血族の王  岩瀬達哉  2019.7.1.


2019.7.1. 血族の王 松下幸之助とナショナルの世紀

著者 岩瀬達哉 1955年和歌山県生まれ。ジャーナリスト。04年『年金崩壊』『年金の悲劇』により講談社ノンフィクション賞。同年『文藝春秋』に掲載した『伏魔殿社会保険庁を解体せよ』で文藝春秋読者賞

発行日           2011.7.15. 発行
発行所           新潮社

『新潮45200948月号、12月号、101月号、39月号、1112月号掲載
書籍化にあたり大幅加筆し、新たに終章を加えた

序章 里道を抜けて
08.8.5.松下電器7代目社長・大坪文雄は、紀ノ川沿いの幸之助の生誕地に行って墓参をし、2か月後に創業90周年を迎えた松下の社名をパナソニックに変更。ナショナルのブランド名を廃止し、社名とブランドの統一を果たす
更に2か月後には三洋電機の完全子会社化に向けた資本・業務提携を発表。幸之助が17年の創業時、夫人の弟だった井植を呼び寄せ、ともに業容拡大に邁進するも、井植は46年三洋電機を設立して独立、背景には諸説あるが円満退社でなかったことは確かであり、60年後にパナソニックに飲み込まれることについては様々な感情が渦巻いていた
幸之助の実家は、名字帯刀を許された地主の階級。祖父の時代に隆盛を極めたが、1882年没後家運が急速に傾く ⇒ 父が養蚕に熱中、村会議員として活躍するが、88年米相場に失敗して破産、家屋敷・田畑を失い、和歌山に出る
幸之助の帰属本能は、経営の現場においては血族の繫がりに集中するが、和歌山では人手に渡った家屋や土地への執着という形で顕在化し、次々に買戻しに向かう

第1章        神話の始まり
幸之助が1015歳丁稚で入ったのが船場の五代自転車商会。最初に奉公したのは千日前に近い八幡筋の宮田火鉢店だが、奉公して3か月後に閉店、主人の紹介で五代に入る
実の息子同様に可愛がられ、子ども心にも信義の重さを認識しながら、母の具合が悪いと嘘をついて店から消えたのは、精一杯背伸びしながらなりふり構わず人生を渡り急がねばならなかったから

第2章        11歳の実父
幸之助が抱き続けた飽くことのない事業欲と、苦境に置かれてより真価を発揮する独創性は、家名の復興にかける一家の願いが生み出したもの
幸之助が丁稚に出て3年目、大阪に出た父の生活も安定した頃、幸之助に大阪貯蓄局での給仕の仕事の口があったが、父が自らの失敗で落ちぶれた家の再興を幸之助に託し、そのためには商売で興すしかなく、奉公を辞めたら商売もできなくなると言って反対。その直後に父が他界、長兄、次兄を失っていた幸之助は家長となり、家名復興を崇高な目標と定めるようになったことは、幸之助にとってむしろ自然の成り行き
未亡人となった母は姉とともに和歌山に戻るが、貧窮に身を置き、再婚を決意。この決断が後の幸之助の郷土意識を終生にわたって複雑なものとしている
『タイム』誌の1962223日号が幸之助を表紙に選び、「フォードに倣う」として戦後の日本の驚異的な経済成長を分析しながら、「日本の納税王」となった実業家マツシタの歩みを仔細に紹介したが、サクセス・ストーリーに欠かせない不遇の半生を幸之助の翳りのある眼差しにイメージした。この「悲しい目」に通じる幸之助の郷土への帰属意識は、明治の成功者がそうであったように、故郷に錦を飾ろうとした形跡はなく、むしろどこか冷淡な印象を与える
出生地でも、寺の建て替えに寄進を頼むと、自助努力したあとの足らず前を出すと言われ、理屈には適った話ではあるが、鷹揚な態度を期待した人々の失望と批判を買う。同じような話が和歌山城天守閣復興の寄付集めでもあり、寄付の見合いに天守閣にナショナルのネオンを掲げさせよと言ったとか、増額の要請もやんわり拒否したとされ、「幸之助は和歌山を嫌っていた」という風説がいまだ市民の間で根強く語り継がれている
郷里での母の再婚がこの種のつれなさの背景に控えていたのではないか
生涯を通じて消し去ることのできなかった記憶の影は、幸之助が唱えた「11工場主義」という一大事業の展開の軌跡において明瞭に刻印される ⇒ 関西経済界と高知県の経済人との会合に参加した幸之助は、高知からの地方過疎化対策としての工場進出要請を受け、経営効率よりも「より高い立場における企業の使命」と意義付けて鹿児島を皮切りに工場を建て始めたが、この事業が始まる前から熱心に誘致運動をしていた地元和歌山県にようやく工場が出来たのは幸之助の死後のこと。死の3年前には用地の手配までしてあり、49日の喪が明けたところでの工場建設協定書調印発表、更には工場建設が実現していない県は4つしかなかったことなどから、偶然ではなかったことが推測される
幸之助は、「幼い頃に体験した冷たい仕打ち」を思うと、容易に進出を決められなかったと述懐していたというが、生誕の地からは毎年誕生日には鯛が届けられ、幸之助もそれを楽しみにしていたといわれ、屈辱の日の記憶はすでに癒されて久しかったはず
自転車店での丁稚の間、販促のために活況を呈していた自転車レースに幸之助ものめり込んで賞金を稼ぎ、いずれは選手になって母を扶けようと考えた矢先、接触事故による大怪我でレースへの出場を禁じられる
その頃母の再婚話が持ち上がり、受け入れがたい現実に対し、家長として聞き入れざるを得ず、憤懣やるかたのないまま店を飛び出した
大阪市内の姉のところに居候しながら、市内に電車が走り始めたことに目をつけ、大阪電灯の内線工として再就職
再婚した母は3年後に死去。長姉の勧めで20歳で淡路島出身の井植むめのとの見合い結婚とも重なって、家長としての自覚が吹き返した

第3章        家族3人の作業場
結婚を機に、大阪電灯の職工として配線工事をする中で思いついたソケットの改良に熱中、1年がかりの作業は後に失敗作だったと反省するも、当初は画期的なアイディアとして上司にも会社の認定器具として採用するよう求めたが、却下で落胆 ⇒ 自らの会社での限界を感じるとともに、一旦一般工事人の羨望の的でもあった事務員に最年少で抜擢されながらも学校に行っていない事が下手な字で露見した時の火の出るような恥ずかしさも重なって、7年で退職。改めて整然父の言っていた、「小学4年中退でいまから勉強しても遅い、商売で身を立てた方がいい」との言葉を心に叩き込む
17年独立して東成郡猪飼野(現東成区)で改良ソケットの製造に着手、特許は退社直前に「松下式ソケット」として取得。完成した時には資金が底を尽き、販売価格も口銭も客に教えてもらう始末。むめのが呼び寄せた弟の井植歳男と3人で新規まき直し
そこに扇風機の土台の部分に使う碍盤を練物で造る注文が川北電気から舞い込んで一息つき、「平凡の非凡さ」がその後も武器となる
電化の波に乗った川北電気は急成長を遂げるが、第1次大戦の戦後不況で倒産、第2次大戦後再興したものの56年経営難に陥り、今度は幸之助が救済し、現在のパナソニックエコシステムズの母体になっている
幸之助の改良したアタッチメントプラグは、定額料金の11灯契約の下で、ソケット代わりとして重宝され地下足袋、亀の子タワシと並んで大正期の3大ヒット商品となる
先行メーカーはあったが、実用新案をとるとともに、3割がた低価格で提供
競合メーカーの値下げで、問屋が寝返ったため、直販体制を構築、後の大販売網に繋がる
資金調達については、むめのがしょっちゅう実家に泣きついて親戚縁者にまですがった

