アルフレッド・バーとニューヨーク近代美術館の誕生  大坪健二  2012.6.4.

2012.6.4. アルフレッド・バーとニューヨーク近代美術館の誕生 アメリカ20世紀美術の一研究
Alfred H. Barr, Jr. and the Birth of the Museum of Modern Art, New York
A Study of American Art in the 20th Century

著者 大坪健二 1949年長崎生まれ。72年京大文学部哲学科美学美術史専攻卒業。同大学院文学研究科修士課程中退。79年富山県立美術館建設準備室学芸員、翌年学芸員。上席専門員を経て、2011.3.退職。07年博士(文学、阪大)

発行日           2012.2.15. 初版第1刷発行
発行所           三元社

まえがき
アメリカ近代美術史におけるバーの言動を、ミュージオロジー(博物館学/美術館学)の視点から考察するもの
資料(美術品)の収集、展示、調査研究、教育普及の4つの基本的活動からなる
ニューヨーク近代美術館が設立された1929年当時のアメリカは、1870年代設立のボストン美術館とメトロポリタン美術館が既にアメリカの「ルーヴル」へと発展を遂げていたとはいえ、漸く美術館に関する諸問題や諸課題が体系的に整理されようとした矢先の時期であり、自ら相応しい在り方を模索し、創出し、実践し、構築していかざるを得なかった
近代美術と言っても、未だ美術史的価値さえ定まらない作品を、古典的作品と同様に展示するためには、近代美術についての見解やヴィジョンを自ら明らかにし、確立し、普及していかざるを得なかった
27歳でウェルスリー大の美術史教師だったバーが抱いた近代美術史観はどのようなもので、アメリカの近代美術とどのように関わり、その展開に影響を及ぼしたのか

序章    アメリカ近代美術前史
ニューヨーク近代美術館設立以前のアメリカの近代美術史を概観
ヨーロッパ美術との繋がりの中で発展したことは歴史的必然だったが、その一方で、写実に基づくリアリズムの伝統という固有の性格と歴史を形作ってもきた ⇒ 肖像画の伝統
19世紀後半になってアメリカの作家たちが多数ヨーロッパへ美術の勉強に出掛け、パリを中心とした新しい美術の動きを伝え、それが20世紀に開花
1905年 スティーグリッツがニューヨークに開廊した「二九一」の活動 ⇒ 写真が絵画や彫刻に劣らない芸術表現のメディアであることを確信して五番街に開いた画廊だったが、ヨーロッパの最新の美術を紹介する窓口の役割を果たす
1908年 マクベス画廊で開催された「the Eight」展 ⇒ 国内でアカデミックな絵画を学び、新しいリアリズム絵画を描いた画家たちの展覧会
1910年 アンデパンダン展 ⇒ アカデミーが牛耳る閉鎖的な展覧会に対抗して、「the Eight」のメンバーが中心となって開催したアメリカ初の無審査、無賞の展覧会
1913年 Armory Show(国際現代美術展) ⇒ アメリカ近代美術史上最大の事件。アンデパンダン展が発展してアメリカ美術と並行してヨーロッパ近代美術の全容を網羅する展覧会をニューヨークのレキシントン街25丁目の第69連隊兵器庫(Armory)で開催。ヨーロッパの前衛美術が注目され、アメリカ美術の後進性・地方性を暴露、自己満足的な革新性から解放しようという動きの契機となった。美術品コレクターも出現、1918年設立のthe Eight系の作家の支援団体が30年には今日アメリカ近代美術の宝庫として知られるホイットニー・アメリカ美術美術館の設立となって結実
20世紀前半のアメリカ美術の展開は、一方では自国の伝統やアイデンティティを模索しつつ、他方では絶えず国際的な美術の影響を受けながら、結果として抽象表現主義というアメリカ独自の新しい美術を生み出すに至る

