東京大空襲 未公開写真は語る  NHKスペシャル取材班/山辺昌彦  2012.9.27.



2012.9.27. 東京大空襲 未公開写真は語る

著者 NHKスペシャル取材班/山辺昌彦(東京大空襲・戦災資料センター主任研究員)

発行日           2012.8.10.
発行所           新潮社

撮影             東方社(カメラマン関口満紀、小山進吾、光墨弘、別所弥八郎)
写真提供        NHK/NHKエンタープライズ 東京大空襲・戦災資料センター
協力             東京大空襲・戦災資料センターほか
東京大空襲・戦災資料センターとは、東京大空襲の惨状を次世代に語り継ぎ、平和の研究と学習に役立つことを願って、4000名を超える方々の募金で設立された、民立・民営の資料センター。2002年の39日、戦禍のもっとも大きかった江東区北砂の地に開館

Ø  東京大空襲 無差別攻撃の記録
空襲は、ごく普通の日本人が直接体験した最もポピュラーな戦争体験。にもかかわらず、空襲に直面した人たちがその時どのような顔をしていたのか知らない
今回偶然入手できた大量の写真にその答えが刻み込まれていた
その写真とは、1944年秋から45年の終戦間際までの間に、陸軍参謀本部の指示で撮影された580枚余りのネガフィルム。それを基に、空襲という体験をもう一度手触りのあるものとして掬い上げてみた
2012.3.18. NHKスペシャル「東京大空襲 583枚の未公開写真」として放送
別途、11枚の写真の背後に秘められた物語を掘り起こし、『ドキュメント 東京大空襲』を刊行

Ø  東京大空襲消失地図
Ø  昭和191124     東京をB29が初めて襲った日  荏原区の民家、工場
東京に最初の空襲があったのは1942.4.18.
44.11.24. マリアナ基地から85機のB29が飛来、本格的な空襲が始まる
100回以上の無差別攻撃
最初のターゲットは、武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所
「撃ちてし止まむ」 大空襲前夜の陸軍記念日 ⇒ 45.3.10.東京大空襲は陸軍記念日(0645年の間祝日)に照準を合わせたと言われる。前年の第39回陸軍記念日には盛大なパレード挙行。「撃ちてし止まむ」は43年に陸軍が打ち出したスローガン

Ø  昭和191127     懸命のバケツリレー    原宿駅前の民家、海軍館、東郷神社
2度目の空襲、被災したのは渋谷区、城東区(現江東区)等。
海軍館は、原宿にあった海軍設立の戦争博物館
東郷神社は、翌年5月の空襲で全焼
銃後の護り 防空訓練 ⇒ 日本最初の防空演習は1928年大阪で実施。40年内務省通達により「隣組制度」設置、防災の単位となる

Ø  昭和19123,4    徹夜の鉄道復旧作業             荻窪陸橋(天沼陸橋)
3日午後の空襲で被災、軍の応援も含め総勢500人を超える人員を出動させ、4日夕刻には中央線の復旧完了

Ø  昭和19123       無差別攻撃の脅威                高井戸第四国民学校
標的が無差別状態に
高井戸第四国民学校は、木造校舎1000坪が全焼
戦時下の子供たち ⇒ 41年小学校は国民学校に変わる。44.6.学童疎開促進要綱が決まり、縁故疎開を促進するとともに、縁故のない初等科36年生の学童を学校単位で集団疎開、45.3.には1,2年生も疎開

Ø  昭和20127       皇都炎上                           銀座界隈
大本営が本土決戦の覚悟を決めた直後、56機のB29が都心の京橋区、麴町区を襲う

Ø  昭和20127       アメリカ軍機墜落                千葉県酒々井町
76機のうち1機「ハレーズコメット」が、船橋上空で陸軍の戦闘機「屠龍」の体当たりを受け酒々井町上空で空中爆発、成田線脇の山林に墜落

Ø  昭和20128       大学も病院も神社も             日本医科大医学、根津神社
飛来は1機だけだが、被害は本郷から荒川まで広範囲に及ぶ

Ø  昭和2042         山里を震撼させた墜落機        西多摩郡吉野村柚木
超空の要塞 B29 ⇒ ボーイングの開発した最新型爆撃機、高度1万メートルを飛行できるようターボチャージャーを備える。7t爆弾を積んで5千キロの航続距離を持ち、中国の成都から北九州爆撃を実施、サイパン、テニアン、グアム基地構築後は日本全土への往復飛行が可能に。当初は、「精密攻撃」を期したが超高度からのため目標を大きく逸れた。そのため、夜間に超低空からの焼夷弾投下に変更。その成果が279機による3.10.の東京大空襲。東京に続いて名古屋、大阪にも飛来、失われたB29は僅か20機。終戦まで57の都市を攻撃、延べ300回、33千機を数え、投下した爆弾の総量は147千トン

Ø  昭和20413,14   ジャンヌ・ダルク像の遺影     雙葉高等女学校、上智大学
大規模空襲により、雙葉の校舎・聖堂全焼、校庭のジャンヌ・ダルク像は焼け残ったがその後盗まれた。避難先を上智としたが、そこも旧校舎が全焼

Ø  昭和2056          焼け跡に生きる                   麴町区九段~神田区須田町
310日以降413日に続いて3回目の大空襲で大きな被害
写真の中の顔に笑顔が戻り始めたのが見られ、人間の強さを雄弁に語り、希望を抱かせる

