夏の坂道  村木嵐  2019.7.3.


2019.7.3. 夏の坂道

著者 村木嵐 1967年京都市生まれ。京大法卒。会社勤務を経て、95年より司馬遼太郎家の家事手伝い。同氏没後、夫人の福田みどりの個人秘書を19年務める。2010年『マルガリータ』で第17回松本清張賞受賞し作家デビュー

発行日           2019.3.5. 初版発行
発行所           潮出版社

月刊『潮』201610月号~1811月号に連載された作品の単行本化

あの日、「総長演説」が敗戦国日本を蘇らせた!
学問と信仰で戦争に対峙した戦後最初の東大総長・南原繁の生涯を描く歴史長編
南原は演台に手をつき、身を乗り出した。「われわれは・・・・新日本の建設と新日本文化の創造に向かって、堅き決心をもって邁進しようではないか」
明くる日、新聞はどれもいっせいに南原の演述を大きく取り上げた。ついにはGHQの手でアメリカにまで配られた

「時代を動かすリーダーの清々しい胆力」を備えた人物こそ南原繁である。本書はそんな南原の生涯を初めて描いた画期的な小説――樋野興夫、医師・順天堂大学教授

序章 楠
57年講演先の故郷香川県で心筋梗塞に倒れた南原を見舞ったのは沖中重雄医学部教授
アメリカの占領下にあって国家行事は自粛する雰囲気が強い中、終戦から半年後に南原が東大総長として正門に国旗を揚げ、戦前の軍国主義と国旗は別物だと堂々と宣言
どんな理念を掲げても、結局はその用い方による。だからそれを支える次世代の教育が肝要。そのため南原は渾身の力を込めて教育基本法を作り、教育勅語に代わる新しい教育の理念を立てた
9歳の時の『我が望』という自らの綴り方には、他国に渡って学を修め、教育の法を進歩させて国益を広めたいとある
楠は南原の母がずっと拝んでいた御神木で、江戸時代はこの姓で通した旧家だが、母の祖父が南原(みなみはら)に変えたところ、一高時代に皆から自然に「なんばら」と呼ばれ、自ら新たに家を興す積りでそのままになった

第1章        ニアレスト・デュティ
1907年一高の入学式での新渡戸稲造校長
の入学の辞 ⇒ 将来のことで悩む前に、まずはニアレスト・デュティ、つまり最も手近にある義務を果たせ、目の前の義務を果たせば、次になすべき義務が見えてくる。それを続けるうちに天職を知る。専門より教養を、物事の核心を掴むことを心掛けなければならない、それが後々の学問に繋がる
一高で三谷隆正と同級。森戸辰男、1年下に高木八尺らと出会う。後輩に田中耕太郎。群馬の沼田銀行の息子で医学部の星野鉄男とも出会い、後にその妹と結婚
帝大に進み、三谷の勧めで内村鑑三の聖書講読会にも参加
14年定大卒、高文に合格し、内務省警保局に配属決定(成績優秀)
三谷は岡山の六高に赴任

