モノから学ぶナチ・ドイツ事典  Roger Moorhouse  2019.7.22.


2019.7.22. 図説 モノから学ぶナチ・ドイツ事典
The Third Reich in 100 Objects

著者 Roger Moorhouse 1968年英国生まれ。ロンドン大ほかで学ぶ。中欧史と現代ドイツ史、とりわけナチ党と第三帝国を専門とする歴史家。著書多く、翻訳に『ヒトラー暗殺』『戦時下のベルリン――空襲と窮乏の生活193945

序文 Richard Overy 1947年英国生まれ。著名な歴史家。第2次大戦及びナチ・ドイツ研究の権威。著書多数。『ヒトラーと第三帝国――地図で読む世界の歴史』

訳者 千葉喜久枝 1969年生東京生まれ。都立大卒。京大大学院人間・環境学研究科博士課程中退。訳書に『死の帝国』『航海の歴史』『医療の歴史』」

発行日           2019.5.20. 第1版第1刷 発行
発行所           創元社

イメージは、ヒトラーとナチ党にとって極めて重要
視覚イメージの活用は、30年代初頭にヒトラーたちが選挙で勝利を収めた要因の1
映像表現そのものが参加と帰属を促す
ナチ政権はより一層邪悪な象徴を生み出した
都合よく利用されたシンボルの中には最終的に死を運命づけられたものもあった ⇒ 中世のヨーロッパでユダヤ教徒を区別するために用いられた黄色い星が、41年秋には国内のユダヤ人全員に服につけるよう強制され、人種排斥の政策のために採用された
選ばれたものは、ヒトラーの来歴、権力掌握とその後のナチス政権について、様々な側面を語る ⇒ 第3帝国期の複雑な歴史を理解するための手がかりであり、歴史をしっかりと具体的に捉えるイメージをもたらす
3帝国は平凡であったし、特別でもあった。日常であったし、不吉な事件でもあった。100の品はそうした対照と、指導者たちと服従者たちが体験した事柄を感じさせてくれる

1.    ヒトラーの絵の具箱
芸術的野心を物語る証拠
『わが闘争』によれば、12歳の時芸術家になることを決意し、05年退学して2年後には国立芸術アカデミー美術学校受験のためウィーンに旅立つ。自信はあったが、受験に2年続けて失敗、この挫折が終生ヒトラーを苛む
その後数年間は、絵や絵葉書を売りながら芸術家として生計を立てていた。14年の大戦勃発の際は、西部戦線でスケッチしたり、水彩で描いたりしていたのが残されている
スケッチのなかには、後にベルリンを改造するゲルマニア計画でよみがえった建築スケッチがある(#26参照)
ヒトラーの趣味が第3帝国の芸術的傾向と文化様式を左右。古典様式を第3帝国「公認」の芸術と定め、伝統的な芸術家を保護する一方、バウハウスのデザイナーなど、ワイマール共和国時代に活躍していた前衛的な芸術家たちは亡命
ヒトラー自身の絵は隠蔽され、公表されたものは数点しかなく、37年には展示が禁止された。20世紀後半にはオークションで高値が付く
アカデミー不合格の挫折がヒトラーの人生の分岐点となり、ドイツが悲劇的な結末を迎える一因となった可能性はある

2.    ヒトラーのドイツ労働者党党員証
19年初ミュンヘンの鉄道労働者ドレクスラーが、ナショナリズムを労働者階級の要求と組み合わせようとしてドイツ労働者党を結成、当時陸軍に所属していたヒトラーは軍の命令で9月にミュンヘンのビアホールで開かれた集会を監視するために派遣されたが、いつの間にか集会に参加して発言したのがドレクスラーに認められ、党員番号555だったが、番号は501から始まっているので55番目の党員ということ
党の大躍進については、後にナチが作り上げた神話もあって、詳細は不詳
5か月後にはヒトラー自ら政策綱領を発表、反ユダヤ主義と反マルクス主義、反資本主義的見解が奇妙に入り混じった25項目の綱領からなり、ドイツ労働者党に欠けていた方向性を与えるとともに、党名を国民社会主義ドイツ労働者党NSDAPに変更、ナチ党が誕生

3.    血染めの党旗
ナチズムを政治宗教として理解するとすれば、血染めの党旗は神聖な遺物の1
ミュンヘンの第5突撃隊、別名ヒトラーの「褐色シャツ隊」に所属する旗だったが、23年の失敗に終わったミュンヘン一揆の際、バイエルン州警察がナチのデモ隊に向け発砲し死去した3名の党員の血が染み込んだ ⇒ 24年釈放されたヒトラーの手に旗は戻され、すぐにナチの儀式の中心を飾る目玉的存在に
最後に目撃されたのは4410月のベルリン。その後の行方は不明

4.    ハイパーインフレ紙幣
アルブレヒト・デューラーの線描画の入った100兆マルク紙幣 ⇒ 史上最高額紙幣
148月には1ドル=4マルク ⇒ 20年春には83マルク以上、222200マルク以上
23年夏賠償金不払いの罰として、フランスとベルギーがルールを占領、ドイツ政府は労働者にサボタージュを呼び掛け、急激な経済破綻の引き金となり、7月には10万マルクを超え、12月の67千億マルクがピーク
翌年はじめシャハトが中銀総裁に就任、12桁切り下げた「レンテンマルク」導入により鎮静化、経済が安定化に向かう
この紙幣は、23年の経済危機も、経済と政治の現状への人々の信頼をさらに失わせることになった主な要因だと教えてくれる

5.    ヒトラーの口ひげブラシ
1次大戦中は、「皇帝風」の髭を自慢していた
ちょび髭は、20年代に流行し、チャップリンによって有名になった
大きい鼻をカムフラージュするため
政治的忠誠を示す行為の一環として、「ヒトラーひげ」がナチ党内に広まった

6.    『突撃者』第1
『突撃者』は、第3帝国内でナチの反ユダヤ主義的プロパガンダを執拗に喧伝した悪名高いタブロイド判週刊新聞。ナチ党の初期の主要メンバーのシュトライヒャーによってニュルンベルクで発行。最盛期には50万部を突破
シュトライヒャーは、党内でも必ずしも良識ある人物ではないとみられていたが、ヒトラーの擁護ゆえにナチ党大管区指導者の地位にまで上ったが、40年金銭的スキャンダルで解任。終戦後ニュルンベルクで人道に対する罪で死刑宣告、絞首台へ向かうときなおもユダヤ人のことを罵っていたという

7.    『わが闘争』
ミュンヘン一揆の罪で5年の「城塞禁固」の刑に服していた24年に書き始め、1巻は翌年、2巻は26年末に発刊されたが、不評どころか嘲りの対称ともなった
執筆の動機については諸説ある
文章は冗長で仰々しくもったいぶって、知性の危うさも反映
存命中に1245万部売れた
同書の権利が移されたバイエルン州がドイツでの出版を禁じているにもかかわらず、2016年に本の版権が切れることが、注釈付きの新版が出版されるきっかけとなった ⇒ ヒトラーの言葉に惑わされないよう詳細な学術的注釈が収まられ、原書の700頁は2000頁まで膨れ上がった
新版の編集者は、同書がドイツでベストセラーとなり衝撃を受ける。その結果ヒトラーとその忌まわしいイデオロギーが現代でも反響を呼び起こしたことについて、今一度自己分析と不断の努力を重ねることをドイツのメディアに促すきっかけとなった
ナチス政権への忠誠を示す強大なシンボルであり、第3帝国の間はもとより現代ですら、本の所有者が読んだかどうかは疑わしく、恐らく歴史上もっとも語られているが、もっとも読まれていない本だろう

8.    ヒトラー式敬礼
敬礼は古代ローマに起源をもつと広く信じられているが、同時代の証拠はない
1920年代初期ムッソリーニのファシスト党が敬礼を採用したことで注目され、ナチスもその習慣を借用

9.    《ホルスト・ヴェッセルの歌》原譜
29年ベルリン大法学部生のヴェッセルが古い民謡の旋律をつぎはぎして行進曲を書く
SA隊員になった30年、襲撃者により顔を撃たれ、生死の境をさまよった後死去したことで、ゲッペルスがナチ運動の殉教者の地位に祀り上げ、《ホルスト・ヴェッセルの歌》を歌って彼をたたえた
戦後、彼の名を冠した歌はドイツで禁止され、今日に至るまでこの禁止令は有効

10. ルーン文字
3帝国を代表する一般的特徴は、ルーン文字をシンボルとして広範に用いたこと
ルーン文字は、昔の北欧ゲルマン系諸民族の文字で、スカンディナヴィアの原初のゲルマン諸言語に用いられていた
ラテン文字に取って代わられたが、オーストリアの汎ゲルマン国家主義者が目が見えなかった時期にルーン文字の聖なる力が開示されたと主張、20世紀初頭にドイツ民族主義者の間で人気を博したことから、ナチ組織内で、ヒムラーとSSが広く使うようになる
ルーン文字はキリスト教が広まる前の古くからのゲルマン民族の歴史との結びつき、それゆえ、民主主義や自由主義といった、堕落した「ユダヤ的」概念の排除を意味した

