記憶の箱舟  鶴ケ谷真一  2019.7.19.


2019.7.19. 記憶の箱舟  または読書の変容

著者 鶴ケ谷真一 1946年東京生まれ。早大文卒。編集者として主に翻訳書の編集に携わる。50歳を過ぎて書物と読書に関するエッセイを試みる。『書を読んで羊を失う』で日本エッセイスト・クラブ賞

発行日           2019.5.5. 印刷  5.30. 発行
発行所           白水社

はじめに
読書にも古来様々な流儀がある。中世ヨーロッパの修道院では聖なる書物をひたすら暗唱に努めた。ゴルツェのヨハネス(976年以降没)が詩編を唱えるそのつぶやきは蜜蜂の羽音に似ていたという。蜜蜂は採取した蜜を人の言葉を書き記した紙のように、薄くやわらかだが丈夫な房室に蓄えた。蜜蜂は人間より遥かに早く、密の容器となる独自の紙を人知れず作り続けてきた。人がもし蜜蜂の英知を学んでいたら、紙という偉大な発明をもっと早くに成し遂げていたかもしれない
初めて紙を用いた中国の人々は、陰陽五行など数字を交えたすわりの良い成句を作ることに巧み。読書については読後三到といい、字句を眼で見て意味を明らかにし、繰り返し口で唱え、深く心に留める(目に至り、口に至り、心に至るようにする)。読書という内的な経験を、ごく簡潔に言い尽くしている。読書千遍、其の義自ずから見(あら)わる、ともいわれる
西洋の聖書にあたる聖典は、東洋の儒者にとっては『論語』
江戸後期の儒者、中井履軒(17321817)は晩年失明したが、机上には常に『論語』が開いて置かれ、たとえ読むことが出来なくても、聖経が机上にあると思えば、自ずから心に警(いまし)むるところが生まれると語った。陶淵明は音律を解さなかったが、絃を張らない琴を一張常に身近に備えていた。琴は文雅の象徴とされ、履軒は机上に置かれた『論語』をその無絃琴のようなものだと言っている。読書にまつわる美しい逸話
3つの逸話は、書物が今より遥かに希少であった時代に特有の話だともいえるが、同時に読書という営みが全霊を傾けるに足る経験でありえた時代だったともいえる
読書を巡る古人の事例を読んでいると、和漢洋を問わずいずれも記憶することが読書の重要な要素だった。そこに本書のテーマがある
書物と記憶の関係。書物のことを考えるとき、いつも記憶の問題が意識の底から頭をもたげる。記憶は書物の本質に深く根差したもの
記憶というテーマが急浮上してきた背景には、インターネットという電子情報の加速度的な普及に刺激されたことがある。検索によって情報が瞬時に得られる時代には、読書の内実もまた変容を遂げざるを得ない。インターネットは記憶という負担を軽減し、情報交換を加速度的に速めた結果、知の様相から日々の暮らしに至るまで、全てを一新した
同じ経験を3度している。第1は文字の創案によって記録が可能になったとき。第2は印刷術の発明によって書物が広く普及し始めた時。第313世紀フランスの修道院で索引が作られたとき。いずれの場合にも人は蓄積した記憶の一部を記録や書物という媒体に委ねることで記憶の負担を軽減し、論理的な思考力と創造力を高めてきた
ソクラテスは、「現実には精神の中にしかありえないものを、精神の外に打ち立てようとする点で、書くことは非人間的であり、書かれたものは1つの事物であり作り出された製品である」、と言っている。また同時に、「書くことは記憶を破壊する。書かれたものを使う人間は精神の内的手段として持っていなければならないものを持たず、その代わりに外的な手段に頼るために忘れっぽくなる。書くことは精神を弱める」とも言う
索引の重要性は2点。1つはすべてを平準化して配列するため世界の見方を革新的に変えたこと。2つ目は検索機能を備えた書物は読書の仕方を根本的に変えた
本書の意図するところは、書物の歴史に織り込まれてきた記憶という縦糸を辿りながら、それぞれの時代特有の読書の内実を浮かび上がらせ、読書の変容を明らかにしようとするところにある
本の収録した記憶は、時間でもあった。人間の時間よりも遥かにゆっくりと着実に流れ続ける時間。本が植物を素材として作られてきたことは、その隠喩ともいえる
ホメロスのトロイアの歴史も初めはフリュギア人によって棗椰子の葉に記されたという
ラテン語で書物を意味する「リベル」は、「樹皮」から採られている。昔の人々は羊皮紙の前は樹皮に書く習慣があった。地理学者でもあったクロポトキンは若き連隊付き士官の時、シベリアの金鉱地への交通路開拓の探検に際し、ツングース人が樺皮に書いた地図をもとに重要な交通路を開拓したという
日本の東北地方でも、白樺の樹皮はカバカワと呼ばれて古くから書写の素材として用いられてきた

