ブラックストーン  David Carey & John E. Morris  2012.6.24.

2012.6.24. ブラックストーン
King of Capital : The Remarkable Rise, Fall, and Rise Again of Steve Schwarzman and Blackstone

著者 
David Carey 1999年ニューヨークを本拠とするプライベート・エクイティとM&Aの専門誌『ディール』に入り、シニア・ライターとして20年に渡りプライベート・エクイティ業界を取材。それ以前は『コーポレート・ファイナンス』のエディターを務め、各誌に寄稿。ワシントン大学で学士号、プリンストンでフランス文学の、コロンビア大でジャーナリズムの修士号を持つ
John E. Morris 『ダウ・ジョーンズ・インベストメント・バンカー』のエディター。それ以前は『エディター』のロンドンとニューヨークで副編集長。9399年『アメリカン・ロイヤー』のエディター・編集責任者。ジャーナリストになる前は、6年間弁護士。カリフォルニア大バークレー校で学位、ハーバード大で法学博士号取得

訳者 土方奈美 慶應大文卒。95年日本経済新聞社入社。日本経済新聞、日経ビジネス記者。08年退社。米国公認会計士。フィナンシャル・プランナー。経済・金融分野を中心に翻訳活動を行う

発行日           2011.12.22. 発行
発行所           東洋経済新報社

「野蛮な来訪者」から、産業界の救世主へ――
ブラックストーンをはじめとするKKR、カーライル、アポロ、TPG(Texas Pacific Group)などのプライベート・エクイティ各社は、浮き沈みの激しいウォール街で如何に振る舞い、その存在を高めてきたのか。
大きな話題となったKKRナビスコの買収以降、彼等が仕掛けた歴史的なビッグ・ディールを紹介しながら、業界の栄枯盛衰を展望する

ブラックストーンの物語は、プライベート・エクイティ業界の歴史そのものだ。そこにはこの業界が、一大産業に成長するまでの軌跡が描かれている。
ブラックストーンの歴史は、1人の企業家の一代記。シュワルツマン(とピーターソン)は、大手投資銀行に匹敵するほどの投資・アドバイザリー能力と資金力を兼ね備えた、抜群の収益力を誇る新しいタイプの有力プレーヤーを作り上げたのだ


2007.2.シュワルツマンの還暦の誕生パーティーが、643 Park Av.のパークアベニュー・アーモリーを借り切って開催、総額3百万ドルと言われる ⇒ 5週間後に発表されたプライベート・エクイティとして初の株式公開計画の序章
622日公開 ⇒ 31ドルから38ドルへ急騰、時価総額は380億ドル(GS1/3)
2006年の業績 ⇒ 60人のパートナーで23億ドルの利益
2008年の金融危機の煽りで、株価は1/10以下となり、投資家も大損をしたが、苦境に陥った金融機関の救済策として最初に協力を求めたのはプライベート・エクイティ。資金不足額が大きすぎて不成立
2009年の自動車業界救済の時も、政府はプライベート・エクイティを頼る
金融システムの重要な柱の1つという立場は一段と強固になっている

1978年 無名のKKR(コールバーグ(50:ベア・スターンズのディレクター)、クラビス(32: タルサ出身、ロバーツの従兄弟、石油技術者の息子)、ロバーツ(33:石油長者の息子)7625百万ドルで創業)380百万ドルのLBOによって産業ポンプメーカーのフーデイル・インダストリーを買収 ⇒ 公開企業対象のLBOでは飛び抜けて高額のディール
LBOの仕組み自体は1950年代後半から60年代にかけてウォール街で生み出されたもの ⇒ 多額の借入金のため、利息支払いによる節税効果が大きい ⇒ 納税者が補助金を出しているようなもの
