ウラルの核惨事  ジョレス・メドヴェージェ  2019.7.16.


2019.7.16. ウラルの核惨事――ジョレス・メドヴェージェフ、ロイ・メドヴェージェフ選集2          
Nuclear Disaster in the Urals        2004 (Original 1979、日本語版1982)

著者 ジョレス・メドヴェージェフ 1925年生まれ。生化学、加齢学、政治史研究家。1950年にモスクワのチミリャーゼフ農科大学在学中に、ルイセンコの横暴を目の当たりに体験。卒業後、同大学で放射性同位元素を用いた研究をする。69年に『ルイセンコ学説の興亡』をアメリカで発刊したが、反ソ活動だとの理由でソ連最高会議幹部会決定によりオブニンスクの放射線医学研究所分子生物学研究室長を解任。73年英国出張中にソ連国籍を剥奪されるが、以後イギリスに滞在。90年ソ連国籍回復。主要著書に『誰が狂人か』(ロイとの共著)、『市場社会の警告』(共著)、『知られざるスターリン』、『ソルジェニーツィンとサハロフ』、『回想 19252010(共著)

訳者 名越陽子 1953年東京生まれ。東外大ロシア語科卒。同大学院修士課程修了。ロシア国立プーシキン大学教師課程修了。翻訳業

邂逅・監修 佐々木洋 1942年静岡県生まれ。北大大学院農学研究科修士課程修了。札幌学院大名誉教授。専門はジョレス&ロイ・メドヴェージェフ研究

発行日           2017.5.20. 初版第1刷発行
発行所           現代思潮新社

新しい日本語版『ウラルの核惨事』への序文
本書は、3大惨事の1つで、今日なお癒えない人的損害と生態学的後遺症を引き起こした大惨事の原因と結果を説明する現在でも唯一の書
原子炉稼働による廃棄物とその再処理生成物の長期貯蔵は、ほとんど解決されていない国際的な問題
79年ニューヨークで初めて出版。大惨事は原水爆用プルトニウムの製造に伴う液体放射性廃棄物の不適切な貯槽が原因で起きたが、当時は秘密事項で、IAEAにさえ知らされていなかった。実際に579月にチェリャビンスク州の秘密「原子力」都市で起きたことを証明するのが本書の目的
5万人の住む町には当時6基の軍事用原子炉と、使用済みウラン燃料からプルトニウムの抽出を行う放射化学コンビナート「マヤーク(灯台)」があったが、町には名前がなく、地図にも記載されず、ただ40番と暗号表示のみ
住民の間では「ソロコフカ(40番の町)」と呼ばれるが、当時の機密文書では「クイシュトゥイムの惨事」と記されていた。同都市はウラルの古い小工業都市で、秘密原子力センターから約20㎞西に在り、事故には遭わなかった
クイシュトゥイムは、1757年鋳鉄工場の労働者居住区として建設。チェリャビンスクは郡役所のある町で、城塞として30年後に建設。その北約100㎞に1946年に原子力センター建設開始。創立者はクルチャートフとされ、最初のソヴィエトの原子炉と最初のソヴィエトの原子爆弾を作った人
ウラルの事故について私が最初に短く報告したのは76年イギリスの雑誌『ニュー・サイエンティスト』に発表した論文の中。最初に事故を知ったのは57年。チミリャーゼフ農科大学の上級研究員だったころ、主任教授が事故の被災地域の農業被害の調査の委員会に招かれたからだが、当時は南ウラルの3州約27,000㎢を汚染した事故の規模がどれほど大きなものか、20年にもわたって西側の学者や専門家に知られていなかったことなど想像もしていなかった
ほどなくして事故の起きた地域に農地再肥沃化の実験施設が作られ、友人夫妻が派遣されたが、87年にストロンチウム90被曝による白血病で夫妻が死去、2人の息子たちも白血病で死亡している
私の発表が西側にセンセーションを巻き起こし、マスコミから大々的に反論。特に英米の科学者からは、原子力産業の液体濃縮廃棄物が爆発することは物理的に不可能であり、広域の放射能汚染が見過ごされることもあり得ないので、西側の原子力エネルギー計画を失墜させるためのデマだとか作り話だと批判
当時最大の事故とされていたのは5710月の「ウィンズケール火災」。イギリスのある地域500㎢を放射性「ヨウ素」で汚染したもので、人的損害はなかったが、その比ではない
ロシア語で書かれた放射線生態学の文献から追加で3本の論文を『ニュー・サイエンティスト』に発表。それは南ウラルに放射性ストロンチウムやセシウムによって非常に強く、不均等に汚染された広大な地域が存在することを証明し、5758年にかけてチェリャビンスク州で大量の放射能が環境中に放出されたことを示していた
英米の主だった原子力センターに招かれ講演を行い、必要な証拠を提出したが、ソヴィエト当局の調査を受ける
講演と論争の資料を基に本書も書かれたが、本書の出現により、プロトニウム製造によって残存する長寿命放射性核種が南ウラルに破壊的かつ大規模に拡散していたことが事実と認められたが、放射性廃棄物の貯蔵所が爆発した原因とメカニズムは不明なまま
初めて公式に事故が認められたのは89年のことで、ソ連国家委員会が報告書にまとめ、IAEAにも回覧された
高レベル放射性硝酸・酢酸廃棄物を貯蔵していたコンクリート製タンクに用いられた冷却システム内の故障により、タンク内の物質が化学爆発を起こし、核分裂生成物が大気中に放出され、その後チェリャビンスク州、スヴェルドロフスク州、チェメニ州の一部に拡散して沈積。20基のタンクのうち1基が破壊、2基が損傷、残る17基は冷却が止まる。事故後10日以内に600人が退避、以後16か月間に1万人が退避。医学的観点に触れたのは1つの表だけで、血小板の減少がみられたのが数例とだけあり、観察機関も記されておらず、1歳未満の子どもの死亡率増加にも触れず、汚染地域のがん発生率についても言及なし。事故の「処理者」に関する情報もなく、除染作業を担当した軍関係者と囚人についての観察記録もなし
政府は即座にこの事故を「国家機密」に指定、軍事部門は作業終了後に解体、兵士たちは25年有効の「国家機密保持の念書」を書かされて除隊し帰宅
タンクを覆う重さ160トンのコンクリート製の屋根を吹き飛ばした爆発の威力はTNT70100トン相当とされ、復旧作業では大量に被曝したが、信頼できる線量計やガスマスクはなく、防護服は短時間ごとに取り換え地中に埋めて廃棄された
医療措置と医学検査が続けられたのは、工業施設関係者、原子炉とコンビナートの作業員のみで、全ての検査データは機密のまま、僅かにインタネットで発表される回想などで再現するしかない
90年タンク爆発の原因公表 ⇒ 冷却システムが破損した結果、硝酸に溶解した放射性同位体の濃縮液が高温になって気化し、爆発に至った
コンビナート「マヤーク」は、規模が拡大され、ロシアの全ての原発、砕氷船、潜水艦からの放射性廃棄物の再処理と埋蔵の作業を続けている

