人間 昭和天皇  高橋 紘  2012.3.12.

2012.3.12. 人間 昭和天皇  上下

著者 高橋 紘 1941年東京生まれ。早稲田大法学部卒。共同通信社入社、社会部長、ラジオ・テレビ局長、取締役、宮内庁記者会に在籍。静岡福祉大学教授歴任。専攻は皇室の近現代史。2011.9.食道癌で逝去

発行日           2011.12.8. 第1刷発行
発行所           講談社

宮内庁を自由に歩き回り、御用邸、御所なども見学会で見ているし、皇室の周辺にいた人とも数多くあっている。社会部育ちの、現場主義者だ。天皇がかつて訪れた場所やゆかりの地は、今どうなっているのか、天皇や子供たちはどう育てられたのか。そんなことを思いながら内外の現場をずいぶん歩いた。こうした経験をもとに、内側から見た天皇、皇室像を描いてはどうかと思った

第1章        さしのぼる朝日のごとく
1.    皇孫誕生
孝明天皇の皇后夙子(あきこ、英照皇太后)が上京したのは1872年、迎賓館辺りの旧和歌山藩主徳川茂承(もちつぐ)の屋敷の一部を「赤坂離宮」と定め住まう。天皇皇后の住まいだった西丸皇居が典侍の不始末で焼失した際、赤坂離宮に移られたので、皇太后は同じ茂承の私邸を改修して「青山御所」とし移る ⇒ 1897年崩御の際「青山離宮」と改称。1898年皇太子が移り住む
1889年天皇皇后は新築の宮城に移り、仮皇居の一部は皇太子嘉仁(よしひと)親王の東宮御所(花御殿)になった。天皇が移ったあとの赤坂離宮に東宮御所(現迎賓館)1909年完成するが、皇太子は仮御所のまま、1914年宮城に入る
皇太子嘉仁親王は、ここで新婚生活を送り、裕仁・迪宮(みちのみや:昭和天皇)、雍仁・淳宮(あつのみや:秩父宮)、宣仁・光宮(のぶひと・てるのみや:高松宮)を設けた。4男崇仁・澄宮は14歳下。昭和天皇が生まれたのは、赤坂御用地内東部にあった「青山御産所」。元明治天皇の第2皇女(梅宮薫子)の梅御殿だったが、柳原愛子(なるこ)の第2皇子出産を機に改称。迪宮らが里子に出された川村純義邸から戻ってきた後、3兄弟の「皇孫仮御殿」となり、明治天皇崩御に伴い、迪宮は高輪の東宮仮御所に移り、残る2人の「皇子御殿」となる ⇒ 大正天皇崩御後は、皇太后(貞明皇后)の「青山東御所」となり、今の東宮御所のところに「大宮御所」が出来るまで住んだ。45.5.の空襲で灰燼に帰す
天皇の誕生は1901年。20世紀とともに始まる。わが国で、20世紀という言葉が使われるようになったのは、慶應義塾で元旦の午前零時を期して「19.20世紀送迎会」が開かれ、新聞等によって広まったからだと言われる
身長51㎝、体重800(3000g) ⇒ 新生児の平均を上回る
22歳、母節子(さだこ)17歳。明治天皇は49
明治天皇は、皇后美子(はるこ)との間に子供がなかったので、結婚5年目に御側(おそば)女官が置かれた ⇒ 最初が葉室光子は皇子即時薨去、次の橋本夏子も皇女即時薨去、3番目の柳原愛子が1879.8.31. 嘉仁親王を出産、4番目が千種任子(ときこ)は皇女夭折、5番目の小倉文子は生さず、6番目の園祥子は26女を産み、4人の内親王が成人。6女昌子(常宮)7女房子(周宮:かねのみや)8女允子(のぶこ:富美宮)9女聡子(としこ:泰宮) ⇒ 6人の側室、内5人から15人産まれ、14女が成人
嘉仁親王の病弱を懸念した元老が侍従長経由、「逸楽のためではなく皇祖皇宗に対する大孝を全うするため」と説いたが天皇は「聴(ゆる)したまわ」なかった
ベルツが中心になって嘉仁親王の体調管理にあたる
1893年 伏見宮貞愛王の長女禎子(さちこ)と婚約するが解消 ⇒ 胸に水泡音
1897年 九條道孝公爵の4女節子(生母は九條家の侍女)と婚約、1900年結婚
この時2つの新例が出来、今日に続く
   結婚は賢所の儀、朝見の儀、パレード、神宮及び先帝陵参拝
   神前結婚式が民間に広まった
命名の儀:漢文学の権威で宮内庁文書秘書官、後に宮中顧問官になった股野琢の案
名前:「裕」は、『易経』の「益徳之裕也」(益ハ徳ノ裕ナリ)
称号:「迪」は、『書経』の「允迪厥徳謨明弼諧」(允ニ厥ノ徳ヲ迪エバ弼ケ諧ニセン)
皇子の名は「仁」(人を思いやること⇒いつも仁の心を持てとの警句の意味がある)が付き、皇女には「子」が付くのは平安時代からの遺風
皇太子の子供の名前(実名)と称号(通称)は天皇から贈られるが、宮家の皇族の場合は父親が付け、称号はない。結婚、立太子礼を挙げた後は実名で呼ぶ
お印:昭和天皇は「若竹」、皇后は「桃」。平成の天皇は「栄」、皇后は「白樺」
初参内が528日、77日から宮中慣例に従って川村邸(TAC)に里子
里子 ⇒ 京都の公家の風習、逞しく育つのを願って農家に預けた
川村純義 ⇒ 1872年生まれ。海軍省設置と共に海軍少輔、日本海軍生みの親。伯爵。妻ハルは西郷隆盛の叔父・椎原国幹の長女。純義の長女は初代台湾総督・樺山資紀の長男・愛輔に嫁ぐ。その娘が白洲正子。里子先に選ばれたのは、松方の推薦と明治天皇の強い意向
1902.6.淳宮誕生、同じく川村家に里子
1904年 川村死去。木戸孝正(孝允の甥で入り婿)が跡を継ぐ。東宮侍従・丸尾錦作を宮中顧問官に昇格させ、皇孫御養育掛長(大正天皇の初等科のときの担任、末っ子の正彦は兵藤家に入って歯科医、前畑秀子と結婚)

