台湾海峡一九四九   龍應台  2012.9.1.


2012.9.1. 台湾海峡一九四九  
大江大海1949  20098月刊行

著者  應台(りゅうおうたい) 女流作家、評論家。1952年台湾高雄県生まれ。父は193718歳の時南京空襲に遭い命拾い。母も大陸で日本軍の空襲に焼き出された。74年成功大学外国語学部卒。82年カンザス州立大英米文学博士号取得。85年『中国時報』紙上に掲載された戒厳令下の台湾社会を鋭い筆致で批判した評論『野火集』が大きな反響を呼び(野火現象と呼ばれる)台湾出版界空前のベストセラーに。9903年台北市文化局初代局長。12年行政院文化建設委員会主任委員に就任、文化省昇格により初代大臣
本書は、中国では禁書となったが、海賊版が売れている

訳者 天野健太郎 1971年愛知県生まれ。三河人。京都府立大文学部国中文専攻卒。2000年より国立台湾師範大学国語中心、国立北京語言大学人文学院に留学、帰国後は中国語翻訳、会議通訳者

発行日           2012.6.20. 印刷               7.5. 発行
発行所           白水社

本書は文学であって、歴史書ではない。文学だけが、花や果物、線香、ろうそくと同じように、痛みに苦しむ魂に触れることが出来ると信じる。この本が、そう時代に虐げられた命に捧げられることを、畏敬と感謝と共に願う

プロローグ     私たちを守ってきた街路樹――19歳の息子に語る家族の歴史とあの時代
両親なんて街路樹程度の存在
息子に家族の歴史を知りたいと言われて、初めて家族の過去を真剣に振り返ってみた
同時に、当時の記憶が忘れ去られないうちに、数多くの経験者を探し当ててインタビューした内容を克明に記録している

第1章     手を離したきり二度と――父と母の漂泊人生
国民党軍の海南島からの本格的な撤退が始まったのは505
浙江省の繊維問屋の娘に生まれた母は、海南島で生まれたばかりの赤子を抱いて、江蘇省で憲兵隊隊長をしていた夫とは離れ離れのまま台湾にわたり、高雄で野菜を売って糊口を凌ぐ。あとから台湾に渡って来た父は高雄の港湾警察の警察官となる
父は1919年湖南の農村生まれ。苦学して国民軍に入り、18歳で第2次上海事変、南京攻略戦に憲兵隊の一員として遭遇、大半が戦死する中を生き残り、広州の空港の守備隊へ。

第2章     弟よ、ここで袂を分かとう――少年たちの決断
1949年 共産軍に追われた国民党軍と一般市民は、青島や沿岸の港から台湾へ
湖南の学生は南へ逃避行、軍と共にベトナム国境へと退避、国境でフランス軍に投降、以降3.5年収容所生活を送る ⇒ 武装解除されたが、軍楽隊の楽器は供出を免れ収容所内では国家が歌われ、行進曲が演奏され士気を高める歌声が途切れることはなかった
フランス駐屯地に「中山堂(孫文記念堂)」が建設され、生き残った豫劇役者によって公演が行われた ⇒ 当代豫劇の名優もそこで育てられた
豫劇:中国の伝統的な古典演劇である戯曲(歌劇の一種)1つ。京劇、評劇、越劇、黄梅劇、と並んで、中国5大演劇とされる。元は豫州(現在の河南省)で、明朝末期から清朝初期にかけて始まったとされる
1953年 米仏と中華民国の外交交渉がまとまり、内戦によって海外に捨て置かれていた国民党軍と難民、学生は、ハイフォン港から高雄に移された ⇒ 現国防大臣もその中の1
香港に流れ着いた難民 ⇒ 大戦終結時日本人が撤退した後には60万人しかいなかった(百万人が避難)ところに百万単位の難民が流入(51年には2百万人超がいた)。戦争の被災者と、蒋介石とともに台湾に渡ることを望まない要人も数多くいて、臥龍窟の観を呈していた。無人の荒野だった悪魔山の収容所(九龍半島の東端の吊頸嶺(首吊り山)のことで、現調景嶺(見晴らし山))に送られた。香港人には皆一様に心の奥底に、それぞれの漂泊の身の上話を隠し持っている ⇒ 白先勇(作家)、林百里(ノートパソコン生産台数世界一の広達電脳の創始者)、馬英九(台湾総統)なども難民の中にいた
「自由中国運動」(第三勢力) ⇒ CIAが香港に避難していた共産党とも蒋介石とも相容れない人材を糾合して、台湾とは一線を画した反共の遊撃隊を組織、若者をサイパンで訓練して出身地に落下傘で投入したが、朝鮮戦争の終結とともに終息
1949年 香港に新亜書院設立 ⇒ 錢穆が難民教育の場として設立(香港中文大学の前身)、多くの若者を世に送り出した

