとしなかったため、余計に島国に閉じ込められたような錯覚を抱くようになる
スパスキーとの再々戦が仕組まれたり、カルポフとの試合で賞金総額が14百万ドルというのもあったが、いずれも話し合いだけで終わる
フィッシャーが日本で不当に勾留されたことを題材としたドキュメンタリーの制作を巡る映画の内容と金銭上の問題を契機に、親しく付き合ってくれたアイスランド人とも人間関係の亀裂が入り、1人と気まずくなると、すべてのアイスランド人が裏切り者だというようになり、アイスランドのことを「神に見捨てられた国」、アイスランド人のことを「特別だ、ただし否定的な意味で」と言い放つ
医者嫌いのフィッシャーが痛みに耐えきれずに医者に行ったのは07.10.、血液検査の結果尿路が詰まっていて、腎機能も低下していることが判明したが、ワールドワイド・チャーチの教えに立ち戻って人工透析どころか薬の服用も拒否
08.1.死去。享年は、チェス盤のマス目と同じ64

エピローグ
スパスキーは、フィッシャーを好敵手としてばかりでなく弟のように「愛している」と公言、フィッシャーの死を「私の弟が死んだ」と思いの深さを表現した。92年の対戦も、フィッシャーにチェスの世界に戻ってきてほしいと願って受けているし、チェスを超えた真の仲間意識があり、元世界チャンピオン同士、互いに荒んだ孤独を抱えているのが分かるのだとスパスキーは思っていた
自分の死まで支配したがったフィッシャーは、最後に世話になったチェス仲間に、自分の「敵」は1人も葬式に参列させるなと言い、自分を食い物にしたもの、自分と反目し合った者たち、特に記者とカメラ、物見遊山の観光客は絶対に来させないよう頼んだため、RJF委員会のメンバーが最後の敬意を表せないと知れば深く傷つくことを知りながら葬式に呼ばなかった
遺産については、珍しく遺書を残さず、1992年の対戦で得た賞金の残り約2百万ドルを巡って4人が正当な相続人を名乗る ⇒ 妻・美代子、姉の2人息子、フィリピン人との間の8歳の娘。そこに20年分の税金を取り戻すべく米国政府も加わる。アイスランドでは子供のない夫婦の場合、妻が全財産を相続するが、美代子が提出した結婚証明書にアイスランドが疑義を挟む。娘との関係については、フィッシャーが出征証明書の署名を拒んでいたことが分かりDNA鑑定に持ち込まれたが一致しなかった
最終的に最高裁は美代子との結婚を認めたが、米国政府との間の争いは未決のまま残されており、米国税庁の主張が認められれば遺産は紙屑同然の端金となり、フィッシャーが遺した遺産は一体なんなのだろうかということになる。史上最強のプレイヤーと称されるまでに昇りつめた彼の優秀な頭脳が我々に想起させる畏敬の念だけなのかもしれない

あとがき
何年も前からボビーのことを書いていたが、彼の人生と輝かしくも賛否両論を巻き起こす経歴が思いもよらぬ方向に展開したこと、死後もなお彼について明らかになった事の中に自分の予想がまるで及ばなかったものもあって、彼のそういう変化を理解しようとする試みから、改めて本書を書こうとした
彼の性格の複雑さを理解しようとするばかりではなく、彼の天才ぶりを理解する手掛かりを見つけたい
チェスの本としては初めて、ニューヨーク・タイムズのベストセラー・リストに載ったが、いわゆる「チェス本」ではなく、伝記を目指したもの
2010年春ツィタがフィッシャーからの手紙を競売にかけると聞いて、その写しを手に入れた ⇒ 結婚しようとまで考えたが、片想いに終わり、フィッシャーがツィタに告げた自覚的な一言は、「私は人生のゲームでは負け犬だ」

