ベンチャーキャピタル全史 Tom Nicholas 2023.5.19.
2023.5.19. ベンチャーキャピタル全史
VC: An
American History 2019
著者 Tom
Nicholas ハーバード・ビジネス・スクールのウィリアム・J・アバナシー記念経営管理論講座教授。英国生まれ。オックスフォード大で博士号取得。MITスローン経営大学院、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスで教鞭をとったのち現職。専門は起業家精神、イノベーション、金融。これまでチャールズ・ウィリアム賞始め、優れた講義を行う教育者向けの賞を複数回受賞。本書が初めての一般向け単著。日本近代の資本市場にも造詣が深い
訳者 鈴木立哉 フリーランス金融翻訳者。一橋大社会学部卒。米コロンビア大ビジネススクール修了(MBA)。野村證券勤務などを経て現職
発行日 2022.9.20. 発行
発行所 新潮社
はじめに 歴史を知る重要性
ベンチャーキャピタルはアメリカで生まれたと言っても過言ではない
ある種の”ヒット”ビジネス。たくさんのスタートアップで構成される大規模な企業群に投資し、ほんの一握りの投資先のパフォーマンスから莫大な利益を獲得することを目指しつつ、他の大多数の企業が低リターンに甘んじたり、失敗するのはやむを得ないと考える、投資の「スタイル」のことで、ロングテールとというスタイルはアメリカで発展し育まれた
ベンチャーキャピタルという産業は、1946年ボストンを拠点とするアメリカン・リサーチ&ディベロップメントARDが設立され、スタートアップ企業へのロングテール投資を体系的に試みたのが起源とされるが、その原型は19世紀後半に遡る
「ロングテール投資」とは、縦軸に企業数、横軸に利益分布のグラフを描いた時に、縦軸に近い所に山ができ、右側(リターンがプラスの方向)に長い裾野を形成するという投資スタイルのことで、独特の利益配分方法を採用――投資先からのリターンは、株式市場のような釣り鐘型(正規分布)ではなく、リターンが右側のプラス方面に突出して伸びた投資案件が、全体のリターンの大半を生み出す
ベンチャーキャピタルの世界での「ロングテール投資」とは、起業家精神あふれるスタートアップ企業にリスク資本を投じる体系的な方法の1つで、そのプロセスで主体的な役割を果たしているのが専門知識を駆使する仲介業者のベンチャーキャピタル
ロングテールのリターンを生み出すのは常に難しいが、過去の事例を見る限り、ベンチャーキャピタルが社会に莫大な利益をもたらしてきたことは確かであり、技術革新が生産性の上昇と経済成長に欠かせない存在であることは疑いようがない
ロングテール投資が本書の主題
第1章では、アメリカのニューイングランド地方の捕鯨産業を通して、リスク資本が展開されていく様を見る――組織や利益配分方法など、現代のベンチャーキャピタルに酷似
第2章では、リスク資本が展開されていく様を深堀り――マサチューセッツ州ローウェルでの綿織物業で起こったイノベーションの資金調達を追う
第3章では、ベンチャーキャピタルによるファイナンスの確立に向けた市場形成を見る
第4章では、ARDの起源と組織構造、戦略、業績について解説
第5章では、リミテッド・パートナーシップの組織構造について見る
第6章では、シリコンバレーでのスタートアップの資金調達の背景を深掘り
第7章では、1980年代を検証
第8章では、ベンチャーキャピタル史が最も揺れ動いた1990~2000年代前半を扱う
エピローグでは、ここ数年の状況変化と議論を踏まえ、将来を展望
第1章
はじまりとしての「捕鯨」
植民地時代のアメリカにおける重要な産業の1つ遠洋捕鯨を支えていた投資モデルは、現在のベンチャーキャピタル・ファンドと酷似。損益分布が似ている
捕鯨業でアメリカ的な創意工夫が生まれたのは、この国には起業家の育ちやすい条件、リスク資本の展開、莫大なリターンの追求という独特な文化的背景があったから
捕鯨が営利事業になったのは16世紀。アイスランドとスペイン・バスク地方の捕鯨業者が60隻程度の捕鯨船で操業したことに始まる
1850年頃にはアメリカ国籍の捕鯨船が75%を占めるが、レイ・システムという出来高払い歩合制が定着したのが大きい
l 「ロングテール」モデルだった捕鯨産業
捕鯨産業の利益構造は、現在のトップクラスのベンチャーキャピタルのパフォーマンスに酷似――ポートフォリオのグロスリターンの52%が総コストの6%しか使っていないスタートアップによって生み出される。投資先の62%は赤字、5%が10倍のリターン
l 捕鯨ビジネスの「成功」と「失敗」
沿岸の捕獲が終わると大西洋沖合への航海が始まり危険度が著しく増し、「節約航海」「破産航海」が急増、船内での精神錯乱、反乱なども頻発、成功の確率が急減
l 捕鯨スタートアップの組織モデル
19世紀の捕鯨スタートアップの資金調達方法は、現代のベンチャーキャピタルに酷似
基本は、リスク資本の仲介を核とする資金調達
捕鯨業における経営代行業者(エージェント)の課題は、出資者としての船主が利益を最大化しようと思うだけのインセンティブをどうやって作るかにあり、収益と同時に専門的な人材育成も可能
l 捕鯨スタートアップのファイナンス
専門的な装備を備えた捕鯨船は初期投資が莫大
銀行と捕鯨業とは組織間のフォーマルな関係ではなく、個人的な人間関係で繋がっていた
l シンジケートとパートナーシップの拡大
捕鯨航海の「共同所有」という仕組みが現れ、リスクの分散が図られた
l 仲介業者としての捕鯨エージェント
エージェントは事業を組織化し、監視する仲介業者として機能。船長たちと協力して必要な装備や乗組員を決定したほか、船主権の持ち分を所有することもあった
l 捕鯨産業がもたらした莫大な富
捕鯨エージェントのパフォーマンスは長期にわたって維持され、捕鯨航海の組成に対する報酬に加え、終了時における捕鯨製品の販売収入の手数料を獲得したほか、航海の持ち分を共同所有するのが通例だったため実績に基づく持ち分に応じた対価も得ていた
l インセンティブとエージェンシー問題
優秀なエージェントは有能な船長を取り込み、同じ組み合わせを長期間維持して高い成功率を誇る。およそ30人に上る乗組員にしても同様
船長が船主権を持つパートナーとして当初の資金拠出に貢献していることも多い
l リスク分散の失敗
捕鯨と現代のベンチャーキャピタルの類似点で重要なのは「周期性」――好不調の波が周期的に來る。分散できるリスクと分散できないリスクがある
