天下無敵のメディア人間  佐藤卓己  2012.6.22.

2012.6.22. 天下無敵のメディア人間 ― 喧嘩ジャーナリスト・野依秀市

著者 佐藤卓己 1960年広島生まれ。京大大学院准教授。京大文学部西洋史学専攻卒。ミュンヘン大近代史研究所留学の後、京大大学院単位取得退学。東大新聞研究所・社会情報研究所助手、同志社大助教授、国際日本文化研究センター助教授を経て現職。専攻はメディア史、大衆文化論。

発行日           2012.4.25.
発行所           大進堂

『季刊 考える人』2009年春号~2012年冬号に12回連載した「天下無敵―戦後ジャーナリズム史が消した鬼才・野依秀市」を元にしている
講談社・野間清治に対する最大の批判者、右翼ジャーナリストとして知られる


「負け組」メディアから見えてくる、真の昭和言論史
昭和前期から戦後にかけて「言論界の暴れん坊」の異名を取る男がいた。反体制も躊躇せず、戦時下は反東条の姿勢を貫き、一方で対米戦を過激に煽る。その結果、収監されることも一度や二度ならず。だが彼ほど大衆の感情、「世論」を体現した者はいなかった。表の言論史には現れぬ鬼才に焦点を当て、真のジャーナリズムとは何か、その原点を考える

野依秀市(18851968) 『実業之世界』『帝都日日新聞』等の経営者
         露伴、雪嶺に愛された騒動男
反権力を売り物にした異色の出版人
反骨の国権的自由主義者
元秘書による伝記の冒頭 ⇒ 国士まがいのユスリ・タカリ屋として悪名が広く世間に流布されている
戦後公職追放になったが、占領軍が「宣伝用刊行物」として没収した戦前図書7119点中、個人別リストで第1位は野依の23
標準的な略歴 ⇒ 大分県中津市生まれ。実家は呉服屋。小卒。同郷の先達・福澤諭吉に憧れその書生たらんとして上京、慶應義塾の商業夜学に学ぶ。在学中に友人石山賢吉(のちダイヤモンド社創立)の協力を得て『三田商業界』(のち『実業之世界』と改題)を発刊。三宅雪嶺、澁澤栄一らの庇護を受ける。東京電燈の料金値下げ問題などに絡む恐喝で2回入獄後、浄土真宗に帰依。32年大分1区より代議士当選。同年『帝都日日新聞』を創刊し社長、44年東条内閣攻撃により45回の発売禁止処分を受けたのち廃刊。戦後は公職追放、解除後は55年衆議院議員(日本民主党)、保守合同で活躍。58年選挙では落選。『帝都日日新聞』を復刊。特に深沢七郎の『風流夢譚』問題を巡り、中央公論社を激しく攻撃し、また紀元節復活法制化運動の先頭に立ったことで知られる
明治リベラリズムから大正デモクラシーを経由して昭和ナショナリズムに走った言論人であり、晩年は右翼ジャーナリスト ⇒ 皇室中心主義は変わらないが、大逆事件以後いわゆる「冬の時代」の社会主義者に経済的援助をしたり、自らも門閥打破、憲政擁護運動の旗振りをやっていたこともある ⇒ 1929年「秀一」から「秀市」へと改名したのが左から右への分岐点?
自ら「無学不文」と称して、自らの意見を堺利彦や白柳秀湖に書いてもらっていた ⇒ 「言論人」ではなく「メディア(人間)」として研究対象とする。発言内容の真偽より、発言する媒体(著者)の知名度が重要だという発想はまさにメディア論的。戦後『朝日新聞』を「国民の敵・容共朝日」と糾弾した時にも「国賊」として批判されるのは「新聞」であって「記者」ではない
同年生まれの出版人 ⇒ 正力松太郎、山本実彦(改造社社長)
2年後生まれ ⇒ 石川武美(主婦の友社社長)、嶋中雄作(中央公論社社長)

「メディア」の語源 ⇒ ラテン語mediumの複数集合名詞。「霊媒」など宗教用語で使用されていたが、第1次大戦期のアメリカ広告業界で雑誌・新聞・ラジオが「マス・ミディウム」と呼ばれるようになり、やがて「メディア」だけで広告媒体を意味するようになった。消費社会の成熟とともに、ヒト・モノ・コトすべてが広告媒体と見做されるようになる
「メディア」が日本で使われるのは戦後の事だが、大正期モダニズムにおいても自己宣伝を実業とする「広告媒体的人間」、すなわちメディア人間の萌芽は生まれていた。野依はその先駆け。彼こそ、自身を広告媒体と強烈に意識した宣伝的人間
野依のメディア特性をいち早く見抜いていたのは、評論家・大宅壮一であり、「総会屋的」ジャーナリストの元祖と位置付ける