解説             羽生善治(70年生。棋士、07年チェスの日本国内レイティング1)
チェス界のモーツァルト ⇒ 共通点は、①天才、②天才性を簡単に知ることができる、③別の部分に大きなギャップがある
クイーンはとても強い駒なので、それを無条件に捨てるのは負けに等しいにもかかわらず、13歳の少年が完璧なコンビネーションを読み切って強豪を負かせたことは驚異であり、その内容の衝撃度は計り知れない
ハンガリー滞在中世話になった家の姉妹は、同国の女子チームではなく一般チームのメンバーで、2年に一度行われるチェス・オリンピアードの優勝候補の常連、フィッシャーとのたくさんの対局が実力の向上に一役買ったのは間違いない
以前は2日で1試合が行われ、初日は11の勝負だが、そこから先はセコンド・チームメイトの分析が加わるのでチーム力が勝利の決め手となる ⇒ フィッシャーは圧倒的なチーム力の差を個人で埋めなければならなかった
チェスはいつでも合意すれば引き分けにして、次の戦いのために体力を温存できるが、フィッシャーはその面でも不利
グランドマスター同士の戦いでは、先手の白が勝ちを目指し、黒が引き分けを目指すケースが多く、白が引き分けを目指したときに黒で勝つのは至難
フィッシャーが提案した試合数無制限の10勝先勝ルールは、恐ろしいルールで、もし実現していたら何十局かかるかわからない ⇒ 198485年のカルポフ対カスパロフの試合は、試合数無制限6勝先勝ルールで行われカスパロフが初勝利を挙げたのは32局目、結局カルポフ5勝、カスパロフ3勝、40引き分けでマッチは延期となった



完全なるチェス天才ボビー・フィッシャーの生涯 []フランク・ブレイディー
謎多き流転の人生、棋譜のように記す
 稀代の天才チェスプレイヤー、ボビー・フィッシャーは奇人とも言われがちな人生を送った。ともかく謎が多い。平気で都合何十年も世界から姿をくらました。そして9年前、実は日本にも長く滞在していたことがわかった。成田空港で逮捕されたからである。
 本書は空白の多いボビー・フィッシャーの歴史を綿密にたどり、出来る限り内面に迫ろうとした本だ。誰もわかり得なかった履歴をよくもここまで調べ上げてくれたものだと驚かされる。
 母親レジーナがホームレスの状態で産み落とした男児、ボビー・フィッシャーは6歳の頃、姉から1ドルのチェス盤を買ってもらい、自分自身と対局を重ねていく。
 やがて棋譜の本を手に入れたフィッシャーは、なんと1年後、有名なチェスクラブに会員として認められる。7歳児が、だ。前代未聞のことであった。
 そこからの驚くべき栄光は本書でつぶさに追って欲しいが、彼は29歳にして当時ソ連のスパスキーと死闘を繰り広げ(試合の条件に関してもフィッシャーは細かく闘争し、なかなか会場のアイスランドに行かなかった)、ついに世界チャンピオンとなる。
 しかし3年後、彼は世界チェス選手権の条件に異議を唱え、王者の称号を放棄。そこから20年近く、隠遁生活に入ってしまう。同時に自分にもユダヤの血が入っているはずなのに、徹底的な反ユダヤ主義者になり、過去の試合の過程から反ソ連主義者になる。
 政治を意図せざるか否か、突然フィッシャーは1992年、20年の沈黙を破って再びスパスキーと対戦。彼は49歳であった。しかし試合の場所がセルビアであり、ユーゴ紛争においてある種の政治勢力の宣伝になりかねなかった。
 試合はアメリカ政府から禁止される。だが、フィッシャーは意に介さない。チェスは行われる。以来、彼は母国の敵として追われる。大統領令を破った者として。
 その後また始まる流転の中で、フィッシャーがどのような生活を送っていたのか、日本滞在も含めて筆者はその死までを愛情をもって書き記す。まるで長いゲームの棋譜のように綿密に。
 だが、これを読み終えた者はより深い疑問へと導かれるだろう。
「彼の生き方はわかった。だが、なぜそうだったのだろう?」
 それはまるで、チェスのプロブレムのようである。何手かで詰む問題。考えれば考えるほど、我々はチェスの奥行きに魅了され、脳の働きが拡大するのを実感する。
 理解しがたい人生。しかしそれを何らかの信念と共に生きた者がいる。ボビー・フィッシャーはいまや、他者を考えるための、ひとつのプロブレムである。
    
