円朝ざんまい-よみがえる江戸、明治のことば 森まゆみ 2006.12.2.
2006.12.2. 円朝ざんまい-よみがえる江戸、明治のことば
著者:森 まゆみ、1954年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。作家。地域雑誌「谷中、根津、千駄木」編集人。趣味は、人の話を聞くこと。
発行日:2006.10.10. 初版第一刷
発行所:平凡社
三遊亭円朝 1839.4.1.江戸湯島切通町(通称根性院横丁)で生まれる。本名出淵次郎吉。父は音曲師橘家円太郎。母すみは夫を亡くして実家に戻っていた。
1845 初高座。芸名小円太。
1846 2代目三遊亭円生に入門
1855 初代円生の墓前で三遊亭再興を誓い、三遊亭円朝を襲名。夏には真打となる。
30台ではや名人といわれた
1900.8.11. 脳髄炎にて没、享年62歳。
近代不世出の噺家三遊亭円朝の残した落語の舞台を辿った紀行文
谷中三崎坂中腹にある普門山全生庵(円朝のお墓がある) ⇒ 1883年旧幕臣の山岡鉄舟が開いた寺。鉄舟が、名人とも言われた始めたころの円朝の話を聞き、「お前の話はうまい、が、舌で語るから話が死んでいる」と批判。円朝は悔しがって、それから2年鉄舟について禅を学び、ようやく「今日の話しは生きておるぞ」と言われるようになって喜んだという。
役者は体をなくして初めて名人となる、噺家は舌をなくして初めて名人という、それで円朝は鉄舟に「無舌居士」と号をつけてもらった。このとき円朝は喜んで以下を詠んだ。
閻王に舌を抜かれてそれからは 心のままに偽もいわるる
「指物師名人長二(円朝の作では長治)」
指物師 ⇒ 座敷道具、箪笥、仏壇のあつらえ
長二が、仕事が一段落して訪れたのが湯河原
当今は、土肥次郎実平の出たところ。土肥次郎実平とその子遠平はこの辺りの豪族、1180年、石橋山の合戦で負けた源頼朝を助け、源氏再興に功があった。その城跡もあり、城願寺に墓がある。
五所神社前の大楠、根回り15,6メートル
温泉宿は湯屋(加藤広吉)、藤屋(加藤文左衛門)、藤田屋(加藤林平)、上野屋(渡辺定吉)、伊豆屋(八亀藤吉)などで、当今は伊藤周造に天野某などという立派な宿も出来た
源泉上野屋 ⇒ 木造5階建て、以下の中にある「儘根の湯」がここにあたる
温泉は川岸から湧き出しまして、石垣で積み上げてあるところを惣湯といい、追々開けて、当今は河中の湯、河下の湯、儘根の湯、下の湯、南岸の湯、川原の湯、薬師の湯と七湯に分かれて、内湯を引いた宿が多くなった。
湯の温度は163℃乃至105℃くらいで、打撲金瘡は勿論、胃病、便秘、子宮病、僂麻質私などの諸病に効能があると申します。
温泉の発見者は大抵が狐狸の類、鹿の湯、熊の湯、動物が創を癒しているのを見て漁師が浸かる。なるほど効くというので温泉場が大いに開けていく。湯河原はタヌキの発見だという。
西は西山、東は上野山、南は向山、北は藤木山という山で囲まれている山間の村で、総名を本沢と申して、藤木川、千歳川などいう川が通っております。この藤木川の流が、当今静岡県と神奈川県の境界になっております。千歳川の下に五所明神という古い社があります。この社を境にして下の方を宮下村と申し、上の方を宮上村と申すので、宮下の方は戸数八十余、人口五百七十ばかり、宮上村は湯河原のことで、此の方は戸数三十余、人口二百七十ばかりで、田畑が少なうございますから、温泉宿の外は近傍の山々から石を切り出したり、炭を焼いたり、種々の山稼ぎをいたして活計を立っている様子です、此所から小田原まで五里十九丁、熱海まで二里半余で、何れへまいるのにも路は宜しくございませんが、温泉のあるお蔭で年中旅客が絶えず、なかなか繁昌をいたします。
日露戦争の時は傷病兵を癒すために軍隊から指定されたが、それ以降繁昌するようになった
