木版画の巨人 平塚運一   松岡資明  2019.6.16.


2019.6.16./23. 日本経済新聞 アート/アート 美の粋
木版画の巨人 平塚運一 森羅万象描く 黒白の芸術           松岡資明
【上】 102歳で生涯を終えるまで、卓越した技量で黒と白の芸術を発展させた。国内外で多くの後進を育てた。創作木版画という日本発の芸術を海外に広めた。平塚運一(18951997)は、木版画の巨人である

Ø  米で制作30年余り 100歳超えて現役
100歳という高齢になっても、一向に創作意欲が衰えなかった平塚のエネルギッシュな一面を物語る作品が《裸婦天平鬼瓦》(1973年、木版墨摺、84.562.0、個人蔵)
67歳の時、米国生まれの孫の子守のために渡米、そのまま居ついて30年余を首都ワシントンの近郊で暮らす。異国の恵まれた環境に魅了され、日本の版画界で築いた地位を無造作に捨て去ったかのように新天地での制作に没頭。その代表作が裸婦を題材にした版画
裸婦像の制作を始めたのは70歳を過ぎてから。80歳お時に完成した《裸婦百態》は、人生を版画にかけた平塚の自負を物語る象徴的作品。黒と白のモノトーン。1枚が1015程度の小品ながら、姿態も様々に、個性豊かな100の裸婦像が見る者を引きつけて離さない
作品の完成から20年後の95年、100歳を記念して出版された《裸婦百態 詩と版画》に平塚の「提唱 裸婦礼讃」と題した文章がある。内容は紛れもなく「宣言」
「私の黒白版画は天下一品 そこには 森羅萬象が生きている 特に裸婦は絶品である」
揺るぎない自信に満ちているというべきか。平塚作品のコレクターで米国人作家のジェームズ・ミチェナーはこの本の巻頭に『黒白版画と卓越した刻線』と題して、「現代版画の第1人者であり、棟方もまた平塚と路線を共にしたという点が更に彼の作品価値を高めている」と記し、棟方でさえ平塚がいてこその存在だと見た
日本では棟方ほどには知られていない
同じく同書に言葉を寄せた美術評論家の本間正義は、「日本の美術界は幾多の団体によって強固に構成され、それにかかわるのは煩わしい。しがらみを抜けて自由なエスプリに遊ぼうとするにはワシントンは絶好の場所だったのではないか」と記す
平塚の甥川上勉(90)は、学生時代西落合の平塚邸をしばしば訪れ、米国暮らし開始の5年後の67年ワシントンに平塚を訪ね、アトリエを埋め尽くすほどの作品を目の当たりにして「旺盛な創作意欲に圧倒された」と振り返る
ワシントンは政治都市。「1人自らの中に沈潜し没頭してゆくにはこの上ないところ」(本間談)だったのかもしれないが、長期の不在は日本での平塚の名を希薄なものにした
18年夏、300点に及ぶ作品を集めた回顧展に携わった千葉市美術館の上席学芸員西山純子は、「平塚の業績の大きさが評価されていない」と不満

Ø  10代で美術の道 海外で高い評価

平塚が学んだ島根県立商業(現・県立松江商高)には、平塚を顕彰する平塚版画展示室がある。平塚が寄贈した版画、愛用の道具など200点を所蔵。壁に生誕100年を祝賀する英語の文書(複写)がかかる。クリントン大統領夫妻が、平塚帰国の半年後に迎えた誕生日の10日前に記した文書
日本の版画ですぐに思い浮かぶのは浮世絵。20世紀初めに登場した創作版画も、かつての浮世絵と似た状況にあるのかもしれない。国内では美術品として強い関心が持たれない一方、海外で高く評価される。平塚も浮世絵には強い想いがあり、《東京震災跡風景 浅草》(19923年、木版多色摺、31.824.6、千葉市美術館蔵)は北斎や広重が好んで描いた場所の現在の姿を何時までも残しておくためと、制作の動機を語る
浮世絵は絵師、彫師、摺師の分業で制作したが、創作版画はすべて1人で行う。19世紀の欧州で近代芸術の1分野として生まれ、20世紀初頭に日本にもたらされた。複製手段としての版画と違い、自分で描き、彫り、摺るという一連のプロセスに自己表現としての可能性を求めた芸術といえる。最初に手掛けたのは農民美術運動を進めた洋画家の山本鼎で、1904年発表の《漁夫》が嚆矢とされる
山本らが中心となって日本創作版画協会を結成したのは18年。翌年に第1回の展覧会開催、26人が出品。目指したのは創作版画の振興普及、帝展の版画受け入れ、美校に版画科追加の3点。既存の美術団体で積極的に版画を受け入れたのは、土田麦僊、村上華岳ら京都の日本画家が結成した国画創作協会で、24年の第4回展覧会が最初
公的に認められるまでには長い時間を要し、昭和に入って洋画に出品受理包含という添え物の形で漸く受け付けられるにいたったというのが官展における歴史的事実
戦後、特に50年代以降、日本の版画が欧米で人気を集めた状況を捉え、後進領域と思われがちだった版画が、日本画、洋画、彫刻などの先進分野を尻目に、花々しく国際舞台に乗り出したのは壮観
平塚が美術の道を志したのは10代半ば。祖父が宮大工で、幼い頃から刃物や木屑に慣れ親しんで育つ。商業学校進学後も美術に強い関心を抱き卒業試験前日に中途退学。市役所に勤めながら絵の勉強を続けるが、将来を決定づけたのは石井柏亭との出会い。13年柏亭を招いた松江での洋画講習会に参加、素描や色彩、構図を巡る明快な指導に感激し、更に水彩画を激賞され、美術の道に進む決意を固める。柏亭の水彩画に触発され、同様の図柄で自彫り自摺りの木版画を制作
15年秋、父を説得して上京し柏亭の門を叩き、洋画を木版に起こす名手と言われた彫り師の伊上凡骨に引き合わせ。半年に及ぶ修業で、彫刻刀の扱いに加え、紙、墨を含めた木版画制作の基礎を学ぶ
平塚は生涯柏亭に深い敬意の念を抱き続ける。『裸婦百態』にも「柏亭先生よりデッサンの厳しさを教えられ、以来今日まで1日もデッサンを欠かしたことはない」と記している