第4章        師であった男
18年に工場を中小零細企業が密集する福島の大開町に移し、更に創業20年で門真に8,000坪の本社を構築 ⇒ 一大躍進の原動力は、大衆の欲求を掘り当てたことで生み出された。二股ソケットと自転車用ランプこそそのシンボル
飛躍の過程で幸之助に多大な影響を与えたのは、大開の1区画隣の山本武號商店の山本武信。師弟と見紛うばかりの親密な交流を経て、激しい感情の対立の末に決別
同じ船場の丁稚から這い上がり大きな成功を収めた山本に絶賛に近い尊敬と羨望を抱き私淑したが後に山本の変質的なまでの強欲さを見落としていたと臍を噛む
山本とのきっかけは砲弾型の自転車ランプがなかなか売れなくて困っていた時ひと目見るなり品質を認め販売委託契約を結んだ幸之助は山本の確かな眼力に敬服した
山本に大阪府下を託し、地方都市でも有力問屋との代理店契約を締結し、創業以来の悲願だった全国的な販売網を一応整えたが、山本が問屋を通して地方へも主品を流したため地方の代理店と軋轢が発生、山本は幸之助の足元を見るように、全国の販売権を要求し、幸之助はそれに屈し、最終的には違約金を支払って契約を解消、高い授業料を払わされる
砲弾型ランプの後継機種として角型を開発、更にヒットする。新聞で見たインターナショナルの文字からナショナル"ブランドを思いつき、角型ランプが最初のブランド商品となった。自転車商会の丁稚だったころ、東京でナショナル号自転車がヒットしていた
長男が生後半年余りで風から脳症を起こして夭折、意気消沈

第5章        ラジオの時代
1次大戦後大衆の新たな娯楽として登場したラジオ放送は、タイタニックの海難事故が契機となって構想されたもの ⇒ 12年の事故の際、マンハッタンのデパートの屋上の通信ブースに海難救助信号が入り当直のサーノフが受信。それを境に無線は社会にとって必要不可欠なものと考えられるようになるとともに、第1次大戦で無線のネットワークが整備されたのに伴い、サーノフが無線の放送ビジネスへの活用を思いつく。放送事業のため米海軍省の肝いりで設立されたRCAでサーノフが営業部長として業績親展に寄与
25年東京でもラジオ放送開始。幸之助も遅ればせながら30年にはラジオ受信機の製造を開始。この時も差別化は品質と販売方法。先行メーカーの技術支援を仰ぎ、NHKの性能コンクールでも1等を獲得。担当した中尾哲二郎はむめのの妹の主人で学歴は小卒だが、松下の技術力を裏面で支え、後に技術最高顧問に就任
当時の業界での評判は、遅く始めて先人の長所を取り入れ自分のものとして大幅に、安い価格で売るという、利巧だがずるいやり方という嫉妬交じりのものが多い
ラジオの販売にあたっては、他社比割高な価格を設定、販売代理店に松下との共存共栄を呼び掛け、元々船場の商家に伝わる伝統的な「商家同族団」の思想をもとに、更に32年には「産業人の使命」という新たな理念を加えて、「水道水」のごとく安価無尽蔵に商品を生産するためには、販売店の営業努力で松下を支える必要があるという、「水道哲学」を披露
この理念がその後の松下において浮き彫りにした最も重要な事実は、強いられた労働ではなく、使命感によって湧き出る意欲こそが仕事の効率を上げる力を持っているというもの
当初2年は累積赤字に苦しみ、コンベアシステムによる組み立ての流れ作業の導入で漸く黒字化したのは4年目で、大量生産により単価引き下げに成功するが、特許を管理するRCAから使用条件として株主であるGEの傘下にあった東京電気(現東芝)の真空管使用を義務付けられ、行く手を阻まれた ⇒ 後に技術提携をするに際し、GEではなくフィリップスにしたのもこの時の意趣返しの意味もあったのではないか

第6章        一大コンツェルンの誕生
32年幸之助は、多額の対価を払って手に入れた真空管の特許を競合メーカーに無償で開放して業界に衝撃を与えたが、それは翌年に新規参入を予定していた電球製造への布石でもあり、特許を管理していた東京電気への牽制となった
昭和初期、電球は日本の重要輸出品の1
安価ではあるが品質で劣るナショナル電球が、品質において数段上の東京電気のマツダランプを凌ぐ勢いで売れ始めたのは販売力のお陰 ⇒ 全国を人口35万規模のエリアで分割し系列問屋を設立し、その下に専属の小売店(連盟店)を配置するという「連盟店制度」と名付けられた仕組み無くしてはあり得ず、価格の地域カルテルが作られた
35年には「斯界における一大コンツェルン」の称号を博するまでに成長
この頃から軍の要請もあって、生産拠点や販売網を求めて東南アジア中心の海外進出が始まる ⇒ 独自の輸送強化のために造船や木製飛行機製造の会社まで興す
飛行機も海軍の要請であり、軍需産業への進出を強いられた幸之助にとって、資金逼迫がネックとなり、資金調達に苦しめられる ⇒ 在外事業所の大半は幸之助が個人的に銀行から借り入れしたもので、敗戦直後の幸之助は追い詰められ進退窮まる
終戦時の幸之助の全資産は2,384万余り。負債が2,830万ですべて住友の西野田支店からの借り入れ
GHQから財閥指定され、幸之助は放逐、「賠償工場の指定」により占領国への賠償金支払いのため工場が接収、更に戦時補償特別措置法により戦時中の軍に対する債権の放棄と終戦時以降に軍から支払われた代金を返納させられた
46年の新憲法発布と同じ日、幸之助は松下電器経済研究所(PHP ”Peace & Happiness thru Prosperity” 研究所と改称)設立し、PHP運動を公的機関に働きかける

第7章        ある海軍大将の日記
幸之助にとっては公職追放が最大の打撃であり、実業界からの引退も覚悟したが、再建作業のために粘って社長に居続けたため、在職のまま6か月後のパージ解除を迎える
パージ解除に貢献したのは松下労組で、パージ指定の前から率先して陳情していた
幸之助のパージ解除に貢献したのは元海軍大将で開戦時の駐米大使野村吉三郎。幸之助と同郷で17歳年上。1人娘の幸子が三井財閥本家に繋がる平田伯爵の次男正治と結婚する際は、見劣りする松下家の主賓として列席し体面保持に寄与

第8章        義兄弟の違(たが)う道
井植歳男の退社については相反する2説 ⇒ 幸之助の公職追放を解除させるための身代わり説と、軍需産業傾斜を推進した歳男に対する公職追放を巡る感情的対立から決別したとする説があり、幸之助は多くを語らず
歳男とともに営業と製造の幹部社員だった岩佐と後藤も三洋電機に移り、すぐに次弟の祐郎と末弟の薫も合流し、井植3兄弟による経営体制が整う ⇒ 電気スタンドと自転車用発電ランプから始め、両者にナショナルブランドを幸之助から買って付けていた。2商品に限ってとはいえブランドを売り渡したのは、財閥解体にあたって特許権や商標の処分まで求められて他社に処分されるのを防ぐためだったのだろうが、あくまで正当な対価を払っての取得と見做す歳男と安価で譲ったと考えた幸之助の間では一時期激しい対立の遠因となった
井植はさらに50年には乾電池を、52年にはプラスチックラジオの製造販売にも乗り出し、その後も家電製品を中心に松下のお株を奪う勢いで事業を拡大 ⇒ 松下の販売網を利用しながら、松下製品をコピーし、より安い製品を作るのが井植の成長戦略。研究開発費もいらず、安い部品調達のため松下グループの使う部品は使わなかったため、近親憎悪を増す結果になり、幸之助は松下の販売網から歳男を締め出すために敵愾心剥き出しとなる
53年の洗濯機競争で初めて三洋が本家の松下を抜き業界トップに ⇒ フーバー社の噴流式の特許が日本では認められなかったため三洋がその間隙をついて類似品を松下の攪拌式の半額程度で売り出したため、洗濯機を日本に紹介した幸之助のプライドを傷つける
ただ、幸之助にとっての53年は占領期を抜け出して松下の再生を果たした記念碑的な年で、全国長者番付の1位となり、推定822百万円の財産を保有。歳男も12位に
49年ドッジ・ラインと言われた極端な金融引き締め政策の煽りで、初の希望退職者を募るほどに困窮したが、その時幸之助を助けたのは戦前江崎グリコ創業者と作った「文なし会」に加わったサントリーの鳥井信治郎ら大阪の財界人
戦時中はミナミの約1,000人の芸者の半分が松下で雇ってもらっていたというが、その背景には若くして名妓とうたわれ、その後世田谷に居を移したところから世田谷夫人と呼ばれた幸之助の第2夫人との関係があったと想像

