お言葉ですが。。。。 第7巻-漢字語源の筋ちがい  高島俊男  2008.5.11.


2008.5.11.お言葉ですが。。。。 第7-漢字語源の筋ちがい

「週間文春」2001.6.(296)2002.6.(340)掲載分
1.       メル友、買春、茶髪
テレビを見ないで新聞だけに頼っていると、発音の不自然な造語の読みがわからなくなる
メル友は「とも」で、学友は「ゆう」
買春は「売春」とどう違う
髪が「パツ」となるのは、上が撥音()か促音()の場合に限られるはず ⇒ 筆、法、兵等々のハ行の語が下につく熟語は上が撥音か促音の場合、おおむねパ行に変化する

2.       ウマイとオイシイ
男ことばと女ことば ⇒ 「くう」と「うまい」が男ことばで、「たべる」と「おいしい」が女ことばだが、「たべる」の価値が本来の「たまわったものをありがたくいただく」という意義がだんだん忘れられ、単に「食物を摂取する」の意に下降して「くう」の位置を奪ったために、「くう」は押し下げられて「たべる」の粗雑、乱暴な言い方みたいなことになってしまった
「犬が餌を食べる」といって、おかしいと思わぬ人が多い
そこで、「くう」とセットをなす「うまい」も、「おいしい」の粗雑、乱暴な言い方に下落しつつある
「おいしい」は「女房ことば」 ⇒ 室町から江戸時代にかけて、宮中や将軍家などに仕える女官たちの勤務室で発生した一種の隠語。ほとんどが食物、衣服などに関することばで、500語ぐらいある(現在も使われているのは数十語)。上に「お」をつけたり、下に「もじ」(文字)をつけたものが多い。「○もじ」とは「○のつくことば」ということで、「髪」は「かのつくことば」ゆえに「かもじ」、「杓子」は「しゃもじ」、「おめにかかる」は「おめもじ」
短縮して「お」をつけたのは、「田楽」を「おでん」、「冷水」を「おひや」、「数々(の食品)」を「おかず」、「手もとの箸」を「おてもと」

3.       女の涙
イヤなことば ⇒ ①そのことば自体がイヤ、②そのことばを使いたがる奴が嫌いだからイヤ(「人民」「平和」「民主」に代わって、「差別」「人権」「女性」)
田中外相が新聞記者の前で泣いた時、小泉首相が「涙は女の最大の武器だ」といったことが「女性蔑視」だと国会で問題になった ⇒ 産経はわざわざ「女性」と書き変えていたがこれこそポリティカリー・コレクト(政治的に正しいの意)の典型か

4.       鳥たち虫たち
「天声人語」の下に書籍の広告が載る ⇒ 「サンヤツ」(三段八割(やつわり))といって書籍の桧舞台
そこに先ごろ『中国古代の神がみ』とあるのを見てぎょっとした ⇒ 同じ言葉を2つ重ねる際に上を漢字、下をかなで書く習慣は、当用漢字に「々」が入っていなかったので、「々」の使用が禁じられたと思った人が書き始めたものらしく、複数であることを形の上で表したいのだろう
「たち」の乱用も気になる ⇒ 最初に使ったのはNHKの女子アナが北海道で連呼した「流氷たち!」 ⇒ 日本人が日本語を何とか英語に見せかけようとやたらと外来語を入れ、ローマ字にして、擬似西洋にすると同時に、英語に単数・複数があるというと日本語にはそれがないから原始的言語だといって、やたらと「たち」をつけ出したという、英語コンプレックスのあらわれの一つ
単複を言い分けることがそれほど素晴らしいこととは思えない ⇒ 外国人は単複が分からないと文章が書けない
「達」は公達の達であって、「君、僕、子供。。。」等には「()」「共」を接続すべき

5.       黒き葡萄に雨ふりそそぐ
敗戦直後、斎藤茂吉が故郷(かな)(かめ)(山形県上山(かみのやま))で読んだ歌 ⇒ 「沈黙のわれに見よとぞ百房の」に続く・日本は滅びた、茂吉の愛した日本はもうどこにもないといってひたすら沈黙を守った時期があった