l 3つの補完要因
① 成功の確率が低いこと(利益分布がロングテールを形成)、②業界の組織構造はエージェントを中心にして成り立つこと、③投資家とエージェントと船長・乗組員の間の紛争を抱えていた点なども類似点として挙げられる
第2章
「リスク資本」の起源
捕鯨業は、乱獲のせいで資源量が激減すると、資本利益率が低下、19世紀後半には衰退
アメリカにおける起業家の育成と技術開発の資金は、リスク資本の集中投資に頼っており、集められた資金は、ハイリスクだがハイリターンを狙えそうな案件に投じられた
本章では、リスク資本の提供方法として現在もっとも広く利用されているベンチャーキャピタルによる投資スタイルであるアーリーステージにあるハイテク企業へのエクイティ・ファイナンス、仲介業務、キャッシュフローの配分契約と経営支配権、少数株主持ち分、スタートアップ企業へのガバナンスの提供などに焦点を当てる
最初の舞台は綿織物業――ロードアイランドのブラウン家は裕福な商家、「紡績業の父」と呼ばれることになる移民起業家サミュエル・スレイターは優れた技術的知識を提供し、両者間にキャッシュフローの配分と経営支配権が定められ、両者相俟ってニューイングランドにおける製造業の成長と発展に貢献
この新しい資金提供方式(ベンチャーファイナンス)は、他の主要産業や工業地域の創出に重要な役割を果たす。鉄道敷設工事は規模が大きいだけにこの仕組みが有効に働いた
l 綿織物業におけるイノベーション
イギリスの産業発展において綿織物業が「主導部門」だったのは間違いない。ハーグリーブスが発明したジェニー紡績機は、産業革命の中でも屈指のイノベーションとなり、資本の効率的な使用が可能になったことと相俟って計り知れない社会的価値を生み出す
1769年、アークライトの紡績機は水車を動力源とした画期的な技術革命となり、さらに蒸気エンジンに取って代わられ、「ミュール紡績機」として事業化。パートナーシップを組成して投資家を募り、大々的に事業を展開し巨額の利益を生みだす
l 高まるイノベーションの気運
イギリスでは政府も民間企業も、反競争的な方針を貫き、紡績機のようなイノベーションの拡散を抑えようとして、繊維生産用ツールの輸出に罰金を科したが、徐々に流出
l 初期アントレプレナーと投資家の契約を読み解く
ブラウン家は1723年に商取引に参入し、巨額の富を築くとともに、綿織物業を新たな収益源探索の多角化戦略の一環と捉え、1790年適切な技術を持つパートナーとしてイギリス人サミュエル・スレイターとリスク資本の高度な運用を前提とした契約を締結
l キャッシュフローと経営支配権
ブラウン家はスレイターを「スウェット・エクイティ」の提供者と見做し、技術の管理と資金提供やガバナンスをそれぞれ別の当事者に任せる分業方式を定める
スウェット・エクイティ: 開発した技術や研究成果、特許など無形の資産を出資金の代わりに提供すること
資金は、事業化の進展に応じて段階的に投入され、キャッシュフローと経営支配権に条件を付けるという制限条項で投資の損失リスクを抑制し、競業禁止も盛り込まれる
両者の絶妙なバランスが、わずか20年で24軸紡績機が5万を超えるまでに拡大
l リスク資本のさらなる需要拡大
ハーバードの卒業生でボストンの裕福な商家の御曹司フランシス・キャボット・ローウェルが、1812年の米英戦争開戦直前にイギリスから持ち帰った綿織物業のノウハウを使って新しい綿織物業のビジネスモデルを売り出す――さらなる技術革新で労働生産性を飛躍的に向上させたモデルで、労働環境を改善しただけでなく、資本需要も拡大。株式会社を設立してエンジェル投資家を募り、1828年にはマサチューセッツのウォルサムとローウェルに大規模な新鋭工場稼働、一大工業都市が誕生し、ローウェルの名が付けられた
l 金融仲介機能を通じてリスク資本を展開する
現代のベンチャーキャピタルは金融仲介機能を伴うが、その起源はニューイングランドの繊維産業や捕鯨組織以前にまで遡るアメリカ的な仕組み
1781年、商人のロバート・モリスがフィラデルフィアに最初の商業銀行を設立、短期資金の貸し付けを始めたが、19世紀に入ると金融仲介という効率的な仕組みが発達、起業家活動への投資を支援。特に鉄道建設が始まった1830年代に入ると、大規模な金融仲介が必要となり、ロンドンの投資家との橋渡しをする投資銀行が育ち始める
l イノベーションの”ホットスポット”
金融仲介機能が発展するにつれ、アメリカの企業にリスク資本を体系的に供給できる仕組みが出来上がり、研究と資本と人材が集積してイノベーションを生み出す”ホットスポット”が発展し始める
1860年代~70年代のクリーブランドとピッツバーグでは発明家による特許取得活動が活発化、コ日のシリコンバレーに匹敵するハイテク分野のスタートアップの集積が見られる
l 資本とガバナンス
ファイナンスとガバナンスの連携も、現代のベンチャーキャピタルの資金提供で中心的な役割を果たす――ピッツバーグの資本家アンドリュー・メロンが先駆的役割。鉄鋼業のカーネギーとの間に素晴らしい投資関係を築き上げ、様々な投資アプローチにより、アーリーステージの投資が例ターステージにおける事業ファイナンスの取り組みへと変貌していく様子を明示
l アントレプレナー・ファイナンスの起源
アーリーステージでの株式投資と仲介業者によるスタートアップのガバナンスによって、アメリカ的な起業家精神がダイナミズムを一段と強めていく土壌が整う
さらに、リスク資本の構築プロセスが遥かに大きな影響を及ぼし、19世紀後半~20世紀初めのアメリカ社会での圧倒的な富の蓄積へと繋がる
第3章
立ち上がる「プライベート・キャピタル」
「企業が成熟するとともに金融の”序列”が上がっていく」という重層的なファイナンスの仕組みが生まれ始める。ベンチャーキャピタルが形を整え始めるとともに、スタートアップに資金を配分する様々な投資企業がこの序列の中で拡大していく
l 洗練される「インフォーマル」なファイナンス
起業家は個人的な伝手を頼って開業資金をかき集めてきた
イーストマンが写真に乞う身を抱いてイノベーションを起こした際に資金援助したのは、馬用のムチを製造して一財産をつくった投資家ヘンリー・ストロングだったし、フォードがデトロイト・オートモビルを設立した際ベンチャーキャピタリストとして資金援助したのも裕福なビジネスマンのウィリアム・マーフィー