第2章        真善美を超えるもの
底辺を経験した上で政治をしたいとの考えから、自ら希望して富山県射水郡長として赴任
逆流して住民を悩ます庄川をコントロールする排水事業を起こし、今の倍の米の収穫量をあげると同時に泥水から発生する伝染病の撲滅を目論む
富山の県議会が南原の事業計画案を承認したところで、内相の床次竹二郎から警保局に戻され労働組合法の草案作成に携わるが、内務省の隣室では社会運動を取り締まる法案が練られ、実効性には疑問と思っていたら、平民宰相と言われた原自身が労働運動の類を毛嫌いしており、最初から施行する積りなどなく握りつぶされた
恩師の1人政治学で学部長だった小野塚喜平次教授の勧めで内務省を退官、21年に7年ぶりに東大に戻り政治学の助教授に就任。同僚には吉野作造、法学部には穂積八束の秘蔵っ子で師に負けず劣らずの保守主義者・上杉愼吉教授、行政法には美濃部達吉教授
内務省で労働法や社会問題に携わったのが、マルクス主義に関心を持つきっかけとなり、それを原理から究めるためにドイツへの留学を希望、マルクスを生んだ精神的な基盤を探るのが留学の目的となった
その年の冬イギリス経由で、翌年にはドイツ・ベルリン大学へと向かう
帰国が間近に迫ったときに関東大震災が勃発、小野塚から東大図書館のために焼失した本の代わりを買って来いと指示
1月も経たないうちにヨーロッパ中で日本人が本を買い付けていると評判になり、日本は思いがけず諸外国の尊敬を集める。東大には80万冊近い蔵書があったがその大半は焼失、東大への寄贈図書は20万冊を超え、図書館の建物もアメリカのロックフェラーの寄付で再建が決まる。民族間や国と国の間にどんな対立があるとしても、学問に敬意を抱くのは人類共通のこと
23年末パリに移動し、グルノーブル大学で研究を継続。翌年の帰国はアメリカ経由
3年間の留学を通じて、人として生まれたからには永遠の平和を実現するために働きたいと強く願うようになる
東大に戻った南原は政治学を担当、国際政治学序論を開講
治安維持法に反発
吉野作造が、民意による支配を説いて民本主義をかかげ、平和主義と国際主義を力説して学生からも民衆からも熱烈な支持を受けていたために当局に睨まれ、東大を辞めた後朝日新聞も退社、嫌な空気が漂い始めていた
25年教授に昇進。妻を結核で亡くし、母と妹が上京、同居して家の面倒を見る

第3章        洞窟の哲人
妹と同じ歳の博子と再婚、女子高等師範を首席で卒業、女学校の教師をしていた
内村が亡くなり、東大にも思想問題から治安維持法の目的遂行罪で教授が検挙されるという事件が発生
総長に就任した小野塚は、学生たちの学外での妄動はほとんど問題にせず、改悛すれば復学もさせ、自らが総長である限り学内は左傾化させないといって当局の干渉を拒絶
南原は価値並行論を発表 ⇒ 本源的な価値として認識されてきた真善美に、社会共同体から導き出される価値として正義を加えるべきと説く
思索に携わる学者たちが洞窟に籠っている自由が奪われようとしていた
間もなく浜口首相狙撃。統帥権干犯問題に不平のあった右翼の仕業
京大滝川事件では、鳩山文相が権力濫用で、教授の罷免を要求、総長は拒否したが、文相は強権発動し教授を休職処分に ⇒ 東大でも学生が立ち上がったが、学内の秩序を守ると約束していたため、警官の出動を要請し、多勢の学生が検挙された
南原が一生を費やしているフィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』を文部省が教育界に配布、ドイツがナポレオンに蹂躙された際、フィヒテが民衆を鼓舞するために演述したものだが、文部省はそれを偏った国粋主義に矮小化し、日本の教育現場で愛国心を高める道具として活用できるようにした
軍部が出したきたるべき戦争に備えて国防中心の国作りをせよと説く『国防の本義と其の強化の提唱』を、退官した美濃部が痛烈に批判したため、貴族院で美濃部の天皇機関説が槍玉に挙げられ、美濃部を「学匪」と呼びその著書を反逆的思想だと罵り、遂には著書が不敬罪で告発され発禁に。美濃部は不敬罪では起訴猶予にはなったが貴族院議員を辞職
南原の世界観を支えているのは、常にプラトンでありキリスト教
矢内原が、現下の戦争に反対し、戦争が正義ではないと断言、日本のことを隠喩的に、虚偽が喧伝され、言論が抑圧される国家とも書いたため、時局柄教授の言葉として不穏当だと教授会で指摘され、一切の弁明もせずに東大を去る。ほどなく大内のグループも検挙
国家総動員法が可決され、荒木貞夫文相がもともと勅任官の教授を教授会が決めるのは天皇大権の干犯だと言い出したため、ジャーナリズムには関わらず、大学行政からも一線を画していた南原だったが、帝国大学新聞に『大学の自治』と題した一文を寄稿、教授を選挙で推薦するのは文教における立憲主義だと反論したため、翌日から右翼に名指しで叩かれるようになった