第3章     私たちはこの縮図の上で大きくなった――名前に刻み込まれた歴史
華人の名前には往々にして地名が入っていて、名付けられた人の出生を記している ⇒ 台湾生まれに多い「台生」という名前も台湾生まれそのもの。名付けた動機は、自分たちが一時羽を休めただけの、しかもたまたま子供が生まれてしまった場所を記念するため。著者の「應台」のほか、「麗台」「台麗」「利台」も同じで、両親は中国の内戦を逃れて台湾に流れ着いた人々と見て間違いない。「港生」は香港生まれで、ジャッキー・チェン(中国語名「成龍」)の本名は「陳港生」で、まさに父親が香港に流れてきて作った子供
台北の中心地167㎞四方の道路名は、中国の縮図 ⇒ 東西南北それぞれに該当する本土の地名(南北の道路には省名が、東西には都市名)が充てられているが、国民党が逃れて来てから付けたのではなく、日本の敗戦後南京国民政府が各地方自治体に対して発布された日本に縁の名前を一掃する指示に呼応して命名されたもの。ただし、日本人の都市計画には道路名はなく町名にしか使われなかったため、台北の道路名は新たにその時命名されたもの ⇒ 上海から来た建築家が上海の道路の命名に倣ってつけた。もともと上海では英米租界が合併し共同租界になったのを機に各地区の道路名を統一することになったが、各国の勝手な主張を排除するために中国の地名を道路名にしたもので、白人同士の内輪もめによって図らずも上海の道路地図が1枚の中国地図となった
国民党政権が崩壊した時、大陸反攻の基地として台湾に撤退して以来、「国土の奪還」が何より崇高な教義となったが、台北の道路は都合のいいことに完全な「国土地図」であり、この新しい歴史的運命をすんなり受け入れることとなった
1947年 国共内戦の最初の大規模戦闘が行われたのは吉林省の徳恵
東北地方がまだ満州国だった頃、多くの台湾人が出稼ぎに来ていた ⇒ 医者、技術者中心に5千人ほどいた

第4章     軍服を脱げば善良な国民――包囲戦という日常
長春(満州国首都新京)を訪問 ⇒ ソヴィエトが大戦末期侵攻、占拠した後、真っ先に手を付けたのがハルピン、長春、瀋陽などの中心地での自国軍戦没者の記念碑の建立
長春包囲戦 ⇒ 1948年の7か月間、林彪の解放軍が長春を「死の街にしむる」覚悟で完全封鎖、47万の国民党軍が全滅、80120万人の人口が17万人に減少、大半は餓死者で、南京大虐殺の死者を上回るにもかかわらず、「無血開城」として記録されただけで、地元でもこの史実が知られていない
従軍していた多くの愛国青年は、志願するときに自分の姓名を変えていたので、戦死しても家族に知らせようがなかった
民間人が多数徴用され、苦力のみならず弾除けにも使われ、多数が死んだ

