紅茶スパイ-英国人プラントハンター中国を行く  Sarah Rose  2012.4.7.

2012.4.7. 紅茶スパイ - 英国人プラントハンター中国を行く
For All the Tea in China – How England Stole the World’s Favorite Drink and Changed History  2010

著者  Sarah Rose ジャーナリスト・作家。シカゴ出身。ハーバード大とシカゴ大で学位取得。新聞社数社に勤務、香港、マイアミ、ニューヨークで国際政治、経済、金融、ビジネスなどを担当。現在は男性向け雑誌Men’s Journal、グルメ雑誌Bon Appetiteなどに旅行と料理の記事を寄稿。North American Travel Journalists AssociationGrand Prize in Writingを受賞、ニューヨーク芸術基金NYFAから研究助成金を授与。デビュー作の本書は歴史家や各種雑誌で絶賛

訳者 築地誠子 翻訳家。東京都出身。東京外大ロシア語科卒

発行日           2011.12.26. 第1
発行所           原書房

知られざる紅茶の歴史
19世紀、中国がひた隠しにしてきた茶の製法と種を入手するため、英国人凄腕プラントハンターのロバート・フォーチュンが中国奥地に潜入…。アヘン戦争直後の激動の時代を背景に、ミステリアスな紅茶の歴史を描いた、面白さ抜群の歴史ノンフィクション!
ロバート・フォーチュン:
スコットランド生まれの園芸家・植物学者・プラントハンター(18121880)。エディンバラ王立植物園を経てロンドン園芸協会に奉職。イギリス東インド会社の依頼によりアヘン戦争後の中国()に渡りチャノキを密かに採集、インドに移植し、ダージリンティーの栽培実現に多大な貢献をする。中国、日本から極めて多くの園芸植物をイギリスに紹介。キンカン、バラ、シュロなど数多くの植物に彼の名が学名として残されている。1860年、61年には日本を訪問。当時の日本を描いた著書『幕末日本探訪記―江戸と北京』がある

イギリスと中国がケシとチャノキを巡って戦争に突入した時代
ケシは学名をPapaver somniferumと言い、アヘン、つまり麻薬として精製され、18世紀から19世紀にかけて東洋の至る所で使われた。インドで栽培・精製されたが、それを牛耳っていたのはイギリスで、イギリス帝国の保護を受けた東インド会社が「唯一かつ排他的に」売買されていた
チャノキはツバキ科の常緑低木で、学名をCamellia sinensisと言い、「茶」として知られている。中国帝国がほぼ完全に茶を独占。この国だけが茶を栽培し、販売していた
19世紀に入って、東インド会社が中国にアヘンを売り、その収益で中国茶を輸入、イギリスは綿製品をインドへ輸出するし茶を買う三角貿易が始まる
イギリス政府の税収の1割を、茶の輸入税と販売税から得るほど、貿易量が拡大
清政府は、1729年国内でのアヘン売買を禁止したが、密輸入が急拡大し、1839年には広州で一触即発の緊張状態に ⇒ アヘン戦争で中国は惨敗、上海以南の5つの貿易港を開き、香港島を割譲、不平等条約締結。イギリス商人は競って中国の優美な陶器、絹織物、香り立つ茶の輸入を始めようとする
一方、中国がケシの栽培を始めたら、イギリスとの経済的共存関係に終止符が打たれることになるのを恐れ、イギリスでも中国茶の産地の気候風土が似ている英領インドのヒマラヤ高地で中国の最高級茶の栽培を始めようと試みる
植物を原料とする経済活動の規模が大きくなるにつれ、そうした植物は世界秩序にとって極めて重要になり、植物学者(かつては単なる園芸家)が見直され、冒険活劇の主人公や世界の変革者と見做され、彼等が採取した外国産の植物は、イギリス本国やその植民地の科学・経済・農業の分野で大きな価値を持つに至った。植物を生きたまま輸送できる新技術の開発により、プロのプラントハンターは異国の珍しい植物を確実に本国へ送ることが出来るようになった

