クリムト展見学  2019.5.10.

2019.5.10. クリムト展見学


(天声人語)クリムトの関心
2019.6.15.
 無造作な髪、伸びたひげ、よれた仕事着――。東京都美術館で来月10日まで開催中のクリムト展を見て、何より意外だったのは、画家本人の肖像写真だ。金色を大胆にあしらった妖艶(ようえん)な女性像との落差にとまどった「外見には無頓着。生涯独身でしたが、女性関係は多方面にわたったようです」と担当の小林明子学芸員。超のつく有名画家の工房には、裕福な貴婦人や若い女性モデルが幾人も出入りした。隠し子騒動は十数件にのぼるという「私は自分に関心がない。他の人間、とりわけ女性に関心がある」「私について知りたい人は、私の絵を注意深く観察して」。自分について語ることの少なかったクリムトは、自画像をほとんど描いていない。多いのは女性たちの絵である19世紀末、保守的な画壇と決別し、人物描写に新たな地平を切り開く。若くして画名は高かったが、身をくねらせる裸像を多用したその画風は、ときに検閲に触れ、ときに批判を招いたたとえば、政府から発注された名門ウィーン大学の天井画。「哲学」「医学」「法学」の主要学部を象徴する3枚の絵を描いた。ところが完成作品にはいずれも一糸まとわぬ男女が描かれ、「醜悪」「不道徳」と非難を浴びる。絵は大学に飾られることのないまま、戦災で焼失した「ユディト1」「女の三世代」「裸の真実」など代表作を見ながら、想像をたくましくした。この画家は生涯にどれだけの女性を描いたのだろう。胸を焦がす恋は何度あったのだろう。


2019.3.5. 朝日
クリムト展、最多の25点以上集結 日本美術の影響も
 グスタフ・クリムト(1862~1918)の油彩画が、過去最多の25点以上並ぶ「クリムト展 ウィーンと日本1900」。日本とオーストリアの友好150周年を記念する本展には、日本美術から受けた影響を見て取れる作品も展示される。
 その一つがクリムト初期の作品で、後に生涯のパートナーとなる女性を描いた「17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像」=写真=だ。額縁に注目すると、金地に草花が描かれ日本風。クリムト本人のデザインだという。1873年の万博をきっかけに、1900年ごろのウィーンでは日本美術が大きな注目を集めていた。本展監修者の一人、ベルベデーレ宮オーストリア絵画館のマークス・フェリンガー学芸員は「当時のブルジョア層に人気のあった日本美術に関する雑誌や書籍を、クリムトも創作の参考にしたのだろう」とみる。
 本展では、クリムト自身が収集していたとされる日本の工芸品なども紹介。日本との関わりに光を当てたコーナーも見どころだ。東京・上野の東京都美術館で4月23日から7月10日まで。詳細は公式サイト(https://klimt2019.jp/)。

