「砂漠の狐」ロンメル  大木毅  2019.6.4.


2019.6.4.  「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨

著者 大木毅 1961年東京生まれ。現代史家。立教大大学院博士後期課程単位取得退学。DAAD(ドイツ学術交流会)奨学生としてボン大学に留学。千葉大その他の非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、国立昭和館運営専門委員等を経て、著述業。16年より陸上自衛隊幹部学校(現陸上自衛隊教育訓練研究本部)講師。著書に『ドイツ軍事史』

発行日           2019.3.10. 初版発行
発行所           KADOKAWA(角川新書)


序章 死せる狐
ヒトラー暗殺に加担したとして自決か裁判出頭かを迫られたロンメルは、自決を選び、服毒した将軍を見た未亡人は、その死に顔に今まで見たこともなかった蔑みを抱いた表情を初めて見た。だとすれば、その感情は誰に向けられていたのか。本書は、この問いかけに答えるためのささやかな旅路となろう

第1章        ロンメル評価の変化――英雄「演出」/偶像破壊/進む再評価
正確な記録があるわけではなく、ほとんどは目撃者の証言に頼らざるを得ないが、史料批判を加え、極力事実に近い像になるよう努めた。それでも証言には食い違いがあり、それらが同時代から今日に至るまでのロンメル評価の変化と揺れの遠因を端的に示している
ロンメル像のかなりの部分は演出されたもの ⇒ ゲッペルスが国民の士気高揚のための格好の材料として、ロンメルを実際以上の名将として描き出し、英雄に祭り上げている
自身自己宣伝に努める傾向があり、遺稿となった回想録にも見え隠れし、それが50年に『憎悪なき戦争』として出版された、名将のイメージを固める
チャーチルですら、42年下院における演説で「大胆で有能な敵手、優れた将軍」と評価し物議を醸している
この傾向は戦後も不変で、様々なノンフィクションにより英語圏でも増幅されていく
70年代後半になると、ロンメルの軍人としての資質や能力に疑問が呈され、偶像破壊の動きが始まる ⇒ 資料の歪曲や恣意的引用を多々含んだ書物が契機ではあったが、1次史料に基づく実証研究も進み、不十分な攻撃準備しかせず結果的に大損害を出したとする批判も登場、兵站軽視が指弾され、偶像から批判の対称へと変わっていく
2000年代にはロンメル評価が等身大のものとなり、戦略的視野や高級統率力には欠けるところがあるものの、作戦・戦術次元では有能な指揮官という評価が定着
故郷のバーデン=ヴュルテンベルク州歴史館でも、郷土の偉人を顕彰するより、虚像の形成過程を顕彰する特別展さえ開かれているし、生誕の地ハイデンハイムにある彼の生誕70年を記念して建てられた記念碑を巡り2011年には「ナチ将軍の記念碑は不要」といった抗議活動や、逆にネオナチが記念碑を詣でたことから彼らの「聖地」になりかねない危惧が取り沙汰され、いまだに決着がついていない
更には、国防軍の衛戍地に「ロンメル兵営」の名がつけられているのもナチ将軍の名を兵営に冠するのは好ましくないとの批判が相次ぎ改称が検討されているなど、ロンメルの評価が軍事的・歴史的なそれを超えて、政治的な色彩を帯びつつある ⇒ ロンメルという歴史的存在への解釈が、現代の我々にとってどのような意味を持つかという問題意識に基づく研究が多い