第1章        センセーションの始まり
76年『ニュー・サイエンティスト』創刊20周年にあたって、ソヴィエトの反体制運動における科学者の役割についての論文寄稿を求められ、最初はスターリンにより、次いでフルシチョフにより支持された、今では「ルイセンコ主義」として知られるエセ科学に対して56年に起こした闘いに加わっていたこともあり、『反体制の20年』と題して書く
原子物理学者の有力グループと、当時「ブルジョワ的」学問と見做され禁止されていた遺伝学者たちを結び付けた最も重要な出来事として、5758年に起きたウラル核惨事に言及
当時ヨーロッパ各国では原発や放射性廃棄物の問題が政治問題化して地球全体の将来のエネルギーバランス問題が緊迫化していたが、73年からイギリスに住んでいた私は、西側の専門家たちがウラルの核惨事について何も知らないことを認識していなかった
私の寄稿に対し、強い反響が巻き起こり、最も激しかったのがイギリス原子力委員会議長のジョン・ヒル卿で、「単なる科学的ファンタジー」と命名され、戯言であり空想によるものだと横柄に決めつけたが、この不信こそが私が調査を続けるきっかけになった
ヒルは、低レベル放射性廃棄物を地下に埋めたのだろうが、そうした廃棄物は爆発しないし、高レベル放射性廃棄物だとしても、他の国々と同様の安全基準に従っていたはずなので核爆発であれ熱爆発であれ起こりえない、よしんば連鎖的核反応が起きたとしても、広域汚染を引き起こすことには繋がらないとし、空想による戯言と断定
アメリカでは、CIAも論評、20年目の事故は原子炉の制御不能により発生したもので、伝えられるような核廃棄物の爆発ではないと断定し、フルシチョフが突然すべての核実験を停止すると発表した事実とを結びつけることができなかった
本書の中で引用され利用されている多数の資料は普通の科学刊行物に発表されたもので、秘密でも何でもない

第2章        センセーションは続く
私の論文が物議を醸した直後にさらに大きなセンセーションが、イスラエルの亡命ソ連科学者によって引き起こされた ⇒ 60年にウラルの2大都市を小型バスで通過中に、放射能で汚染された地帯を横切ったという証言が西側各国の新聞の1面トップを飾る
70年にソ連からイスラエルに亡命し、イスラエルの原子力開発の唱道者の1人となったトゥメルマン教授が、ソ連の深刻な事故が原子炉の故障に関係するという報道に反論して、実際に放射能汚染した数百㎢の広大な土地を最高速度で走るよう警告する道路標識があり、「死んだ」空間が広がっていたという目撃証言をした。彼はウラルの事故がイスラエルに不可欠な原子炉や原発に悪影響を及ぼさないようにとの配慮から発言したと言った
西側の知識人に典型的なのが、これほど大規模な出来事であっても完全に秘密にするような全面的な検閲があり得るのだということがわかっていないこと
南ウラルこそがソヴィエト原子力産業の中心地であり、最初の軍事用原子炉の建設地で、2大工業都市スヴェルドロフスクとチェリャビンスクとそれに隣接する州は常に外国人に対し閉鎖。60年米偵察機U-2が撃墜されたのもこれらの州上空
本書は、57年のチェリャビンスクで実際に何が起きたかを分析するもので、センセーショナルな秘密を伝えるために書かれたものではない。私は58年に惨事の詳細を知っていたが、それらの情報は秘密の出所から出たものではない。ウラルに住む何百万もの人々もこの惨事を知っていたが、核廃棄物貯蔵所の爆発というより、原爆の偶然な爆発だと信じた
狩猟と魚釣りは南ウラルと中央ウラル全域で禁止され、都市部では数年間個人経営やコルホーズの市場での肉と魚の販売は特別な放射能検査をしなければ許可されなかった

第3章        専門家でない人のための用語解説
l  核廃棄物 ⇒ 軍事利用のベースがプルトニウムで、原子炉生成物から抽出され、残りの放射性同位体が核廃棄物。原子炉内部ではウラン主体の核燃料の分裂に伴い大量の放射性同位体が蓄積されると同時に大量の熱が発生するが、その熱は発電用に動力炉で利用され、分裂過程終了後の使用済み核燃料棒には多種の同位体が含まれるが、そのうち核兵器の製造に意味を持つ同位体がウラン235とプルトニウム。原子炉の熱エネルギーだけが必要なら、廃棄物の埋蔵は燃料棒のままで出来るので簡単だが、プルトニウム抽出後の廃棄物の場合は、大量の放射性溶液として埋蔵しなければならないので問題が複雑化
l  放射性原子炉廃棄物の埋蔵 ⇒ 低濃度の液体廃棄物の埋蔵に伴う困難は膨大な容量であり、高濃度の場合の問題は引き続き起こる放射性崩壊により発生する膨大な熱の処理であり常時冷却の必要。冷却後短寿命同位体は減衰するが、長寿命同位体のストロンチウム90とセシウム137を含む廃棄物は中濃度同位体を含む廃棄物として引き続き冷却が必要。低濃度同位体は河川や海に放棄される

第4章        ウラルの核惨事
58年チミリャーゼフ農科大の上席研究員の時、同僚で放射性同位体と放射能の農業への利用と植物や土壌研究への利用の分野でソ連の指導的専門家だったクレチコフスキーからウラルの惨事について詳しい話を聞く
当時クレチコフスキーは、チェリャビンスク州での動植物に対する放射能汚染の影響調査のための実験所設立を任されており、彼から魅力的なポストを提示されたが、調査関連の全てが第1級の機密とされ、行動に著しい制約が課されていたために断る
重要なのは軍事用原子炉から出る濃縮廃棄物を地下に埋蔵した貯蔵所が爆発したことで、蓄積された放射性生成物が地表に大量に放出された
実験所は汚染地区の境界に建てられ、放射能レベルは正常値より数倍高く、付近には村と労働者の居住区があった
全てにつきまとう秘密主義のため、最初の避難は爆発の数日後、なおかつ周辺の避難は後回しとなったため、退避者の総数も不明だし死者の数も不明のまま。生殖機能が損なわれた親から生まれた子供の世代も深刻な被害を受ける
62年からモスクワの衛星都市オブニンスクの放射線医学研究所に勤務した際、ウラルの惨事を何度も耳にしており、トゥメルマン教授の証言の遥か前から汚染地域の警告表示を知っていたし、その地帯の家は爆発によってではなく焼き払われていた
当時ソ連では放射性同位体や放射線の軍事・平和利用についての研究が盛んで、放射能汚染の広大な地域の出現はまたとないチャンスだったが、機密扱いされていたため活用されなかった。また「放射線」「放射能」などの言葉があるだけで論文の検閲が通らなかった
フルシチョフの解任後の64年に生物学におけるルイセンコ時代が終わり、65年には遺伝学や放射線生物学など多くの理論分野研究のためのセンターや研究室が設立され、研究論文も自由に発表できるようになり、ウラル大惨事の秘密研究地帯で働く科学者との共同研究も含まれたが、研究の場所や汚染の原因、汚染の総面積などへの言及は不可とされた
私の場合は、クレチコフスキーとともに仕事を始めた科学者の名前を知っていたので、66年から彼らの名前が科学雑誌に再び現れるようになったことで、膨大な「放射線」の文献の中からウラルの惨事に関連するものを篩い分けることが容易となった