11. ゲリ・ラウバルの像
ヒトラーの姪。歌手志望で可愛がっていたが31年自殺。享年23
タブロイド紙がヒトラーを近親相姦のマゾヒストと非難したためナチはヒトラーが被ったダメージを最小限に食い止めるためにヒトラーのイメージ戦略を大きく変更。異常者、道徳的にいかがわしい過激派としてマスコミの笑いものにされた人間が、慎み深く教養ある美術愛好家、そして政治家の卵としてより魅力的な人物にイメージチェンジされた
彼女の思い出を偲ぶために胸像を依頼、ミュンヘンの彼女の自室に飾って、神聖な場所として保存

12. ユンカースJu52
3帝国で長く使われた航空機
32年の大統領選のキャンペーンに活用
ナチ党高官の専用機として、VIP飛行隊の主力を支える
軍用機としても、信頼できる輸送機として活躍、3000機以上が供給

13. 1932年のナチ党選挙ポスター
「仕事、自由、食糧」を公約として掲げる
3月の大統領選に出馬、ヒンデンブルクに負けはしたが、翌月のプロイセンほか多くの州で行われた地方議会選挙で大躍進、国の大部分にわたって最大政党として確立、事実上議会政治を無効にしてドイツ民主主義の終焉を告げることになる
このポスターは地方議会選挙で用いられたもの

14. 最後の『前進』紙、1933
1876年創刊のドイツ社会主義労働者党SPDの中央機関紙
33年ナチ党によって発行が禁止され、左翼ジャーナリズムの伝統が終焉を迎える

15. 冬季救済事業の慈善募金箱
33年設置の「冬季救済事業」は、困窮者のために金を集める、全国規模で組織化された募金活動で、毎年10月になると街路に募金箱が置かれ、果てしなく続くかに思われた
古くから各地にあった市民の自発的な活動を利用
国民の連帯と、国民社会主義の核心にあるとされた「純粋な」社会主義の表れであると吹聴されたが、実際にはもっと不吉で、必ずしも自発的でないことが多い

16. 黄金ナチ党員バッジ
33年に制定された高位者用のバッジだが、ヒトラーの自由裁量でも多く配られた
ヒトラー自身の「1」という偽りの党員番号が彫られていたものは、ヒトラーが死の直前ゲッペルスの妻に与え、戦後ロシアで保管されていることが明らかにされたが、05年展示中に強奪され、いまだにその行方が分かっていない

17. 国民ラジオ受信機
1930年代の政権中恐らく唯一、ラジオ放送を使ったプロパガンダの可能性を十分に理解
ドイツ製ラジオは第1次大戦中に生まれ、長足の進歩を遂げていたが、ラジオをマスメディアの地位まで推し進めたのは第3帝国

18. ヒトラー・ユーゲントの制服
ユーゲントは、第3帝国の時代、唯一公式の青少年組織。1922年創設。SA(突撃隊)の青少年支部として、1418歳の25千人を入隊させ、褐色シャツ隊で将来活躍してもらうための訓練を施した
ナチが権力の座につくと、対抗する青少年組織をすべて統合、200万人を擁する団体に

19. ナチ党掲示板
地方レベルで国民を統制するナチ党の手先が「街区指導員/監視員」で、ナチのヒエラルヒーの最下層に属し、通常4060世帯、150200人の住民を政治的に監視する責任を持ち、ナチのプロパガンダと治安維持という重大な2つの役割を果たす
各アパートの下層階の閲覧しやすい場所に設置された「掲示板」を通して、住民との連絡が行われた ⇒ 「ナチ党組織の名刺」と評され、下級の「街区管理員」は大抵の住民から忌み嫌われていた

20. 親衛連隊のカフバンド
33年ヒトラーの権力掌握と同時に設立された身辺警護隊がSS親衛連隊で、ヒトラーの名前の入ったカフバンドを装着。当初はバンドが尊敬の念を抱かせた
ヒトラーの私兵団に近く、最も忠実かつ政治的に徹底強化され、戦争勃発とともに数々の残虐行為を犯し、無数の村を焼き払い、市民を虐殺するなどの行為によって即座にその名を知らしめた ⇒ 最後まで狂信的で、44年末には最後の望みをかけたアルデンヌ攻撃における激戦で主要な役割を果たす

21. アウトバーン
1925年ムッソリーニ支配下のイタリアで建設され、ドイツでもヒトラー以前から着手
33年ヒトラー政権で、初めて高速道建設が中央政府によって承認 ⇒ フリッツ・トートに6000㎞の建設のために5年で6兆ライヒスマルクを与え、339月フランクフルトとダルムシュタット間の着工式を行う。39年開戦までに半分が開通
アウトバーンのおかげでドイツ国内の境界が消滅したように、いずれヨーロッパの国境がなくなるだろう、とヒトラーが予言
技術の発達した進歩的な国家としての第3帝国のイメージを伝え広めるためにナチ政権によって活用され、プロパガンダとして大成功を収めたが、それ以外の、建設計画により広範囲に期待された利益は聊か限定的 ⇒ 失業率軽減への貢献も、雇用は13万人強に過ぎず、戦略上の利点もほとんどの装備や軍隊は鉄道移送の方が楽だったし、戦争中はほとんどの戦闘が国外で行われた

22. SAの短剣
34年から、一般に「褐色シャツ隊」の名で知られた、ナチスに権力をもたらすのに力を貸した好戦的な悪党たちであるSA隊員に、同じ短剣が贈られた
SA20年代の政治的混乱の中、ヒトラーが自分の演説中の秩序を保ち、かつライバルの演説を邪魔するために採用した「突撃部隊」に起源。隊長はエルンスト・レームで、32年末には50万人を超えた
時代の精神をうまくとらえ、失業者の増加とともに、多くのドイツの若者に新たな自尊心の源と、共同体と生きがいについての新たな自覚を与えた

23. ハインリヒ・ホフマンのライカ
1935年製造のライカIIIaがカメラに革命を起こす ⇒ 35㎜フィルムを使用、距離計を備えた世界初の全自動カメラであり、新たにフォトジャーナリストという新たな職業も生み出した
ホフマンは20年代を通じて、ヒトラーが政治家としてのスタイルを確立させる手助けをした ⇒ 効果的なポーズや服装など、2人で意識的に対外的イメージを作り上げた
ライカの新製品が、ホフマンにナチのプロパガンダの武器として、彼の写真をさらに直接活用する機会を与えた。ホフマンの写真集は大成功を収める

24. 鉄兜
ドイツ陸軍を象徴する実戦用の対榴散弾用ヘルメット ⇒ 第1次大戦中に導入、「石炭バケツヘルメット」と評されることが多い
最初に塹壕戦のために鋼鉄製のヘルメットを導入したのはフランス軍で、ドイツはヴェルダンの戦いにおいて突撃部隊が着用

25. 名誉神殿
最も神聖な聖遺物が血染めの党旗、重要な殉教者がミュンヘン一揆での犠牲者
政権奪取後、ミュンヘンのケーニヒプラッツ地区の改造に取り組み、新しい総統館やオフィスビルに加え、殉教者の遺体収容のための「名誉神殿」2棟を建設、聖別された
戦後アメリカの占領当局の命令で47年解体。現在は2本の柱のコンクリートの基礎が残るのみ

26. ナチ・ドイツの鉤十字の旗
ハーケンクロイツは古代世界の至る所で見られる文様、特にインドと密接な関係があり、ヒンドゥー教やジャイナ教、仏教にとって神聖な意味を持つ
20世紀初め頃、神秘主義的な傾向のあるドイツの民族主義者たち(悪名高いのはトゥーレ協会)が鉤十字を、北欧とゲルマン系民族の祖先となったと彼らが信じる、アーリア人種のシンボルであると主張し始めたのに、ヒトラーが最初に興味を抱く
国旗にデザインしたのは、かつてのドイツ帝国の赤、白、黒の旗から着想を得て、赤にナチ運動の持つ社会主義的思想、白に民族主義的思想、鉤十字にアーリア人の勝利、創造的な営みの勝利を意味づけた ⇒ 創造的営み自体が反ユダヤ主義的であるとした

27. 「働けば自由になる」の銘入りの門扉
ナチの用いたスローガンの中で最も悪名高いのが、強制収容所の門扉に共通の銘文として掲げられた、「働けば自由になる/労働は自由をもたらす」
原典は1873年の小説の題名
ナチ政権の最初の強制収容所であるダッハウ収容所の初期の所長の着想かも

28. メッサーシュミットBf109
一般にはMe109と呼ばれ、第3帝国のドイツ製戦闘機の中でも最も強い印象を与えた
メッサーシュミットの設計で、アウグスブルクのバイエルン飛行機製作所で開発
スペイン市民戦争から第2次大戦中ずっとドイツ空軍に用いられた
40年のイギリス本土航空作戦では、性能的に近い英軍スピットファイアとの決戦で、航続距離ギリギリの軍事行動という不利から空軍全損失の1/3という600機余りを失う