【下】 多くの弟子育てる 版画王国の土台に
Ø  極北のイヌイット 芸術センス生かす
11年カナダ大使館の高円宮記念ギャラリーで《旅する版画 イヌイットの版画の始まりと日本》と題する展覧会開催。先住民族イヌイットの版画は世界的に人気がある。特に196070年代には人気を集めた。創生を主導したのはカナダ人画家ジェームズ・ヒューストン(19212005)で、48年北極圏に向かう飛行機でイヌイットに遭遇、彼らの工芸品に魅せられ、彼らの集落のあるケープドーセットに移住し版画家を育てる
ヒューストンに版画制作を教えたのが平塚。ヒューストンは50年代に欧米で出版された浮世絵の本や棟方を特集した『タイム』誌を読んで、日本の版画に強い関心を抱く。イヌイットの小さな彫刻の素朴な味わいや芸術的感覚を活かし新たな工芸品を制作し、経済的な困窮からの脱出させる手立てとして版画はぴったりのアート
58年来日し平塚から手ほどきを受け版画技法を習得。アイヌの村も訪れて絵を描き版画の題材にした ⇒ 《アイヌの司祭》(1958年、水彩、2017、カナダ歴史博物館蔵)
平塚が特に愛用したのはアイスキ(平ノミ)や切り出しで、代表作の1つ《雲崗瑞雲 蒙彊》(1957年、木版墨摺、84.8129、個人蔵)でも、平ノミで版木を突いて彫る独自の技法が、ごつごつした岩肌を表すのに効果を上げている。摺りの技術では、墨を深く紙にしみ込ませ、むらなくするための技術「上げ摺り」を考案。彫るより摺る方が難しいとよく語る
和紙などの材料も重要。一般的な鳥の子紙ではなく、「厚紙の至宝」と言われる程村紙を好む。多孔質で柔らかい性質を十分理解しないと扱えない。短期間にそうした領域にまで踏み込んだヒューストンは帰国後、イヌイット版画創生に取り組む

Ø  各地で技術指導 学校教育の一環に
創作版画の代表的存在は恩地孝四郎(18911955)。美術史に残る美術文芸誌『月映』を創刊、抽象表現に積極的に取り組んで創作版画の先頭に立ち続ける。戦後GHQの軍属として来日し、日本の創作版画の収集家・研究家となった米国人オリヴァー・スタットラーは、平塚を恩地と並ぶ指導者として位置付ける。理論家の恩地に対し、平塚は創作版画を
下支えしたと言える。各地の版画講習会で指導し、多くの版画同人誌発行に関わり、版画家の育成に貢献
国際的評価の高い棟方(190375)も、28年同郷の下澤木鉢郎と平塚を訪ね出入りするようになる。大正から昭和へと変わる時代、平塚自身の版画観や作風も変化した頃のこと
平塚は、錦絵成立前の初期浮世絵、更には平安期に遡る仏教版画に木版画の原点を見つけ、それらの黒摺が表す古拙の美に木版画の根源的な魅力を見出し、自身の進むべき道を重ねた
若き棟方にも黒摺を説き、明るい色使いの川上澄生の作品に惚れ込んでいた棟方が「ちぐはぐで見ちゃいられないから、くどいほど黒白版画の良さを説き、郷里の奥入瀬を黒白で突っ込んでみないかと勧めたところ、一所懸命になってあるところまで到達した」と回想
「自分には師はいない」と口にした棟方だが、初期の黒摺りの大作は平塚率いる国画会(旧国画創作協会)版画部での発表。30年代以降、棟方は独自の境地を拓いて世に認められる
棟方の代表作《二菩薩釈迦十大弟子》(1939年、紙本黒摺、本紙10146.5、日本民芸館蔵)に見られるような黒と白の装飾的画面は「棟方様式」の1つとなっていく。棟方が平塚にどんな思いを抱いていたかは不明だが、スタットラーの著書によれば、畦地梅太郎はじめ何人もの版画家が「平塚に出会えたから版画家になれた」と語ったという
来る者は拒まずで、版画を志す人には分け隔てなく自作を見せ、惜しまず技術を教えた
2840年までの間に、全国20か所以上で版画制作を指導した結果もあって、各地で版画誌が誕生。版画誌研究者の加治幸子によれば、1905年からの40年間に全国で111の版画誌が誕生、他地域のそれと呼応し愛好者を網の目のように全国に広げて版画が身近なアートとなるためのメディアとして機能。長野県須坂市に86年前に誕生した『櫟(くぬぎ)』は今も健在、98号を発刊、約40人の版画家が集う。同地には平塚運一版画美術館が建設された
35年には美校に版画教室ができ、平塚が講師。北岡文雄らが巣立つ
木版画が学校教育に取り入れられたのも平塚の功績
その後渡米した平塚は、《4月のチューリップトリー》(1969年、木版墨摺、7559.8、個人蔵)のような作品で新境地を拓きつつ、木版画を広める活動を続けた