第9章        崩れ行く王国
ドッジ・ラインは為替レートの1本下で安定的な貿易利益を生み出したが、松下電器貿易が思わぬ為替差益を上げたことで、密貿易に手を染めることになる
49年松下電貿が豪州向け裸銅線の輸出でポンド切り下げの影響もあって巨額の為替差益をあげ、その資金を活用して松下電器のデッドストックを中国共産党に売り捌こうとしたことが密貿易として摘発。電貿専務の斎藤周行が表に立ってGHQに朝鮮の情報収集の見返りとして密貿易を黙認させたが、手違いから帰国時に日本の警察によって摘発され、全員有罪判決を受ける ⇒ 斎藤が責任を1人で負って罪を被ったが、松下電器と電貿の汚名は永久に残った(衣笠丸事件)
斎藤は汚名返上のため、松下と北米フィリップスとの提携を幸之助に持ち掛け、幸之助は513か月の米国視察に出発、フィリップスとの間に輸出入総代理店契約を締結するが、締結後に迷い出した幸之助に業を煮やした斎藤は、勝手に電貿の名前で契約締結の記事を新聞に公告したため、幸之助の逆鱗に触れ、電貿を実質首に
三洋に移籍した後藤も、工場長時代幸之助に無断で請負単価を変更したことを叱責され、以後昇進が遅れに遅れたことが、重役になれないままの転籍の原因になっている
幸之助の頭の中には、仕事の流れがすべて入っていて、常に原価計算をしながら無駄のない経営を考えていた ⇒ 毎朝工場に電話で採用や出勤状況をチェックし生産性に注文を付けたというし、在庫管理は特に厳しく月額の1/2厳守を徹底
退社後の斎藤は、幸之助に呼ばれて、会社に迷惑をかけたので退職金はさせないが、と言って50万円渡された際、衣笠丸のことはすべて本社の高橋荒太郎専務には報告済みで幸之助に伝わらないはずはないとの不信もあって割り切れない気持ちを持ったのが76年に決別の書ともいうべき『拝啓 松下幸之助殿』出版になったもの ⇒ 幸之助の米国視察旅行での秘密を悪意すら感じさせる克明さで書き残した。世田谷夫人宛の手紙の封筒のローマ字の上書をさせられた
世田谷夫人との間には4人の子どもがいて、認知も済ませていたが、課税遺産総額5億超の相続人は実名が公表されることになっており、門真税務署によって公示 ⇒ 世田谷夫人を巡るむめのとの確執について、幸之助は80歳を迎えようとする頃、この歳になって初めて妻の苦しみがわかった、反省してると語る

第10章     新たな市場へ
51年民放開始の当日、宴席で新日本放送が流されると突然ナショナルのコマーシャルが飛出したが、招かれた米国人は日本にテレビ事業を起こすべく画策していた米国務省の関係者で、その席で松下とフィリップス本社との技術提携の仲介の労を本社の代理人弁護士に申し出、翌年の契約締結に結び付くが、これによりテレビ製造に不可欠のエレクトロニクス技術の供与をフィリップスから受けることができた
正力の追放を早期に解除して「日本テレビ」の発足が決まり、出資の要請に真っ先に応じたのが幸之助
フィリップスから技術指導料7%の要求に対し、松下は手のかからない生徒だから4.5%にまけろと要求、その上合弁会社である松下電子工業の成功は幸之助の経営手腕にかかっているのだから松下にも3%の経営指導料を払えと要求。初耳のフィリップスは抵抗したが、これだけ強い意志を示した会社は初めてで頼もしいということになり、松下側の要望を聞き入れたという。フィリップスが幸之助の実力を認めた証だろうが、頭金として別途約2億円を要求、それをそのままフィリップス側の30%の出資金に充当したさい、松下は日銀の「別口外貨貸付制度」を利用して調達の上フィリップス側の出資金として合弁会社に払い込むと伝えるがフィリップスに信じてもらえず、わざわざ送金手数料を払って一旦資金をフィリップス本社に送金したという ⇒ 幸之助の言葉に嘘がないことを確認したうえで、ノウハウの伝授が行われ、生産体制が整えられた
テレビ用の多数の電波の中継基地建設はアメリカのユニテルが請け負ったが、その支払いは米国政府からの10百万ドルの借款で賄われる計画で、その借款引き出しにも幸之助が野村吉三郎に頼って実現に漕ぎ着けた ⇒ 日本にテレビ受信機の巨大な市場が誕生することを描いていたが、野村を日本ビクターの社長に起用したことによって、幸之助は日本がこれから迎える経済成長の足掛かりまでも築くことになった

第11章     密使のアメリカ工作
日本ビクターは戦前RCAの子会社から東芝に株式譲渡され、戦後は興銀に引き継がれ、銀行法改正で幸之助が引き受けたものの、資本金の20倍もの借り入れで倒産寸前だったが、幸之助はしっかり中身の技術力を見抜いていた
53年野村を顔として社長に懇請。経営には住友出身の百瀬と松下の北野を抜擢して派遣
野村は、暗礁に乗り上げていた日米外交交渉を水面下で手伝う ⇒ 朝鮮戦争特需後の新たな景気浮揚策として日米相互防衛援助協定(MSA協定)に基づく経済援助を進めるが、その前提条件となっている日本の段階的再軍備推進に対する米国内の強い不信感緩和が必要
野村は社長就任直後に渡米、RCA本社に儀礼的に顔を出しただけで、あとは対米工作に奔走、翌年のMSA協定調印に貢献、協定はその後の日本経済の息の長い成長を牽引
権利・権益は出来る限りクローズすることが常識だった時代、自由な競争の場を広げることでより高い収益を得ようとした幸之助は、おそらくオープン化への舵を切った最初の経営者であり、幸之助の柔軟性と独創性は、テレビの販売戦略でより真価を発揮
松下は52年末から白黒テレビの製造販売開始するも、当初4年は四苦八苦していのが、農家はテレビが買えないほど自分たちが貧しいとは思っていないという事実に着目、11軒訪ねて売り込み始めてから松下だけが販売台数を伸ばし始めたという。これにはドラッカーも舌を巻いたと語っていた
幸之助の大成の背景には、独創性と綿密なマーケティングに加え、信義を重んじたことがあげられ、経営哲学である「共存共栄」もともに栄えるという意味に加えて、自分に尽くしてくれた者には無条件で恩義を返すという実践が伴っていた