第4章        運命共同体
41年『ナチス世界観と宗教の問題』の連載開始 ⇒ 国家は正義として永久平和を目指さなければならないとして、それに反するナチズムや天皇制ファシズムを批判。翌年『国家と宗教』と題して発刊
民族は運命共同体で、民族の犯した過ちはその民族が皆で償わなければならない。そう考える以上、ファシズム側に立つ国であっても、それに背けと教えることはできないし、民族全体がよしとするなら南原はその罪を共有するしかなく、動員され学生に、自らの良心に従って行動せよとは言うことはできない
終戦間近、小野塚に説得されて終戦工作に奔走。452月に天皇から木戸に下問があり、木戸は重臣たちから天皇に上奏することを考え、近衛が敗戦は避けられないが、憂慮すべきは敗戦ではなく、共産主義革命で国体が覆されることで、そうなる前に戦争を止めるべきと書いたことがきっかけとなって、南原は具体的な終戦工作を始める ⇒ 南原が法学部長となって、学部全体で動く。高木、田中を中心に7人のメンバーがそれぞれに情報を収集し、政府要人との折衝に当たる
海軍は米内、陸軍は宇垣に働きかけることとし、田中と坂道を話しながら歩き、この夏は暑くなりそうだと思った
連合国側に国体護持だけを認めさせれば後は無条件、敗戦後の混乱を収拾するには天皇制で繋ぐのが堅実、和平提案はドイツの降伏と同時
工作は進展ないまま、東大も帝都防衛の司令部を置くために軍部から接収の依頼が来るが、学部長会議で拒絶。安田講堂で玉音放送を聞いた後の学部長会議では、学生には冷静に勉学に努めるよう話すことになり、復員してくる学生に対し、授業は平常通り行い、軍事研究は中止が決まる
91日発行の帝大新聞に、『戦後における大学の使命(副題: 復員学徒に告ぐ)』と題して、「学生の何が生死を分けたのか、人間にはわからない。だが死んでしまった彼らがその最期の時まで誇りを持ち、学び続け、戦争が終われば国を再起させるつもりだったことは疑いない。彼らは1人残らず、国を興すものが真理と正義であることを確信して旅だったはずだ。だからいま生きている者たちは国を再び興す責任がある」と説いた
日本の未曽有の戦争が終わり、遂に真理への闘いが始まった

