高校紛争  小林哲夫  2012.6.17.

2012.6.17. 高校紛争 1969-1970 「闘争」の歴史と証言

著者  小林哲夫 1960年神奈川県生まれ。教育ジャーナリスト。95年より『大学ランキング』(朝日新聞出版)の編集に携わる。

発行日           2012.2.25. 発行
発行所           中央公論新社(中公新書)

1960年代後半から70年代初め、高校生が学校や社会に激しく異を唱えた。集会やデモを行うのみならず、卒業式を妨害し、学校をバリケード封鎖し、機動隊に火炎瓶を投じた。高校生は何を要求し、いかに闘ったのか。資料を渉猟し、多くの関係者の証言を集めることで浮かび上がる、紛争の実像。北海道から沖縄まで、紛争の源流から活動家のその後の人生までを一望する、高校紛争史の決定版


まえがき
忘れ去られた歴史がある ⇒ 高校が政治紛争の場となり、バリケードが築かれ、機動隊が侵入し、生徒が逮捕される、学校は荒れ放題となり、お互いに「高校闘争」「高校紛争」と呼んで高校生と学校が対立した
文部省の『学制120年史』(1992年編纂)には、「大学紛争を契機に一部高校生が暴力的な政治活動に走る現象が生じ、昭和44年にはこのような事例が全国的に多発した」とあるが、「大学紛争」だけが契機ではなく、それぞれの高校が抱える事情、そして地域性が、紛争の背景や本質と大きく関わっている
最盛期は699月~703月。社会問題として大きく取り上げられ、多方面から高校教育の存在意義を問われた

1.    反戦高協 ⇒ 65年結成
上部組織 ⇒ 中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)
227校、1900
2.    反戦高連 ⇒ 68年結成
上部組織 ⇒ 革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)
39校、450
3.    反帝高評 ⇒ 67年結成
上部組織 ⇒ 革労協(革命的労働者協会)、社青同解放派(社会主義青年同盟解放派)
36校、300
4.    社学同高委
上部組織 ⇒ ブント(共産主義者同盟)
53校、500
5.    高校生解放戦線
上部組織 ⇒ ML(日本マルクス・レーニン主義者同盟)
53校、220
6.    国際主義高校戦線
上部組織 ⇒ 第四インターナショナル日本支部、日本革命的共産主義者同盟
22校、270
7.    プロ軍団高評
上部組織 ⇒ 第四インターナショナル日本支部、日本革命的共産主義者同盟BL
11校、80
8.    全高闘連
上部組織 ⇒ 共産主義労働者党
不明
9.    高反協
上部組織 ⇒ 全国フロント、構造改革派(統一社会主義同盟)
不明


第1章     19691021日 都立青山高校
機動隊が青山高校に入る ⇒ 青山高校全学共闘会議(全共闘)のメンバー4人が学校に立て籠もり、250人の機動隊と対峙 ⇒ 7人逮捕、少年鑑別所送りとなり、釈放されたのは1か月後。さらに6人に逮捕状が出され、教師が首実検の証人となったことが問題視
69.1.26. 青高反戦会議結成 ⇒ 反戦高協の支援を受け、紀元節復活反対高校生統一集会に参加、1人逮捕
新年度の学力テストボイコット(90人が参加)、他行生徒が来て無断の反戦集会、8月静岡県立掛川高校の生徒退学処分への抗議行動に参加(8人、うち1人が不法侵入で逮捕され、教頭と母親が身元を明かしたことが青山高校紛争の火種となる)、処分問題で校長室占拠、警官隊出動(退去を拒んだ生徒1人逮捕)、一般生徒が学校の対応に怒り、学校はロックアウトと文化祭中止を決定し火に油を注ぐ
学校側は「反省と決意」を発表、機動隊導入や文化祭中止の連絡の不徹底を詫びたが事態は収拾できず、バリケードを築いた全共闘との話し合いが進まないまま、10.21の国際反戦デー(66年のベトナム反戦統一ストが契機となって始まったもの)に突入
退学処分や誓約書の提出を含む厳格な処分と校内への出入りの管理強化により紛争は収まったが、教師と生徒の間の信頼関係が失われた
紛争の背景の1つに学校群制度の導入がある ⇒ 67年の入試から開始。戸山と一緒の群だったことから、戸山に行けなかった不満を持って入学した生徒が生まれた(入学時のアンケートで半数が青山に来てよかったと思っていない結果が出た)のが原因とする説もあるが、それでは日比谷で紛争が起こった理由の説明にはならない
青山に伝統としてあった政治的関心ないし活動が、52年のメーデー事件(教師、生徒逮捕)56年の原水爆禁止運動(高校全体の活動拠点となった)60年の安保闘争等で高められていた
70.5. 全共闘リーダーに対する地裁裁判開始 ⇒ 72.5. 18か月の実刑判決