第1章     バーの思想形成とニューヨーク近代美術館の設立
ニューヨーク近代美術館設立の経緯と、バーの受けた教育、自身の美術史及びミュージオロジーを形成していった過程を考察
ニューヨーク近代美術館ほど一貫したポリシーで同時代の美術の収集に乗り出し、情熱を傾けた美術館はなかった ⇒ 総合芸術の観点から意欲的な展覧会を開催、美術館の理念として常にパブリックな教育的視点を掲げたり、そのための優れたキューレーター制度を構築する等、それ以降の設立の美術館が参考とすべきミュージオロジーの基礎を形作る
美術館設立の第1歩 ⇒ 3人の女性が活躍
   リリー・P・ブリス ⇒ 繊維工場経営者の娘。Armory Showで作品を購入したのがコレクションの始まり
   ジョン・D・ロックフェラーJr.夫人(アビィ・オールドリッチ) ⇒ 義父の上院議員の影響で美術に関心
   コーネリアス・J・サリヴァン夫人(メアリ・クイン) ⇒ 美術教師。希少本や絵画のコレクターとの結婚を契機にのめり込む
たまたま3人が同好の士として知合い、美術館設立を夢見て、バッファローのオールブライト・アート・ギャラリーの元理事長グッドイヤーを担ぎ出し、理事の推薦でバーに白羽の矢が立つ
Alfred Hamilton Barr, Jr. ⇒ 1902年デトロイト生まれ。プリンストン大・大学院で中世美術と近代美術を学び、特別研究員としてハーバード大で過ごし、その後ウェルスリー大准教授として美術史の教鞭を執っていた
プリンストンの美術史の教授はチャールズ・ルーファス・モーリィ(1877年生まれの古典学の教授、新設の美術・考古学科に移り美術史を教える) ⇒ 包括的な美術史研究の姿勢、それをまとめるための手法としての美術発展の系統図の活用
ハーバード大の美術史学の教授はポール・ジョーゼフ・サクス(1876年生まれ) ⇒ イギリスの美術評論家ジョン・ラスキンの影響を受け、形式主義を伝統とする「鑑定」に重点を置いた実技重視の美術を推進しており、1895年にウィリアム・ヘイズ・フォッグ夫妻のコレクションを納めたフォッグ美術館を開館・運営していた
バーがサクスから学んだことは、サクスが美術館講座で最終目的とした「目」(鑑識眼)、すなわち「ものをよく見る」「ものの真贋を見極める」「ものの質を特定する」等、バーの類稀な「目」の発見・開発にあったと言える
バーが敬意を払い影響を受けた近代美術のコレクターたち
   スティーグリッツ ⇒ 「二九一」の画廊主。近代美術にかける厳格な姿勢に感銘受ける
   ジョン・クイン ⇒ 弁護士。ロシアのセルゲイ・シュチューキンと並び当時最高の近代美術コレクションを所有。その質の高さに瞠目。彼の死後は四散
   アルバート・バーンズ ⇒ 今日前後期印象派の宝庫として知られる財団の創始者。学者嫌いで入場を拒否された実体験から、バーンズを反面教師として美術館は公衆に開かれたものであるべきとの教訓を学ぶ
   キャサリン(カテリーヌ)・ドレヤー ⇒ Armory Showを契機にアメリカ定住を始めたマルセル・デュシャンの助けを借りて近代美術の普及・促進のためのソシエテ・アノニムを設立(1920)、その活動ぶりがMoMAの機能や活動のプロトタイプになった

1929.7. 館長就任 ⇒ アメリカ文化の首都たるニューヨークに近代美術のための美術館を設立し、向こう2年間で20本の、偉大な近代の巨匠のできるだけ完全な展示を行う
既存の伝統と権威を持つ国立美術館に対し、「現代の趣味や感情、諸傾向を最も正しく反映する作家たちの作品に率直に捧げられたギャラリー」の設置が、相互の補完関係を生み、「近代美術に公平な主張の機会を与える最善の道」とすることが可能に
フランス ⇒ ルーヴルとリュクサンブールの関係
イギリス ⇒ ナショナル・ギャラリーとテート・ギャラリー
ドイツ ⇒ ベルリンのカイゼル・フリードリッヒ美術館とミュンヘンのノイエ・シュターツ・ギャラリー
オランダ ⇒ ライイック美術館(国立)とステデリック美術館(市立)
ニューヨーク ⇒ メトロポリタンと共存し、互いに機能と役割を補完し合うことを期待
まず行おうとしたのが、メトロポリタンがその運営ポリシーから除外してきた近代美術展の開催 ⇒ セザンヌ以降の欧米の近代の巨匠の作品展
1929.11.8. 街の中心の5番街57丁目にオープン(ヘックシャー・ビル124500平方フィート)3253丁目西11番地にロックフェラーから賃借したビルに移転