第5章        最後の勝利者
いきなりGHQが東大接収に動き出し、日本の軍部でさえ手が出せなかったといってやめさせる
学内では、戦時中の責任を問う波が日ごとに高くなり、真っ先に矛先が向けられたのは工学部出身の内田総長
10月法学部主催の帰還学生歓迎会で、南原は『新日本の建設』と題して、「これから学生たちの真の戦いが始まるのだと述べ、それは自分自身との戦いであり、自己を高めるために理性と良心で困難に立ち向かわなければならないということだ。その一方で、正しい意味での民族的なものは忘れてはならない。これは戦争下の日本やナチスが陥ったのとは全く異なる民族主義だ。これから遂に学問も思想も自由な時代が来る。だがそれならなおさら自由を手にしただけの責任と規律は各々が自覚的に果たさねばならない」とし、廃墟の中から日本を立ち上がらせることが自分の責任だと思っていた
東大でも自発的に講座の改廃に着手、GHQからも戦時中に圧迫されていた自由主義の教授たちの復職の指令が出され、南原は真っ先に矢内原に復職を願いに行く
内田総長の引責辞職に伴う年末の総長選挙で南原が総長に選出
総長としての最初の仕事は、学内のインフラ整備
大学は本来、紀元節のような国家式典とは無関係で、東大でもずっと祝賀行事はしてこなかったが、軍部の指導を受けて、天長節や紀元節は祝賀行事を組むようになっていた。国全体が式典を自粛する雰囲気だったが、南原はこれから日本民族が世界市民として立っていくのに、日本の伝統や民族の持つ神話の類まで否定していいのか、こんな時だからこそ日本国民の個性は失ってはならない。まず人としての信頼や尊敬を得るところから始めなければならず、それには戦前の民族主義を思って卑屈になるのではなく、真のナショナリズムを支えに立ち上がるべき。今の日本は何より精神の荒廃を防がなければならない、として、紀元節にはどうするかを決めていた ⇒ 正門に国旗を掲げ、式典では復員した学生を前に、「われわれには熾烈な民族意識はあったが、1個独立の人間であるという意識は確立されていただろうか。今ここから、何をもって祖国を復興させることができるのか。それを過去の歴史から探せないとすれば、将来において創り出さねばならない。個性のない民族は世界にとって存在する意味がない。人も民族も個性を捨ててはならない。歴史の中で培ってきた善きもの美しきものはどこまでも護り、発展させようではないか。日本民族は過ちを犯したが、この国に生まれてきたことを喜び、この民族を愛そうではないか。そのために我々は自らを鞭打ち、その名誉を世界に回復するのである。各自がその全人格を集中して真面目に思惟せられよ。余人はどうあろうとも、あたかも自分がその責任を有するかの如く決意せられよ。我々は新日本の建設と新日本文化の創造に向かって、堅き決心をもって邁進しようではないか」と、総長として初めて演述。翌日の新聞に大きく取り上げられ、GHQの手でアメリカまで配られた
同じとき、南原は東大に憲法研究委員会を立ち上げ
46年春の安田講堂での学徒慰霊祭でも、南原は、「国家の意志と命令に忠実に従った英霊の遺志を継ぎ、全学一致団結して国民の中核となって祖国を断じて滅亡させない」と決意を述べる
初めての天長節でも正門に国旗を掲げ演述。「新憲法が制定されるとき天皇大権は消滅するが、日本国民統合の象徴として天皇制は維持されなければならず、天皇制は悠久の歴史を通して民族の統合を支えてきた、日本という民族共同体の体質そのもの。天皇は現実の国家秩序の最高の位置にあられるばかりでなく、国民という共同体の、高き理想でなければならない。天皇は率先して、国民の規範であり理想であるべき道徳の、至上の責任を帯びさせられるだろう
首相となった吉田は、中国勤務が長く、中国における権益を絶対とする帝国主義者だったが、日米開戦を避けようとして和平工作に関わり、日独防共協定に反対して軍部の不評を買った。近衛上奏文の起草を手伝い投獄された。彼の許で新憲法案の審議が開始される