野依式ジャーナリズムの原点
事実の報道や批判をするジャーナリズムではなく、事実そのものを動かすジャーナリズム
実業之世界社(野依学校)からは、他に例を見ないほど多くの経営者を輩出
野依が「親分」としたのは、財界人では澁澤栄一、言論人では三宅雪嶺
傘下人材の3タイプ
   ナンセンス ⇒ 目立ちたがりの変わり者
   アナキスト ⇒ 資本家攻撃の自己正当化が得意なインテリ
   馬鹿 ⇒ 単純な正義感の持ち主
校友会の演説会場で知り合った「日本の電力王」福澤桃介(諭吉の娘と結婚しながら、女優・川上貞奴を愛人とした)の名刺を勝手に使って、ほとんど詐欺まがいに政財界の名士を訪問し談話を取って『三田商業界』の売り物とした
雑誌は新聞と同様、第3種郵便物認可を受けるために広告量を50%以下に押さえることが必要条件だが、店頭販売が主流の一般雑誌では広告量の抑制が制作時に意識されることは希で、雑誌こそ「広告媒体」の原義を留めた純粋メディアと言える ⇒ 純粋メディアの特性を最大限まで引き出そうとしたのが『実業之世界』の野依 ⇒ 広告の有効性を説いて、広告を集めまくった
当初(1905)『三田商業界』は非合法 ⇒ 戦前の雑誌は、新聞紙法に基づき保証金を積んで発行が認められた(時局ニュースを扱わない文芸雑誌などは保証金不要の出版法に基づき発行)が、学校側の承認が得られなかったため強引に一般誌として創刊、警視庁から呼び出しを受けて慌てて金策に走り、日比翁助(三越呉服店専務)、武藤山治(鐘紡専務)、和田豊治(富士紡専務)、朝吹英二(三井合名参事)等から寄付を集める
新聞広告と並んで野依が重視したのがメディア・イベント ⇒ 大隈重信を引っ張り出した演説会
傍流学歴に過ぎない野依が福澤精神の正統な継承者を僭称する行為に反撥した周囲によって1年で追放 ⇒ 日本新聞社入社、広告を倍増させ、広告業界にも人脈を築く ⇒ 日本電報通信社(現在の電通)からスカウトに来たが、いつまでも広告担当に留まる積りはないと言って断る
『三田商業界』に呼び戻され、名称を『実業之世界』に変更すると同時に、広告取次業を分別 ⇒ 「喧嘩ジャーナリズム」の開始で、当時の3大紙に一頁広告を出して天下を驚倒させ、発行部数を驚異的に伸ばした(広告料金は現在の購読料を基準に換算すると約3.5百万円)
東京朝日新聞の第1面が全面書籍広告となるのは1905年に広告代理店・博報堂がこの面を買い切って以降のこと。19409月に戦時体制強化で広告が制限されるまで朝日の第1面は原則として出版広告で埋め尽くされていた。その名残が現在も1面下の3段を8等分した「三八(さんや)つ」と呼ばれる書籍広告欄
澁澤の知遇 ⇒ 野依が自らの雑誌に、日露戦争後の経済バブルの元凶として、澁澤の増資による巨利収奪を厳しく批判したところ、矢野恒太(第一生命)が「時計王」服部金太郎を紹介、服部との対談で澁澤の高潔さを説かれ、両者の直接対談が実現、老人は青年実業家に後を譲れと談判、澁澤も「世の新聞雑誌が虚礼虚飾を貴ぶ間にあって、野依氏が一人超然として正を正、邪を邪とする心事は愉快」と裏書を与えている
野依の愚直さを愛した澁澤は、政財界の知人に野依を紹介したばかりか、1920年野依二度目の出獄に際しては「野依後援会」の発起人にまでなっている
政界の著名人に対する突撃インタビューが好評