第2章     バーと近代美術
バーの開催した展覧会を通して、近代美術館の美術史観を考察するとともに、彼の美術史観がアメリカの美術界に及ぼした影響を考察
主要展覧会クロノロジー ⇒ バーの退任(1943)までに200本を超える
   ヨーロッパ近代美術の概観展
   ヨーロッパ近代美術の巨匠の個展
   アメリカン近代作家たちの展覧会
   アメリカ美術の動向展
   建築・デザイン等の新しい実用美術分野の概観展
1回が「セザンヌ、ゴーギャン、スーラ、ヴァン・ゴッホ」展
バーの近代美術史観を最も具体的に示したのが1936年の「キュービズムと抽象美術」展と「幻想美術、ダダ、シュールレアリズム」展 ⇒ 53丁目西11(現在地と同じ)4階建てのタウンハウスに移転
「キュービズムと抽象美術」展 ⇒ ヨーロッパの作家による印象派に源を発し、キュービズムを経て抽象絵画へと収斂する近代美術の歴史を概観するための展覧会
抽象美術とは、自然から離れようとする衝動の、より究極の結果を記述するために最も頻繁に使われている言葉
キュービズム ⇒ 単一焦点による遠近法を放棄し、複数の視点による対象の把握と画面上の再構成を行ったもの。ピカソが元祖。色彩のフォーヴィスムに匹敵
「幻想美術、ダダ、シュールレアリズム」展 ⇒ 1916年チューリヒで起こったダダの運動を受け継いだフランスのシュールレアリズム宣言(1924)により美術界の表舞台に登場し、抽象美術と共に前衛美術を二分。いずれも従来の美術を否定し、現代社会や現代人の精神や感情に即した新しい美術を求めたため、当時の美術館に迎え入れられるのは困難(1917年のアンデパンダン展にマルセル・デュシャンが便器の作品《泉》を出品して物議を醸す)だったものを、バーが正当な美術として美術館に迎え入れるために、存在意義を基礎付けするべく膨大な作品群をまとめて1つの美術動向として採りあげた
2つの展覧会の波紋 ⇒ バーが公表した「近代美術の系統図」によって、1870年代の主要な近代美術の源流として日本の浮世絵(代表作家:ゴッホ)、総合主義(:ゴーギャン)、セザンヌ、新印象主義(:スーラ)を挙げ、その美術史上の意義を紹介
2次世界大戦の影響 ⇒ ヨーロッパの前衛画家たちが渡来、特にシュールレアリズムの主導者ブルトンがアメリカの前衛美術の普及・定着に大きく貢献
ペギー・グッゲンハイム(1939年「非対象絵画美術館」の設立者ソロモン・グッゲンハイムの姪)1942年ニューヨークに開設したギャラリー「今世紀の美術」の活動 ⇒ 38年からヨーロッパで収集を開始、大戦勃発のためニューヨークに戻って画廊を開設したもの。戦後はアメリカの現代作家をヨーロッパに紹介
抽象表現主義 ⇒ 世界大戦後に、抽象美術とシュールレアリズムに代わる(P.104最終行から2行目「変わる」は誤植)新しい美術が登場、バーも積極的に収集し、展示に採り上げるとともに、50年代以降アメリカ美術の海外への紹介に尽力 ⇒ 1958年のヨーロッパ8か国巡回展「新しいアメリカ絵画」で結実