第5章        湖、水生生物、魚の放射能汚染
48年南ウラルで最初の実験用原子炉稼働。併せて秘密裏に放射線生物学センターも設立。ソヴィエトの放射線生物学の創始者の1人だったレソフスキーは26年にドイツに亡命したがドイツの敗戦後逮捕されソ連に送還され姿を消したが、ソ連初の本格的な放射線生物学と放射線遺伝学の研究センターの設立に、他の捕虜たちと共に動員されたが、49年古典遺伝学研究の禁止により、放射線生態学に転向。放射線地球生物群集学の理論的基礎を作り上げた。56年以降「公開」実験所という地位に移行し、「生物物理学研究室」としてソ連科学アカデミー・ウラル支部の1部門となり、放射線生態学に関する幾多の論文を発表
一方ウラルの惨事を機に、レソフスキーらの囚人研究者も当然に汚染地帯での放射線生態学の研究を開始したが、極秘機密研究には不適だったため、全く別個に「秘密」研究基地が同じ地区に設立され、同一の科学的問題を扱った
64年フルシチョフ失脚の後、遺伝学が合法的に認められた際、レソフスキーも放射線遺伝学と進化論的遺伝学の分野で自らの研究を再開するとともに、オブニンスクに移って放射線医学研究所で遺伝学部長に就任、私が開設した放射線分子生物学研究室もその一部門となり、レソフスキーは65年に漸く学位が認定される
レソフスキーの論文と全く同じテーマの研究論文が突然公開されたが、途轍もない大きな2つの湖が実験場と推測されるがそれらは地図にも載っていない。同時に2つの湖が汚染されたことになっているが水中の放射能の実際の濃度は示しておらず、実験期間からすると惨事の直後と一致する
自然環境の条件下で魚と水生植物の放射線生態学についての問題がソ連で最も大規模に研究されたのは6970年で、その研究にほとんど適していない流水型の湖で行われ、イリエンコの名で発表された論文にはその湖の名前も地理的位置も示されていない。論文によれば6061年に汚染された貯水池に生息する魚におけるストロンチウム90とセシウム137の分布を実験的に研究しているが、実験というには異常に高い濃度、それも国が定めた飲料水ないし漁業用水に適した濃度の5,000倍を使用。さらに2年後の論文ではストロンチウムが調査から外されている。2つの同位体は植物組成においても魚においても異なる部位に取り込まれ(ストロンチウムは骨に、セシウムは筋肉に見出される)、代謝のタイプも異なるところから両者を並行して調査すべきところ、あたかもセシウムが唯一の同位体であったかのようだ。データを突き詰めていくと、人工的に濃度を調整したものでないことは明白、捕獲した魚の大きさからは長期にわたって漁業が行われていなかったことがわかる
湖の大きさ、導入された同位体の総量、気候条件を考慮するのに必要な湖の場所、その他多くの詳細データが明示されないまま、結論はすべて以前人工的条件下でおこなわれた実験で知られていた。論文で価値があるのは各種条件がユニークである点と湖が大きいことであるのに、著者は必死にそのユニークさを隠そうとしているばかりか、時には実際の条件の記述を偽っている。さらに突き詰めると、湖の汚染が深刻な事故の結果であるか、大規模な地元の原子力企業が廃棄物を工業排水として湖に放出した結果であることが一目瞭然で、後者は当時の規制強化からあり得ないとなれば、事故によって汚染されたとみるのが自然。さらには、湖の放射能とその変動が湖の周囲の地域の汚染と直接結びついていることを実証する事実として、同じ研究グループが同じ時期に陸上動物と鳥類における2同位体の分布についての大規模な研究を行っている。2つの大きな研究計画を同時に継続するには、隣接する地域で行う必要があった

第6章        ウラルの汚染地帯における哺乳類
ウラルの放射性生物群は世界で最も広範なものだが唯一ではなく、他にも地域汚染はあり、それぞれ放射線生態学研究の実験基地として活用されているが、研究方法や汚染源等実験の細部に関する詳細な記述が発表されるにも拘らず、ウラルで行われたソヴィエト人の論文には一切そうしたことは語られていない
論文には、再現を可能にする実験の方法と条件を記述する必要があるが、ウラルの放射能汚染研究調査グループの研究論文にはこのような「公開性」がないことが明瞭
イリエンコの論文では、対象のネズミを捕獲した区域図と土壌汚染の異なる放射能ゾーンの区画分布図が示されているが、異なる放射能をもつゾーンが全く無秩序なモザイク状の奇妙な配置をしているのは、この地域に放射能が撒かれたのは偶然であり、なんかの実験計画によるものでないことを明白に証明している。汚染地帯を無秩序に配置し、しかも放射能を比較的狭い限度内に設定するのは何の意味もない。このような同位体の分布は、その土地が研究開始以前にすでに汚染されていたという事実によってしか説明つかない

第7章        ウラルのチェリャビンスク州は放射能汚染地帯である――1957年秋~冬はウラルの大惨事の時期である
現場の生態系を壊さないという、一般の科学者が実験する際の常識に照らして推測すると、捕獲した動物の数から相当広大な場所が汚染されていたことが間接的に証明できる
動物種や植物種の構成から見ても、実験場所が南ウラル地帯であることを示しているが、正確な位置測定はできない。それは生態学的原則の要求に反するが、検閲のために汚染地域の場所を発表することができなかったようだ
唯一著者と検閲が見落とした論文が発表されている ⇒ 長期核汚染の中で生息したネズミが、放射線照射にどのくらい適応可能かという調査結果の発表で、対象分をモスクワ郊外とチェリャビンスク州で捕獲したと記載、後者は14年間人工的に汚染された区画に生存していたとされ、実験が行われたのを7071年としているのは、まさにウラル惨事による汚染を利用したもの

第8章        放射性生物群集における鳥類と様々な国への放射能の拡散
鳥類は「食物連鎖」の特異なグループで、放射性生物群集の植物相と動物相の総合的調査には必ず鳥類も含めなければならない
汚染後中部および南部ウラル全域の狩猟が禁止されたが、渡り鳥の飛来する周辺国とソ連南部地方では禁止されなかった。鳥は造血を最も活発に行うので、放射線に対する最も感受性の高い動物種
70年に放射性生物群集における鳥類の詳細な研究を最初に発表したのもイリエンコ

第9章        ウラルの放射能汚染ゾーンの土壌動物
65年以降ソ連で刊行された様々な雑誌や論文集の中には動植物の放射線生態学について多種多様な論文があるが、ウラルの汚染ゾーンに関するものを選び出すのは比較的容易
汚染ゾーンで行われた実験は、ほぼすべて汚染が57末~58初とすることができるのみならず、実験場所も区画についての説明もなく、以前のイリエンコの発表などを引用
一方、様々な研究の中で発表されなかったのは何かを見ていくと、土壌と植物中の放射性核種の移動に関する報告が見られないのに気づく
土壌昆虫と土壌動物の放射線生態学に関する最初の詳細な論文は71年発表されたが、イリエンコらの協力に感謝の意を表し、研究の場所が同じ汚染区画であると報告
論文から推測される汚染レベルは、土壌動物相を本質的に破壊させるもので、最も大きな破滅が見られたのは最も汚染が激しいと思われる土壌最上層部に生息する動物
研究対象とされた動物、とくにダニの種の構成からも、研究が南ウラル地帯で行われたことが推測される

