継ぐ者  上田秀人  2023.5.5.

 2023.5.5. 継ぐ者

 

著者 上田秀人 1959年大阪府生まれ。歯科医師。'97年『身代わり吉右衛門』で第20回小説CLUB新人賞佳作に入選しデビュー。’10年『孤闘 立花宗茂』で第16回中山義秀文学賞、'14年『奥祐筆秘帳』シリーズで第3回歴史時代作家クラブ賞シリーズ賞、'22年『百万石の留守居役』シリーズで第7回吉川英治文庫賞受賞

 

発行日           2022.12.16. 初版発行

発行所           角川書店

 

初出 『小説 野性時代』20212月号~4月号、6月号~'221,3,4月号

 

徳川家康が下した「人生最悪の決断

後に天下人となった男は、弱小大名として、父として、戦国乱世をいかに生き残ったのか?

 

家を守るか、息子を取るか

徳川家康、究極の選択!

織田信長が今川義元を討ち取った桶狭間の合戦の後、松平元康は今川家からの独立を目論む。名を家康と変え、妻の瀬名と人質にされた嫡男竹千代を取り戻し、竹千代を信長の娘と結婚させ織田家と同盟を結んだ。さらに姓を徳川と変えた家康は、元服して名を信康に改めた嫡男を岡崎に残して東進、遠江を攻略する。徳川家の前途は洋々と思われたが・・・・・

 

 

第1章        急転の日

今川治部太夫(じぶのたいふ)義元が駿府を出陣、総勢2万余騎。駿河、遠江、三河を息子の上総介氏真に譲り、自らは尾張から京に上らんとする

1560年、織田に敗れ義元討死

義元の姪(妹の娘)・瀬名の夫・松平元康は、駿府にも守備の一端を任された大高城にも戻らず、元々の松平家の居城で、城主が駿府に逃げた後の岡崎城に籠る

元々義元は、三河を抑えるには、三河を統一した松平に姪を嫁がせるしかないと判断、かつ、人質にとった元康の器量を見込むと同時に恐れ、瀬名に早く子をなせと言い含めて縁組、竹千代を授かる

元康は、父・広忠が義元を頼った際に人質として要求されたが、駿府に向かう途中家臣が裏切って織田信秀に元康を差し出す。信秀は広忠に織田方につくことを要求したが、今川家の恩を重視した広忠は一蹴。今川は広忠の行為を多として2度にわたり織田方に戦を仕掛け、信秀の庶子・信広を生け捕りにして元康と交換。今川は元康を取り戻すためにかなりの犠牲を払ったうえに、瀬名まで嫁がせたことから、駿府での元康への目は厳しく、嘲笑や誹謗に晒された

知多半島を領する国人領主・水野下野守信元は、妹・於大が元康の母という関係。今川家を見切って織田方についていたが、元康に織田との仲立ちの申し出があり、同盟が成立。直後に元康から家康に改名。三河の国人領主が次々に氏真のさらなる締め付けを嫌って、今川から家康に与する動きを見て焦る氏真の不興を煽る

今川勢の牛久保城を家康が攻めたのを機に氏真も出兵したが、挟み撃ちに遭い撤退するが、家康も国内の一向宗の一揆に遭ってそれ以上は深追いできず

瀬名の実家の関口刑部少輔は今川の譜代の中でも忠臣中の忠臣だったが、娘婿を説得できないのはおかしいと謀叛を疑われ、氏真に切腹を命じられ、一門は自害

 

第2章        違う想い

家康は、三河の制圧に先んじて上洛、13代将軍足利義輝に拝謁、将軍家直臣としての立場を確立。今川家と同格となるが、三河守に叙して欲しいとの願いは、時期尚早として拒否

1561年、家康による今川方の牛久保城急襲で、松平・今川の戦端が開く。今川と同盟関係にあった北条、武田とも援軍要請を拒否

今川方で最後まで抵抗したのは氏真の従兄弟が守る三河東の中ノ郷城と上之郷城。落城させ城主を討ち取り、その息子2人を生け捕りにし、人質の瀬名と竹千代、亀姫との交換

 

第3章        嫁取り

竹千代と亀は、重臣の石川助四郎数正と酒井雅楽助正親に預け、瀬名(築山殿)は単に2人の生母として寺に住まわせる。新たに正室を迎えることも考えたが、しばらく様子を見る

家康は着実に軍勢を増やし、三河の統一と遠江の併合に集中

信長は、斎藤竜興との戦いで勝利し、越前浅井には織田家の切り札としてとっておいた妹のお市の方を輿入れさせ、いよいよ上洛を目指して背後を固めるべく東の同盟者である家康に、1562年長女徳姫と家康の長男竹千代との婚姻を持ちかけ、翌年婚姻成立

 

第4章        三河の価値

松平と織田の確執は根深かったが、自立した家康は、今川が態勢を整える前に遠江を手に入れるためには織田の後ろ盾が必要として、怨讐(えんしゅう)を忘れよと家臣に求める

織田は武田とも手を結んでいるので、家康は武田を気にせずに東進できる

1567年、五徳姫が三河に輿入れ

家康は信長の口利きもあって、世良田源氏の末裔である松平から、世良田源氏から分流した得川藤原氏として得川を名乗ることで三河の守を許される。得川を徳川に変える

婚姻直後、家康は岡崎を竹千代に譲って家臣を慈しめと指示し、遠江に向け出陣

 

