ショパン 孤高の創造者  Jim Samson  2012.6.2.

2012.6.2. ショパン 孤高の創造者  人・作品・イメージ (横書き右開き)
Chopin  1996

著者  Jim Samson 1946年英国生まれ。音楽学者。現在ロンドン大ロイヤル・ハロウェイ・カレッジ教授。西欧におけるショパン研究の中心的存在で、ショパンに関する3冊を含め、6つの著書や数冊の編著がある。サムスンはPeter社から刊行中の新しいショパン全集の編者の1人でもあり、自身の校訂による『バラード集』が刊行されている

訳者 大久保賢 1966年金沢市生まれ。阪大大学院文学研究家博士後期課程修了。文学博士。

発行日           2012.3.20. 初版第1刷発行
発行所           春秋社

作曲に関わる精神の働きについては未だわからないことだらけで、作曲家の人生と作品を結びつけることなど無理
公平な信頼できる伝記を著わそうとする際の問題点
   ショパンのワルシャワ時代について、ワルシャワの社交界や文化の状況がショパンに及ぼした具体的な影響がきちんと評価されていない
   伝記作家のショパン贔屓が偏った表現になっている
必要不可欠な原典
   コビランスカによる手稿譜目録
   ホミンスキとトゥルウォによる作品目録


第1章            故国にて
1894.10.14. 生誕の地ジェラゾヴァ・ヴォラでショパン記念碑の除幕式。音頭を取ったのはロシアの作曲家バラキレフ ⇒ ショパン崇拝の聖地
民族主義とモダニズムの象徴として取り上げた ⇒ ショパンが両方を鼓舞してくれる存在であり、サロンの作曲家などではなく急進的・革新的な人物だった証拠
母は、没落貴族の出
父は、フランス出身でポーランドの貴族の家で家庭教師
ショパン家の価値観 ⇒ 堅実な中流階級のもの、健全な教育、確固たる倫理観や修養の精神が重きをおく
長女 ルドヴィカ、次女 イザベラ、3女 エミリア(14歳で夭折)、フレデリックは4番目の末っ子
最初の作品 1817年作の2つのポロネーズ。現存する最初の自作譜は21年のポロネーズでボヘミア出身の老音楽教師(5歳の時から師事)に献呈したもの
《ピアノ協奏曲ヘ短調》Op.21が、演奏会の常連演目の最初 ⇒ 作曲家としての成熟が真に始まったことを告げる作品
《エチュード集》Op.10 ⇒ 1830年の作曲。翌年の《ピアノ協奏曲ホ短調》Op.11とともに作曲家としての成熟を示す
音楽院卒業直後ウィーンに短期滞在し、オペラを見る傍ら、ケルントナートーア劇場での2回の演奏会で自らの曲を弾き大成功を収める ⇒ その後も繰り返し言われた「音が小さい」との批判もあり、公開演奏会のピアニストとしては向いていないとの懸念も持つ
公のピアニストとしてのデビューは18303月、900人の聴衆を前に行われた ⇒ 続けて2回行われたが、評判は不愉快なものだった
1830.11. 音楽への飢えを満たせないと悟ってポーランドを離れる ⇒ 永久の別れに

第2章            生まれながらのヴィルトゥオーソ
19世紀初めには、音楽の曲種(ジャンル)やスタイルはかなりのところ特定の場で音楽が担うべき役割に応じて決まっており、ショパンの作品もそれぞれに当てはまる
   ポスト古典派の演奏会音楽 ⇒ 華麗なポロネーズ、幻想曲、変奏曲、単独のロンドなどで、ショパンの場合は1826年に音楽高校に入学するまでの作品がこれに該当
   ブルジョワや貴族の客間でアマチュアが演奏する曲 ⇒ 簡単なダンス音楽、民謡風の歌曲などで、演奏技術も要しない作品として、ワルシャワ時代に作曲した初期のワルツとマズルカがある
   「ウィーン」古典派様式 ⇒ ソナタや多楽章からなる室内楽曲。同好の音楽家向け。1828年完成の《ピアノ・ソナタ ハ短調》Op.4や翌年の《ピアノ三重奏曲 ト短調》Op.8 に始まり、《ピアノ協奏曲ヘ短調》Op.21で完成。ワルツやマズルカに加えて夜想曲(ホ短調 Op.72-1)とエチュード(Op.10-1,2)も成熟した形で出来上がる
ワルシャワ音楽院を創設(1821)したポーランド音楽界の重鎮エルスネルの薫陶 ⇒ 18世紀の理論に根差す技術の習練