第2章  「アウトサイダー」ロンメル――プロイセンの出自にあらず/数学者の息子/傍流から入る/「連隊付の立派な将校」/中産階級の恋愛
ドイツでも、プロイセンに次ぐバイエルン、ザクセン、ヴュルテンブルクは独自の陸軍省や参謀本部を有していながら、帝国としてはプロイセンが圧倒的な発言権を持っていたため、ロンメルにとってプロイセン出身でないことが大きなハンデとなっていく
ロンメルの家は勃興著しい中産階級で、18歳で軍隊に志願した際にも、「将校適性階級」の特権階級からは一段下で、人気部隊で出世の早道となる砲兵・工兵にも空きがなく任官し損ねたのがロンメルの軍人としての在り方に少なからぬ影響を及ぼしている
砲兵・工兵の士官候補生から漏れたこと、プロイセン軍ではなかったこと、エリートコースの幼年学校・士官学校を経ずに将校に任官したことが、ロンメルの軍人としての生涯に影を落とす
ロンメルは傍流のヴュルテンベルクの軍隊で下士官からスタート、何とか将校にはなるが、後年ロンメルは度々功名心過剰であると指摘されているのも、出自に原因がある
当時のドイツ中産階級の倫理観 ⇒ ロンメルが軍事学校在学中に将来の伴侶に出会うが、彼女はプロイセンの名士の生まれ、ロンメルのプロテスタントに対し彼女はカトリックという差もあり、2000年になって発覚したのだが更に同時期に将校としての暗黙の掟に背いて労働者階級の娘とも交際し1児を設けていたものの、すべてを伴侶に告白して許しを得て結婚するも、扶養は継続。中産階級は性的放埓には寛大だが、父親の義務については誠実な履行を求めたということが窺える。伴侶との間に長男が出来たのを見届けるように不倫相手は自殺するが、その遺児の1人娘はロンメルと交流が続き、そのうち家族同然の扱いを受ける。ロンメルのかかる行動様式、世界観と生い立ちは、ドイツ陸軍の主流たるプロイセン貴族たちの「将校適性階級」の認識とは明白に異なり、様々な形でロンメルの生涯に影響を与える

第3章  第一次世界大戦のロンメル――ロンメル出陣す/初陣/頭角を現す/一級鉄十字章を得る/山岳大隊へ/山岳機動戦/コスナ山の戦闘/イゾンツォ戦線における攻勢/マタユール山の戦功/誇張された栄光か?
開戦時ロンメルはすぐ動員され、西部戦線へ。小隊を率いて最前線で仏軍を撃破、初戦を飾った後も率先垂範の献身により、上官や戦友、部下たちの信頼と評価を勝ち取っていく
9月の戦闘で足を負傷、二級鉄十字章受章した後、翌年初前線に中隊長として戻り、アルゴンヌの戦いで戦功を上げ、所属連隊では初の一級鉄十字章拝受者となり、ヴュルテンベルク軍事勲功章も授与
西部戦線の硬直化と同時に2度目の負傷した後、アルプス中心の山岳地帯用の部隊が新設され、中尉に進級したロンメルはスキーとロッククライミングの訓練を受けてヴュルテンベルク山岳大隊に転属、山岳機動戦術を開発してまずルーマニア戦線で戦果を上げた後、東部戦線の要として連合軍が補強したルーマニア相手の山岳戦でも奮闘、負傷して一線を退いた後、次は15年に連合軍として参戦してきたイタリア戦線に赴く
たちまち実力を発揮して、山岳戦で大勝利をもたらすが、事前に約束されていたドイツ最高の栄誉を象徴する勲章の1つであるプロイセン王となるフリードリヒ3世によって1667年に制定されたプール・ル・メリート章が、カイザー・ヴィルヘルム2世の前線訪問の際間違って隣の山を制圧した将校に与えられたため、執拗に抗議してその後の軍功と併せて受章 ⇒ 第1次大戦中、中隊長クラスの将校が受章した例は11件しかない
戦後もこの時の山岳戦での戦果は自分の功績であることを主張し続け、新聞紙上で長年月にわたり論争さえしていて、ヴァイマール共和国やナチ時代のロンメルを英雄化するプロパガンダによって強化され、第2次大戦後もイタリア戦線における彼の功績を実際以上に肥大化させることになった
従来の研究では、このような功名心や自己顕示欲はロンメルの性格に期すとされたが、彼の「アウトサイダー」の出自を考えると、より深い理解が得られる
18年西部戦線に移され、休暇を取った後後備部隊付けを転々とし、大尉に進級したが敗戦