2.    足立孝と乃木希典、そして父
足立孝(タカ)は、413歳に仕えた保母。母のように慕った。後に海軍大将・鈴木貫太郎の後添い。1883年札幌生まれ。開拓使職員の長女。東京府女子師範(学芸大)保母科卒。女子師範附属幼稚園(竹早)の初代保母
1906年 学習院女学部幼稚園入園 ⇒ 仮御殿の奥を私設の幼稚園としたもので、永田町まで通ったのは年数回、あとは〝お相手さん″が交代で御殿に来た
1908年 学習院初等科入学 院長が乃木希典、御学問所の総裁が東郷平八郎
乃木からは質実剛健を学ぶ ⇒ 乃木から通学方法を聞かれ、晴れの日は歩き雨の日は馬車と答えたら、雨の日も外套を着て歩いて通うように言われた
明治天皇は、日露戦争後上流階級に華美・贅沢の風潮の蔓延を懸念し、校風の刷新を期して乃木を送り込んだ
担任は石井国次。茨城出身。東京高師卒。地理と数学が専門だが、全科目教える。
同級生は、華頂宮博忠王と久邇宮邦久王、佐藤健、南部信鎮、大迫(後に永積)寅彦、黒田忠雄、渡辺昭、松平直国、堤経長、久松定孝、副島種忠、樋口孝康の12
この頃から相撲が好きで、御所でも学友を呼んで毎日のように相撲を取っていたし、大相撲を見ても観察が細かかったという
生物学事始めは初等科の低学年の頃 ⇒ 葉山御用邸から油壺の帝大臨海実験所(日本初の水族館)を見学。伊香保(1893年ベルツの勧めで御用邸とした)で蝶の採集
歴史にも興味
大正天皇は、ずいぶん子煩悩で、子供たちともよく遊んだ
大正天皇の〝遠メガネ事件″ ⇒ 帝国議会の開院式で天皇が詔書を丸めて望遠鏡のようにして議場を見回したという話だが、実際は侍従長から丸めた証書を渡された時、天皇が高目に持ち上げたのか、玉座は高い所にあるので、下から見上げると望遠鏡で覗いていたように見えたということで、後年皇太子を摂政にした時の病状発表があまりにも「脳の病気」について強く触れたからこういう話になっただけ

3.    「明治」の終焉
1912.7.30. 明治天皇崩御(59) ⇒ 1904年糖尿病発覚するが、日露戦争中とあって極秘とされた。酒が好きで運動が嫌い。1909年頃から衰え
7.10. 猛暑の続く最中、帝大卒業式に行幸。14日下痢(腸カタル)19日の夕食後から昏睡状態。官報号外で重篤が伝えられると、株価暴落
実際の死亡は前日午後10時過ぎ。翌日にずらしたのは、改元の手続きや三種の神器の伝達など儀式を準備する時間稼ぎのため ⇒ 皇室典範が初めて適用され、崩御の瞬間に大正天皇即位(33) ⇒ 空位期間を置かないのは西欧に学んだもの
1903年 天皇皇后が京都を訪れた際、天皇が「必ず陵を桃山に営むべし」と皇后に言ったことに従い、京都・伏見桃山に陵が治定された。追号を「明治天皇」と発表(皇室典範で「11元」となったので、元号を諡おくりなとした)
9.13.深夜 大喪の儀(青山練兵場)。台湾・韓国も含め全国で宮城遥拝。翌朝桃山に向かいさらに翌朝埋葬。大喪の儀の夜、乃木割腹
乃木の教育信条は、質素倹約・質実剛健・国家のために尽くす人間をつくることにあり、昭和天皇はこの教えを生涯守った ⇒ 「無駄な費えはないか」が天皇の口癖
1920年 明治天皇・皇太后の東京の墓所として明治神宮鎮座
大正天皇は病弱ゆえに腫れ物に触るように育てられたので、身勝手で我儘放題だったところから、皇孫の教育は皇太子に任せておけずに明治天皇自ら意見を述べ、乃木に皇孫教育の構想を考えるよう命じ、乃木の発案で「東宮御学問所」ができる
皇族身位令には「皇太子皇孫は満10年に達すると陸軍及び海軍の武官に任官」とあり、1912年裕仁も陸軍歩兵少尉、海軍少尉に任官、近衛師団司令部の「命課布達式」で軍人世界にデビュー。住まいも高輪の東宮御所に移り、弟宮たちとは別居

第2章        帝王教育
1.    東宮御学問所
1914年初等科卒業と同時に東宮御学問所で本格的な帝王学を学ぶ
学友は5人 ⇒ 南部信鎮、大迫寅彦、松平直国、堤経長、久松定孝
12月末から3月末まで、御学問所は沼津御用邸(69年廃止)に移動。夏には箱根御用邸へ(富士屋ホテルから買い取り、戦後また売り戻した)
葉山御用邸では、小堀流師範から古式泳法の指導を受ける
近眼と猫背 ⇒ 学問所から品川の海が見えるように樹木を切り取ったりしたが、15,6歳の頃から眼鏡をかけ始める
1915年 大正天皇即位礼。第4皇子誕生、名前:崇仁(たかひと)、称号:澄宮(すみのみや)。過去125代の皇位継承の内訳は、直系が69例、兄弟間の継承が27例、その他が28例 ⇒ 皇位継承のリスクが少なくなったので、増える一方の皇族を減らそうとした。1919年現在12宮家32人で、直宮(じきみや)4人を除けは全て伏見宮家の孫や曾孫ばかり。伏見宮家は皇統が途絶えたときに備える世襲親王家で500年以上続いているため、天皇家の「本家」からは程遠い血筋。終戦まで12人が臣籍降下