Gibson Greeting Card(ガーフィールドの権利を持つグリーティングカード・メーカー) ⇒ 長年RCAのお荷物だったが、1982.1.LBO会社のウェスレイ(元財務長官のビル・サイモンが共同創業者)80百万ドルで買収。出資金はわずか1百万ドル。16か月後の公開時の企業価値は290百万ドル ⇒ 世の中の景気が回復し株価が急上昇していたのに乗っただけの幸運の結果
リーマンでパートナーに昇進したばかりのシュワルツマンが、2つのディールを見ながら、新たな金脈を発見したと興奮 ⇒ Gibsonの時は担当バンカーとして、売却価格が安すぎると助言していた
元商務長官のピーターソンも、1973年副会長としてリーマンに入社した時から、財政状況の悪化した同社を再び商業銀行に戻すという希望を持っていて、新しい金脈に興味を示した一人 ⇒ ネブラスカで24時間営業のコーヒー・ショップを経営するギリシャ移民の家に生まれノースウェスタン大を首席で卒業、夜学でシカゴ大のMBAを取得、マーケティングの才を活かして20代デマッキャンエリクソンのシカゴ代表に抜擢、テニス仲間でベル&ハウェルの経営者パーシーの引きでマーケティングの責任者として入社、61年社長、66年にはパーシーが上院議員となったのでその後のCEOを引き継ぐ。71年長年付き合いのあったシュルツ(後の財務長官)の紹介でニクソンの国際経済に関するアドバイザーに就任、1年後商務長官となり、ソ連との間に包括的な貿易協定を締結したが、リベラル派との広い交友関係を大統領他共和派から攻撃されたのを機に73.2.退任。複数のウォール街の銀行から誘われた中で、商業銀行としての長い伝統に惹かれてリーマンを選ぶが、強烈なリーダーシップを発揮していたボビー・リーマンが69年に亡くなって以降凄まじい内部対立で有名だった ⇒ 直後にグラックスマン率いるトレーディング部門の巨額の含み損が発覚、CEO退任の後を継いで突如再建を委嘱され75年には復活を果たし、『ビジネスウィーク』もその偉業を称える
リーマンの激しい社内抗争の中でピーターソンは、投資銀行部門のM&A委員会のリーダーだったシュワルツマンを気に入り、タッグを組んで大きな取引先を獲得していった ⇒ インターナショナル・ハーベスター、ベンディックス、CITフィナンシャル(RCAが買収)、トロピカーナ(ベアトリスが買収)等々
1983.10. 内部抗争の懐柔策としてグラックスマンを共同CEOとしたが、反乱を起こされて辞任 ⇒ 翌年トレーダー部門が巨大な損失を出し再び危機に陥った時、シュワルツマンがアメックス傘下のシェアソンに買収を持ちかけ、360百万ドルで身売りに合意
ピーターソンは、知り合ったばかりのベンチャー・キャピタリストのジェイコブスと組んで投資銀行の立ち上げ計画を温めており、シュワルツマンの参加を期待したが、シェアソンによる非競争契約に縛られていたため、シェアソンの顧客から収入を得た場合は半額を提供する条件をのんでシュワルツマンを獲得し、ブラックストーン・グループを立ち上げた ⇒ 今日まで怨みが残るディールに

LBO活性化の要因
    60年代に成功したコングロマリット(ジェニーンのITTやサーノフのRCA、リットン等)が、徐々に投資家の支持を失い、コアビジネス重視に回帰し、それ以外を売却するようになり、投資銀行の格好の標的となった
    新たな資金調達の道が開けた ⇒ 立役者はジャンク債を生み出したドレクセル
勃興期は、同族経営の会社が標的。資金量の拡大とともに公開企業やコングロマリットの主要子会社など大企業を狙う
KKRLBO業界の支配者、次いでフォーストマン・リトル
最初の当たり年は、金利が急騰し景気が壁に突き当たり株価が急落して企業が苦境に陥った1981年 ⇒ コングロマリットの解体で放出された子会社の多くを拾い集めたのがLBO会社。80年代後半にかけては、KKRによるベアトリスの買収のように、コングロマリットそのものまで買収の標的となった
アイカーンやペレルマンに代表される「乗っ取り屋」の登場と、過剰なまでのジャンク債依存が非難の対象となり、遂にはインサイダー事件を契機としてドレクセルは破綻へ