2019.3.6. 朝日
ムンクも若冲もTシャツ化OK やっと乗った世界の潮流
 ムンクもクリムトも若冲(じゃくちゅう)も、作品の画像が自由に使えます――。名古屋市の愛知県美術館が、著作権が切れ「パブリックドメイン(PD、公有)」となった作品画像1200点超を、ホームページで公開した。営利・非営利を問わず手続き不要でダウンロードでき、SNSの拡散や二次創作などに使ってOK。PD作品の画像の公開・自由利用を認める世界的な潮流に乗った形だ。
 愛知県美は昨年11月中旬から、ホームページ(https://jmapps.ne.jp/apmoa/)の収蔵品検索で、PDとなった作品画像をダウンロードできるようにした。手続き不要だが、所蔵やトリミングの有無だけ表記するよう求めている。ウェブシステムの更新時期が来た2018年度に、現場の学芸員が提案した。
 ここ数年、米のメトロポリタン美術館やシカゴ美術館、オランダのアムステルダム国立美術館など、海外の著名館がPDとなった収蔵品の画像を、利用目的を問わず続々と無料で使えるようにしている。だが、日本の美術館や博物館は、足立区立郷土博物館(東京)など一部の館をのぞき、その流れになかなか乗れていなかった。
 朝日新聞が17年、全国148館の国公立美術館を対象に実施したアンケートでは、学術や広報につながるもの以外はPD画像を有料で貸し出す館が36あった。7割弱の館は無料だったものの、ほぼすべての館で利用は要申請で利用内容の審査があった。「館の望まない形で利用されたり、拡散されたりすることへの懸念」が主な理由で、作品そのものの所有者である館が画像の管理者としても振る舞っていた。
 愛知県美はそうした慣習を破り、地方美術館でありながら無料で自由な利用を認める「世界標準」に近づいた。
 背景にあるのは、PD作品の画像は「社会に還元し共有すべきだ」という考え方だ。PDの画像を公開すれば、誰かに許可を求めずに、著名な作品をTシャツにプリントしたり新たな創作に役立てたりすることが簡単にできる。副田一穂学芸員は「そもそも公立美術館の作品は大部分税金で購入したもので、PD画像は市民の財産。著作権法などを検討すると、利用を阻む根拠はない」と話す。
 17年のアンケートでは、「画像を自由に利用できるようにすると、利用者はそれに満足し客足が落ちるのでは」という声もあったが、副田学芸員は「ダウンロードしてまで使いたいのは美術が好きな人。館に本物を見に来る動機付けになる」と考える。愛知県美では、画像公開とは別に実験的に企画展でPD作品の撮影もOKにしたが、懸念していた展覧会の図録の売り上げ減も無かったという。「PD画像を自由に使ってもらうデメリットは無い」と言い切る。
 PD画像の公開と利用許可は、国でも一部始まっている。独立行政法人「国立文化財機構」は、17年から「ColBase(コルベース)」(https://colbase.nich.go.jp/)というサイトを立ち上げ、2月末現在、傘下の国立4博物館の収蔵品約9500件の画像を無料でダウンロードできるようにしている。だが、細かい利用条件があるうえ、高画質な画像については各館が外部の業者と提携し数千円~数十万円で販売している。
 国立西洋美術館の館長や文化庁長官を務めた青柳正規(まさのり)さんは「画像の解像度で対応を変えるのは、矛盾している。PDの社会への還元は、画像をオープンにすることと展示作品の自由な撮影の両輪で完成するが、国の施設は画像公開は道半ばで、撮影した画像の利用を完全に認めていない館もある。世界と比較すると遅れている」と指摘する。
実際の作業は
 PD公開に向けた愛知県美術館の作業は学芸員11人が手分けをし、通常業務の合間を縫って1年かけて行った。
 多くの美術館と同じく、愛知県美術館も作品画像は、ネガフィルムより発色がよいポジフィルムで持っている。画像と制作年や名称をつき合わせて整理し、ポジのスキャンを業者に委託。PDでないものも含め計6千枚を210万円でデジタル化した。
 高額な自前のサーバーではなく、月約3万円を払いインターネット上でデータを共有するクラウドシステムで管理。愛知県美のサイトから、ポストカード大くらいまでは耐えられる画質の画像をダウンロードできるようにした。高解像度の画像は、依頼があれば個別に送る。
 これまで貸し出しの度にポジを出して自館でスキャンしていたため劣化が心配されていたが、デジタル化でポジを収蔵庫で保存できるように。利用申請の受け付けや審査手続きの人手も不要になった。(木村尚貴)

2019.4.18. 朝日
<お知らせ>クリムト展、23日に開幕 東京・上野
 19世紀末ウィーンの画家グスタフ・クリムトを紹介する展覧会がいよいよ開幕します。金箔(きんぱく)を使った代表作「ユディト1」=写真(部分)=など、国内で過去最多の25点以上の油彩画を展示します。
 23日[火]~7月10日[水]、東京・上野の東京都美術館企画展示室。午前9時30分~午後5時30分([金]は午後8時まで)。入室は閉室の30分前まで。5月7日[火]、20日[月]、27日[月]、6月3日[月]、17日[月]、7月1日[月]休室
 一般1600円など。問い合わせはハローダイヤル(03・5777・8600)。展覧会公式サイトはhttps://klimt2019.jp
 <主催> 東京都美術館、朝日新聞社、TBS、ベルベデーレ宮、オーストリア絵画館
 <協賛> ショップチャンネル、セコム、損保ジャパン日本興亜、大日本印刷、竹中工務店、トヨタ自動車、三菱商事、パナソニック、みずほ銀行
 <協力> 全日本空輸