2.    「宮中某重大事件」と訪欧問題
1916年 立太子礼
1919年 成人式 ⇒ 皇室典範で、天皇・皇太子・皇太孫は満18歳で青年とされた ⇒ 未成年で即位すると摂政を置かなければならないので、その期間を少しでも短くするため
1919年の陸軍特別大演習を最後に大正天皇の行幸が、皇太子の行啓に代わり、公式行事への皇太子の代理出席が多くなり、学問所への出席日数が問題となったが、1921年無事終了
1918年 東宮妃内定 ⇒ 皇太子が初めて久邇宮良子女王に会ったのは2年後
久邇宮家は1875年創設、伏見宮邦家親王の4男朝彦王が初代、その3男邦彦王と、薩摩・島津忠義の6女との間の長女が良子。1903年生まれ
朝彦親王が孝明天皇に相談を受け、開国論に賛成したため、維新後数年広島に流され、それを恨んで明治天皇に反発していたが、息子はそれぞれ新しい皇族家創設を認められ厚遇されている ⇒ 長男夭折、2男邦憲は賀陽宮(かやのみや)3男久邇宮、4男守正が梨本宮、8男鳩彦(やすひこ)が朝香宮、9男稔彦(なるひこ)が東久邇宮
1918年新聞発表と同時に学習院を退学、久邇家邸内に御学問所を設けお妃教育
1920年 宮中某重大事件 ⇒ 島津家に色覚異常の遺伝があることを久邇家は認識、良子には異常はなかったが、兄には軽い異常が出ており、元老山縣の耳に入り、他の元老西園寺・松方と共に久邇家に辞退を迫るが、邦彦王は動ぜず。杉浦重剛が東宮学問所、久邇家に辞表を出し、右翼結社とともに山縣糾弾に乗り出す。帝王の心得は「綸言汗の如し(天使の発言は元に戻らない)」にあるとし、言ったことは「実践躬行」しなければならない ⇒ 宮内省も腹をくくって収めた
19213月~8月 皇太子訪欧 ⇒ 皇后は、天皇の違例中の外遊は「孝道に悖る」として反対したが、国家の大方針にて皇后の承諾不要と決し、皇后も折れて決定
続いて明治天皇の娘3人が嫁いだ皇族がフランスで羽を伸ばしていたが、1923年北白川成久王運転のスポーツカーが交通事故を起こし、王は即死、夫人と朝香宮は重症

3.    イギリスへ向かう
1921.3.3.皇太子訪欧の途へ ⇒ 横浜からお召艦の戦艦〈香取〉、供奉艦〈鹿島〉で第3艦隊を編制。ピラミッドを見物し、2か月後にポーツマス入港
日本は、翌年に期限の到来する日英同盟の継続を希望したが、列強にのし上がった日本に危機感を持つ米国が同盟の解消を求め、結局21年に日英米仏の4か国条約が成立し、日英同盟は期限に廃棄 ⇒ 英国が皇太子の訪英を元首待遇で歓迎した裏には日本を宥める意味もあったに違いない

第3章        新しき時代へ
1.    英王室、ブレア城、ヴェルダン
訪欧には特別な教育課程はなし、行けば学ぶものは多いとの欧州体験者らのカンで決まった ⇒ 3つの大きな収穫
   ジョージ5世が立憲君主のあり方を教えた ⇒ ジョージ5(56)81年訪日、その際「降り龍」の入れ墨をしたのが20年後に欧州で大流行
天皇が最近の記者会見で、「繰り返し」立憲君主として行動した、憲法を守るということについては戦前も戦後も同じこと、と述べているのは、内心では不本意なことでも裁可しなければ立憲君主ではない、ということで、戦争責任の問題に絡んで自分には責任はないことを強調しているようにもとれる
   スコットランドのアソル公爵邸(ブレア城)で公爵と領民の睦まじい関係に感激 ⇒ 天皇と国民との理想的な在り方を知る
   フランス・ヴェルダン訪問を通じ、戦争の悲惨さと平和の大切さを肌で実感
     7月にはヴァチカンを訪問
     パリでは、エッフェル塔見物の際フランの持ち合わせがなく、絵葉書を買うのに随行の記者から借りたり、地下鉄の切符を渡さずに駅員に叱られたりというエピソード
ケンブリッジでは「英国の皇室と国民」についての講義を聞き名誉法学博士授与される
     7.18.ナポリより帰国の途に就き、9.3.横浜帰着

2.    摂政宮殿下
1921.11.25. 摂政就任 ⇒ 皇族が摂政になったのは過去に3(聖徳太子、中大兄皇子、草壁皇子)
きっかけは1919.12.帝国議会の開院式で、歩行困難により首相が詔書を奉読
21.11.4. 原敬首相暗殺
青年の皇族男子全員から成る皇族会議で決定、皇太子が欧州帰りで逞しくなり人気が高まったのも決定を後押し
1923.9.1. 11:58am 相模湾北西沖を震源とするマグニチュード7.9の激震 ⇒ 天皇皇后は日光で静養中。摂政宮は宮殿で執務中、すぐに赤坂離宮に帰り、東宮御所近くの広芝御茶屋で1週間過ごす ⇒ 2日にわたり各3時間被災地を馬で視察
秋に予定されていた成婚は延期
12.27. 虎ノ門事件 ⇒ 赤坂離宮から帝国議会の開院式に臨むために車で向かう途中の摂政宮狙撃未遂。衆議院議員の息子による犯行。内閣総辞職。警視総監懲戒免職。警視庁警務部長だった正力は、これを機会に内務省を辞め読売新聞社社長に転じる
摂政宮は、陛下と臣下の関係は情においては親子と考えており、非行は遺憾に堪えないが、自分の考えを徹底するよう伝え、歌会始でも「あらたまの年をむかへていやますは民をあはれむこころなりけり」と詠まれた ⇒ 下手人は翌年死刑となったが、遺族は改姓して生き延びる手当がなされた

3.    良宮と女官制度改革
1924.1.26. ご成婚。新婚生活は赤坂離宮(現迎賓館)で始まる
久邇宮朝融(あさあきら)王婚約破棄事件 ⇒ 良子の実兄で後の久邇家当主が、旧姫路藩主伯爵酒井忠興の2女菊子(良子の妹の同級生)との婚約を一方的に破棄、勅許まであったものを邦彦王が反対、周囲の諌めも聞かず摂政宮のご成婚を待って実行。酒井家は皇族相手ではと自ら辞退、加賀・前田家に嫁ぐ(その娘が酒井美意子)
皇太子がオクの女官制度に反撥 ⇒ 結婚前から改革を言い出し、まずは住込みから日勤へ。守旧派の皇后との軋轢が何回もあったが、女官の階級の単純化、源氏名の廃止、公家や社寺からだけでなく軍人や官僚の家からも採用、女官を既婚者に限定し側室制度を追放。1927年皇太后が女官を連れて青山東御所に移った時は源氏名が通っていた