1985.10.ブラックストーンの誕生 ⇒ リーマンの株式売却でピーターソンは13百万ドル、シュワルツマンは6.5百万ドルを得ていたが、2人が出資したのは併せて400千ドルのみ、それ以上出資する積りはなかった ⇒ 59歳のピーターソンが顔のきく経営者に渡りをつけ、経営者の味方に付いて、38歳のシュワルツマンがディールの契約を取りつける
アドバイザリー業務から初めて、LBOへの運用資金を集めるが、苦労の連続
LBO出資に積極的だったプルデンシャルの出資を得て、息を吹き返す ⇒ 日本での資金集めにも役立ち、日興証券を皮切りに三菱グループとの深い繋がりが出来る
1987.10.15.635百万ドルを集めたところで募集締め切り ⇒ 翌週月曜日がブラック・マンデー。6年間の管理報酬を約束され、正真正銘の事業体として船出
LBOに興味を持つ一方で、ソニーによるCBSの買収(20億ドル)、ブリヂストンによるファイアストンの買収(26億ドル)等のM&A案件も手掛ける
89年初のLBO案件がUSXの輸送子会社売却に関連してまとまる ⇒ ケミカル・バンクがシンジケート・ローンを編み出して銀行融資の世界を一変させ、LBO業界の爆発的な成長において、ミルケンと同じような決定的な役割を果たすとともに、後にJPモルガン・チェースとなった後もブラックストーンとの緊密な関係が続くスタートとなる
88年 M&ALBOを手掛ける小規模ファンドが華々しく登場 ⇒ ワッサースタイン・ペレラ(ファーストボストンからのスピンアウト)とロデスター・グループ(メリルのケン・ミラーが独立)
史上最大のディールは、88年のRJRナビスコの313億ドルの買収案件 ⇒ 株価低迷に不満だったCEOのジョンソンがシェアソンのピーター・コーエンと組んでMBOを企図したのに対抗してKKRがそれを上回る価格を提示して奪い取ったもの ⇒ 厳密な意味で「敵対的買収」ではないが、KKRも乗っ取り屋と同類と見做されるようになった
80年代末の経済環境の悪化で信用収縮が起こり過剰債務にまみれたLBO業界は苦境に
RJRも金利急騰で破綻の危機に ⇒ KKRが追加出資して破たんは免れたが、何年も後にKKRRJR関連の持ち分をすべて売却し終えたときには損失が7億ドルを超えていたし、87年にKKRが集めた当時としては史上最大の61億ドルのファンドの出資者は、9%という月並みなリターンしか得られなかった ⇒ このディールへの「歪んだ思考と強欲と権力欲の産物」という評価が決定的なものとなる
KKRの蹉跌を機に次世代を担う新しいプレーヤー4社が登場
    カーライル・グループ ⇒ カーター政権の要職を務めたルーベンシュタインがワシントンDCで始め、防衛産業で実績を積んで頭角を現す
    ヒックス・ミューズ ⇒ ディール・メーカーで名を馳せたトム・ヒックスが独立
    アポロ ⇒ ドレクセルから独立したブラックストーンが創業、価格が急落したジャンク債を廉価で買い取って巨額の利益を手にする
    テキサス・パシフィック・グループ ⇒ 訴訟弁護士として鳴らしたボンダーマンがコールターと共に、テキサスの銀行家バスの元から独立して創業
ブラックストーンは、LBO案件でのもたつきもあったが、徐々に買収企業がIPOを始め、利益を出すようになっていったが、利益のうちピーターソンの取り分が削られた92年頃から両者の関係に溝 ⇒ 金に対する価値観の違いが大きかった
シュワルツマンの激しい性格から、経営陣の入れ替わりも頻繁、シュワルツマンの離婚に伴う多額の慰謝料支払いもあって
最大の損失は、債券部門担当のフィンク(ファースト・ボストンでモーゲージ担保証券を生み出し優良事業化に貢献)の退職と、彼が大きくした子会社ブラックストーン・フィナンシャル・マネジメント(ブラックロック・フィナンシャル・マネジメントに社名変更)の売却 ⇒ 人材採用の際の会社の持ち分譲渡を巡るシュワルツマンとフィンクの対立が原因で、ピッツバーグの銀行に売却、その後世界最大の上場資産運用会社に急成長、フィンクはウォール街の寵児となり、アメリカ経済再生に向けたオバマ政権のアドバイザーにも就任 ⇒ ブラックストーンもそのパートナーも相当のリターンを得たが、売却が早すぎた