1845年 イギリス園芸協会から中国の貴重な植物を探し出して採集するために派遣されたフォーチュン(当時33)は、植物を生きたまま輸送できる「ウォードの箱」(1791ロンドン生まれの植物学者、薬草学者、医師だったウォードが発明した容器で、光さえ当てれば植物が光合成して密閉された環境下でも数年間生き続けられることに着眼したもの)とともに中国各地で植物を採集、海賊から身を守りながらも無事帰国
元々フォーチュンは、スコットランドの生まれ、農業労働者だった父から庭仕事を覚え、ほとんど独力で園芸の技術と職業資格を手に入れたが、当時の植物学者にとっては当然だった医学の資格はなかった。スコットランド人にとっては、海外で一旗揚げることが出世の早道
スウェーデンのリンネ(170778)によって、植物の分類法が確立されたのが植物への関心を高める契機 ⇒ 珍種の発見が富の源泉に直結 ⇒ 1856年フィリピンから初めてイギリスに持ち込まれたコチョウランは、現在の価格にして12千ドルしたという
長い間空白地帯となっていた中国が、「楽園」「危険に満ちた土地」「エキゾチックな国」として注目されるようになってきた
200年にわたる満州人による漢民族支配の腐敗とほころびが目立つようになり、諸外国につけ入れられる状況となった
1842年アヘン戦争でのイギリスの勝利を機に、イギリス園芸協会が人材の派遣を思いつき、フォーチュンを送り込む ⇒ イギリス外務省が渡航許可を与えた最初の民間人
フォーチュンは、単に希少な植物や美しい植物を見つけるのみならず、市場価値のありそうな花に目を向け本国に移送した。3年間の滞在中に冬咲のジャスミン、黄色いツルバラ(フォーチュンズ・ダブル・イエロー)、さらには彼の名を不朽のものとしたキンカン属の発見に加え、骨董や陶器類なども持ち帰る
旅行中の日記を基に書いた『中国北部の旅』は、田舎出の青年のサクセス・ストーリー風に仕立てあげられ、外国で実地調査をしたことのない植物学者や夢見がちな植民地主義者に熱狂的に読まれた

1848.1.12. 東インド会社(正式名称は「東インド向けイギリス貿易商人の合同会で、300年にわたり、世界の大部分で貿易を独占した世界初の多国籍企業。1600年エリザベス1世が特許状を与え、東洋における貿易独占権と数々の委任状を得る)のロンドン本社から、会社の命運をかけてインドから輸入されたヒマラヤ山麓産の茶のサンプルがロンドンの有名な茶のブローカーやブレンダー、鑑定人等の取引先に送られた ⇒ 会社は10年ほど前から中国茶の名産地と同じ気候・環境にあると思われたインド北東部アッサム地方に自生するチャノキから茶を栽培していたが、中国茶と比較するとその差は歴然 ⇒ アッサムティーは今でもブレンド用で、上品な花の香りが優勢な茶にちょっとした重みを加えたいときに使われる
茶は1660年代にチャールズ2世に嫁いだポルトガルの王女キャサリン・オブ・ブラガンザが初めてイギリスに持ち込んで以来、高級外国品として上流階級の間で愛飲されるようになり、18世紀半ばまでにはイギリスで最も人気のある飲み物となり、ビールの売り上げを上回る
19世紀前半、東インド会社の独占が崩れ、多数の会社が競って三角貿易に参入したが、茶の生産は中国が独占、栽培も製法も西洋人には謎のままだった
1848.5.7. フォーチュンは、中国での実績が認められてチェルシー薬草園(1673年薬剤師組合によって設立されたイギリスでも2番目に古い植物園)の園長に抜擢されていたが、東インド会社の重役会から、中国内陸部を中心に再度探索のために派遣されることとなるが、今回の目的は世界一経済的価値のある植物を盗み出し、枯らしたり腐らせずに元気な状態で、別の大陸に無事移植できるように手配、さらには技術者までも連れてくることが期待された ⇒ 今回は破格の待遇が用意された
産業革命の進展に伴い、却って自然回帰の機運が生まれ、自然が崇められるようになった
イギリス植物学の祖であるジョゼフ・バンクス卿(17431820)は、中国こそプラントハンターにとって追い求めるべき聖杯であると考え、18世紀後半北京の中国皇帝のもとにイギリス初の外交使節団を派遣するに際し、庭師を一行に加えるよう根回し