6.       人はいつから人になるか
昭和30年度の尾高朝雄教授(歯槽膿漏手術の際のペニシリン・ショックで逝去、以後ペニシリンの濫用がが抑えられた)の「法学概論」の講義の一節
l  一部露出説 ⇒ 赤ん坊が母親の股間に頭のてっぺんをのぞかせた瞬間から「人」とする
l  一半出現説 ⇒ 赤ん坊の体の半分が出てきたとき
l  全身離脱説 ⇒ 赤ん坊の足が母体を離れたとき
l  臍帯切断説 ⇒ 臍の緒が切れて初めて「人」とする

7.       孔子さまの引越
中国の謎言葉で、「負けてばかり」の意。孔子の引越しは本ばかりで、「(シュー)()」と勝ち負けの負けに当る「(シュー)」が同音であるところから、「負けばかり」になる
毛沢東が自分のことをさしてこういった:「坊主が傘をさす」(ムチャクチャやりほうだい=坊主なので「無髪」、「髪」と「法」は同音、傘をさすので「無天」となり、「無法無天」すなわち法もなければ天(道徳)もない)
ところがそれを聞いたエドガー・スノー(米国のジャーナリスト)が「和尚打傘」を直訳
日本でも同じ様な謎言葉はある ⇒ 「猿の小便」(気にかかる)、「ええい便所の火事だ」(ヤケクソだ)、「行徳のまな板」(市川の行徳ではまな板が馬鹿貝ですれていたところから「バカすれている」奴のこと。漱石の「吾輩は猫」にも出てくる

8.       洗濯談義
「洗濯」というのは中国にもない難しい言葉で由来は不明。一部地方では「センダク」とも

9.       潔癖談
「○(へき)」という表現は古い ⇒ 「病的嗜好」ということで、日本語の「くせ」とは違う
「潔癖」も病的なきれい好き出、単なるきれい好きは「好潔」

10.    吾妹子歌人
幕末備前の奇人平賀元義(元は備前池田藩の武士、30代で脱藩、後半生を岡山周辺の放浪に送る。国学者だが歌人として知られる)の歌。人並み外れた女好きで、気にいった女を皆「吾妹子」と呼んで歌に作ったので、吾妹子歌人と称せられる。正岡子規が新聞「日本」の連載「墨汁一滴」で紹介したところから世に知られるようになった。無類の潔癖家で、国学の弟子の家を居候して回ったが、塩と紙とを大量に費消するので、どこでも迷惑がられた
5番町石橋の上にわが麻羅を()(ぐさ)にとりし吾妹子あはれ

11.    ますらたけをの笠ふきはなつ
平賀元義の続き ⇒ 吾妹子に対してよき男を「ますらたけお」と呼んだ
高田のや加佐(かさ)()の山のつむじ風(ます)()たけをの笠ふきはなつ (代表作)
高田は岡山市北部の地名、加佐米山はいまの十二本木山。応神天皇行幸の際、加佐米山に登ったときにつむじ風で笠が吹き飛ばされた逸事を歌にしたもの

12.    漢字語源の筋ちがい
師走先生多忙説 ⇒ 平安時代くらいから言われ続けている
平安時代「師」はお坊さんのこと。あちこちお経をよんで走り回るということか
「しはす」の語源は、もっと古いのでわからない
師走先生多忙説のようなのをVolksetymologyという ⇒ 民間語源/語源俗解(当てずっぽうの語源のこと)
漢字がらみの語源説はたいがいマユツバ ⇒ あっぱれ(空がからりと晴れたようだというところから天晴れと書く)、塩梅(「えんばい」が訛って「あんばい」)

13.    看護婦さんが消える
2002年から「看護婦」が「看護師」に名称変更となる
「師」は先生だが、「○○師」は必ずしも先生ではない ⇒ 理容師や請負師。どちらかというと技術に重点があり、範囲が「士」より広い(詐欺師、山師)
「士」は男だが「○○士」は男に限らない ⇒ 会計士、弁護士。どちらかというと知識に重点があり、ガラの悪いのは「代議士」くらいで他にはいない
「臘師」(「猟」は戦後略字) ⇒ 山も海も同じだが、海は「あま」に代わって「漁師」と書くようになる ⇒ 「漁」は通常「ぎょ」だが、「大漁」と「漁獲」のように、使い分けの法則は不明