90年代初頭の景気後退で市況の悪化した不動産事業へ進出、新たなファンドを立ち上げ、デバルトロ(ショッピングモールの経営)やキャデラック・フェアビューへ(トロントでショッピングモールを運営)の投資で大成功を収める
9293年頃からLBOが新たな形で復活 ⇒ 融資先から高い自己資金比率を求められ、「プライベート・エクイティ」と名前を変え、出資比率を2030%に高めるとともに、買収企業の経営改革に注力したりして利益を確保する方法を再考し始める
ハイテクブームに乗って現れたベンチャー・キャピタルの成功によって、年金基金や大学基金はこぞってベンチャーやハイテク企業に特化した投資ファンドにより多くの資金を振り向けるようになる ⇒ ベンチャー・キャピタルもプライベート・エクイティも不動産もすべて「オルタナティブ(代替)資産」という範疇(高いリターンが得られる投資手段という意味)に入ったが、99年にはVCが企業買収ファンドをほぼ肩を並べる590億ドルを集め、翌年にはそれが倍増して買収ファンドを凌駕
ブラックストーンもVCに対抗して参入しようとしたが、知識もノウハウもなく、かろうじて手を付けたメディア・通信専門のファンドでは、ドイツテレコムの子会社売却案件に投資家の一員として参加したが大失敗、アルゼンチンの携帯電話会社の案件でも損失、ハイテクバブル崩壊の煽りをまともに受けたものの、他のプライベート・エクイティよりはまだまし
2001.9.11.のテロで株式と債券市場は生気を失い、追い打ちをかけるようにエンロンとワールドコムの破綻でLBOはほとんど死に絶えたが、ブラックストーンは企業再生、M&A部門にとって恩恵をもたらす
資本コストの上昇に伴い、より高いリターンを求めて投資先を物色 ⇒ 9.11で新規保険引き受けに尻込みする再保険業界に目を付け、プライベート・エクイティ4社が共同出資で再保険会社アスペン・インシュアランスを設立
破綻企業や不振企業の社債への集中投資も実施
経営体制の強化 ⇒ DLJ(ドナルドソン・ルフキン・ジェンレット、CSFBに買収)でスーパースターだったトニー・ジェームスを2002年末にスカウト、先ず投資部門の規律を確立、リスク分析を厳格化、パートナーの360度評価実施、過去の実績の徹底分析、銀行取引関係の見直し、システム化の推進等会社の体裁を為すようになってきたが、2004年頃から景気回復とともに年金基金はじめ機関投資家たちがこぞって新たな資金を投じたこともあって、次々にパートナーたちが独立していった
2002年央辺りから従来型のLBOの復活のチャンス到来 ⇒ 69億ドルのファンド立ち上げ、ドイツ・セラニーズ(ヘキストに買収されたが、アメリカの会社に戻して公開し利益を上げる)の買収を始め、景気循環型の業種に狙いをつける
2003年が景気の転換点 ⇒ 過去の投資先の売却で得た利益が次の企業買収ファンド積み上げに大きく貢献。株価も40%近く上昇、投資家がIPOを熱望するようになり、LBOの下地が整う。04年にかけてハイイールド債市場も復活、金利が劇的に低下。プライベート・エクイティ相互間での2次的な買収も頻繁に見られた
シモンズ・ベッド ⇒ 1991年にメリルが買収してから2007年までに4回買収が行われ内3回までは大成功、年間キャッシュフローは6倍以上に急増
景気の好転で投資回収が早まったことから買収ファンドの年率リターンが急騰 ⇒ ブラックストーンのファンドの中には年率70%超まで出現、他社を圧倒
州政府や地方政府の年金基金が出資者全体の50%を占める主要な投資家となった
ブラックストーンでは、収入の1/3がファンドの手数料となり、投資案件の成否に関わらず大金が転がり込むようになった