4.    「外地」を視る
1923年台湾、1925年樺太視察 ⇒ 植民地統治が円滑に進む実態を見せる目的
1926.8. 大正天皇は葉山御用邸に向かわれたまま、12.25.崩御

第4章        大元帥の家庭生活
1.    御大典とゴルフ
元号「昭和」は、『書経』の「百姓昭明、協和万邦」が出典
1928.11.10. 京都御所にて即位礼(政治的首都ペテルブルクと聖なる都市モスクワを分けるロシアを真似た皇室典範の規定による)
雨中の観閲式でテントも張らず外套も脱ぎ捨て「国民とともにある」ことを強く押し通した天皇の「本音」と、現人神を強調するために配布された御真影に象徴される天皇制の「建前」が並存しながら昭和がスタート
ゴルフ事始めは、1917年の新宿御苑。26年には那須御用邸に9ホール完成。37年盧溝橋事件以来ゴルフを止めた

2.    大宮さまとの距離
1927年 昭和金融恐慌 ⇒ 華族銀行と言われた当時の5大銀行の1つ第十五銀行も休業
1925.12.6. 第1皇女誕生 ⇒ 称号「照宮」、名前「成子」(しげこ)
1927.9.10. 第2皇女誕生 ⇒ 称号「久宮」、名前「祐子」(さちこ)。半年後敗血症で夭折
1932.10.23. 流産
大奥と東宮職との軋轢 ⇒ 貞明皇后にとっては欧州帰りの皇太子の改革は軽薄な「外国かぶれ」としか映らなかった。息子のお妃達は貞明皇后が直接厳しく教育し、お妃たちが何かやろうとしてうまくいかないことがあると「不細工なことだね」と叱った
昭和に入っても宮妃教育以外にも万事にわたって発言、若き天皇の補佐役も買って出るし、人心収攬の術が自然と備わっていたので、皇太后の前に出ると皆が呑まれてしまう ⇒ 天皇も皇太后の言動を気にかけざるを得なかった

3.    以後、拒まず
1928年 張作霖爆殺事件に関連して、犯人の処罰について上奏した田中義一首相の説明に矛盾があるのを天皇が指摘、辞職を迫る(〝宮中の陰謀″) ⇒ 天皇は、立憲君主に悖る言辞として反省、以後〝物言わぬ人″になったが、意に召さない時は態度や質問で〝抵抗″することもあったというし、特に無謀な軍事行動を起こす場合や軍人の人事にもはっきり拒否することもあった
統帥権干犯問題 ⇒ 1929年ロンドン海軍軍縮会議で補助艦の持ち分の対米比率7割確保に対し、政友会の犬養毅や鳩山一郎らが統帥権(憲法第11)干犯として、浜口内閣を激しく糾弾

第5章        憂色深し
1.    大陸に広がる硝煙
1931.9.18. 柳条湖(「溝」は日本軍の単なる聞き間違い)事件 ⇒ 満鉄爆破を機に、関東軍が張学良を追い落とし満州地域の武力制圧を狙い、4か月で満州全土を席巻。宮中も張作霖事件で「宮中の陰謀」と非難されたことがトラウマとなり、出先の脱法行為を容認
1932.3.1. 満州国建国。初代皇帝愛新覚羅溥儀。弟溥傑は清国再興のため軍人になろうとして来日、学習院高等科から陸軍士官学校に入る。溥儀は、日本の皇族を溥傑の妻にして日満一体を図ろうとし、公家の名門侯爵嵯峨実勝の長女浩を選び37年結婚。敗戦で溥儀兄弟はハバロフスクに収容。溥傑の家族は日本に脱出、夫の消息を求めて周恩来に手紙を書き、撫順戦犯管理所にいることが分かって60年特赦されて北京に戻り、翌年家族と再会。長女慧生はその前57年学習院大2年の時同級生と天城山でピストル心中。溥傑は共産党の中で活躍。一家の遺骨は日中友好を願って両国に分骨

2.    慶事と、禍いと
1931年 天皇が養子の可能性につき打診。側室復活論も出る
1933.12.23. 皇太子誕生。名前:明仁、称号:継宮。照宮以来日中は母乳。皇太子の場合も乳母は置かれたが、使ったのは夜中1回のみ
1937年 盧溝橋事件 ⇒ これを境に召集令状を受けて入隊するものが相次ぎ、市民生活も耐乏生活へと一変

3.    ままならぬ思い
若い時の天皇はダンディ
戦火の広がりとともに皇室費も削減、新規の御用邸建設も延期、宮中の諸儀式も大幅に簡素化

第6章        大勝は困難なるべし
1.    紀元は二千六百年
1940年 紀元2600年 皇太子学習院初等科入学。入学に合わせて新校舎建設。院長は海軍大将野村吉三郎、駐米大使転出後は海軍大将山梨勝之進

2.    開戦前後
1941.7.28. 日本軍南部仏印進駐。米国は対日石油輸出の全面禁止

3.    戦時下の宮中

第7章        神国日本の崩壊
1.    皇子の疎開
1944.5.12. 学習院集団疎開 ⇒ 4年生以上173名が沼津御用邸に隣接した学習院遊泳場宿舎(1912年建造)に疎開。直後に明仁親王も御用邸に ⇒ 東京都が実施要領を示したのは720日なので、大分早い決断
9月に東宮避難場所を、冬は三里塚牧場(成田)、それ以外は日光田母沢御用邸と決定
学友も日光に疎開、滞在先は金谷ホテル。皇女は塩原へ
815日は湯元で全員揃って玉音放送を聞く ⇒ 宇都宮師団に皇太子を担いで交戦の動きありとの噂に、皇太子を護衛した近衛儀仗隊は実弾を装填して立哨
皇后から皇太子への手紙:詔書を分かりやすく説明。「永遠に救われた」と喜びを表し、「B29は残念ながら立派です」とサラリといっている
天皇から皇太子への手紙:敗因についてひとこと言わしてくれ「皇国を信じすぎて英米を侮った。軍人が精神に重きを置きすぎて科学を忘れた。軍人が跋扈して大局を考えず進むを知って退くことを知らなかった。国民の種を残すべく努めた」
皇太子が帰京したのは117日、翌日天皇皇后と再会、焼け野原に強いショックを受けた