29. ジャックブーツ
ドイツ国防軍の特徴的な行軍ブーツの英語圏での略称
その名の由来は、皮の内側に縫い込まれた鎧(ジャック)で補強された17世紀英国の騎兵用ブーツ
膝を曲げずに脚を真っ直ぐ伸ばした「閲兵式歩調(グース・ステップ)」で反り返って行進する姿は、第2次大戦期の専制政治を連想させる

30. 強制収容所の識別票
SSの監視がしやすいように、収容者を見分ける方法として使用されたのが36年に色付き識別票という分類法の導入 ⇒ 色付きの逆三角形により、投獄された名目上の理由を識別。ユダヤ人は黄色の三角形を逆さの向きに重ねてつけられダヴィデの星を形どった
国籍や常習性、逃亡懸念なども横線や頭文字などを使い、悪党がすべて視覚的に表された

31. ベルクホーフの絵皿
ヒトラーがオーバーザルツベルクを初めて訪れたのは23年で、すっかり見事な願望の虜となり、25年に別荘を購入し、35年には巨大で複雑なベルクホーフ(山岳宮殿)に改造
ミュンヘンのローゼンタール社製の手描きの飾り皿が記念品として訪問者に配布

32. エラストリン製のフィギュア
全体主義的野心を抱く政権が、子供たちを早い時期からその邪悪な影響下に置こうとして、軍隊や政治をテーマにした玩具を提供
おが屑と樹脂でできた「エラストリン」を針金の骨組みに被せて着色
モデルは、ヒトラーのほか、ムッソリーニはゲーリング、フランコなどの要人のほか、あらゆる種類の軍用車や、武器まで、大体5ライヒスマルクで販売

33. 「保護拘禁礼状」
表向きは司法制度を維持しつつ、ゲシュタポや警察当局が司法の枠組み全体を回避する方法として編み出したのが「保護拘禁」という概念 ⇒ 第1次大戦中に先例がある
ゲシュタポが反ナチの姿勢を疑っただけでも拘禁状態において処罰できるようにした
官僚主義を装った誘拐
悪党が実際に犯罪に関わる必要はなく、実際、大多数は関わっていなかった

34. オリンピク競技場
36年建設のベルリンのオリンピック競技場は、テンペルホーフ空港とかつてのゲーリングの航空省と並んで、ドイツの首都で最も象徴的なナチ時代の建築物の1
建築家は地元出身のヴェルナー・マルヒ
ベルリン・オリンピックは、オリンピックの歴史上の分岐点 ⇒ 初めてテレビ中継。初めてのギリシャからの聖火リレー。圧倒的な見世物の感覚と恥知らずな商業主義
ヒトラーは、将来はすべてのオリンピック大会がドイツで開催され、アーリア人種の優越性を披露する場となるだろうと語ったが、このオリンピックで脚光を浴びたのは、ヒトラーが劣った人種と見做していたアフリカ系アメリカ人で4つの金メダルを獲得したジェシー・オーエンス

35. 88mm高射砲
2次大戦中のドイツの兵器で一番有名でかつ悪名高い火器は、対空火器として世に出た88㎜高射砲。第1次大戦終結直前の設計を参考に、1932年製造
半自動式の装填機構を備え、8000mの戦略高度まで毎分15発の榴弾を発射
ヒトラーの政権奪取と共に承認され、射程を改良、最も効果的な対空砲となる
まず最悪の評判をとったのは地上戦で、スペイン内戦中ナショナリスト派に送られ、共和国軍の軽戦車をなぎ倒した時。ドイツでも対戦車用火器としても威力を発揮。ことのほか重宝したのがロンメル出来たアフリカでは砂の中に深く据え付けて砲身だけを出し、連合国軍の装甲部隊を引き裂く
44年夏には最大の11千台が配備、毎日10万発以上を発射

36. エーファ・ブラウンの口紅ケース
2人が初めて会ったのは、29年エーファがホフマンの仕事場で働いていた時で、3年後に恋人関係に
12年中流家庭に生まれ、平均的な成績でカトリックの学校を卒業、ホフマンの助手として働き始めるが、ヒトラーとの関係が始まっても、公の場で一緒のところを見られるのが許されないといういびつなもの ⇒ 31年のラウバルの自殺後は一層禁欲的
ベルクホーフに住んで贅沢に暮らしたが訪問者があるときは裏に引っ込んでいなければならず、妻としても女主人としても認められない存在に苦労 ⇒ 32,35年に自殺未遂
ヒトラーの女性観――きれいで可愛らしく、うぶな娘。優しく気立てがよく、愚か――に不満を抱くが、美しく魅力的な伴侶を目指した。政治的な役割を演じたことはなく、後世の歴史家を失望させたのは明らか
2人が自殺したあと首相官邸地下壕に降りた秘書のユンゲが、エーファが服用した毒のカプセルの入った真鍮の容器が床に転がっていたのに気づいたが、それはヒトラーがエーファに贈った「空の口紅ケースのよう」に見えたという

37. 大ドイツ芸術展カタログ
大ドイツ芸術展は、3744年の間毎年開催された第3帝国時代のナチ芸術の展覧会、最も重要な文化的イベント。帝国文化省主催。第3帝国のアーリア人種の未来像を表現し、近代芸術と彫刻に流行しているとナチスが見做していた「退廃的な」傾向のある芸術とは明確に区別される、第3帝国に相応しい芸術様式を確立することを目的とした
当時の学問と芸術の趨勢を支配しようとするヒトラーの、全体主義的な意思決定に欠かせない存在だったが、愚弄の対象とした「退廃芸術」展の1/3しか観客を集められなかったことを知って愕然としたに違いない

38. ニュルンベルク党大会のビール・ジョッキ
毎年9月にニュルンベルクで開催される党大会は、年中行事の中で最大最重要なイベント
1回はナチ運動の生誕地ミュンヘンで開催されたが、27年以降はニュルンベルク
35年には2つのユダヤ人差別立法を「ニュルンベルク法」として発表されたが、大会は徴兵制の再導入によってヴェルサイユ条約の屈辱からの国の「解放」を示すために「自由の大会」と名付けられたが、その後の大会も第3帝国の「実績」を祝って、37年は失業率の劇的な減少を祝して「労働の大会」となる
大会への参加は政治的な巡礼行為。総統の前の民衆が全ドイツを代表しているという高揚感を共有した
大会の記念品が、旧市街の尖塔と「全国大会の街」の文句の入った陶製のジョッキは、土産品としても売られた ⇒ 普通の人々にとって党大会の意義とは、様々な人との交流の場であり、友人や隣人に伝える土産話やちょっとした記念品で思い出される経験に他ならなかったということを、この記念品が象徴しているともいえる

39. ゲシュタポ身分証明記章
ゲシュタポ職員は常に平服でいて、身分証明記章の提示によってのみ確認された
37年の警察再編成の後に切り替わったもの
ゲシュタポの主な目的は、ナチ政権に敵対するものを探し出し、処罰すること
周囲には、全て神秘的な雰囲気を作り上げる要素、脅威の気配を形成
対象が明確だったことから、国内ではゲシュタポの恐怖は限定的で、戦後の聞き取り調査でも80%は戦時中逮捕の恐怖を感じたことはなかったと証言

40. ヒトラーのゲルマニア建築計画のスケッチ
ヒトラーは、建築計画に慰めを見出した挫折した芸術家と評される
ゲルマニア計画は、首都そのものの大規模な改造を企図したもの ⇒ 彼の「建築幻想」の典型的な例で、規模においては巨大、理念においては壮大だった
シュペーアの父親でさえ、「お前たちは頭がどうかしている」と言った
1次大戦の戦没者1800万人の名前が刻まれる予定の凱旋門は高さ117mで、パリの凱旋門が中央のアーチの中におさまるほど。重量を支えられるかどうか土壌の耐久力を図るための「過重負荷構造体」という巨大なコンクリートの塊が建造された
戦争の進行により建設は進まないまま43年正式に中止され、巨大なコンクリの塊だけが野晒しのまま風化した状態で、ナチの誇大妄想癖を後世に伝える

41. ガスマスクと装備一式
金属製の缶に装備一式が収められ、大戦中毒ガス使用の恐怖を暗示するかのように常に身につけていることが要求された
ドイツ軍は1915年に世界で初めて毒ガスをベルギーの戦線で使用
2次大戦中のヨーロッパでは、いかなる交戦国も一度も公式には軍による化学兵器の使用を認可したことはなかった ⇒ 18年に毒ガス攻撃を受けたヒトラー自身の経験が毒ガス使用を推し留めたという説が有力だが詳細は不詳

42. フォルクスワーゲン・ビートル
38年夏発売の国民車の開発は、ヒトラーの個人的寵愛のお陰と言われる
ヒトラーの失業対策キャンペーンの地としてニーダーザクセン州ファラースレーベン近郊(現在のヴォルフスブルク)を労働者のためのモデル居住区として開設、同時に万人のための輸送手段としての大衆車設計をデザイナーのフェルディナンド・ポルシェに命じる
大人2人、子供3人を乗せ、1ガロンで32マイルの燃費で時速100㎞走る、価格は990ライヒスマルクと設定し、巨額の資金を投入
消費者は、「歓喜力行団の車」を熱狂して前金を払って購入契約を結んだが、完成車はまずナチ高官に贈られ、そのうち軍用車の生産に切り替わりナチの政権中に予約者に引き渡すことはなかった
戦後イギリスが工場を接収、買い手を探したが連合国の自動車会社は拒否され、占領軍使用の車両供給にとどまったが、市民に仕事をもたらすために生産再開が決定され、象徴的な「フォルクスワーゲン1型」という新しい名前で再発売され、ナチの過去を脱ぎ捨て、戦後ドイツの経済復興の象徴となることに成功