第5章     われわれは草鞋で行軍した――1945年、台湾人が出迎えた祖国軍
後に『上海日記』を書いた堀田善衛は45.8.11.上海の大通りにたくさんの青天白日満地紅旗が翻るのを目にする ⇒ 10日に日本がポツダム宣言を受諾したのを知った地下組織の仕業で、国旗ばかりか勝利のビラまで印刷されていたりあまりの速い反応に驚く
大戦中日本のために犠牲となった台湾の若者は合計30,304人、軍夫・軍属あるいは「志願兵」として中国や南方に送られ苦役に従事したり戦闘に参加したりした台湾人は20万に上る
終戦の日、いつ生まれたかで反応がまるで違う ⇒ 祖父は「解放」されたと思い、父は「敗北」だと項垂れた
満州にいた台湾人は、早々に撤退した日本軍から見放され、ソ連の次は八路軍、さらにその後には国民党軍、最後に共産党軍と相次いで襲われ、必死に脱出を試みる
終戦からの半年は、どの埠頭も人、人、人で埋まった
45.9. 国民党軍第七十軍が寧波(にんぽー)接収、翌月には米軍の揚陸艦で基隆へと輸送され台湾の接収に向かう ⇒ 草鞋履き(草鞋を編むのは当時の軍人にとってのいろはであり、箸の持ち方を覚えるくらい当たり前の技術だった)の他装備も貧弱、秩序も規律もなく、到着後たちまちコソ泥の集団と化し、現地では「浮浪者部隊」「乞食軍」と呼ばれた
終戦時、マッカーサーの「満州を除く支那、台湾及び北緯16度以北の仏領印度支那にある日本国の部隊は蒋介石元帥に降伏すべし」との発令により、国民党軍が各地で接収を行った
46年春 日本敗戦を機に東京から台北に帰って台湾大学に通うことにした岩里政男は、基隆港で「乞食軍」を軽蔑する台湾人の前で、「あんな非道い装備で日本人に勝ったのは素晴らしいこと。我々は敬意をもって彼等を見るべき」とぶった。この岩里こそ後の李登輝(23)
台南で祖国国民党軍の到着を歓迎すべく待機していた台湾人の目にしたのは、兵士というより人足の集まりの様な軍隊で、埠頭に整列して迎える日本軍の方が負けたとはいえ遥かに服装も折り目正しく厳粛だった ⇒ 台湾人の「王の軍隊」到来への期待とは裏腹に、国民党軍はあくまで接収に来たのであり、彼等にとって台湾人は被征服民のうちだった。両者の相互不理解は内出血のごとくあっという間に悪化して化膿、わずか14か月後に二・二八事件となって激しい衝突から多くの血が流れた。台湾人にとっては1949以前に1947のほうが衝撃が大きい