第10章     ウラルの放射能汚染地帯の樹木
多年生植物としての樹木は草原食物よりも放射能の慢性作用により敏感で、このことは多くの放射線生態学に関する研究から知られている
定期的に落葉する広葉樹種の中には針葉樹種より1020倍も耐久性が強いものがある
イリエンコが1014年間動物の研究を行った「実験的」生物群集のゾーンでは、6465年に広範囲の生態学的実験が開始される以前に針葉樹林は明らかに絶滅していた
動植物相が慢性的な影響を受けた事で多くの深刻な放射線生物学的、遺伝学的損傷を引き起こし、必然的に生物群集そのものと、種の相互関係を変えてしまった
71年開催の国連原子力平和利用に関する国際会議の紀要に、ウラル汚染地帯の森林生物群集の放射線生態学研究に関するデータを資料にした報告が掲載。著者の1人はクレチコフスキーの誘いに乗って長い間科学界から「消えた」友人のフョードロフで、研究は主に11年間のストロンチウム90の動きを分析したものだが、実験の開始年の記載はない。ロシア語だったこともあり誰もその報告に注目せず、審議もされなかった。読んでいれば多くの方法論的な、原則に関わる質問を呼び起こすのは必至だったが、何一つ質問はなかった。この放射線生態学分科会の議長こそ、私がウラル惨事に言及した論文を発表した時、真っ先に最も激しくデマ呼ばわりしたイギリスアカデミーのジョン・ヒル卿だった
本書は79年にアメリカで英語で出版。イギリスでの出版は3か月遅れた。当時原子力委員会の議長に留まっていたヒルが出版に反対したためで、ほとんど裁判沙汰の脅しで自分の名前を出さないよう要求したが拒否。ソ連からの報告の際出席していなかったとの但し書きが付けられた
研究対象となったシラカンバは、ソ連に見られる50種以上の白樺の中で南ウラルに典型的な種
フョードロフは、イリエンコらと多くの論文を発表しているが、88年急性白血病で死去 ⇒ 明らかに放射能地帯で長年研究を続けた結果だ
私が学問上の第2の師と仰ぐクレチコフスキーも71年に逝去。5871年に数十もの科学論文を発表しているが、たった1度だけウラルの汚染の資料に基づく研究の短い要約に自分の名前を載せた。それ以外の論文はモスクワでの研究に関連するもので本当に実験的なもの。研究方法と実験の細部全般に対して常に高度な厳格さで臨むことで知られる学派に所属しており、実験を再現する方法とすべての条件が明確にされていない論文に自分の名前を載せることはできなかったのだろう

第11章     ウラルの放射性生物群集地帯における野生植物及び植物放射線遺伝学の研究
植物の放射線遺伝学者がこの地帯で研究を開始することができたのは、動物学者たちよりも少しあとのため、ウラルの生物群集の植物遺伝学に関する発表はやっと71年に始まる
研究対象は、高い放射性環境にある植物の生育条件に、いわゆる放射線生物学的適応が起きているか、即ち放射線に耐性のある形態が出現するかどうかを明らかにすること
この論文には、実験が初めから計画されていたならあってはならない本質的な方法論上の欠陥が多く存在、放射線量の総吸収量に関する情報がなく、年ごとのストロンチウム放射能の変動も示していない

第12章     ウラルの放射性生物群集における集団遺伝学の研究
ウラルの汚染地域は、集団遺伝学研究にとってはまたとない機会となったが、研究の開始は遅かった
採取された単細胞土中藻クロレラは汚染から5年、6年、11年後で、最後の時までに400世代が交代していたが、11年後でも地表が高い放射能を示していたのかは依然として不明
土壌と混ざり合った高放射性原子炉廃棄物であり、自然界にあってはならないもの。2次汚染源として非常に危険であり、絶対に消滅させなければならない

第13章     ウラルの核惨事に関するアメリカ中央情報局の文書の分析
76年の私の報告書に対し、アメリカではCIAのコメントが報道されたが、CIAも爆発に関する情報は持っていたもののその時までメディアで報じられることはなかった
アメリカの天然資源保護協会は、制定されたばかりの情報公開法に基づき、5761年の間のウラル地方のソヴィエトの原子力施設で起きた事故に関する情報を様々な機関に申請
77CIAの回答はアメリカの生態学者にとっては不十分な情報でしかなかったが、私はその中に多くの有益な情報を発見。5759年アメリカの偵察機U-2がウラルの原子力センターの上空を飛び、その後も特殊装備された人工衛星で諜報活動が続けられた
当時アメリカではデトロイト近郊での原子炉惨事の可能性(66年に炉心溶融事故を起こし閉鎖)に関連して政府と原子力委員会に逆風が吹いていたし、57年のイギリスのウィンズケールでの原子炉事故を機に米欧で反核デモ・キャンペーンが大々的に起きていたので、ウラルの惨事を暴露することは躊躇われた
77年『ニューヨーク・タイムズ』に、CIAがクイシュトゥイムの惨事に関する一連の文書を機密解除したとの報道があり、それと同時に私からCIAに請求した資料も届く

第14章     ウラルの核惨事の原因――195758年の出来事を復元する試み
l  原子炉の事故や原子炉の爆発は、間違った操作や強い地震の際には起こり得るし、現状の原子力技術ではまだそうした惨事が起こる可能性があることは明らか。最もよく知られているのが57年のウィンズケールの原子炉事故。発生した放射能雲が数百㎞に渡り、ヨーロッパの多くの国々の領空を通過。降下したヨウ素131による汚染に対し特別の措置を取った。どの原子炉事故をとっても、チェリャビンスク州のものと類似するものは何もない
l  原子爆弾と水素爆弾の実験の結果 ⇒ 5758年は核兵器の大気圏での爆発実験が最多を記録(79回、ソ39回、英12)。地下実験開始は米が51年、ソが61年で、重大事故は62年のネバダ州の放射性物質の地表放出、ソ連でも北極地帯の実験場で同様の事故が発生。事故を利用して、平和目的のために核爆発を利用することが適切かどうか判断する為の研究がなされたが、爆発を起こすための当初費用は化学爆発に比べてかなり少ないが、爆発後の環境汚染の除去に何倍もの費用が掛かることから、核爆発の利用は認められないとした
l  原子炉や、プルトニウムその他を核反応生成物から分離する工場から出る放射性廃棄物の貯蔵に関する事故 ⇒ プルトニウムを分離した後に非常に放射能の高い様々な放射性同位体の複雑な混合物が残り、1,000年にわたって安全に貯蔵しなければならないことから多くの問題が生じる。半分以上は半減期が短いが、数年経ってもストロンチウム90(半減期28)とセシウム137(30)が最も危険。現在廃棄物は固体化する方法があるが、初期の廃棄物は液体で、膨大な量の貯蔵のため地下タンクがスチールまたはコンクリートで作られ、低濃度の廃棄物は側壁だけコンクリートで固められた溝に流されていた。地下水が100mと深いので、溝の下の土壌は放射性物質を十分安全に固着して数世紀にわたって環境に安全な状態で貯蔵できると考えられた。事故はアメリカのワシントン州ハンフォードにある原子力センター地区で73年に発生、151基のタンクの一部に漏れが発見。低濃度廃棄物のなかにも未分離のプルトニウムが残存していたため溝に沈殿、広島の原爆と同等の威力を持つ小型原子爆弾100個製造するのに十分な量が確認されたため、爆発の可能性もあり急遽別の場所に貯蔵し直された
l  チェリャビンスク州の廃棄物貯蔵所の爆発はいかにして起こりえたか。復元の試み ⇒ 48年に開発された原子炉に保有するすべてのウランが装入され、高純度のプルトニウム抽出に傾注したが、完全な分離は難しく(現在でも99.5%まで抽出できるが、0.5%は廃棄物中に残る)、原爆製造後の放射性物質の貯蔵は難題
5354年原爆製造と廃棄物貯蔵の全ての基本的要素がクイシュトゥイムに集中していたが、フルシチョフは「分散化」を主張して放射能の拡散のリスクが増した
プルトニウムを分離した後の液体濃縮混合物は、特に最初の1年間は多量の熱を出し、大きな圧力と爆発の危険がある状態を作り出す
l  人的損害について ⇒ 国家機密とされ正確な数字と情報はない。様々な原因による死亡率データはすべて秘密