43. 母十字勲章
子をたくさん産んだ母親に対する褒賞は目新しいものではなく、1920年に「フランス家族勲章」を制定しているが、ドイツでそれに匹敵する「ドイツの母名誉鉄十字勲章」は遥かに政治的な意図を帯びている
38年導入、銅は4人、銀は6人、金が8人以上の子を持つ母親に授与されたが、人種的、社会的偏見を反映。応募者の5%は却下
傷病兵と同じ特権を受けるとの指示が公式に出たこともあって「ウサギ勲章」と嘲る者がいた
母十字勲章は、すぐに実際の戦争に関わることになったように、ナチ・ドイツが「人口動態を巡る戦争」の最中にあることを自覚していたことを示すものであり、同時に、優生学の流行と人種的に「望ましくない」と見做された人々に対する断種の習わしとともに、ナチが民族の生物学的繁栄を特別重視していたことをも示す。事実上、ドイツ人女性の子宮の政治利用を意味した

44. 1つの民族、1つの帝国、1人の総統」絵葉書
38年のオーストリア併合を記念した絵葉書で、ドイツ語を話す全ての民族を「大ドイツ」にまとめるという汎ゲルマン民族主義の目標実現の新たな一歩を意味した
オーストリアのナチ、フーベルト・クラウスナーによって作られたスローガンで、ナチのプロパガンダで絶えず繰り返されるフレーズとなり、ヒトラーの下で統一されるドイツ民族という考えを強化

45. ヴィルヘルム・グストロフ号のブレスレット
3帝国に暮らすドイツ人にとって、定期船グストロフ号での海外への船旅は生涯の夢
乗船記念品がブレスレットで、船名が海上の信号旗で綴られ最後が鉤十字で終わる
37年進水のグストロフ号は、ナチの余暇組織だった歓喜力行団のために初めて特注で建造された巡行客船。船名は36年ユダヤ人に銃殺されたナチ党のスイス支部指導者に因む
39年までに10隻が加わり、船旅には多額の助成金が支給され、2週間分の給与で1週間ほどの旅が満喫でき、その時まで休暇を取ったことさえほとんどなかった人々にとって、信じられないほど素晴らしい話となった ⇒ 労働者の献身に対する露骨な誘いであり、格差を超越することになっている民族共同体をでっちあげる試み
戦争勃発とともに船旅は中止、占領下のポーランドの港に保管されていたが、451月赤軍から逃れて西に向かうドイツ人難民を乗せてバルト海に出たところをソ連潜水艦に撃沈され1万人近くが死亡するという海事史上最悪の大惨事となった
現在は戦没者の墓として保護されている

46. ジェリー缶
ヒトラーが36年に国防軍が燃料を運ぶのに適した缶の設計競技を実施、プレス加工された取っ手付きの缶が開発され出品された。今なお世界中で用いられている燃料缶の標準的なデザインとなった。20リットル入り。表面にへこみを入れることで強度を与え、温度に応じて中身の膨張や収縮に対応できた。カムレバーのキャップと短い口により、蓋を簡単にあけて楽に注ぐことができた。内側に空洞部を設け、満タンになると水に浮く
38年オーストリア併合の間に軍隊でお目見え
「ドイツ人」を表す英語のスラング「ジェリー」が缶の由来で、すぐに世界各国が真似した
ジェリー缶が戦闘に果たした重要性をあまり誇張すべきではない ⇒ ドイツ陸軍は喧伝されていたほどにはモータリゼーションを進めておらず、相変わらず馬が供給物資移動の手段として広く使われていた。徴用された馬とラバは300万頭に上る

47. 武装SSの迷彩服
武装SSは、ヒトラーの精鋭親衛隊の軍事部門で、着用した木の柄の迷彩スモックは戦闘で兵士が着用した最初の迷彩服
敵の目を幻惑する配色と柄は、第1次大戦中に固定陣地や航空機、戦艦に用いるために開発されたが、服に使われたのは30年ドイツ陸軍が初めて
武装SSは、国防軍の柄とは異なる木漏れ日を模した柄を選ぶ
20世紀の軍隊はどこもじきに迷彩服を採用

48. バーデンヴァイラー行進曲
ヒトラーが姿を現す合図として流された曲
1次大戦開戦時、ロレーヌ地方で独軍が仏軍に勝利したことを記念するために、バイエルンの作曲家ゲオルク・ヒュルストが作曲
ヒトラー自身の好みで「総統行進曲」に選ばれ、39年以降はヒトラーの面前以外での演奏は禁止され、別にレコードが用意されたが、後年取り巻きが思っていたほど彼自身は好きではなかったというのは皮肉

49. ゲオルク・エルザ―の「つまずきの石」
シュタウフェンベルクの次にヒトラーを暗殺できた人物
3911月手製の爆弾をミュンヘンのビアホールに仕掛け、ミュンヘン一揆の記念日を祝ってヒトラーが演説するときに合わせ実際に爆発したが、ヒトラーは帰路を悪天候のため飛行機から電車に代えて爆発の13分前にホールを出ていた
すぐに逮捕され単独犯を主張したが、ヒトラーに対する民衆の同情と支持を得るためナチスが雇った手先だとかイギリスの諜報員だとか噂が流れ、詳細不詳のまま454SSの看守によって処刑されるが、その時彼の名前を憶えていたドイツ人はほとんどいない
70年代になって漸く1人で抵抗運動を決起したことが判明、各地に記念碑が建てられたが、最も注目に値するのが09年シュヴァーベン地方の生家に設置された「つまずきの石」で、92年にドイツの芸術家デムニヒによって始められたナチの犠牲者を個々に記念するための新しい試み。舗道のコンクリートに埋め込まれた10cm10cmの真鍮の板で、犠牲者の名前と誕生日と運命が刻まれる。最初にケルンで設置されて以降ヨーロッパ全土に急速に広がり、15年末現在56千枚が1200以上の街に敷かれた。多くはホロコーストの犠牲者が対象
ミュンヘンは、自分たちのやりかたで犠牲者を記念したいと設置を拒否している

50. 配給カード
ナチは開戦の前の月に配給制を導入。食糧、衣服、履物、石炭を厳しく管理
細かい等級に分けられ、毎月再発行されたが、あまりの複雑さから、「戦争を生き抜く者は精神病院に入ることになる」とまで言われた
ベルリンのデリカテッセンのオーナーが43年逮捕された時、配給券を要求せずにチョコレートなどの嗜好品を供給していたことが明らかとなったが、ナチ高官や軍人など顧客は1人も起訴されなかった

51. エニグマ暗号機
エニグマ(「謎」の意)は、19年オランダ人の発明だが、特許を取ったのはドイツ人で、23年に発売された際は企業の秘密情報を公共の電信システムを通じて送るための装置で、1つの文字が6回から8回変換され、モールス信号で送信
ドイツ陸軍で使われるようになったのは26年以降
32年にはポーランド人グループが解読に成功、38年にドイツ軍がシステムを変更した際もイギリス軍がその技術を評価して協力したが、9月のドイツのポーランド侵攻で解読グループが四散したため、イギリス軍が後をフォローし解読に成功
ブレッチリー・パークからもたらされた暗号情報は「ウルトラ」のコードネームで呼ばれ計り知れない効果を上げたが、ドイツ側は解読を疑ったことが一度もなかったという。エニグマ暗号機は、技術的に優れていたにもかかわらず、自分たちの優位性を傲慢なまでに信じたナチを象徴

52. ヴォルフガング・ヴィルリヒの絵葉書
ナチ・ドイツは、ラジオという新しいメディアをすぐ受け入れるだけでなく、古いメディアをプロパガンダに活用したが、その1つが絵葉書で、プロパガンダ戦略に欠かせない道具の1
1897年生まれのヴィルリヒは、肖像画家として特にドイツ民族を主題にした一連の作品で名声を得ていたお陰で、ナチ党組織から、ナチ指導部や民族ドイツ人、農民を題材にした写生画の製作を依頼される
戦争芸術家として部隊に随行して軍や戦争の英雄の肖像画を製作
ほとんどのナチ芸術に共通の武骨な英雄信仰――どれも頬骨や波打つ筋肉が目を引く――がよく表れていた
開戦と共にプロパガンダの手段として本領を発揮、特に子供たちの間で大変な人気を集め、競って収集されたため、広大な市場が出現