第3章     バーとニューヨーク近代美術館コレクションの形成
バーのコレクション観がニューヨーク近代美術館のコレクション形成や美術館の発展に与えた影響を考察
設立の趣意書の根底に流れているのは、当時まだ美術館が収集の対象とするには価値が確立されていない近代美術のパブリック・コレクション(美術館賞を目的に、常時、公衆の用に供されるコレクション)構築へのバーの想い ⇒ 古参理事たちとの見解の相違から、43年にはバーの解任事件へと発展、最終的にMoMAの作品収集の基本方針が確定されたのは56年のこと
当初5年は、寄贈作品も少なく、購入の財源もなかったので、借用作品による展示会中心
常設スペースを確保したいとのバーの要望は却下
1931年副理事長兼設立発起人3女性のうちの1ブリスが死去、遺言でコレクションを近代美術館へ遺贈 ⇒ セザンヌ以下後期印象派の大家の作品の内容と作品数に圧倒されるとともに、寛大な遺贈条件に救われる ⇒ 近代美術館が安定した財務基盤の上に立って合法的な理事会の下に管理されると判断した場合には、セザンヌの『松と岩』『(林檎のある)静物』、ドーミエの『選択女たち』の売却不可、それ以外は美術館の絶対的財産にするという条件で、条件不履行の場合はメトロポリタンに遺贈するというもの ⇒ 当初1百万ドルを提示していたが、経済恐慌下を考慮して750千ドルで折り合い、3年後に取得
ブリスの寛大な条件によって、一部作品の入れ替えが可能となり、今日最も主要な作品とされるピカソの代表作『アヴィニョンの娘たち』もドガ作品との交換によって取得
1931年ジュニア委員会(若手コレクターによる諮問委員会、ネルソン・A・ロックフェラー(アビィの息子)が委員長)の発足 ⇒ 近代美術館のコレクションがどうあるべきか(恒久的なものであるべきか否か)を提議 ⇒ 購入資金の無い美術館の事情も反映して、常に新しい作品によって入れ替えていかなければならないという考え方が強かったが、近代美術を美術史的にどう見るのか定まった見解があるわけでもなく、収集方針や選定基準について共通の答えはなかった ⇒ バーは積極的な展覧会の開催を通じて訴える
ブリスの遺贈を契機に、作品の寄贈が相継ぐとともに、資金提供が寄せられ始める ⇒ 契機となったのは設立発起人の1アビィ・オールドリッチ・ロックフェラーで、1935年に渡欧するバーに匿名で1000ドルを提供したのが近代美術館史上初の購入資金となる
続いてジュニア委員会がアビィの協力を得て作品購入基金を設立 ⇒ 39年まで続く
37年 サイモン・グッゲンハイム夫人が基金を遥かに上回る資金の提供申し出 ⇒ 美術館が必要とする近代美術の巨匠たちの代表的名作の取得に限定するという条件で、早速ピカソの『鏡の前の少女』(1万ドル)を購入する等、以後20年にわたって維持され、いずれも今日のコレクションの中核をなす作品ばかり約40点を購入することになる
アメリカの美術館は、富豪の個人コレクションを基にしたホイットニーやグッゲンハイムを除き、メトロポリタンやボストンなど多くが富裕な市民たちの作品寄贈や寄附金を基に、また自ら募金を募ることによって設立され発展していっており、近代美術館もその例に漏れないが、まだ価値の定まらないコレクション形成を目指すことは他の美術館にない困難を伴ったことは想像に難くない
39年 新ビル完成 ⇒ 同じ場所にフィリップ・グッドウィン(理事の1)とエドワード・D・ストーンの設計で、旧美術館の3倍の展示スペースを確保(6階建て、109.1千平方フィート、展示スペース23千平方フィート) ⇒ ただ広くしただけで、美術館の建築自体を最高の近代美術作品にしようとしていたバーの意向と違い、理事たちとの間に溝
世界大戦下のMoMA ⇒ 若い理事たちに代わって古参の理事の勢力が強くなり、アメリカ美術の取得に消極的なバーの収集姿勢を問題にした(大戦によるナショナリズムの昂揚も後押し)
42年時点で約300作家の690点の作品を収蔵 ⇒ 展示スペースは絵画70点、彫刻35点の展示がやっと
43年 バー解任、相談役・調査部長としてコレクションの展示に携わり続ける
47年 メトロポリタン、ホイットニーとMoMA三者による美術館相互協定 ⇒ 時代を経たMoMA所有の絵画と彫刻の購入選択権をメトロポリタンに与える
56年 MoMAのコレクション・ポリシー問題決着 ⇒ 近代美術のマスターワーク(名作)のパーマネント・コレクションを樹立(バーが目指した近代美術のコレクション形成とは必ずしも一致しない)
58年 火災で一部作品に損失(後に修復) ⇒ 募金により64年に改修・拡張工事完成、初めて収蔵品専用の高級スペースを確保
67年バー退任後の問題 ⇒ 常設展示の実現により、コレクション内に生じている欠落部分の補完の必要性が明らかになるとともに、新しい美術領域(コンセプチュアル・アートやアース・ワーク、さらにはパフォーマンスや映像、メディア等)の展示スペースの確保、物によっては美術館での展示に適わないものまでが出現
77年時点 ⇒ 全作家999人、総点数2622点。リリー・ブリス遺贈作品とサイモン・グッゲンハイム夫人の基金による購入作品が重要な役割
2004年 新美術館完成
美術館がコレクションのための貸金庫にならないためには、美術が新しいものへと変化していくように、美術館自身もハード・ソフト両面の課題がともに解決されながら、常に新しい美術館へと脱皮・進化していかなければならない。それこそが近代美術館の使命であり、宿命でもある

後章
富山県立近代美術館とニューヨーク近代美術館およびアメリカ近代美術との関わり
日本初の近代美術館 ⇒ 1951年開館の神奈川県立近代美術館
1981年富山県立近代美術館開館 ⇒ コレクション観と常設展示の思想にMoMAのミュージオロジーが採り入れられている。コレクションの性格をピカソに起点を置く「20世紀美術」とし、常設展も「20世紀美術の流れ」をテーマにしている