Ø  昭和2052426 図書館炎上                        慶應義塾大学、泉岳寺
慶應は24日に文学部史学科考古学教室が焼失、26日には図書館・八角塔が焼失
泉岳寺も山門と鐘を残して全焼
恐るべき"絨毯爆撃Carpet Bombing” ⇒ 日本家屋を如何に効率よく燃やすか研究され、ゼリー状の増粘剤を加えた油脂を充填したM69型焼夷弾(ナパーム弾)を使用して、一定区域を無差別に完全に破壊し尽くす皆殺しの攻撃が行われた
燃えやすい木造家屋が密集する下町一帯が「焼夷区域1号」として狙われた

Ø  昭和2056月頃       決死敢闘                           軍需工場の勤労動員学生
半壊した工場での作業が続いている ⇒ 宣伝効果を狙った作為的な写真の可能性もある

Ø  昭和20529       暗黒の灼熱地獄                   横浜
9時過ぎ、517機のB29100機のP51戦闘機が来襲、焼夷弾43万発投下、横浜市は瞬時に焦土と化し、燃え上がる黒煙で真夜のように真っ暗
焼け野原からの再起 ⇒ 終戦翌年4月末には5日間の銀座の復興祭挙行。各地で復興祭が行われ、再起に向けて立ち上がった逞しい姿が写真集にまとめられた

Ø  アメリカ軍の無差別爆撃の写真記録
2011.8. 東京大空襲・戦災資料センターに、約17千点のネガ・フィルムが寄贈された。本書の写真はその一部
東方社は、1941年設立、陸軍参謀本部の下で主に外国向けの写真宣伝物を制作していた団体。木村伊兵衛も一時写真部の責任者として在籍。大空襲による焼失を免れ、4511月には文化社を設立して新たに活動を開始するも1年で解散
写真関係の会社「三景」が譲渡を受け、社屋改築の際にネガ・フィルムを発見し保存、今回寄贈
元東方社の社員を中心に、1970年代になって多くの資料や関係者の証言を集め始めた
かつては東京空襲の写真は警視庁カメラマンだった石川光陽撮影の約500枚しかないと言われていた。その後、写真宣伝の中枢機関だった日本写真公社撮影の東京空襲写真が見つかり、東京大空襲・戦災資料センターに引き継がれ活用されてきた
東方社の写真で注目されるのは、民家、学校、寺院、神社などの施設の被害を重点的に撮影していること。空襲撮影の目的が、記録を残し戦史の資料として将来の戦争の参考にすることだった


ドキュメント 東京大空襲 []NHKスペシャル取材班/東京大空襲 未公開写真は語る []NHKスペシャル取材班、山辺昌彦 

生々しい被災状況、深み帯びる「記録」

 いまも厚いベールに覆われた戦時中の出来事がある。東京大空襲はそのひとつ。死者の正確な数も不明のままだ。理由のひとつに、被災状況を伝える写真がほとんど残されていないことがある。過日、大空襲を収めた写真583枚が発見され、NHKスペシャルで放映された。発掘から放送に至る取材行を記したのが『ドキュメント東京大空襲』、写真を収録したのが『東京大空襲 未公開写真は語る』である。
 ネガは、民家の写真屋の押し入れの木箱に眠っていた。陸軍参謀本部に直属する「東方社」のカメラマンが残したもの。戦時期、「国威発揚」を目的に膨大な写真が撮られていたが、終戦時にほとんどが焼却された。奇跡的に置き忘れられていたのである。
 燃え上がる民家、バケツリレーによる消火、廃墟(はいきょ)に呆然(ぼうぜん)とたたずむ人々……。空襲の日々が生々しく伝わってくる。取材班は、空襲を体験した高齢者たち、またB29の元搭乗員なども訪ねている。空襲は軍事施設を叩くことから「その辺へ」、さらに無差別爆撃へと拡大していく。存在の抹殺。それが東京大空襲だった。
 一枚、印象的な写真がある。九段界隈の、焼け跡の空き地。板を張り合わせた棺の周りを人々が取り囲んでいる。ゲートルを巻いた男が手を合わせ、モンペ姿の婦人が黙祷している。棺の側、セーラー服を着たオカッパ髪の少女が下を向いている。棺に横たわっているのは少女の身内であろう。
 虫眼鏡で、棺に貼られた名札が「出浦よし江」と読めた。この手がかりだけで、取材班は少女を捜し歩く。もう少女は故人となっていたが、戦後、2人の娘に空襲のことを語り継いでいた。棺に入っていたのは、焼夷弾の直撃を受けた、当時17歳の姉だった。
 撮影者は光墨弘。従軍カメラマンとして南方を転戦し、終戦間際、空襲を撮った。彼も亡くなっていたが、息子がフリーカメラマンとなっていた。父は息子に自分史を語ることはなかった。「酒びたり」「カメラを質屋に」……子に残る父親像である。この一枚を見せられ、息子はつぶやく。
 「ちゃんとこういう写真も撮っていたんですね……
 戦後、東方社で活動したカメラマンたちは戦時下の仕事を黙したままに生きた。戦争に負けたからではあるまい。語るに値する仕事ではなかったからだ。だが、この一枚は——
 両書から伝わってくるのは「記録」の力である。一枚の写真が、糊塗も粉飾もできない、戦争の事実を直截に伝えている。そして、記録に〈物語〉が埋め込まれているとき、記録はより深みを帯びて読み手に迫ってくる。
    
 『ドキュメント東京大空襲』1470円、『東京大空襲 未公開写真は語る』1890円、どちらも新潮社。
 NHKスペシャル「東京大空襲 583枚の未公開写真」は3月18日に放送された。山辺昌彦氏は「東京大空襲・戦災資料センター」主任研究員。

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