元々イギリスの薔薇はペルシャが原産地で数百年前にイギリスにわたってきた。一方中国では遥か昔からバラが栽培され、僅か50年前にこの2つの品種の間でたまたま起こった他家受粉によって、今日よく知られている、どこの庭でも見かけるバラが生まれた。中国の薔薇が紹介されるまでイギリスには真紅の薔薇はなかった ⇒ 東西の植物が交配して新しい品種が生まれた例

1848.9. 上海で通訳と従者を雇い、小さな平底船に乗り込み揚子江を遡り、浙江省と安徽省の茶の産地を目指す ⇒ 正式な許可は下りないので、中国人に変装
3年前の体験からは、紅茶と緑茶が同じ品種かどうかという問題すら未解決
前回の実績で、中国の植物がイギリスの庭園を魅力的に変えられることは実証済み ⇒ 航海の合間を縫って沿岸各地の植物を採集し、主として観賞用植物となる花や草を乾燥させて保存できる押し葉標本を作って目録化
長江の緑茶工場見学に成功
中国茶は決して清潔な食品とは言えず、「最初の一杯はあなたの敵に」という諺があるように、昔から茶を淹れるとき、最初の一杯は捨てる
中国の料理史研究家は、最初に水の中に茶葉を入れたのは誰かをまだ突き止めていない ⇒ 神話に登場する皇帝「神農(しんのう)」の発見だと信じている中国人は多い。
製法:紅茶は醗酵させるが緑茶はさせない。紅茶を作るには、茶葉を丸1日天日干しして酸化させ、葉を萎らせる。半日天日干しして干からびたところでひっくり返し葉の裏側の水分を混ぜることでダメになったところを治す。その時にタンニンが出て強い苦みや濃い色になる。その工程を醗酵と呼ぶが、化学的な意味での醗酵(アルコール発酵のように微生物が糖分を分解してエチルアルコールと二酸化炭素を生成するような過程はない)ではなく、むしろ治療、熟成という言葉が相応しい(実際に醗酵したら発癌性物質が出来る)
フォーチュンの緑茶と紅茶が同じ品種のチャノキだという報告によってリンネ協会はチャノキの定義を変え、Thea sinennsisという学名で知られるようになる、がその後ツバキ科の植物として再分類され、Camellia sinensisという学名になった

1848年 安徽省南部休寧地方の松羅山(しょーらさん)の茶畑に入り、サンプルを蒐集、持ち帰った種や苗を上海で実験栽培 ⇒ この時の実績がやがて緑茶の名産地と西洋世界が直接的な結びつきを持ち、フォーチュンが松羅山の茶は最高品質との報告が欧米の輸出市場に届き、〝グリーン・タン″というブランド名で上流階級に愛飲されるようになる
中国人の生活になくてはならないもの ⇒ 薪、米、油、塩、醤油、酢とともに茶が7大必需品。その製造に携わることは農家にとって誇り