l ファミリー・ウェルスとファミリー・オフィス
企業の創業者や出資者が莫大な利益を上げるようになると、資本を管理するフォーマルな構造を構築するニーズが高まる――1920年代後半には、アメリカでトップ1%に属する一族が国民所得の1/4を稼ぎ出し、国富の半分以上を所有
裕福なファミリーは、メロン家やサンフランシスコのクロッカー家を筆頭に、長期的な資産管理と次世代への資産譲渡のために、投資会社を造り始める
l ローランス・ロックフェラーが果たした役割
この分野で大きな役割を果たしたのがロックフェラー家――1863年、パートナーシップを設立し、新たに勃興した石油精製産業に乗り出し1878年には市場シェア90%を超えた
1882年には資産管理のためのファミリー・オフィスを設立。ベンチャーキャピタルとの結びつきは、初代の孫ローランスによって築かれ、アーリーステージの投資に注力。その投資手法のレベルは現代のリミテッド・パートナーシップの基準に近い
l 投資主体の構造の変化
第2次大戦後の10年で設立されたベンチャーキャピタルは10社程度で、ポートフォリオに抱えているのは5~10社程度だったが、1989年には674社に急増、2000年の861社がピーク
l J.H.ホイットニー&カンパニーと東西両海岸の企業群
1946年ニューヨークで設立されたベンチャーキャピタルのJ.H.ホイットニー&カンパニーの創業者は、重工業やたばこで巨富を得た一族で、個人投資家としてとキャリアをスタートさせ、その後投資会社を設立。次々に新規事業への投資で成功を収めていく
l 前途洋々の始まり
アーリーステージ企業が銀行に頼ることができないなかで、個人投資家がインフォーマルな市場で重要な役割を果たし、起業家たちのニーズに応えていたが、ベンチャーファイナンスのフォーマルな市場が現れ始めるのは第2次大戦後――プライベートキャピタルというハイレベルな仲介業者として資本家集団から資金を集め、投資先を厳しく審査して選別
第4章
市場か、政府か
第2次大戦後、ベンチャーキャピタル産業はまだ萌芽期
戦前から戦後にかけての数十年間で培ってきた軍事関連技術を活用する機会に恵まれることになるが、スタートアップ・ファイナンスの成功例がなかなか現れず。商業銀行も機関投資家たちもリスク資本を活かすだけの専門知識を持っていなかった
スタートアップ・セクターを刺激しようとして資金提供を始めたのは政府。政府資金を提供してまでも新規産業を後押しすべきなのかという議論は1930年以降政治論争に発展、1958年中小企業投資法成立にかけて最高潮に。中小企業投資会社Small Business Investment Companyは、特別の税制優遇措置を受け、民間のベンチャーキャピタルでは受けきれない規模の投資をし、1960年代には700社を超えるSBICが活動。こうした政府支援により、'50~60年代には市場に立脚したアプローチが制度化されていく
l スタートアップ企業の資金難
大恐慌の最中でも、創造的なアイディアさえあれば、ポラロイド(1932)やヒューレット・パッカード(1939)のように資金を調達できたが、ゼロックス(1938)のように苦労したスタートアップも多く、総じて資本市場の不備が起業家精神を蝕んでいたとの見方が広がる
資本不足の理由の1つは租税環境――30年代に累進性の強い税制が導入、36年には連邦所得税の最高税率は79%、キャピタルゲイン課税は39%に達し、新規投資意欲を阻害
l ARDの設立
アメリカで有数の地域開発協会だったニューイングランド評議会(1925年設立)で「アントレプレナー・ファイナンスをどう提供するのが最善か」という議論の結果ARDが誕生
評議会の中心的な役割を担ったのが、MIT学長だったコンプトン。信託会社や保険会社に堆積していたニューイングランドの莫大な富を解放することを至上命題として、特別会社を通じた間接投資による危険分散することを考え、ボストン連邦準備銀行総裁だったフランダースとともにARDを創設。従来のファミリー・ウェルス依存ではなく、機関投資家の資金を組織的に集めてベンチャーファイナンスに適用する仲介業者の役割を構想
フランス移民で「ベンチャーキャピタルの父」と呼ばれるジョルジュ・ドリオは、ハーバード教授から陸軍の調達部門のトップとなり、ARDの第2代社長
l ARDの組織構造
創業社長のフランダースは上院議員に当選して間もなく辞任、ドリオが跡を継ぐ
クローズド・エンド型の投資会社の形態で、運用期間の定めがなく、個人にも株式の形で門戸を開放、株式の買戻し義務は負わない
持ち株比率制限と、パススルー法人としての認可がネック
l ARDの投資アプローチと手法
当初の目論見書では保守的な戦略が示唆され、創造的なアプローチは窺えない
実際にも最初の10年はレイターステージの企業に偏る。コンプトンの人脈から上がってくる案件が多く、共同投資もあり、地元や東海岸の企業が3/4を占める
l ジョルジュ・ドリオの投資アプローチ
投資先の多くは特許を保有、ARDも技術を重視して、チームで取り組む投資アプローチをとる。ベンチャーの成否を決定づけるのは人材で、「人材を見つけ、アイディアを探す」ことが主。次いでガバナンス。経営支配権を握ることはまずなかったが、取締役は要求
l ロングテールの有効性を証明したDEC
1957年創業のDigital Computer Corp(後にDigital Equipment Corp)に投資したことがARDの転機に――リンカーン研究所の若者2人が独立してIBMに対抗する低価格・高性能の小型コンピュータ製造会社を設立。ARDは自身の下限に近い7万ドルの投資でDECの78%の所有権を保有、10年後には52百万ドルに。ベンチャーキャピタル史上最大の成功例となるが、ARDの従業員には成功に見合ったリターンはなかった
l 準政府組織との競争
リミテッド・パートナーシップによる新たなベンチャーキャピタルの排出に加え、1958年の中小企業投資会社法成立によるSBICの登場で競争激化
SBICのそもそもの起源は、大恐慌時代の銀行危機で金融逼迫状態を緩和させようと政府が介入したことにあり、復興金融公社の中小企業向け金融版として中小企業庁ができ、さらにスタートアップ向けの資金提供を促す取り組みに発展
l 中小企業投資会社プログラムが果たした役割