あとがき
本書は、2007年阪大に提出した学位論文を本にしたもの



アルフレッド・バーとニューヨーク近代美術館の誕生 大坪健二著 独自の方向性決めた初代館長 日本経済新聞 2012/4/15 書評
フォームの始まり
フォームの終わり
 近代美術館と称する美術館は国内外に多数存在するが、地名も何も被せず、ただMoMA(Museum of Modern Art)というとき、それはほぼ確実にニューヨーク近代美術館のことを指す。1929年に産声を上げた同館は、古典美術の殿堂であるルーヴルやメトロポリタンとは一線を画して歴史の浅い近代美術に照準を合わせ、また広く写真、映像、建築、デザインなども展示や収集の対象とするまったく新しい美術館のモデルを確立した。
 そんな独自の方向性を決定づけたのが、27歳にして初代館長に抜擢(ばってき)され、一度は失脚したものの、約40年間同館に君臨してきたアルフレッド・バーである。本書は、そうしたバーの足跡をつぶさに辿(たど)った意欲的な研究書である。
 例えば、バー自らが企画した「キュービズムと抽象美術」(36年)は館の歴史上特に重要とされる展覧会だが、同展のカタログに掲載されている過去50年来の様々な動向を図式化した系統図は、プリンストン大学で師事した美術史家チャールズ・ルーファス・モーリィの「キリスト教美術のインデックス」を近代美術の再構成へと応用したものだという。一方、著名なコレクターでもあったポール・ジョーゼフ・サクスから授けられた、評価の定まらない近代美術作品を見極める目を重視する姿勢は、戦後コレクション部門の責任者として手腕を発揮した際に大いに生かされることになった。
 MoMAを隆盛に導いた功績こそ広く知られているバーだが、本人の思想には不明な部分が多かった。であればこそ、多くの文献を駆使して先人からの影響を明らかにし、それを独自の運営方針と関連付けてみせた著者の指摘にはおおいに眼(め)を見張らされる。
 世界に冠たるMoMAの影響は、もちろん遠く離れた日本にも及んでおり、終章では、著者が長年勤務した富山県立近代美術館もまた、その展示や収集の方針がその強い影響下にあったことが自らの体験を交えて具体的に語られている。美術館冬の時代と言われている今だからこそ、その社会的な意義や役割について再考する必要があるし、本書はその格好の糸口となるはずだ。
(美術評論家 暮沢剛巳)