第2章     紛争の源流をたどる
1948年 新制高校・大学発足 ⇒ 高校にも生徒会があったが、全学連のような全国規模では組織化されず、日本共産党は革命家養成の観点から、同党傘下の民主主義学生同盟(民学同)に高校班を設置。GHQから「学校における政治活動の禁止」の通達が出される。浦和高校では退学処分騒ぎも。都立第一高校(日比谷)、五高(小石川)にも民学同が生まれ、父兄会費値上げ反対や機関誌を発行したが、活動分子の卒業とともに自然消滅
52年のメーデー事件では、高校生からも逮捕者が出たが、高校生だけの組織だった動きはまだない。同年の破防法反対では京都府立鴨沂(おうき)高校でスト決行、私服が構内に入り生徒を逮捕
50年代は米軍の基地や演習関連で、高校にも紛争が飛び火
54年原水爆禁止運動にも高校生が参加
53年京都府高等学校生徒会連合協議会発足 ⇒ 授業料値上げ反対が主流
54年には高知県でも生徒会連合が結成される ⇒ 教育委員会の指導に従わない校長に対する処分に抗議
60年安保闘争 ⇒ 全学連主流派に近い高校生組織として「安保改定阻止高校生会議」と、反主流派に繋がる組織として「平和と民主主義を守る高校生協議会」が結成
諏訪清陵のように教師と生徒が一緒になってデモをした例もあるが、総じて県教委と地元警察署は反対し、学校も生徒の動きを止められなかった
60年代前半になると、京都、高知の活動も自然消滅へ ⇒ 後半になって党派系列の各種組織が誕生し、高校紛争で大きな役割を果たす

第3章     社会への反攻、学校への抵抗
67.10.8.(じゅっぱち) 佐藤首相の南ベトナム訪問反対集会 ⇒ 羽田闘争と呼ばれる機動隊との衝突で京大生1人死亡したのが60年代後半の学生運動、全共闘運動の出発点となる ⇒ 京大生の母校大阪府立大手前高校は早くから高校紛争の原型ともいうべき出来事がいくつも起こっていた(生徒の自治を要求する活動)
68.9.2. 大阪府立市岡高校で生徒が校長室占拠 ⇒ 大手前と共謀した初めての学校占拠、ヘルメットの登場、校長権限強化に反対
西の市岡に対し、東は九段が「拠点校」として狙われたが、東京では高校生組織の横のつながりが大阪ほどではなかったために、ことなきを得る
69.1.18/19. 安田講堂攻防戦 ⇒ 高校生は帰されたが1人だけ逮捕。東大入試中止が決定した方が衝撃が大きかった
69.3.卒業式闘争 ⇒ 都立武蔵丘高校が最も荒れ、警官隊が出動し6人逮捕

第4章     高校生は何を問うたか
高校紛争のピークは、年度で区切れば69年度、集中したのが69.9.70.3.
全国で208件、35都道府県176校で発生。東京の59校が最多
生徒側から出された要求項目
    生活指導、校則
    教育制度 ⇒ 紛争が起こった高校の多くは地域のトップ校
    学校運営、政策
    政治課題