中小企業庁の1部門として、民間資本によるSBICが設立・認可――中小企業庁がSBICの劣後債を払込資本と同額購入、融資資金も一部提供、税制の優遇も受け、スタートアップへの資金提供のみならず、スタートアップへの投資に参入しようとする投資家にも道を開き、彼らはその後ベンチャーキャピタル産業を支えるようになる
l リミテッド・パートナーシップへの移行
1960年代半ばには、現代のベンチャーキャピタル投資モデルのあり方が固まる
経営指導も行うガバナンスという手法は、デューディリジェンスの概念とともに、プライベート・キャピタル組織から引き継がれる
クローズド・エンド型の使い勝手の悪さを改善したのが、リミテッド・パートナーシップであり、インセンティブの仕組みが整い、人材が育っていく
第5章
「リミテッド・パートナーシップ」の構造
リミテッド・パートナーシップは、ベンチャーキャピタル産業との親和性が高く、20世紀後半になると、アメリカのベンチャーキャピタルの総資金の4/5を超えるまでに成長
リミテッド・パートナーシップの起源は、法的には中世にまで遡り、地中海貿易の組織モデルにもなっていたが、アメリカで制度が整備されたのは1900年代前半
税負担の軽減が最大の関心事だった時代に、ADRが十分なインセンティブを提供できないこと、SBICも規制が厳しすぎるという問題を抱え、その解決策としてリミテッド・パートナーシップが見直され、ベンチャーキャピタル産業の進化に合わせて発展を遂げる
l 初期のリミテッド・パートナーシップと法制度の整備
リミテッド・パートナーシップという企業組織の形態がアメリカに導入されたのは1822年。ニューヨーク州で経営と所有の部分的分離を促す組織として認められ、パッシブな投資資金を広く活用する可能性に道を開く。責任が出資額に限定されるため投資家層が拡大
l 石油と天然ガスのリミテッド・パートナーシップ
石油と天然ガスという特定の産業で、租税回避目的で設立されたリミテッド・パートナーシップの成功が同形態の普及に貢献――有限責任と税制優遇が合体
l ドレイパー・ゲイサー&アンダーソンDGAの登場
1959年、パロアルトにDGA設立――最初のベンチャーキャピタルのリミテッド・パートナーシップであり、投資仲介業者としての役割を担う。小規模(600万ドル)でスタート
存続期間を3年延長して1967年ファンドを終了した時点でのリターンは、760万ドルの投資に対し590万ドルの利益を上げ、IRRでは8.5%となり、SP500の株価指数を3割上回るが、配当を含めたリターンを1ポイント下回り、成績はそれほどではなかった
l グレイロック・パートナーズ
ARDで経験を積んだえるふぁーずが1965年設立したのがグレイロックで、業界トップクラスのベンチャーキャピタルとして現存――東海岸で、選りすぐりの富裕層で複数のリミテッド・パートナーシップを構成、IBMのワトソン親子もパートナーに。後には長期的視点を持つパートナーの必要性に賛同して大学の基金も加わる
l ベンロック(ベンチャーとロックフェラーの組み合わせ)・アソシエイツ
1969年設立、東海岸の「オールドマネー」の活用したもので、ローランス・ロックフェラーの基本理念を引継ぐ。ファミリー・オフィスと同じ場所にあり、スタンダード(株式と債券)、不動産、ベンチャーキャピタルという3種類の資産クラスを運用
84名の子孫の資金をプールし様々な投資資産に分散。エバーグリーン・ファンドとして、投資収益を再投資に回す永久資本のファンド。ロックフェラー一族を後ろ盾に着実な資金流入が見込めたため追加投資の資金が常に用意できた
1969年インテルの1stラウンドの投資家で、30万ドルが9年後1360万ドルでエグジット、1978年創業間もないアップルに28.8万ドル投資し、3年半後には116.6百万に
l 政府の後押し、年金基金とベンチャーキャピタル
1977年、テキサス州出身のベンツェン上院議員が年金改革を主導、基金の財政基盤の強化のため投資対象の拡大を図る。1974年の従業員退職所得保障法(エリサ法)に規定されたプルーデントマン・ルールの厳格な解釈を変更し、投資ルールを明確にした上でポートフォリオ全体の観点からリスクの総量を管理すれば足りるとした
l キャピタルゲイン課税の変更による影響
1970年代後半~80年代前半のキャピタルゲイン税制の変更がリミテッド・パートナーシップ急増の追い風となる――投資資金の負担軽減の目的でキャピタルゲイン税率を35%から28%に、さらに20%へと引き下げるとともに、キャピタルゲイン課税と配当金への二重課税を見直し、さらに、ゼネラル・パートナーの成功報酬をキャピタルゲインと見做し、高税率の一般所得から切り離す
l 機関化の拡大
ベンチャーキャピタル産業発展の原動力は、①リミテッド・パートナーシップという組織形態の採用(税制面の優位性と規制による監視が緩い)、②ロングテール投資からの利益が明確になったこと、③エリサ法改正などの政策変更からベンチャーキャピタルの事業環境が変化し、年金基金からの資金流入開始
ベンチャーキャピタル産業が次第に機関化し、ロングテール・ポートフォリオを改善するようなスタートアップを探す個人投資家にとって魅力的な資金提供先になった
第6章
シリコンバレーの勃興と投資スタイルの多様化
シリコンバレーがベンチャー投資を発展させながら拡大できた背景には、①大学から受けた直接・間接の恩恵、②ハイテク業界の発展を後押しした政府の軍事支出、③地域特有の文化的、法的、物理的な環境、があり、イノベーションを促す強力なクラスターが形成され、’60~70年代に独特の投資スタイルが現れ始める
ベンチャーキャピタルとは、人材/テクノロジー/市場という3分野への投資と言われるが、3つの切り口を決定づけたのは人材に注目したアーサー・ロック、テクノロジーを重視したトム・パーキンス、市場規模の重要性を重視したドン・バレンタインの3人
l シリコンバレー型ベンチャーキャピタルとスタンフォード大学の蜜月
ベンチャーキャピタル成長の鍵と見做されたのが教育機関と投資機会との連携
スタンフォード大の工学部長フレデリック・ターマンは、科学を工学に繋げ、学究の世界と地元企業を結びつけて、学問と産業の双方で優れた成果を上げる戦略を考える
大学の財政基盤強化のため、起業家たちにキャンパスを公開。大学が研究者たちにスペースと実験用備品を提供、その見返りに研究者に付与された特許を所有。1953年には大学の敷地内にインダストリアル・パークを設定しハイテク企業を誘致、地元企業のエンジニアに大学院を開放。大学の首脳陣は大学と産業界の間の強力な協同関係構築に成功