2019.4.20. 朝日
クリムト、作品に込めた「人生」 黄金様式と風景画
 金箔(きんぱく)を多用した装飾性豊かな作品で知られるグスタフ・クリムト(1862~1918)は、19世紀末のウィーンで自由な芸術表現の道を切り開いた。画業の全貌(ぜんぼう)を紹介する「クリムト展 ウィーンと日本1900」が23日から、東京・上野の東京都美術館で開幕する。宝石のように豪華絢爛(けんらん)で、女性や生命に深いまなざしを向けた作品の数々が生まれた街を訪ね、彼の人生を追った。
 誰もが知る黄金の作風は、すぐには生まれなかった。クリムトは1883年、弟のエルンストと画家仲間のフランツ・マッチュと共同で、室内装飾を手がけるアトリエ「芸術家カンパニー」の経営を始めた。ちょうど、ウィーンの市街地が再開発されていた時代。今も残る、美術史美術館やブルク劇場の壁画などを手がけた。
 ブルク劇場がオープンした88年と同時に完成した天井画「タオルミーナの劇場」は、カンパニーによるものだ。シチリアの保養地にある古代劇場を描いている。初期はこうした正統派の古典絵画を描き、才能はすぐに認められた。
 だが、弟が早世。クリムトはそれまでの作風を変えていく。34歳で保守的な組織を脱退し、「ウィーン分離派」を若手芸術家と結成。初代会長を務めた。拠点となった分離派会館は、今も真っ白な壁と金の装飾を施したドームがひときわ目立つ。正面には、「時代にはその時代の芸術を、芸術には自由を」と刻まれている。
 ここで開催した1回目の展覧会は、2カ月で5万7千人が訪れる盛況だった。だが同じ頃、クリムトは国から依頼されたウィーン大学の天井画が伝統にそぐわないと批判を受ける逆風にも遭った。それでも新たな時代の先頭に立ち、独自の表現を開花させていく。
 1901年、旧約聖書外典に登場する女性を描いた「ユディト」は初めて金箔を使ったとされる。ベルベデーレ宮オーストリア絵画館の展示室に、同じ時代に活躍したゴッホやロダンの作品と一緒に飾られている。
 古代アッシリアの美術作品に描かれた背景を引用したとされる背景やユディトの衣装、自らデザインした額縁まで金色で埋め尽くされる。華やかさに目がいく一方で、敵将を惑わして首を切り落としたユディトが、うつろな目でこちらを見つめ、官能的な雰囲気に、青みがかった肌が冷徹な印象も与える。
 ベルベデーレ宮オーストリア絵画館のマークス・フェリンガー学芸員は「この作品は女性の誘惑に負けるクリムト自身への戒めでもある」と話す。クリムトはエミーリエ・フレーゲを生涯のパートナーとしたが、絵のモデルらとの間に10人以上の子どもがいたという。
 ここから始まった「黄金様式」。分離派会館で開かれた14回目の展覧会で発表した、全長約34メートルの壁画「ベートーベン・フリーズ」はその象徴の一つだ。交響曲「第九」をテーマに、黄金の騎士が敵に立ち向かい、天使たちが合唱する楽園でキスする男女の姿を描く。今は分離派会館の地下の部屋に飾られ、順を追って見ると、その物語に吸い込まれていく。目をこらせば、貝や貴石、ガラスなどもふんだんに使われ、立体感や華やかさを与えていることに気付く。
 黄金様式は、ベルベデーレで飾られている代表作「接吻(せっぷん)」(本展には出品されず)で最高潮に達した。クリムトは飛躍的に発展した世紀末のウィーンと呼応するように作品を次々と生み出したが、生涯作品数は約250点と、決して多くはなかった。意外なのは、黄金様式とは全く異なる画風の風景画を60点近く描いていることだ。
 ウィーンから西に約250キロにあるアッター湖を夏の避暑地として好んだ。水面の白鳥が動かす脚が見えるほどの透明な湖水、時が止まったかのような静寂に包まれる場所だ。ここでクリムトは、風景画の多くを描いた。
 天気が良い日には、朝6時に起床。森のなかを散歩をして、スケッチをした。午前8時には朝食を取り、湖で泳ぐ。午後は絵を描き、日本の美術史に関する書籍を愛読した。ときに友人とボウリングをして楽しんだ。同じ湖畔で過ごしたエミーリエには、1日に何枚もの手紙を送っていたという。
 「アッター湖畔のカンマー城」は、湖畔に立つ城を、印象派のように点を軽やかに重ねて描いている。紙の一部を正方形にくりぬき、その穴から見えた風景を、正方形のキャンバスに描いていたという。人や動物はほとんど登場しない。奥行きを感じさせず、景色そのものの魅力を写しだした。
 接吻が国に買い取られるなど、名声を得たクリムトだが、晩年の色彩は変化していく。14年、第1次世界大戦が勃発。その翌年、過去に金の背景で描いた「死と生」を暗く塗り直している。時代が変わり、作品の評価の低下や創作意欲の衰えを憂えていたという。
 それでも、55歳で亡くなるまで絵は描き続けた。最後のアトリエ「クリムト・ビラ」には未完成の作品「花嫁」や画材がそのまま残っていた。
 最晩年に描いた「赤子(ゆりかご)」は、1人の新しい生命を大切に守るように布が何枚も積み重ねられている。全体の色みは控え気味だが、豊富な色彩で日本の着物を思わせるエキゾチックな装飾が施されている。特別な思いを寄せた子どもだったのかは定かでないが、生涯を通して生命を描いたうちの一枚だ。
 生前、クリムトは自分自身のことを多く語らず、「私について何か知りたい人は、私の絵を注意深く見て」と話していた。ベルベデーレのステラ・ローリッグ館長は「クリムトの作品が今も人気なのは、彼の絵に『人生』が込められているからでしょう」と話す。
     