14.    若鷲の謎
作詞西條八十、作曲古関裕而の「予科練の歌」が、軍歌集に載っていない
土浦の陸上自衛隊武器学校の衛門を入ってすぐのところに記念館が残る

15.    紙芝居とアイスキャンデー
向田邦子の作品で面白いのは、子供の頃のことを書いたもの
「いいうちの子」はこずかいを持たされず、買い食いや紙芝居の飴は買えなかった ⇒ 「いいうち」というのは「親が教育がある家」「サラリーマン家庭」「新興中流家庭」
「貧しい家の子」は一家の収入に不相応なほどこずかいを持っていた

16.    だれが小学校へ行ったのか
親は、子が将来安定した生活ができるように、と考えるので、中層以上の農民商人層は家業があるから、読み書きそろばんの木曽はともかく、それ以上は学校にやるより、親が子に教えるのが個別具体的で一番能率的であり、学校に行かせるメリットは何もない
反対に、明治の士族は失業者ゆえ、学校にやって官吏か教員か何かにしてやるより他になかった ⇒ 経済的余裕とは別物
明治も30年代以降になって、学校を出たものがいい地位について安定した多額の収入があって有利だとなって初めて、子を学校に行かせようとするようになった ⇒ 学問を身につけさせるためではなく、就職にも結婚にもそれがトクだから

17.    むかしの日本の暦
慶応4年と明治元年 ⇒ 98日以後が明治元年。8月までは9ヶ月あった(4)
明治45年と大正元年 ⇒ 730日改元
大正15年と昭和元年 ⇒ 1225日改元
昭和64年と平成元年 ⇒ 18日改元
改暦は明治5年 ⇒ 旧暦では1ト月が29日か30日で、19年に7度の閏年があった
幕府の天文方の学者が、毎年の末に翌年の暦を決めていた

18.    ドンマ乗りとカンカンけり
「ドンマ乗り」は「馬乗り」のこと ⇒ もっとも乱暴な遊びで鍛えられた
「カンカンけり」 ⇒ もっとも残酷な遊び

19.    母の家計簿
昭和14年の家計簿に記録された物価と今の比較 ⇒ 今は2500(葉書)
玉子焼きをサカナにビールを飲んで雑誌を読めば、比較的少ない出費で当時の人のゼイタク気分を味わえるという結果に

20.    「スッキリ県」と「チグハグ県」
県庁のある大きな町の名前がそのまま県の名前を「スッキリ県」 ⇒ 26県。西日本に多い
県庁のある都市と違う県名を「チグハグ県」 ⇒ 16(埼玉を含む)。戊辰戦争で官軍にたてついたところ。福島や山形は「スッキリ」だが、官軍に敵対した大藩を蹴とばして小さな町を県庁にしている
県は戊辰戦争の直後から新政府直轄地に生まれ、明治4年の廃藩置県の時には3302県もあったが、その年の内に73県にまで統合 ⇒ 福島の場合、いまの県になったのは明治9年。若松県がなくなって福島県が残ったのも官軍に抵抗した賊藩に対する「懲罰」

21.    片頬3
「男は片頬3!」 ⇒ 男は片頬でかすかに笑うことが3年に1度あればいい、という意味。男のおしゃべりもみっともないという昔の男のたしなみ
男の目は糸を引け、女の目は鈴を張れ ⇒ 美男美女の条件。糸の様な目なら喜んでいるのか怒っているのか分からないから男らしい
庶民があまり教育を受けられなかった時代には、格言が教科書の役割を果たした
社会に種々の不安や危険があって、家は戦いの単位だった ⇒ いざという場合がありうるということが無意識のうちにも前提になっている
日本人の倫理観は常に美の感覚と直結している ⇒ 寡黙で悠揚迫らぬ男と、くるくるとよく働く女とが美しい感じを与えた
武士を理想化してそれにならおうとする教育は、現実の武士がいなくなってから、元来武士と無縁であった庶民の家で行われ始めたのではないか

22.    ミー・ティエン・コンの問題
北京のユニバーシアードで日本の体操の米田功が登場したとき、中国語読みで紹介された名前が米田(ミー・ティエン)(・ゴン)(「糞」の婉曲的な言い方と同じ)で場内爆笑となった
「努」を「女の又の力」と読むようなもので、「文字分解読み」という ⇒ 中国語では「功」と「共」は音違いなので、「糞」を分解して読むと「(ミー)」「(ティエン)」「(コン)
中国では、日本の固有名詞は漢字で書かれるが、中国読みするが、日本人も中国人と話す時はこの習慣に従うので、文字分解読みとなる
原音通り発音しないからこういうことが起こる
中国で「ディワ」に住んでいるというと、それに相当する日本の場所を探して「荻窪」だ、などというのは馬鹿げているし、平仮名で「さゆり」という名前の人を、勝手に「小百合」と寺を当てて「小百合(シアオパイホー)」と呼ぶのはおかしい
トンチン(東京)、ターパン(大坂)など慣用が固定しているのは別として、日本の固有名詞は日本語で発音してもらいたい