1. 最初の読書体験
子どもたちは読み聞かされた本を聞き覚えることから、読書という個人史を歩み始める。読書とは、記憶することから始まる

2. 比類なき記憶のもたらした幸と不幸
江戸の本草学を大成した小野蘭山(172980)は、シーボルトに東洋のリンネと称され、抜群の記憶力を持っていた
絶大な記憶力に恵まれた場合(記憶過多症)、人間の意識と行動にどのような影響を及ぼすか ⇒ 記憶が抽象化や論理化の障碍となるので、忘れることが必要

3. 読書の変容――素読から草双紙を経て近代読者の成立まで
内田百閒は個人授業で生徒に、理解は二の次にしてまず記憶しろと要求したのは、幼少時の素読の体験からきている
湯川秀樹や貝塚茂樹の兄弟は、漢籍の素読が将来役立ったと書いている ⇒ 湯川は漢字に親しんでいたお陰で大人になっても文字に対する抵抗がなかったと言い、貝塚は漢文に親しみを覚えたという
明治6年士族の家に生まれ6歳から四書の素読を受けていた杉本鉞子も回想で、「まだ幼いから、この書の深い意味を理解しようとするのは分を越える」と諭されたという(『武士の娘』)
安達忠夫『素読のすすめ』は、素読を現代によみがえらせようとする素読入門書
子供は蝉やトンボを追い回すのと同じ気持ちで、言葉の動きそのものを楽しむ、意味よりもまず音の響きとリズムが、耳を通して心に浸透していく
素読が庶民にも広がったのは18世紀後半、当時の初等教育は手習いに始まり、漢文の習得は学問の基礎教養で、幼少期の素読から始まった
江戸時代の児童教育に決定的な影響を与えたのは貝原益軒(16301714)の『和俗童子訓』で、わが国最初のまとまった教育論であり、幼児の年齢と発達状態に即した体系的な視点から記され、近世教育への道を開いたとされる ⇒ 総論、年齢に応じた学習課程を示した随年教法及び読書法、手習法、女子教育法からなる
益軒の読書についての教え ⇒ 7歳になってから。初めは早朝で、食後は控える。ゆっくりと読み、一字一句をよくわからせ、一字の誤りもないように。読書三到だが心に到ることを重んじる。心を込めて繰り返し声に出して読む。素質ある児なら、14歳までに四書・五経を終えられ、学問の基礎が出来上がる
素読を終えた読書の第2課程は講義で、意味内容の理解を課題とする ⇒ 音読を意味した「読書」から、黙読を意味する「書見/看読/独看」に変わる
最後の課程が「会読」で、同程度の学力の生徒が集まって、討論を交えながら1冊の本を読むという共同学習 ⇒ 下級武士の家に生まれた福沢諭吉の場合、少年時代に受けた会読が生涯を決定するような重要な体験となる
江戸庶民の読書傾向 ⇒ 西鶴の浮世草子に代わって大衆向けの読み物を草双紙と総称、ほとんど仮名のみの文章に挿絵が添えられる。代表的作者は曲亭馬琴と山東京伝
幸田露伴は馬琴を創作の師と仰いだ
洒落本、滑稽本、黄表紙、合巻、読本、人情本などを総称して戯作といい、享保(171635)と寛政(178900)の間の70年余に誕生
伊藤仁斎(16261705)と荻生徂徠(16661728)は、13世紀宋代に成立した朱子学という思想体系を、18世紀日本の現実において読み解く試みに挑む ⇒ 古義学と言われる仁斎の学説は、朱子学によって卑俗とされた人情の表現をありのままこそが貴いとして、西鶴、近松、芭蕉に代表さえる元禄期文芸復興の一員となる。古文辞派と呼ばれる徂徠は朱子学批判をさらに進め、更に敷衍して世に広め、古代中国の言語の学習によって先王の道に同化しようとした
中井履軒は、大坂町人の寄付金によって設立された町人のための学問所、懐徳堂学主の次男で、独立して私塾を営む。読書と研鑽に努め、出仕を求めなかった。確かな社会的基盤を持たない儒者たちの存在を表す象徴的な事例
スマイルス『西国立志編』の翻訳者(71年刊)として知られる中村敬宇/正直(183291)は、福沢と並ぶ啓蒙思想家として明治の世に大きな足跡を残す ⇒ 神童と称され、10歳で聖堂(昌平黌)の素読吟味の試験を受け学業勉励を賞された。幕府儒官として最高位に昇る
国民の近代化には西洋思想の根幹をなすキリスト教の導入が必要と考え、唯一神の観念を儒教の経典に見出そうとした
『西国立志編』の読者層の第1世代は没落士族、第2世代に植木枝盛、徳富蘇峰、第3世代に幸田露伴
政治小説の出現 ⇒ 81年自由民権運動の他管理に衝撃を受けた政府は国会開設を発表するが、危機感を抱いた民権運動家は一層の啓蒙活動に努めその一環として政治的な主題の小説を書く。西洋の政治小説の高い評価の影響で拡散、小説の革新を提唱した『小説神髄』と相前後して86年刊行末広鉄腸(184996)の『雪中梅』や83年刊の矢野龍渓の『経国美談』などが代表作
90年には鷗外の『舞姫』刊行、ロマン主義に転換。明治30年代に隆盛をみた漢詩文は10年ほどで退潮
明治維新に続く四半世紀は、日本人の読書生活が大きな変革を迫られた時期
    均一的な読書から多元的な読書へ、非個性的な読書から個性的な読書へ
    共同体的な読書から個人的な読書へ
    音読による享受から黙読による享受へ
黙読により何が変わったのか ⇒ 活版印刷術の移入に先立つ木版整版印刷の期間が音読の時代にあたり、1人声をひそめて読むうちに孤独な読書への扉が開かれ、近代読書の誕生に至る
それから1世紀余りを経て、今や扉の向こうには電子媒体という未知の大洋が広がる