53. ナチの鷲
ドイツ帝国鷲紋章は、長らくドイツ国家の象徴で、神聖ローマ帝国まで遡るが、1871年に再び制定され、黒い羽毛に赤い嘴と鉤爪という伝統的なデザインになった
ヒトラーは、オークの飾り環付きの鉤十字と組み合わせて、鷲の鉤爪が鉤十字を掴むデザインに変更
羽を広げたシュミット=エーメンのデザインが国章とされ、公式の便箋やパスポート、全軍兵士の制服に用いられた
エーメン製作の鷲で最も有名なのが、39年新首相官邸に組み込まれた2基の帝国鷲で、銅合金製重さ250㎏、高さ1.5m、羽を広げた幅は3m。ロンドンの帝国戦争博物館に唯一残されている

54. 柄つき手榴弾
鉄兜と同様、柄つき手榴弾や棒状手榴弾も第2次大戦のドイツ軍の象徴
1次大戦に起源 ⇒ 15年初登場、柄によって飛距離が倍増

55. VIIUボート
35年から製造、第2次大戦におけるドイツ潜水艦隊の主力、Uボート艦隊の70%以上を占めた。可潜艦で、通常は水面上を航行、最高速度17ノット、航続距離15千㎞
他のどの型のUボートよりも多くの連合軍側船舶を撃沈

56. ユンカースJu87(別名シュトゥーカ)
急降下爆撃機で、最初に恐ろしい名声を博したのはスペイン内戦時
2次大戦で最初の「威嚇のためのテロ兵器」
1次大戦の戦闘機のエース・パイロットが支援して、35年初フライト
初期電撃戦で活躍したが、すぐに弱点が露呈、瞬く間に戦場から姿を消すも、41年以降復活し、対地攻撃で大きな戦果を挙げたため45年までドイツ空軍の任務を遂行

57. メルセデス・ベンツ770リムジン
ヒトラーは、自動車の仕様書の熱心な読者で、同時に珍しい装備を要求 ⇒ 3本の車軸とオフロードタイヤとか、ランフラットタイヤ、防弾ガラスなど
770は最高級車で、8気筒7.7lエンジン、車両重量5t、燃費は1ガロンで6マイル
車は完全防備が施されていたが、ヒトラーは群衆の喝采を浴びるために助手席の足置場に立つのが流儀だったため無防備で、ヒトラーが身の安全よりも見られることの方を重要視していたのは明らか

58. ルガー拳銃
正式名称はピストーレ・パラベルム1908で、第3帝国時代にドイツ軍が使用した古典的な自動装填式拳銃。オーストリア人の設計、1900年から製造、08年ドイツ陸軍が主要な前線向け携帯武器として採用、38年ワルサーP38に取って代わられるまで優位にあった

59. グライヴィッツ・ラジオ塔
ポーランド南西部にある、高さ118mとヨーロッパ最大の木造建築物として35年設置
この場所で第2次大戦が勃発
当時はドイツ領内にあり、ラジオ塔がポーランドの非正規部隊によって制圧されたとしてSS保安部が奪回に動き、ラジオ局を通じて占拠されたことを放送したため、その日遅くヒトラーが国会を召集して被害者を装い、それを口実にポーランドに侵攻
挑発攻撃の一環だが、一般的に「偽旗作戦」と呼ばれ、日本が対中で、ソ連が対フィンランドで同じことをやっているが、ドイツのグライヴィッツのラジオ局襲撃事件は最も有名
現在でも屹立しているのには驚く

60. 独ソ条約国境線地図
388月の独ソ不可侵条約に世界は衝撃。文明そのものの崩壊の前兆と思われた
東西から両軍がポーランドに侵攻、翌月末には独ソ境界友好条約調印 ⇒ 第2次大戦から1か月後の中央ヨーロッパに於ける新たな支配情勢を完全に反映した点で重要な条約
両国間で更に4つの経済条約の締結と、幾多の外交・政治的接触を生んだ22か月間にわたる関係の始まりで、不可侵どころか侵略行為の上に築かれた関係だった

61. 灯火管制ポスター
ナチ・ドイツでは39年の開戦初日に灯火管制が命じられ、街区監視員によって徹底
社会と技術に顕著な影響を及ぼす ⇒ 事故死が急増、軽犯罪と交通事故も同様、波長の短い電球や蛍光塗料の開発、レーダー測定装置の開発により目視の可否は無意味に
命令への服従の促進と共同体意識の軍国主義化という政治的目的も持ち、参戦国で定着した防空手段となり、銃後の生活に計り知れない影響を及ぼす

62. 認識票
1次大戦の混乱回避のためもあって、第2次大戦開戦までに、ほとんどのヨーロッパの軍隊が、自国の兵士のための正式な身元確認方法を制定
ドイツの認識票は楕円形の薄い金属板で首から下げた ⇒ 死亡すると下半分が折られて家族に通知するための資料となり、上半分はそのまま遺体の身元確認のため元の位置に置かれた
前進している間はそのシステムが機能したが、退却が始まるとシステムは崩壊。名簿には「行方不明」としか書かれず、倒れた場所にそのまま放置された死者が最も多かった
91年になって放置された遺体を回収しようと組織的な企てが試みられたようだが、対ソ戦では34百万のドイツ兵が戦死したのに対し、今日までに埋葬されたのは80万に過ぎず、身元判明はその半分だけ
近年、愛好家による戦場考古学や「戦利品探し」の傾向のため状況は悪化。ネットオークションにも認識票は出ているが、身元不明のまま放置されている人の亡骸から取ったもの

63. 映画《永遠のユダヤ人》ポスター 
4011月封切りの悪名高い《永遠のユダヤ人》は、ナチのプロパガンダの中でも最低の評価を記録 ⇒ 世界のユダヤ人を追ったドキュメンタリーとの謳い文句だが、野卑な言葉でユダヤ人はヨーロッパ文明に「寄生する破壊者」と表現し、反ユダヤ主義を加速

64. ペルビチン
36年のオリンピックでアメリカ選手団が覚醒剤を使用したことに触発されて、あらゆる症状を緩和する「気つけ薬」、興奮剤として開発・販売され、一般市民の間で人気を博す
今ではクリスタル・メスと呼ばれ、初期の低用量のメタンフェタミン。「スピード」
ドイツ軍がその効果に注目、ドイツ軍の勝利に役立つとの結論を出し、通称「シュトゥーカ・タブレット」として兵士に分配
電撃戦自体、機械類だけでなくペルビチンによって駆り立てられたと提唱する者もいる
戦闘の終結からだいぶ経っていても、戦闘中に愛用していた麻薬をまだ必要としていた

65. MP40短機関銃
1918年最初の短機関銃が開発され、ベルクマンMP(マシンピストル)18と呼ばれた
1次大戦の塹壕戦で効果を発揮、もっとも傑出した次世代短機関銃がMP40で、第2次大戦中のドイツ軍を象徴する武器。金属とプラスチックだけで製造された最初の機関銃
折り畳み式のスケルトン銃床と32発箱型弾倉が特徴で、型で打ち抜かれたため大量生産が容易、兵士が熟練した狙撃兵でなくても圧倒的な火力を発揮
MP40がドイツの機関銃の中で代表的な地位を占めているのは戦後のハリウッド映画の影響が大きい。映画の中では実際より広範囲に使用されたように描かれていたが、それはこの武器の先進的な特徴と堅固な有用性によるもので、各国の兵士が好んで「記念品」として持ち帰ったため

66. 武装SSの新兵募集ポスター
40年制作。残酷なスターリン政権に対して戦うことを狙い目として外国人兵士の募集をすると、義勇兵が不足することはなかった
実際には入隊の動機は様々で、イデオロギー的理念から隊員になった者もいたが、占領下の故郷の窮乏から脱する必要性や、ソヴィエトの少数民族などは戦前の圧制者への仕返しのチャンスでもあった

67. 精神病院の鉄製ベッド
アーリア人種を清める対策として、ホロコーストは異質なものの排除であり、安楽死計画(T4作戦)は、優生学上不適当な要素の排除があり、後者は障碍者の「慈悲殺」の合法化
2年で精神病院の入院患者7万人が主に毒ガスで殺され、家族には心疾患で死去という偽の知らせが届いた ⇒ 41年中止されたが、障碍者の殺害で得た多くの専門的技術がユダヤ人大量虐殺に移行

68. アフリカ軍団野戦帽
ドイツ軍のアフリカ軍団は41年に、北アフリカを征服しようとしながらもたついていた同盟者ムッソリーニに協力するために創設され、ロンメルの活躍により規模と影響力を増していく
東部戦線と違って十分な装備があったが、なかでも制服の開発が進み、一番有名なのが庇の付いた質素な野戦帽で、山岳部隊の山岳帽をモデルにしたが、北アフリカ作戦とアフリカ軍団兵士の象徴となる
明るいオリーヴ色のカンヴァス地だったが、日焼けで色褪せた帽子は経験豊かな砂漠の古参兵の証だったので、多くの兵士が自分の帽子を入念に漂白した(元々の色は新参兵)
42年アラメインでの敗北以降撤退が始まり、435月チュニジアで降伏。ドイツ陸軍に対する米英軍の初めての勝利であり、チャーチルはこの戦いの意味を、「アラメインの前に勝利なく、アラメインの後に敗北なし」と、不正確だが簡潔に要約した