 「クリムト展 ウィーンと日本1900」は4月23日から7月10日まで。「ユディト」「アッター湖畔のカンマー城」「赤子(ゆりかご)」など、日本国内では過去最大級となる油絵が並ぶ。「ベートーベン・フリーズ」は複製が飾られる。ハローダイヤル03・5777・8600。5月7、20、27日、6月3、17日、7月1日は休み。7月23日~10月14日は、愛知・豊田市美術館に巡回する。公式サイトは(https://klimt2019.jp/)。(森本未紀)


(天声人語)巨人の肩の上
2019.4.22.
 「一種のパクリはいっぱいありますよ……」。脚本家の倉本聰さんが対談で告白している。例えば洋画の「ゴッドファーザー」。裏切った男が「昔なじみだから助けてくれ」と頼むものの殺される場面がある。セリフをそのまま自分の映画に使ったという16回見たという邦画「また逢(あ)う日まで」は、セリフをほとんど暗記している。「だから何かのはずみにそれがひゅっと出てきたりする」(『ドラマへの遺言』)。大脚本家も、過去の作品から大きな影響を受けている「私が他人より遠くを見ることができたとしたら、巨人の肩の上に立っていたから」とニュートンは書いた。芸術も科学も、先人たちの業績の上に優れた仕事が生まれる。そう思うと興味深い動きである。美術館がインターネットで収蔵品の無料公開を進めている著作権切れの作品の画像を自由にダウンロードできるようにするもので、欧米が先行した。国内勢は後手に回っていたが、愛知県美術館が始めたと本紙にあった。ムンクやクリムト、伊藤若冲もあり、二次創作に使っても構わないというネット全盛の時代、作品の権利をどう守るかが重要な課題になっている。とりわけ音楽や漫画で試行錯誤が続く。しかし引き締めが過ぎれば、未来を担う世代が、過去の作品から学びにくくなるかもしれない。バランスが難しい美術館に通い、模写をした……。洋行し修業した画家たちには、そんな話が多い。デジタル時代は、どんな下積み物語が紡がれるか。


クリムトの全貌に迫る 東京・上野できょう開幕
2019.4.23. 朝日
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 オーストリアの画家グスタフ・クリムトの作品を紹介する「クリムト展 ウィーンと日本1900」が23日から、東京・上野の東京都美術館で始まる。油彩画25点以上を並べ、国内では過去最多。金箔(きんぱく)を使った代表作や日本美術に影響を受けた作品から、画業の全貌(ぜんぼう)を読み解く。
 22日の開会式では、ベルベデーレ宮オーストリア絵画館のステラ・ローリッグ館長が「クリムトという宝をシェアしたい」とあいさつした。同時代に活躍した画家の作品なども展示し、計約110点。7月10日まで。7月23日から愛知県の豊田市美術館に巡回する。(森本未紀、写真は飯塚悟)


夢を広げ次代へ、多彩に記念事業 朝日新聞創刊140周年
2019.4.28. 朝日
 クリムトの傑作、必見
 19世紀末ウィーンで活躍したグスタフ・クリムト。金色に輝く耽美(たんび)で華麗な女性像が人気で、「好きな画家」や「見たい作品」ランキングでは、いつも名前が挙がる巨匠です。しかし寡作な上に戦火で失われた作品も多く、油彩画は大変貴重。金箔(きんぱく)の装飾が繊細な絵画は輸送に細心の注意が必要で、日本での展覧会が難しい画家でもあります。
 この春「クリムト展 ウィーンと日本1900」が実現しました。7月10日まで東京都美術館(台東区)で開催し、同23日からは愛知・豊田市美術館へ巡回します。集まった油彩画は日本で過去最多の25点以上。「黄金様式」の傑作「ユディト1」や、「女の三世代」は必見です。一般1600円など。