23.    香港はホンコンか
日本の固有名詞には、文字があり音がある ⇒ どちらも大切で、両者が揃って日本人の名前。漢字だけ書いて中国人に日本の発音通りに読めと言っても無理
逆の場合は、中国が多元語国ゆえに難しい ⇒ 数多くの方言があって、相互の差は西欧諸国語の差以上あり、どの言語を持って「現地語」とするのか
「北京」 ⇒ 「ペイチン」(標準語)、「ペキン」(明代の北京語ペイキンによる)

24.    むくの人々?
2001.9.17.朝日新聞アメリカ総局長高成田享署名の記事に「大統領がテロで米国のビルは倒せても精神は倒せないといったのは正しいと思う。ただ、復しゅうによって別のむくの人々の生活を壊すようなことはしたくない」とあった
「無辜」の間違いではないか、漢字を避けるからこういうことになる、と投書したら、校閲部から返事があり、innocent=「無垢の」という翻訳で使ったと思われ、どちらでもよかった場面ではあるが、「無垢の」=「むくの」としてもいいのではないか。新聞は中学生でも読みこなせる文字を使った文章で表現することを心がけるので平仮名にした、とあった
「辜」は罪。「無垢」はきれいでまじりけのないこと。どちらでもいいなどということはありえない ⇒ 校閲部が本気で書いた返事なら、全くの無知
Innocentが「無辜」にも「無垢」にも重なるからといって、日本語の文章の中で取り違えてもいいということにはならない
筆者が社外の人の場合は「漢字ふりがなつき」の扱いにするのに、社内の人の文章はどうして平仮名に直すのかも分からない
中学生程度で読みこなせる文字というのも、「読みこなせる」とは「理解できる」ということであって、読めれば理解できると思うのは間違いで、「むこ」や「むく」が分かるのは漢字と結び付けられる人である ⇒ 新聞が常用漢字のワク内で記事を書くのはいいが、ワク外の漢字をカナにするということではなく、ワク内の字で書けるようなわかりやすいことばで記事を書くということなのに、何か勘違いしている
「う回」「危ぐ」「し烈」「ば声」だの、やたらとケッタイなまぜ書きが幅をきかせているのは嘆かわしい

25.    訳がワケとはワケがわからぬ
「訳」を「わけ」と読ませるのはつじつまが合わない ⇒ 「翻訳「通訳」では「やく」のはず
「訳」は戦後略字で、正字は「譯」。手書きとしては普通に使われたので、戦後の当用漢字では「訳」とした(澤、釋、驛も同じ)
一方、日本語の「わけ」は動詞「わける」(文語「わく」)の連用形が名詞化したもの。物事をわけて(分析して)説くことは理由や由来を説明することなので、理由や由来を「わけ」と言う。だから「わく」の自動形「わかる」がそのまま「理解できる」の意になるワケだ。したがって「わけ」にあてる漢字は分解、剖析の意の字であれば本来どの字をあてても差し支えない
訣別、永訣の「訣」も、わかれ、別離の意であるから「わけ」の字に用いられる。昔の人は何でも漢字で書くので「もうしわけなし」も「申訣無し」と書いたが、元々「もうしわけ」とは「分解して言う」ということだからこれでいい。「訣」を「わけ」と読ませるのは多分この「申訣」辺りから始まったのだろう
「訣」と、「譯」の手書き字とが似ている(手で書けばほとんど同じ)から、「訳」も「わけ」と読まれ、それが印刷字では「譯」になるからこれも「わけ」と読まれることになった
森鴎外の逸話に、原稿の「わけ」がすべて「譯」と印刷されてきたので、せめて「訣」にと修正したのに、念のため再校を取り寄せてみたがみな「譯」になっているので怒って本を出すのを止めたばかりでなく、自分の指導下にある雑誌に寄稿して、この出版社に筆誅を加えた ⇒ なぜ「譯」という字に「わけ」という義があるかわからないので、なるべくかなで書きたいのに、許せないという趣旨