野依の言論とは、敵本位主義の喧嘩ジャーナリズム ⇒ 社会悪と見立てた相手を徹底的に攻撃し、その批判の過程で自己生成する行動主義。自分の中に守るべき正義・絶対的価値は不要 ⇒ 精神的な支柱となったのが三宅雪嶺。東京朝日新聞記者だった中野正剛が三宅の娘と結婚、政界入りして活躍するが、43年東条内閣の戦争指導を厳しく批判したために拘束され割腹自殺を遂げる。三宅は中野の後継を野依に託すかの如き推薦文をしたためる。曰く、「野依との交際は、中野との関係より長く、正直、勇気、誠実、識見を兼ね備えたる現代日本の第一者は野依と言って過言ではない」
三宅は、1909年から35年間、毎号『実業之世界』に巻頭論説を寄せ、発言の場も『中央公論』や『日本及日本人』から『実業之世界』に移していったし、昭和期に入ると雪嶺の著作は復刊も含めほとんど野依によって刊行された ⇒ 三宅は、訥弁の雄弁家で、自己の哲学的逃避、書斎的閑居を埋め合わせるような人物に魅力を感じた
慶應義塾卒業生中心の社交クラブ・交詢会入会申し込みに対し、かねてゴシップ屋の跋扈に眉を顰めていた良識派が、波多野承五郎(三井銀行理事)を中心に反対 ⇒ 波多野側は『実業之世界』への広告出稿を停止、野依は1年に渡って波多野非難の記事を集中砲火的に掲載、さらに波多野が関係する企業の醜聞を暴露、三井本家にまで被害が及びそうになって手打。「波多野征伐」によって野依ジャーナリズムのスタイルが確立、財閥攻撃は世の喝采を浴びる
次の東京府農工銀行支配人の不正腐敗ネタ事件では、野依の波状攻撃が大隈の仲裁で中止となったが、その経緯が暴露され、大隈が激怒して出入り禁止となったが、その事情も掲載して両者は絶縁状態に
1910年東京電燈事件は、野依の知名度を全国レベルに引き揚げ ⇒ 予て電気料金が高すぎることが批判されているところへ、12%の株式配当が発表され、高配当に怒った野依が電気料金の3割引き下げを要求、社会派代議士も巻き込んで社会問題化させた ⇒ 会社宛の最後通牒を無視された野依が社長と理事宛に出刃包丁を送りつけたのが恐喝罪となって169日間の拘留、雑誌は発禁 ⇒ 獄中の「東京市の恩人」に届けられた年賀状が第1便だけで300余通と、東京監獄の新記録 ⇒ 東京電燈は、野依の保釈後に17%引き下げ、さらに有罪確定後に再値下げし、結果的に野依の要求した3割値下げは実現
出獄後、社会主義運動の指導者・堺利彦に紹介され、大逆事件を免れた堺が生活費を稼ぐために代筆を業とする売文社を設立した際、最大の顧客となっている ⇒ 「無学者」を自称する野依は、自らの文章が代筆であることを隠さず、むしろ一流の文章家を使いこなす力量を誇示。大杉の『近代思想』や荒畑寒村らにも資金援助をしている ⇒ 「野依雑誌」も社会主義機関誌もメディア史上ではともに「赤新聞」の系譜に位置付けられる(同じ、特権階級の批判者だった)
1911年新渡戸稲造攻撃事件 ⇒ 両者は良好な関係にあったが、当時一高校長だった新渡戸が『実業之世界』のライバル誌『実業之日本』の顧問だったところから、ライバル誌への側面攻撃として同社社長とともに新渡戸を攻撃、新渡戸が最近の悪徳新聞のゴシップ追求姿勢を批判したのに対して、新渡戸の寄稿する朝日新聞や『実業之日本』をお世辞新聞雑誌、追従新聞雑誌として批判、朝日が明治政府の秘密資金援助を受けて飛躍的に発展した経緯も踏まえ噛みつく。新渡戸が『野球害毒論』で、「野球は巾着切の遊戯」と断じたことに反発して野依側についた冒険作家・押川春浪が、東電事件で逮捕された野依に代わって新渡戸の下半身攻撃を継続
新渡戸は、野依の入獄4か月後に校長を辞任しているが、その原因となったのは野依の攻撃よりも、一高生からの批判 ⇒ 新渡戸が弟子の鶴見祐輔に後藤新平男爵の令嬢を世話したことが一高生から羨望の的になったとして、閨閥形成のやり方を攻撃
堺や山川等の社会主義者たちにとっても、新渡戸が03年に社会主義の機関雑誌に「社会主義の理想を抱く」と自白し、「文明の進歩は共和制に向かって傾きつつあるを信ず」とまで言っていたのに裏切られたとして、野依以上の敵意を感じていた
1912.12.2年間 巣鴨に収監。14.3.仮釈放 ⇒ シーメンス事件で言論界の政府批判が最高潮に達しており、野依も早々に編集に復帰、直後に不正を追及した相手から現金を脅し取ったとして再逮捕、4年の実刑を受ける(1916.5.20.5.豊多摩刑務所に収監)
往復葉書による大規模な輿論調査は、『実業之世界』の売り物の一つであり、大衆参加に向けた輿論指導の実践 ⇒ 政財界人・文化人を対象とし実名で賛否を掲載、回答率3
アナーキストとも交流 ⇒ 二度目の入獄の時は「与太大王」安成貞雄に編集を託す
入獄の際、大杉栄から自分でもできると言われたが、断っている
広告収入こそが雑誌経営の本質であり、大杉に任せて社会主義雑誌になってしまうのでは「まともな」広告媒体ではなくなる、というのが本当の理由
雑誌の裏表紙は最も広告料が高く「表4」と呼ばれる ⇒ 「表2」が表紙裏、「表3」が裏表紙裏 ⇒ 『近代思想』創刊号の表24は全て『実業之世界』の広告
野依の場合、反軍国主義や平等主義が戦後まで一貫していることも少なくない ⇒ 利権より交易を重視、急進的な社会主義者たちの要求とも重なるところから親交を深め、戦時中荒畑寒村が拘留された時は慰問援助していた
大正期に創刊した特異な雑誌 ⇒ この種の雑誌の先鞭をつけるもの
   『女の世界』 ⇒ 男が読む女性雑誌。「当代新しい女」のトップは与謝野晶子、「新橋名妓」のリストと並掲
   『世の中』 ⇒ サラリーマン向け「生き方雑誌」の元祖。処世訓を中心に、金銭、性愛、権力絡みの読み物となっていて、社会史データとして興味深い
   『探偵雑誌』 ⇒ アルセーヌ・ルパンの翻訳者・安成貞雄の影響。実話が多い
『女の世界』の婦人記者募集に応募してきた女性記者と結婚、離婚、溜池で待合の女中頭をしていた女性と再婚、彼女が著作権継承者
獄中でわが身の罪悪深重を知ることを通じて宗教信念を獲得したと言い、浄土真宗に帰依、新たに『真宗の世界』を創刊(192110)、真宗宣伝協会を設立、本願寺や親鸞は否定
『真宗の世界』と関東大震災を経て、野依は1930年代に大躍進する出版事業体制の基礎を固めた