4. 中世ヨーロッパ修道院における読書法
12世紀前半パリの中心部にあったサン・ヴィクトル修道院では、古代の記憶術を復活させ、学習法として用いた ⇒ 学ぶことの大切さ、努力の大切さを説き、志さえあれば学びの道は万人に開かれているとする。学ぶ方法は、読書と瞑想が基本
読書について学ぶには3つのことが必要 ⇒ 何を読むか、どのような順序で読むか、どのような方法で読むか。特に順序と方法が重要
学びに必要なものは、資質と修練と規律 ⇒ 「資質」とは見聞きしたことを素早く理解し保持する能力(理解力)、「修練」とはたゆまぬ努力によって資質を高めること、「規律」とは日々の行動を知識と結びつけることによってよき生涯を送ること
読書とは、本によって得た規則と教訓によって精神を形成すること
中世の読書は音読で、全精神とともに全身体を伴う行為
読解は、文と意味と真意という3つの要素を対象とする ⇒ 「文」とは適切に配置された言葉であり構文ともいう。「意味」とは文字通りに示される明らかな表示。「真意」とはより深い理解であり、解釈と注釈によって見出される
中世を通して、旧約聖書の詩編を学ぶことが一般的な子弟教育の基礎をなしていた
何かを学ぶ時、それを要約して簡潔で確かなものにして記憶の小箱に蓄えておき、後に必要になったとき、どんなものでもそこから引き出すことができるようにしなければならない。記憶とは古来、牛のように「反芻する」もので、絶えず思い返さなければならない
中世における記憶の重視は、単に教育の場に限られたことではなく、ヨーロッパ古来の文化的な背景を伴っていた。記憶と知性と意志は1つの生命であり1つの精神だった
学びとは読書に他ならない。日々の生き方が、①謙虚な心、②探求への熱意、③静かな生活、④無言の探求、⑤貧しさ、⑥異国の地、の条件に適っているなら、知が授けられる。清廉な修道士の姿が浮かび上がる
12世紀の都市の勃興とともに、子どもの教育施設として修道院以外に大聖堂付属学校が作られ、時代の新たな要請に応えて積極的に人間及び自然を理解するための教育を行い、学問と教育を聖職者の手から学者の手に移した ⇒ 「聖なる読書」に代わって、人間の知性を表す「精神の読書」に移行
修道院が文化活動の拠点。写本の制作も行う
ピリオドやコンマという書記法の考案が黙読の普及に繋がり、やがて読者の意識に変化をもたらし、時代の変革にまで繋がる ⇒ 古代のラテン語は句読点も単語間の切れ目もなく記されたため一字づつ指先で辿るように分節しながら発音することで読み進めるしかなかったが、句読点の考案によって簡単になり、何よりも画期的だったのが単語間にスペースを置く分かち書きの採用。7世紀のアイルランドで考案
分かち書きが黙読を可能にし、読む速度を飛躍的に高め、読書に静寂をもたらす
分かち書きと良質の羊皮紙、更に書きやすいゴシックの草書体が作られ、自筆による執筆が容易になった結果、執筆は1人で行える個人的営みとなる ⇒ 知識人の誕生
執筆において心理的な自由度が遥かに増したことは注目すべき変化であり、中世という時代の制約、何よりもローマ教会による異端という抑圧感が和らいだのが大きく、やがて訪れるルネサンスと宗教改革をもたらす