l 軍からの需要拡大
第2次大戦中からシリコンバレーのエレクトロニクス企業にはアメリカ軍の注文が殺到、全国的な名声を獲得していた――1940~45年連邦政府予算規模が急増するなか、カリフォルニアの企業は莫大な戦時供給契約を締結し、「第2のゴールドラッシュ」と呼ばれる
l シリコンバレーという「カルチャー」
シリコンバレーには、リスクを奨励し、失敗を受け入れるカルチャーがあり、新興企業の可能性を制限するような、年齢や地位、社会的立場による境界は全くなかった
l 「人に投資する」アーサー・ロックのスタイル
アーサー・ロックは1926年ロチェスターの生まれ。兵役後復員兵援護法に基づき大学に入り、金融機関で働き、大手エレクトロニクス企業の資金調達で重要な役割を果たした後、ゴードン・ムーアやロバート・ノイスらマウンテンビューの若き博士号取得者たちの頼みでフェアチャイルド創業に加担。以後西海岸に移住してビジネスを広げる
l デイビス&ロック
その後ロックはデイビスとともにリミテッド・パートナーシップを設立し、ベンチャーキャピタル産業に参入。デイビスはスタンフォードでターマンの指導を受けていた投資家
1962年コンピュータ・メーカーのサイエンティフィック・データ・システムズSDSに28万ドルを投資したときの方針も「人材第一」で、ゼロックスに買収され380倍の利益を出す。'70年代前半の景気後退でゼロックスはその事業から後退、20億ドルの損失を計上
l インテルへの投資
1968年デイビス&ロック解散後、ロックはムーアやノイスのインテル設立を支援、10%出資して会長に収まり、自らガバナンスにあたる。案件に自ら関わることで投資対象が間違いないことを証明した最初のベンチャーキャピタリストとなる
ムーアやノイスは、既に成功した起業家だったことから、高い所有権を確保
l アップル・コンピュータとダイアソニックス
1969年アーサー・ロック&カンパニーも設立。アップルとダイアソニックに投資
アップルは友人の紹介。インテルで一緒だった友人の紹介で、アップルのスタートアップ・ファイナンスを手伝う。最初は単なる投資家で取締役の1人だったが、IPO後には積極的にガバナンスを提供、スカリーをCEOに迎える際も一役買い、93年には取締役を辞任
1978年ダイアソニックスへの投資は最大の失敗。取締役会議長を務め、83年には上場を果たすが、ノイスとともに売り抜けて巨額の利益を手にしたため、フォーブスやタイム誌に非難され、株価も急落して、11カ月後には会社も内部崩壊
l 「テクノロジーに投資する」トム・パーキンスのスタイル――クライナー&パーキンス
パーキンスが、人材/テクノロジー/市場の3要素を重視したのは間違いないが、なかでも投資先を絞る際にまず見たのはテクノロジー。自身もMITで電気工学の学位を持つ
HPに勤務、同社のコンピュータ事業の立ち上げに参加したが、経営方針を巡って創業者の2人と対立して辞任、友人に紹介された投資家のユージーン・クライナー(ロックが支援した若き博士号取得者たちの1人)とパートナーを組んでベンチャーキャピタル産業に乗り込み、経営参加型の付加価値投資という新スタイルの投資を始める
タンデム・コンピューターズとジェネンテックへの投資で成功
l タンデム・コンピューターズの場合
パーキンス自ら科学技術者としての能力を発揮して、当初のビジネス設計段階に深く関わり、節目節目で中間目標を設定し、段階的にファイナンスを行うという明確な方針を確立
l ジェネンテックの場合
トレイビッグがタンデムに集中するためにクライナー&パーキンスを辞めた穴埋めとして1975年入社したスワンソンが作ったバイオ・スタートアップ。最低限の機能だけを持った「リーン・スタートアップ」という革命的な投資形式で、新興バイオテクノロジー企業が大手製薬会社に対抗して起業する際に用いられる
l 「市場に投資する」ドン・バレンタインのスタイル
1933年生まれのニューヨーク育ちで、兵役中に電子工学を学び、除隊後はシリコンバレーの地理的優位性を見逃さず、フェアチャイルドに入って営業を統括、さらにナショナル・セミコンダクターにスカウトされ、両社での経験から市場の潜在力に注目することで、スタートアップへの投資で比較優位を生み出せるようになり、キャピタル・グループの1部門に投資マネジャーのトップとして入社し、ベンチャーキャピタル業界に名乗りを上げる
l セコイア・キャピタル
マーケット・インテリジェンス(市場に関する判断材料)を切り口に、独自のベンチャーキャピタルとしてセコイアを設立、自身で苦労しながら資金調達し投資先を拡大
l 投資、哲学、リターン
セコイアの初期投資は、バレンタインの人脈に頼っていた――フェアチャイルドからのつながりでゲーム機のスタートアップの当たりに投資、その繋がりでアップルにも投資
l 「離陸」の準備が整う
西海岸の環境全般の重要性も無視できない――シリコンバレーの生態系は、高成長企業、起業家精神の旺盛な人々、大手のハイテク企業で経営に関する専門知識やノウハウを身に付けてきたプロフェッショナル経営者によって成り立っていた
アメリカのベンチャーキャピタル産業は、未曽有の発展期を迎える準備ができていた
第7章
テックビジネスの隆盛とエコシステムの深化
1980年代前半、ベンチャーキャピタルとハイテク産業は密接不可分なほど結びつく、その大きな原動力になったのが個人用コンピュータの革命的な進化
l ハイテク・セクターの活況と停滞
『タイム』誌の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」の1982年は人ではなくPCを「マシーン・オブ・ザ・イヤー」として選ぶ
最初のIBM
PCが発売されたのは1981年、当初は中小企業をターゲットにした。「IBM 5150」の基本仕様は、オペレーティング・システムがマイクロソフトのDOS、RAMは64KB、CPUはスピードが4.77メガヘルツのインテル8088、1台の価格が1565ドル
ハイテク市場は1983~84年にかけて本当の大暴落を経験、NASDAQ指数は28%下落
ベンチャーキャピタルによる投資モデルには強い周期性のあることが浮き彫りになる
l ベンチャーキャピタルとIPOの合流
ベンチャーキャピタルを核とする金融エコシステムの発達がなければ、この産業はここまで成長できなかっただろう。アーリーステージのファイナンス市場の誕生に商業銀行、投資銀行などの銀行セクターが果たした役割も大きい