第4章     ナチスの時代へ――革命勢力の鎮圧/ライヒスヴェーア将校/「万年大尉」/進級を乞う/初めてヒトラーに接する/『歩兵は攻撃する』/総統護衛隊長
1811月キールで水兵の反乱勃発、共和制移行 ⇒ ロンメルは減退復帰後、保安中隊長として、共産主義者の蜂起を防ぐ任務へ
敗戦国ドイツのカイザーの軍隊は改編され新たな縮小された国防軍となり、参謀優先の選抜の最中にロンメルもメリート章のおかげで残ることができたが、以後12年半にわたり万年大尉に留まる
29年兵科学校の教官で転出、32年少佐に進級、33年猟兵大隊長
ヒトラーが躍進する中、国防軍将校は、政治に関わるべきでないと躾けられており、投票も法律で禁止、おおむね非政治的な存在ではあったが、ロンメルも国家主義的な国防軍将校の例外ではなく、ナチスに対しても敵愾心は持たなかったと推測される
34年軍人はヒトラー個人に服従するものとの宣誓がなされた。その直後収穫祭に出席するヒトラーの護衛をロンメルの大隊が任され、親衛隊との間でひと悶着起こす ⇒ 親衛隊長官のヒムラーとゲッペルスはロンメルの抗議を認めたが、ヒムラーは以後仇敵となる
35年中佐に進級、半年後にはヒトラーが一般兵役制再導入と国防軍拡張を命令
37年第1次大戦の回顧録と同時に戦術教科書ともなる『歩兵は攻撃する』を出版、大ベストセラーになるとともに、読んだヒトラーが激賞、ロンメルの評価が急上昇
38年のオーストリア併合に次ぐズデーデン地方の割譲視察ではヒトラー自らロンメルを護衛隊長に指名
ヒトラー・ユーゲントの訓練に関し、その指導者である若いシーラッハと事あるごとに衝突、38年には決裂し、シーラッハに頼られた総統府書記官長のボルマンは生涯ロンメルを敵視する
37年大佐に昇格、併合したオーストリアの軍事学校長に転出、歴史的にプロイセンにライバル意識を抱くオーストリア人の教官としては、シュヴァーベン人のロンメルは適材適所
ロンメルはヒトラーが併合直後のプラハ視察を僅かな護衛のみで強行、ヒトラーはその豪胆さを評価、398月には少将に昇進し、正式に総統大本営護衛隊長に就く
ヒトラーが国防軍のプロイセン出身の参謀将校を嫌っていたのも幸い

第5章     幽霊師団――ポーランドをゆく/マンシュタイン・プラン/第七装甲師団/ムーズ川渡河/停止せず/重戦車と対決する/西方戦役の終幕/毀誉褒貶
39年ポーランドの管理下にあった自由都市ダンツィヒの返還と防共協定への加盟などをドイツがポーランドに要求したのが契機となって第2次大戦に発展
前線に出たがるヒトラーに対しロンメルは尊敬を深めるが、その警護を巡ってはボルマンと決裂
前線を巡る間に、装甲部隊による新しい戦い方こそ今後の戦争の主役になると確信、40年には念願の装甲師団長を射止める
ナチスに関する疑念を引き起こすような経験をする ⇒ 妻の従兄の神父が行方不明となり、公安本部に捜索を依頼した際の返事に「戦時の混乱の犠牲になった可能性」とあった
ヒトラーに心酔、右手を高く上げる「ドイツ式敬礼」をして幕僚を驚かせた
ベルギーからフランスへの進撃では、味方との集団行動から突出して走り回り、周囲から顰蹙を買う。成功した独断専行を譴責することはできず、神出鬼没のロンメル装甲師団は敵味方の両方から「幽霊師団」と呼ばれる
イギリス遠征軍を中心とする連合軍部隊が海路を使って英本土に撤退した「ダンケルクの奇跡」では、ヒトラーの不可解な装甲部隊への停止命令を下し、ロンメルも束の間の休養を取ったが、その際ヒトラーがメリート章に相当する最高の勲章として創設した騎士鉄十字章を、西方戦役に参加した師団長の中で最初に拝受
ロンメルはその後も前進を続け、大西洋に突き出たコタンタン半島のシェルブールに達し、フランスとの休戦協定を締結しスペイン国境に向かう
功績を上げたロンメルは、ゲッペルス率いる一大プロパガンダ機構の寵児となり、ロンメルも自身の西方攻勢における自らの機甲師団の戦史をまとめヒトラーに献呈 ⇒ 後に他の師団に比較して犠牲者の数が多かったことが判明、ロンメルの冒険的な戦法や過酷な部隊運用を批判するものも現れた
ロンメルは装甲師団の指揮において、作戦の決定権を持つ者が前線に出て身を危険に晒しながら「前方指揮」をとるという新しい戦術を編み出したが、衝動的な行動をとりすぎるとの批判も多く、より高いレベルの指揮を委ねられるにつれ、戦略次元におけるロンメルの思考の乏しさを露呈していく