26.    連絡待ってますよ
時代小説(諸田玲子の「花火」)の言葉遣いに、「連絡を取る」とあるが、「連絡」などと言い出したのは戦後のこと、軍隊や共産党で言われた言葉が、電話の普及によって一般にも広がり、「電話をする」と同義語で使われ始めた
「報告する」と言う表現も近現代の言葉
ましてや、地の文に「1年は360日の余もあるのだ」とあって、当時の暦のことも知らずに時代小説を書こうという度胸に感心

27.    王様の家来
外国の省庁のトップの呼び方
日本は「天皇」と言う名の皇帝のいる国なので中央行政官庁の長を「大臣」(王様の家来という意味、「相」も王様の補佐人のこと)というが、王様のいない国に当てはめるのはおかしいし、フランスは「外務大臣」といいながらアメリカのみ「長官」というのも一貫していない
今の中国には王様がいないから「首相」もいない。中央行政機構は国務院といい、その長は「総理」。日本の新聞が日本になぞらえて「首相」といっているに過ぎない
中国国務院の各機構は「部」と呼ばれるので、その長は「部長」 ⇒ 中国の外交部を「外務省」と呼びながら、台湾の外交部はそのまま「外交部」と書くのは、悪意による言いわけ

28.    前に聳え後に支ふ
北帰行 宇田博作詞作曲(昭和16)
一.  窓は夜露にぬれて           都すでに遠のく
北へ帰る旅人ひとり         涙流れてやまず
二.  建大一高旅高                 追はれ闇をさすらふ
汲めど酔はぬ恨みの苦杯   嗟嘆ほすに由なし
三.  富も名誉も恋も              遠きあこがれの日の
淡きのぞみはかなき想ひ   恩愛我を去りぬ
四.  わが身容るゝにせまき      国を去らんとすれば
せめて名残の花の小枝      尽きぬ未練の色か
五.  いまは黙して行かん         何をまた語るべき
さらば祖国わがふるさとよ あすは異郷の旅路
「建大」 ⇒ 満洲国立。昭和13年新京(現長春)に設置。本土の陸軍士官学校に似た学校
現代の歌手が歌うとき、2番を飛ばすのが多いが、それでは歌の意味が伝わらない ⇒ 建大に幻滅して翌15年に設立された旅順高校の第一期生となるが女性問題で退学となり、親元の奉天に帰らざるを得なくなったときの旅路を歌ったもの
昭和18年に一高生になったときに完成したが、5番は応召して戦地に赴いたことを意味
「さすらふ」とあるところは、「サスラウ」ではなく「サスロオ」と歌わなければいけない ⇒ 文語文ないし文語調の歌の「()ふ」「()ふ」は、朗読する際、うたう際にはオ列の長音になるのだ ⇒ 「影を慕ひて」の美空ひばりは「ナガロオベキカ」とちゃんと歌っているし、「愛国の花」の島倉千代子も、ゆかしく「ニオオ」と歌っている
「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」も「ユキコオ」である
讃美歌の「また会ふ日まで」も、「オオ日」
滝廉の「花」も、「ながめを何にタトオべき」
同じく「箱根八里」も、「前に聳え、後に支ふ(サソオ)」 ⇒ 文語に現代かなづかいは馴染まないので、カナはおくれない。「ささふ」は語の表記で、その発音は「サソオ」なのである。文語を新かな表記するのは日本語の破壊
「祝ふ今日こそ」は、正しくは「イオオ」ではなく「イウォオ」だが、

29.    どうした金田一老人
金田一春彦氏が「箱根八里」の前述の箇所について、「(後に)(さそ)う」は前後の文脈から「きり立つ」と言う意味と解されるが、他に用例を知らないので、「ささえる」という語に「きり立つ」という意味は注記しなかった、と書いている ⇒ 「ささふ」という語に「きり立つ」の意味などなく、妨げるということで、万丈の山が前に聳え、千仞の谷が背後を妨げている、というよくある修辞なのに、金田一氏は何をボケているのか。新かなに迎合して「さそう」なんていうからこういう醜態をさらすのだ
「支」という漢字の意義を調べようとするのは間違い ⇒ アテ字に過ぎず、他にも「障」「塞」等の字をあてることもあるので、日本語(和語)の意味をあててある字から考えようとするのは本末顛倒
歴史的かなづかいは表語かなづかいで、音をうつすのではなく語を表記する
一方、現代かなづかいは、(中途半端ではあるが一応)表音式。言葉を表記するのではなく人の口から出る音をうつそうとしたもの

