反骨のコツ 團藤重光/伊東乾 2012.9.22.
2012.9.22. 反骨のコツ
著者
團藤重光 1913年生まれ。刑法学者。東大名誉教授。東大法学部長、最高裁判事、宮内庁参与等歴任。95年文化勲章
伊東乾 1965年生まれ。作曲家、指揮者。東大大学院情報学環准教授。理学部物理学科卒。06年『さよなら、サイレント・ネイビー』で第4回開高健ノンフィクション賞
発行日 2007.10.30. 第1刷発行
発行所 朝日新聞社(朝日新書)
東大法学部長、最高裁判事を歴任し、93歳になった日本刑法の父は、反骨精神の塊だった!
天皇機関説事件、二・二六事件を見届け、刑事訴訟法起草でGHQと渡り合い、最高裁判事として書いた少数意見は数知れず。憲法改正、死刑廃止論、裁判員制度批判から、昭和天皇のことども、三島由紀夫との交流まで。法学界の最重鎮が、52歳年下の東大准教授と縦横に語る、ニッポンを元気にする反骨のススメ
2005年「9.11以後に死刑を考える」と題するシンポジウム開催に当たって伊東が團藤のアドバイスを受け、それが契機となって、07年團藤から伊東に、学士会新会員勧誘のためのインターネット・ホームページの「團藤ブログ『君は團藤重光を見たか?』」への協力を求められた。その内容を会員以外にも公開したのが本書
團藤重光の反骨精神を読みたかったのに、聞き手の伊東某が聞きかじりの知識を喋るばかりで、團藤はほとんど相槌を打つだけの内容
ましてや、死刑廃止論の論拠も、「最後は論理ではなく直観的に死刑が許されないというべきであり、絶対的な命題」とか、「戦争がいけないのと同じように、およそ死刑は許されない、これはもう否定しがたいこと」と全く説得力がないのには驚いた(第3章5.)し、裁判員制度に対する批判も、根拠不明(第4章1.)
期待外れだし、題名も変えるべき
第1章
反骨から見る日本国憲法
1.
新憲法と刑事訴訟法
憲法改正は不要。自衛隊も軍隊と言わない間はどこかに限度がある
ユダヤ系ドイツ人と一緒になって、日本の実情を生かした刑事訴訟法を書いた
2.
昭和天皇のプリンシプル
戦後の日本の最大の恩人/功労者は昭和天皇
マッカーサーの根本観に一番強い影響を与えた
天皇から直接、軍人嫌いの話を伺う
陛下の戦時中の行動のプリンシプルはと伺った時、「戦時中はもっぱら憲法の条文通り行動した」と確信を持ってお答えになった
3.
戦時下の東京帝国大学法学部
第2章
死刑廃止は理の当然
1.
93歳の最新刊
2.
團藤法学はポストモダン
人間の観点、弱者の観点に立ち戻ろうというのが著者のいう「ポストモダン」
1981年フランス・ミッテラン政権の法務大臣バダンテールの提唱で死刑廃止が実現したが、そこに至る思想的バックボーンの中に、ポストモダン=近代以降の20世紀哲学が決定的に存在している
第3章
決定論をはね返せ
1.
主体性の理論
團藤法学は、リベラルで人間性豊か、その中核となるのが「主体性理論」 ⇒ 刑法には主観主義と客観主義の対立があって、主観主義というのは、本人の持つ悪性、悪い性質が犯罪を誘引するのだから、犯罪を犯す恐れのある悪性を持った者に対し、保安処分的に社会全体のために隔離するという説に対し、客観主義というのは犯罪行為そのものに目をつけ、何等かの因果関係があったからこそ犯罪になるという考え方
主観主義では、行為の危険性に着目して、性格を矯正して犯罪性を無くするために刑罰を科すと考えるが、客観主義では危険性ではなく人格性、主体性に重点を置いて、主体的にやった行為については責任を持たないといけないところから、行為そのものに目をつける
行為に重点を置きながら、行為の背後にある主体に目を向けなければいけないというのが團藤理論であって、情状を酌量する議論であり、「人道的な」判断を下す法理
人間の尊厳を重視しつつどのような判決を出していくかが重要
2.
死刑はあってはならない
主体性理論から導かれるのが死刑廃止論 ⇒ 神が与えた命を、人間の恣意によって奪うのは、神・天の意志に反する(「神」とは、人智を超えたものという意)
人が人を殺すことは許されない
生まれながらに「宿命的犯罪者」というのは存在しない ⇒ 決定論の否定
デンマークでは、異常犯罪者の再犯率が去勢すると減るというデータに基づき、本人の同意を得た上で去勢を施すことが出来るという法律があった
3.