19世紀末ウィーン、新しい風 クリムトらの芸術 都内で3展覧会、切り口多彩
2019.4.30. 朝日
 19世紀末のウィーンでは、都市の発展に伴い、絵画や建築など分野の境を取り払った新たな芸術表現が生まれ、印刷技術の発達もあって市民に浸透した。この時代の芸術を様々な視点で切り取った展覧会が、東京都内の3カ所で開かれている。時代をリードしたグスタフ・クリムト(1862~1918)の油絵や素描は、3展で約100点集う。
 上野の東京都美術館でクリムト展が23日に開幕し、翌日には六本木の国立新美術館でウィーン・モダン展が始まった。前者はベルベデーレ宮オーストリア絵画館が所蔵するクリムトを軸に、後者はウィーン・ミュージアムの所蔵品などから、19世紀末のウィーンで開花した芸術の足跡をたどる。
 いずれも日本とオーストリアの友好150周年を記念したもので、名作が一気に見られる貴重な機会だ。
 刷新へ「分離派」結成
 19世紀に入ると、ウィーンは近代化の波に乗り、街を取り囲んでいた城壁が崩された。新しい美術館や劇場が生まれ、現在につながる街並みの基礎が築かれた。人口は220万人と世界有数の都市に発展した。
 美術界でも1897年、旧来の芸術体制からの刷新を求め「ウィーン分離派」が結成された。クリムトを中心に、時代に応える芸術が模索された。
 国立新美術館で展示されているクリムトの油彩画「エミーリエ・フレーゲの肖像」はパートナーであり、女性実業家だったエミーリエを抽象的な装飾で彩る。
 模索の中でクリムトは、代名詞となる「黄金様式」を確立。約34メートルの壁画「ベートーベン・フリーズ」はその代表作で、東京都美術館の展示で見られる原寸大の複製は圧巻だ。
 分離派のメンバーで建築家、デザイナーのヨーゼフ・ホフマン(1870~1956)らは、装飾的でモダンなデザインの家具や工芸品を制作。絵画だけでなく、建築、工芸など領域を超えた「総合芸術」の担い手となった。
 エゴン・シーレ(1890~1918)は、クリムトの寵愛(ちょうあい)を受けながら、自身の内面を深くえぐりだす独自の画風を築き、多くの「自画像」を残した。代表作が、国立新美術館に飾られている。
 市民の暮らしに浸透
 こうした新しい芸術は、印刷技術の向上や雑誌メディアの隆盛によって、市民にも浸透した。目黒区美術館の世紀末ウィーンのグラフィック展は、書籍やポスターなどに使われたグラフィック表現を紹介している。
 当時は、カラー印刷など産業技術の発展に見合ったデザインが求められるようになり、参考となる図案集が多く刊行された。新進気鋭のデザイナー、ベルトルト・レフラー(1874~1960)の編集による「ディ・フレッヒェ」などが発表された。
 同時に木版画の一大ブームもおとずれた。写真の発明で記録の役割を担ってきた版画の存在意義が揺るぎ、美術表現として制作する木版画の存在が再考されたからだ。本展を企画した京都国立近代美術館の池田祐子・学芸課長は「グラフィックや木版画を重視したのは、技術発展だけではなく、芸術家たちが総合芸術の民主化を目指し、そこから世界を変えていきたいという意識があったから」と話す。(森本未紀)
 クリムト展は7月10日まで。5月7、20、27日、6月3、17日、7月1日は休室。
 ウィーン・モダン展は8月5日まで。火曜休館(4月30日は開館)。
 世紀末ウィーンのグラフィック展は6月9日まで。月曜休館(5月6日は開館)。4月30日、5月7日も休館。