ネットより
今や世界各国に所在する近代美術館の中でも、地名を特定せずにただMoMA(Museum of Modern Art)とだけ言った場合、ほとんどの人が真っ先に思い浮かべるのがニューヨーク近代美術館のことである1。リリー・ブリス、メリー・サリヴァン、アヴィ・ロックフェラーという3人の女性のプライヴェート・コレクションを基盤に、1929年の夏に設立され、同年118日に5番街のヘクシャー・ビル内に開館したMoMAは、その当初からアートシーンの熱い関心を集めつづける一方、数回に及ぶ増改築を経てコンテンツを充実させていった。今や所蔵作品数は10万点を超え、文字通りデータベースと呼ぶにふさわしい膨大な情報が、Web上でも公開されている。
 それにしても、MoMAが開館当初からアートシーンからの熱い注目を集めつづけた、その理由はどこにあるのだろうか? 最も人口に膾炙したその説明は、この美術館がまさしく「中心の変化」の主舞台となったからだというものだ。すなわち、ポロックやニューマンらが傑出した絵画的達成を実現し、またグリーンバーグらによる理論的擁護の後押しを受けた1950年代の抽象表現主義運動は、まさしくMoMAを主要な発信拠点とするものだった。質的にも理論的にも、同時代のヨーロッパ芸術を確実に凌駕していたこの運動は、まさしく「アメリカ美術の勝利」(アーヴィング・サンドラー)を象徴するものであって、MoMAはその前線基地にして総司令部であったのだ、と。だが、ことはそれほど単純なのだろうか? もちろんここに、この美術史上の「定説」を覆すような議論を展開しようなどという大それた野心はないが2、ミュゼオロジーにおいても画期的とみなされるMoMAの位置を明らかにするにあたっては、他にも何本かの補助線を導入できるように思われる。
 そう、MoMAには他にもいくつかの画期的な性格が挙げられる。たとえば立地条件などもその一つで、1932年以降、MoMAの拠点となっている53番街は、ニューヨーク市街の中でも活気のあるミッドタウンに属する地域である。美術館の建設が都市のゾーニング事業としての性格を強く持つことは、既にルーヴルの章でも検討した通りであるが、MoMAの場合も明らかに、ギリシャ美術やルネサンス美術をコレクションの中心とし、アップタウンに所在していたメトロポリタン美術館との「棲み分け」が強く意識されていた。区画が厳格に整理され、厳しい建築法規によって規制されているなど、諸々の条件的制約を負っていたMoMAの立地は、別の必然性に基づいた上で意図的に選択されたのである。
 だが、MoMAの独自性が最も強く窺われる側面としては、やはり開館以来今に至るまで一貫しているその独自の運営方針が挙げられるだろう。これは初代館長として招かれたアルフレッド・バー・Jr.の慧眼に端を発するものである。就任早々、バーは絵画、彫刻、デッサンといった従来のオーソドキシーにのっとった分類をやめる方針を打ち出し、当時はまだ芸術とみなされていなかった写真、映像、デザインといった新しいメディアの可能性にも目を向けていく。「機械美術」展(1934)や「写真百年」展(1937)といった、当時としては画期的な企画主旨をもった展覧会はこのような背景のもとに実現されたのだし、その一方でその柔軟な姿勢は、従来の美術の再構成にあたっても、キュービスムやシュールレアリスムをいち早く高く評価することなどに発揮されたのだった。先に触れた戦後の抽象表現主義の興隆も、もちろんMoMAのこうした方針に多くを負っていたことは疑いないし、それはその後のコンセプチュアル・アートやパフォーマンスの「発見」にもつながっていく。バーその人の柔軟かつ野心的な考え方は、彼が自ら企画を担当した「キュービスムと抽象芸術」展(1936)のカタログに掲載されている独自の系統図が最も雄弁に物語っている。この図の中で、四角で囲まれた5つの要素(JAPANESE PRINTSNEAR-EASTERN ARTNEGRO SCULPTUREMACHINE ESTHETICMODERN ARCHITECTURE)は、いずれも従来は芸術とみなされてこなかった表現領域であり、これらの表現を新たな文脈に編入しようとするその意図は、やはり現代美術の中心地がニューヨークへと移行した現実とも密接にかかわるものなのだ。
以下は私見だが、なかでもMoMAの先駆性は最後のMODERN ARCHITECTUREの部門において最も力強く発揮されていたように思う。MoMAに建築・デザイン部門が設置されたのは開館間もない1932年のことで、美術館史上でも初の試みであった。以後MoMAは、斬新な企画に基づく展覧会を次々と打ち出して建築・デザイン概念の発信拠点としての地位をゆるぎないものとしていくのだが、そのとりわけ重要な例として、ここでは「インターナショナル・スタイル」に手短な考察を加え、さらには少し後の「オーガニック・デザイン」にも一瞥を与えておこう。
 「インターナショナル・スタイル」は、MoMAに建築・デザイン部門が設立されてからいち早く提唱されたデザイン概念である。バーの命を受けて画期的な近代建築の展覧会を組織する必要に迫られたフィリップ・ジョンソンとヘンリ=ラッセル・ヒッチコックの二人は、1920年代のヨーロッパで広く流行していた機能主義建築に注目し、そのエッセンスを「ヴォリュームとしての建築」「規則性」「装飾付加の忌避」の三点に見出して3、それをまったく新たなモダニズムのデザイン概念として再構成しようとしたのであった。総計15カ国40名の建築家が一堂に会したこの展覧会は、正式には「モダン・アーキテクチャー――国際展」という名称が冠されていたが、今ではその主要コンセプトであり、また同時に出版されたテキストの書名でもあった「インターナショナル・スタイル」の方が遥かに通りがよいであろう。
 「インターナショナル・スタイル」の提唱が見事な成功を収めたことは、以後の建築・デザイン史にこの概念が深く浸透していった様子からも容易に察することができるわけだが、そもそも気がかりなのは、なぜ二人がヨーロッパの機能主義建築を紹介するにあたって、既存のものとは別の文脈を用意し、それに「インターナショナル・スタイル」という名称を与える必要に迫られたのか、ということである。その答えは、機能主義建築のデザイン原理から極力社会的・政治的側面を排除して、純粋に形式的・美学的な分析として提唱された「インターナショナル・スタイル」の由来に潜んでいるだろう。だからこそ、「インターナショナル・スタイル」はル・コルビュジエを中心とした編成の中に、一見対照的なフランク・ロイド・ライトを組み込んだりして、モダニズムと地域性の関係を希釈して、従来の機能主義とは一線を画そうと試みている。「インターナショナル・スタイル」が志向した幾何学的秩序は、アメリカ発のデザイン原理として、その後も長らくモダニズム芸術観を支配しつづけるのである4