5. 索引の誕生
経書から雑書に及んだ多読の文人は、抄録によって要旨を記憶に収め、多岐にわたった心を整えた。江戸の随筆が記憶に収められ、いつしか教養となって何かの折に効力を発揮するというのが読書の口実だが、慌ただしい時代にあっては随筆類の通読はなかなか難しく、索引が求められた ⇒ 索引によって、膨大な随筆の必要個所の検索が可能に
索引は、活版印刷による書籍が世に出るのと同時に作成され始めた ⇒ 実際にはもっと早く、3世紀には著作を構成する分節の要旨を書き出してまとめたものが用いられ、読者はこれに目を通せば、求める一節がどこに出ているのかを知ることができた(索引の原型)
13世紀半ば、フランスの修道院でアルファベット順による最初の索引が作られる
キリスト教は「書物の宗教」と言われるように、紀元前1,000年を過ぎたころユダヤ王ソロモンが首都エルサレムに最初の神殿を建て、最も神聖な神殿の中心に十戒を刻んだ2枚の石板が置かれ、その教えが新・旧約聖書に記されて西洋における書物の原型となる
新約聖書に含まれる4つの福音書「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」は異なる書き手によって別の時期に成立したことから、互いの間に齟齬があったため、それぞれの記述を仔細に比較・検討する必要が生まれ、それらの矛盾を契機としてより高い認識に至ろうとするのが神学者に課せられた使命だった ⇒ 各福音書の記述を容易に参照する方策を求めたのが索引に繋がる
当初の書物は巻物であり、冊子本になったことが閲覧を容易にし、更に句読点、分かち書き等の読みやすくするための工夫がなされ、記憶術の発明もあった
索引の出現は、「12世紀ルネサンス」と呼ばれる変革が背景にした文化現象の1つ ⇒ 西洋中世文化が高度に発展した時期で、都市の学校が中心となって知識の習得を重視する合理的な方法が発明された。カロリンガ体という小ぶりの画期的な書体の考案により書物がコンパクトになった。必要な知識を容易に得られる本が必要とされ、『命題集』が編纂された。紙面構成も工夫が施され、なかでもアルファベット順の配列は辞書編纂で画期的
当初は、神によって万物が調和をもって創造された摂理に反するとして異端扱いされたが、新たな秩序を求め創り上げようとする12世紀の希求の表現の1つとして取り入れられ、中でもアルファベット順の索引の出現は知的革命の表現であると共に後世に計り知れない影響を及ぼす
日本でも同時代に「いろは」を配列基準にした最初の辞書『色葉字類抄』が橘忠兼によって編纂されている
アルファベット順の索引の作成は、13世紀初頭に創立されたばかりのドミニコ会修道院の多数の修道士におる組織的な作業として40数年をかけて行われた
索引を意味する言葉にはindexconcordanceがあり、前者はそれぞれの語がどこに出てくるのかを示すのに対し、後者は同時にその語の使われている文章の一節を併記して文脈における理解を与えるもので、ドミニコ会の索引はもっぱら後者
索引はかつて記憶によってなされていた固有の知識体系の構築を遥かに容易にした
インターネットという検索システムの出現は、それをさらに推し進めた歴史的必然ともいえるが、同じ検索機能ではあっても、索引とインターネットは正反対の作用を意識に及ぼしている ⇒ 索引は読書によって与えられた一般的な知識を更に選別して明確にし、自身に固有の有機的な知の体系に組み入れるための装置となるが、インターネットの場合は秩序と明解を求めたはずの検索作業によって、却って断片的な知識の混沌たる海に再び掉さすことになり兼ねない

6. 記憶術とは何か
1895年和田守菊次郎著『和田守記憶法』刊行
ギリシア神話のムネモシュネは記憶を司る女神で、詩歌や学芸を司る9人の女神ムウサたちを生んだが、これは記憶の重要性を表すに相応しい神話
視覚を基本とする ⇒ 記憶術の発明者とされる抒情詩人シモニデス