2.    弟宮との確執
兄弟3人の仲がよかったのは10歳までのこと、壬申の乱のこともあり、秩父宮に変な虫がつかないよう教育に腐心したが、三国同盟をめぐって昭和天皇と秩父宮が激論 ⇒ 秩父宮が北一輝の『日本改造法案大綱』の影響を受けて天皇に直言したのが原因。2.26の反乱将校の中にも秩父宮の気を許した仲間がいた。太平洋戦争中、秩父宮は御殿場で結核療養中
昭和天皇と高松宮とは不仲 ⇒ 日中事変が上海に拡大した時、高松宮は前線に出られないなら神宮祭司にでもなった方がましと反発、国家の行方を巡って激論を交わした。開戦論者とも言われる。周囲の意見も聞こうともせず、家長たる天皇の采配にも反撥したが、随所に天皇を輔佐しようとする姿も見える
兄宮は弟宮の気持ちを理解できなかったし、自分より自由に振る舞える弟宮に嫉妬したのではないか

3.    聖断
終戦の詔書の録音 ⇒ 1回目は緊張して声に震えがあり、お言葉に不明晰なところがあったので、天皇も取り直しをしようと言われたが、3回目をやろうという天皇を制したのは、詔書の中に「五内(ごだい:五臓のこと)為ニ裂ク」という言葉があったから。中国では本来両親の死の場合にしか用いない表現、それを臣下の死に対して使ったので、あまりの畏れ多さに「これ以上読んでいただくわけにはいかない」となった
1945.3.10.深夜 東京大空襲のときは、宮内庁舎屋上から燃え盛る下町を見る
18日には本所・深川一帯を視察
526日鉄筋造りの一部を除き宮殿全焼
昭和天皇は、開戦直後から講和への道を探っていた ⇒ 42.2.シンガポール陥落の時すでに木戸に対し「戦争の終結につき機会を失せざる様」と指示
玉音放送のアイディアは、国務大臣情報局総裁の下村宏(海南) ⇒ 帝大卒の官僚から朝日新聞に入り後に副社長、43年から日本放送協会会長、45.4.から総裁で、マスコミを熟知 ⇒ 14日午後9時のニュースで予告
近衛の青年将校が偽師団長命令を作って玉音放送阻止に動き出し、宮内省を占拠したが、翌朝6時には平定
新聞は、内務省から午後1時以後配布の指示が出されていた
高松宮夫妻は御殿場に行き、秩父宮の病床で一緒に聞く
1975年訪米前の天皇にNBCの記者の「戦争終結に関する決断に陛下はどこまで関与されたか」と質問したのに対し、「本来内閣がすべきだが、最後の御前会議で議論がまとまらない結果自分に決定を依頼してきたので、自分の意志で決定した。動機は、国民が戦争による食糧不足や多くの損失にあえいでいた事実や、戦争の継続が国民に一層の悲惨さをもたらすだけと考えたため」と答えた

第8章        現人神からの解放
1.    マッカーサーとの対決
天皇は、自らの決定で終戦に持ち込んだことが、自信をつけた ⇒ 連合国の出方は未知数だったが、率先して来るべき時代に備えようとしていた
米国から、一切の軍隊の武装解除を要求され、天皇は陸軍不信だったが、彼らに国際信義の遵守を徹底させるため、皇族を名代として海外派遣軍に送ることにし、朝香宮、閑院宮、竹田宮に依頼
東久邇宮稔彦王に組閣を命じる
宮中改革 ⇒ 米国の意向を忖度して、侍従職と皇后宮職を併合し内廷府とする。宮内省も縮小、総理府の下の宮内庁とし職員も削減
1945.9.27. 天皇がマッカーサーをアメリカ大使館に訪問 ⇒ 2人の並んだ写真を掲載した新聞を内務省は発禁とし、GHQの指示により29日付け各紙で復活、会談内容については言及せず ⇒ 天皇が全責任は自分にありと言ったと言われるが、あまりの畏れ多さに通訳が後から削除しており、公式記録には責任を認めたとの記載はない。「東条に騙されて(強制されて)宣戦の詔書に署名した」との天皇の発言もあり、開戦の責任を東条に負わせようとする動きに乗ったとも思える

2.    「人間宣言」と全国巡幸
欧米諸国が承認できる天皇像の樹立が急務 ⇒ 国家神道の廃止、天皇の人間宣言、教育改革(修身、日本史、日本地理の授業停止と教科書回収)、全国巡幸(46.2.神奈川県から開始)

3.    退位せず
皇族の臣籍降下 ⇒ 待遇が良すぎたために不行跡も多かった ⇒ 久邇宮朝融王が〝幻の皇后単独会見″をでっち上げて騒ぎになったり、東久邇稔彦はパリ留学中に社交界で愛人を作るなど放蕩を尽くし、大正天皇死去に際しても再三の帰国命令にも動ぜず、大喪直前に漸く帰国。竹田宮家の運転手が無免許で3人撥ねても新聞記事差し止め。伏見宮が宮内省の猟場で猟銃を誤射して怪我をさせても示談。別な猟場ではン人は不明だが猟銃発砲で死亡事件を起こしたものの7千円で示談
大盤振る舞いを可能にしたのは莫大な皇室財産のお蔭で、功労者は岩倉具視 ⇒ 独自の財産を持つべきとして、資産増強に努めた結果、長野県に相当する莫大な山林の経営の上りが皇室に入り、相当の株式も保有(終戦直後で37億円相当、当時の財閥で3から5億円と言われた) ⇒ 国会議員の報酬が年18千円(1946)に対し、東久邇宮110千円、遠縁の東伏見宮でも43千円の歳費
GHQにより皇室財産は解体 ⇒ 天皇家に15百万円残っただけ
1947.10.14. 11宮家51人が皇籍離脱 ⇒ 元軍人を除き総額47,475千円の一時金が支給された
朝鮮王公族3家は新憲法施行でその地位を追われた
皇族は、元はといえば口減らしのために京都や奈良の青蓮院、仁和寺等に出家させていたものが、維新で還俗したもので、急に暮らし振りがよくなったために不行跡も多かった
天皇は、堂上(朝廷に仕えてきた公家)華族を残せないかとか、皇室典範改正の発議権を皇室が留保できないかとか言われたが、いずれも却下
新憲法は1946.11.3.公布されたが、マッカーサーは後に明治天皇の記念日と知って怒ったという
天皇は、個人より皇統の継続こそ国体護持と考え、敗戦の責任を取って退位ということを真剣に考えていた
天皇に法的な責任はない、とするのが政治学での多数説 ⇒ 明治憲法3条に「神聖不可侵」とありその意味は「無答責」(責任を負わない)、さらに天皇を輔弼する国務大臣が一切の責任を負うこととされている(55) ⇒ 終戦直後は「退位せよ」の大合唱
国民に対し、精神的・道義的責任があるとするものもあった
1952年衆院予算委員会で中曽根康弘(民主党)が天皇退位についてただしたところ、吉田首相が「退位は国の安定を害する、退位を希望する者は非国民」として一蹴
1952年 講和条約発効、日本独立の記念式典で、天皇自ら「身寡薄なれども負荷の重きに堪えんことを期し、相携えて国家再建の志業を大成し」と「退位せず」を表明
天皇は立憲君主を貫いたが、戦争責任について何の表明もせず生涯を終えたため、いつまでも責任が問われ、「永久の禍根」となった