第5章        子離れ

武田晴信から家康に対し、今川の領土を分け合おうとの提案

竹千代は元服し、信長の諱(いみな)1字をもらって(偏諱(へんき))信康と改名

偏諱では、下の字を与えるのは家臣など格下の者に多く、上の字を与えるのは一門あるいは有力な与力の場合が多いので、長康より信康の方が信長の一門扱いとの意味がある

1568年、遠江を支配下に収め、武田との約束を守ってそこで兵を止め、浜松を居城とするが、武田が駿府を侵略した後、家康に戦を仕掛けてきて緊張が走る

家康は二俣城を失い、織田が佐久間信盛らの援軍を送るが、三方ヶ原に敗れる(1573)

 

第6章        危難と初陣

武田は信濃からも東三河に進入し、長篠城を攻略するが、晴信が病に倒れ、武田の進軍は止まる。晴信は死に、庶子の勝頼ではなく孫の信勝に家督を譲るとの遺言を残したため、内紛が始まり、余裕のできた家康は信康の初陣として、武田に寝返った三河の国人領主を討とうとして出兵したが、敵が籠城を解かないため、撤兵となり殿を信康が務める

 

第7章        続く戦い

放っておいても滅びる相手が城から出てきて追撃したのを見て信康は迎え撃ち、無駄な弾薬を使ったとして信康に不満を持ったが、信長は信康の初陣を褒めちぎる

勝頼が武田家の再興を期して駿府を発出し、戦を仕掛けてくる

信長は、まず手始めに長島の一向一揆衆をねじ伏せ、根絶やしにした上で、1574年武田勢に対峙。家康も長篠城の奥平家に亀姫を嫁がせ、武田への守りとする

 

第8章        新旧激突

武田勢の攻撃に対し、信長の援軍の鉄砲隊30003軍に分かれて火を噴く。それを合図に徳川軍が武田軍の側面から襲いかかる。徳川軍の先陣には信康がいる

 

第9章        若武者の勢い

そのまま甲州に攻め込んで武田に止めを刺そうという家康に対し、信長は北条の存在と、上方の留守を懸念して思い止まる。織田・徳川の実力差はいかんともしがたく、信長の圧倒的強さを見せつけた結果に終わる。朝廷も公家として最高位の権大納言に補するとともに右近衛大将も兼ねさせ、頼朝以来の処遇は朝廷が信長を新たに天下人と見做した証

信長は、長島に続いて越前の一向一揆も鎮圧。石山本願寺も挙兵するが蹴散らされた

家康は、長篠城を確保したが、信康を筆頭に信長の力を見せつけられた者たちの動向に気を遣わなければならなかった

 

第10章     跡を継ぐ者

信康の武名が上がるにつれ、家康にとっては耳の痛いもの

家康は、今川氏真を客分として受け入れ、氏真から口頭とはいえ駿河の国譲りを受け、まずは駿河を取り戻そうとするが、信康は信長からいずれ甲斐の主と言われその気になって、甲斐へ向かおうとしない家康を臆病風に吹かれていると非難、亀の婚姻にも不満を漏らす

 

第11章     跡継ぎ狂奔

五徳姫が女児を2人産んだ後、生母瀬名が選んだ信康の側室が男児を産む

三河と尾張の国境を領する者には、松平が織田と組んだのを快く思わない国人や家臣がまだ大勢いて、織田家への恨みは消えていない

五徳姫の嫉妬から信康との仲が悪くなる

家康は信康に、勝手に側室を設けたことを叱責し、跡継ぎは信康だけに限らず、於義丸(1574年生、神社の娘に産ませた)がいると伝える。家康は信康の子に松平家の嫡男が名乗るべき竹千代の幼名を認めなかった

信長は自分を裏切ったとしてさらに厳しく、3年のうちに男が生まれなければ連れ戻し、於義丸に信長の娘で五徳姫の妹・永を嫁がせると宣告。五徳姫も里帰り。信康には側室とその子の始末が残り、側室の実家の菩提寺に匿う

 

第12章     同盟の罅(すき)

信康の菩提寺通いが頻繁となる。菩提寺は家康の嫌う一向宗の看板を付け替えただけ

家康は、信長に露見することを危惧、信康の側室と子と菩提寺の痕跡を消すべく動くが、五徳姫が信康の行いに不審ありと信長に訴え、信長が家康宛てに真相究明の使者をよこす

 

最終章

家康は、気付かなかったと言い訳をして猶予をもらうが、すぐに使者を信長の下に送る

言い訳を聞こうとしなかった信長が、使者が「上様」といって平伏したのを見て、「それは徳川の意思か」と確認し、「よきにはからえ」と指示

「上様」という呼称は、将軍の跡継ぎに与えられるもので、将軍になれば「上様」は「公方様」に代わる。つまり、上様とは次の天下人の意味で、それを徳川が認めたということ

家康は、築山殿を斬首し、首を信長の下に送り、信康は岡崎城から放逐され、「家のために死ぬのが武将である」との家康の書状を見て自害、享年21

以降、家康は織田家の家臣として生きていく決意をし、信長に従って武田家を滅ぼし、駿河1国を褒美にもらったが、1582年天王寺の変で大きく状況は変化

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