BDC(Business Development Corp.) ⇒ 2004年初め個人投資家のニーズを充足するため、利益の大半を投資家に分配すれば法人税を非課税とする特典を活用、一般投資家を株主とする新会社を作って投資資金を呼び込み始める ⇒ プライベート・エクイティにとっても恒久的な資金が手に入るというメリットあったが、高額のIPO手数料に嫌気したか、公開後の株価が額面割れとなり失敗
2005年春 大型買収案件復活 ⇒ 大型のファンドが組成され、ハーツ(非公開企業)、トイザらス、ニーマン・マーカス、ダンキンドーナツ(非公開)、バスキン&ロビンス他が標的となる。公開企業の非公開化が多いのが特徴で、企業不祥事への対応で整備されたSOX法の影響が大きいと言える。同時に「証券化」の推進によって融資資金が溢れだし、ジャンク債と米国債とのスプレッドも史上最低水準の3%に低下したことが買収価格を吊り上げる結果に ⇒ 2006年病院チェーンHCAの買収額は史上最大の330億ドルへ(KKR)
低金利を背景に、企業買収ブームは壮大なスケールで株主資本が負債に置き換わることを意味
2006年 かつてモトローラの子会社だったフリースケール・セミコンダクターの非公開化の買収には辛うじて成功したが、多額の株主資本が拠出されたとはいえ、財務内容は根本的に変わり、負債は買収前の832百万ドルから94億ドルに急増、年間の利払いも約8億ドルと買収前の約10倍に膨らむ ⇒ 誰もがビッグ・ディールをやりたがって、社内のパートナー間の野心や競争心の激突が見られ、加熱状況にブレーキが利き始めたのは2006年の終わりごろ
2007.1. アメリカ最大の商業不動産会社エクイティ・オフィス・プロパティーズ(サム・ゼルが70年代から差し押さえ寸前の物件を買い漁り相場の回復を待って巨万の富を手にした後、シカゴを拠点に高級不動産の買い集めていた)360億ドルで買収、保有資産の大半を高値で売却し、残ったごく一部を破格の安値で手に入れた ⇒ 不動産専門プライベート・エクイティ事業の先駆け。投資業界ではニッチ部門だったが、激しい買収合戦もなく、企業買収ファンドより安定したリターンをもたらした

IPO ⇒ 2005年末にGSが提案した時は75億ドル、推定200億ドルともされたが、ブラックストーンは契約によって結びついた100余りのパートナーシップや企業、ファンドの集合体(パートナーシップ)であり、株式公開が可能な単一の親会社は存在しなかったし、支配権も複雑
公開のメリット ⇒ 持ち株売却による資産の分散(ピーターソンとシュワルツマンの当初の約束では持分の売却はおろか、親族に相続させることさえできなかった)、買収案件や人材採用の際の武器として有効、パートナーが手掛けた投資から利益を売る権利は投資が実施された日に確定し会社を辞めてもexit時点で実現した利益を受け取ることができる仕組みになっていたが新しい計画では8年かけて新たな自社株を受け取ることになりそれ以前に退職するとその後の分は放棄させられることになっているためパートナーが長期的利益を得るために会社に留まらせるインセンティブを与えることになる
MLP(Master Limited Partnership)に再編、MLPを管理するのはブラックストーンの既存パートナーが保有する別のパートナーシップとし、一般投資家はLimited PartnerUnit Holder(持分証券保有者)となり、取締役選任権がないなど限られた権利しか持たない
パートナーに認められた将来的利益を受け取る権利を、再編後のブラックストーンの株式(持分証券)と交換する際の評価が問題となったが、既存案件の大部分はパートナーたちの権利を維持するために公開会社への移行を見送った
2007.1. モルガン・スタンレーとシティを主幹事に指名 ⇒ 準備開始後6か月してピーターソンにも明かされ、ピーターソンは敢えて反対はしないが、公開のメリット・デメリットをよく検討するよう忠告した。一方で、小型のプライベート・エクイティの上場が注目を集め、公開初日には売り出し価格の2倍以上に跳ね上がったこと、他の大手プライベート・エクイティにも上場の動きのあること等が引き金となって、漸く上場を公表