死刑廃止に立ちはだかる壁
死刑廃止を主張する契機となったのは、名張毒ぶどう酒事件(後記Wikipediaとは矛盾するが、この本の内容は本人がチェックしている)の最高裁判決に陪席していて、自ら起案した刑事訴訟法の「上告審では判決に影響を及ぼす重大な事実誤認がなければ原判決を破棄できない」という定めによって、同じ条件の被疑者が他にもいるのではないかとの「一抹の不安」を感じながらも死刑宣告をしたところ、傍聴席から「人殺しーっ!」との声が上がったのを耳にしたこと
自分が死刑宣告する立場に立って、初めて気が付いた ⇒ 個々の裁判官の判断に任せるのではなく、国の制度として死刑があってはならない
誤判の可能性が誰にも否定できないというのが、廃止論の決定的理由
1988年米大統領選挙で、死刑廃止論者として知られていた民主党のデュカキス候補が名演説をした後、「あなたのお子さんが殺されたらどうしますか」との質問に、「もちろん死刑には反対」と答えたため、「そんな人情をわきまえない心の冷たい人は大統領にはできない」と聴衆の態度ががらりと変わったことがある ⇒ 諄々と説くしかない
4.
日本人にとっての罪と罰
「生きて償うより、死んで詫びる」という文化
810~1156年の間、日本では死刑が行われなかった ⇒ 殺傷を戒め慈悲を本旨とする仏教の影響があった
被害者の遺族が極刑を望むのは自然な感情だとしても、それを実行に移すかどうかは全く別の問題
5.
死刑は取り返しがつかない
どんな犯罪人でも、更生の可能性はあり、人にはその可能性の有無を判断できない
最後は論理ではなく、直観的に、死刑が許されないというべきであり、絶対的な命題
戦争がいけないのと同じように、およそ死刑は許されない、これはもう否定しがたいこと
6.
国家が人の命を奪うとは
第4章
裁判員制度は根無し草
1.
裁判員制度、開始へ
陪審員ならまだいいが、裁判員は作ってもプラスにはならない
本質的には、裁判官や弁護士の頭を切り替えなければならない、その方がよほど大事
司法部の人達も、この先どうなっていくかを知らない
国民の中から湧き上がってきた力であれば尊敬するが、制度自体「官製」のごまかし、何の知識もない者が法廷で物を言えるわけがない
2.
陪審、参審と裁判員
死刑を廃止すれば、冤罪の温床や警察官の取り調べのやり方等全部改まる
アメリカの陪審制度は、有罪か無罪かだけを決める、評決は原則として全員一致
独仏伊の参審制度は、裁判員が職業裁判官と同じテーブルで議論して、多数決で有罪/無罪と量刑を決める
制度自体、民衆から自然に湧き出たものではなく根無し草、欧州で市民の司法参加のない国はほとんどないので、外面の真似に過ぎない
日本の制度は参審制度に近いが、参審制度のある欧州諸国では既に死刑が廃止されている
量刑は、徹底して訓練された職業裁判官が人間的な確信を持って決定するもので、そういうトレーニングを受けていない素人の裁判員が入ってくると間違いなく混乱が起きる
向こうでは一般の民衆が、本当に法律的なセンスを持っているし、よく訓練されている
3.
死刑のある国の裁判員
裁判員制度を実施するのだったら、死刑廃止も同時に積極推進しなければならないことが、論理的によく理解できた??????????
第5章
憲法9条と刑法9条
1.
死刑合憲判決を読み直す
憲法36条で「残虐な刑罰の禁止」が歌われているが、死刑は究極の身体刑であり、刑法9条の刑の種類に「死刑」を含めているのと矛盾 ⇒ 憲法31条によって「法の定める手続きによるのでなければ、生命を奪われない」としている
2.
憲法を超えた命題
死刑廃止は憲法を超える ⇒ 死刑という事柄自体について考えるべき
人間性に根ざしたことであって、憲法がどうあろうと普遍のこと
第6章
お悩み解決は團藤説で
1.