文人に愛された温泉場としても有名 ⇒ 事蹟を集めた万葉会館2階の郷土資料室 ⇒ そこの年表の先頭に明治25年9月、三遊亭円朝の名がある。
蓄音機 ⇒ 音を蓄えるというところから、世辞を貯めて売る商売を思いついた噺
浅草見附 ⇒ 江戸36門の1つ。1636年設置。奥州・日光街道が通り、浅草観音の参詣路にあたる。明暦の大火後、吉原が浅草の奥に移ってからは、観音参りにかこつけて遊郭へ上る客で賑わった。柳橋へかけての船宿はこの頃出来、猪牙(遊び人の乗る小船)で吉原へ繰り込むのは粋人に好まれた
身延山 下部温泉 「古湯坊源泉館」 混浴だが、女性に限り清潔なガーゼの大タオルを貸してくれる
上州の養蚕の話 ⇒ 「桑の海、工場の烟、機の音」というのは、上州の景色を述べたもの
上州は米が取れない、桑は肥沃でなくともよく水やりもそう必要ない
日本書紀に「絁」を献上したと記録にあるほど古い。江戸時代の奢侈禁止令で国内生産はそう上昇しなかったが、長崎貿易では茶と生糸が輸出産品の1、2を競い、折りしもヨーロッパでは微粒子病という蚕の病がはやり、フランスのリヨンを始め絹織物業者も原料の生糸が不足していた。日本からの絹糸が待たれ、明治政府も国策として絹糸の製造に乗り出す。その第一歩として1872年上州富岡に官営模範工場、富岡製糸場を開設。78年には高崎に近い新町にくず糸紡績場も開設、いずれも現存。
現在でも群馬県にはまだ600の農家が蚕を育てているという
養蚕をしない足利は機場
四万温泉 ⇒ 征夷大将軍坂上田村麻呂が発見
関善旅館(現在は「積善館」) ⇒ 創業1694年(元禄7年)、農閑期は混浴。建物が県重要文化財で、円朝や菊五郎が来た時のまま
昭和に建てられた洋風風呂は国の登録文化財
円朝当時の義太夫に、豊竹和国太夫(本名横井市松)というのがいて浅草馬橋に住んでいたが、明治10年頃には既に大家で、この人と娘義太夫の竹本素行(藤田まことの祖母)との間に生まれた絶世の美人が林きむ子(舞踏家、大正3美人の1人、社交界の花形)。
円朝作品のあとを辿り、出来るだけ引いた。その言葉の美しさ、おかしさ、日本語でピタリと表される人情の機微、人の世の悲しみを味わっていただければ本望だ。
円朝のセリフに、「言葉は国の手形さ」というのがある。この「くに」とはたようで独立した文化を持つ日本各所である。「くにの言葉」は国家が押しつけた標準語ではない。山にひだがあり、浜に切れ込みがある。谷一つ、入江一つ隔てても言葉は違うのである。
日本経済新聞書評 2006.11.12.付け
「真景累ケ淵」「文七元結」「指物師名人長二」など、数々の名作落語を生んだ幕末・明治の大看板・三遊亭円朝。彼が実際に取材した創作の舞台を辿り、失われた人情の機微、言葉の至芸に浸る。 文七元結、真景累ヶ淵、塩原多助一代記…近代不世出の噺家、落語の神様がつむぎ出したことばの至芸、失われた人情の機微に浸りきる。 「何でも歩かなければ、実地は踏めませぬ。 」創作の舞台となった東京下町、上州、甲斐、北海道へ…円朝の跡を辿る。 |
闇夜の梅―円朝、来し方の秘話 士族の商法・華族の医者・世辞屋―“開化”を斬新に描く 指物師名人長二―江戸屈指の男ぶり 怪談牡丹灯篭―足のある幽霊 心眼・明治の地獄―夢からさめた話 熱海土産温泉利書―健脚娘、恋の仇討ち 文七元結―江戸っ子の見栄もほころぶ親子の情 七福神―不況もどこ吹く、見事なのんき 怪談乳房榎―不良息子の面影 業平文治漂流奇談―きわめつき、すっきりしたいい男 真景累ヶ淵―こりゃ因果の巡りすぎ 鰍沢―女はこわい 霧陰伊香保湯煙―昔なつかし温泉道 塩原多助一代記・上野下野道の記―「誠実・勤倹・正直」の人を追いかけて 蝦夷錦古郷之家土産・椿説蝦夷なまり―落ちのびた上野彰義隊士 |
コメント
コメントを投稿