(美の履歴書:599)「女の三世代」 グスタフ・クリムト 命の移ろい、見つめた訳は
2019.5.7. 朝日
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 眠る幼児を抱く若い女性の裸体にはみずみずしい緑が足元から絡みつき、髪には小さな花が咲きほころぶ。背景の円形の装飾は、次々と分裂する細胞のようだ。
 2人の隣には、骨や血管が浮き出て、くすんだ肌をした老女。うなだれ、顔を覆い隠す。背後にある黒い空間は虚無的で、どこか死を思わせる。
 この世に生まれ、青春時代を過ごし、やがて老いて死を迎える――。人間の誰もがたどる運命を悲観的に捉えているようにも思えるが、日本や東洋の美術から影響を受けた装飾で全体的に華やかな印象を与える。
 クリムトは人生を通し、こうした人間の「生命」を主題に描いた。30歳になる歳に父と弟を亡くし、この作品ができる数年前にも3番目の息子を生後81日で亡くして、悲しみに暮れた。ベルベデーレ宮オーストリア絵画館のマークス・フェリンガー学芸員は「衝撃的な死がきっかけとなり、彼は生命というテーマと向き合った。作品は彼自身の人生を映し出している」と話す。
 老女のモデルも、「年老いていた母の姿だったのではないか」とフェリンガー学芸員は推測する。生涯のパートナーを持ち、モデルらとの間に何人も子どもがいたが、生涯独身。最後まで母や妹たちと暮らしていた。
 この作品は、完成してから他人の手元に渡るまで、何度も塗り直された。諸説あるが、酸化して黒ずんだ背景に薄暗いトーンを加えて銀の点で飾り、老女の足元は黒く、首の上は赤くしたようだ。作品も一つの生命のように、移ろいゆくものと捉えていたのかもしれない。(森本未紀)
     *
・名前 女の三世代
・生年 1905年
・体格 高さ171センチ×横171センチ
・素材 油彩、キャンバス
・生みの親 グスタフ・クリムト(1862~1918)
・親の経歴 ウィーンで生まれ、生涯を過ごした。1897年に保守的な組織を脱退し、若手芸術家たちと「ウィーン分離派」を結成。金箔(きんぱく)を使い、華やかな装飾で彩る「黄金様式」を確立する。上流階級の女性たちの肖像画を描くことを得意とした一方、印象派に影響を思わせる風景画も多く残した。55歳で死去。
・日本にいる兄弟姉妹 東京富士美術館、愛知県美術館、姫路市立美術館(兵庫県)などに。
・見どころ
 [1]3人の女性はそれぞれ髪の色が違い、家族ではないとの見方も。
 [2]使われた素材の成分分析はされていないが、銀色の点々はプラチナとみられている。
 「クリムト展 ウィーンと日本1900」は7月10日まで、東京・上野の東京都美術館(ハローダイヤル03・5777・8600)。5月7、20、27、6月3、17日、7月1日は休室。7月23日から愛知県の豊田市美術館に巡回する。クリムトの代名詞である金箔を使った油彩画「ユディト1」=写真=などが25点以上並び、クリムトと家族、ウィーン分離派、肖像画、生命の円環といったテーマで8章に分けて画業を紹介する。

(気になる一品)東京都美術館
2019.5.7. 朝日
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 東京都美術館で7月10日まで開催中の「クリムト展 ウィーンと日本 1900」。ショップには、「作品を持ち帰る」というコンセプトで制作したというグッズが並ぶ。展示品のクリムトの「赤いスケッチブック」(1898年)は、実物とほぼ同じサイズの縦15×横9.5センチで再現。ページをめくると、一見開きおきに代表作「ユディト1」や「ヌーダ・ベリタス(裸の真実)」などの素描が印刷されている。画家になった気分で使ってみては。80ページ、1296円。
 東京都台東区上野公園8の36。[前]9時半~[後]5時半([金]は8時まで。入館は30分前まで)。1600円。5月7、20、27日、6月3、17日、7月1日休み。電話03・5777・8600。