第12章     シナリオにない涙
64年熱海での全国販売会社代理店社長懇談会は、後に「熱海会談」と呼ばれ、最も伝説化された幸之助神話となる ⇒ 全国170(大半には松下の資本が入っていた)が参集したが、オリンピックを前にした夏物家電の販売商戦の真っ最中で気もそぞろのなか、表向き会長に退いて4年目の幸之助が、高度成長の経営体質を捨てきれず頭打ちの需要の中で過当競争を続け、更に前年末の金融引き締めの影響で市況が悪化の一途を辿り始めていた中、販売現場を心配して急遽ぶっつけ本番で開かれたものだが、幸之助は松下の生命線ともいうべき販売網が危機的状況にあることを明確に察知していた。最初にその異変に気付いたのは当時住友五反田支店長の樋口(後の副頭取、アサヒビール社長)で、取引先の松下の代理店に売れ残りがありが押し込み販売が原因であることを突き止め松下の財務担当に報告。それが幸之助に伝わり、直接樋口にお礼の電話があったという
数字達成のためのハッパのかけ方が尋常ではなく、滞留在庫が経営の足を引っ張りかけていた。170社のうち収益を上げているのは20数社。販売網の抜本的な再構築が喫緊の課題
熱海会談では、極力一体感を出そうとして演出に気を配った結果、喧々諤々の議論となり、幸之助も初めての経験と述懐したように、最後の30分で率直に反省の弁を述べ、捨て身の覚悟で思いのたけを述べたところ、険悪なムードが一掃され、出席者全員との一体感が生まれた ⇒ 長年にわたる代理店の恩顧を忘れたことを反省し、創業の昔に帰ってすべてを考え直すことを涙ながらに誓い、販売店も涙で応える。人情の機微を敏感に掴み取り、体験に根差した言葉で訴えかける幸之助の感性の鋭さに今更ながら驚かされる
まず実施したのが”1地域1販売会社制で、次いで月賦販売制度の改革でナショナル月賦販売を設立して販売店の月賦債権を買い取って、販売店を債権回収業務から解放
コストカットで真っ先にメスを入れたのはコンピュータ経費で、時代の真逆を行って営業所からコンピュータを一掃 ⇒ 63年『タイム』誌のカバーストーリーに取り上げられた1人としてアメリカに招待された際、IBMを見学してすっかり圧倒されコンピュータへの興味を失ったが、ちょうどその頃アメリカ松下が在庫過剰と不良債権の山で行き詰まり、幸之助はそれをコンピュータのせいだとして偏見が固まり、64年にはコンピュータ事業から撤退を決断
熱海会談後販売の問題を一気に解決し、業績はV字回復。同時に経営トップの資質と能力も浮き彫りとし、社長の正治は棚上げに
60年安保闘争の影響で左傾化した組合を立て直すために送り込まれた後の委員長高畑敬一もポスト幸之助が松下最大の経営課題と位置付け、事あるごとに同族外からのトップを幸之助に説いたが、組合立て直しに貢献した高畑に恩義を感じながらも幸之助が松下家の女の力を押しのけて社長交代を実現させたのは12年後。その間もう一度大きな経営危機に見舞われている

第13章     燃え上がる老松
粘りこそ幸之助の真骨頂で、販売改革でもいかんなく発揮。一旦取り組んだ仕事は結果が出るまで止めないので、失敗もない
1年で販売改革を成功させた幸之助に大きな心境の変化が訪れる ⇒ 利益追求の経営から、ゆとりを求める経営への転換であり、65年に「ダム経営」と名付けられ、事業をより堅実に成長させ、安定させる理念と位置付けられた
大盤振る舞いは社員への待遇にも及ぶ ⇒ 持家制度、遺族育英制度、福祉年金制度
幸之助の口癖は、経営は単純なものではない、いろいろなところに気を遣い、どんな些細な事でも多方面への影響を考え、細心の注意を払って決断しなければならないというもの
井植歳男との和解を果たす ⇒ 幸之助の方から淡路の三洋の工場見学を申し入れ、歳男も喜々として接遇に応じたという
66年公取が松下、三洋以下大手家電6社をカラーテレビの価格カルテル容疑で手入れ
67年には、松下の不況対策の系列店対策が独禁法違反とされ、ヤミ再販価格の規制措置の撤回を求めてきたため、審判に持ち込んだが、ダイエーの中内が「ヤミ再販価格」を暴露したため70年に違法行為が認定される
松下が執拗に争う姿勢を見せたことに主婦連など消費者団体の女性たちが猛反発して、1年間のカラーテレビ不買運動を松下の全製品に拡大
69年当時、市民運動の異常なまでの高まりの中にあって、不買運動が松下の関連会社も含む全社を直撃 ⇒ 労組の高畑が間に入って主婦連の要望を聞き、メーカーが決めた小売価格(現金正価)の撤廃と、2重価格の生じない新製品の発売を条件にボイコットを止めることを約束させ、幸之助に直談判し実現に漕ぎ着け、不買運動は1週間で終息。現金正価は標準価格と改められ、量販店と小売店で価格差のない新型テレビを発売した結果、ケガの巧妙で一時市場シェア40%を獲得
71年には独禁法違反の審判に従い、公取の排除命令を全面的に受け入れるが、同時に以後組合の意見を積極的に求め、生の市民の本音の声に耳を傾けるようになった ⇒ 74年から労組との「経営懇談会」に発展
高畑は、82年初の労組出身の役員に選任されるが、幸之助の推薦と家電営業本部長就任には正治も社長の山下も猛反対、何とか役員だけは幸之助が押し切った

第14章     君臨する「教主」
デジタル技術が理解できずに苦悶
大宅壮一は松下を金太郎飴の集団"と揶揄、幸之助を一種のお光さまと呼び、正治については"二代目教祖と侮辱した
幸之助は、「金太郎飴でいい」と幹部を集めて一喝。多少出来が悪くても、金太郎飴のように自身に従順で、忠誠という点で変わらない部下を可愛がり、どんなに功績があっても独断専行するものを決して許そうとはしなかったが、その徹底した姿勢が、幸之助のカリスマ性を高め、影響力を保持し、衰えさせることがなかった
61年社長の座を正治に譲った後も、常に首根っこを押さえ、経営判断の自由を与えなかった
幸之助の経営判断の基準は、「儲かるか儲からないか、儲かるにはどうすればいいか」に尽きる。儲けるためにはどんな「無茶苦茶」な事でもする
米国向けカラーテレビの製造を守口から愛媛に建設したばかりの西条工場に移転したのはその典型 ⇒ 平家が負けたのは力を一か所に集中しすぎたからというのがその理由で、コストダウンのため、西条工場ではグループ会社からの部品調達という不文律を破って、少しでも安い他メーカーからの調達を認め、アメリカ市場を席巻することに成功、続くVTRの量産でも尽力し圧倒的シェアの獲得に寄与
VTRではソニーとの間に血を血で洗う争いを展開、幸之助がヴィクターのVHSを採用したのは録画時間の長さであり、その背景にはアメリカのRCAOEM調達する際の決め手が録画時間の長さだった ⇒ ベータは1時間、VHS2時間に対し、RCAの要求はアメフトを録画できる4時間、それも3か月で作れと言われ間に合わせた
家電製品の行きわたりで新しい成長戦略が見えない時代に突入、72年正治は末席取締役の山下を社長に抜擢、高齢化した幸之助の取り巻きの排除を期す
幸之助の薫陶を直接受けた第1世代の退任を自らの排斥ではないかと疑心暗鬼に陥った87歳の幸之助は、82年の経営方針発表会で、言うべきことは言わねばならぬと社長を差し置いて最初に発言 ⇒ 松下の基本方針を批判することは許さない。確固たる経営方針を堅持して松下精神を発揮しないことには自らを卑しめることになると熱弁をふるうが、幸之助の苛立ちはまさしく正治と山下が進める若返り人事に向けられたもので、密かに役員OBを集めて山下を辞めさせる会を作っていたという
経営の神様の晩年は、幾何かの寂しさと憂いに包まれていた。自分の出る幕ではないと自覚しつつも、経営への未練断ちがたく、思い通りにならない組織を前に歯痒さを抱えて過ごさなければならなかった