護憲派ジャーナリスト
中津市に、盟友岸信介首相直筆による「野依秀市翁頌徳碑」が民家の陰に隠れて存在 ⇒ 言論人としてより代議士として、55年大分2区の日本民主党候補として現職の副総理兼外相・重光葵を抑えてトップ当選。頌徳碑は保守合同に尽力した功績を称え、存命中に建立(63年自ら集めた資金で建てた野依式自己宣伝の極致)
早くから政治青年だったが、現実政治に足を踏み入れたのは19215月の政論雑誌『野依雑誌』創刊から ⇒ 『原内閣擁護論』を50万部刷って政友会に寄附
『実業之世界』の社論として、政党政治と普通選挙の実現を一貫して掲げてきたが、野依も震災を契機として政論活動に復帰 ⇒ 福祉国家へ向けた大正デモクラシーの地下水脈
24年の清浦貴族院内閣成立によって衝撃を受けて起こった第2次護憲運動に参加 ⇒ 護憲3派の大衆動員を恐れて「懲罰」解散した後の選挙で、高橋是清(政友会総裁)が爵位を返上して出馬したことに感激して野依も政友会に入党し出馬、新聞広告や印刷物を縦横に駆使、理総選挙を標榜して言論戦一点張りで臨んだが、結果は惨敗 ⇒ 「選挙費用調べ」で自らも含め選挙費用を公表、『三田商業界』創刊以来の恩人・武藤山治を25万円も費消した腐敗選挙として糾弾
野依の外交観 ⇒ 排日移民法(24)に憤激する世論を批判、日本人の「一等国」意識も自惚れとして退け、アジアでの孤立を懸念、支那との経済連盟を唱える