投資銀行がベンチャーキャピタル産業に中心的な役割を果たすようになったのは、IPOプロセスにおける仲介業務を通じてだった――1980年代には買収の方がIPOよりも頻繁だったが、IPOの方が平均してリターンが4割ほど高かった
仲介業者の代表格が1968年サンフランシスコに設立されたハンブレクト&クイストで、低価格や簡便性を生む”破壊的技術”を実現する「ローエンド型破壊者」として名を馳せる
メザニン・ファイナンスのニッチプレーヤーも登場、その代表格が1983年設立のシリコンバレー銀行(2023.3.破綻)
l コーポレート・ベンチャーキャピタル
1980年代には、大企業のベンチャーキャピタル部門が大きく成長。多角化戦略の一環として新たな事業開発の機会を追求
l 「官民連携」のベンチャーキャピタル
ベンチャーキャピタルによるエコシステムの発展をさらに後押ししたのが1982年中小企業技術革新法と同法に基づくハイテク・スタートアップを支援する政府の新たな取り組み
SBICと同じ発想で、スタートアップの調達ギャップを埋めるため、アメリカ国立科学財団がテクノロジーを審査し、適格技術には一定の出資や追加出資が与えられた
l ベンチャーキャピタル業界の階層化とパフォーマンスのベンチマーク形成
ベンチャーキャピタルの序列のトップに並んだのは、資金規模が圧倒的な全国レベルの企業群で、クライナー&パーキンスやセコイアなど
どの分野でも、ベンチャーキャピタル企業は様々なパフォーマンス基準によって評価
l 「規模拡大の壁を乗り越える」ニュー・エンタープライズ・アソシエイツNEA
ファンドの規模とパフォーマンスに相関関係があるか――NEAは1978年設立ですぐに世界最大のベンチャーキャピタルに成長、次々にファンドを組成。最初こそ規模拡大とともにリターンは低下したが、4号5号と時間とともに規模拡大の壁を克服、市場環境の変化の影響を受けにくくなった。スキルは技術にどっぷり浸かり、努力して初めて維持される
l 新世代の投資家たち
組織拡大につれ、組織の持つ力(組織資本)が投資パフォーマンスに貢献するようになり、投資家による出資金の額がパフォ-マンスの違いを説明するようになり、信用力の高さという意味でも、資金調達にとっても明らかに重要で、最も影響力のある投資家から絶好の投資機会と見做された
l 「多様性」問題の起源
業界で見逃してならないのは人種と性の多様性が欠けていたこと――活躍したのは白人男性と少数の移民に限られる
1989年、アン・ウィンブラッドは独自のベンチャーキャピタルをサンフランシスコに設立、女性初のベンチャーキャピタリストになる。セント・キャサリン大で初めて経営学士号を取った女性。マイクロソフトと仕事上密接な関係となり、ビル・ゲイツとは恋人同士
プロフェッショナルがハイテク分野でキャリアを積んでいくと、家庭を持つことが相当な負担になってくるのは女性参入の大きな障壁であり、主要ベンチャーキャピタルが業界でのマネジメント経験者ばかりを雇用していたのも女性が増えない背景にある
l 規律の崩壊の予感
1980年代はベンチャーキャピタル産業の歴史にとって転換期
ロングテール型の利益配分で成果を生むヒット企業が続出し、ベンチャーキャピタルの投資モデルは年金基金からの資金を中心に活況を呈した
様々なセグメントに分かれ、専門化が進むとともに、業界の規模が大きくなると、規律が乱れ、過度な熱狂の兆しも見え始める
第8章
「ドットコム・バブル」の教訓
1990年代~2000年代初めの時期は、ファンドの規模の点でも、社会的影響力の点でもベンチャーキャピタル業界が光り輝き、ファンドの出資約束金は1047億ドルに達する
経済成長率の押し上げにも貢献。支援先が上場企業の20%を占め、その時価総額は32%
特に情報通信技術ICT分野では顕著、ICT分野の大手6社(マイクロソフト、インテル、IBM、シスコシステムズ、ルーセント・テクノロジー、デル)の時価総額合計は1.79兆ドルで、GDPの20%近い
業界の変遷を象徴するのに有益な事例がペットのオンライン小売りビジネス――1997年の市場規模は310億ドル、オンライン専業数社がECサイトを開設、代表格はペッツ・ドットコムとペットストア・ドットコムで、市場破壊者の先駆だったが、2000~01年のドットコムバブル崩壊で株式市場は暴落、ベンチャーキャピタル業界は大きな転換期を迎える
2002年末のICT分野大手6社の時価総額は6789億ドルと、62%も減少
新規の出資約束金総額も114億ドルに急激に収縮する一方で、アマゾンやグーグルといった強力なハイテク企業も設立
l 1990年代のICT革命
ICT革命は、歴史的発展を遂げてきたハイテク産業が結実させた必然的な成果として、1990年代に花開いたが、その動きに拍車をかけたのはベンチャーキャピタル・スタイルの資金提供
l インターネットの登場
インターネットの商用化によって、テクノロジーはかつてなかったほどの進歩を遂げ、スタートアップへの投資には大きなリターンの機会が訪れる
始まりは1950年代後半、国防省が軍でのネットワーキング利用の研究に資金を投じた結果、データ処理用のプログラミング言語「COBOL」のような画期的な開発に繋がり、80年代には国立科学財団などの政府機関が大学でのネットワーク利用に資金を提供。90年代に同財団がインターネット・アクセスを民営化する決断をしたことで、インターネットが公有財産となり、ホスト・コンピュータの数が驚異的なスピードで拡大
l ベンチャーキャピタルのリターンと報酬
1990年代後半に組成された上位層のリターンは圧倒的。95年のトプのリターンはIRRで193.4%だが、2000年に組成されたファンドのリターンはトップでも13.6%
同じタイミングで上場株式に投資したと仮定した想定リターンが1を上回った時はファンドのリターンが上回り、1を下回るとファンドの方が低い
l 重要な投資群 ネットスケープ、ヤフー、グーグル
シリコンバレーの本質は、シリコン(ハードウェア)からネットワーキングに変質
ベンチャーキャピタルはシンジケートを組み、幅広い人脈と資源を利用した重層的なネットワークが出来上がった結果、有利なバリューでのエグジットができる確率が高まる。そのネットワークの中心的な位置を占めていたのがクライナー・パーキンス&バイヤーズ
同社のジョン・ドーアがネットスケープに辿り着いたのも人脈構築力の成果
l デューディリジェンスの欠如
