軽井沢の文化遺産&資料集 1~3  軽井沢文化遺産保存会  2023.4.28.

 2023.4.28. 「避暑地・軽井沢」136年 軽井沢の文化遺産&資料集 3

 

編集 軽井沢文化遺産保存会

 

発行日           2023.3.31. 発行

発行所           軽井沢文化遺産保存会

 

 

 

第1部        論文、研究ノート、紹介

l  武居九夏と軽井沢                      大久保保(軽井沢文化財審議委員会長・軽井沢ナショナルトラスト副会長)

中仙道(1716年から中山道に)の坂本宿と軽井沢宿の間に中の茶屋があり、明治に山中村となり、1876年の学制発布で学校ができると、坂本宿から佐久間象山の愛弟子武居九夏を教師として招く。武居の書は象山をして「俺よりうまい」と言わしめるほど

軽井沢宿土屋家の裏山、大塚(だいづか)山に武居の揮毫した文字塔が残る

 

l  軽井沢ブランドに「銀座」をつけた話         大久保保

1934年、軽井沢町観光課発行の「軽井沢鳥観図」の裏面解説文に初めて「銀座」と呼んだのが鳥瞰図書きの第一人者吉田初三郎で、「絵に沿えて一筆」という歌8首の中に見えたが、その後の1971年旧軽井沢商店会の夏の大きな商店のチラシでも「旧道本通り」とあるだけで「銀座」の名はない

朝吹登水子『私の軽井沢物語』でも「現在は軽井沢銀座などと俗な名でよばれている」と嘆き残念がっている

2002年、軽井沢観光協会の依頼を受けて90ほどの道に名前を付けたが、その時もメインストリートである旧中山道軽井沢宿の「往還」には名称を付けず、「大通り」「本通り」「表通り」などで呼ばれていたままにした

 

l  同志社とシーモアの別荘             岡林洋(日本フンボルト協会常務理事)

1920年同志社女学校に赴任したアメリカン・ボードの宣教師でアメリカ人女性のシーモアが夏の間滞在した軽井沢で住んだ質素な家が同志社に寄贈された

1950年、同志社理事会が取得を決めたものは、玄関ポーチや杉皮張りの壁など、様々な造作が施されている

 

l  同志社とシドニー・ギューリック旧別荘――ラーネッド旧別荘との比較において――

岡林洋

軽井沢に別荘を持つ同志社の外国人宣教師で、同志社創設期の1875年新島襄に協力するために渡来したのがラーネッドで、その30年後に来たのがギューリック

 

l  マンロー病院                  松廣憲治

「サナトリウムの道/ささやきの小路」の名称の由来は、堀辰雄の『美しい村』に登場する「軽井沢サナトリウム=マンロー病院」が1924年に軽井沢避暑団とマンローによって設立されていたからで、矢ケ崎川沿いに、万平ホテルの南側

マンローは1928年名誉院長に祭り上げられ、1930年にはロックフェラー財団の研究奨励金を得てアイヌの研究に赴き、'42年北海道で死去

1967年、赤字が嵩み廃止、建物も'95年取り壊しに

 

l  戦前期の南軽井沢における「幻のレジャー空間」――「南軽井沢ホテル」と「軽井沢競馬場」の風景――                             前田一馬

1920年代以降、軽井沢駅南側の湿地帯開発が、箱根土地によって「南軽井沢」として進められたが、戦争によってほとんど痕跡は残っていない

1910年代半ば、野沢源次郎の野沢組は野沢別荘地を、堤康次郎の箱根土地は千ヶ滝遊園地を開発し、別荘開発が急速に進む

南軽井沢は、山梨出身の実業家雨宮敬次郎が新田を開墾していたが、1920年堤が押立山の北側126万坪を買い上げ、20間道路を造って分譲を開始

1937年には押立山頂に南軽井沢ホテル/ピイクホテルが完成

1923年成立の「競馬法」の下で公認競技が始まり、今日の中央競馬へと発展していくが、地方競馬は1927年農林・内務省令「地方競馬規則」によって認められ、長野県では岩村田に長野種馬所が設置され馬産改良の拠点となり、競馬場があったが、大きな負債を抱え、箱根土地が肩代わりする代わりに競馬場を引き取ったが、経営は北作畜産組合の下で193136年の6年間、夏に限って開催。'36年には県内3競馬場閉鎖、何れも経営不振

 

l  旧軽井沢と西洋人音楽家 ~旧軽井沢に有名音楽家がキラ星のごとくいた時代~

高川邦子

世界的に著名な音楽家が、音楽後進国日本に来た背景として、日本側では山田耕筰と近衛秀麿が日本での西洋音楽の普及を期して働きかけ、ロシアやドイツでの迫害から逃れるユダヤ人音楽家やロシア革命から逃れるロシア人音楽家がその誘いに乗って亡命先に日本を選ぶが、太平洋戦争によってユダヤ人音楽家は東京から追放され、軽井沢に移る

    レオ・シロタ(18851965) リストの再来といわれた名ピアニスト。初来日は1928年、'31年東京音楽学校教授就任。開戦とともに東京を追放され、日本人を教えることも禁じられ、軽井沢に移住する。戦後はアメリカにわたる。'63年再来日

大賀典雄夫人は戦時中シロタの教えを受け、大賀ホールの軽井沢への寄贈を説得

    ジョセフ・ローゼンストック(18951985) ポーランド出身の指揮者。ドイツから亡命、近衛の新交響楽団で指揮。東京追放で軽井沢へ。戦後は渡米

    ポール・ヴィノグラドフ(18881974) ロシア出身。オーストラリア国籍を取得、戦時中抑留され軽井沢へ移住

    フェリー・ローラント(18921977) ハンガリー出身のバイオリニスト。シゲティとクラスメート。1933年初来日。駐日ハンガリー公使館顧問のまま日本に留まり、軽井沢に別荘を購入。軽井沢の町の発展にも貢献