第9章        われらが皇太子、明仁
1.    ヴァイニング夫人
皇太子の教育の民主化と同時に、GHQの示唆もあり天皇自身が皇太子のために米国人の家庭教師を希望
46.3. 日本の教育民主化のために来日した教育使節団に教師推薦を依頼
46年来日したヴァイニングと同じ船に、後に美智子皇后が聖心女子大学に在学中の学長となったシスター・ブリットも乗っていて、その後もお互い交友を続けた

2.    新生日本を託す
1952.11.10. 皇太子の成年式と立太子礼
1953年 天皇の名代として英国女王の戴冠式に参列。往復ともアメリカ経由
帰国後結核と診断、秘かにストレプトマイシンによる治療が続けられ、完治は4年後
皇太子の青春は暗く、陰々滅々な男は他に見当たらず、老成して希望もなく、腐りきっていた。仮御所の机の上に小さな穴がたくさんあるのは部屋に飛び込んできた羽虫を机の上で千枚通しで刺した跡。肉親の愛情に飢え、孤独、感情の起伏が激しかった
暗い青春、我慢の男を一変させたのが結婚

3.    正田美智子との結婚
58.11.27. 皇室会議で東宮妃決定 ⇒ 早い段階で旧皇族や華族は家系に精神病等あって対象外になり、民間に広げられ、58.2.に皇太子から半年前に軽井沢で会った美智子を対象に入れてとの要望 ⇒ 正田家はすぐ断り、美智子を海外に出す
1963.3. 第2子を流産 ⇒ 胞状奇胎と分かり、放置すると母体も危ない。将来懐妊の見込みがないとされていた ⇒ 手術後2年は懐妊を控えるようにと言われたので、2年後秋篠宮懐妊の時は喜びも一入。結婚以来のいじめもあって、4か月ほど静養
義宮結婚のときは、守旧派が巻き返し、島津家元伯爵の娘となり、清宮貴子もいとこ同士となる薩摩島津家分流の久永と結婚

第10章     象徴天皇の演出
1.    総攬者の意識、変わらず
1964.10.10. 東京オリンピックの成功により国威発揚、社会基盤の充実
1965.10.1970.7. いざなぎ景気 ⇒ 1968GDPが世界第2位へ
1970.3.14.万博開催がピーク
皇室関連施設も整備・新説 ⇒ 天皇皇后の住まいは1944年暮れから防空施設の壕舎である御文庫だったので、新吹上御所を建設、1961年落成(鉄筋2階建て、延べ床1500㎡、渡り廊下で御文庫と繋がる、総工費280百万円)。平成天皇の御所は1993年その南に新設(吹上御所。延べ床面積5770㎡、うち私的部分870㎡。在来のものは吹上大宮御所と改称され、現在は空き家)
1968年 新宮殿竣工。総工費13,475百万円、延べ床面積23千㎡、資材はすべて国産。基本理念は「威厳より親愛、荘重より平明」。日本の伝統美を根底に据える
1974.3. 迎賓館本館と和風別館完成。総工費10,400百万円。赤坂離宮を改修したもので、宿泊した元首第1号は米国フォード大統領で現職大統領としても初来日
1948.3.発足の芦田内閣は、新憲法で天皇は政治に参画しなくなったので、内外情勢の説明にはいかないこととしたが、天皇の要請があって内奏すると詳しい質問などして、総攬者意識が抜けなかった ⇒ 「内奏」はさしで内容も対外秘、「御進講」は侍従長が侍る
1973年 増原発言事件 ⇒ 防衛庁長官が内奏の際、天皇から「国の防衛は大事なのでしっかりやって欲しい」と言われ、防衛2法の審議を前に天皇発言に勇気づけられたと記者団に語り、「天皇の政治利用」と糾弾され辞任。天皇は事件を知って「もう張りぼてにでもならなければ」と嘆く
天皇は、特に外交、国防問題に強い関心を抱く ⇒ 沖縄を米軍に占領されることを望み、アメリカが守ってくれなければ日本全土もどうなっていたかわからない
晩年病床にあっても、意識の上では、国の元首、君主であり続けた