第3章            新天地
最初がウィーン(8か月) ⇒ 孤独と憂鬱に襲われる。演奏会も不評
1830.12.ロシアの管轄下にあったワルシャワで民衆蜂起勃発、帰国を断念
31.7.ミュンヘン経由パリへ ⇒ ミュンヘンでの演奏会は好評
パリの最初の印象は、「最高の壮麗と最低の不潔、最大の徳と最低の悪徳が見られる」 ⇒ 1年前に7月革命があり、新しい体制に後押しされた起業家精神が格式ばった文化の世界に急速に広がっていた時代であり、やがて「ロマン主義論争」の引き金に
グランド・オペラに圧倒され、自らのピアノ音楽の旋律作法が磨かれ、洗練されていった
オペラの作曲は断念し、自らのピアノで生きる決心をし、同国人の支持を得た演奏会で一応の成功を収める ⇒ 最初が1832.2.のプレイエル・ホールでリストやメンデルスゾーンも聴きに来たが、「彼の音は楽器の外へはほとんど出て行かない」という批判もあり、演奏会よりも金満家や著名人との交際を通じて、貴族の夜会の顔となる道を選ぶ
ベルリオーズとメンデルスゾーンと友達になるが、前者の音楽は全く分からなかったし、後者の作品は立派だが平凡に思われ、結局30年代の終わりには2人は遠ざかった
ハイネとも交流
初期古典派の美学に拘り、ロマン主義精神には無関心
ピアノ教師が最も高収入が得られ、法外な代金を要求した ⇒ 固有の演奏技法が注目
最上流の集団との接触で生活も将来性もゆとりができた ⇒ 当時作曲したエロールの主題による《華麗な変奏曲》Op.12や夜想曲集Op.15、《ボレロ》Op.19Op.10として出版されるエチュード集等の作品につけられた献辞から、ショパンの社交界での付き合いが推定される
楽譜の出版でも多大の利益を挙げられるようになり、公開演奏会に頼らずに生活の糧を得られるようになった

第4章            ピアノ芸術の再生
ショパンの初期の作品の年表にはきちんとしたものが出来ていない ⇒ 自筆譜の現存しない作品が多い
Op.16のロンドやOp.12の変奏曲は、一時的に聴衆に迎合して演奏会用の曲を手掛けたように見えるが、すぐに別の道に進む ⇒ マズルカを単なる舞曲ではなく複雑かつ精緻なものとしてこの曲種に新しい意味を見出すように聴き手を挑発している ⇒ ポーランドの民族舞曲の影響がみられると同時に、西洋芸術音楽の進歩的な傾向をさらに推し進めている。歌曲から独立した「ピアノの夜想曲」という発想も、ピアノの右ペダルの発達のお蔭で装飾に富む旋律が可能となり、独自の境地を開く。最大の成果が33年出版の《12のエチュード》Op.10で、曲ごとに主要な演奏技術上の課題を扱い音型を明確に示した

第5章            最上流の社会
特権階級と付き合い、ぜいたくな暮らしを続け、抜群の「サロン作曲家」と見做されていた
ポロネーズやバラード、スケルツォ等の大きな作品を、それも自分の音楽の要求に最適の曲種を作るために既存の曲種のあり方を見直す形で手掛け始める
1834年 フランスに滞在するポーランド人の旅券の期限延長をロシア当局が認めたにもかかわらず、ショパンはロシア当局のなすがままになることを嫌って旅券を更新せず、亡命者として生きる道を選ぶ
1835年 ポーランドの貴族の娘マリア・ヴォジンスカに求婚するが振られ、「別れのワルツ」を献呈。同時期リストのサロンでジョルジュ・サンドとも会っているが、第一印象は悪い。38年に再会してすぐに同棲。その頃ショパンは肺結核に罹患