第5章     活動家の実像
活動家は、民青系100011500人、新左翼系7405800人。紛争を担ったのは後者
高校総数4817、高校生総数約4338千人のごく一部だったが、大きな社会問題化したのは、前年から活動家が急増した(1年で約倍増)ことと、封鎖やデモによる検挙者が増えた(69年は319659人と、学校数で4.5倍、人数で5.3)から
検挙された高校生は、釈放されるか少年鑑別所送り
進学校、知的レベルが高く、裕福な家庭の生徒が多い
自殺者も出る
家族帝国主義との闘争 ⇒ 親との断絶、学校からの孤立、将来への不安、党派活動による消耗など、高校生ならではの悩みが見られる
69.2. 清水谷公園での反戦高協(中核派)と反戦高連(革マル派)の衝突 ⇒ 高校生組織は対立党派を厳しく批判、内ゲバが高校生にも及び激化した
高校生運動論が確立する前から、組織ができ実際の行動が起こされたのが現実で、理論的裏付けの無い組織は70年代後半には事実上消滅

第6章     紛争重症校列伝
文部省は、大学と同じ様に高校についても封鎖等で授業の行われなかったところを「紛争重症校」と見做し、学校長に生徒への指導を厳しく行うよう通達した
エリート校の問題提起 ⇒ 日比谷、灘、国立大の附属高校
日比谷 ⇒ 70年卒業生のアルバムの集合写真にはやたらと欠席者が多い
「生徒の要望を真摯に受け止めるべき」と主張した大河原教論が年度の途中で3年の担任を外され定時制に異動。
69.10.8.全闘連が如蘭会館封鎖、69.3.の卒業式への警察官導入の自己批判、文部省手引書の拒否などを訴え ⇒ 17日教師によって封鎖解除 ⇒ 22日再封鎖 ⇒ 23日から休校 ⇒ 28日機動隊導入、立て籠もっていた全闘連を排除、生徒2人逮捕 ⇒ 校門周辺を鉄板で高塀化、ガードマンによる警備、生徒に入溝証携帯義務付け、クラブ活動停止、ホームルーム休止、無許可集会禁止 ⇒ 清水谷公園で生徒の抗議集会 ⇒ 11月無期停学を含む処分発表
学校は力でねじ伏せようとし、生徒の不信感を増幅、紛争を契機に教育を見直すという機運は高まらなかった
灘 ⇒ 70.6.全校集会を行い、3日間のストライキ権を確立、全日ホームルームとして教師と生徒で様々な議論がなされる ⇒ 定期テストを個人の自主的活動を妨げ、いたずらに能力差別を引き起こすとして全廃を決議したが、学校側は学力テストと称して強行、学校の教育体制が大きく揺らぐことはなかった
教駒 ⇒ 69.12.8. 大学の筑波移転、校名変更に抗議して校舎封鎖
学芸大附属 ⇒ 69.10.18.試験制度廃止、生徒心得の撤廃を求めて校長室封鎖

負のスパイラル ⇒ 学外の闘争に参加した活動家を厳しく処分したことによって、紛争が拡大したのが掛川西高(ベトナム反戦)と磐城(成田闘争)
長期化 ⇒ 札幌南と仙台一高では紛争が2年以上にわたって300人以上を動員
稀なる勝利 ⇒ 69.11.愛知県立旭丘は、教師が校長の反対を押し切って生徒の政治活動を認めて県教委に反旗を翻し、1048人のデモを敢行。現在でも管理教育とは無縁のままで、県内で唯一制服自由化を貫いている
麻布でも、71.11.体制側の校長代行が自ら退いて生徒側が「勝利」 ⇒ 前校長が認めた自主活動の自由をすべて否定した新校長代行の強権的恐怖政治に教師も反発、反校長運動が激化・長期化 ⇒ 校史に1/5のスペースを割いて紛争の詳細を伝えるのは珍しい