Keyword 黒白版画
平塚は、木版画の源流を探るべく、20代半ばから様々な研究を重ねた。初期浮世絵から始めて時代を遡り、紀元前の古代瓦に辿り着く。文様を刻んだ型をつくり、粘土を押し付けて焼く瓦は、工程において版画に通じる。瓦のほか仏教版画なども研究の対象としたが、その美的要素が、墨摺り、即ち黒と白のコントラストにあると確信する。「版というものを最も簡潔に活かし、最も版画らしい版画と云えば、黒と白であって、黒と白から這入って、結局黒と白に達する」と記す。特に版画の余白=白い空間=をどう生かすかは難題かつ重大で、平塚作品を決定づけた。収集した古瓦や「拓本」は数千点に及んだ

《彫り上げて》(1954年、木版墨摺、51.764.5、個人蔵)
摺り上げて いざ摺らんかな 初摺の この嬉しさを 誰にか語らむ

Keyword 版画誌
明治後半から第2次大戦終戦の頃までの間に、日本で多くの版画誌が生まれた。加治はこれを「創作版画同人誌」、略して「創作版画誌」と呼ぶ。純粋な版画集のほか、文芸同人誌の性格を併せ持つもの、版画家集団の機関誌・情報誌的性格を併せ持つものなど多様。1900年代初めの『平坦』『方寸』に始まり、『月映』『白と黒』『さとぽろ』などが知られる。平塚が深く関わった版画誌に『詩と版画』『きつつき』など。版画誌の多くは短期間で終わるが、加治は「版画王国日本を築く土台を作った」と評価


Wikipedia
平塚 運一(ひらつか うんいち、18951117 - 19971118)は、島根県八束郡津田村(現松江市)出身の版画家。勲三等瑞宝章受章(1977年)、松江市名誉市民(1989年)[1]
l  経歴[編集]
1895年(明治28年)1117日、島根県八束郡津田村(現松江市)に生まれた。島根県立松江商業学校に入学したが、1913年(大正2年)に中途退学し、松江市役所に勤務。石井柏亭の洋画講習会がきっかけとなり、1915年(大正4年)に上京してデッサンに励み、さらに版画技術を会得[1]1916年(大正5年)には、二科展に版画作品が入選し、日本美術院展には油彩作品と水彩画作品が入選した。1917年(大正6年)に帰郷して結婚し、公立小学校の図画教員となった[1]
1927年(昭和2年)から棟方志功らを指導し、1928年(昭和3年)には棟方や畦地梅太郎とともに雑誌『版』を創刊。1930年(昭和5年)には国画会の会員となった。1935年(昭和10年)には東京美術学校の版画教室開設にともなって教壇に立ち、1941年(昭和16年)からは日本女子高等学院や公立中学校でも教えた。1946年(昭和21年)には山根幹人(映画監督)らの協力を得て松江美術工芸研究所を開設した。1962年(昭和37年)には渡米して、活動拠点をワシントンD.C.に移し、アメリカ各地で個展を開くとともに版画の普及に努めた[1]。日本国内においても地方での版画普及活動に熱心であり、棟方、畦地、菊地隆知北岡文雄など日本を代表する版画家を育てた。
1977年(昭和52年)には勲三等瑞宝章を受け、1989年(平成元年)には松江市名誉市民に推挙された[1]。長野県内の版画普及に携わった功績を称えられ、1991年には須坂市に須坂版画美術館・平塚運一版画美術館が開館した[2]1997年(平成9年)1118日、102歳で逝去した。
l  参考文献[編集]
『平塚運一展 木版画に捧げた102歳の生涯』東京ステーションギャラリー、2000
l  脚注[編集]
1.    a b c d e 平塚運一氏が死去 松江市名誉市民 創作版画生みの親Webさんいん、19971119
2.    ^ ごあいさつ須坂版画美術館・平塚運一版画美術館
l  関連項目[編集]
下澤木鉢郎 - 師弟関係



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