Wikipedia
グスタフ・クリムト(ドイツ語: Gustav Klimt, 1862714 - 191826)は、世紀末ウィーンを代表する帝政オーストリア画家
目次
生涯[編集]
グスタフ・クリムトは1862ウィーン郊外のバウムガルテン(ペンツィング)に生まれた。父エルンストはボヘミア出身の彫版師、母アンナは地元ウィーン出身であり、クリムトは7人兄弟の第2子であった。1876に博物館付属工芸学校に入学した。後に弟のエルンスト・クリムトドイツ語版)とゲオルク・クリムトドイツ語版)もこの学校に学び、それぞれ彫刻師彫金師となってクリムトの作品を飾る額の設計をおこなっている。工芸学校でクリムトは石膏像デッサンや古典作品の模写を中心とした古典主義的な教育を受けた。
1879にクリムトは弟エルンストおよび友人のフランツ・マッチュドイツ語版)と共に共同で美術やデザインの請負を始めた。ハンス・マカルトの影響を受け、1884にマカルトが死去すると、クリムトは彼の継承者と見なされた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/92/Gustav_Klimt_039.jpg/220px-Gustav_Klimt_039.jpg
ユディトI英語版)』1901
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/40/The_Kiss_-_Gustav_Klimt_-_Google_Cultural_Institute.jpg/220px-The_Kiss_-_Gustav_Klimt_-_Google_Cultural_Institute.jpg
接吻1908
卒業後に3人は芸術家商会 Künstlercompagnie を設立した。劇場装飾を中心とした仕事はすぐに軌道に乗り、フィウメブカレストなどへも派遣されるようになった。1886から1888まではウィーンのリングシュトラーセ(リンク大通り)沿いに建てられたブルク劇場の装飾を引き受けており、この功によって後に金功労十字賞を授与されている。ウィーン市からの依頼を受け1888に製作した『旧ブルク劇場の観客席』は観劇する当時のウィーン社交界の人々を正確に描き第一回皇帝賞をうけるなど高く評価された。同じくリングシュトラーセ沿いの美術史美術館でも装飾の仕事を行っている。ウィーン美術界における名声を確立したクリムトは、1891にクンストラーハウス(ウィーン美術家組合)に加入した。1893に早くもウィーン美術アカデミー教授への推薦をうけたが、結局任命されることはなかった。1892年には父と弟のエルンストが死去している。
装飾家として名声を得ていたクリムトは1894ウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼され、『哲学』、『医学[1]、『法学』の『学部の絵』3点を担当することになった。人間の知性の勝利を高らかに歌いあげるという依頼者が意図したテーマに反し、これら3作は理性の優越性を否定する寓意に満ちたもので、その是非をめぐり大論争を引き起こした。1896年に提出された構成下絵を見た大学関係者により行われた抗議は一旦は沈静化したものの、19001901に『哲学』および『医学』がそれぞれ公開されたことで論争が再燃し帝国議会において依頼主の文部大臣が攻撃される事態にまで発展した。あまりの論争の大きさにクリムトは契約の破棄を求め、事前に受け取った報酬を返却した。美術館および個人に売却された3枚の絵は後にナチスによって没収され、1945インメンドルフ城において、親衛隊が撤退する際の放火により、没収された他の作品と共に焼失している(白黒写真および『医学』の習作が現存)。
この間、1897に保守的なクンストラーハウス(美術家組合)を嫌った芸術家達によってウィーン分離派が結成された。分離派は古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループであり、クリムトが初代会長を務めている。分離派は展覧会、出版などを通してモダンデザインの成立に大きな役割を果たした。
クリムトは1902の第14回分離派展(ベートーヴェン展)に大作『ベートーヴェン・フリーズ』を出品したが反感を買う。この作品は長年行方不明となっていたが、1970にオーストリア政府により買い上げられて修復を受け、現在ではセセッション館(分離派会館)に展示されている。
1903の第18回分離派展ではクリムトの回顧展示が行われた。この展覧会ではじめて出品されたのが、当時のクリムトが置かれた状況を映し出す『人生は戦いなり(黄金の騎士)』(1903愛知県美術館蔵)である。
1903ヨーゼフ・ホフマンらによって設立されたウィーン工房にクリムトは強い関心を示していたが、この団体に対しては美術の商業化であるとの批判が分離派内部からもなされていた。写実派と様式派による対立、国からの補助金停止などが重なり、クリムトとその同士は1905に分離派を脱退し、翌年オーストリア芸術家連盟を結成した。
後にウィーン工房によるストックレー邸の壁画制作などを行い、上流階級の婦人たちの肖像画を多く手がけた。1910年代には作品も少なくなり、金箔などを用いる装飾的な作風から脱却していった。1918、ウィーンで脳梗塞肺炎スペインかぜの症状悪化により発病)により死去した。ウィーンのヒーツィンガー墓地に埋葬されている[1]
クリムトの家には、多い時には15人もの女性が寝泊りしたこともあったという。何人もの女性が裸婦モデルをつとめ、妊娠した女性もいた。生涯結婚はしなかったものの、多くのモデルと愛人関係にあり、非嫡出子の存在も多数判明している。著名な愛人はエミーリエ・フレーゲドイツ語版)であり、最期の言葉も「エミーリエを呼んでくれ」であった。エミーリエはクリムトの死後にクリムトと交わした手紙をほとんど処分し生涯独身を貫いている。
生誕から150年がたった2012930、晩年に創作活動を行ったアトリエが再現された[2]
作風[編集]
女性の裸体、妊婦、セックスなど、赤裸々で官能的なテーマを描くクリムトの作品は、甘美で妖艶なエロスと同時に、常に死の香りが感じられる(若い娘の遺体を描いた作品もある)。また、「ファム・ファタル」(宿命の女)というのも多用されたテーマである。『接吻』に代表される、いわゆる「黄金の時代」の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気を醸し出している。
クリムトは、同時代の多くの芸術家同様、日本や東アジアの文化の影響を強く受けている。日本文化への深い傾倒は、甲冑や能面などの美術工芸品を含むプライベートコレクションからも明らかで、1900年分離派会館で開かれたジャポニズム展は、分離派とジャポニズムの接近を象徴するイベントであった。特に浮世絵琳派の影響は、クリムトの諸作品の基調あるいは細部の随所に顕著に見て取れる。
クリムトはかなりの数の風景画も残している。殊にアッター湖付近の風景を好んで描いた。正四角形のカンバスを愛用し、平面的、装飾的でありながら静穏で、同時にどことなく不安感をもたらすものである。
代表作[編集]
『音楽』 - 1895ノイエ・ピナコテーク
『パラス・アテナ』 - 1898
『ベートーヴェン・フリーズ』 - 1901 - 1902セセッション館
『マルガレーテ・ストンボロー=ウィトゲンシュタインの肖像』 - 哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの姉 1905ノイエ・ピナコテーク
『生命の樹』 - 1905 - 1909ストックレー邸のフリーズ)
アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I - 1907、個人蔵。2006年、絵画として当時の最高値の156億円で売却。ノイエ・ギャラリーニューヨーク)に展示されている)
ダナエ - 1907 - 1908、個人蔵)
日本にあるクリムト作品[編集]
左を向いた少女 - 1880年頃、東京富士美術館 油彩・キャンバス 24.0x16.8cm
『森の奥』 - 1881-1882年、飛騨高山美術館)油彩・キャンバス 11.5x15.6cm
人生は戦いなり(黄金の騎士)(文化遺産オンライン)』 - 1903愛知県美術館)油彩 テンペラ 金箔・キャンバス 100.0x100.0cm トヨタ自動車の寄付金により約17.7億円で購入
オイゲニア・プリマフェージの肖像- 1913 - 1914豊田市美術館)油彩・キャンバス 140x85cm トヨタ自動車の寄付金により約18億円で購入
女の胸像 - 1897-1898年、姫路市立美術館 黒チョーク・紙 45.2x32.3cm
立つ女の半身像 - 1903年、姫路市立美術館) 黒チョーク・紙 45.3x32.2cm
『読書する婦人』 - 1908年、イセ文化財団)鉛筆・紙 54.3x36.5cm
『腰に手をあてる裸婦』 - 1916-1918年、イセ文化財団)鉛筆・紙 57.1x37.5cm
『若い女の横顔』 - (制作年不詳、豊田市美術館)鉛筆・紙 30.5x39cm
『無題』 - (制作年不詳、宮城県美術館佐藤忠良コレクション)) 鉛筆 色鉛筆・紙 55.2x35cm
1回オーストリア造形芸術家協会(ウィーン分離派)展』(文化遺産オンライン)』 - 1898年、宇都宮美術館 ポスター(リトグラフ) 64.0x50.0cm
『第1回ウィーン分離派展』 - 1898年、川崎市民ミュージアム ポスター(リトグラフ) 63.2x46.2cm
ギャラリー[編集]
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3c/Fakult%C3%A4tsbild_Jurisprudenz.jpg/106px-Fakult%C3%A4tsbild_Jurisprudenz.jpg
『法学』(1899 - 1907年)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/dd/Fakult%C3%A4tsbild_Medizin.jpg/104px-Fakult%C3%A4tsbild_Medizin.jpg
『医学』(1899 - 1907年)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/de/Philosophy-final-state-1907.jpg/109px-Philosophy-final-state-1907.jpg
『哲学』(1899 - 1907年)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/de/Beethovenfries2.jpg/300px-Beethovenfries2.jpg
『ベートーヴェンフリーズ』(1901 - 1902年)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c5/Beethovenfries.jpg/240px-Beethovenfries.jpg
『ベートーヴェンフリーズ』