カルカッタ植物園は1786年頃に東インド会社によって創設・経営されていたが、インド植民地政府の事実上の農務省にあたり、有用植物の情報交換と農業政策の立案に注力、インド農業の改善と、インドの豊かな土壌と粗悪な農業製品との間の「不可解な矛盾」の是正に努力。当初は香辛料をインド大陸に導入するのが目的だったが、カルカッタでの栽培は気候的に不向き、次いでイギリスにある全世界の植物学研究の中心となっていた王立キュー植物園に世界中の新種植物を紹介するとともに、植民地で植物を原料にした産業を興し発展させることに邁進 ⇒ フォーチュンが送った中国茶の種と苗木もその管理下に置かれるが、輸送中の品質管理に問題があり
1824年イギリスがビルマに隣接したアッサム州を併合した時から茶の栽培に関心が向けられたが、中国茶とは比べ物にならず頓挫、次いでヒマラヤ山麓東端の麓のダージリンをイギリスに併合して探検した際、この土地こそ茶の栽培地として相応しいと認め、中国緑茶の栽培が広く行われたが、紅茶畑はまだなかった
1849年フォーチュンの最初の茶の種と苗木の出荷が始まる

1849年 新たな高級中国茶の供給元を求めて福建省の武夷(ウーイー)山脈(ユネスコの世界遺産)に向かう ⇒ 武夷山脈ではイギリス人がこよなく愛する濃くてまろやかな烏龍茶を探そうとした
当時、福建省は洪秀全に率いられた太平天国の乱で混乱していた中、身の危険を覚悟しつつ産地に辿り着き、目的の種と苗木を手に入れる
フォーチュンの役割は、茶の淹れ方にまで及ぶ:
湯の沸かし方 ⇒ 湯の理想的な温度を泡の大きさで測る
カップを温める ⇒ 最初に淹れた茶でカップを温め、それを捨てる ⇒ 茶葉の洗浄が目的
茶葉の適量 ⇒ 現在はひとカップにつきティースプーン1杯という一般的な決まりがあるが、当時は産地によっても茶葉によってもまちまち
飲む ⇒ ポリフェノールという植物酵素が含まれると同時にテアニンという甘味と塩味の混ざったアミノ酸でカフェインに匹敵する成分を含む
紅茶とコーヒーの比較 ⇒ 1ポンド当たりのカフェインの量は紅茶の方が多いが、1ポンドで紅茶は200杯淹れられるのに対し、コーヒーは40杯なので、カップ1杯分では紅茶はコーヒーの半分くらい。緑茶のカフェインは紅茶の1/3

輸送方法の改良 ⇒ 「ウォードの箱」に桑の木を植えた土中に紅茶の種を混ぜることで、輸送途中から発芽に成功
茶職人(この時はまだ緑茶)や茶の精製道具も調達、フォーチュンも自らの手にした収穫とともにインドに渡って、茶栽培の現場に立ち会う ⇒ 中国人の外国移住は認められていなかったが、清朝末期には労働者を外国に送り出す貿易(クーリー貿易)が大盛況。1833年イギリス帝国領内でのアフリカ人の奴隷貿易が正式に廃止されると、植民地の砂糖プランテーションに必要な代替労働力を確保するために活用された。19世紀半ばのカリフォルニアやオーストラリアの金鉱発見にも労働力として供給された

ダージリンは、標高2100mの高地、シッキム藩王が王国の保全のために東インド会社に譲渡したいわば貢物。アーチボルト・キャンベル以下20家族が移り住んで ⇒ フォーチュンが送った紅茶の一部がダージリンで根付く ⇒ 今日では「紅茶のシャンパン」と称され、最高級の品質、繊細な花の香り、深い琥珀色、豊潤な味わい、オークションでも常に世界一の高値で売れた
フォーチュンの活躍から数十年もしないうちに、インドで始まったばかりのヒマラヤ山麓の茶産業は、質・量・価格すべての面で中国の茶産業を凌駕 ⇒ インド産紅茶の出現によりイギリスで紅茶の人気が沸騰、容易に紅茶を入手できるようになってイギリスでの産業化に拍車

1858年 インドの大反乱の責任を取る形で、イギリス議会は東インド会社の特権を剥奪、その特許状を無効とし、会社は実質消滅し、インドはイギリス女王が直接統治者となる