二・二八事件は、1947228台湾台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、当時はまだ日本国籍を有していた本省人(台湾人)と外省人(在台中国人)との大規模な抗争。約 40 年後、戒厳令の終了と政府側の遺族への謝罪により漸く終結した。本省人はこの事件を台湾大虐殺と呼んでいる。
1947227日、台北市で闇菸草を販売していた本省人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。これが発端となって、翌228には本省人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。本省人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。
背景 [編集]
1945日本が敗戦した後の台湾には、連合国軍の委託を受けて日本軍の武装解除を行うために大陸から蒋介石率いる中国国民党政府の官僚軍人が進駐し行政を引き継いだ。
当初、少なからぬ本省人が台湾の「祖国復帰」を喜び、中国大陸から来た国民党政府の官僚や軍人らを港で歓迎したが、やがて彼らの腐敗の凄まじさに驚き、失望した。大陸から来た軍人・官僚は国共内戦の影響で質が悪く強姦・強盗・殺人を犯す者も多かったが、犯人が罰せられぬことがしばしばあり、もし罰せられる場合でも、犯人の省籍をマスコミ等で報じることは厳しく禁じられた。また、台湾の資材が中国人官僚らによって接収・横領され、上海の国際市場で競売にかけられるに到り、台湾の物価は高騰、インフレによって企業の倒産が相次ぎ、失業も深刻化した。
比較的不正の少なかった日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい腐敗は到底受け入れがたいものであった。人々の不満は、いやが上にも高まっていった。 当時の台湾人たちは「犬去りて、豚来たる」(犬 [ 日本人 ] はうるさくても役に立つが、豚 [ 国民党 ] はただ貪り食うのみ)と揶揄した。
経緯 [編集]
1947227日、台北市で闇菸草を販売していた女性(林江邁、40 歳、2 人の子持ち寡婦)を、中華民国の官憲(台湾専売局台北支局密売取締員 6 名と警察官 4 名)が摘発した。女性は土下座して許しを懇願したが、取締官は女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を没収したのである。
戦後の台湾では、菸草砂糖等は全て中華民国によって専売となっていた。しかし、大陸ではタバコは自由販売が許されていたため、多くの台湾人がこの措置を差別的と考え、不満を持っていた。タバコ売りの女性に同情して、多くの台湾人が集まった。すると取締官は今度は民衆に発砲、まったく無関係な台湾人(陳文渓)を射殺し、逃亡した。
この事件をきっかけとし、中華民国への怒りが遂に爆発した。翌 28 日には抗議のデモ隊が市庁舎へ大挙して押しかけた。しかし、中華民国側は強硬姿勢を崩さず、憲兵隊は市庁舎の屋上に機関銃を据えて、非武装のデモ隊へ向けて無差別に掃射を行う。多くの市民が殺害され、傷を負った。この後、国府軍は台北以外の各地でも台湾人への無差別発砲や処刑を行っている。
本省人側は国民政府に占拠されている諸施設へ大規模な抗議行動を展開。日本語や台湾語で話しかけ、答えられない者を外省人と認めると暴行するなどの反抗手段を行った。台湾住民の中には日本語が話せない部族もいたが、「君が代」は国歌として全ての台湾人が歌えたため、本省人たちは全台湾人共通の合言葉として「君が代」を歌い、歌えない者(外省人)を排除しつつ行進した。また、本省人側はラジオ放送局を占拠。軍艦マーと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と呼びかけた。
劣勢を悟った中華民国の長官府は、一時本省人側に対して対話の姿勢を示した。しかし、在台湾行政長官兼警備総司令陳儀は、大陸の国民党政府に密かに援軍を要請した。彼は「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒に対し、武力をもって殲滅すべし」との電報を蒋介石に送っている。