69. 高射砲塔
40年初夏に始まった連合国側のドイツ爆撃は、当初軍事施設に限定されたが、夏の終わりのドイツによるロンドン郊外への爆撃の仕返しで街そのものが標的とされる
ヒトラーは、爆弾から身を守る施設の建設という大掛かりな計画を命じ、ベルリンだけでも5000もの地下壕と掩蔽壕の建造を計画 ⇒ 銃後の市民を安心させることの必要性を認識、反対勢力の伸長を阻止
計画の要が高射砲塔の建設で、全国に8基。7階建てで高さ40m、幅70m、厚さ2.5mの壁と3.5mの強化屋根の上には高射火器を揃える、15千人収容できたが戦争末期は避難民で溢れかえった
ベルリンで最後の最後に降伏したフンボルトハインにある1基と、ハンブルク、ウィーンの塔だけが現存

70. 重巡洋艦プリンツ・オイゲンのプロペラ
36年キール港で建造開始。ドイツにイギリス海軍の35%の艦船保有を認めた前年の英独海軍協定の結果として発注され、復活したドイツ軍の栄誉の象徴と見做された
38年進水、オーストリアの将軍の名に因んで名づけられた
直径4m、重さ11tのブロンズ製スクリュウプロペラ3基で3台の蒸気タービンによって動力を供給
数と火力で劣ったドイツ艦隊で、10隻の最大級の艦船のうち唯一戦後も残った船。1隻も敵を撃沈させていない
戦後アメリカ軍に戦利品として割り当てられ、46年ボストンに回航、ビキニ環礁での原爆実験の標的船とされ、損傷は軽かったが放射線に晒され、同年末転覆・沈没
ヒトラーの全艦船のうちその姿を見ることができるのは極僅か。79年に引き揚げられバルト海沿岸のラブー海軍記念館に展示されているスクリューは貴重な品

71. ハンペル夫妻の葉書
夫妻はナチの掲げる民族共同体の土台を支えた市民の典型だったが、40年妻の弟の戦士で抵抗運動に転身、反ナチのスローガンを葉書に書いてベルリン市内のあちこちに置く
2年にわたって200枚余り書いたところで通行人の通報により警察に逮捕、43年ギロチンで処刑 ⇒ ささやかな罪に対する処罰の苛酷さに驚かされる。全体主義政治が反対の主張を決して許さなかったことを私たちに気づかせてくれる
戦後小説家がハンペル夫妻のことを知り、共産主義政権の要望で、戦時中の抵抗運動についての最も信頼のおける小説の執筆を要請されたところから、名前や係累を若干変更したが史実に忠実に再現された小説『だれもが1人で死にゆく』はドイツでベストセラーに
英訳の題『ベルリンで1人』は映画化され14年日本でも公開

72. ルドルフ・ヘスのズボン下
415月ヘスはイギリスに向け和平の提案を携行して飛び立つ ⇒ スコットランドにパラシュート降下して国土防衛軍に引き渡される
イギリスのプロパガンダに利用しようと、贅沢品を身につけているのではないかと長ズボン下を押収したが、「ただの安物」と分かり倉庫で消失
その後ヘスは極度の鬱に陥り、自殺も試みるが失敗。イギリスからはただの囚人としてしか扱われず、イギリスのプロパガンダの役にも立たず、ただの狂人とあざ笑われていた

73. 剣・柏葉つき騎士十字章
41年ソヴィエト侵攻直後にヒトラーにより創出された軍人の最高の栄誉の章で、ドイツの英雄崇拝の中で最も重要な象徴
鉄十字勲章の最初の授与は1813年、ドイツ騎士団の「マルタ」十字から形どったもの。1918年ドイツ帝国の終焉とともに終わったが、39年ヒトラーが開戦と共に再制定
戦争中159個しか授与されていないが、そのうちの1つが真珠湾攻撃の功により山本五十六に死後授与
勲章はエスカレートして、ダイヤモンドが付け加えられたものがロンメルに、さらに黄金を追加されたのが東部戦線のシュトゥーカ・パイロットの空軍大佐ルーデルに唯一授与
普通の兵士たちにとって勲章は、命と引き換えの無謀な人のためのものということを忘れず、首にかける勲章を貰おうと躍起になる者のを「のどの痛み」を患っていると皮肉った

74. ユダヤの星
中世から17世紀まで、バグダッドからブリテン島まで、ユダヤ教徒であることを明らかにするために様々な印を身につけさせられていた
ナチのプロパガンダのなかでも、ダヴィデの星の形をした「ユダヤの星」は重要な役割を果たす ⇒ 33年のユダヤ商人のボイコットで、彼らの店のショーウィンドウにこの印が塗りたくられたが、最も悪名高いのは黄色地に"Jude”と書かれた左袖につけたバッジ
意図は単純で、ユダヤ人をドイツの社会から孤立させ、民衆の間で信じられていた偏見を煽ること
占領下の各地でも効力を発揮したが、ドイツ国内ではこのバッジの導入が分水嶺となり
導入から1か月後にはゲットーへのユダヤ人移送が開始され、ユダヤ人社会の破滅の始まりを意味した

75. リューベックの聖マリア教会の鐘
マリア教会で一番歴史の古い鐘(1508年設置の重さ2tの「日曜の鐘」)と一番大きな鐘(1669年設置の重さ7tの「律動の鐘」)が、42年の英空軍による焼夷弾攻撃の記念遺物として南側尖塔の下に残されている
鐘は原型を留めないが、ブロンズは通常650℃以上で溶け始める
英空軍による最初の大規模なドイツ市民を標的にした攻撃作戦で、234機が400tの爆弾を投下、300人以上が死亡。その後の1000か所に及ぶ爆撃の嚆矢

76. 「ゴリアテ」ミニ戦車
ナチ・ドイツは軍事技術分野における技術革新で名声を博す ⇒ V2ロケットやStG44突撃銃に対し、「ゴリアテ」無限軌道式地雷は風変わりな例
正式名称はSd. Kfz(「特殊車輛」)302/303。西側からは「カブトムシ戦車」と呼ばれ、40年開発、高さ56㎝、幅90㎝、重量370㎏、600mのケーブルを繋いで操作・爆発させる
本来地雷除去作業をする能力で重戦車の支援に効果的に利用されたが、市街地の包囲戦でも威力
実戦使用には脆くて当てにならず、連合国兵士にとって真の脅威というより、分捕り品のおもちゃとして記憶に残ったが、現代のドローン開発の前触れとなった

77. ゾフィー・ショルの大学入学許可証
反体制活動家で最も有名な1人。21年ルター派信者の家庭に生まれ、ナチ政権批判で父親と兄弟が逮捕されたことがきっかけとなって、10代終わりまでにはナチスを拒絶し始めた
42年春ミュンヘン大学への入学を許可された時、全てが変わる ⇒ すぐに兄が属していた「白バラ」という活動的な抵抗グループの一員となる
活動はエスカレートし、432月大学の管理人の通告により逮捕、人民法廷にかけられ、異例なことにその日の午後ギロチンで処刑との判決が下る
彼女が学内にまいたビラはこっそりと国外に持ち出され大量に刷られて、その夏英空軍によりドイツ上空からばら撒かれた

78. ティーガーI 戦車
2次大戦のドイツ軍を象徴する戦車で、43年チュニジア戦線で無傷で卥獲され英本土の戦車博物館で人気を集める。現在では「タイガー131」と呼ばれる
戦車はドイツによる電撃戦の中心だが、当初は重量9tほどの軽戦車
対ソ戦で歯が立たなかったことから重量化が進み、57tの巨大なティーガーI型が42年東部戦線でデビュー。敵戦車に比べ5倍のコストをかけた最も重い戦車だが、重さゆえの整備と修繕が遅れ、戦地での維持は困難が伴う
43年の対ソのクルスクの戦いで120両が投入され、何百輌もの敵を破壊したが、基本的な問題は絶対数が不足していたことで、敵の戦車が常にティーガーを数で上回っていて、結局は数の力がものを言った

79. ヴァンゼー邸
1914年高名な建築家バウムガルテンの設計によち実業家のために建てられた邸宅は、所有者の罰金のかたに取られ、SSの来客宿泊施設へと衣替えされる
42年所有者のハイドリヒが、ホロコーストの「計画立案会議」としてナチ高官13名による最高機密会議を招集、最終計画が参加者の異議を差し挟むことなく決定され雑用係だったアイヒマンによって議事録が配布されるが、露骨な野心を抱く外務省次官補が外相リッペントロップに対する陰謀を見破られて強制収容所へ送られていたために、資料の処分ができないまま47年に文書館で発見され、ヴァンゼー会議という邪悪な出来事の存在が記憶に留められることになった
戦後はソヴィエトの所有となり、66年ホロコーストの展示と教育に使うべきと提案されたが、実現したのは92年で、記念博物館として幅広くホロコーストの証拠資料を展示