総収入が僅か1,120百万ドル、純利益が23億ドル(「収入」には該当しない投資収益が1,550百万ドルあった)という変則的な業績を公表
中国投資公司が急増する外貨準備の運用先として興味を示し、持ち分10%以下で無議決権株に30億ドル投資が決まり、売り出し総額は70億ドル、うち40億ドルがパートナーたちの手に入ることとなる
ピーターソンは持ち株の15%を放出(残りは4.2%)し、08年末で退職
シュワルツマンは23.3%(放出前は30%)、ジェームズは4.9%を保有することとなった
ワシントンではプライベート・エクイティやヘッジファンドの巨額利益や経営陣の高額報酬に対する批判が高まり、税制見直しの動き ⇒ 投資収益の20%という成功報酬に対し、通常の所得税率最高35%ではなくキャピタル・ゲイン課税15%が適用されていた
パートナーシップ法の下では、パートナーシップは種類の異なるパートナーに対する利益分配の方法を自由に選択できることになっている
シュワルツマンがマスコミでもてはやされるのをいいことに、ド派手な還暦記念パーティーを開いて顰蹙を買った上に、IPOで公開されたトップの報酬がシュワルツマンだけで398百万ドルと、GSのトップ5合計の2倍もあることが分かり、さらにマスコミから成金趣味のゴシップが溢れだし、間もなくブラックストーン課税と呼ばれるようになる法案が議会に提出される ⇒ 07.1.以降上場するパートナーシップを法人として課税
ロードショーで移動の最中、クウェートからロンドンに戻るチャーター機がイラン上空でエンジン1基が停止、通常なら最寄りの空港に緊急着陸するところ、残った1基のエンジンでもアテネまで何とか持ちそうだというので、アメリカ資本主義を支えるトップクラスの企業経営者が突然真夜中にイランに着陸するのは危険すぎると判断してアテネに向かい、代替機に乗り換えてロンドンに無事到着した
07.6.22. 政治家からの公開阻止に向けたあらゆる妨害を潜り抜けて上場 ⇒ 売り出し価格31ドル、終値35.06ドル。投資家の買い注文が殺到し売出株を15%増やしたので、総額76億ドル調達し、うち46億ドルがパートナーの懐に入った(ピーターソンは192百万ドル)、シュワルツマンは684百万ドル、55人のパートナーの平均が32百万ドル
公開の11日後にKKRも公開を申請したが遅すぎた ⇒ ブラックストーン株が公開されたその日にベア・スターンズが傘下のヘッジファンドに救済融資を実行、クレジット・クランチ(信用逼迫)の前兆となり、以降LBOファンドの募集は困難に
ブラックストーンの最初の買収ファンドをクローズしたのがブラック・マンデーの直前、今回のIPOもぎりぎり間に合った
630日オンタリオ教職員年金基金のプライベート・エクイティ部門(Teachers)が主導するカナダ最大の電話会社BCEによる買収案件の485億ドルが史上最高額 ⇒ 規制当局との折衝や資金調達の遅れから08.12.中止 ⇒ 史上最高額は、数か月前にKKRTPGのてがけたTXU(テキサスの電力会社)の買収案件480億ドル(高水準の天然ガス価格を前提にしていたので、その後のガス価格の値下がりで存亡の危機に瀕している)
LBO案件のうち、クランチの最初の犠牲者は「サリー・メイ」の通称を持つSLM(学生ローン会社) ⇒ プライベート・エクイティ2社が250億ドルで非公開化を予定していたが、低利調達の見通しが立たずに計画が頓挫
アポロが逃げ出そうとして笑いものになった1件 ⇒ テキサスの化学会社ハンツマンの108億ドルの買収案件に、合意直後に株価の50%増しでの買収提案により横取りしたが、その直後の原油価格上昇、景気後退で買収契約の破棄を求め訴訟合戦に。「業界全体に関する理由によって破棄することはできない」との契約条項により、賠償額は違約金325百万ドルに限定されないとの判決が出て、賠償額が数十億ドルに膨らむ可能性が出てきたため、10億ドルで和解。アポロ側についたクレディスイスとドイツ銀行も取引を潰そうとしたとして訴えられ17億ドルを払って和解