紅茶はイギリスの資本と銀行システムに革命をもたらし、極東における貿易ネットワークの急速な発展を促すと同時に、イギリス植民地政策の領土拡大の道具にもなった ⇒ ビルマ、セイロン、東アフリカなどの紅茶栽培が可能と思われる国を併合
中国の歴史においても、茶という中国の典型的な商品を求める外国人の欲望が果たした役割を無視するわけにはいかない ⇒ 門戸開放や自給自足経済の崩壊がもたらされた
l  輸送業にも多大の影響 ⇒ 高速船の開発
l  製造業への影響 ⇒ 軽い荷の輸送にバラストが必要となり、目をつけられたのが中国の青磁・白磁で、イギリスの陶器産業の発展を促す
l  イギリス人の生活への影響 ⇒ インド紅茶の出現で価格が下がって大衆化、他方悪徳業者が減って品質は向上したお蔭で、産業革命以来都市の膨張と共に人口と疾病が増加していたが紅茶の普及で死亡率が減少(コーヒーは沸騰前の湯で淹れた方がおいしいとされるが、紅茶は沸騰した湯で淹れるため)。植民地経営にも紅茶の殺菌作用が役立つ。砂糖を入れれば手軽なカロリー源にもなりミルクを入れればタンパク源ともなり貧困層も栄養を補給できた
それまでのエネルギー源はビールやエールだったが、急激な人口増に農業生産が追い付かず、紅茶が食糧問題への打開策となると同時に、現代の工業化された世界的食物連鎖の契機となった ⇒ 主要な飲み物としてアルコール飲料を選び続けたフランスやドイツは工業化の過程でイギリスに50年は遅れを取った

フォーチュンのその後:
1857年 米国特許庁が湿度の高いアパラチア山脈南部で茶の栽培をするためにフォーチュンを雇い、中国茶の移植を始めたが、南北戦争の奴隷解放で安価な労働力の入手が困難となり失敗に終わる
186062年 独自で中国・日本を訪れ、イギリスの園芸商のために珍種の植物を買い付けて送る ⇒ 特に日本で発見された植物によりひと財産を築く。東洋の美術品や装飾品の輸出でも儲けた

フォーチュン余話
1852年 3度目の中国ではスパイ活動に従事 ⇒ インドでの茶栽培に対抗して中国がケシの栽培を始めたことから、アヘン販売独占を脅かされると懸念した東インド会社が情報収集に動いたもので、フォーチュンが本国に送った種や見本が役立った
東洋で彼が発見した植物は数百種 ⇒ ケマンソウ、冬咲ジャスミン、白花フジ、12種類のシャクナゲ、キクなどが有名 ⇒ イギリス他の新天地への移植に成功
リンネ協会によるチャノキの定義の変更
緑茶に毒性の合成着色料が含まれている(顔料として使われていたプルシャンブルーというフェロシアン化鉄や分解すると硫化水素ガスを発生させる石膏が輸出用の茶に混ぜられていた)ことを暴露してイギリス人の健康を回復させた
スエズ運河の開通による航路の短縮と、海底電信ケーブルの敷設によって情報が容易に行き渡るようになって、プラントハンターは不要に ⇒ フォーチュンが中国から茶の種や苗木を盗み出したときは保護貿易上の秘密を盗み出した史上最大の窃盗であり、現代ならさしずめ「産業スパイ活動」としてセンセーションを巻き起こしただろう
フォーチュンは1880年死去、遺族が関連の資料をすべて焼却したので、晩年の暮らしについてはほとんど知られていない

参考文献
茶について完全に網羅された本 ⇒ ウィリアム・ユーカーズ著『茶のすべて』All About Tea
一般向け歴史書 ⇒ ジェームズ・モーリス・スコット著『茶の大冒険』The Great Tea Venture

訳者あとがき
プラントハンターとは、18世紀から19世紀にかけて、アフリカ、アジア、アメリカなどの危険な奥地や前人未到の土地を探検して、美しい観賞用植物や生活に役立つ有用植物(香辛料、食料、薬)を集めてヨーロッパに持ち帰った「植物採集家・植物探検家」のこと
その中で群を抜いていたのがフォーチュン