80. ツィクロンBの缶
シアン化水素は殺虫剤として19世紀に開発され、ツィクロンB の商標で生産され1926年ドイツで特許取得、42年までは殺虫剤や燻蒸消毒剤として使用
ナチスが人種的敵を寄生虫同然と見做したことは、ツィクロンBを人間の殺戮にも使用するのは理に適っている ⇒ 41年から人体実験開始。アウシュヴィッツでヘスの元、密閉されたガス室では熱と湿度でツィクロンBの粒がたちまち分解してシアン化水素ガスを放出、15分以内には全員死亡
殺戮の犠牲者は100万を下らず、その大半はアウシュヴィッツの第2ビルケナウで殺害
ツィクロンBの発明者はナチスに反対したため、42年に影響力のある地位を解任されたが、彼のライバルの後任は、戦犯として裁判にかけられた際殺害への使用を知らなかったと証言したが、収容所で指示していたことが判明絞首刑となった

81. 追悼カード
戦死したドイツ人は700800万と推測、大多数が軍人
「追悼カード」は、ドイツのカトリックで長い伝統のある葬祭文化の1つである「死者を記念する品」として、会葬者や出席できなかった人に送られていたが、死亡率が人口の10%二近づきつつあったため全ての兵士が祖国のために戦った英雄として称えられるよう、追悼カードにも英雄的死という幻想に基づいた文句を掲げた ⇒ ゲッペルスの指示の下、兵士自身の死によってのみ望みが実現するため、途方もなく広まることになった観念で、ナチズムが死を賛美するカルト教団に似通いつつあった
戦死者のうちごく一握りの兵士の遺体だけが命を落とした戦場で埋葬されたことを考えれば、大半の遺族にとっては簡単な追悼カードが、自分たちの手元に残る唯一の形見

82. ビルケナウの監視塔
「死の門」として知られる監視塔とその下を通る鉄道線路は、第3帝国を象徴するイメージの中で最も気味悪いものの1つで、ナチス政権によるユダヤ人の大量殺戮を象徴
4110月開設の臨時収容所で、当初はバルバロッサ作戦のソヴィエト軍捕虜を働かせる労働収容所として計画されたが、423月からユダヤ人殺戮の場所に変更
ビルケナウはホロコーストと同義で、中核となる収容所
殺害施設と同時に、家族収容所、女性収容所、ロマ収容所、さらには多数の痩せ衰えた強制労働者の収容施設も併設

83. トレブリンカのブローチ
ビルケナウは451月ほぼ無傷でソヴィエト軍に占領されたが、トレブリンカは4344年冬にナチスによって完全に取り壊されていたため、ソヴィエト解放軍によってもわずかな痕跡しか目にしなかったため、人々の記憶から抜け落ちた
犠牲者の推計は90万人でビルケナウに匹敵、到着したユダヤ人は即座に殺害、持ち物で使えるものはドイツに送られ、それ以外は処分
どうして直径5㎝程の質素な真鍮製のバラのブローチがガス室付近で発見されたのかもわからないが、非人間的な所業を潜り抜けた、痛ましくも、人間性の感じられる遺品

84. デミャンスク盾形章
ナチ・ドイツ軍の褒章制度は奇妙なほど幅広い。戦闘における勇気に対する褒美としての鉄十字章はよく知られるが、他の勲章はバッジとメダルとカフバンドが奇妙に混ざり合ったものが多い
腕につける盾形章が、特別な戦闘を記念する一般的な方法となる
デミャンスクの軍事作戦は42年初めのモスクワとレニングラードのほぼ中間の町の包囲戦で、赤軍の逆襲で孤立させられたが何とか救出されたが、434月のスターリングラードで敗北の後、士気を鼓舞するために、孤立した部隊にいた者や補給に貢献した者に対し戦術的勝利の褒美として贈られ、大失敗を埋め合わせる発奮材料として利用された
デミャンスクの教訓の1つは、軍事的必要性よりは威信のために領土を死守したいというヒトラーの欲望を示したことであり、同時にドイツ軍の衰退の前兆 ⇒ 元々包囲戦はヒトラーの軍隊が赤軍に他する初期の進軍でまさっていた戦闘方法だったが、今や包囲されたのはドイツ国防軍で、そうした成功はますます難しくなっていった

85. 対戦車砲パンツァーファウスト
43年ドイツ陸軍で配備された安価で単発式、無反動の擲弾筒、最初の使い捨て対戦車兵器。爆発力を一点に集中させる成型爆薬(指向性炸薬)の弾頭により戦車の鋼鉄装甲を貫通
1880年に認められ1935年に軍事用に応用されたモンロー効果の原理を応用
訓練なしでも操作可能で、1発の砲弾が30t戦車を停止させる威力を持つため、第3帝国の末期に最も普及していた武器の1

86. ラインハルト・ハイドリヒの切手
ヒムラーの副司令官でSSの保安部長官となったハイドリヒは、チェコ地方のゲリラ活動排除の任務中の42年に暗殺され、当時第3帝国の犠牲者の中で一番位が高い人物となり、国葬で追悼された。チェコ人を「寄生虫」と呼び、着任から数日で100人を処刑し「プラハの殺戮者」と呼ばれた
チェコ人は恐ろしい報復に見舞われ、1300人が犠牲となった
暗殺から1年後ボヘミアの勤務地で使用するためハイドリヒのデスマスクを描いた郵便切手が額面の700%もの割増金付きで発売された ⇒ 占領地から金を搾り取るための便利な方法とされていたが、チェコ人にとっては自分たちが服従させられていることをさらに思い出させる苦痛の種であり、死んでもハイドリヒはチェコの国民を搾取していた

87. 国防軍のミトン
41年のバルバロッサア作戦では、冬の到来前に赤軍崩壊を確信し、冬の装備をせず
その年は2100年に1度の苛酷な寒さとなり、多くの兵士が冬季特有の疾患に苦しみ、凍傷で1800人もの損耗。急遽冬の装備が生産されたが、全軍に行き渡るまでには2年を要した
東部戦線の従軍記者章が受章者たちの間で「冷凍肉勲章」と呼ばれたのも不思議ではない
ロシアの冬による損害がドイツ軍の弱点を際立たせ、その終焉に至る道を示した

88. ヒンデンブルク灯
1次大戦の塹壕の中で広く用いられた質素な蝋燭で、第2次大戦のドイツ国内戦線ではどこでも必需品となる ⇒ すべての地下室とシェルターの備品として義務付けられ、42年以降空襲の激化に伴い地下室に閉じ込められる時間が増すと、必要不可欠なものとなり、炭鉱のカナリアのように地下室の床と机と頭の高さに置かれ、床の蝋燭が消えると子供たちは膝に乗せられ、机の蝋燭が消えると立ち上がり、頭の高さの蝋燭が点滅し始めると危険の有無にかかわらず外に出た。蝋燭が窒息の危険を知らせる警報となって命も救った

89. シュトロープ報告書
43年ワルシャワのユダヤ人ゲットーをドイツ軍が破壊したことを記念する品として編集された報告書で、作成したSS将校の名に因んで『シュトロープ報告書』と呼ばれる
表題には、「ワルシャワのユダヤ人居住区はもはや存在しない!」とあり、隊長のヒムラーに個人的な贈り物として贈られることになっていた
ワルシャワ・ゲットーは4011月設置されたヨーロッパ最大のゲットーで3.5㎢、市民の30%を占める40万人以上を収容
ポーランドだけでも200か所以上設置、多くは劣悪な状況に置かれ、ゲットーへの収容は実質的には計画的かつ緩慢な死に等しかった
42年後半までに次第に勢力を増した武装住民の抵抗に遭ったことから、SSの部隊に一掃の命令が下り、SSシュトロープ中将の指揮のもと1か月で計画的に破壊され5万人以上が殺害
報告書の中にある、強制的に隠れ場所から引っ張り出されて両手を挙げる不安に怯える少年の写真は、第2次大戦を記録した写真の中で最も象徴的な1
現存する文書はニュルンベルク国際裁判で徹底的に証拠として活用され、民族浄化の誇らしげな記録となるはずだった文書が犯罪者を断罪するための証拠として用いられたのは最高の皮肉であり、シュトロープは52年ワルシャワで絞首刑

90. 720日暗殺未遂事件戦傷章
44年ヒトラーの暗殺未遂事件を記念した珍しい遺品。事件の生存者と死者に授与
速記者1人即死、高官3人がその時の負傷が原因で死亡
会議室内は木端微塵となったが、ヒトラーは頑丈な机の脚のお陰で一命をとりとめる
シュタウフェンベルク大佐は、国内予備軍に関する最新情報の報告に来て、ヒトラーの隣に座り、退席中に爆破が起こり、爆発後の混乱を確認してベルリンに戻ると、クーデターを開始したが、ヒトラーの生存の知らせで挫折、その日の深夜処刑
5000人が逮捕、数百人が処刑、無数の人が強制収容所へ

91. 影男
2次大戦の交戦国は例外なく、国民が敵を利するかもしれない情報をうっかり漏らしたりしないよう戒めるためにあらゆる手を尽くした
ナチ・ドイツでは、謎めいた「影男」がいた ⇒ 開戦直後から始まり、第1次大戦時の非常に効果的な標語「敵が盗み聞きしているぞ」が復活、そこに加わったのが特徴的なホンブルク帽を被った男の影で、迫りくる人影が軽率な会話を盗み聞きする不吉な存在を示唆していた
皮肉なことに、ドイツ国民を密かに見張っていたのは、国民の間に潜んでいると思われた外国の諜報員ではなく、ナチスとその組織であり、影男のポスターは既に効果を失っており、耳をすましているのはもはや敵ではなく、SSだったと回想する日記作者もいた