東大の憲法研究委員会は我妻法学部長を中心に結論をまとめる ⇒ 南原の考えでは、「憲法は至高の法として国の形を世界に示すものゆえ、民族の中から湧いて出たものでなければならない。日本が自らの手で歴史の継続を保ちつつ定めるもので、たとえ内容が民主的で理想に近いものでも、上から与えられた憲法なら、必ず改正の声が上がる」
南原や我妻、高木らは、パージされた勅撰議員に代わって貴族院議員に勅選されていた
南原の関心は、憲法改正の手続き的な問題(改正過程における自主性)と、戦争放棄(最小限度の防衛力は必要不可欠)
極東裁判において天皇の戦争責任不問が明言された翌々日、政府の憲法草案が帝国議会に上程され、貴族院では南原が質問に立つ
質問の第1は、改正の過程について。政府独自の案とする覚悟を糺すが曖昧な答えしか返ってこない。第2は主権と国体で、国体の護持を放棄したのかと糺すと、国体は不変との答弁で、天皇が国民統合の象徴と基礎づけられる以上、新しい国体として発展したとすべき。第3は新憲法下で行われる教育の原理で、田中耕太郎文相から天皇制を維持した上で国の秩序が保たれていることを前提に検討すると回答を引き出し満足。第4が戦争放棄で、国際秩序を破った犯罪に制裁を課す設備を持つことは必要であり、自衛権まで放棄するのは将来国連に加盟する道まで閉ざさないかということになる
46113日には安田講堂でも記念式典が催され南原が演述。「新憲法は我々の代表者が国会で自由に討議し、自らの意思で採択したもの。ひとたび国家の大法として決定した上は、我々はこれを最善と考えるべき」「武力の戦いは永久に去り、これからは主義と理想と性格の戦い。この新たな平和の戦いに於いて光栄ある勝利を獲得し、祖国再建の偉業を成就させようではないか」
教育制度は教育理念を議論する教育刷新委員会が発足、文相の安倍能成が委員長に、南原が副委員長に選出、教育基本法を建議
天皇を戦争責任から解放するために、皇室典範を改正して退位を認めるよう提案したが、実現しないまま改正皇室典範が国会による法律として公布
普通選挙が実施され、憲法施行後初の国会が開かれ、GHQから憲法について変更する部分はないかと確認があった際、両院とも改める箇所はないと返答した以上、よそから押し付けられたものではないという新憲法の成立過程にまつわる瑕疵は消えたとすべきであり、日本は新憲法を自主憲法として認めたことになる
教育勅語の失効確認案が発議され、勅語とその精神を援用していた諸学校令は廃止、師範学校も全廃
平和は政治上の最高善。故に新しい世界秩序を考え出し、それを哲学に基礎づけることはまさに政治学の課題。現実の政治を理想に近づける努力をするのが、政治哲学者である南原の務めであり、世界平和へ至る道を示してこその学問
戦後の経済的混乱の最中、若者が空前の就職難に見舞われ、学生にはアルバイト先もなかった中で、授業料値上げが決まり、学生自治会の値上げ反対運動を機に、学生闘争が一気に全国化。学生は単独講和反対、レッド・パージ反対を叫んでデモを繰り返したが、南原は学生自らが学問の府の秩序を破壊すれば大学はその使命を果たすことができなくなるとして、学内でのストなどの反対闘争を許さなかった
49年全米教育会議で講演 ⇒ 日本は国土の再建と新しい精神の確立を賭け、憲法と教育基本法を持つに至ったが、アメリカの教育使節団の助言と力添えに感謝。日本の教育改革こそ、敗戦がもたらしたし最大の福祉であり、ここに日本の将来の希望と光明もあるとし、あわせて世界に向けて日本民族の決意を述べる
続く翌3月の東大卒業式でも南原は全面講和を演述、日本民族は二度と戦争はしないと決意した以上、片方の陣営に与する単独講和はあり得ない。単独講和に軍事同盟や基地といった条件まで加えるなら、もはや中立を放棄したことになる