Wikipedia
ロバート・フォーチュンRobert Fortune1812916 - 1880413)はスコットランド出身の植物学者プラントハンター商人中国からインドチャノキを持ち出したことで有名。
略歴 [編集]
エジンバラ王立植物園園芸を修め、ロンドン園芸協会温室を担当し、北東アジア植物に興味を持つ。1842南京条約ののち、中国で植物を集めるために派遣され、中国人に変装して当時外国人の立ち入りが禁止されていた奥地へ潜入し、中国産の多くの美しい花をヨーロッパへもたらした。英国東インド会社の代表として1848から3年間インドに旅行し、ダージリン地方への20,000株のチャノキ苗の導入に成功し、重要な成果をあげた。彼の努力によってインドとセイロンの茶産業が成長し、ヨーロッパの茶市場における中国茶の独占を終了させた。また、紅茶および緑茶が同じ種類のチャノキから生まれることを発見する最初のヨーロッパ人となった。後の旅行では、台湾日本1860)を訪れて、養蚕および稲の栽培について記述し、キンカンを含む多くの樹木および花を調査、収集しヨーロッパに導入した。ロンドンで歿。
日本について [編集]
「日本人の国民性の著しい特色は、庶民でも生来の花好きであることだ。花を愛する国民性が、人間の文化的レベルの高さを証明する物であるとすれば、日本の庶民は我が国の庶民と比べると、ずっと勝っているとみえる」という言葉を著書『幕末日本探訪記江戸と北京』に残している。
他にも「サボテンアロエなど中国で知られていない物がすでに日本にある。これは日本人の気性の現れである」、「イギリス産のイチゴが売られていて驚愕した」などと長く鎖国を続けていた島国の日本の文化に驚いた様子が伺える。
その他 [編集]
  • フォーチュンが発見した日本及び中国産の植物には、彼にちなんで献名されたものが多くある。
    • ンカン属の学名Fortunellaは、彼に献名された。
    • シュロの学名Trachycarpus fortuneiは、彼に献名された。
    • バラの品種、Fortune's Double Yellowは、彼の名前が冠されて命名された。
    • ツルマサキの学名Euonymus fortuneiは、彼に献名された。

Internet 書評
1848年、イギリス東インド会社は、とある男を当時外国人の出入りが禁止されていた中国内陸部へ送り込んだ。会社が彼に与えたミッションは、世界一経済的価値ある植物を中国から盗み出し、枯らしたり腐らせたりせずに元気な状態で別の大陸に無事移植できるよう手配すること。彼が狙った植物こそが、イギリスで大量に消費されていた「茶」である。本書の主人公、ロバート・フォーチュンは現代でいう産業スパイだ。
アヘン戦争直後の19世紀前半、イギリス東インド会社は壮大な計画を企てた。当時、清朝中国の最高機密であった茶の種と苗木を中国から盗み出し、その種や苗をインドに移植することでインドに紅茶産業を興そうとしたのである。当時、イギリスの人びとが愛飲していた紅茶は、ほぼ100%中国からの輸入に頼っており、輸入先の多様化が求められていた。東インド会社は、これを好機としてとらえ、第二の茶の生産地としてインドに目をつける。ただインドでは茶が自生していないため、良質の茶の苗を中国から持ち出す必要があった。ところが当時の中国は、茶の苗そしてその製法を決して外国に明かそうとしていない。茶がどのように、誰の手で栽培され、どんな製法で作られるのか、西洋人には謎のままだったのである。
そこで東インド会社が採った戦略が、中国へスパイを送り込み、中国の国家機密を盗み出すことであった。白羽の矢が立ったのが、当時売れっ子のプラントハンター、ロバート・フォーチュンである。東インド会社は、普通、25年間、重要な地位で働いた人にしか与えられないだけの年棒とスパイ中の全ての経費を負担するという最高の条件を提示し、フォーチュンを口説いている。それもそのはず、この壮大な計画が成功すれば、ロンドン3ポンドで売れる茶葉が1ペニーで摘めるようになり、会社は莫大な利益を生める可能性があったのだ。
本書はフォーチュンが辿った旅路を時系列的に追っていく。当時の中国は政情不安で、いくら変装しているとは言え外国人が旅するのはかなり危険な場所であった。海賊に教われることもあれば、乗船した船で外国人であることがバレてしまい命からがら逃げることもある。まさに命をかけたスパイ活動である。彼のスパイ活動が最終的に成功したかどうかは本書を読んでからのお楽しみである。成功しているのであれば、中国インドの歴史は大きく変わっていることになる。
本書の第18章では、紅茶産業が当時の世の中に与えた影響を列挙しており、「へー」と何度もうなずきながら読んだ。1850代、紅茶を一刻も早く市場に出すための競争が激化していき、結果的に快速帆船技術革新が数多く起こったそうだ。当時開発された紅茶専門の快速帆船「ティークリッパー」は今でも世界最速の帆船であり続けている。また、ウェッジウッドやロイヤルドルトンなどを輩出しているイギリスの磁器産業は、茶の大衆化なくして発展することはできなかったと解説する。
ちなみにフォーチュンは茶だけでなく、数々の東洋の植物を西洋に紹介している。キク、ラン、ユリなどは全てフォーチュンが紹介した鑑賞植物だ。花好きであれば、彼の名を冠したFortune's Double Yellowというバラを知っているだろう。彼は日本にも2度来日しており、親日家である。日本人の国民性をこう表した人が主人公と知りながら本書を読むと、より親近感を持って本書を読み進められるだろう。