銀行業界に比べれば打撃は限定的 ⇒ 銀行のレベレッジは30倍にも膨れ上がっていたうえに、自己勘定でも多額のレベレッジの高い投資対象に資金を投入していた
それでも投資先企業の不振・破綻がプライベート・エクイティにも深刻な影響を及ぼし始め、大型LBOの多くが脇の甘い契約のため、不振になった段階での介入が難しく、救済を一層困難にした
破滅的な損失を被った代表格はサーベラス ⇒ 06GMAC51%買収のコンソーシアムをまとめたが、その後の危機でサーベラスの議決権は15%に削減されたし、07年のクライスラーの買収でも70億ドルの株主資本を集めたが09年の破綻で投資資金の大部分を失う
投資会社の直面する危機 ⇒ ①景気の悪化が債務比率の高い企業の首を絞めていたこと、②ファンドの投資家の余裕資金が底をついたこと(IPO市場の凍結で投資の現金化が出来なくなった)、③大量の債務の借り換え時期が1112年に迫っていたこと(信用市場の収縮)
ブラックストーンも開店休業状態で、株価も3.55ドルへと下落、シュワルツマンの報酬も基本給の350千ドルに留まる ⇒ 投資先で破綻したのは1社だが、無配に
不動産市場も凍てつき、EOPからマンハッタンの物件を66億ドルで買ったハリー・マクローウェは1年後のつなぎ融資の期限にすべてを失う。他の物件の購入者も法外な価格での買収の報いを受けて大損。EOPを売却して10億ドルを手にしたゼルもトリビューンの買収につぎ込んだが、会社の破綻で大半を失ったばかりか、従業員持ち株制度からの資金も投入していたためトリビューンの従業員の雇用ばかりか、蓄えまで奪った
EOPの優良物件を、結果的に時価の半額で獲得したことになったブラックストーンですら、評価額の低下に加えその後の家賃の下落で債務返済期限の延長交渉に奔走している状況

0809年の世界経済危機では、価値創造の触媒を標榜してきたプライベート・エクイティ業界の真価が試された
投資先を改造することで新たな価値を生み出す産業界の職人を狙ったが、80年代に染みついた否定的評価を払拭することはできなかった ⇒ 無慈悲な首切り屋であり、手っ取り早く稼ぐために会社の現金や資産を略奪する連中
   企業や経済にダメージを与えたのはプライベート・エクイティに限らない
   投資先の株を保有している間、企業価値を高めたケースも多い
   単に株の売買によって差益を売ることだけを目的とする投資信託やヘッジファンドとは異なる
05年 プライベート・エクイティ3社がフォードからハーツを買収した事例 ⇒ 親会社フォードは、ハーツを売れない車を押し付ける便利な客としか見ておらず関心もなかったのを、買収後は車両の調達方法をリースから買取りに変更、資金調達を車両担保の社債に切り替えて調達コストを引き下げ、赤字の原因だった空港以外の店舗の閉鎖、ネット予約等によるコスト削減が実って業績が劇的に改善、マスコミが痛罵した10億ドルの配当もキャッシュフローの急増で吸収し負担とならなかった。株価もIPOから1年半で2倍に伸び、市場も会社の価値がLBOによって破壊されたとは見ていなかったことは明らか
2004年までの23年間にアメリカで実施された4701件のIPOを調査した結果、プライベート・エクイティが支援する企業の株価パーフォーマンスは、類似企業のそれを上回るという結論が出た
投資先の長期的な成功と自らの利益が連動するようにしている ⇒ 投資から2年以内に売却されるケースは全体の12%、58%は5年以上保有。研究開発費も絞っていない
雇用に与える影響にしても、買収直後の2年間は一般企業に比べて雇用の削減率が高くなる傾向があるものの、長期的には削減した分を上回る雇用を生み出していることが実証されている
7007(3回の不況があった)にプライベート・エクイティ保有企業のデフォルト率は年平均1.2% ⇒ アメリカ企業全体では0.6%だが社債発行企業に限れば1.6