蒋介石は陳儀の書簡の内容を鵜呑みにし、翌月、第 21 師団と憲兵隊を大陸から援軍として派遣した。これと連動して、陳儀の部隊も一斉に反撃を開始した。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、その多くは殺害された。また、国民党軍の一部は一般市民にも無差別的な発砲を行っている。基隆では街頭にて検問所を設け、市民に対し、北京語を上手く話せない本省人を全て逮捕し、針金を本省人の手に刺し込んで縛って束ね、「粽(チマキ)」と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだという。台湾籍の旧日本軍人や学生の一部は、旧日本軍の軍服や装備を身に付けて、国府軍部隊を迎え撃ち、善戦した(「独立自衛隊」、「学生隊」等)。しかし、最後はこれらも制圧され、台湾全土が国府軍の支配下に収まるのである。
この事件によって、約 28,000 人もの本省人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたと言われている。実際の被害者の数はさらに多いとの説が今尚根強く存在しており、正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行なわれている。
事件の際発令された戒厳令は 40 年後の 1987まで継続し、白色テロと呼ばれる恐怖政治によって、多くの台湾人が投獄、処刑されてきた。また、内外の批判によって国民党政府が漸く戒厳令を解除した後も、国家安全法によって言論の自由が制限されていた。今日の台湾に近い形の「民主化」が実現するのは、李登輝総統が 1992年に刑法を改正し、言論の自由が認められてからのことである。
その後 [編集]
事件後、関係者の多くは処刑されるか身を隠すか、あるいは海外逃亡を企てた。
後に中華民国総統を務めた李登輝は留学経験者という知識分子であったため処刑を恐れて知人宅に潜伏し、ほとぼりの冷めるのをまった。外国人初の直木賞受賞作家であり実業家の邱永漢は学生運動のリーダーであったが、当局の眼を掻い潜って出航。香港を経由して日本に逃亡した。亡命者の中には反国民党を掲げたものもあったが、当時は東西冷戦の時代であり、反国民党=親共産党とみなされて、日米ではその主張は理解されなかった。
事件収束後も、長らく国民党は知識分子や左翼分子を徹底的に弾圧した(白色テロ)ため、この事件については、長らく公に発言することはタブーとなっていた。
しかし時が経つにつれ、これを話題にすることができる状況も生まれてくる。当初、国民党は台湾人に高等教育を与えると反乱の元になる、と考えていたが、経済建設を進めるに当たって専門家の必要性が明白となり、方針を転換して大学の建設を認めた。
これによって台湾人の教育レベルが上がり、政治意識も向上。その結果、1970 年代には美麗島事件中壢事件などの民主化運動が頻発し、国民党もこれを無視できなくなった。
また、台湾統治が長期化するにつれ、国民党政府が次第に台湾人を登用入党させたため、台湾人は党および政府の権力を漸進的に掌握するようになった。特に、1988年に李登輝本省人として初の総統に就任して以降は、本格的な民主化時代がはじまり、事件について語ることが「解禁」された。
1989年に公開された侯孝賢監督の映画『悲情城市』は二・二八事件を直接的に描いた初めての劇映画であった。この映画がヴェネツィア国際映画祭で金賞を受賞し、二・二八事件は世界的に知られる事となった。
事件当時の証言や告発をする動きもみられるようになり、政府に対する反逆として定義されていた二・二八事件も、現在は自由と民主主義を求める国民的な抵抗運動として公式に再評価されるに至った。台北市には記念公園・資料館が建てられ、被害者を偲んでいる。
なお、二・二八事件については、当時湾共産党中国共産党の指令を受けて、国民党政権を倒すべく民衆の蜂起を煽ったとの説もあるが、これに対し、それは蒋介石が台湾人を虐殺するための言い訳だったという反論もある。
事件の分析 [編集]
国民党がなぜ、このような過酷な手段を採ったのかについては議論があるが、一つには彼らが大陸時代に行った、統治方法をそのまま台湾でも採用した、ということが考えられる。国民党政治の基本は軍隊暗殺団を利用した恐怖政治であり、従わないものは徹底的に弾圧するものだった。その傾向は抗日戦や内戦によって拍車がかけられ、1947年当時にはピークに達していたと考えられる。
また彼らはこの蜂起の背後に中国共産党が糸を引いていたのではないかと疑心暗鬼に陥っており、その疑いは事件後の知識人層への徹底弾圧になって現れる。当時、知識人には共産党シンパが多かったからである(陳水扁マルクス主義を研究したために逮捕された経験があり[要出典]、李登輝も一時期マルクス主義に傾倒していた)。
一方、台湾人は大日本帝国統治下の法治政治に慣れ、それを当然のものと考えていた為、警官や軍隊が群集を無差別に虐殺する事態を想定してはいなかったようである。そのため陳儀が対話姿勢を見せるとそれに応じ、彼に時間稼ぎの余裕を与えることとなった。