30.    お客さまは神さまです
三波春夫の名台詞。昭和36年のある日の公演で、司会の宮尾たか志との掛け合いの中から生まれたもの
お客様とは、自分に命を与えてくれる人、自分の存在を支えてくれる人たちのことで、単なるCustomerとも違い、英語には訳せない
神様にしても、Godでは最大の誤訳

31.    だいぶまちがいがありました
出版した本の中の間違い ⇒ ひとつは誤植、もう1つは思い込みから来る間違い

32.    勉強しまっせ
森鷗外の「半日」:此奥さんの意志の弱いことは特別である。()奥さんは嫌な事はなさらぬ。いかなる場合にもなさらぬ。何事も努めて、勉強してするといふことはない。己に克といふことが微塵程もない。
商売人がよく「勉強する」と言うのは、「努める」「己に克つ」と同義語。また、必死で頑張るとか余人の及ばぬ努力をするということ。
「強」は、「しいる」ということ。自分に強いるのも「強」
「勉」は、もともと「免」「娩」「勉」が1つの言葉で、「免」とは、狭いところを抜ける、狭義には「赤ちゃん誕生」。「免」の古い字は、上が女のしゃがんだ姿、その下の「口」は穴、その下の「儿」は子供 ⇒ 他人または自己に対する「無理強い」のことで、「勉」も「強」も同義
その昔は「おけいこ」といった

33.    忠と孝とをその門で
日の丸行進曲の歌詞。「(もん)」と「(かど)のどちらが正しい?
(かど)」とは、「(もん)」の辺りの前庭を漠然とさす言葉
34.    慶喜(けいき)慶喜(よしのぶ)
人の名前を音読するのはむしろ敬意を表することになる
日本人の名前は種々ある
実名(じつみょう)」または「名乗(なのり)(死後にいう場合の称を「(いみな)」ともいう) ⇒ 公家や武家の男子が元服するときにつける名。よい意味を持つ字を2つ並べて「訓で読む」のが大原則。「訓」であれば読み方はどうでもいい
人は生前、他人から実名で呼ばれることはまずなく、通称を用いる ⇒ 中国の習慣

35.    ジュードーでごわす
「護良親王」も、最近は「モリヨシ」が主になっているが、読み方は符牒に過ぎないところから、一番ありふれた読みでいいということになったもの
実名の読みはわからないことが多いし、分かっても実名を呼び捨てにするのは失礼なので、(おん)でいうことが行われ、一種の通称みたいに使われる
西郷隆盛も、実名は「(たか)(なが)」だったが、名を届けるときに代行した友人が間違えた
弟の西郷從道も、実名は「隆道」。自分で届けたが、口元がはっきりしなかった。(つぐ)(みち)とふりがなを付けてあるものが多いが、どういう根拠に基づくものであろうか

36.    ヒロシとは俺のことかと菊池寛
実名と通称があったが、明治55月の太政官布告でどちらかに統一することになった
名乗はしばしば(おん)で称される ⇒ どう読むのかわからない場合が多いから、と同時に親愛の表現でもあった

37.    カメは萬年、ウエダも萬年
上田萬年は日本で最初の近代的国語学者。「かずとし」とふりがなをつけられては別人になってしまう。
よくふりがながふられているが、何を根拠とするのか不明

38.    おーい、源蔵さん
通称は本来「かりそめの名」の意
下に「衛門」「兵衛」「スケ(助、介、亮など)」「丞」「蔵」「郎」等の付くのが多い、「作」「吉」「丸」
官職名から来る通称も多い ⇒ 「衛門」「兵衛」は警護の武士、「スケ」「丞」は補佐官
「郎」は中華伝来で、「ぼっちゃん」の意
呼び名は声だから字にはこだわらない ⇒ どの字をあてても構わない

39.    主税がなんでチカラなんだ
古くからの通称は、平安朝の官職から来たものが多い ⇒ 「内蔵助」「主税」「治部」「兵部」「刑部」「織部」「左近」「右近」「主計」「隼人」「大学」「武蔵」「甲斐」
「掃部(カモン)」「造酒(ミキ)」「采女(ウネメ)」「主計(カズヘ)」「主水(モンド)」「帯刀(タテワキ)