第7章     紛争はどう伝えられたのか
70年に入ると紛争も沈静化 ⇒ 3月の卒業式への妨害行為は全国で354校 ⇒ 前年比倍増だが衝撃度は低く、都内では5000人以上の警察官が配備されたが静かだった
新年度開始にあたって、学校側は政治活動をさせないための管理・警備強化や、校則違反者への厳しい罰則等により厳しい締め付けを行う ⇒ 高校紛争の終焉の最大の要因
高校生活動家が残した置き土産は様々 ⇒ 学校側への要求のうち、制服自由化、試験廃止、自主講座開講などが実現
高校紛争の影響、評価 ⇒ 公立の場合は建学の精神が存在せず評価の尺度がないのと同時に、バリケード封鎖という出来事が当時の学校関係者の間で整理されておらず、いまだに語りにくい側面があるため、紛争の検証にはなお時間が必要
高校紛争で最も不幸なのは、生徒と教師の修復不能な関係が延々と続くこと
紛争の基礎となる思想が、自分自身の人生体験やそれによる疑問から生み出されたものではなかったのは残念
校則等学校の管理・運営システムについては、80年代以降の高校生は管理されることに抵抗を覚えず、管理された方が楽だという風潮が広がり、厳しい管理に異議を唱える生徒もいたが、運動体として活動することはなかった
教育体制については、大学進学実績面での「凋落」が顕著となり、進学校化させる政策が打ち出されたが、生徒側からの異議を唱える声はほとんどなかった
高校紛争は「多感」と「時代」によって生まれたと言える ⇒ 学生運動との決定的違いは、政治闘争より校則や教育制度改革運動としての側面が濃い点にある
政治活動禁止 ⇒ 反原発、原水禁運動も、教育基本法で禁止される「政治活動」に違いないが、生まれて初めて社会のあり方に対して自分なりに受け止めて、考え、行動したのではないか。69年の文部省見解がいまだに適用されるならば、こうした芽を摘むことになり、人間の成長を妨げることになるのを恐れる



高校紛争 1969―1970 小林哲夫著 変革を求めた生徒たちの連帯 日本経済新聞 2012/4/1
フォームの始まり
フォームの終わり
 この労作によると、「高校紛争」のピークは1969年9月~70年3月であった。この間の紛争数は35都道府県、176校で合計208件であった。これらの闘争において高校生たちが掲げた目標は生活指導・校則・試験やクラス編成のあり方、ベトナム戦争反対等の政治課題など、身近なものから思想的なものまで多岐にわたっていた。
 読み進めながら驚嘆するのは、高校紛争の担い手たち、活動家だけでなく、そこへと全身で加担していった多くの高校生たちの日常における生活感覚、社会感覚、政治感覚の鋭さ、深さである。同じ年齢時の自分と比較することなどおこがましいと思えるほど、鮮烈である。言葉足らずの面を、体ごとのその反秩序行動のラジカリズムが補っている。
 対照的に、ほとんどの教員、学校管理者たちは、強い秩序意識でもって、高校生たちの行動を、なるべく低く、安く見積もろうとしていたことがわかる。たんなる暴動、破壊行為とみなし、幼稚で価値なきものとして扱おうとしたことだ。その典型が非行少年扱いであった。
 むろん例外もある。ある教師は、普段は学習意欲がなくどんよりとした目をしていた生徒が学舎封鎖に参加して目を輝かせていたことに衝撃を受ける。そこからいかにこれまでの教育が「生徒の目を輝かせる」ことをおろそかにしてきたかという内省へとつなげていったのだ。著者は、高校紛争の最大の成果をここにみている。だが、その後の学校現実は、このような内省に立った教育を無化していったように思える。
 以下は読後の個人的な感慨である。61年、私が卒業した都立高校は進学した大学以上に自由感があった。にもかかわらず、私は通学に熱心ではなかった。自治とか校風とかの以前に学校というあり方そのものに馴染(なじ)めなかったのである。ここに描き出された光景は、私がひとり離脱したかったその学校に、生徒同士が連帯して変革を求め、挑む姿である。このような彼我の違いを確認できたことも、この本を読んだことの利得であった。
(評論家 芹沢俊介)

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