第15章     85年の時を経て
老人特有の頑迷さに囚われる
73年会長退任の挨拶では、数え80で創業55年を振り返り、感慨ひとしおと言いながら、まだ気力も充実していた幸之助が次世代へのバトンタッチを決断したのは、松下電器を松下家にとって盤石なものとするため、すべては孫の正幸に事業を引き継がせる布石だった
退任直前、正幸のための組織変更を実施 ⇒ VTRの後継商品となるビデオディスクの開発プロジェクトを第1開発事業部として昇格させ、正幸を企画部長として配属。アナログ技術への愛着から接触型を志向、開発費もふんだんに使わせたが、最終的に80年にはレーザー光線による非接触型に規格が統一され、松下の開発は中止に追い込まれる
この時を境に幸之助は経営に深く介入しようとしなくなった ⇒ 進化し続ける技術についていけないことを自覚
45年生まれの正幸が念願のウォートンに留学したことを幸之助は事前に相談されておらず、アメリカ松下で研修しているとばかり思っていたことから、1年で留学を辞めさせ、16年も勉強したら十分で速く実業を勉強させろと雷を落とした
周囲は留学の代わりに3Mに出向させるが、それも1年で終え、幸之助の催促で帰国、自身の大番頭たちを家庭教師として実学を勉強させるが、大番頭たちが山下によって退任させられた後は正幸を担ぐグループがいなくなることに幸之助は気づかなかった
幸之助の言葉通り40で取締役になった後50で副社長までは昇進したが、54歳で財界活動担当の副会長に棚上げされた後、現在に至るまで社長にはついていない ⇒ 山下の美学で、能力を公平に判断するという経営哲学を譲らなかった
82年末幸之助は主要全国紙に全5段の意見広告を載せ、「もう一度人生をやり直すぐらいの気概を持たなければ」と、正幸を後継者にするあからさまなメッセージの異常さが世間の耳目を引いたが、その悲願は死の直後に清水一行が著した『秘密な事情』により打ち砕かれる
『秘密の事情』は、世田谷夫人について事実に裏打ちされた赤裸々な描写で、幸之助のプライバシーを暴くと同時に、オーナー家の身勝手ぶりと不祥事をオーバーラップさせて松下電器と松下家の間に一線を引かせる役割を担っていた ⇒ 91年発覚のナショナル・リースの不正融資事件もその1つで、北浜料亭の女将で天才女相場師の異名を取った尾上縫相手に500億の焦げ付きを作った事件や、90年に破綻確実となった松下興産事件はいずれも幸之助の肝煎りだったというが、幸之助亡き後は松下家に責任が回ってきた
最晩年の幸之助は、正幸の社長就任という悲願に悩みながら、一方で長くつきまとっていた汚名を返上し、経営の神様としての面目を保っている ⇒ 幸之助の戦略ミスと喧伝されてきた64年のコンピュータ事業からの撤退について、松下が志向したのはあくまで家庭電化であり、当時のコンピュータはその路線にはなく、いまは家庭電化の中にコンピュータが入ってきたので、脱家電ではなく、家電コンピュータが一体となったニュー家電であり、松下は家庭電化コンピュータ革命で勝つとされたため、幸之助は留飲を下げることができた
最後の事業が80年に開塾した松下政経塾で、私財70億を投じて、21世紀の日本を担う各界の指導者の育成に熱中 ⇒ 原点は公職追放で、仕事ができない無念の思いから、政治の貧困を骨身に染みる思いで痛感したことがPHP運動になり、その目指すべきゴールが政経塾となった。当初は最終面接を務めるほどの熱の入れよう
臨終迄激しい執着を見せ、やり残した仕事をしたいという無言の叫び声が聞こえるような壮絶な死に様。既に意識のはっきりしない状態のむめのは臨終には立ち会わず、4年後に死去。87年死去の際は、父ブッシュ大統領からも弔電が届けられ、家名復興の悲願は申し分なく達成されたが、松下家の未来の安泰だけは見届けることが叶わなかった

第16章     ふたつの家族
成功がもたらした絶大な権勢と煌めくばかりの巨万の富を持ってしても、心の底からの安息と平穏が生前の幸之助に訪れることはなかったのではないか ⇒ 松下王国を一族の未来に確実に引き継ぐ願いが叶わなかっただけでなく、2つの家族の間に生じた葛藤に思い悩まされていた
一家を散り散りにした貧困に復讐するかのように尽きることのない集中力で奮闘し、成功を掴み取り、一族の願いであった家名復興の夢を果たしたが、その苦闘の軌跡を振り返れば、むめのへの贖罪意識は消えることはなかった
1人家計を支えたのみならず、資金調達にも奔走、戦前において現人神の皇室から認められるまでの成功を手に入れることができたのもむめのの貢献があったからこそ
幸之助が相談役に退いた73年に世田谷の土地を買い取って建てた家は要塞のように異様
幸之助の死の直後に『FOCUS』が、7年前に世田谷夫人を訪ねた時の幸之助の写真を掲載
幸之助が50のとき30歳下の神楽坂の芸者を見初めて大阪の大和屋に連れて行った後、第2夫人となって4人の子どもを設ける ⇒ 妾は船場商人の成功の証だが、正妻の了承が前提であり、幸之助の場合はむめのは何も知らされず、子供までいたことに感情を爆発させたと伝えられる
幸之助に代わってこの家族の世話を焼いたのは、松下の有力販売会社の社長で、戦後の販売網立て直しの際からの知り合いで、彼の尽力で官公庁ルートが開かれたといい、2人は肝胆相照らす仲
むめのは幹部社員の夫人たちを糾合して親睦会「みどり会」を結成、幸之助の事業活動を側面から支えた
井植歳男は淡路市に眠る。京都に妾を囲い、若くして急死した娘に京都の屋敷を贈与していたが、69年肺病から脳内出血を起こし死去。享年66
幸之助と歳男の明暗を分けたのは、経営権を一族が支配したかどうかの違い。一族が支配し続けようとした三洋は消え、一族の支配を求めながらも、その禅譲を果たし得なかった幸之助の事業は永続することになった


あとがき
同郷の偉人だった幸之助がいかに柔軟な思考と斬新な発想の持ち主だったかを、幼い頃からよく聞かされたが、いまにして思えば多分に脚色され、面白おかしく仕立て上げられたものが多い
小学校4年の遠足で幸之助の家をバスで通り、身近で存命していると知った時の驚きは不思議な感慨を与え、以来奇妙な親近感を抱くようになり、磁力に捉われた
『新潮45』の連載にあたって心掛けたことは、極力松下電器やPHP研究所の協力を仰がないこと。独力で資料を渉猟し、証言者を探し出すことでしかその実像に迫れないと考えた。幸之助翁の薫陶を受けた人々に助けられながら、そして翁の生き様を知ることで常に勇気づけられ、苦境に陥ってなお、一層努力し、誠実に、そしてひたむきに歩むことが、何より力を得るということを教えられた





2つの異なる松下幸之助像 矛盾は矛盾なく同居する
2019/5/4付 日本経済新聞 「半歩暮れの読書術」 楠木建
読書の愉悦。そのツボは人によってさまざまだろうが、僕の場合は論理に触れ、論理を獲得することにある。論理というと何やら堅く聞こえるが、平たく言えば「ようするに、そういうことか……」。僕にとっての読書の価値は、情報や知識を仕入れることではない。人と人の世について、腹落ちする理解を得る。これほど面白いことはない。
松下幸之助著『道をひらく』(PHP研究所)。今もなお読み継がれている名著だ。自らの拠(よ)って立つ思想と哲学が実に平易な言葉で書かれている。特別なことは何もない。「自分の道を歩む」「素直に生きる」「本領を生かす」――言われてみれば当たり前のことばかり。
にもかかわらず、この本がここまで大きな影響をもつに至ったのはなぜか。幸之助は、言葉において強烈なのである。言葉が腹の底から出ている。フワフワしたところが一切ない。本質だけを抉(えぐ)り出す。一言一言に実体験に根差したリアリティがある。繰り返し困難に直面し、考え抜いた先に立ち現れた人間と仕事の本質を凝縮する。だから言葉が深い。直球一本勝負。やたらと球が速い。しかも、重い。
ところが、である。岩瀬達哉著『血族の王 松下幸之助とナショナルの世紀』(新潮文庫)を読むともう一つの幸之助像が浮かび上がってくる。数限りない幸之助伝の中で異彩を放つ本書は、「正史」には書かれなかった人間・幸之助の姿を直視する。
むき出しの利益への執念。妾宅(しょうたく)との二重生活。袂(たもと)を分かち三洋電機を創業した井植歳男との確執。成功体験にとらわれ迷走する晩年期。ひたすらに血族経営に執着する姿はもはや老醜といってよい。「素直な心」どころではない。
「これまで見た中で首尾一貫した人は誰一人としていなかった」――サマセット・モームの結論である(『サミング・アップ』岩波文庫)。一人の人間の中に矛盾する面が矛盾なく同居している。そこに人間の面白さと人間理解の醍醐味がある。
『血族の王』を読んだ後で、『道をひらく』を再読する。いよいよ味わい深い。ますます迫力がある。「素直さは人を強く正しく聡明(そうめい)にする」――幸之助は自らの矛盾と格闘し、念じるような気合を入れて自分の言葉を文章にしたのだと思う。彼の言葉は「理想」ではなく、文字通りの「理念」だった。だからこそ、『道をひらく』は人々の道標になり得たのである。
人間ゆえの限界を差し引いても、なお日本最高にして最強の経営者。幸之助への尊敬がつのる。
(経営学者)