第6章     ドイツ・アフリカ軍団――総統指令第二二号/砂漠に向かうロンメル/いっさいを取り戻す/キレナイカ反攻/第一次トブルク攻撃
40年独仏休戦協定調印後、ヒトラーは英本土上陸作戦を展開するが、激しい抵抗に遭って、ソ連侵攻に転じる
406月ドイツ側に立って参戦したイタリアが、北アフリカでの対英戦で苦境に陥ったのを支援するため「リビア封止部隊」が編成され、中将に昇級したばかりのロンメルを在リビア・ドイツ陸軍部隊司令官に任命、ロンメルは初めてアフリカの地を踏む
ロンメルは、イギリス軍が予想外に弱体であることを見抜き、攻撃案を否定した陸軍総司令部の命令にも拘らず、単なる防衛作戦の枠内に留まらず積極的に失地挽回に乗り出す
英軍は暗号解読によりロンメルが攻撃を留めるよう指示されていたことを掴んでいたため、ロンメルの機動攻撃は敵味方ともに欺く独断専行の奇襲となり、一気にキレナイカを横断
独伊とも司令部は猛反対したが、奇襲の成功をヒトラーが祝福し、進撃は加速したが、トブルク要塞(エジプト国境近く)に籠る敵精鋭部隊の猛反撃に遭って大敗、ロンメルの情勢判断の甘さとアフリカ軍団の指揮運用が多大な問題を孕んでいたことの証左となる

第7章     熱砂の機動戦――高まるロンメル批判/「簡潔」と「戦斧」/装甲兵大将/攻勢を急ぐロンメル/「クルセーダー」作戦/死者慰霊日の戦車戦/「金網柵への突進」
414月トブルクの失敗と損害に対し国防軍司令部内にロンメル批判が噴出、特に全体を見通す洞察力と年長将官の扱いに問題ありとされたが、ロンメルは楽観的な報告を送り続ける
司令部は、ロンメルの上にアフリカ総司令官職を設けようと具申したが、ヒトラーが上部組織を置いてロンメルを掣肘することに反対して却下
英軍は北アフリカを主戦場と見做し、ギリシャがドイツに占領されたこともあって、中東軍も投入、大規模な増援をおこない、「簡潔」と「戦斧」の2作戦に打って出たが、ドイツ軍によって阻まれる ⇒ ロンメルの久々の勝利だったが、兵站軽視が暴露され、深刻な事態を招く。参謀本部や一部部下の批判の一方で、国民の間では砂漠の英雄となっていた
6月勝利の報奨としてヒトラーは装甲兵大将に進級させると同時に、アフリカ装甲集団を創設、ロンメルの配下に有能な参謀を配置して、ロンメルの欠陥を補完
6月にはソ連侵攻開始となり、北アフリカではトブルク覆滅によるスエズ運河攻撃への道筋が明確となるが、ロンメルは黄疸の初期症状が出て食餌療法と休養の診断が出ていた
11月の英軍によるトブルク救援のための「クルセーダー」作戦の奇襲により敗勢に追い込まれたロンメルは、何とか撃退に成功するも、またしても突出したことから軍団を危機に陥れた