 佐藤耕士訳、文芸春秋・2625円/Frank Brady 34年、米国生まれ。60年に編集者として「チェス・ライフ」誌を創刊。若き日のフィッシャーを始め、バーブラ・ストライサンド、オーソン・ウェルズなど多くの著名人の評伝がある。


Wikipedia
ボビー・フィッシャーBobby Fischer194339 - 2008117)は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ生まれのチェスプレーヤーチェス世界チャンピオン1972 -1975)。本名、ロバート・ジェームス・フィッシャー (Robert James Fischer) 。「米国の英雄」あるいは「幻の英雄」とも呼ばれる。チェス960も考案した。
あえてタイトルを放棄したり、試合を拒否したり、あるいは長年にわたり身を隠したりするなど、その謎めいた人生、数奇な人生という点でもよく知られている人物である。

来歴・人物[編集]

母親のレジーナ・ウェンダー・フィッシャーは当初ハーマン・J・マラーに秘書として雇われたが、マラーに才能を見いだされ医学を学ぶように進められた。父親のハンス・ゲルハルト・フィッシャーは、招聘されマラーと共にモスクワの大学へ行った生物物理学者である。二人はモスクワで結婚し、娘のジョーンが生まれた。しかしソ連で反ユダヤ主義が広がり出すと、ユダヤ人の二人はパリへ移住した。後にレジーナは離婚し、国籍を持っていたアメリカへ子供を連れて移住するが生活は苦しくジョーンを父親に預けていた。またシカゴの病院でロバートを出産したときにはホームレス同然だった。出生証明書にある父親の記入欄にはハンスと記載されているが、ハンスは生涯アメリカに入国したことはなかった。
ロバートが6歳のとき、落ち着きのない彼を静かにさせるため、姉は1ドルのチェスセットを与え簡単なルールを教えた。そこですぐにチェスの虜となった。
1957にはインターナショナルマスターとなり、翌年グランドマスターとなる。だが、1962国際舞台から引退した(但しアメリカ合衆国内の大会には出場した)
プレースタイルにフィッシャーならではのものがあり、1956の対ドナルド・バーン戦でクイーンをわざと捨てることで勝ち、1963の対ロバート・バーン戦でもナイトを捨てて勝った。フィッシャーはしばしば「天才」と呼ばれるようになっていた。
1966復帰。1968再度引退。
1970のソ連対世界戦で再びチェス界に復帰した。1971の挑戦者決定戦ではソビエト連邦マルク・タイマノフ60で完勝し、さらにデンマークベント・ラーセンにも60で完勝した。前世界チャンピオンのチグラン・ペトロシアン513引き分けで勝ち、当時の世界チャンピオン、ボリス・スパスキーへの挑戦者となった。
1972レイキャヴィークで行なわれた世界選手権で、ボリス・スパスキーを破り世界チャンピオンとなった。当時、世界は冷戦のさなかであり、ソヴィエト連邦は第二次世界大戦以降、チェスのチャンピオンのタイトルを独占しつづけていたので、アメリカ側・西側から見てこれは歴史的な勝利となり、「米国の英雄」として扱われた。
その後、反ユダヤ的な発言が目立つようになった。
1975、防衛戦の運営をめぐり国際チェス連盟と対立し、アナトリー・カルポフと戦わなかったことで不戦敗とされ、タイトルを剥奪された。一説には自分からタイトルを放棄したとも。それ以来、フィッシャーは試合を拒否するようになった。その後何十年もの間表舞台から離れ、隠遁生活と言えるような生活を送り、世間から見るとすっかり消息不明となった。フィッシャーは「天才」であるのと同時に「変わり者」だとして語られるようになっていった。
ただし途中で一度、表舞台に出てきたことがある。1992ユーゴスラビアでスパスキーと再現試合を行なったのである。フィッシャーは試合前に、米国当局から「試合に参加するな」との手紙を受け取ったと公表した(米国政府はボスニア問題に絡んでユーゴスラビアに対して経済措置をとり、米国人が同国において経済活動をすることを禁止していた)。フィッシャーはこの試合に見事勝利し、300万ドル以上の賞金を得た。米国は「ユーゴスラビアに対する経済制裁措置に対する違反だ」として起訴し、フィッシャーのアメリカ国籍を剥奪した。フィッシャーは後に「この起訴は反ユダヤ的発言と反米発言に対する政治的迫害である」と語った。フィッシャーは再び表舞台から姿を消し、消息不明になった。
公にはならなかったが、フィッシャーは10年以上にわたりハンガリースイス香港マカオ韓国など、世界の様々な場所を転々としていて、2000年ごろまでにはフィリピンと日本が主たるホームベースになっていたという。
2004714日、成田空港からフィリピンへ出国しようとしたところを入国管理法違反の疑いで東京入国管理局成田空港支局に収容された。世界中で、フィッシャーが久しぶりに表の世界に登場したとニュースが駆け巡った。同年8月、かねてより親交のあった日本チェス協会事務局長の渡井美代子と結婚を宣言した(“2000年来 彼女の家で同居し「事実婚」だとされた。入籍はしなかった)。Timesの記者に対して、渡井はふたりは普通に生活していると言い、フィッシャーは日本の生活に良く馴染んでいる、と言ったという。そしてフィッシャーは、医薬品や医者に頼ってしまうよりも温泉で癒すほうを好む、自然な発想の持ち主だ、と渡井は語ったという。
その後、アメリカ政府は身柄引き渡しを要求したが、米国を憎むフィッシャーはそれを拒否していた。パスポートが失効した状態で、なおかつ他国での市民権も確保されていない状態で、フィッシャーにどのような状況打開策が残されているのか、非常に不透明な状況になった。各地でフィッシャーを支持する人々がこの状況を何とかしようとした。例えばボビーの父親の古郷でフィッシャーが国籍を取得できる可能性もあると思われた。ドイツなどでも、フィッシャーの国籍確保のために運動を起こす人々がいた。日本でもフィッシャーを守ろうとする人々が現れ、羽生善治民主党榛葉賀津也社民党福島瑞穂といった人々の運動が功を奏し、200412月、アイスランド政府がフィッシャーに対して市民権を与える措置をとり、拘束から約8ヵ月後の2005324日、日本政府はフィッシャーのアイスランドへの出国を認め釈放した。以後はアイスランドに滞在し、200811764歳で死去した。
フィッシャーが滞在したロイガルダイリル教会(200712月)
フィッシャーの墓(アイスランド南部、セールフォスのロイガルダイリル教会、20097月)
フィッシャーの死後、フィリピンの女性で「自分の子供(女の子、フィリピン国籍)の父親はフィッシャーだ」と主張する女性がいたが、墓を掘り起こしてのDNA鑑定の結果、その子の父親はフィッシャーでないことが判明した。アイスランドの裁判所は渡井美代子がフィッシャーの遺産(遺品)を相続することを認めた、という。