紅茶スパイ サラ・ローズ著 19世紀の技術移転プロジェクト
日本経済新聞 書評 2012/2/19


 所詮は紅茶、他愛ない嗜好品だが、植民地主義の時代である19世紀中葉、中国産の茶は、イギリスの綿布をインドに輸出し、その売上でインドの阿片(あへん)を買って中国に売り、そのまた売上で中国の茶をイギリスに輸入する、所謂(いわゆる)「三角貿易」の一辺を占める堂々の一大貿易品目であり、その輸入税と販売税は英国政府の財源の実に1割を占めていた。
(築地誠子訳、原書房・2400円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 そこで誰しも考えるのは、中国が独自に阿片の生産を始めたらこの貿易システムはどうなるのか、だ。悪名高き英国東インド会社は危機感を覚え、インドでの茶の生産を始めようとするが、産地として適切と目されるヒマラヤ山麓に自生する茶の木は、必ずしもイギリス本国のニーズに合致する品質を持ってはいなかった。そこで、既に中国探検から様々な植物を持ち帰り、探検記によって名を上げていたプラントハンター、ロバート・フォーチュンに、中国の茶の産地から苗を持ち帰り、製茶職人をヘッドハントするよう依頼する。言わば、インドへの紅茶の技術移転プロジェクトの一端を担う探検行だ。
 フォーチュンの、中国人のガイドを伴い、中国人に変装しての道程は、今日なお名高い中国茶、武夷(ぶい)岩茶の産地である福建省に至る。時は1848年から49年に掛けて、太平天国の乱の前夜の不穏な状況の中でのことだ。1980年代、中国進出に先鞭(せんべん)を付けた日本のビジネスマンや企業が直面したのとほぼ同じような、現地の習慣や文化が、この旅を更に不穏なものにする。しかもこれは、完全に非合法な、言わば産業スパイ行為である。
 ダージリン地方の初摘み紅茶は、日本の小売価格で、100グラム7000円以上するものもある。その茶の木の起源がインドではなく中国であり、帝国主義はなやかなりし時代の野心溢(あふ)れるイギリス人たちによるイノベーションの産物であることは、本書で初めて知った。価格相応の美質を引き出すよういれるのがなかなか困難なお茶ではあるが、この本を読んだ後では、背後にある植民地主義の無理無体も含め、一際複雑な味わいに感じられるのではなかろうか。
(作家 佐藤亜紀)

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