これに対し、吉田首相は、「全面講和は空論、(あわせて、マッカーサーが日本を極東のスイスとして中立たるべきと述べていたことへの牽制もあって)永世中立は意味なし」と発言、「南原は国際情勢を知らぬ曲学阿世の徒であり、全面講和は学者の空論」と切って捨てた
かつて貴族院でただ1人自衛の戦力を持たない憲法9条に反対した南原が、9条堅持と言って全面講和を訴えるのは支離滅裂であり、世論に迎合して変節したというが、南原はそもそも貴族院で反対した時から、9条に象徴される憲法の理念は人類のあるべき姿と考え、国連憲章には「共同の利益の葉愛を除くほかは武力を用いない」とあるので、それを信頼して憲法の理念を現実に適応させていくことが日本民族に課せられた新たな使命だとし、そのことからすれば単独講和が日本自らその理念を放棄することに繋がるのは明白
曲学阿世といって学者の言論を封殺する姿勢こそ美濃部の天皇機関説を学匪と呼んで非難したことに通じる危うさがあったが、南原の反論を再批判することはなかった
すぐに朝鮮戦争が勃発、激しい現実の前に、全面講和と非武装中立の可能性は吹き飛ばされ、翌月にはマッカーサーが警察予備隊の創設を司令
吉田のレッド・パージ方針に学生が反発、東大でもストを主導した学生が退学処分となり、南原は真に自由を愛し真理を求めるなら、あらゆる暴力からは背を向けなければならない、大学の秩序を壊してまで叫ぶ民主主義は偽りのものとし、その現実の中で永遠平和を追求する道を模索し続ける
51年末の退官を控えた最後の卒業式で、全面講和へ至るため、交戦国の一方として戦争終了の意思表明をする終結宣言こそが唯一残された道だと説くが、吉田は48の旧連合国とのみ講和条約を締結。併せて日米安保条約にも調印、その前文にはアメリカが日本の自衛のための軍備漸増を期待するとあり、日本は明確に西側諸国の1つとして国連加盟を目指して再軍備を推し進めることになった
憲法にいくら書いても、政治家の思惑でどうとでも解釈できることに眉を曇らせた
51.12.14. 25番教室での最終講義には3000人近い学生が集まり別れを惜しんだ
57年岸内閣の誕生で、改憲の動きが一気に加速、それを止めるために精力的に各地を講演して歩いた最後に心筋梗塞になった
60年新安保条約が自然成立 ⇒ 日本の民主主義とモラルにとって、なんという汚点かと思う
67年教科書裁判で原告側証人として、戦後の教育改革について証言 ⇒ 家永は他学部ながら南原の教え子。南原の教育基本法は施行から8年で、教育委員の公選制から自治体の長による任命制へと覆され、中央官僚による思想、学問の統制に繋がっている。最近の教育統制には、時の政治が教育を支配しようと画策し、教育的配慮という美名をかざして思想や学説を検閲しようとしている。検定という言葉が隠し持つ恐ろしさをはっきり指摘しておかなければならない
いつか為政者が憲法9条を変えようとするとき真っ先に改正されるのは教育基本法。そして教育基本法をいじるとき、政治は憲法9条のことなどおくびにも出さないはず
日本は国連憲章に信頼して憲法を定めた。その憲法の精神は誰も書き換えることはできない。なぜならそれは真理であり、それを否定するのは歴史の流れに逆らうことだからだ。世界に先駆けて平和の理念を憲法として宣言した、そのことですでに世界で一番なのだ。あとはこの憲法を石にかじりついても守り通す。それがあの戦争で失われた多くの命に対する、日本民族の日本民族に対する償い
73年末自宅が火事で、蔵書をほぼすべて失う
745月女子学院講堂にて葬儀 ⇒ 南原先生がいなければ戦後の日本はどうなっていただろう。先生は見事に、日本民族の償いを果たして余りある一生を送られた。まさに、真理を見据えてまっすぐに歩かれた生涯だった(高木八尺のはなむけの言葉)