著書[編集]

·         My 60 Memorable Games (Batsford, 2008) ISBN 978-1-906388-30-0
·         水野優訳『ボビー・フィッシャー魂の60局』(評言社、20115月)上記の邦訳 ISBN 9784828205540
·         東公平訳『ボビー・フィッシャーのチェス入門』(河出書房新社197412月)ISBN 4309260349

参考文献[編集]

·         フランク・ブレイディー著、佐藤耕士訳『完全なるチェス』(文藝春秋20132月)ISBN 9784163760407 - 親交のあった友人による評伝
·         ジョージ・スタイナー著、諸岡敏行訳『白夜のチェス戦争』(晶文社197811月)ISBN 4794955758ISBN 9784794955753 - ボリス・スパスキー戦のレポート
·         ブルース・パンドルフィーニ著、東公平訳『ボビー・フィッシャーの究極のチェス - 創造的で、大胆で、驚くべき革命的な珠玉の戦術 101』(河出書房新社、199510月)ISBN 4309262570
·         「チェス名人『日本で拘束』の謎 - 逃亡者 伝説の男ボビー・フィッシャーが日本で送った奇妙な4年間」『ニューズウィーク日本語版』200481118日号 阪急コミュニケーションズ 19(31) (通号 918)1819
·         羽生善治「『伝説のチェス王者』フィッシャーを救え」『文藝春秋200411月号 82(15)218225



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