Wikipedia
松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894明治27年:午年〉1127 - 1989平成元年〉427)は、日本実業家発明家述家
パナソニック(旧社名:松下電気器具製作所、松下電器製作所、松下電器産業)を一代で築き上げた経営者である。異名は「経営の神様」。
その他、PHP研究所を設立して倫理教育や出版活動に乗り出した。さらに晩年は松下政経塾を立ち上げ、政治家の育成にも意を注いだ。
l  経歴[編集]
l  生い立ち[編集]
18941127日、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現:和歌山市禰宜)に、小地主松下政楠・とく枝の三男として出生。家が松の大樹の下にあったところから松下の姓を用いたとする。
1899頃、父が米相場で失敗して破産したため、一家で和歌山市本町1丁目に転居し、下駄屋を始めた。しかし父には商才がなく店を畳んだ。幸之助は尋常小学校4年で中退し、9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公に出される。後、奉公先を五代自転車に移した。この経験は後にパナレーサー社設立のきっかけになった。自転車屋奉公時代、来店客に度々タバコを買いに行かされた。その際、いちいち買いに出かけるより纏め買いして置けば、すぐタバコを出せる上、単価も安くなるため、これを利用して小銭を溜めた[1]。しかしこれが丁稚仲間から反感を買い、店主にやめるよう勧められたために纏め買いはやめる。この頃から商才を顕すと共に、独り勝ちは良くないとも気づくようになった。
大阪市に導入された路面電車を見て感動し、電気に関わる仕事を志し、16歳で大阪電灯(現:関西電力)に入社し、7年間勤務する。当時の電球は自宅に直接電線を引く方式で、電球の取り外しも専門知識が必要な危険な作業であったため、簡単に電球を取り外すことができる電球ソケットを在職中に考案する。191318歳で関西商工学校夜間部予科に入学した。1917、大阪電灯を依願退職した。
l  会社創業[編集]
大阪府東成郡鶴橋町猪飼野(現:大阪市東成区玉津2丁目)の自宅で、妻むめのと、その弟の井植歳男(営業担当、後に専務取締役、戦後に三洋電機を創業して独立)、および友人2名の計5人で、同ソケットの製造販売に着手。しかし、新型ソケットの売り上げは芳しくなく、友人2名は幸之助のもとを去ったが、川北電気(現在のパナソニック エコシステムズ)から扇風機の部品を大量に受注したことにより窮地を脱した。その後、アタッチメントプラグ、二灯用差込みプラグがヒットしたため経営が軌道に乗る。
事業拡大に伴い、1918大阪市北区西野田大開町(現:大阪市福島区大開2丁目)で松下電気器具製作所(現・パナソニック)を創業。電球ソケットに続き、カンテラ式で取り外し可能な自転車用電池ランプ(1925から「ナショナル」商標を使用開始)を考案し、これらのヒットで乾電池などにも手を広げた。1929の松下電器製作所への改称と同時に『綱領・信条』を設定した。
l  門真移転[編集]
1932を『命知元年』と定めて55日に第1回創業記念式を開き、ヘンリー・フォードに倣った『水道哲学』『250年計画』『適正利益・現金正価』を社員に訓示した。また、事業拡大のため土地が広い門真市に本社・工場を移転した。当時、門真市から枚方市にかけての地域は大阪市内から見て鬼門に当たるとして開発が遅れていたが、東北に細長く延びる日本地図を指して「日本列島はほとんどが鬼門だ」と述べて断行した。1935には松下電器産業株式会社として法人化した。
第二次世界大戦中は、下命で軍需品の生産に協力する。19434月に松下造船株式会社を設立し、海運会社出身の井植歳男社長の下で、終戦までに56隻の250トンクラスの中型木造船を建造した。次いで同年10月には盾津飛行場そばに松下航空機株式会社を設立し、空技廠の技術指導により強化合板構造の練習用木製急降下爆撃機「明星」を終戦までに7機試作。試験飛行に漕ぎ着けたものの、1機は間もなく空中分解し、航空機に求められる絶対的な品質と信頼性に対する認識不足から[ 1]惨憺たる失敗に終わった。
戦後ただちにGHQによって制限会社に指定され、幸之助・歳男以下役員の多くが戦争協力者として公職追放処分を受ける。暖簾分けの形で井植兄弟を社外に出した幸之助は、「松下は一代で築き上げたもので、買収などで大きくなった訳でもなく、財閥にも当らない」と反駁した。一方で194611月にはPHP研究所を設立し、倫理教育に乗り出すことで世評を高めた。内部留保を取り崩して人員整理を極力避けたことを感謝した労働組合GHQに嘆願したため、間もなく制限会社指定を解除され、1947に社長に復帰する。 [2]
l  社長復帰後[編集]
続くドッジ・ライン不況でも苦境に陥ったが、今度は一転してレッドパージを兼ねた直営工場の操業時間短縮、人員大量整理、賃金抑制を断行し、危機を乗り切った。この経営手法を当時のマスコミが揶揄して物品税の滞納王などと報道された。
1948、趣味の株式投資の影響でナショナル証券を設立したが、この分野で大成するには至らなかった。
1950以降、長者番付10回全国1位を記録(1955 - 19591961196319681984)。また40年連続で全国100位以内に登場した。この時期の幸之助は「億万長者」であり、一生で約5,000億円の資産を築いたと推定される。
1951、テレビ事業視察のため長期外遊し、翌1952フィリップスと技術導入提携(後に松下電子工業として分社化、19974月松下電器に統合)。
1954には戦前からの宿願だったレコード事業参入のため、当時の資本金相当額を投入して日本ビクターを子会社化したが、経営上の独立性を保証した[ 2]
1957には自ら巡回しての自社製品販売要請に応じた小売店を自社系列電器店網へ組み込み、日本初の系列電器店ネットワークとなる「ナショナルショップ(現:パナソニックショップ)」を誕生させた。以後、自社製品の地道な拡販交渉を続ける幸之助の姿勢に共感した系列電器店が「ナショナルショップ」網へ次々新規参入。こうした「松下幸之助に対する小売店スタッフの強い忠誠心」がナショナルショップを(ピーク時に約27千店を誇る)国内最大の系列電器店ネットワークへと成長させる原動力となった[ 3]
1960に初の和歌山市名誉市民に選定される。同年、浅草寺東京都台東区)の雷門大提灯は、100年近く仮設状態のままになっていたところ、幸之助が私財を寄進して現在の形に再建された。提灯の「雷門」の下加輪には「松下電器産業株式会社 松下幸之助」と金文字で大きく刻んだ一際目立つプレートが貼られている。
l  会長就任後[編集]
1961会長に就任し、第一線を退くが、ヒット商品欠如が岩戸景気後の反動不況と相俟って赤字に転落する。
当時ソ連の副首相であったミコヤンと食事を共にした際、「自分は工場で家庭電気器具を作ることで、婦人解放をした」というと、感心したミコヤンは握手を求めたという。
1964には門真市で初の名誉市民に推挙される。また、家電品の廉売を巡り、当時のダイエー社長・中内功30年にわたるダイエー・松下戦争が勃発した。社内外の引き締め目的で熱海ニューフジヤホテルを借り切り、全国の販社・代理店と直談判する機会を設けたものの、新興スーパーマーケットとの競合による売行不振、熾烈な販売ノルマや販促グッズの押し付け、欠陥テレビの修理費負担などが問題化して紛糾し、丸3日間にわたって逆に吊し上げられた(全国販売会社代理店社長懇談会、いわゆる「熱海会談」)。このため「共存共栄」と自筆した色紙を配布して沈静化を図る一方、営業本部長代行を兼務し、トップセールスとしての現場復帰を余儀なくされた。
196516NHK紅白歌合戦に審査員として出場した。