第6章     フォルモサの少年たち――捕虜収容所にいた台湾人日本兵
45年末から台湾を接収した国民党軍による兵士募集が始まる ⇒ 応募した少年たちは、言葉も分からない(台湾人にとって唯一の共通言語は日本語、本土の言葉は分からない)まま本土の内戦に連れて行かれ、捕虜となったあとは解放軍兵士として使われ、故郷に戻ることはなかった
その前、大戦中は42年に日本軍による「陸軍特別志願兵」の募集に応じて、1000人の枠に42万の応募があり、一握りの合格者は郷里の誇りとなった ⇒ 開戦当初は前線兵士のための下働きをする「軍属・軍夫」のみで3745年に募集したのは126,750名、42年戦局の悪化に伴い初めて「志願兵」を募集、45年までに80,433人募集
多くは南方に送られ、捕虜収容所の監視員となったもののうち、173名が戦後の裁判で起訴され26人が死刑宣告されたが、イギリス女王の即位で禁固10年に特赦

第7章     田村という日本兵――ニューギニアに残された日記、生き残った国民党軍兵士
「八百壮士」の生き残りの一部が南京の収容所に残っていた ⇒ 監視に当たっていた台湾人日本兵の中に、残虐な2名は後に国民党軍兵士によって探し出されて殺されたが、秘かに薬を盗み出して手当してくれた監視兵もいて未だにその行方を捜している

四行(しこう)倉庫の戦いは、日中戦争中の19371026から111にかけて行われた、第二次上海事変における最後の戦闘。この四行倉庫の守備隊は中国では「八百壮士」として知られており、日本軍の数度の攻撃に耐え、上海戦において中国軍が西へ退却する際の援護を行った。倉庫防衛の成功は、日本の上海侵攻直後で士気阻喪していた中国軍・民衆を慰め、士気を高揚させた。四行倉庫は上海共同租界蘇州河対岸に位置しており、欧米列強の目の前で戦闘が行われることを意味していた。共同租界に向かい合っているため、この地区に流れ弾が着弾して欧米と衝突してしまうことを避けたい日本は、あえて艦砲射撃を要請しなかった。日本軍は、4年後の日本政府の連合国との開戦決定に従うまで、租界を占領することはなかった。加えて、上海の他の場所で行ったように、日本軍は欧米諸国の面前で毒ガスを使用する勇気はなかった。この近接は、蒋介石が日本の侵略行為に対して例え一時的でも世界からの支持を得るため、国際社会の関心を惹きつけた。
イギリス軍は彼らの武器を没収して逮捕することを発表
上海戦の敗北と国民革命軍精鋭部隊の三分の一の喪失に直面したとはいえ、中国人民の士気は高まり、中国が積極的に日本に抵抗するということを列強諸国にはっきり示した。メディアは四行倉庫防衛戦に乗じ、本来の414人を装飾して「八百壮士」と賞賛した。また、人々を抗日戦に駆り立てるための愛国歌「八百壮士歌(en)」も作曲された。しかし蒋介石の期待した外国からの援助が来ることはなく、欧米諸国は日本への非難を口にする以上のことは何もしなかった。
真珠湾攻撃後、日本軍は上海共同租界を占領し兵士たちを捕らえた。終戦時、大隊の生き残り約100人が上海と四行倉庫へ戻ってきた。国共内戦が勃発したとき、彼らの多くはこれ以上戦うことを望まず、民間職業に復帰した。後にガールスカウト楊恵敏を含む何人かが国民政府と共に台湾へ渡り、他方で大陸に残った者たちは、国民党兵士だったという理由で文化大革命時に迫害された。
八百壮士の物語は1938年に同じタイトルで映画化され、その後、1976年の台湾でブリジット・リン主演(楊恵敏役)で再び制作された。

4244年 台湾から数千人の高砂義勇兵がニューギニア、フィリピン、インドネシアなどの送られた ⇒ ジャングルで食べられるものを捜しだし日本兵を救うライフセーバーとして活躍
44.9.2. アメリカ軍の飛行機が父島で撃墜され、搭乗していた9名のうち8名が捕虜、殺され煮て食われた。海を漂流中にアメリカの潜水艇に救助され唯一の生き残りとなったのが41代大統領の父ブッシュ
ブッシュが救助された直後アメリカ軍はインドネシア・モロタイ島に上陸し白兵戦を展開、その中で高砂義勇兵の1人が部隊から離れてジャングルに迷い込み、そのまま逃亡生活に入る ⇒ 1974年地元民の通報で発見されたのがアミ族の「中村輝夫」、台湾に帰った後は「李光輝」
オーストラリア戦争記念館に残る「田村義一」の日記と、遂に投函されることのなかった手紙 ⇒ 宇都宮出身の若い兵隊、43年ニューギニアに派遣され、捕虜たちと同様の過酷な状況に身をさらされていた