Ø  悲劇の前と後――19579月に起きたクイシュトゥイム核廃棄物貯蔵所の惨事の原因と結果についての考察 (1991年雑誌『ウラル』寄稿)
l  序文にかえて
クイシュトゥイムの自己の公式声明が発表されたのは1989
同年IAEAでも、ウラル事故についてソ連から4つの報告書が提出 ⇒ 事故の概観、人と動植物相の線量計算の原理、事故の医学的見解、南ウラル地区の1次汚染地域と2次汚染地域の変化についての4
90年にソ連当局が74年に書いた『ウラン核分裂生成物による汚染地域の事故処理の研究と試み』が機密解除され出版

l  爆発の原因。公式見解
公式見解は、「硝酸・酢酸塩の高放射性廃棄物を入れたコンクリート製タンクの冷却装置が故障した結果、廃棄物の化学的爆発が起きた」というもの
IAEAに出したソ連の報告書によると、放出された廃棄物の放射性同位体の成分は比較的新しい混合物で、原子炉から燃料ブロックを取り出して200日以内と計算される。200日間で蓋の閉まった容器の中で溶液が干上がり、「火薬」になることは不可能

l  クイシュトゥイムの事故のビデオで読まれた内容
矛盾点は、「容器」の冷却停止で、廃棄物タンクが明らかにしたもので、タンク内側のパイプに漏れが起きたとされながら、ビデオではタンクが入っているコンクリートの「容器」とされる。また内部冷却が停止したことで冷却水が沸騰。過熱と蒸気圧だけでも放射能放出を伴う蒸気爆発を起こすことができるが、それはTNT70100トンほどの威力はない。さらには液体の硝酸・酢酸塩が短期間で爆発するほど乾燥することも、火花によって起爆することもあり得ない
意図的に歪曲された可能性を否定できない

l  爆発の原因と結果。著者による復元の試み
スチール製の「容器」は短期間満タン状態にあったがその中に放射化学コンビナートからの廃棄物も混入。容器を格納しているコンクリート製のキャニオンには水が満たされていたが、水の定期交換の際「容器」から放射性核種の漏洩が発覚したため交換サイクルが止まる。漏洩に先立って内部冷却システムが停止し、液体が加熱されたことによって漏洩が引き起こされた。冷却停止後、「容器」内の溶液が暖まり始め、2540時間後に始まった沸騰はキャニオン内で最初に起こり、「容器」内で起きたのではなかった。濃縮された溶液の沸騰温度は高いが、キャニオン内で強く汚染された水が沸騰したことで放射能を含む煙霧質が生じる。60個の容器が置かれた貯蔵所の建物内部の放射性環境は上昇したが、弱い沸騰の蒸気圧ではコンクリート璧や蓋が飛ぶことはあり得ないと考え、更には短寿命放射性核種の崩壊によって溶液内で発熱が急速に減少することも期待されたが、放射線分解ガスがたまる危険性を看過。閉鎖された容器内の換気が不十分だったため、キャニオン内部で水素、メタン、酸素がたまり、34週間のうちに爆発の危険性があるほどの濃度に達した。制御装置の火花は爆発を起こすには十分なものだったし、溶液から放出された硝酸塩とアンモニアの高密度沈殿物と酢酸塩で起爆し、可燃物を発火させたかもしれない

l  クイシュトゥイム事故と健康問題
放射性生成物の放出による特異の有害な後遺症は一切なかったと報告されたが、他の文書では白血球増加症が報告されている一方、小児白血病のデータがないのは奇妙
事故後現地にソ連保健省生物物理学研究所支部と名付けられたかなり大きな秘密放射線医学センターが設けられた ⇒ 発表されたデータから推察するに、汚染地域の農村住民と避難した人々の健康調査の為ではなく、被害地域の住民の健康観察が目的

l  カラチャイ湖――放射性核種の「倉庫」
過度に汚染されたカラチャイ湖の存在が明らかにされたのは89年の報告の中 ⇒ 廃棄物が投棄されていた。チェルノブイリの2.5倍に相当
コンクリートが流し込まれ、将来は消滅させると報告
ハンフォードでも原子炉の冷却水と大量の液体放射性廃棄物は「高度汚染物」として分類され、コロンビア川に投棄され太平洋へ流された。プルトニウム製造の場合、非常に濃度の高い液体混合物だけが特別なタンクに貯められ、より低い濃度の液体廃棄物を技術的に複雑で高価な容器に貯蔵するのは採算が合わないところから安い方法がとられた

l  テチャ川への放射性廃棄物投棄について
ハンフォードの軍事用原子炉はコロンビア川のオープンな水で冷却され、原子炉通過後は特殊な貯水槽に3時間だけ貯められたあと再び川に投棄された ⇒ 急峻な流れで大きな危険性はないと考えられ、また液体廃棄物をオープンな水へは投棄しなかったが、クイシュトゥイムでは湖か川かの選択だけで、川もオビ川経由大洋につくまでは6,000㎞もあって、川沿いの町は長い年月にわたって放射性の水を取り込んでいたことになる

l  事故の後遺症を調査するための放射線医学センター
チェルノブイリの事故後、キエフ近郊に大規模な全ソ放射線医学センター設立 ⇒ 特別医療登録された60万人の健康を観察するのが専門だが、専門雑誌にこのセンターによる科学的論文は一切発表されていない
アメリカの研究所がエネルギー省から助成を受けてクイシュトゥイム事故の医学面の研究に取り組んだが、2年間の調査で何も出てこなかった

l  ルクセンブルクでのセミナーにおける事故の検討
90年開催の3大原発事故(クイシュトゥイム、ウィンズケール、チェルノブイリ)が環境と人々の健康に与えた影響を比較検討するための学術セミナー
この地域全体に最も重大な脅威となっているのはカラチャイ湖 ⇒ 完全に埋まるのは95
放射性ストロンチウムと放射性セシウムの問題が解決するのは、およそ150200年後の、半減期が57周期経てから

Ø  「ヨウ素」の惨事  (1994年雑誌『新時代』寄稿)
放射能事故の最初の2か月で大人も子供も健康に特に危険なのは、放射性ヨウ素131の甲状腺への蓄積。この時期に汚染地区における外部放射能全体の6080%が放射性ヨウ素
半減期が8日間のヨウ素131と数時間の半減期を持つヨウ素132,133,135は運転中の原子炉内でウラン235が分裂してできる最も多い生成物。揮発性が高く、184℃で気化するため、絶えず原子炉内でガス状の放射性ヨウ素を吸着し除去する複雑なシステムを作る必要がある
ヨウ素131は発がん性物質と見做されず、そのため甲状腺、肝臓、脳の腫瘍を診断するために医療用に用いられ、特に甲状腺肥大の治療には、局所的に蓄積されたヨウ素131からの大量の放射線量によって、肥大した甲状腺が部分的に破壊されたときに用いられる
54年のビキニ環礁での最初の水爆実験で、ロンゲラップ環礁の住民67人が、実験の後に発生した放射性核種の降下物に含まれた放射性ヨウ素の影響を被ったのが、子どもたちの甲状腺がん発症数の増加がみられた唯一のケース。自然界の放射線源から1年間で得る量の大人で3,000倍、子どもで10,000倍の被曝。骨髄の分裂細胞は当時の子供の被爆量の半分でも死滅。子供21人中19人に甲状腺異常がみられ、うち3人は癌、28年間で18人が手術を受けたが、最初の甲状腺がんが切除されたのは被爆から10年もあとのこと
チェルノブイリ(ウクライナ北部のベラルーシ国境に近いところ)事故もソ連の公式発表は異常に低い被曝線量しか公表されず、懐疑的にみられていたが、現在では子供たちの甲状腺における放射性ヨウ素の最大線量はロンゲラップの2倍以上だったことが知られている
放射性ヨウ素の中でもヨウ素135は半減期が6,7時間しかないため使用済み核燃料の成分に蓄積されない。ヨウ素135崩壊の二次的生成物はキセノン135で、活発に中性子を吸収し、そのために核分裂の連鎖反応を阻止する放射性ガスである(原子炉の「キセノン中毒」)。キセノンは常に原子炉から高い煙突を通じて出ていく。チェルノブイリ原子炉での過ちはたまたま原子炉内にヨウ素135を過剰に蓄積させてしまい、「キセノン中毒」を起こして原子炉が制御困難になったこと
甲状腺の機能的・形態的変化は真っ先に野生の有蹄類(ヘラジカ、ウシ)に見られ、甲状腺が破壊され委縮したり死に至ったケースもあった
92年ベラルーシで子どもたちの甲状腺癌が急増したとの情報にも、ヨウ素131に発癌性はないとする確固たるドグマのせいで、西側でも大量に被曝した事実すら認めようとしなかったが、急遽放射線防護に関する欧州委員会から専門家グループがベラルーシに派遣され腫瘍の診断と組織学的研究に加わったところ、最悪のケースであることが証明された