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/42/Gustav_Klimt_067.jpg/64px-Gustav_Klimt_067.jpg
『水蛇I』(1904 - 1907年)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6a/Gustav_Klimt_055.jpg/79px-Gustav_Klimt_055.jpg
『マルガレーテ・ストンボロー=ウィトゲンシュタインの肖像』(1905年)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3c/Gustav_Klimt_052.jpg/138px-Gustav_Klimt_052.jpg
『フリッツア・リードラーの肖像』(1906年)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4d/Gustav_Klimt_024.jpg/169px-Gustav_Klimt_024.jpg
『バージン』(1906年)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/84/Gustav_Klimt_046.jpg/160px-Gustav_Klimt_046.jpg

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c8/Gustav_Klimt_010.jpg/165px-Gustav_Klimt_010.jpg
ダナエ』(1907 - 1908年)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0a/Gustav_Klimt_038.jpg/39px-Gustav_Klimt_038.jpg
ユディトIIオランダ語版)』(1909年)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/13/Gustav_Klimt_050.jpg/116px-Gustav_Klimt_050.jpg
『メーダ・プリマヴェージ』(1912年)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/18/Gustav_Klimt_-_Death_and_Life_-_Google_Art_Project.jpg/184px-Gustav_Klimt_-_Death_and_Life_-_Google_Art_Project.jpg
『死と生』(1915年)
脚注[編集]
^ Bitsori M., Galanakis E. "Doctors versus artists: Gustav Klimt's Medicine.BMJ. 2002 Dec 21;325(7378):1506-8. PMID 12493684 -イギリス医師会雑誌2002年年末特集号の表紙として『医学』が選ばれた際の解説。絵の全体画像あり
^ クリムトのアトリエを公開 ウィーン、観光の目玉に日本経済新聞. (2012101) 2012101日閲覧。


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