19677月、ダイエーなどの安売り店への出荷停止や締め付けなどに関して、公正取引委員会は松下電工を立ち入り検査し、独占禁止法第十九条に抵触する「不公正な取引方法」として排除勧告を受けた。これを拒否したため消費者から批判を浴びた。
1970にはナショナルショップの後継者育成目的で松下電器商学院(現:松下幸之助商学院)を設立する。後に中村邦夫が立ち上げる「スーパープロショップ(現:スーパーパナソニックショップ)」の母体となった[ 4]
同年、日本万国博覧会(大阪万博)に松下電器館を出展する。「5000年後に開封する」として話題になったタイムカプセルには、全国の小中学生の手紙や当時の物品を納めて、博覧会終了後に大阪城公園に埋蔵された[ 5]。酷暑にもかかわらず、入場2時間待ちで並ぶ一般客の行列に日陰がないことに気付き、「松下館」と大書した紙製の帽子を配布するよう担当者に指示した。これが会場外でも宣伝になって、松下館はさらに人気を呼んだ。またタイムカプセルのミニチュアをカラーテレビの景品として頒布し、販売強化に繋げた。
1971年、慶應義塾大学工学部へ多額の寄付を行い、松下記念図書館が竣工された。
l  晩年[編集]
197380歳を機に現役を引退し、相談役に退いた。1974には奈良県明日香村の名誉村民となる。1974年から1983まで中野種一朗の後任として伊勢神宮崇敬会第3代会長を務め、後に松下正幸も第8代会長を務めた[3]1979、私財70億円を投じて財団法人松下政経塾を設立し、政界に貢献しようとした。
1989427日午前106分に気管支肺炎のため、松下記念病院守口市)において死去した。享年94法名は光雲院釋眞幸。死亡時遺産総額は約2450億円で、日本で最高とされている。
l  エピソード[編集]
トヨタ自動車中興の祖・石田退三を師と仰ぎ、尊敬していた[4]
創業地の大阪市大開に思い入れがあり、本籍を大阪市大開から動かさなかった。
東洋工業(現マツダ)社長の松田恒次と親交があり、東洋工業が実用化に成功したロータリーエンジンを評価して、マツダ・コスモスポーツの顧客第一号となった。
スバル・360に発売前から興味を示し、顧客第一号であった[5]
コンピュータについて、1960年の暮れに米IBMと特許使用許諾契約を結んだ日本側15社のうちの一社に松下電器産業が含まれ[6]日本電子計算機にも参加する[7]など、初期参入企業の一社であったが(実機「MADIC」の研究開発製造は松下通信工業(現パナソニック モバイルコミュニケーションズ))、196410月に撤退を表明した。この件について、同年の減収減益で、コンピュータの研究への資本投入に販社からの不満が渦巻いていたとする文献[8]もある。幸之助がこの時「コンピュータとは何をするものか」という問いを発し、それに対して幸之助の満足するような答えが得られなかったために撤退を決断したという話がある[9]。これを失策とみるか、英断とみるかは意見が分かれる(たとえばシャープも、コンピュータは基礎研究のみに止めている。シャープの場合、応用といえる電卓に転じて成功した)[ 6]
1965年に古希70歳)を迎えた後、グループの総帥になると、ある従業員に「どうやってこのように大きな成功を収めることができたのですか」と尋ねられた。それに対して松下は「私は天からの3つの恵みを受けて生まれた。家が貧しかったこと、体が弱かったこと、小学校までしか進学出来なかったこと。」と答えている[10]
米『タイム』誌国際版の表紙を飾った2人目の日本人実業家である(1人目は戦前に登場した日本郵船各務鎌吉[11]
終生紀州弁で通した。晩年は声量が落ち、筆頭秘書が通訳を務めた。
朝型人間で、朝6時くらいにあちこちに電話をして打ち合わせをすることも多かった。社内だけではなく、社外の人にも早朝に電話をして驚かれたこともあるという。
郷里の和歌山市に、友人達から贈られた「松下幸之助君生誕の地」の石碑(同郷である湯川秀樹揮毫)と、幸之助がポケットマネーで寄付した和歌山市立松下体育館や、和歌山城西之丸庭園(紅葉渓庭園)内の茶室「紅松庵」がある。
東京ディズニーシーインディ・ジョーンズ・アドベンチャーのキューライン(queue - 並ぶ列)に展示中の、インディ博士の作業卓上の新聞には、幸之助の顔写真が載っている。これはパナソニックが同アトラクションのスポンサーであるためである。
大阪府門真市に所在するパナソニックミュージアム内に、松下幸之助の銅像「松下幸之助翁寿像」が建立されているが、この像は労働組合に理解を示していた幸之助に感謝する形で、松下電器労組が贈呈したものである。
自分に対して厳しい松下は交通渋滞が原因で会議に間に合わなかった際、社内処分として自らの給与を10%を減給した(1カ月間)。
200年かけて日本の山を2割切り崩し75000平方kmの土地を平らにした上、その土砂で四国程の面積の島を作ろうと考えていた[12]
辯天宗の信者であった。「松下電器産業株式会社」の敷地の中に、下天龍王社という祠(ほこら)が鎮座している。国道1号に面した、守口市の「本社」の方ではなく、国道を挟んでその南側にある「松下電子部品」(現社名=パナソニックエレクトロニックデバイス株式会社)の方である。
晩年、雑誌の取材で「何かひとつ夢を叶えるとしたら何を望みますか?」と質問されたところ「今の全財産を渡すからもう一度二十歳に戻して欲しい。それが出来たら私はもう一度今と同じだけの財産を築いてみせる。」と答えたという。
文部科学省の中学校向け道徳教育教材『私たちの道徳』の「礼儀の意義を理解し適切な言動を」という学習指導要領の項目の中で人物コラムとして取り上げられた。
昭和40年代の初めに、業務用の大型炊飯器の試作品が完成し、技術者たちが本社の重役会議に臨んだ。操作や水洗いも簡単になった画期的な新製品だったが、重役陣の反応はいま一つ。やがて昼になり、弁当が配られた。そこには試作品で炊いたご飯が用意された。幸之助だけが「この炊飯器のご飯、おいしいな」とおかわりをした。食が細いはずの幸之助だったが、その一言は、技術者たちにとって、たまらなくうれしいものだったという。[13]
前日に市販された新製品の評判を、社の幹部に尋ねた際、「一週間ほどしたら評判がわかるでしょう」との答だった。すると幸之助は「あかん!きのう発売されて、なんで今日わからんのや。商品について回れ」と叱責した。さらに「販売店を訪ね、売る人の立場から意見を聞いてみるのが本当や」「悠長に、一週間も市場の反応を待っていては商売にならん」と続けた。[14]
幸之助が社員の一人に「幽霊は、なぜ怖いかわかるか」と聞いたことがある。社員が「足がないからです」と答えると、「そうや。足がないということは、それが何者やら実体がわからないから怖いのや。経営でも、実体が見えないと怖いで。何が起こるかわからないから」と応じた。幸之助は「見えないものを見えるようにするのが経営だ」とした。そのためには「自分でわかるまで考えよ」「現場に出よ」と勧めたという。[15]
自分は失敗をしたことがないと断言をしている。その自信は「意の如く、事が運ばないことを失敗というのなら、それは今までにずいぶんあった。しかし、私はいつも禍転じて福とするようにしているので、その意味では失敗をしたことはない」とのこと。また「失敗した所で止めるから失敗になる。成功するところまで続ければ成功になる。」という発言は有名である。
l  栄典・栄誉[編集]
爵位 - マレーシアタン・スリ(伯爵相当)。
その他、オランダ経済提携親善功績章受章、中国改革友誼奨章。
創設に関わった賞としては「日本国際賞」など。
称号 - 和歌山市名誉市民1960)、門真市(初)名誉市民(1964)、明日香村名誉村民(1974)、早稲田大学名誉博士Doctor of Laws)、同志社大学名誉学位
l  閨閥[編集]
義弟の井植歳男は創業期からのパートナーだったが、GHQの公職追放処分への対抗目的で、暖簾分けされ三洋電機を創業し、独立した。歳男の弟の祐郎もこの時、共に三洋電機へ移り、3兄弟で社長・会長を歴任した。なお、しばらくは三洋電機でもナショナルブランドを併用していた[16]。歳男の妹・やす江の夫・中尾哲二郎も一時独立するが、後に松下電器産業へ復帰して副社長・技術最高顧問を務めた。