(書評)『夏の坂道』 村木嵐〈著〉
2019540500
 南原繁の青春と戦後改革への道
 学者を主人公にした小説を書くのは難しい。その精神のうちにどれほど大きな浮沈があるとしても、多くの学者の生涯は、千年一日のごとく淡々としたものに過ぎないからだ。ドラマチックな出来事など、例外中の例外である。
 ところが、本書は政治学者の南原繁を主人公とする小説である。正直いって、文学作品にはなじみにくそうにも見える。カントやフィヒテの研究者であり、敗戦直後にあって東大総長に就任、戦後日本の教育改革にも影響を及ぼした重要な知識人とはいえ、政治哲学研究者と言われた瞬間に、多くの人は縁遠いものを感じてしまうかもしれない。
 評者もそのような先入観とともに本書を読み始めた。が、驚いたことに、本書の前半は青春小説の趣がある。信仰を持った生真面目な学徒とその友情、妻との出会い、内務省の公務員としての地方生活。大正デモクラシーから昭和の戦争への時代を背景に、控えめで清潔感あふれるトーンで、青春劇が描かれる。
 後半は一気に雰囲気が変わる。戦争に向かうなか、大学もまた時代の嵐に襲われる。当たり前の学問活動を非愛国的と糾弾され、一人また一人と研究者が大学を追われていく。南原らはなんとかそれを食い止めようと努力するが、試みは失敗に終わる。終戦に向けての懸命の行動も実ることはなかった。
 理想主義者の南原は、だからこそ現実において理想が真に実現しがたいことを知る。しかし、だからこそ肝心なのは、現実の国家を神聖視することなく、かといって、それが誤ったときにも見捨てるのではなく、その再生のために努めることである。徒労感に陥りつつ、家族の支えで歩み続ける南原を描くドラマが感動的である。
 出てくる人物がみな生き生きしている。とくに南原の恩師小野塚喜平次がユーモラスに描かれていて秀逸であることを、最後に付言しておきたい。
 評・宇野重規(東京大学教授・政治思想史)
     *
 『夏の坂道』 村木嵐〈著〉 潮出版社 2052円
     *
 むらき・らん 67年生まれ。会社勤務などを経て作家に。『マルガリータ』で松本清張賞。著書に『やまと錦』など。