代議士・野依の誕生
1924年の選挙で勝利した護憲3派による加藤高明内閣により普通選挙法成立、28年に第1回普選となり激戦の東京1(文藝春秋社長で人気作家だった菊池寛も社会民衆党から立候補)に出ようとするが前科による公民権停止で立候補できず
政府の選挙干渉を新聞が糾弾、内相が引責辞任に追い込まれたが、野依は内相を擁護して大新聞批判を開始 ⇒ 戦闘的自由主義者の右旋回
19302月の17回衆院総選挙に大分1区から公認を取って立候補するが、今回は金をつぎ込んだために選挙違反で逮捕、禁固4か月に
選挙違反事件が野依の声望を高め、大分日日新聞の社長に就任 ⇒ 大分3番目の新聞として1911年創刊されたが経営不振となり野依がテコ入れしたが、5年で手放す
1932年 満州事変処理を巡って若槻内閣が閣内不一致で倒れた後の18回総選挙で、大分1区から初当選 ⇒ 政友会・犬養内閣で野依が主張してきた金輸出再禁止決定
1933年 前回選挙の違反事件の上告が棄却され有罪が確定、当選が無効に
19回は逮捕中、20回は保釈中のため立候補見送り
21(翼賛選挙)は、大分1区から非推薦で立候補し次点 ⇒ 投票率83.1%、推薦候補の獲得議席が81.8%に達したが、非推薦の中野正剛や斎藤孝夫ら85名も当選
2224回は、公職追放中
25回は自由党から、26回は無所属から、いずれも大分2区から立候補したが落選
1955年の27回で当選
28回は自由民主党非公認、2930回は無所属から立候補し落選

「貧強新聞」奮戦記
1932年衆院議員当選の半年後五・一五の真っ最中に『帝都日日新聞』創刊 ⇒ 前年に「エロ・グロ特ダネ満載」と謳った週刊『我等の新聞』(4)を創刊していたが、野依が夢見たのは首都圏での日刊紙発行、総選挙出馬もそれを実現するための手段だった。錚々たる新聞人が代議士として名を連ねる
三宅雪嶺が隔日1面コラムに執筆、知識人の併読紙として独自の位置を占める ⇒ 三宅の新聞連載はそれ自体大きなニュースで、大新聞の「富弱新聞」に対し、「帝日」は「貧強新聞」と期待を込めて書いた
軍部、財界、新聞界を正面に見据えた「天下無敵」を宣言、軍部批判、ファシズム批判は痛烈、右翼からの妨害圧迫、警察からの警告・発禁処分を繰り返す
同業者への攻撃を専らとする日刊紙の登場は、新聞業界の異観
項羽團者・野間清治との確執 ⇒ 九大雑誌を要して「雑誌王」と呼ばれその余勢を駆って『報知新聞』で「新聞王」を目指した野間が大広告主の地位を利用して広告料を支配しようとしたことに反発、傘下の全媒体を使って野間攻撃に出る。借りのある博報堂・瀬木博尚の仲介で一旦は下火となったが、その後復活して野間の死後まで続く
帝日の編集部 ⇒ 初代局長に、他紙のブルジョア批判を目的に共産党出身の並木(門屋)博を持ってきたこともあり、転向左翼の梁山泊の様相。ユニークなのはのちの文化勲章受章者詩人・草野心平(32年から実業之日本社社員)
1934年帝人事件(大蔵省疑獄事件)に関連した恐喝で有罪 ⇒ 検察ファッショの生贄