長女・幸子の婿養子に旧華族伯爵)で日本画家平田栄二の次男正治を迎えた。正治の祖父東助は旧米沢藩桂太郎内閣(12)では内務大臣を務めた人物である。また、正治の母方の家系・前田家は上野七日市藩藩主の家系。正治の兄弟・平田克己の妻・宣子は三井惣領家に連なる。
系図外だが、三井高棟の孫・博子はトヨタ自動車の元社長・豊田章一郎の妻であるため、豊田家とも遠縁の関係にある。また、幾人かの婚外子を残し[17]、全員が相続人になっている。
l  記念碑・施設[編集]
中華人民共和国首都の北京市20186月開設された「松下記念館」は、企業としての松下電器産業(パナソニック)のPRだけでなく、幸之助の中国との関わりも紹介している[18]。幸之助は、中国を改革開放へ転じさせた鄧小平の訪日時(1978年)に会っただけでなく招きを受けて訪中し、日本企業としては早い時期に中国での現地生産を決断した[19]
大阪市東成区内にある松下幸之助起業の地の石碑
松下幸之助創業の地(パナソニックグループ発祥の地)の案内看板
野田阪神付近にある松下幸之助創業の地(パナソニックグループ発祥の地)への案内看板
商店街にある松下幸之助創業の地(パナソニックグループ発祥の地)への案内看板
三重県鈴鹿市椿大神社内にある松下幸之助社案内石碑と説明表示
l  主著[編集]
発行部数は、特記なきものはPHP研究所の発表による全てのバージョンの累計部数。出版社と発行年月は、最初に出版された際のものを記載。一部の書籍は後に他社から出版されている。
PHPのことば』(PHP研究所・甲鳥書林、19534月) - 一般向けで初の著作
『私の行き方 考え方』(甲鳥書林、19546月) - 52万部[20]
『仕事の夢・暮しの夢』(実業之日本社、19602月) - 29万部[21]
『物の見方 考え方』(実業之日本社、19634月) - 86万部[20]
『なぜ』(文藝春秋、19655月) - 31万部[21]
『若さに贈る』(講談社、19664月) - 34万部[21]
道をひらく』(PHP研究所、19685月) - 520.0万部[22]。カラーテレビの景品として頒布された大阪万博松下館タイムカプセルの模型にも、数cm角の豆本にされ内蔵されている
『一日本人としての私のねがい』(実業之日本社、196810月) - 32万部[21]
『思うまま』(PHP研究所、19711月) - 30.6万部[22]
『その心意気やよし』(PHP研究所、19717月) - 35.6万部[22]
『人間を考える新しい人間観の提唱』(PHP研究所、19728月) - 26.0万部[22]。幸之助は書き終えたとき「自分は結局このことが言いたかったのだ。自分の考え方の根本はこれに尽きる」とさえ思った
『商売心得帖』(PHP研究所、19732月) - 90.3万部[22]
『経営心得帖』(PHP研究所、19747月) - 46.9万部[22]
『社員稼業』(PHP研究所、197410月) - 26.1万部[22]
『崩れゆく日本をどう救うか』(PHP研究所、197412月) - 62.1万部[22]
『道は無限にあるきびしさの中で生きぬくために』(PHP研究所、19755月) - 38.2万部[22]
『指導者の条件』(PHP研究所、197512月) - 99.6万部[22]
『素直な心になるために』(PHP研究所、19769月) - 68.1万部[22]
『私の夢・日本の夢 21世紀の日本』(PHP研究所、19771月) - 31.2万部[22]
『続・道をひらく』(PHP研究所、19781月) - 32.8万部[22]
『実践経営哲学』(PHP研究所、19786月) - 45.5万部[22]
『決断の経営』(PHP研究所、19793月) - 25.4万部[22]
『人を活かす経営』(PHP研究所、19799月) - 32.3万部[22]
『経営のコツここなりと気づいた価値は百万両』(PHP研究所、19803月) - 28.2万部[22]
『社員心得帖』(PHP研究所、19819月) - 58.6万部[22]
『人生心得帖』(PHP研究所、19849月) - 54.6万部[22]
『人生問答』(上・中・下)(共著:松下幸之助・田大作)潮出版社
l  評伝[編集]
北康利 『同行二人 松下幸之助と歩む旅』 PHP研究所、2008年。 ISBN 978-4569697994
神坂次郎 『天馬の歌 松下幸之助』 PHP研究所、1997年。ISBN 978-4569575308
瀬達哉 『血族の王:松下幸之助とナショナルの世紀』 新潮社、2014年。 ISBN 978-4101310329
脚注[編集]
注釈[編集]
1.    ^ 納入部品を検査不合格にしたところ、「しゃぁない、ほな、2割引でどうだす?」と持ちかけられる有様だった。
2.    ^ 1931にはテイチクに出資しているが、RCAビクターへの強い憧憬があった。
3.    ^ 幸之助の死去後は(当時松下電器社長をしていた)中村邦夫が聖域なき構造改革「創生21計画」の一環として、(増収と不振とで売り上げの二極化が目立っていたナショナルショップの現状に鑑み)約2万店の系列店の中から「自主的に売り上げを増やし顧客へのサービス向上を図ろうと努力する店」を全国で最大約7千店に絞り(厳選し)、それら店舗のみを公平に販促支援する「スーパープロショップ」制度を開始(社名を現在の「パナソニック株式会社」へ変更した2008101日より「スーパーパナソニックショップ」へ改称)。これに伴い系列店スタッフへの研修会は「プロショップ道場」として有料化された他、スーパーパナソニックショップ認定店のみで購入可能な「パナソニックの店取扱モデル」も2007年より販売開始されている。なお「SPS及びN&Eハウス」の称号は一度新規認定されれば永久に続くのではなく、(当該店所在地を管轄する)パナソニック コンシューマーマーケティングPCMC)各支社営業スタッフが行う店舗監査において業績チェックが定期的に行われ、そちらで「売り上げ不振(業績がSPS認定基準を大きく下回る状態)が長期化し、これ以上種々の販促支援や助言をしても当該店は業績回復見込み無し」という判断が下されれば、当該店は当初のSPS認定を取り消されSPS検索画面より削除される(「SPS及びN&Eハウス新規認定」という格上げ通知は口頭でも行われるが、その逆となる「格下げ通知(SPS認定取り消し&SPS検索画面からの当該店削除)」は口頭では行われないので、スタッフは「うちの店がSPS検索画面から無くなった」のをHP上で見てSPS認定が取り消された旨を初めて知る形となる)。
4.    ^ 現在は商学院での後継者育成に加え、パーソル パナソニック HRパートナーズがパナソニックショップ各店の従業員を(パート・アルバイトを含め)外部から募集している(ただし外部から募集した従業員が就業可能なパナソニックショップは「スーパーパナソニックショップ(SPS)」認定店に限られており、SPS非認定店は身内=経営者の子息・兄妹以外の外部人材を雇えない)。
5.    ^ 同じものが2つ埋蔵されており、うち1個は2000以降100年ごとに開封して内容の確認を行うことになっている。最初の開封年となった2000年に実際に発掘開封され、内容物は大阪市立博物館で展示された。
6.    ^ 米国の例を見ても、コンピュータの膨大な開発コストが、最終的に身売りの原因のひとつとなった無線機メーカーのコリンズなどがある。なお、1983年のMSXへの参入を「この時の撤退以来」とするのは、1973年に富士通と合弁で設立したパナファコムを無視するなどしており、正しくない。


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