Wikipedia
南原 繁(なんばら しげる、1889明治22年〉95 - 1974昭和49年〉519)は、日本政治学者東京大学名誉教授東京帝国大学総長を務めた。
略年譜[編集]
1889明治22年)
95 - 香川県大内郡南野村(現在の東かがわ市南野)に婿養子の父・三好貞吉、母・南原きくの次男として生まれる。南原家は母・きくの何代か前の甚左衛門が同村南野小井楠家から分家、屋号岸野屋と称し製糖業を営む。祖父・松蔵は組頭役を務めたが、母・きくの幼時にいたり家運傾き和裁の師匠をして生計を立てる。明治の初めまでを楠と称したが本家とともに南原(訓はみなみはら。のち、なんばらとなる)と改め、婿養子を迎えた。しかし、繁の幼少時に最初の婿養子であった実父が出奔、母は2歳の繁を戸主として届け出る。
1895(明治28年)- 広瀬藤太郎、養父としてきくと結婚。
1901(明治34年)4 - 香川県大川郡教員養成所に入所。
1907(明治40年)3 - 香川県立大川中学(現・香川県立三本松高等学校)卒業。
1910(明治43年)6第一高等学校卒業。7東京帝国大学法学部政治学科に入学する。入学後、内村鑑三 英語版)の弟子となり、生涯を通じて無教会主義キリスト教の熱心な信者であった。一高に入学したときの校長は新渡戸稲造英語版)であり、影響を受けた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d5/Murasame_kai.jpg/220px-Murasame_kai.jpg
白雨会送別会(1917)、前列中央は内村鑑三、南原は前列左
1914大正3年)7 - 東京帝国大学法学部政治学科卒業後内務省入省。
1917(大正6年)3富山県射水郡郡長に任ぜられる。
1919(大正8年)1内務省警保局事務官に任じられる。労働組合法の草案作成などを手がける。
1921(大正10年)5 - 内務省を辞め、東京帝国大学法学部助教授に就任。内務省時代、アテネ・フランセフランス語を学んでいた。ヨーロッパ留学を経て、小野塚喜平次の後任として、政治学史を担当。
1925(大正14年)8教授となり、政治学史を担当。西欧の政治哲学とキリスト教をバックボーンに共同体論を深め、その研究は、1942(昭和17年)『国家と宗教――ヨーロッパ精神史の研究』(岩波書店、1942年)、『フィヒテの政治哲学』(1959年、岩波書店)に結実する。福田歓一(政治学史)、丸山眞男(日本政治思想史)は彼の教え子である。
1945昭和20年)3東京帝国大学法学部長に就任。高木八尺田中耕太郎末延三次我妻栄岡義武鈴木竹雄とともに終戦工作に携わるが失敗に終わり、敗戦を迎える。
12 - 東京帝国大学総長に就任。
1946(昭和21年)211 - 紀元節には日の丸をかかげ、日本精神そのものの革命を通じての「新日本文化の創造」を説く。日本に宗教改革が必要であり、真の覚醒は神の発見とその神に従うことで可能となるため、日本的神学とは別の宗教が必要と述べた[1]
3貴族院議員に勅撰(19475月)。単独講和を主張した当時の内閣総理大臣吉田茂に対し全面講和論を掲げ、論争となった(単独講和と全面講和論)。このことで、南原は吉田茂から「曲学阿世の徒」と名指しで批判された。
827 - 貴族院本会議において、新憲法案の戦争放棄条項について、「歴史の現実を直視して、少くとも国家としての自衛権と、それに必要なる最小限度の兵備を考へると云ふことは、是は当然のこと」とした上で、将来日本が国際連合へ加入する場合、国連憲章で認められた自衛権と国連軍への兵力提供義務の双方を放棄するつもりなのか、また講和会議においても最小限度の防衛をも放棄するのか、吉田首相に質問した。そして、「若しそれならば既に国家としての自由と独立を自ら放棄したものと選ぶ所はない」と主張した[2]
1216 - 貴族院本会議において、象徴天皇制への移行へ伴う皇室典範改正にともない、「天皇の自発的退位」の規定を設けることを主張[3]。これは南原が昭和天皇の退位を望んでいたためだが、反対多数で否決された。
1950(昭和25年)3 - 退官。その後学士会理事長、日本学士院院長などを歴任。アララギ派歌人としても知られ、歌集『形相』がある。
1967(昭和42年)
1 - 宮中歌会始召人を務める[4]
1974(昭和49年)
519 - 死去。
著作[編集]
1954年『国家と宗教 ヨーロッパ精神史の研究』(岩波書店1942年/改訂版・岩波文庫、20149月)
『學問・教養・信仰』(近藤書店1946年) 
『歌集 形相』(創元社、1948年/岩波文庫19847月、解説氷上英廣) ISBN 4003316711、復刻版 (図書月販、1968年/ほるぷ出版、1975年)
『日本とアメリカ』(朝日新聞社1950年)
『人間と政治』(岩波新書1953年)
『フィヒテの政治哲学』(岩波書店、1959年)
『自由と国家の理念政治哲学論文集』(青林書院1959年、新版1965年)
『政治理論史』(東京大学出版会1962年/新装版2007年) ISBN 4130301454
『現代の政治と思想 新しい歴史の転機に立って』(東京大学出版会、1963年)
『日本の理想』(岩波書店、1964年)
『文化と国家』 (東京大学出版会、〈上・下〉 1968年/新装版〈全1冊〉 2007年) ISBN 4130010050
『歴史をつくるもの』(東京大学出版会、1969年)
『南原繁書簡集 付・南原繁宛書簡』(岩波書店、1987年) ISBN 4000015354
『政治哲学序説』(岩波書店、1988年、復刊1993年) ISBN 4000011855-著作集「第5巻」
『聞き書 南原繁回顧録』 (丸山真男・福田歓一編、東京大学出版会、1989年) ISBN 413033039X
『日本平和論大系13 南原繁』 (家永三郎責任編集、日本図書センター1994年) ISBN 4820571540 
『人間の記録70 南原繁 ふるさと』 (日本図書センター、1998年) ISBN 4820543156
『南原繁対話 民族と教育』 (東京大学出版会、2001年) ISBN 4130030043
『わが歩みし道 南原繁 ふるさとに語る』(同刊行委員会編、東京大学出版会、2004年) ISBN 4130330497 
著作集[編集]
『南原繁著作集 (全10巻)』 (丸山真男・福田歓一編、岩波書店、1972-73年、復刊1984年、2006年)
『国家と宗教』
『フィヒテの政治哲学』
『自由と国家の理念』
『政治理論史』
『政治哲学序説』
『学問・教養・信仰、歌集形相』
『文化と国家』
『現代の政治と思想-新しい歴史の転機に立って、小野塚喜平次-総長時代と晩年』
『日本の理想』
『歴史をつくるもの』
栄典[編集]
1964年(昭和39年)11月:勲一等瑞宝章
1974年(昭和49年)4月:勲一等旭日大綬章
脚注[編集]
1.    ^ 山村明義 2014, p. 120.
2.    ^ 90回帝国議会貴族院議事速記録第24号(官報号外, 昭和21828日)。
3.    ^ 91回帝国議会貴族院議事速記録第6号(官報号外, 昭和211217日)。
4.    ^ 昭和42年歌会始お題「魚」 - 宮内庁


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