ベンチャーキャピタル業界への新規参入が相次ぐ中、余りの急激な市場の拡大で、迅速な投資判断を求めるあまりデューディリジェンスを実施する時間さえ惜しまれ、投資先の奪い合いに発展、投資先へのガバナンスにもコストがかけられなくなって、スタートアップにはとどまることを知らない楽観主義が膨れ上がる
l Eコマース界の泥仕合
ペット小売りのオンラインショップは、Eコマースの中でも特に資金が集まり、競争の激しいセクターとなる。アマゾンの書籍や玩具のイートイズなどのEコマース事業の急速な発展に刺激され、参入が相次ぐ。ビジネスモデルやユニットエコノミクス(最小単位での収益性)は現在のスタートアップに比べても見劣りしなかったが、過大な販促費が致命傷に
l 歴史的視点を持つことの大切さ
ペッツ・ドットコムの株価下落は、株式市場全体が暴落(NASDAQは77%下落)する中で起きた。マイナスのキャッシュフローに祟られてビジネス継続が困難になったが、そのビジネスモデルは、新たなインターネット関連の実現技術の普及などに支えられ、10年もたたずに復活している。実験を繰り返しながら時に失敗をし、時にイノベーションを実現していく人々のグループ=連続起業家(シリアル・アントレプレナー)が次々に生まれている
l 正当性の危機
毀誉褒貶あるドットコム時代が長期的にもたらした好影響は、バブル崩壊直後のベンチャーキャピタリストや、株式市場の下落で痛い目を見た多くの投資家にはほとんど慰めにもならず、ベンチャーキャピタル業界は、歴史上最も深刻な危機に直面――2001年上半期のM&AとIPOは激減、さらに9.11が追い討ち
l 金銭的な価値と社会的な価値の両立
ロングテール型投資の「魅力」を巡るあらゆる側面が凝縮した形で現れた――失敗と損失ばかりではなく、経験豊富な者たちは過去の業界のパターンを認識して、技術変革の不確実性と断続的なシステム危機のリスクを抱えながら、冷静に投資サイクルを回している
エピローグ ベンチャーキャピタルの未来
ARD誕生以前からアメリカでは資本市場がダイナミックに機能し、仲介業者を使ってアーリーステージのリスク資本から金銭的リターンを得ようとする多くの試みがなされてきた
ロングテール型投資というコンセプトは、捕鯨産業の時代に始まり、脈々と受け継がれてきた。アーリーステージへのファイナンスから得られるリターン分布の偏りがこれほど影響力をもって受け入れられた例は他にない
歴史を踏まえてこそ、現代の事象の持つ意味合い、物事がどのような過程を経て現在に至ったかを深く理解できる
l 裾野の長い(ロングテール)リターン
現在の業界が抱える最も明白な課題の第1は、圧倒的な投資リターンはどの程度体系的に達成できるのかという問い――「高いリスクテイクの割には、公開市場並みのリターン程度しか得ていない」というのが通説
l 組織構造と戦略
第2の課題は、ロングテール型の投資に最も適した組織構造はリミテッド・パートナーシップというのが通説だが、期限の存在がネックとなるという限界もある
ベンチャーキャピタルの組織構造が、パートナーが抱えている人材(=パートナー資本)に見合うだけの価値を生み出せるようになれるかという課題もある
l シリコンバレーは生き残れるか?
第3の課題が、リスク資本には地域的な優位性があるのか、それともグローバルに展開した方がよいのかという問題
ハイテクベンチャーでは、「集積の利益」と呼ぶ優位性が活かされた→マーシャルの要因
アメリカの歴史を通じて、発展する地域がどんどん入れ替わっていったという事実は、このような優位性がいかに短命に終わり得るものかをも示す
l 政府の重要性
現在考えるべき問題は、今後政府はどのようにベンチャーキャピタル業界に影響を及ぼすかという点。政府にはベンチャーキャピタルの需給を左右する様々な政策ツールがあり、これまでも税制、移民法、労働法の策定を通じてこの業界に大きな影響を及ぼしてきた
l 多様性という課題
最大の課題は、多様制を巡る暗黒の歴史に終止符を打てるかどうか
l 最後に
アメリカ社会には、リスク資本と起業家精神に向かおうとする姿勢がしっかりと根付いており、それはこの国の草創期における経済成長と経済発展の勢いにも現れている。アメリカのベンチャーキャピタルはそこから出発した
ベンチャーキャピタルの歴史は、単なるスタートアップ・ファイナンスのモデルよりも遥かに網羅的な、他の国ではほとんど真似ができない何かに関する物語、それはリスクテイクの精神であり、起業家たちの冒険心をたっとび、抑えられない貪欲さを受け入れ、現実の金銭的利益に対する飽くことのない追求を促す、この国に培われてきた文化の賜物
ベンチャーキャピタル全史 トム・ニコラス著
起業家精神育むリスク資本
2022年12月3日 日本経済新聞
日本では近年、ベンチャー企業の育成が経済活性化を図るうえで重要という捉え方が広まっている。米国ではIT関連のベンチャー企業が創造的破壊力を駆使して瞬く間にグローバル企業へと発展し、経済成長を牽引しているからである。インテル、アップル、マイクロソフトなど、挙げれば切りがない。
ただし、ベンチャー企業が成功する確率は、ロングテール投資と称されるように極めて低い。海のものとも山のものともわからない彼らにリスクを大胆にとって資金を提供するとともに、運命共同体として成功に向けて努力してきたのがベンチャーキャピタル(VC)である。
本書は、リスク資本の専門的仲介業者であるVCの役割や機能について、歴史的な発展をたどりつつ論じるところに特色がある。「歴史」ということで、19世紀の捕鯨ビジネスから始まる。しかし、過去の説明にとどまらない。インテルなどを取り上げてケーススタディ風にVCの投資手法、起業家や投資家との間の利害調整などが生き生きと臨場感を持って語られる。一方、本書での歴史はITバブル崩壊で終わる。その後、VCは期待された役割を果たしていないということなのだろうか。
著者の見立てによると、VCによる投資が成功するか否かは次の要因に大きく左右される。すなわち、第1は投資分野の将来性である。第2は投資先企業が有する技術の卓越性である。このいずれかを欠くと、ベンチャー企業の急成長は見込めないからだ。その一方で、彼らの場合、概して組織運営力が十分でない。そのため、VCは、投資責任者が役員として経営に参画し、しかるべき方向に経営を仕向けることを厭わない。