第8章     じくじくと痛む傷――1949年の後遺症
馬祖(ばそ)、金門、鳥坵(うきょう)3島はいずれも福建省の沿岸にあるが、中華民国の領土 ⇒ 母に使いを頼まれて大陸への渡し船に乗った人が、午後には海上封鎖で島に帰ることが出来なくなって、爾来50年島に戻ることが出来なかったという話は随所に聞かれる。大陸までフェリーで1時間なのに、勝手に渡るのは国家安全保障法に抵触し、正規のルートは高雄、香港経由で丸1日の行程 ⇒ 現在では大陸と直接の行き来が認められるようになった
自分たちのように、大陸から渡ってきたものは外省人として、スパイ呼ばわりされて差別された経験を持つものが多い

エピローグ 尋ね人――60年前に生き別れた家族を探して
現在でも台湾海峡の向こう岸から尋ね人の広告が途切れることはない

民国100年の増訂版出版に際し「序」をつける
刊行後寄せられたたくさんの手紙から、刊行された後のその後として「進捗報告」を追加
「民国」 ⇒ 中華民国での年号。辛亥革命が成功した翌191211日孫文が臨時大統領に就任した日が元年

訳者あとがき
原題は、「大河、大海」の意、蒋介石国民党政府が台湾へ撤退した49年に、中国という広大な大地(とそれに連なる大海)で荒れ狂った歴史と運命を指示したもの
現在の台湾社会を構築するすべての要素(先住民族、本省人、外省人、先住民族の言語である閩南語、客家語、日本語、中国語)が出そろった1949年を中心に、戦争、内戦という苛烈な社会情勢の中、著者の家族や当時の若者が如何に決断し生き延びてきたかを描き、さらにこの最果てにある島、台湾まで逃げ延びた彼等が60年間、誰にも言えないまま抱えてきた痛みを語っている
本書の特異さは、外省人である筆者が、49年に台湾へ逃れてきた国民党政権(と軍)を、戦後台湾を権力と暴力で支配した強者としてではなく、故郷を失った一人一人の弱者として描いたことにあり、さらに受け入れた側の台湾人の痛みをも描いたことに価値がある










台湾海峡一九四九  []龍應台

[評者]楊逸(作家)  [掲載] 朝日新聞 20120729   [ジャンル]歴史 
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生死と離散の人生、語り始めた兵たち

 ドイツで暮らす、十九歳の息子が兵役により間もなく入営しなければならない。そんな息子に、母親である著者が、一九四九年の「兵隊さん」を語り出す。戦争の渦に巻き込まれた両親をはじめ、至極普通の人々の、台湾海峡を隔てた土地で繰り広げられていた数知れない生死、離散の人生を。感情を煽(あお)るような過激な表現はなく、むしろ抑えめで、落ち着き払った、淡々とした口調で語り出す。
 語る声がしだいに多くなる——疎開学生から志願兵になった者や、軍にさらわれて兵になった者、貧しさがゆえに騙されるようにして少年兵になった者が、著者の問いかけに次々と口を開いたのだ。六十年もの間に胸に重くのしかかっていた十九歳の時の後悔を、これまでに何度語っても、子どもに耳を背けられ、聞こうとしてもらえなかったあの血みどろの時代を、いずれ胸に抱えたまま世を去るだろうとほとんど諦めていた凄惨(せいさん)な歴史の記憶を、声を詰まらせながら語り始めた。
 一緒に国民党の兵隊さんになった二人の幼馴染(なじみ)の少年がいた。うち一人が「解放軍の捕虜となり、軍服を取り替え」、「一八〇度向きを変え、解放軍の兵隊として国民党軍と」戦った。幼馴染が一瞬で敵になった——もう一人の少年も解放軍の捕虜になるまでは。
 「人生はときにどこかで誰かの人生と交差する。しかし偶然の一点で交わったあと、それぞれの方向へと遠ざかり、すべてはぼんやりとした全体に含まれて、消える」。無数の水滴からなる大河が目に浮かんでくる一文だ。辛酸を凝縮した水滴はただただ無言で、著者との出会いを待っていた。
 「戦友はみなラバウルで死んだのに、どうして自分だけが今日この日までおめおめと生きながらえてきたのか、その理由がわかりました」。その一つの「水滴」である李維恂(りいじゅん)は、著者からの取材依頼を受け、そう言った。
 本書は出版後、中華社会で大きな反響を呼んだ。李維恂はラバウルから帰還した戦友の英霊を慰霊祭で迎えることができ、まもなくこの世を去った。ほっとして永眠したのだろう。
 六十数年が経ち、著者のように親から聞いた戦争、あるいはその息子のように教科書の中の数行で教わった戦争しか知らない世代の世になった。が、戦争はこの世から消えたわけではなく、若者に兵役を課す国も多々存在している。
 国とは。戦争とは。そして戦争に巻き込まれ、家族や故郷を奪われた父祖の代の人生とは。
 戦争をくぐりぬけて、命拾いした両親や祖父母が、我々と交わした今の一点から遠ざかっていく前に彼らの語りに、耳を傾けたいと切に思う。
    