日中戦争以降の野依 ⇒ 軍部ファッショ批判で突出した後、最も過激な対外強硬路線を唱えるようになる
公議輿論(public opinion)と世論(民衆感情popular sentimentsの意味で明治期に使われ始める)は、ベクトルの異なる概念だったが、25年の普通選挙導入とマスメディアの発達によって「輿論の世論化」=政治の大衆化が加速 ⇒ 輿論は新聞紙上に現れた世論の趣向のこととなり、大衆新聞によって「意見の感情化」や「空気の支配」が生じ始めていた
『帝日』を通じて、自分こそ世論(国民感情)を反映した輿論、「世論の輿論化」の体現者だ、との自己主張 ⇒ 大新聞より「世論の趣向」に忠実であり、直感は天才的ともいえる
軍縮を主張しておきながら、満州事変前から筆致が急変、「日支の懸案は武力で解決せよ!
言論の自由を説くとともに、軍部や元老、官僚を批判、不心得の金持ちを個人別に寄付金額を公表して少ない人を守銭奴と非難
右翼から「言論ギャング」として狙われる
天皇機関説では美濃部こそ天皇中心主義として支持し、美濃部を糾弾する右翼陣営こそ天皇政治への反逆者だと断じている
二・二六事件 ⇒ 反乱軍の朝日新聞襲撃に対し、朝日を守れと主張 ⇒ 全言論機関の問題と捉え、社会的批判の自由の確保こそが社会の合理的発展に寄与すると主張
郷土の横綱・双葉山の後援団長を自任、結婚の媒酌人を務める
38年の時点で、日中戦争は既に世界大戦だとの認識をする ⇒ 野依にとって、日華事変は日英戦争であり、中国の抗日をイギリスが裏で糸を引いていると確信し、39年の第2次大戦勃発と同時に対英参戦論を展開。407月には主要敵にアメリカを加え、激烈な反英米運動を開始
過激な論調から度々発禁となり、418月には新聞巻取用紙の配給停止まで受けたが、減頁し手持ち用紙で発行を継続、秘かに同情した岸信介の支援もあって翌年4月には再開
新聞雑誌統合策への対策として、東京毎日(最古の日刊紙・横浜毎日の末流)の発行・営業権を買収
戦時統合の結果が、今日まで続く全国紙―ブロック紙―県紙の日本型新聞システム、検閲にとっても好都合でGHQに引き継がれる。この新聞カルテルも、終身雇用、年功序列、源泉徴収などと同じく総力戦遂行のために生み出され、戦後日本社会を規定した「1940年体制」の1要素
『実業之世界』4112月号では、開戦と言論の自由を主張
42年の翼賛選挙敗退の際は、発禁覚悟で東条内閣と翼賛選挙体制に激しく噛みつく
同年の東京市議会選挙にも立候補、双葉山まで応援に担ぎ出したが次点
447月 横浜事件 ⇒ 戦時言論弾圧のクライマックス。満鉄調査部嘱託・細川嘉六の書いた、東亜新秩序建設に際しては欧米の植民地政策ではなくソ連の民族政策に学ぶべきとの論文を、「共産主義宣伝」として治安維持法違反で言論人49名を検挙、『中央公論』と『改造』を廃刊に追い込む
444月『帝日』廃刊
447月~ 「米本土空襲講演会」
448月『日米決選必勝論』 ⇒ 野依による東条内閣批判の集大成(総辞職直後に発行)

『実業之世界』4511(戦後第1)の巻頭言「新日本建設に題す」では、天皇を中心とした民主主義が機能しなかった理由として、藩閥、軍閥の跋扈、官僚の我儘と政党の意気地無さを挙げ、終戦詔勅に関しては「詔書を空文に終わらしむる勿れ」を自分流に解釈して、陸海軍首脳部の責任を追及
46.3.~ GHQが日本の民主化促進のため、戦前・戦中の「宣伝用刊行物」の没収を開始
野依の著作が23冊で個人のトップ ⇒ 47.7.公職追放のG項に該当(言論、著作、行動により好戦的国家主義および侵略の活発なる主唱者たることを明らかにしたもの)351名に入れられ、51年の解除までは宗教雑誌の執筆者に専心
512月号から復帰し、直接編集を指揮 ⇒ 個人メディアの活路は同業の主流メディアの批判にしかないという従来の信念から、復帰後もその路線を踏襲、新聞批判がこの雑誌の売り物となる ⇒ 主流メディアの批判をビジネスとして確立した人物
親米に転向、アメリカが日本を赤化防壁とするのは日本を頼むに足ると認識しているからで、雨降って地固まるの関係を確立すべきと主張。他方、吉田首相を保守政党を分裂させた元凶として糾弾 ⇒ 日本民主党に入党、吉田内閣総辞職、鳩山内閣成立後の選挙に立候補し、トップ当選
米ソ冷戦下の国際情勢と労働攻勢の中で反共色を強めた財界に、強力な保守政党を望む声が生まれ、そうした保守合同の機運を野依がメディア・イベントとして具体化させた ⇒ 55.6.日比谷公会堂の壇上で犬猿の仲とされていた日本民主党総務会長・三木武吉と日本自由党総務会長・大野伴睦を握手させている ⇒ 保守合同の決定的瞬間
57.2. 岸内閣発足に尽力 ⇒ 自民党代議士会副会長として政治権力を握ったことで右翼利権屋と見分けがつかなくなり、3か月後には恐喝で指名手配、逮捕・起訴されたが保釈、受け取った金額は2億円以上、逮捕議員の処分を迫られ副会長を辞職、以後自民党は公認から外したので選挙も通らず
『実業之世界』『帝日』は、60年代安保闘争を一貫して岸内閣支持した特異なメディア
59年『帝日』再刊1周年記念号に、その年文化勲章を授与された小泉信三が寄稿、『帝日』の特色の1つは「新聞批判」にあるとし、同業者による厳しい批判の必要性を説いた