2.    入江相政と宇佐美毅
1985.9. 入江侍従長急逝。3日前に満80歳での引退を決めお別れの記者会見をしたばかり。虚血性心不全。皇太子の学友の息子為年の女性問題等の不祥事が心痛。父為守は宮廷の歌道の家・冷泉為理の3男で子爵入江家の家督を継ぎ貴族院議員だったが、昭和天皇の東宮侍従長、その後皇太后宮(貞明皇后)太夫となり1936年急逝。母は外交官・柳原の長女、叔母が大正天皇の生母。妻君子の父岩崎豊彌は彌太郎の養子
戦後は貧乏暮らしを余儀なくされ、内職までしたが、ミッチーブームの前後から書き物が売れ出して生活に余裕、高松宮他内部・OBから皮肉もあったが、人間味溢れる天皇を書けるのは自分の使命として続ける
皇后に認知症が出ていること(対外秘)1977年夏転倒による第1腰椎骨折(ぎっくり腰と発表)を外部から隠すかが難題 ⇒ 入江日記では認知症症状は72年頃から、78年には歌会始も欠席だが、87年まで毎回出された(誰の調べか?)。腰椎骨折は那須のトイレでのこと、外科専門の杉村侍医が東京での治療を主張したのに対し、外部発覚を懸念した入江らが抑えて密かに治療しようとし、反発した杉村に退職を強要。杉村は文春に暴露したが、入江は無視
入江日記の出版は「朝日」の手柄。退職後校正する手筈を整えていたが急逝したため、相当部分が生のままで出版されている
49年 総理府の外局として宮内庁改組 ⇒ 初代長官は田島道治、宇佐美は2代目。1903年生まれ。東京都教育長から吉田茂の推挽で宮内庁入り、5378年長官。天皇の喜寿で勇退。父勝夫は東京府知事、母よしは池田成彬(三井の大番頭で吉田茂との交友が深い)の妹。日銀総裁の洵は兄。名うての頑固者、保守主義者。最大の業績は民間妃を迎えるにあたって皇族と闘い、初の外遊では政治家と闘ったこと。明治人の気骨と官僚特有のバランス感覚で、時代の流れをよく読み、象徴天皇の「形」を作り上げた
後任の3代目富田朝彦は警察畑出身で、象徴天皇像も天皇家の歴史も知らず、昭和史にも疎く、皇太子(平成天皇)の目指す新しい皇室像なども理解できなかった ⇒ 大局面で逃げて評判を落としていたが、死後日経のスクープ(富田メモを入手)で一躍有名に ⇒ 靖国合祀問題で天皇が『それが私の心だ』と不快感

3.    生物学者として
天皇の趣味は、海洋生物と植物の分類学 ⇒ 歴史にも興味があったが、突き詰めるとどうしても矛盾が出てくるのは好ましからずとして、側近が生物学を勧めた
専門は「ヒドロゾア」の分類 ⇒ サンゴやイソギンチャクと同じ腔腸動物の1種の原始下等動物で世界に2700種いる
那須と皇居の植物も分類して本にする

第11章     皇室外交
1.    ヨーロッパ訪問
1964年 国事行為の臨時代行に関する法律制定により、天皇の海外行きが可能に
1968年のハワイの「日本移民百年祭」が最初の機会だったが、常陸宮止まり
外遊の大義名分が必要 ⇒ 国際儀礼に基づく答礼訪問として西独、ベルギーに加え、イギリス等が含まれ、1971.10.出発
魔女事件 ⇒ 新興宗教に帰依していたとされる女官・今城誼子(いまぎよしこ、貞明皇后の時から仕えていた)が皇后に取り憑き、何事にも容喙、外遊も不可とのお告げで、入江らが排除を図り、外遊直前に漸く退官
天皇外遊のヨーロッパへの途上、アンカレッジで給油の間に歓迎式典をしたいとの米大統領ニクソンの申し出 ⇒ 71年夏〝頭越し外交″でギクシャクした日米関係の修復と、天皇初の外国訪問をヨーロッパに先を越されまいとした米国の目論見からで、エメンドルフ空軍基地の格納庫内で5000人の招待客を招いて式典挙行
訪問国は、デンマーク、ベルギー、英、仏、蘭、スイス、西独の7か国
バッキンガムでの晩餐会には、天皇はガーター勲章を着用。1929年ジョージ5世から贈られ、42年贈呈リストから外されたが、61年アレクサンドラ王女来日時に復権、本人崩御で返還されたが、平成天皇も即位後改めて贈呈されている

2.    昭和天皇の1975
1975.5. エリザベス英女王来日、当時49
1975.10. 天皇皇后の米国訪問 ⇒ 天皇の希望で73年から検討が進んでいたが、74年のフォード大統領来日の際の招請に異例の即断で約束し実現
歓迎宴での天皇のお言葉:「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争most unfortunate war which I deeply deplore」と「戦後の再建支援に直接感謝の言葉を述べる」にアメリカ側の招待客が最大の讃辞
102日ホワイトハウスでの公式歓迎式典 ⇒ 天皇のお言葉の時だけ、どんよりした空に太陽が顔を出し、「やはり、太陽の子孫だ」と記者がいった
帰国後の記者会見:
「不幸な戦争とは戦争責任を感じていることか」 ⇒ 言葉のアヤはわからないので答えは出来ない
「原爆投下をどう受け止めるか」 ⇒ 遺憾ではあるが、戦争中であり、広島市民には気の毒だがやむを得ない

3.    「皇室」と「外交」のあいだ
政治家は1代だが天皇は長期にわたって国民統合の象徴として国を見ている ⇒ 政治かは外交に天皇を利用したがる ⇒ 87年ジャパンバッシングの中の皇太子の米国訪問もその1つで、天皇の慢性膵炎の手術直後にもかかわらず日程を短縮しながらも強行。94年の米国訪問も皇后の失声症快癒直後にもかかわらず外務省ペース
天皇の中国訪問は平成になってから、韓国・ロシアは未だに訪問していない

第12章     最後の日々
1.    玉体にメス
歴代最長壽の秘訣 ⇒ 自然のまま、無理せず、腹八分目、医者の言うことをよく聞く、山歩き・散歩で鍛えた
高松宮、寛仁(三笠宮長男)に対する天皇の懸念 ⇒ 高松宮夫妻には猜疑心すら持っていた。76年初『文芸春秋』に高松宮夫妻、秩父宮妃、寛仁の座談会「皇族団欒」が載ったが、高松宮が開戦論者だったにもかかわらず、終戦では和平のために活躍と書かれており、天皇は何と7年後に直接高松宮に「全文取り消し」を迫り、入江のとりなしで収まったが、陛下自らきちんとしたことを書いておこうということになって始めたのが『拝聴録』 ⇒ 入江の急逝で宙に浮いた
86年 高松宮癌発病で急速に2人の関係は改善、87年逝去。秩父宮の時は旧慣で葬儀には参列が叶わなかったが、高松宮の時は見舞いも葬儀も自由
天皇の不調が公然化したのは87年の天皇誕生日の宴席での吐瀉、9月慢性膵炎の手術、宮内庁は隠そうとしたが、ガウン姿のまま吹上御所屋上で歩行訓練をしている写真がスクープされた

2.    崩御
88年正月は一般参賀に応える
884月 結果的に最後の記者会見:大戦が一番嫌な思い出、沖縄は早く行きたい
宮内庁長官に藤森昭一 ⇒ 官邸きっての皇室通。代替わりのためのシフト人事
8月 戦没者追悼式出席
9月 大量吐血、緊急輸血、各皇族、元内親王等家族が呼ばれる。新聞も膵臓癌と発表
89.1.7. 6:33am 崩御