 天野健太郎訳、白水社・2940円/りゅう・おうたい 52年台湾生まれ。作家、評論家。85年に評論『野火集』でデビュー。99年から台北市文化局局長、現在は文化省初代大臣。本書は著者の初邦訳。09年に台湾で刊行されベストセラーに。中国では禁書となった。



台湾海峡一九四九 龍應台著 歴史に翻弄された人々を鮮やかに 
日本経済新聞朝刊2012年8月12日付 書評
フォームの始まり
フォームの終わり
 1949年、中国では共産党が内戦に勝って新しい政権を打ち立て、負けた国民党は台湾に逃げ込んだ。この事件を軸として、歴史のうねりに翻弄された人たちの姿を鮮やかに、情感豊かに描き出した好著だ。
 たとえば詩人の管管氏。49年に国民党軍に拉致され強制的に兵隊にされたいきさつが、本人とのインタビューで明らかにされる。インタビューの途中、聞き手の著者がくり返し口にする言葉が切ない。「管管、泣かないで」。話し手の表情が目に浮かぶようで、胸を打つ。
 後に総統となる李登輝氏が、敗戦国となった日本から台湾に戻ったときに見せた「思いやりと度量」。国共内戦の終結からおよそ半世紀の後に大陸に里帰りし、ダムに水没していた故郷を目の当たりにした、著者の母の嘆き――
 有名、無名、様々な人たちが登場し、著者自身も断片的にしか理解していなかったという時代の鼓動を生き生きとよみがえらせる。その筆は時に、東アジアの外にも広がる。浮かび上がるのは歴史の非情であり、著者はそれを糾弾したがっているようにみえる。
 多くの餓死者が出た48年の長春包囲戦は国共内戦のなかでも特に悲惨な戦いの一つだが、世界的には余り知られていない。同じように多数の餓死者が出たレニングラード包囲戦が有名なのと比べ、著者は「どうしてもわからないのだ」と書く。
 本書を内容で分類すれば歴史ノンフィクションだろうが、訳者が指摘するように「単純なジャンルには収まりきれない豊かな作品」であり、そして「めっぽう面白い」。中国語のサイトを調べると、著者は「華人のなかで切れ味が最も鋭い書き手」と評されることがあるようだ。本書を読むとうなずける。
 著者は現在、国民党政権の閣僚をつとめている。ただ本書に党派制は感じられない。あえて本書の政治的な立場をさぐるなら、冒頭の一文がそのすべてだろう。「時代に踏みつけにされ、汚され、傷つけられたすべての人に敬意をこめて」。大陸で禁書になったのは、この「政治的な立場」が最大の理由かもしれない。
(論説委員 飯野克彦)

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