 一方で、少し遅れて1940年に提唱された「オーガニック・デザイン」は、その由来にさらに人為的・戦略的な側面があった。というのも、そもそも「全体を構成する各パートが、構造・素材・目的のすべての調和を為している」という「オーガニック・デザイン」の定義に相当する作品は5、実はこの概念が案出された時点では実在していなかったからだ。実際の作品は、商品化を前提としたコンペの結果初めて生まれたのだから、事後的な作品の出現が想定されていたこのデザイン概念は、或る意味ではプログラミング言語のようなものだともいえるだろう。そして、この夏に東京で大規模な個展が開催されたばかりなので見た人も多いと思うが、フレキシブルに成形されたチャールズ・イームズやエーロ・サーリネンの椅子は、まさしくこの「オーガニック・デザイン」のデザイン原理に対応するアーティストの側からの最良の解答であり、以後のデザイン・ムーブメントにも大きな影響を与えることになった。ブルーミングデールズという一私企業の主導で進められたこの企画を、商業主義と批判するのは容易なことなのだが、それとは別に、この「オーガニック・デザイン」はいかにも19世紀的・ヨーロッパ的なアート・アンド・クラフトを20世紀的・アメリカ的なデザイン言語へと再構成した概念としての側面も持っているだろう。
 ところで、「インターナショナル・スタイル」にせよ「オーガニック・デザイン」にせよ、MoMAが提唱した一連のデザイン概念には、ある種の一貫した底流が窺われないだろうか? 既に検討した通り、これらの概念そのものには極めてフォーマルで美学的なパラダイムが与えられているのだが――それゆえにMoMAの展示空間は無機的な「ホワイト・キューブ」の代名詞なのだし――その一方で、このような概念系を提唱するMoMAの意図にはきわめて強い政治性が感じられるのだ。その分類・カテゴライズがいくら画期的であったとはいえ、「ホワイト・キューブ」の連鎖によって構成されている以上、MoMAもまた一直線の順路によってクロノロジカルな展示空間を構成する美術館である点では他の美術館と何ら変わらない――だからこそ、ベンヤミン的な「礼拝価値」から「展示価値」への質的転換を象徴する最良の例とみなされるのである。とすれば、その展示が自国中心の美術史を強要する恣意性によって行なわれており、今で言うマルチカルチュラルな視点において、必ずしも均等な条件の下で作品展示が為されていなかったとしても不思議ではないだろう。前述の「アメリカ美術の勝利」という観点もまさにここに由来するのだが、同種の意図は建築・デザインの部門には一層強く窺われる。自国の建築・デザインを同時代の歴史の中心に据えようとするMoMAの意図は、「シカゴにおける初期の近代建築」展(1932―1933)、「H.H.リチャードソンとその時代の建築」展(1936)、「バウハウス1919―1928」展(1938)、「アルヴァ・アアルト」展(1938)、「フランク・ロイド・ライト」展(1940)といった「モダン・アーキテクチャー」以降の展覧会ラインナップによって一目瞭然であろう。芸術の一領域として認知されてからの歴史が浅いにもかかわらず(あるいは浅いからゆえに)、そのパイオニアであるMoMAは、以後の世界的趨勢をリードするイニシアティヴをいち早く確保したのである。
 このように、MoMAの全体像を検討する上で、建築・デザイン部門の担ってきた役割は極めて大きなものなのだが、建築の重要性ということであれば、それはMoMAの施設そのものに対しても言えることである。MoMAのホームページへとアクセスして、トップページからMuseum Historyの項へとジャンプすると、開館当初のMoMAのスナップが目にとまる。決して大きくはなく、これといった特徴もない、クラシカルな様式の5階建ての石造建築。その後MoMAは、現在の巨大な威容を誇るまでに、主だったものだけで3度の増改築を経験してきたのだった6。実際、収集や展示の具体的な対象であるソフトをいかに構築するのかという方針の変化は、その受け皿・ハードでもある展示空間の変質とはきっても切れない関係にあるのである。
 そして言うまでもないことだが、現在のMoMAの性格は、新館建設を柱とした3度目の増築によってその多くが規定されている。そもそもこの事業は1979年の開館50周年を迎えて実行に移されたもので、企画展スペースが地階と一階、絵画・彫刻が二、三階、写真・ドゥローイングが二階、建築・デザインが四階に振り分けられたこの空間は、展示面積にして従来の二倍に達する巨大なものであった。もちろん、フロアが各セクションごとに振り分けられているからといって、総数10万点にも及ぶその膨大なコレクションが相互にディスコミュニケーションなまま死蔵されているわけではない。この新館には、設計者であるシーザー・ペリが導入したガラスのエスカレーター空間によって明るい採光が確保されており、館内の展示物を見て回るためにこのガラスの空間を上下動する体験は、まさしく20世紀美術における「過去」と「現在」の往還にたとえられる。極めて透明度が高く、しかも網羅的でオンラインによる検索が可能なそのディスプレイは、やはりデータベースと呼ぶのにふさわしいことが実感される。これは、MoMAが「展示価値」を最も典型的に体現した空間であるという、当たり前の事実が再認識される瞬間とも言えるだろう。
 そして周知のように、MoMAは現在4度目の大規模な増改築に着手しようとしている。MoMAの次回の大改築計画である「エクスパンション・プログラム」のコンペに谷口吉生案が一等当選したことは、1997年の暮れに日本でも大々的に報道され、また同時期に東京でも最終候補案の展覧会が開催されたこともあっていまも記憶に新しいのだが、MoMAのホームページ上の告知によれば、来夏にも谷口案が実施に移されようとしているらしく、完成の暁には53番街に63万立方フィート(?)もの巨大な空間が出現するという。そもそもこの「エクスパンション・プログラム」の選考では、常に20世紀美術をリードしつづけ、またグッドウィン&ストーンやシーザー・ペリらの建築を揺り篭としてきたMoMAの歴史に対していかなる敬意を示すのかが重要な評価の要素とされ、良質のメタボリズム的なデザインによって、空間のサーキュレーションを重視した谷口の案が、その現実性もあわせて評価された上で一等を獲得したのだった。西側に企画展スペースが、東側には資料室などのデータベース部分が配されるというこの空間を拠点に、森ビルとの提携事業によって東京進出を発表するなど、21世紀の新展開を見据えているMoMAが今度はどのような戦略を打ち出そうとしているのか、興味は尽きることはない。
 なおあまりにも不謹慎な余談だが、世界を震撼させた911日の自爆テロ事件によってWTCの威容があえなく崩れていくさまをTVで見た私は、思わず同じミッドタウンに所在するMoMAが崩壊してしまう様子を夢想してしまったのであった。仮にそんな悪夢が現実のものとなってしまったなら、それは21世紀における「ムセイオン」の焼失にたとえられ、後々まで長く語り継がれることになるのだろう。