三島由紀夫は「バカなやつ」
三島は東大法科生。気の弱いやつで、親父が役人にしたかったと知って反抗できず大蔵省に入ったが、結局小説家になった
勤労奉仕先で、学生の手紙を検閲していた時に、佐藤春夫なんかを相手に文通しているのが三島だった
戦後緑会の大会のプログラムに三島が頼まれて『法律と文学』と題する文章を載せた ⇒ 團藤助教授の刑事訴訟法の講義の徹底した論理構成に魅惑され、自分の文学や小説は刑事訴訟法をお手本に書いた
三島の『仮面の告白』は、團藤の刑事訴訟法理論を文学化したもの。團藤の考え方を一番よく理解した学生の1人が平岡、その答案は犬に食われた
刑訴法から形式美の世界に行ってしまったが、もし実体法の刑法理論を勉強して、政治や社会の問題にも取り組んでいたら、ああいう最期にはならなかっただろう
2.
飛び級の少年時代
小学校5年から中学に入った時は新聞でも騒がれた
3.
星空と原書濫読
吉田松陰、熊沢蕃山、中江藤樹などを読む
4.
一生懸命やれば悩みは忘れる
江戸時代の志士たちの悩み解決のヒントは、一生懸命やっているうちに、自分が星屑だなんてことは忘れる
刑法を選んだのは、一番哲学的で理論的だったから。正義があり刑罰がある
5.
反骨精神のすすめ
第一級の人は必ず反骨精神を持っている
團藤自身の根本は、反体制の思想である陽明学にある ⇒ 体制に埋没しないで現実を直視する
第7章
革命のコツ・團藤陽明学
1.
陽明学を生きた父
父は幼少の時に両親と死に別れ、苦労をして、司法試験を通り、検事になるが、大逆事件を捏造した平沼騏一郎検事総長に反発して辞任、弁護士になる
團藤が育った岡山は、熊沢蕃山の屋敷跡があった
2.
熊沢蕃山と陽明学への傾倒
3.
幕末のスターが揃う陽明学徒
20歳で徴兵試験を受けたが、肺病で丙種合格
4.
陽明学からの死刑廃止論
陽明学は、体制の中にあって、権力に反抗する学問
5.
陽明学を貫いた人生
1981年 大阪空港夜間飛行差止訴訟大法廷判決の反対意見 ⇒ 判決は棄却だったが、国との間で和解が成立したのは住民の被害状況を踏まえたヒューマニズムの観点から書かれた少数意見によるといわれている
過去の主要な判決は最高裁のホームページから読むことが出来る
第8章
若者よ、正義の骨法を摑め!
1.
「自分探し」では見つからない
自分を探すのではなく、つくっていかなくてはダメ
2.
反骨のコツ
法の本質は、世の中の悪と闘って平和を求める、実践が重要
悪と戦ってそれを絶滅しなければならない、それが陽明学
反抗と反骨は違う。反抗は誰にでもできる。体制側に立って反骨精神を保つのは一番難しい
気骨をもって進むとき、何かにぶつかることがある。ぶつかると跳ね返る。そこで「気骨」になる。法の本質はここにある。そして正義の実践には反骨をも辞さない。正義の骨法、それが陽明学の要諦。それは腹の底から出て来なきゃならない
Wikipedia
団藤 重光(1913年11月8日 - 2012年6月25日)は、日本の法学者。岡山県出身。正しくは「團藤重光」。東京大学名誉教授、元最高裁判所判事。1981年日本学士院会員、1987年(昭和62年)11月3日勲一等旭日大綬章受章、1995年文化勲章受章。
人物 [編集]
1913年(大正2年)11月8日、山口地方裁判所検事局次席検事団藤安夫(1878年 - 1935年)の長男として、山口県吉敷郡山口町で誕生した。翌年、父が弁護士に転身するにあたり、郷里の岡山県高梁に近い岡山市へ家族で転居した。以後、団藤は高等学校卒業まで岡山において成長する。団藤自身が出身地を岡山であると言及するのは、山口での生活は物心つく前の短期間にすぎず、幼少期を過ごしたのが岡山だからである。旧制第二岡山中学校(現岡山県立岡山操山中学校・高等学校)第四学年を修了後、第六高等学校を経て、1935年東京帝国大学法学部を首席で卒業。専門は刑事法全般に及び、戦後の日本刑事法学の第一人者である。また死刑廃止論者の代表的人物でもある。
学説 [編集]
団藤は、師である小野清一郎と同じく後期旧派にたち、刑罰を道義的応報とした上で、犯罪論において、構成要件を違法有責類型であるとする小野理論を継承するが、小野理論が犯罪限定機能を有しなかったことから、戦時中全体主義に取り込まれた点を批判し、罪刑法定主義の見地から構成要件を形式的、定型的なものであるとしてその自由保障機能を重視する定型説を提唱した。かかる見地からは、みずから実行行為に出ていない共謀共同正犯は定型性を欠くものとして否定されるが、後掲のとおり後に改説する。