Ø  世界のエネルギー経済におけるチェルノブイリの要因 (1996)
広島は被曝後10年で以前の大きさに戻った
チェルノブイリは864基の炉の1つが爆発したが、住宅は全く破壊されず、残る3基の操業はその後も数時間継続され発電を続けた。10年後住民の避難した町村は依然として人気のないまま。今後も数百年にわたって人は住むことができない。事故の経済的「代価」は2,000億ドルに上ると計算されるがそれは最初の10年間の支出と損失に過ぎない
毎年事故当日に学術会議が開催され、事後の様々な調査報告が行われるが、事故の結果を客観的側面から注視して事故の教訓的側面を役立てなければならない
イギリスとソ連の原発は当初、軍事用にプルトニウム製造だけを目的にしたウラン・黒鉛原子炉を代用(1世代)。黒鉛が中性子を減速させ、連鎖反応を維持させることができた。連鎖反応は特殊な中性子を吸収する制御棒により制御され、制御棒は同時に原子炉の非常停止用としても用いられた。「最大」の事故は何らかの原因で冷却の停止がすぐに制御棒を炉心ゾーンに取り出せない場合と重なった時、ウラン自体の分裂の連鎖反応が続くことによって引き起こされる一瞬の燃料溶解で、極めて稀だが、チェルノブイリで起きた
アメリカの原発は原子力潜水艦のエンジン用に作られたよりコンパクトな原子炉で、ウラン235の分裂の連鎖反応を保持する中性子の減速材は水。英ソ同様制御棒が炉の稼働を制御していたが、連鎖反応は一瞬で停止し、水がなくなると消極的防御となってより安全となるので、「最大」の事故となり得るのはウラン分裂後に蓄積された熱い放射性生成物の影響で冷却が止まり、炉心ゾーンがゆっくりと溶解すること
チェルノブイリ事故の直接的影響は深刻、数十人が急性放射線症で死亡、数万人が過剰被曝で深刻な健康被害を受け、汚染地域から23万人が退避、広大な地域が農業用地から除外。ヨーロッパ各国で国民を放射能から防護するための高くついた措置が取られた
間接的な影響は更に広く世界中に及び、原発建設は中止され、大都市周辺建設予定の熱供給原子炉計画も中止。急激な原子力時代への足取りが止められた
原発が始まった60年代はまだ高価で実験的なものと見做されたが、石油ショックで石油が高騰したことから原子力が救世主となり、86年にはフランスで全電力の70%、ベルギーで67%、スウェーデンでは50%、アメリカでは25%を原子力に頼った
原発が経済的に勝るのは、コンパクトなウラン燃料で長期間操業するという点のみ
チェルノブイリ事故により、安全性に関する規制・対策でコストが上昇、一方石油価格が急激に下がったのが86
更に天然ガスの利用で大きな経済的利益をもたらすことになる。ロシアでは60%の依存度
安全基準を根本的に改善した原子力エネルギーは多くの国々と地域のために自らの意義を保ち続ける
ソ連では8990年に反原子力プロパガンダが強まり、莫大な投資がすべて凍結されたが、ロシアになって稼働再開、続々と原子炉建造も再開されている
有機燃料資源を持たないアルメニアも88年の地震で操業中止していた原発の稼働を再開。旧設備を改造するため在外移民が融資を行い、操業再開は国家記念日のように祝われた
独立後のウクライナでも、石油やガスは支払いがウクライナが持たない外貨でしなければならない一方、国内にウランの産地があって解体された原子爆弾と弾頭から得られた高濃度「兵器用」ウランが大量に存在するところから、西側諸国の融資が得られれば、国際機関の閉鎖要求に応えて原発の新規建設をする用意があるという。原発依存は40
ブルガリア、ハンガリー、スロヴァキアも同様な状況で、資金不足からソ連型の旧型原子炉の操業を続けている
最も原子力に依存しているのはリトアニアで87%であり、電力輸出によって国家予算を満たしている
ロシアでは現在依存度が12%、原発は9か所で29基。そのほかに潜水艦と戦艦の原子炉を海上の原発として北極と極東に配備、千島列島の電化に活用する予定
ロシアには2030年まで原子炉の積み替えに十分な量の濃縮ウランが備蓄されているが、市場経済へと国が全面的に移行する上で大きな障碍となっているのが燃料エネルギー複合体 ⇒ 現在でも電力は世界的価格の1/41/5で消費者に提供されているが、集中化された温熱やガスの供給についても同様の状況
チェルノブイリがなければ、これらスラブ共和国は、これほどまで性急に独立とソ連崩壊を宣言させるように突き動かす感情的要因やナショナリズムの高揚は疑いなく持っていなかったであろう

Ø  附録 クイシュトゥイム―チェルノブイリ―フクシマ 次はどこか? (2011)
1987年来日した際、日本原子力産業会議副会長に、「なぜ日本ではチェルノブイリの暗示に関心がないのか?」と質問した時の答えが、「日本では現実にあり得ないとされている」

チェルノブイリ事故は、9091年に事故原因が根本的に見直されたが、それまでは人為的なミスとして発電所所長以下作業員までが刑法に基づいて処罰されたが、公式に設計上の技術的欠陥が明らかにされ、訴追は取り下げられたものの、広く報道はされなかった
炉を緊急停止させるホウ素を含有する制御棒の設計ミスだった
チェルノブイリ事故はソ連崩壊を招いた主たる経済的・政治的要因の1つとなったが、88年ピークだった石炭と石油の生産は減少し、コメコン諸国は何よりソヴィエトの安価なエネルギーによって結束されたブロックだったにも拘らず、これらの国々への石油とガスの輸出は激減、原発も稼働停止で電力不足から多くの企業が冬季に操業停止に追い込まれた
特に厳しかったのがアルメニア、グルジア、エストニア
チェルノブイリは残る3基が何年も操業を続ける ⇒ 2号炉は93年、1号炉が95年、3号炉は00年に停止。使用済み核燃料は貯水槽に貯められている。新しいシェルターの建設のため数千人の労働者が3交代で毎日通っている。完全な解体は放射性セシウムとストロンチウムが新たに2回半減期を終えた後の2065年の予定