第8章     エル・アラメインへ――振り出しに戻る/躍進する狐/「テーゼウス」作戦/魔女の大釜/トブルク陥落/限界に達したアフリカ装甲軍/補給は来なかったのか?
41年末になって、補給がないまま劣勢に立たされ、師団長3人のうち1人は捕虜、2人が戦死となったロンメルは退却を決断、キレナイカを放棄
42年上級大将に進級、マルタ島の英空海軍によって補給路を妨害されながらもトブルク奪回の「テーゼウス」作戦に出る ⇒ 一進一退を繰り返しながらも、完全包囲の「魔女の大釜」からの脱出を機に戦いの潮目が変わりロンメルが主導権を掌握、1年余りにわたって枢軸軍を苦しめてきたトブルクを陥落させ、元帥に進級
エジプトへ向けた攻撃の次の目標はエル・アラメインで、塩沼が点在する流砂地帯のため装甲車両が使えず苦戦
ロンメルは攻撃挫折の原因を補給にありとしているが、地中海は渡ったものの、アフリカ沿岸の輸送に問題があったことが最近の研究で明らかにされた ⇒ 途中の港が使えなかったために陸上輸送の補給路が1500㎞と伸び切っていた

第9章     アフリカの落日――病に襲われたロンメル/挫折と帰国/勝利か死か/苦悩するロンメル/ヒトラーとの対決/二元指揮/アフリカの幕は下りた
ロンメルは窮地に追い込まれ、病のために代理の総司令官派遣を請願するも、意のままにならなかったため自ら病をおして復帰、英軍が好敵手となるモントゴメリー中将を指揮官として派遣した大攻勢の前に攻撃を仕掛けるが、航空優勢を獲得した英軍によって撃退され、更に燃料補給の船も撃沈されたため、撤退を決断し、自らも静養のため帰国
10月の英軍大攻勢により代理の司令官が戦死したため急遽ロンメルが呼び戻され、劣勢を前にエル・アラメインからの撤退を決断するが、ヒトラーから「勝利か死か」の死守命令が来てロンメルは衝撃を受け、ヒトラーに対する信頼も地に堕ちた
絶体絶命の状態で抵抗を続けたが、遂に命令を無視して撤退を決断、その後ヒトラーから撤退許可の電報が届くが、無為に費やした24時間で兵力の大半を失い、更に前年末に参戦したアメリカがドイツに対して初めて本格的な陸戦を仕掛けて英軍とともにアフリカ西部に上陸したため挟撃される形となり、北アフリカ放棄をヒトラーに提案したところ、ヒトラーから激しく詰られ、戦局について2人の間で激論となる
432月トリポリ迄の2000㎞の退却行を無事成し遂げ、独伊装甲軍を救う
チュニジアの撤退を具申してヒトラーに拒否されたロンメルは長期療養を決意してアフリカを永遠に去る。直後の3月米英軍が東西から挟撃を開始、5月には独伊が降伏,独軍13万、伊軍18万が捕虜に ⇒ スターリングラードの敗北に匹敵するとしてチュニスグラードと言われた

第10章     イタリアの幕間劇――ロンメル特別幕僚部/「アーラリヒ」と「枢軸」/「苛酷な取り扱いを受ける」
ロンメルはムッソリーニとヒトラーに報告するが、両者とも聞く耳を持たず、長期療養が命じられたものの、ヒトラーはまだロンメルの利用価値を考慮し、総統大本営に留め置かれ、イタリアのファシスト体制崩壊を危惧して「ロンメル特別幕僚部」を設置し「アーラリヒ」と名付ける(410年ローマを劫掠したゲルマン人で西ゴート族の王アラリックに因んだもの)
ムッソリーニ失脚の報に続いて、後継のパドリョ元帥が連合国と単独講和に動いたため、ヒトラーは急遽北イタリアに「アーラリヒ」を発動、ロンメル率いるドイツ軍は無血でイタリアに進駐、イタリア降伏の際の武装解除を目的とした「枢軸」作戦が9月のイタリア降伏とともに発動されるが、その後のイタリア防衛を巡ってヒトラーと衝突したロンメルは、イタリア方面総司令官の辞令を取り下げられた