3.    代替わり儀式は変わったか
現行憲法下での初めての代替わり ⇒ 象徴天皇に相応しい形が模索され、「国事行為」と「皇室行事」の区別が改めてきめられた

第13章     新しい皇室へ
1.    護憲、祈り、贖罪
1989.8.4. 平成天皇の初の記者会見 ⇒ 護憲発言に加え、昭和天皇の戦争責任については直接答えなかったものの言論の自由は民主主義の基礎と述べ、責任論議はもとより天皇制についても言論の自由は保たれるべきと明快に語る。04年秋の園遊会で将棋名人の米長が「日本中の学校での国旗掲揚・国歌斉唱が自分の仕事」と発言したのに対し「強制にならないことが望ましい」とかわす
政教分離により、宮中祭祀はすべて「私的」となる
昭和天皇がついに訪れたことがなかった(訪問が決まった直後に病に倒れる)沖縄は、元々「天皇の島」ではない ⇒ 1872年明治政府の強制命令で琉球藩とされ尚泰王を藩王としたが、1879年藩を廃止し鹿児島県に編入、直後に沖縄県を設置、清から与えられた琉球の呼称は廃止。尚泰王は東京移住を命じられ、琉球王国は終焉 ⇒ 天皇の軍隊が住民を虐殺した挙句自決まで迫った過去から沖縄県民の皇室に対する感情は複雑、その溝を埋めるべく努力したのが平成天皇。皇太子時代の75年海洋博の名誉総裁として、72.5.15.施政権の返還後初の訪問の際は反対運動が起き火炎瓶が飛び交ったが、「石を投げられても恐れず(実際にもひめゆりの塔の参拝では足元で火炎瓶が燃え上がった)県民の中に入っていきたい」と心情を吐露
その時の皇太子のメッセージ:沖縄県民の傷跡を深く省み、平和に向かってともども力を合わせていきたい。払われた多くの尊い犠牲は、一人一人深い内省の中にあってこの地に心を寄せ続けていくことをおいてほかに考えられない
昭和天皇の負債として残っているのは韓国 ⇒ 1965年の国交正常化以降、6代の大統領が来日しているが答礼訪問は実現していない ⇒ 平成天皇は、桓武天皇の生母が百済の王の子孫であると発言、韓国との関係の清算を目論む
02年サッカーのW杯開会式に高円宮が出席、初の皇族による公式訪問

2.    平成流の天皇像
日本民心の融和の中心となる ⇒ 福祉に注力
国民との距離を縮めることに腐心 ⇒ 平成流

3.    伝統と共に生きる
1993年皇后バッシング ⇒ 天皇のやり方を好まない一部メディアの攻撃の矛先が皇后に向けられ、誕生日に際し、関係者のきちんとした説明がなされるべきと述べたが、その記事が出た日に失声症となる。指示が細か過ぎたり正確さをあまりにも求め過ぎて、出来ないと叱声が飛んだことが周囲にあった
平成天皇は、昭和天皇以上に皇室祭祀重視派 ⇒ 高齢とともに漸減の方向

いくつかの課題―むすびに
1.    悠仁親王が生まれて
01.12.1. 敬宮(としのみや)愛子内親王誕生
06.9.6.  悠仁(ひさひと)親王。称号はなく、敬称は殿下
親王誕生の直前小泉首相が女性天皇の道をひらく皇室典範改正に言及、有識者会議が「第一子継承」の答申をし、賛否両論を惹起したが、親王誕生で議論はしぼむ
即位20年の記者会見で、天皇は皇位の継承について、皇太子と秋篠宮の考えを尊重することが重要と発言
皇統維持へのアイディアは2:
    女性皇族の結婚後も皇族を離れず新宮家を創設する ⇒ 黒田清子も含め検討
    女性天皇を認める
他の皇族も含め、国民にどんなサービスをして、どこで接点があるかということが重要

2.    政治からは距離を
政治家による皇室の利用は警戒を要する


人間 昭和天皇(上・下) 高橋紘著 公私両面の幅広い観察と現場主義 日本経済新聞 書評 2012/1/29
フォームの始まり
フォームの終わり
 偶然だろうが、昨年(2011)は昭和天皇を主題にした本格的な著作が四冊も登場した。うち三冊は政治史家の伊藤之雄、古川隆久、加藤陽子による研究書で、いずれも力作だが、12月に刊行されたこの本は端正で平明な文体とはいえ、上下巻あわせて1015ページという重量感にまずは圧倒される。
(講談社・各2800円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 著者は共同通信社の宮内庁詰(づめ)記者として知られ、昭和天皇の肉声にも触れる機会があった練達のジャーナリストである。そうした経歴と知見は、百科全書風のこの大冊を仕上げるにあたり、十分に生かされている。いくつかの特色を挙げてみよう。
 第一は、他の三冊が昭和天皇の公的側面に重点を置いているのに対し、本書は表題が示唆するように、公私両面から多様な切り口で人間天皇の実像に迫ろうとしている点である。観察の対象は家族、皇族、側近との人間関係、学習院、御学問所での教育、生物学研究やスポーツから宮中祭祀に至るまで幅広い。
 次は天皇が足跡を残した内外の訪問先、滞在地をこまめにまわって、「追体験」する徹底的な現場主義である。宮廷記者時代のメモによる初公開の秘話も少なくない。
 たとえば一九八八年に皇太子(現天皇)の家庭教師だったヴァイニング夫人を訪ねて「皇太子の人気が父陛下に比べて低いと言う人もいるが――」と問いかけ、「(日本)国民はしだいに殿下について、すばらしい、献身的な人として認めるようになると思います」という「予言」を引きだした。
 圧巻は、崩御前後のあわただしい周辺事情を丹念な調査で復元した最終部分であろう。昭和天皇は松が取れ世間が動きだす直前の一九八九年一月七日、土曜日の早朝に世を去った。それまでクールな筆致で八十七年の多彩な生涯を追ってきた著者が、昭和天皇は「誰にも迷惑をかけずに逝った。いかにもこの方らしかった」としめくくっているのが印象的だ。
 それから二十数年後、ガンと闘病しながら校正を終えた直後の昨年九月、著者は逝った。この人らしい最期だったと思う。
(現代史家 秦郁彦)

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