第6章            自分自身のための新世界
2つのポロネーズ》Op.26 ⇒ 元々ポーランド作曲家の劇作品の中で民族主義を鼓舞するものとして存在していたが、昔日の栄光を追うかのように英雄的な調子をもたらし文化民族主義の担い手へと変身させる
《スケルツォ第1番》のOp.20 ⇒ 連作や多楽章からなる作品の1つの楽章に用いられるのが普通だったが、規模と表現の幅を大きく広げ悪魔的ともいえる激しい力を特徴とする独立した楽曲に様変わりさせた
《バラード第1番》Op.23 ⇒ もっぱら声楽に用いられ文学との繋がりが明確だったものを、自らの文学から得た刺激・美学を示す手段として作り変えた
上記はいずれも183435年の作、以降10年にわたって成熟させていく ⇒ 《2つのポロネーズ》Op.40、《バラード第2番》Op.382つのスケルツォ、《24の前奏曲》Op.28

第7章            逃避の歳月 1839年夏~45年春
ショパンの伝記作家たちはジョルジュ・サンドのことを悪く書いてきたが、ショパンの友人たちの独占欲に基づく嫉妬によるところが大きい ⇒ 人並み外れたエネルギーで自らの信条に従って生き抜いた驚異的な天才がショパンとの間に丸々9年もの間緊密な関係を持ったということは如何に2人の絆が強かったかを十二分に物語る
2人の生活を賄うためにサンドは作家として身を粉にして働いた(ショパンは「食客」)
ワルシャワ時代以来初めてショパンに落ち着いた家庭生活を提供したのはサンドであり、この新しい家族に守られて数々の傑作を書いた
お互いの友人関係に不満を持っていたため、かなりの緊張関係が続いたが、ショパンは次第に自分の仕事に厳しくなり、「完璧さへのどうしようもない渇望」に支配され、悩まされて、仕事ぶりがずいぶん遅くなっていたものの、この時期19世紀のピアノ音楽の傑作と言える作品を3つ仕上げている ⇒ 事実上彼が作り上げた3つの曲種、ピアノのためのポロネーズ、バラード、スケルツォへの最後の貢献で、以後2年間ほんの僅かしか作品を書いていない
P.178 2行目誤植(1943年→1843)
1843年冬 ショパンはまたも健康を害し、ホメオパシーを始めたためにさらに悪化。父死去のニュースを手にしてさらに落ち込む
サンドの火遊びを契機として2人の関係が破局に向かう

第8章            技の極み

第9章            黄昏 1845年夏~49年秋
2人の危機を広げたのはサンドの2人の子供たち、とくに下の17歳の娘。サンドが親戚の年頃の娘を養女にしようとして同居させたのが家族関係を混乱
最後はサンドが自分の娘とショパンの関係を疑ったのが原因で、若いジャーナリストとの恋に落ち、ショパンと破局、サンドとの別れを受け入れられないショパンは遂に立ち直れなかった
1848年の2月革命はパリの様子や雰囲気を一変させた。ウィーン体制が崩壊し、ルイ・フィリップ国王が退位、王政に代わって第2共和政がスタート(4年後には帝政に逆戻り)する ⇒ 「知識人の革命」と呼ばれ、主要な作家や芸術家の多くが自由の理想と改革運動に共鳴して根本的な状況の変化に大きな役割を果たした。この改革を熱心に受け入れたのがサンドで、逆にショパンは革命に見られる粗暴さを嫌う気持ちから、サンドの後の付き合いの中から親しくなったスコットランドの大地主の娘ジェイン・スターリングのツテでパリを離れロンドンへと向かう ⇒ 上流社会に溶け込むのはたやすかったが、病状は悪化
9月療養のためパリに戻ったが、翌月死去