プライベート・エクイティの利益の実態 ⇒ 1/3はレバレッジ(借入金利の低下が大きい)によるものだが、残る2/3は企業価値の長期的増大によってもたらされている
ブラックストーンの利益の63%が市況産業への投資によるもの(投資額は全体の23%に過ぎない) ⇒ 投資先の財務状況の改善の大部分は、経営の改善ではなく市況の回復によるもの。逆に、投資先の抜本的な業務改革を目指した案件では17年間を通じて投資額全体の2%を失っている
戦力の力点が投資先のコスト削減から、営業改革や事業拡大、会社の方向性の見直しに次第に変化している
投資先に対して、市場のプレッシャー(公開企業の場合)や以前のオーナー企業の下では困難だった企業改革を成し遂げるのをサポートする役割を果たしてきた
公開企業の報酬制度とプライベート・エクイティが投資先に導入する報酬制度は驚くほど対照的。プライベート・エクイティ傘下の企業では、ボーナスはキャッシュフローをはじめとする経営指標の中期的な改善に対して支払われる。何より投資先の経営者にとって最大の報酬の源泉となり得るのは自社株であり、それは会社が売却されて初めて回収できる。会社が将来高値で買収されるよう、会社の魅力を高めることに集中する大きな動機付けになる。投資先の経営幹部も、無賞で株やストックオプションを与えられるのではなく、自己資金で自社株を買うことを求められるので、彼等も自分の金をリスクに晒すことになる ⇒ 経営者と株主の利益を一致させる仕組みが出来ている
プライベート・エクイティ業界の行方 ⇒ 金融危機のダメージが比較的少なくて済んだのは、政府や中央銀行が信用不足から企業破綻が相次ぐのを防ぐために大量の資金を市場に供給したことで、レバレッジへの依存度が高い投資会社も結果的に大規模な危機対応策の意図せざる受益者となったため命拾いをした。8000億ドルにも達する債務も5000億ドルまで減少、借り換えの目処もたちつつある
事業環境正常化の明確なサイン ⇒ 11年に7番目の企業買収ファンドに160億ドルのコミットメントを獲得し、運用資産の総額は460億ドルになった
業界に対する最も適切な評価 ⇒ もう1つの資本市場であり、企業にとって代替的、過渡的な所有形態であり、経営の支配権や高いリターンと引き換えに、他の投資家がとりたがらないリスクを引き受ける


Wikipedia
ブラックストーン・グループ L.P. (NYSE: BX) は、世界最大の投資ファンド運用会社である。リーマン・ブラザーズを退社したピーター・G・ピーターソンスティーブ・シュワルツマンによって1985年に設立。
本社は、ニューヨーク51丁目パークアベニューのリバーハウスにあり、支社は、アトランタボストンロンドンハンブルクパリムンバイ香港にある。 最も大きな上場株投資会社の一つである[1]
現在ブラックストーンのビジネスはバイアウト・ファンドだけにとどまらず、不動産ファンド部門、ヘッジファンドなどを含む市場性 オルタナティブ投ファンド部門、財務アドバイザリー部門の4つのセグメントからなっており、運用資産11911500万ドル(2010年現在)に及ぶ総合 オルタナティブ投資会社となっている。
2007年の上場時には中国投資有限責任公司30億ドル相当の非議決権株式を取得した。
ブラックストーンが保有する資産には、軍事・衛星技術関連の会社が含まれると指摘され、この技術が中国政府に渡らないように米政府は懸念している。
投資管理会社ブラックロック(BlackRock)と混同されてはいけない。ブラックロックは、ブラックストーンによって設立された資産運用会社であるが、1995年に売却された。
ブラックストーンの名称は、創設者の姓の一部から来る。スティーブ・シュワルツマンSchwarzは、ドイツ語とイディッシュ語で「黒」(ブラック)、ピーター・G・ピーターソンPeterはギリシャ語で「石」(ストーン)を意味し、ここから名付けられた。

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