92. 強制労働者の「労働許可証」
3帝国に迫害され搾取された集団の中で、強制労働者についてはほとんど知られていない ⇒ 戦争中、ドイツの至る所に存在、何百万人もの人が職務をこなしていた
5人に1人はポーランド人で、労働許可書であると同時に身分証明書を携行し、強制労働者であることを示す黄色地に紫のPをあしらった布製のバッジの着用が義務付けられた
出身地によって扱いに違いがあった ⇒ 西欧出身者には緩く、東欧は被雇用者というより囚人の扱い
この労働許可証の持ち主のその後の運命はわかっていない

93. 野戦憲兵三日月章
国防軍の歩兵が、目にしただけで立ちすくむ数少ないものの1つで、ドイツ軍兵士の生殺与奪の権を握っていた野戦憲兵隊の憲兵徽章
鎖のついた三日月型の記章(コルゲット)を首にかけていたため、憲兵隊員は「番犬」の綽名が付けられた。黄色の蛍光塗料で浮き立ちひときわ目についた
野戦憲兵隊は33年再編成され、広範囲にわたる警察権力を備えていた
前線となった地元住民の「鎮圧」にまで手を広げたために悪評がたつ
弱まる士気を高めるため被疑者を処刑し始め、8000人の国防兵士が処刑され、残虐非道の評判をものにした

94. V1飛行爆弾
英米の爆撃機に対する「報復(Vの意味?)」兵器として設計されたロケット弾。巡航ミサイルの初期の形態で、ドイツ軍事技術者の卓越した才能を示す一例
イギリスでは「アリ地獄」の名で知られ、約275㎞の軌道に乗せ、戦争の終結期には精度が目標から10㎞以内まで改良
446月初めてカレー海峡からロンドンに向けて発射、10発中4発が着弾・爆発に成功
すぐに迎撃方法が開発されたため、目標まで到達したのは1/4に過ぎなかったが、イギリスを混乱に陥れたのは間違いない
華々しい失敗作で、建設作業に従事したのは恐ろしい状態で生きていた半ば飢えた強制収容所の収容者たちで、製造の過程で多くの犠牲者を出し、戦時中のドイツ人技術者の独創性だけでなく、道徳観念の欠如をも示す見本

95. メッサーシュミットMe262戦闘機
447月メッサーシュミットが敵を不意打ち
37年に開発に着手、2年後ターボジェットエンジンが初期のハインケルに搭載され、開戦直前に最初のジェット飛行に成功したが、空軍の関心を引かないまま空襲で破壊
別途Me262の開発が進められ、双発ジェットエンジンを選択、42年処女飛行、ようやく空軍省が納得して旧来のBf109戦闘機からの変換を指示
ところが、ヒトラーは爆撃機となることを望んだため、高速爆撃機へと仕様変更され、さらに時間を空費。4411月にヒトラーが態度を軟化させ、戦闘機の製造が再開された時にはすでに制空権が連合国側にわたっており、Me262の活躍は限られたものとなった
連合国側の航空機735機を撃墜したと考えられているが、あまりに数が少なく、登場が遅く、燃料不足と政治的な干渉が重なって、結局その効果を打ち消していしまった

96. 国民突撃隊の腕章
国民総動員体制には長い歴史がある
ナチ・ドイツでは35年から徴兵制、41年以降は召集対象年齢がどんどん引き下げられていったが、本当の意味での国家総動員体制が実施されたのは4410月で、国民突撃隊という形を取った ⇒ 1660歳の全てのドイツ人男性を招集(ママ)した国民軍
レインコートや軍服の上着を身につけた、ひ弱な少年や年寄りの寄せ集めで、死に物狂いの烏合の衆に過ぎなかった
多くの隊員には武器も与えられず、唯一共通しているのが左の上腕に巻かれた腕章
ほとんど戦争の恐怖を目撃していないドイツ国民の間に新たな自信と抵抗する意思を吹き込むためと、軍事上も突撃隊員の熱意がドイツ陸軍の戦意を鼓舞し、軍が奮起することが期待されたが、前者については戦争がどれだけまずい状況に陥っているのかを暗に示すバカげた象徴に過ぎず、また後者についても数の上ではドイツ軍の兵力は増えたが戦闘での有用性は極めて限定的だった
突撃隊の狂信的態度と勇敢さにもかかわらず、連合国軍の相手にはなりえず、戦争の最後の6か月で175千人の隊員が死亡、悲惨な結果に終わった無謀な企てだった

97. V2ミサイル
3帝国の道徳観念のない狂気を、科学者たちの科学的独創と共に実証。初めて人間の手によって作られた宇宙に達する物体だったのみならず、資源と人命の壮大な浪費
ドイツの科学者たちは、誘導ミサイル開発競争において、どの国よりも抜きんでていた
23年にはロケットを宇宙に発射する構想が打ち上げられ、30年に打ち上げ成功、ロケット時代の幕開け
ドイツ陸軍は長距離砲の代わりとして着目、42年発射に成功。高さ14m、爆弾750kgを含む総重量13tで航続距離200㎞、高度85㎞を達成するが、英軍の察知するところとなり、研究拠点が空襲されて甚大な被害を被って開発が遅れ、強制収容所で6万の労働者を動員して再起。1/3は戦争終結まで生き延びることができなかった
44年大量生産の第1号機がロンドンに向けて発射、3人の民間人を殺害
数か月で3200発が発射、時速2900㎞で航続距離330㎞に及ぶと阻止することができるものはなく、予想通りの威力を発揮したが、連合軍の発射基地占領により終結
69NASAのアポロ計画を立案・指揮したのは、V2を開発した無節操なヴェルナー・フォン・ブラウンだった
V2の開発と製造で無数の人命が失われただけでなく、1発生産するのに20億ドルと推計されたことは記憶にとどめておくべき ⇒ 2万台のティーガー戦車か800隻のVIIUボートを製造できた
さらに発射には30t近くのジャガイモから蒸留されたエタノールが必要とされたが、目標へ噴出された爆薬の量は1t以下
生産されたこと自体が驚異

98. ゲーリングの電報
22年にミュンヘンで初めて会った時からゲーリングはヒトラーにとって不可欠な協力者であり続けた。ミュンヘン一揆の間ヒトラーの傍らにいた
にも拘らず、ナチの仲間たちの大半と同様に神の恩寵を失い、内部抗争に加えて彼自身の享楽的で放縦なライフスタイルから力を失った
454月ヒトラーの副官かつ後継者として公式に指名されたこともあって、ヒトラーがベルリンの地下壕で敗戦と自殺を宣言した翌日、ベルヒテスガーデンにいたゲーリングは、ヒトラーが閉じ込められて何もできなくなっていると推測して、22時までに返事がなければ行動の自由を失ったと想定して自ら行動を起こすとヒトラー宛に電報を打つ
電報はゲーリングの仇敵ボルマンの手に落ちるやいなや、事実上のクーデターだとヒトラーに注進、ヒトラーはすぐに癇癪を起こして全ての役職を解き逮捕すると返電、30分以内の返答を要求。自宅に軟禁状態に置かれる
彼の失墜は、くだらない反目や陰口の最終ラウンドでライバルたちに仕組まれたもの
悪臭放つ首相官邸地下壕の命令には、ナチズムそのものの最終段階が指示されていた

99. 元帥デーニッツのバトン
43年海軍元帥に任命された海軍の最高司令官デーニッツはナチズムの熱狂的な信奉者
1次大戦では海軍Uボート部隊の古参兵だった彼は、商船を標的にする考えの主たる唱道者として頭角を現す
元帥に贈られた権力を表す儀式用の装身具のバトンは宝石をちりばめた壮麗なもので、ナチ政権によって贈られた26本のうちの1
ヒトラーの自殺後、ヒトラーから後継者に任命され、デンマーク国境近くの比較的安全なフレンスブルクの地から見せかけの政府を率いていた
523日ドイツ政府は解散したことを告げられ、捕虜となってニュルンベルクに連行され、10年の禁固刑を宣告、56年釈放、80年死去、享年89
バトンはイギリス軍指揮官に戦利品として渡され、後に博物館に寄贈・保管

100. ゲーリングの青酸カリ入りプセル
46年ゲーリングは死刑宣告の2週間後服毒自殺し、大半が自殺によって裁判を免れた仲間のナチ指導部の手本に従った
絞首刑を不名誉だとして銃殺を主張、死の1週間前には妻に、「安心できることが1つある。私は絞首刑にされない」と伝えていた
ニュルンベルク裁判でゲーリングは被告人たちにとっての護符のような存在。何年かぶりにモルヒネを断つことができた彼は、計り知れない能力と知識で、裁判を巧みに受け流していた
青酸カリの入手経路はいまだに謎だが、第3帝国の末期自らの末路に不安を抱いて自殺が急増、ナチ首脳部も100人が自殺
自殺はナチ体制が公式に承認した行動方針でもあり、青酸カリ入りのカプセルがSSにより広く製造・配布された



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