『風流夢譚』事件 ⇒ 1960年中央公論新人賞作家・深沢七郎が『中央公論』12月号に発表した安保闘争をパロディ化した空想小説に、美智子妃の斬首シーンを含む皇族皆殺しがあるのに憤激した野依が、右翼も煽って糾弾、中央公論は直ぐに誌面で謝罪したが、右翼テロ事件(嶋中事件:家政婦を刺殺、夫人に重傷)に繋がり、中央公論も編集方針を中正に戻すことを約束 ⇒ 野依が実質的にテロを煽ったことは間違いないが、中央公論を起訴しなかった池田内閣への不満を募らせ、内閣打倒を宣言

犯罪報道を扱う新聞や雑誌は、モラル装置として出発している ⇒ スキャンダルの動機と処罰を巡る言説は、読者に何が世間で問題とされるのかを楽しみながら学習させ、予防監視の視線を内面化させる。こうした機能は今日の犯罪報道においても十分に引き継がれている
1968年脳溢血で倒れ死去 ⇒ 『実業之世界』は85年まで刊行され続けたが、81年の商法改正で総会屋などへの利益許与が禁じられたのが原因で突然廃刊。帝都日日新聞社は没後児玉誉士夫が相談役に加わって新発足、『やまと新聞』という普通の右翼新聞になる
ジャーナリズム史でも、「暴露雑誌の元祖」は黙殺
現代の小利口な時代に、愚直と馬鹿さぶりを発揮した野依が、死後自宅以外にはほとんど資産らしいものを残さなかった


天下無敵のメディア人間 佐藤卓己著 「言論ギャング」の姿を好意的に 日本経済新聞 書評 2012/6/3
フォームの始まり
 明治末期から太平洋戦争後の60年安保ごろまで三時代にわたって雑誌『実業之世界』、新聞『帝都日日新聞』などを刊行、また一方で政治家として活動した野依秀市(秀一)を紹介し、波乱に富んだ一生を種々の著作から拾い集め、その思想・信条を追った労作だ。
(新潮社・1700円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 いまでは野依を知る人も少なくなったが、知る人は知っている。しかし、それはメディア人間とはほど遠い「言論ギャング」「ユスリ・タカリ屋」あるいは「問題政治家」といった人物像としてだ。だが著者は、野依が「言論ギャング」であることを肯定しながらも、それ以上にメディア史上、無視することのできない重要人物として評価をしている。野依を、これほど好意的に描いた書は、これが初めてだろう。
 自分を認める人物や媒体には親切そうにすり寄り誉(ほ)めちぎる。少しでも貶(おとし)めれば悪口雑言を浴びせる。それどころか、自分に得になると思えば個人・企業にかかわらず、わざとケンカを吹っかける。右翼も左翼もない。金と名声のためなら大恩人にも食ってかかる。それで世間の注目を集め、地位を築こうというのだ。
 現在でもこうした人物はいるが野依はスケールが違う。その意味での主義主張は一貫しているようでもあるが、実際はその時々の状況によって、どうにでも変わってしまうのだ。野依の行動は、ほとんど、メチャクチャといっていいだろう。
 だが著者は、野依を元祖メディア人間だと強調する。メディア史や政治史の研究家が野依を認めないのは偏見だともいう。たしかに澁澤栄一、幸田露伴などにかわいがられたり、多くの著名人を金銭面で援助した事実もある。そして野依の部下だった人物の「大胆のくせに小心、大欲のくせに小欲、ケチくさいくせに気前よく、物識(し)りのくせに物を識らない、まことに複雑微妙な人柄」という言葉こそ、野依のメディア人間の本質を抉(えぐ)る見事な描写だと結論する。
 いずれにしても、今後、これ以上に野依を詳しく紹介した書はあらわれることはないだろう。野依の、事実は小説より奇なる人生を楽しませてくれる著者に感謝の意を表したいと思う。
(作家 横田順彌)

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