福島の原子炉は71年創業で、112月には停止する予定だったが10年延長
1952年の加州の地震のマグニチュード7.5に耐えられる設計だったが、関東大震災は8.3であり、元々不十分なうえ、津波対策も5m以上は予想していなかった
専門家によると、最大の設計上の欠陥は、予備の非常用発電機の配置が海水面と同じ高さだったこと、使用済み核燃料の保管場所が炉心の上にぶら下がった状態で配置されていること ⇒ 高所に置かれた核燃料冷却のための貯水槽は重たく下からの振動に弱い
放射性分解水素を含んだ蒸気ガス混合物を大気中ではなく、炉の建屋に放出する設計も間違いで、水素の爆発により建屋が破壊され、複雑な熱交換システムが損傷
全システムの冷却用に1日数千トンの水が必要で、この水は原子炉燃料と核燃料によって強く汚染されている。水素爆発でぶら下がったままの保管場所には490トンの核燃料が含まれ、4トン以上のプルトニウムが存在するが、その放射能はチェルノブイリの何倍もある。4基の炉の放射性同位体はチェルノブイリの炉の20倍も多い
環境中に放出された放射能の総量はまだ不明だが、チェルノブイリに近づきつつある
スリーマイル事故(79)後米英では新たな原発は1つも建設されていない。チェルノブイリ後、「ソヴィエト崩壊後の地域」と東欧では新しい原発の建設は行われていない。原子力産業は米ロでも発展しているが、それは「輸出用」と軍事計画の為だけに操業
フクシマが世界中の原子力の運命にどのような影響を及ぼすのか、今のところ予測は難しい

解題 スターリン主義体制下での核事故の実像を解明           佐々木洋
l  ロシア語版選集と日本語増補版の構成
ジョレスとロイは双子の兄弟。現代史を揺るがした旧ソ連体制の、外からは容易に窺えない政治と社会と科学界を身を挺して深部から解き明かしてきた反体制の「異論派」の科学者及び歴史家
2人の代表作をまとめたロシア語版選集全4巻はモスクワの人権出版社によって0204年刊行。うち1巻と2巻をこのほど日本語版選集として刊行
特に今回はロシア語版からの完訳書

l  事故を隠し、歪曲し続けたソ米英()の国際原子力村
ソ連は49年に原爆、53年に水爆実験に成功し、米の核独占を破る
米が核主導権を確保すべく、「原子力の平和利用」を提唱したのが同年末
ソ連最大の原子力コンビナートの液状核廃棄物の貯蔵タンクが57年に爆発事故を起こしたが、ソ連は89年まで隠し続け、米英も事故を否認・歪曲し続ける
ウィンズケール事故も、66年米国のエンリコ・フェルミ高速増殖炉での炉心溶融事故やハンフォード核開発センターでの事故が起きても、核保有国は反核運動や放射能の影響に対する国民の不安鎮静のため、ウラルの核惨事の真相究明を進めなかった。核開発を推進する国際原子力村の共通利益を損なうという立場で一致していたから。日本も事故の存在を知りながら公表を避けてきたようだ

l  説得力ある推理で事故の実像を解明
ジョレスは69年に『ルイセンコ学説の興亡』出版で職を解雇され、翌年精神病院に入れられ、73年には国籍剥奪され、自ら事故を調査・研究する立場にはなかった
ソ連の検閲をパスした歪曲された情報という制約の中で核事故の実像と本質を炙り出したのが本書の醍醐味
検閲後の公開情報の中の省略・歪曲・偽装箇所や、稀有な条件設定の個所に潜んでいる真相と思しき情報を再構成し、事故の実像と本質に肉薄

l  反体制異論派の登場を触発したウラルの核事故
フルシチョフがスターリンを批判したのは56年で、スターリン粛清の内情を知った若い政治的異論派が登場したが、ソ連軍のハンガリー介入後に一斉逮捕されるも、注目は浴びなかった
フルシチョフに異議を唱えるエリート科学者を含む知識人たちと、若手研究者や学生の間に当時はまだ接点が乏しかった
垣根を取り払ったのが『ウラルの核惨事』で、この惨事が核物理学者たちに、放射能の危険性や核爆発の影響を認識させ、放射線生物学や放射線遺伝学との交流を求めるようになり、6264年には年上と若い世代の協力や友好が可能となり、年長の特権に恵まれた世代が若い同僚たちの政治的異議申し立てを直接に支持した。地下出版=自由出版のネットワークを組織するための資金援助を行い、出版された作品を保護し複製するための設備を提供し、問題に巻き込まれた人々を強力に励まし擁護
ジョレスとロイもそうした中で活動を活発化。ジョレスは放射線に起因する体細部の突然変異の研究者として注目され、62年には科学都市オブニンスクの研究所に招かれ、在職中に地下出版されていた本を69年米国で出版したため、解雇され精神病院に拘禁
ジョレスの拘禁が世界の科学者に衝撃を与え、釈放運動が世界で巻き起こったため、3週間の闘いの後解放、ソ連の「人権擁護運動の最初の大勝利であり、国家権力の最初の敗北」となった

l  衛星画像の公開でソ連当局者が事故を認知
88年ソ連政府が事故の事実を認める ⇒ 東海大主催のシンポジウムでスウェーデン作成の『ウラルの核惨事』の画像が公開され、日本の主要紙が報じたためソ連当局者が認知
ソ連政府がIAEAに報告したのは翌年、政治体制に変化があったからで、ソ連最高会議のウラル核惨事に関する公聴会にジョレスが招かれ、27年ぶり(ママ⇒17年‽)に市民権を回復

l  強制収容所に立脚した旧ソ連の核開発
ジョレスは、本書脱稿の際、「クイシュトゥイム市の近くの軍事施設建設で落命した囚人たちと、その後に亡くなった核惨事の犠牲者たちの記念碑が建てられることを望む」と述べ、モスクワのクルチャートフ広場にあるクルチャートフ記念碑だけでは、ソ連の原子力の最初の礎をクイシュトゥイムに築いた人々の業績と悲劇を反映させるには十分でないと結んでいる
ソ連崩壊10年後のロイとの共著『知られざるスターリン』で、ごく短期間にソ連の原子力産業を立ち上げた功績は、原子炉その他の諸問題を実際に解決した速さにおいて、紛れもなく収容所が主役で、彼らは機動性に富み、本質的には奴隷労働だが熟練労働のユニークな供給源となっていた、と述べている
スターリンの死後、54年から囚人の帰還が始まったが、彼らの居住はウラルやシベリアの一部地方に限られていた。核惨事の除染作業も現囚人や元囚人と想定される
ジョレスによれば、原子力関係の元囚人はKGBの監視下に置かれ、以前の仕事については口外しない無期限の誓約書を取られていた。病気で解雇された核施設の労働者さえ元囚人と同じ制限を受けた
政府の公式報告書は、「口外しない誓約書」を前提に成り立っている
ジョレスは、人類が「数十万世代もの未来を構想」しなければならない環境を核汚染から守るために、今も現役で書き続けている