違法性の実質については、小野と同じく規範違反説をとりつつも、その内容を小野が国家的法秩序違反としていた点を批判し、法は道徳の最低限を画すものであるとの考えから、国家の制定法とは独立した社会倫理秩序違反をさすとして行為無価値論の立場をとり、後に結果無価値論に立つことを明確にした平野龍一と対立した。
責任論において、小野がとる道義的責任論とその師である牧野英一がとる新派刑法理論に基づく性格責任論との争いを止揚することを企図して、道義的責任論を基礎としつつも、二次的に背後の行為者の人格形成責任を問う人格的責任論を提唱した。
刑事訴訟法においては、小野と同じくドイツ法に由来する職権主義構造を本質とする立場をとるが、現実の審判の対象は訴因だが、潜在的な審判の対象に公訴事実が含まれるとの折衷説をとる。この点を当事者主義構造を本質とする平野から徹底的に批判された。
社会的活動 [編集]
若くして戦後の新憲法制定に伴う法制改革の際に、各種の立法に関与した(本来であれば師匠である小野清一郎が担う仕事であったが、公職追放のため団藤に任された)。刑事訴訟法(1948年制定)の立案担当者である。
東大退官後、1974年から1983年まで最高裁判所判事。大阪空港訴訟では、毎日午後9時から翌日午前7時までの空港の利用差止めを認めるべきか否かという問題について、訴えを却下した多数意見に対して、差止めを認めるべきとの反対意見を述べた。また強制採尿令状は彼の考えによるものと言われる。実務における各種の葛藤からか、この間に学説に多少の変化が見られる。また、彼は今でこそ死刑廃止論者として知られているが、この時期は死刑に賛成の立場であった。しかし、ある事件(この事件を名張毒ぶどう酒事件との解釈もあるが、就任前の1972年の最高裁判決であるため誤り。実際は1976年最高裁判決の波崎事件である。これは同じ毒殺事件であったために生じた誤解)で陪席として死刑判決を出した際に、傍聴席から「人殺し」とヤジが飛んだ。この事件では、団藤は冤罪ではないかと一抹の不安を持っていたうえに、被告人も否認していた事件であった。これを契機として、被告人が有罪であるとの絶対的な自信がなかったこと、そして冤罪の可能性がある被告人に対して死刑判決を出したことへの後悔と実際に傍聴人から非難されたことなどから死刑に対する疑念が出てきたとのことである。
最高裁長官の有力候補と目されていたが、民事裁判官出身の服部高顕が最高裁長官に就任すると、その芽はなくなった。服部長官就任後、団藤の反対意見、補足意見が判決の中で急増した。 自白の証拠採否について「共犯者の自白も本人の自白と解すべきである。」という補足意見(反対意見ではない)を書いて自白偏向主義な捜査に一石を投じた(もっとも、共犯者の自白が相互に補強証拠になりうるとしているため、当該事案の結論に影響はない。最判昭51.10.28、百選86参照)。 学者時代は共謀共同正犯否定説の旗手として活動したが、最高裁判事就任後は、実行行為に出ていないものの、犯罪事実について行為支配を持った者を正犯として評価することを是認する肯定説に転向した。退官後には、自らが書いた判決と論旨の食い違う講演を行った。
最高裁判事退官後は、東宮職参与、宮内庁参与を歴任しながら死刑廃止運動や少年法改定反対運動関連の活動など、刑事被告人の権利確立のための活動に重点を置いている。「人間の終期は天が決めることで人が決めてはならない」と発言している。
略年譜 [編集]
§
1935年 東京帝国大学法学部卒業、同助手
§
1937年 同助教授
§
1947年 同教授
§
1983年 同退官
§
1991年 オーストリア科学芸術一等名誉十字章受章
主著 [編集]
§
『刑法の近代的展開』(弘文堂、1948年)
§
『訴訟状態と訴訟行為』(弘文堂、1949年)
§
『刑法と刑事訴訟法との交錯』(弘文堂、1950年)
§
『条解刑事訴訟法(上)』(弘文堂、1950年)多忙により下巻は刊行されず。
§
『刑法綱要総論』(創文社、初版1957年、3版1990年)
§
『刑法綱要各論』(創文社、初版1964年、3版1990年)
§
『実践の法理と法理の実践』(創文社、1986年)
§
『死刑廃止論』(有斐閣、初版1991年、6版2000年)
§
『法学の基礎』(有斐閣、2001年、2版2007年)
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