40.    マルちゃんレーちゃん
日野さんという社会党議員が自分の娘に付けた名前の話。「丸子」としたが、ちょっとまずいわれて、「麗子」にした ⇒ 最初がマルクスであとがレーニン

41.    「サヨナラ」ダケガ人生ダ
コノサカヅキヲ受ケテクレ             ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ         「サヨナラ」ダケガ人生ダ
(原詩は、唐の詩人于武陵の五言絶句「勸酒」
「勸君金屈巵 満酌不須辭 花發多風雨 人生足別離」)
「君に勧む金屈巵(きんくつし)(金の盃) 満酌辞するを(もち)いず 花(ひら)けば風雨多く 人生別離足る」
――――(井伏鱒二「厄除け詩集」)
井伏鱒二の訳詩中の名訳だと思っていたのが、独創ではなかったという話
「唐詩選和訓」(江戸時代の写本:石見大田の中島魚坊、号を「潜魚庵」、が「唐詩選」の572首を俗謡調に訳したもの)にそっくりのものが載っていたが、周囲が皆井伏の訳だと信じていた

42.    臼挽歌
臼挽歌とは、元来は農民が臼を挽きながら歌った作業歌。七七調(時に七五調を交える)の口語の歌で、都々逸にやや近い。中島潜魚庵も、唐詩選の五言絶句を臼挽歌の調子で訳した

43.    アサガヤアタリデ大ザケノンダ
井伏の名訳で、中島の作品が日本に広くひろまった

44.    人が生きてりゃ
「勸君金屈巵 満酌不須辭 花發多風雨 人生足別離」 ⇒ 後聯(こうれん)の訓読の行き違い
対になっているので、「花発けば」に対して「人生」ではおかしく、「人が生れれば(生きていれば)」というのが普通の解釈
主要な動詞や形容詞には、同義の平仄両語が揃っている
花がさくの意の動詞は、平声「開」で、仄声「發」
平声「多」と仄声「足」は同義で、どちらも「たっぷりある」の意
近代詩の基本は五言律詩(五律)で、五言絶句は(理論的に)これを半分に切断したもの

45.    「イェイゴ」の話
弘法大師(8世紀末から9世紀初めの人)の頃にはア行のエとヤ行のエとは別の音
エの音を表す「衣」と、イェの音を表す「江」とは書き分けていたが、いろは歌の出来た1000年頃にはその区別はない ⇒ ヤ行のエがア行に移って、ヤ行のエがなくなったが、元はイェ(ye)に近い発音だったので、一部に残った

46.    「円」はなぜYENなのか
明治45月の太政官布告「新貨条例」によって日本の通貨単位が「円」と定められた
YENとなったのは、明治初期の日本語の「え」のローマ字表記がyeで、eという表記がなかったため
¥マークは民間で生まれたもの ⇒ 大正初期頃の印刷物に使われている。横の2本線はポンドやドルの真似

47.    開元通宝と開通元宝
中国は銀が中心貨幣。高額の取引には「銀錠」あるいは馬蹄の形をしているので「馬蹄銀」と呼ばれる銀塊を用いる。これが「元宝」で、この「元」を「圓」と書く
「元」は根元で、「圓」はまるいということだが、貨幣単位としては同じこと。口で言うときは「(クワイ)」ともいい、これらの3つは同じこと
中国の貨幣単位がなぜ「元」というのかは、元宝1個を「1元」といったから
「元宝」の語は、7世紀初めに出た銅銭「開元通宝」に始まる ⇒ 「開元」は「新しく国を創始した」の意、「通宝」は「天下に通用するお金」の意
中国の銅銭はみな四角の穴の周囲に字が4つ刻してある ⇒ 読み方は上から下、次いで左から右(ただし、貨幣自身の立場で左右を言う)にもかかわらず、右と左を取り違えて「開通元宝」銭といったところから、お金のことを「元宝」というようになった
円の正字は圓、円は戦後略字なので、戦前の印刷物に円が出ることはないが、手書き字としては江戸時代から使われていた。日本独自の略字だが、円は短足で、古い文献ほど横棒の位置が低いところにあった ⇒ 江戸中期では足のないものもあった





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新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.