7. 西行 月の記憶
ヨーロッパの修道士が詩編の暗唱に励んでいた頃、日本でも修行僧が寺に籠って経文の暗唱に努めていた
西行(111890)23歳で出家を遂げる頃の思い出に、朋友が寺に籠って法華経を暗唱するという逸話があり、出家後同じ法輪寺(行基が嵯峨嵐山に開創した真言宗の寺)に籠って法華経を暗唱している
自己の内奥に満月のごとく明らかな仏性を自覚するための観法が密教の月輪観(がちりんかん)であり、西行がこれを修めていたところから、密教の月輪観を思わせる観法が、花と月の歌人西行の意識と深く通底しているように思われる ⇒ 『山家集』の和歌1552首のうち、花をよんだものが最も多いが次が月で281首、とりわけ冬の月の印象が強い
西行の記憶力は膨大なもので、老年に至るまで衰えることがなかったという記録が残っている ⇒ 和歌については伊勢国二見浦の草庵にいた西行が伊勢神宮の若き神官に語った『西行上人談抄』にあり、北面の武士時代を基にした武芸の心得についてはその6年後の頼朝との会見録に彷彿とさせる記述が残されている

8. 柳田国男 地名の記憶
柳田国男(1875)の家系を遡ると、俵藤太と称した藤原秀郷の系譜に繋がり、秀郷の9代末の西行と繋がる ⇒ 2人の共通点は生涯にわたって旅したことと歌を詠んだこと
少年時代から晩年に至るまで詠み続けた
西行と同様、優れた記憶力の持ち主で、記憶の大切さを身を以て示した学者といえるが、それは人々がいつの頃からか、学ぶということを取り違えることになってしまったという思いに根差していたようだ
「農民の言葉によく注意してみると、「おぼえる」「まねする」というのはあっても、「まなぶ」という言葉はない。「おぼえる」とは「思う」と同じで、記憶をも意味し、古人の言ったことを思い出すこと、また自ら静かに考えに耽ることも含む」と国男は言う
国男が読書に興味を覚えたのは、松岡の生家が代々、学問を尊ぶ家風であったことも影響
両親とも記憶力抜群。11歳で預けられた三木家の先代が学者で農家には珍しく4万冊という蔵書があり、国男の読書体験が始まる。2度目が13歳の時兄の借家のオーナーが医者で蔵書が多かったのが乱読に繋がる。第3期が農商務省入省後3年目の28歳で内閣文庫の管理を任された時で、速読法を考えたが、同時に読書は早くから目的を限定しないと時間と労力の浪費になると知り、学者として明確な目的を自覚した知識人となっていく
読んだもの全てを記憶しようとするのは徒労だが、なにも記憶に留めないのは読書した意味が無い。自ずから記憶に残るように静かに読むのが良いのか。試行錯誤を通して、本の抜き書きという手作業を身につける ⇒ 読書と記憶を媒介する手段とされ、既に配置された記憶の中に有機的な関連を持って置かれ、主題に向かう方向性を帯びる
旅行と読書があるときふと結びついたような不思議な感覚を持つ ⇒ 国男の日本地図を用いた記憶術が成立。日本地図を常に広げて、地名に関連付けて人物や事項を配列し、記憶として蓄積しデータとして体系的に構築していくのが国男の日々の研究方法となる
さすがの国男も、米寿を過ぎた頃にはすっかり記憶力も衰え、同じことを繰り返す普通の老人になっていた


あとがき
ボルヘスによれば、人の作り出した道具の中で最も驚くべきものは本。他のものはいずれも身体の延長だが、本だけは記憶と想像力の延長
道具は人の力を得て効力を発揮するが、本は力ではなく、読書という精神の営みによって記憶と想像力を豊かにしてきた
本の文化史を辿ると、15世紀に起こった印刷革命の2世紀ほど前に、索引が誕生。索引という検索機能を備え、やがて印刷によって広く普及する本は、完成された道具となる
いまインターネットという検索システムの急速な普及は、知の体系から日常生活に至るまで革命的な変革をもたらしつつある
索引とインターネットには決定的違いがある(5.の最後参照) ⇒ 本は大洋に浮かぶ記憶の箱舟に喩えられる。テクノロジーの発達とそれに応じる人間の適応力には遥かに予測を超えるものがあるところから、いつの日か道具がなくなるとき、本もまた姿を消すことになるのかもしれない