また、本書では、政府の役割の重要性が強調される。税制等がVCへの資金提供を左右するからである。実際、米政府はキャピタルゲイン課税の減税を実施するなど、制度面からリスク資本の提供を支援してきた。このように米国ではリスク資本を提供して起業家精神に応えようとする姿勢が社会のなかに根付いており、これがVCの隆盛を支えてきたのである。
この結論は非常に厳しい。日本においてリスク資本の提供を通じてベンチャー企業を育成することは困難なのだろうか。本書を片手に、この問題に思いを巡らすことをお勧めしたい。
《評》同志社大学教授 鹿野 嘉昭
原題=VC(鈴木立哉訳、新潮社・3960円)
▼著者は英国生まれ。米ハーバード・ビジネス・スクール教授。専門は起業家精神、金融など。
Wikipedia
ベンチャーキャピタル(venture
capital、略称:VC)とは、ハイリターンを狙ったアグレッシブな投資を行う投資会社(投資ファンド)のこと。主に高い成長率を有する未上場企業に対して投資を行い、資金を投下する。経営コンサルティングなどを提供し、投資先企業の価値向上を図る企業も存在する。担当者が取締役会等にも参加し、経営陣に対して監視・コントロール・指導を行うこともある。事業会社が保有するコーポレートベンチャーキャピタル(CVC)は、VCの一種だが、フィナンシャルなリターンだけでなく、むしろ、ファンドの設立母体となった企業の新規事業立ち上げのために寄与する技術やアイディアなどの事業シーズを獲得するための情報探索のツール、新規事業立ち上げを推進する方策としてのVCファンドのことである。
ジャフコや大和SMBCキャピタル等の業界大手は、企業買収(バイアウト投資)等も行っており、買収ファンドの一面も持つ。
概要[編集]
ベンチャーキャピタルは、未上場企業に投資し、ファンドの運用報酬も収益源とする事業である。投資した企業を上場(株式公開)させたり、他のファンド等に転売して利益を得ることもある。投資が失敗し、廃業したり上場できないベンチャーも多いため、各投資案件に対しては投資金額の3倍、5倍、10倍といったリターンを目標としている。つまり、打率は低いが、長打を狙うタイプの投資方針となっている。一般には株式等のエクイティの引受けが基本的な投資手法となっているが、その他に、いわゆるCBの引受けや様々な設計の種類株等の引受けも行う。
自己資金を未上場企業に投資するケースと、投資事業組合(ファンド)を設立し、投資家から資金を集めて、ベンチャーキャピタルがそのファンドマネージャーとして未上場企業に投資するケースとがある。このようなベンチャーキャピタルファンドは、金融商品としては直接金融の中のオルタナティブ投資の一つであるプライベートエクイティの一形態として位置づけられる。
未上場企業に対して「出資」という形態で資金を投じるため、産業育成という役割が非常に大きい。ベンチャーキャピタルが出資先ベンチャー企業の経営に深く関与する場合もある。このような投資スタイルは「ハンズオン」と呼ばれている。時には投資担当者が投資先企業の社外取締役に就任して経営の一端を担うこともある。
ベンチャーキャピタルの属性[編集]
ベンチャーキャピタルには独立系ベンチャーキャピタルやコーポレートベンチャーキャピタルといったいくつかの属性が存在する[2]。株式会社INITIALは調査の際に金融系・独立系・コーポレートベンチャーキャピタル・海外・政府系・その他に分けている[3]。
金融系ベンチャーキャピタル[編集]
金融系ベンチャーキャピタル(略称:金融系VC)とは銀行や証券会社などの金融機関がファンドの出資者となっているベンチャーキャピタルのことを指す[2]。
独立系ベンチャーキャピタル[編集]
独立系ベンチャーキャピタル(略称:独立系VC)とは無限責任組合員(general
partner、略称:GP)として、投資事業有限責任組合(VCファンド)を組成して、有限責任組合員(limited
partner、略称:LP)である事業会社や機関投資家などから資金を集め、投資を行っているベンチャーキャピタルのことを指す[2]。
日本のベンチャーキャピタル[編集]
1963年に政府の特殊法である中小企業投資育成会社法によって設立された、東京中小企業投資育成、大阪中小企業投資育成、名古屋中小企業投資育成の3社がベンチャーキャピタルの草分け的存在であると言われている。民間のベンチャーキャピタルで最古のものは1972年の京都エンタープライズデブロップメント(KED、1979年解散)で、現存する中ではジャフコ(当時は日本合同ファイナンス)が最初である。
ジャフコが野村グループの一員として設立されたように、日本におけるベンチャーキャピタルはその多くが銀行、証券会社、保険会社など金融機関の関連会社である。そのほかに、事業会社系、商社系、通信系などのベンチャーキャピタルが存在する。これらのベンチャーキャピタルが運営するファンドは、専ら親会社が出資しているため、コーポレートベンチャーキャピタル(CVC)と呼ばれる。親会社にとって、CVCは投資リターン以外の戦略的な狙いを持つことが多く、事業シナジーや情報収集が目的として挙げられる。ストラテジックなリターン(戦略的なリターン)を得るCVC投資の始まりは、米国ゼロックス等が1960年代であり、日本の超大手企業にもすでに普及してる。「イノベーションのジレンマ」で社内から新しいイノベーションが生み出されないといったケースや、準大手企業や中堅企業で中央研究所などからの自社内R&Dが出てこない場合など、外部に新しい事業シーズを求めなければならない状況にあるオープン・イノベーションの最適なツールとなっている[1]。
大学系のベンチャーキャピタルも存在するが、私立大学であればCVCと同様、親会社が出資しており、公立大学であれば税金が原資である。これらの大学系ベンチャーキャピタルは特定の大学の技術や学生を支援する目的で運営されている。
東京中小企業投資育成、大阪中小企業投資育成、名古屋中小企業投資育成以外にも政府系のベンチャーキャピタルは多く設立されている。
CVCや大学系、政府系ではなく、関連企業を持たないベンチャーキャピタルは独立系とも呼ばれ、ファンドの資金調達を独自に行うとともに、業種に特化するなど投資方針の独立性を持つことが多い。
2002年11月に日本における業界団体としては初めての日本ベンチャーキャピタル協会が設立された。なお、業界最大手のベンチャーキャピタルであるジャフコも2016年6月15日に加入が発表された。
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