第11章     いちばん長い日――大西洋の壁/装甲部隊論争/どこに上陸するのか?/「私はどうかしていた」/重傷を負ったロンメル/ロンメルは知っていた
4311月「西方により大きな脅威が現れた。アングロサクソンの上陸だ」というヒトラーの指令が出て、陸軍総司令部に装甲兵総監のグデーリアンと協力して体制再編が指示され、当時ドイツ軍高級軍人としては希有な「西側通」と目されていたロンメルを「進攻正面防衛特務査察監」として西方に配置。ロンメルは連合軍を上陸時点で迎撃しなければ勝機はないと予言、海岸防衛に関する独自の構想を実行に移そうとしたため、たちまち西方総軍との間に軋轢を起こす ⇒ 西方総軍は海岸沿いの要塞構築が進まないため、装甲部隊の集中運用による機動的な対応を考え、それも艦砲射撃を警戒して砲弾の届かない後方に待機して、上陸が開始したところで海岸線に前進すると考えていたが、ロンメルは猛反対。アフリカで連合軍の空軍力の凄まじさを体験し、上陸作戦が開始されると後方に配置された部隊を海岸に前進させることは困難と見做して、拙速ではあっても上陸部隊が脆弱な状態にあるうちに攻撃を仕掛けるより勝機はないと主張、上陸しようとしてもがいている間こそ撃退のチャンスだとして「いちばん長い日」論を展開
ヒトラーの裁定も優柔不断でどちらともつかないものであり、国防軍内でも自らの部局の権限強化画策に躍起となるというのがドイツ軍最高統帥部の実体
43年後半から44年にかけて海岸線の防衛設備強化が進められたが、2700㎞にも及ぶ海岸線の長さを考えればあまりにも貧弱。43年までは上陸地点はパ・ド・カレー(カレー海峡)と決められていたが、急遽ノルマンディの可能性が考えられ、ヒトラーもその可能性を危惧
65日、日出時間や潮の関係から当面連合軍の上陸はないものとみて、ロンメルも本国に戻り、海軍のデーニッツも休暇中、ノルマンディにいた装甲師団のトップもパリの情婦の許で過ごしていたといい、一時的な天候好転の隙に開始された上陸作戦に対応できず
対応するはずの装甲師団も集結に時間がかかり、まともな対応は夕方になってから
現場を留守にしていたロンメルは悔やんでも悔やみきれなかったろう。指令所に到着したのは夜9時半
連合軍は11日までに幅100㎞奥行1015kmの陣地を確保
ロンメルらの西方総軍は北仏の総統指令所にヒトラーを呼んで作戦会議を開くが、ヒトラーは死守を主張するのみ。その後も戦局悪化で戦線整理を進言するがいずれも峻拒
629日のヒトラー山荘での会見がヒトラートロンメルの最後の時間。総統への信頼は消え、ナチ政権転覆を考え始めたものと思われるが、最後まで躊躇わせたのは、ヒトラー個人への服従を宣誓していたこと。反逆に踏み切れば軍人としての最高の道徳である忠誠を損なうことになる
717日前線の視察中に敵戦闘機の攻撃を受けて負傷、自宅療養に入る
720日ヒトラー暗殺未遂事件。ロンメルも嫌疑をかけられ服毒自殺を強要
戦後の回想録等からは、ロンメルが軍部の抵抗の代表者とされていて、事実であればロンメルは「ナチの将軍」ではなく、犯罪的な体制を排除しようとした勇気の持ち主として、西ドイツ国民の多くが彼を敬愛し、支持したのも理解できる
捕虜のドイツ兵らの日常会話などから、ロンメルが総統を殺す以外に手段がないと語っていたことがかなりの確率でわかり、ノルマンディ戦開始後ヒトラーの言動に絶望し、彼個人への忠誠宣誓を破る決意をしたと推論しているのが妥当な結論と思われる
ロンメル自殺の4日後国葬により埋葬

終 章 ロンメルとは誰だったのか
軍人としてのロンメルの評価は、勇猛果敢、戦術的センスに富み、下級指揮官としては申し分なかったが、作戦的・戦略的な知識や経験ではその能力に限界、「前方指揮」の乱用や補給軽視といった問題点が示すように、軍・軍集団司令官には相応しくない短所が目立つ
大戦略を理解するだけの資質もなければ、そのための教育も受けていなかった
ギリシャ神話は、神に対する傲慢は神の憤りを招くと説く
未亡人によれば、夫の死に顔には生前一度も見たことがない蔑みの表情があったというが、自分に服毒自殺を強いた者たちへの感情であると同時に、ヒトラーによって与えられた栄光と悲惨に翻弄されたおのが生涯への蔑みであった可能性もあろう
特筆すべき美点は、戦士として闘争の対手を尊重するという性格 ⇒ 42年捕虜になった自由フランス軍の将兵や亡命ドイツ人を射殺せよとのヒトラーの命令を無視したり、同年ヒトラーの連合軍部隊は戦時国際法違反の存在故に捕虜とした際は射殺すべしとした命令を焼き捨てたりしたという。ロンメルの戦場倫理が正当なものであった証として貴重