――その証拠に、同美術館のURLhttp://www.moma.org/といたってシンプルなものである。
2――フランス人の美術史家が「いかにして50年代に革命が起こり、美術の中心地がパリからニューヨークへと移行したのだろうか? ポロック、クライン、デ・クーニング、マザウェル、ロスコ、ニューマンらの抽象表現主義が前衛を、創造的な自由と個人の連帯を実現するようになったのだろうか?」と語るくらいなのだから、この定説はよほど強固なものなのだろう。詳細はSerge Guilbaut, Comment New York VolaL'Idee d'Art Moderne, Jacqueline Chanbon, 1983を参照のこと。
3――なおこのうち「装飾付加の忌避」は、1966年に「構造の文節」へと修正されている。詳細は『インターナショナル・スタイル』、武沢秀一訳、SD選書、1978を参照のこと。
4――その意味では、「インターナショナル・スタイル」のデザイン原理は、その直後に隆盛を迎えたファシズム建築と紙一重の関係にあるとも言えるだろう。実際、或るフィリップ・ジョンソンの詳細な研究書では、この敏腕キュレーターが一時期アメリカのファシズム活動に荷担していたショッキングな事実まで暴露されているのだ。詳細はFranz Schulze, Philip Johnson-Life and Works, Knopf, 1994を参照のこと。
5――Eliot F. Noyes, Organic Design in Home Furnishing, MoMA, 19416――まず1939年には、フィリップ・L・グッドウィンとエドワード・ダレル・ストーンによって大理石の外壁や展示室の採光のための大ガラス窓などを特徴とした典型的なモダニズム建築が建てられ、1951年と1964年の2度にわたって、フィリップ・ジョンソンによって鉄骨とガラスを利したリース風の増築が施されたほか、彫刻の庭が整備される。そして1983年には、シーザー・ペリの設計による新館が増築されたのであった。








コメント

このブログの人気の投稿

大戦秘史 リーツェンの桜 肥沼信次  舘澤貢次  2012.10.13.

昭(あき)―田中角栄と生きた女  佐藤あつ子  2012.7.14.

ヴェルサイユの女たち 愛と欲望の歴史  Alain Baraton  2013.9.26.