記憶の箱舟 鶴ヶ谷真一著 人間の想像力解き放つ読書 
2019/6/29付 日本経済新聞
著者は本書の「あとがき」を、ボルヘスが残した印象的な言葉からはじめている。人間の作り出した道具のなかで最も驚くべきものは書物であった。書物以外のすべての道具はいずれも人間の身体の延長である(手の、視覚の、聴覚の、等々)。しかし、書物だけは「記憶と想像力の延長」であった。読書というきわめて精神的な営みによって、人間は、書物が解放してくれた記憶と想像力を、より豊饒にしてきたのである。

つるがや・しんいち 46年東京生まれ。早大文卒。編集者として主に翻訳書を担当。著書に『書を読んで羊を失う』など。
読書を介して書物と記憶の関係を探る。それが本書全体を貫く主題である。著者はまず、近世江戸と中世ヨーロッパを舞台に読書法の変容をまとめる。
音読から黙読へ、修道士の読書から知識人の読書へ。さらには、読むための技術の改良(書体の洗練や句読点の発明)を経て「索引」の誕生へ。「索引」によって書物という「知の媒体」は一つの完成を迎える。誰もが書物のなかに秘められた膨大な知識をもとに、自身に固有で有機的な「知の体系」を築くことが可能になったからだ。書物は一つの内的な宇宙になった。書物の側の「索引」と同じく人間の側で組織された手段が、「数と場と時」にもとづいた「記憶術」であった。
「江戸期の随想」を愛読する著者は、冒頭の章を自身の個人的な体験からはじめ、最後の章を、やはり自身の分身にして先達のような存在、日本全国に残された無数の「地名」を「索引」のように活用し「旅行と読書」という一見すると相容(あいい)れない2つの方法をもとにして独自の知の体系、民俗学という新たな学問分野を確立した柳田国男を論じることで閉じている。
柳田は「地名」という生きた索引をもとにして、私的であると同時に公的でもある新たな表現の体系にして創造性に満ちた「記憶術」の体系を築き上げたのだ。日本という大地、そこに積み重ねられた無数の記憶の総体である歴史を、一つの巨大な書物のようにまとめたのである。
多くの知識を秘めながらも人間の生そのものと密接にむすびついた物語であること。情報が氾濫する時代の「記憶の箱舟」たること。著者が実践するエッセイとしての書物は、表現の危機に対して、静かではあるがきわめて強靱(きょうじん)な抵抗の手段になっている。
《評》文芸評論家 安藤 礼二


(著者に会いたい)『記憶の箱舟 または読書の変容』 鶴ケ谷真一さん
20197130500分 朝日
 読んで生きて忘れること エッセイスト・鶴ケ谷真一(つるがやしんいち)さん(73)
 インターネットの検索に、違和感を覚える人がいるのはなぜか。
 「本の索引と比べると、その理由がわかります。索引は、一般的な知識をさらに選別して明確にし、自分の知の体系に組み入れることができます。インターネットの場合は、断片的な情報の荒海に投げ出されるようなものではないでしょうか」
 自身は電子メールも使わないが、ネットを駆使する人を見て、そう考えるようになったという。
 この本は、読書を軸に、書物と記憶の関係を描いている。幼いころ読んだ絵本の思い出から、江戸時代の草双紙や、明治の政治小説、近代小説などをたどり、中世ヨーロッパ修道院の読書法を調べた。そして、13世紀に「索引」が生まれ、検索機能を備えたことで、書物は知の媒体として完成された、と跡づける。
 大学の仏文科を卒業後、出版社で翻訳書などの編集にあたった。
 「西洋はなかなか理解できないなと思い、30代になって自分のを持ちたいと、独学で漢文を始めました。和本を買ってきて、1日何十字と決め、朝、寝床で覚えて、駅まで歩く20分間に暗唱しました」
 そのうちに「ああ、そうか」とわかることもあり、「四書」を10年ほどかけて読みおえた。
 40代で独立し、53歳のときに出した『書を読んで羊を失う』が、日本エッセイスト・クラブ賞を受ける。書き続けるうちに、「根っこの方にさかのぼってきた」という。
 今回の本の終章は、柳田国男だ。旅行と読書が結びつき、地図と地名を索引とする、独自の記憶術を持っていた。だが晩年、記憶が衰え、同じことを何度も尋ねるようになる。それをみる著者の目はあたたかい。
 「必要なものだけ取り入れて、あとは捨てる。だから生きていける。安心しますね。忘れていいんだと」
 (白水社・3024円)



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