第10章        簡潔そのもの
簡潔さが「至高の目標」であり、それが達成できるのは「あらゆる困難を乗り越えてからだ」と言い、苦労の末に手に入れた「ギリシア芸術のごとき簡潔さ」、すなわち、些末なことや単なる装飾を厳しく排した簡潔さ――これこそがショパンが最後の数年間に書いた作品の多くに見られる特徴であり、彼の創作は新たな高みに到達
マズルカ Op.63Op.67Op.68-4など
ハ短調夜想曲、夜想曲集Op.62(1846年作)はこの曲種でショパンの最高の成果
ワルツOp.64(1847年作、第1曲が「小さなワルツ」)
《舟歌》Op.60は、イタリア土着の音楽をうかがわせる曲種で、新たな試みだが、最晩年の3大傑作の1
《ポロネーズ=幻想曲》Op.61も晩年のピアノ独奏の大作

第11章        ショパンのイメージ
ショパンの葬儀は、ジェイン・スターリング(アパートに残されたものをすべて買い占め)が費用を持ち、ショパンの遺言によりモーツァルトのレクイエムが歌われた
未出版の手稿譜については、ショパンがすべて焼却を指示していたが、姉が守らなかったため、所在不明の重要な手稿譜がいまだに出てくる
フランスのショパン受容 ⇒ 19世紀後半、「ロマン主義作曲家の典型」としての名声が築かれ、守られた。バロック時代のクラヴサン奏者とフォーレ、ドビュッシー、ラヴェルなどの世紀末の偉大なピアニスト=作曲家の繋がりを見る上で欠かせない重要な存在と見做される。コルトーもショパンの音楽においてほど、「フランス流の思考と感覚が深く理解され表現されたことはない」と言っている
ドイツのショパン受容 ⇒ 19世紀後半にショパンの音楽が世界に広まったのはドイツの出版社のお蔭。特に当時の音楽出版の中心ライプツィヒにあったブライトコプフ社は主要作曲家の全集版シリーズで、ドイツ人作曲家以外ではショパンとパレストリーナだけを取り上げたことが象徴的 ⇒ ドイツ音楽の規範の中に認められたということを意味し、ショパンが古典の作曲家となった
ロシアと英国のショパン受容 ⇒ ロシア5人組の統率者として有名なパラキレフが、誤解によるものにせよ、ショパンをスラヴの作曲家と見做し、その民族主義とモダニズムの融合を体現する者として持ち上げたことが、ショパンのスタイルがロシア音楽の進歩的な傾向に決定的な影響を及ぼしたことに繋がる。一方、英国では初期ロマン派音楽が巷に溢れ、その創始者のうち傑出した1人としてショパンがもてはやされ、夜想曲やマズルカの外的特徴がのちの作曲家による模倣の格好の的となって、周囲にある月並みな程度の低い作品との繋がりの中で目立たなくなってしまった
20世紀のショパンの受容 ⇒ 演奏と楽譜の分離。ショパンの音楽を公開演奏会でお馴染みのものとしたのはロシアのルビンシテイン(182994)だが、それはほとんど「自作自演」に近い


ショパン 孤高の創造者 []ジム・サムスン
 「ピアノの詩人」と呼ばれる作曲家の生涯は、その音楽よろしく、ロマンチックな装飾を加えて語られがちだ。本書は信頼できる資料を手がかりに、想像力による脚色をていねいにはぎとり、人間ショパンの実像に迫る。恋人ジョルジュ・サンドやその家族、ドラクロワやリストといった友人との関係性は、実に微妙な距離感の中で成立していた。楽譜出版社と交渉する際の抜けめなさは、てだれの商人顔負けだ。
 年代別に並べた楽曲分析が、生涯と音楽的成熟の関連をわかりやすく示す。ショパンの死後、その音楽がどう受容されていったかに触れた部分は、彼の「伝説」がどのように作られていったかを知る手がかりになる。

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