2017.7.2. 朝日
(書評)『ウラルの核惨事』 ジョレス・A・メドヴェージェフ〈著〉
 極秘にされた原子力災害を暴く
 1957年、旧ソ連の南ウラルに位置する秘密工場の放射性廃棄物貯蔵庫で爆発があり、のちのチェルノブイリにも比すべき原子力災害が起きた。事故は極秘とされたが、体制を批判する出版で要職を解任、精神病院に拘禁のうえ、ついには国籍も剥奪された著者は76年、滞在先の英国で発表した記事で初めて言及、大変な反響を巻き起こした。だが、原子力産業に携わる西側の科学者らの反応は、一様に否定的だった。
 反撃するにも本人と母国のつながりは切れている。驚くことに著者は、検閲を経て公開済みのソ連の科学者たちの論文に見られる不自然な省略、単位のすり替え、数値の使い回し、意図的な歪曲、生態系調査の偽装を見破り、事故の全体像を詳細に再構築。独自に情報を得ていたCIAへの資料開示請求などを経て79年、『ウラルの核惨事』を刊行した。西側で事故が周知のものとなる一方、ソ連はチェルノブイリを経てベルリンの壁が崩れる89年、ようやくこれを公式に認めた。
 鉄の検閲はなぜ不完全だったのか。ソビエト体制下の科学者にも欲があり、実は広範囲にわたる詳細な実地調査をしていた。このような専門家の研究成果をくまなく精査するのは至難の業である。著者にはその余白を埋め、有意な情報を読み取るだけの知識と経験があった。その意味で本書は、きわめてスリリングな知的推論の書でもある。
 過去にも日本語版があったが、今回はロシア語原文からの訳出。チェルノブイリ、福島原発事故直後の論考も加えた。新たに書き下ろしの序文が巻頭を飾り、この核惨事について私たちが知りうる今なお唯一の書であり続けている。
 チェルノブイリに先立って惨劇を予言したとされるタルコフスキーの映画「ストーカー」は、過去に起きたこの事故を参照していたとも言われる。さらなる過酷事故で、本書の価値がこれ以上増さないことを祈らずにはいられない。
 評・椹木野衣(さわらぎのい)(美術批評家・多摩美術大学教授)
     *
 『ウラルの核惨事 ジョレス・メドヴェージェフ、ロイ・メドヴェージェフ選集第二巻』 ジョレス・A・メドヴェージェフ〈著〉 佐々木洋解題・監修 名越陽子訳 現代思潮新社 3888円
     *
 Zhores Medvedev 25年、旧ソ連生まれ。生化学、政治史研究家。著書に『知られざるスターリン』など。

Wikipedia
ウラル核惨事(ウラルかくさんじ、ロシア語: Кыштымская авария)は、1957929ソビエト連邦ウラル地方チェリャビンスク州マヤーク核技術施設で発生した原子力事故爆発事故)。また、後年にかけて放射性廃棄物に起因して発生した事故等を包括することも多い。
オジョルスク市にあるマヤーク核技術施設(МаякMayakМа)は、原子爆弾プルトニウムを生産する原子炉5基および再処理施設を持つプラントであり、1948から建設された。プラント周囲には技術者居住区として暗号名チェリヤビンスク65という秘密都市が建設された。事故は、この施設を中心に発生した。国際原子力事象評価尺度(INES)では二番目に高いレベル6(大事故)とみなされる[1] 近隣にあった町キシュテム(クイシトゥイム)英語版)の名前をとってキシュテム事故と呼ばれている。
l  キシュテム事故[編集]
1950年代当時のソ連では、一般には放射能の危険性が認知されていない、もしくは影響が低いと考えられていたため、放射性廃棄物の扱いはぞんざいであり、液体廃棄物(廃液)は付近のテチャ川(オビ川支流)や湖(後にイレンコの熱い湖、カラチャイ湖と呼ばれる)に放流された。やがて付近住民に健康被害が生じると、液体高レベル放射性廃棄物は濃縮しタンク貯蔵する方法に改められた。
放射性廃棄物タンクは、絶えず生じる崩壊熱により高温となるため、冷却装置を稼働し安全性を保つ必要があるが、1957929、肝心の冷却装置が故障、タンク内温度は急上昇し、内部調整機器から生じた火花により、容積300立方メートルのタンクに入っていた硝酸塩結晶と再処理残渣が爆発した。この結果、90Sr (29)137Cs (30)239Pu (24,110)などの半減期が長い同位体を含む大量の放射性物質が大気中に放出された(East Urals Radioactive Trace)。核爆発ではなく化学的な爆発であったが、その規模はTNT火薬70t相当で、約1,000m上空まで舞い上がった放射性廃棄物は南西の風に乗り、北東方向に幅約9km、長さ105kmの帯状の地域を汚染、約1万人が避難した。避難した人々は1週間に0.025-0.5シーベルト、合計で平均0.52シーベルト、最高0.72シーベルトを被曝した。特に事故現場に近かった1,054人は骨髄に0.57シーベルトを被曝した。
マヤーク会社と官庁によれば、事故後に全体として400 PBq (4×1017 B)の放射能が2万平方キロメートルの範囲にわたって撒き散らされた。27万人が高い放射能にさらされた。官庁が公表した放射能汚染をもとに比較計算すると、事故により新たに100人がガンになると予想される[2]
国際原子力事象評価尺度ではレベル6(大事故)に分類される。これは1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故2011年の福島第一原子力発電所事故のレベル7(深刻な事故)に次いで歴史上3番目に重大な原子力事故にあたる。ミュンヘンのヘルムホルツ・センターによればキシュテム事故はこれまで過小評価されていたという[3]
l  放射性廃棄物の飛散[編集]
放射性廃棄物貯蔵所でもあった湖(イレンコの熱い湖)は、放射性ストロンチウム90などで汚染されたが、1967春に干魃が発生した際に湖底が干上がって乾燥した。放射性物質を含む砂や泥が風にのって空気中に飛散し、汚染地域が広がり周辺住民に放射性物質による被曝で、新たな健康被害を生むこととなった。
また1950年代に河川に投棄された放射性廃棄物は、対策が講じられず河床に沈殿されたままとなっており、年々下流域の住民の健康被害を深刻なものとしている。
l  事故の表面化[編集]
事故はソビエト連邦の軍事施設で起こったため極秘であったが、1958には「何かがあったらしい」程度の情報がアメリカ合衆国にも伝わった。概要が明らかになったのは、197611月、ソ連から亡命した科学者ジョレス・A・メドベージェフが、イギリスの科学誌「ニュー・サイエンティスト」掲載論文による。
彼はその後『ウラルの核事故』(日本語翻訳有り)を出版。この告発をソ連は真っ向から否定した。原子力を推進する立場の人々からは、このような事故はあり得ず、単なる作り話と一蹴され、ソ連の陰謀論という扱いだった。これは当初流布された噂では、核爆発に達する臨界事故が起きたとされていたためである。
このため、1989920グラスノスチ(情報公開)の一環として外国人(日本人5人)記者団に資料が公開されるまで真相は、明らかにされなかった。また地域住民に、放射能汚染が正式に知らされたのは、ロシア政府発足後の1992前後であり、対策は後手に回り放射能被害を拡大させた。
l  備考[編集]
ロシア閣僚会議幹部会によれば、工場周辺に放出された放射性廃棄物の放射能総量は3700万テラベクレル以上で、チェルノブイリ原発事故の20倍に達し、被爆者は約45万人にのぼったとしている[4]
脚注[編集]
1.    ^ INES – The international nuclear and radiological event scale. (PDF; 193 kB) Information Series / Division of Public Information 08-26941 / E.Abgerufen am 13. März 2011 (英語).
2.    ^ Thomas B. Cochran, Robert S. Norris, Oleg A. Bukharin: Making the Russian Bomb – From Stalin to Yeltsin. (PDF; 2,2 MB) Natural Resources Defence Council, 1995, S. 65–109, abgerufen am 14. November 2010 (英語).
4.    ^ 高田純 『世界の放射線被曝地調査 自ら測定した渾身のレポート』 講談社 2002 p.74.
l  参考文献[編集]
『ウラルの核惨事』 ジョレス・A・メドベージェフ著 梅林宏道訳 技術と人間 19827 ISBN 4764500248
『ウラルの核惨事ジョレス・メドヴェージェフ、ロイ・メドヴェージェフ選集 第2巻』 ジョレス・A・メドベージェフ著 名越陽子訳 現代思潮新社 20175 ISBN 9784329100030
外部リンク[編集]
放射線(物理学と健康)
単位
測定
放射線の種類
物質との相互作用
放射線と健康
基本概念
放射線の利用
法律・資格
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