あとがき
日本では慣習的に、あるいは、戦争に対する嫌悪の感情から、軍事はアカデミズムに於いて扱われない
自衛隊や旧軍人の間でも、第2次大戦の欧州方面の歴史に関する研究が紹介されることも無くなってきたため、ロンメルについても欧米の進んだ研究成果との間に大きなギャップがある
旧知の若い呉座氏が日本の歴史に関し陰謀論や妄説を徹底的に批判する姿勢に感銘を受け、外国史や戦史・軍事史の分野でもかかるギャップを埋め、今日ここまではわかっているという研究の現状を提示すべきと思い本書を書くことにした



好書好日
『「砂漠の狐」ロンメル』 名将の優れた戦術センスと弊害
「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨 (角川新書)
ドイツ国防軍で最も有名な将軍・ロンメル。最後はヒトラー暗殺の陰謀に加担したとされ、非業の死を遂げる。彼はヒトラーの忠実なる軍人なのか、誠実なる反逆者なのか。最新学説を盛り込んだ一級の評伝!
評者:呉座勇一 新聞掲載:20190413
「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨 [著]大木毅
 北アフリカ戦線で圧倒的に優勢な連合国軍を幾度も撃破し、砂漠の狐と恐れられた男。ヒトラー暗殺計画への関与を疑われて自殺を強要された悲劇の名将。エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメルは、第2次世界大戦に参加した軍人の中で最も著名な人物の一人だ。ヒトラーという「巨悪」に仕えた将軍でありながら、対戦相手である英首相ウィンストン・チャーチルは「大胆で有能な敵手」と評した。戦後はドイツ語圏のみならず英語圏でも、名将ロンメルを称賛する著作が次々と発表された。
 1970年代後半になると、「ロンメル神話」に疑問を投げかける研究が増えた。これらは従来の反動で、ロンメルに極端に冷淡になった。著者によると、2000年代になると、欧米ではバランスのとれたロンメル評価に落ち着くが、日本では最新の研究が十分に知られていないという。たしかに評者も、軍事史家マーチン・ファン・クレフェルトの『補給戦』(1977年)段階で理解が止まっていたので、蒙を啓かれた。
 ロンメルは自らの身を危険にさらすことを恐れない勇猛な指揮官で、敵の虚を突く優れた戦術的センスを有していた。だが陣頭指揮を好むロンメルのスタイルは、師団長クラスまでは前線の状況を掌握できるという利点を有したが、彼が軍司令官、軍集団司令官に昇進すると弊害の方が大きくなった。前線での独断専行は後方司令部を混乱させ、補給軽視につながった。ロンメルがドイツ軍内で出世コースから外れた傍流にいて戦功をアピールする必要があったこと、参謀として作戦・戦略を学ぶ機会を逸したことを背景として挙げる著者の指摘は重要だ。
 専門用語が飛び交う近代戦の戦闘経過の叙述は難解になりがちだが、著者の深い軍事知識と優れた文章力に助けられ理解しやすい。ロンメルとヒトラーの人間関係の変遷への洞察も示唆に富む。ロンメル評伝の決定版だ。
    
 おおき・たけし 1961年生まれ。現代史家。3月まで陸上自衛隊教育訓練研究本部講師を務めた。『ドイツ軍事史』。

呉座勇一(ござゆういち)国際日本文化研究センター助教(日本中世史)
1980年生まれ。著書に『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』『戦争の日本中世史「下克上」は本当にあったのか』『一揆の原理』『日本中世の領主一揆』『陰謀の日本中世史』。編著に『南朝研究の最前線』。20194月より書評委員。


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