    コンスタンチン・シャピロ(18961992) ロシアのユダヤ人貴族でチェリスト。1920年来日。'28年近衛と山田の招聘で再来日。軽井沢に疎開、戦後は渡米

    アレクサンドル・モギレフスキー(18851953) スクリャービンの教え子。亡命ロシア人バイオリニスト。1930年来日し、東京音楽学校で教える。諏訪根自子が師事

 

l  軽井沢の「三井三郎助・高修別荘」 (3) 戦前・戦中・戦後         増淵宗一(日本女子大名誉教授、軽井沢文化遺産保存会会長)

三井小石川家の8代当主・三井三郎助(高景、6代当主の娘広岡浅子の義理?の甥)は、1900年、軽井沢宿本陣の佐藤熊六から愛宕山山麓の広大な山林を購入、軽井沢初のハーフティンバー式の洋館を建てる。現存するいちばん古い別荘は1893年の八田別荘だが、洋館・和館別荘では三井別邸が最古

三郎助は京都の生まれ、出水三井といわれたが、父高喜の隠居により1887年家督を継ぐと東京に移住、小石川三井家となる。息子が9代当主の高修。戦災を逃れた京都本邸は敷地1389坪。現在は公立学校共済組合の京都堀川会館が建つが、その設計は村野藤吾

 

l  日本女子大学三泉寮と桜楓会 戦前・戦中・戦後                      増淵宗一

1906年、三郎助は軽井沢最初の学校寮「三泉寮」を日本女子大に寄贈

三郎助夫人寿天も、1905年日本女子大卒業生の団体「桜楓会」に「桜楓館」を寄贈、目白の女子大敷地内に建設

広岡浅子が日本で最初の女子高等教育機関の誕生に関わり支援したのは、その設立準備期間と開校後卒業生が巣立ち、その同窓会を支援する桜楓会補助団を組織した時で、創立者の成瀬仁蔵と二人三脚で賛助員や寄付金集めに貢献

戦時中三泉寮には学生が疎開、授農隊として地元農家に泊まり込み農業を手伝う

1955年、三郎助の三井別荘がかいちくしゅうりされ、桜楓会に開放

 

l  聖アントニオの家(憩いの家)とゲレオン神父 軽井沢574 板橋カトリック教会                    増淵宗一

1958年、東京・板橋教会のゲレオン神父が夏の研修所として聖アントニオの家を新築

三泉寮に隣接、ともに三郎助の敷地内だったが、後にそれぞれに寄贈された

フランシスコ会フルダ管区(本部旭川)1953年板橋区に土地を購入し、聖エリザベト教会が誕生、1955年ゲレオン・ゴルドマン神父(ドイツ人、19162003)2代目主任司祭として着任。以後23年にわたり精力的に活動。軽井沢の「子どもと母のための憩いの家」の事業を展開。三井家より提供された聖パウロ教会の隣地に、信者の反対を押し切って「聖アントニオの家」を建設、夏の間信者の半分以上が参加して合宿生活を送る

 

第2部        軽井沢の文化遺産 保全と次世代継承  文化遺産別荘バンク

l  ウィン別荘を引継ぐこと                       浦本雄介

宣教師ウィンの別荘――ウィンは宣教師として1877年来日、金沢女学校を創立、女子教育を通じて女性の地位向上に寄与。1892年軽井沢に別荘を建てる

歌人の片山廣子が引き継ぎ、文化人の交流の場として利用

筆者の伯父吉尾夫妻が所有。「軽井沢ブルー・プラーク」「軽井沢文化遺産別荘バンク」登録

 

l  遊庵         設計者:堀口豊太(建築家・写真家・元京都市立芸術大学教授)

追分宿にある和洋折衷の別荘。日本人の心にしか残っていない西洋の家、西洋人の心にしか残っていない日本の家、それぞれの平凡な姿を誇張した結果生まれたのが遊庵

所有者は岩井克人・水村美苗夫妻

―岩井克人(経済学者、東大名誉教授)

「これはPalatial(パレーシャル:お城のように広大なとの意)ですね」といったのは、この家を初めて訪れ、5mの高さの天井までぶち抜いた居間に入った加藤周一。1989年堀口豊太と既設の別荘を共同購入、2000年に我々夫婦用に設計してくれたのが遊庵

―水村美苗(作家)

遊庵は私にとってディズニーに出てくるような「魔法の杖」

 

l  軽井沢タリアセンの保全と利活用 ~夏の家、堀辰雄山荘、睡鳩荘など~      大藤敏行(軽井沢高原文庫 副館長)

タリアセンが40年にわたり軽井沢の歴史的建造物移築保存してきたのは6

1.     1985年、最初に移築したのが堀辰雄の旧軽井沢・釜ノ沢にあった1412番山荘。1918年頃の建築で1941年堀がアメリカ人牧師から購入、4年過ごした。1965年から20年にわたり、堀と親交のあった深沢省三・紅子画家夫妻のアトリエとして使用

2.     1986年建築家アントニン・レーモンドの「夏の家」。1933年南が丘に建てた別荘兼アトリエ。ボヘミアの生まれ。帝国ホテル建設のスタッフとしてライトとともに来日。吉村順三や前川國男らが合宿。老朽化で解体されるところを寄贈され、現在はフランス人画家レイモン・ペイネ美術館として生まれ変わる

3.     1989年有島武郎の三笠にあった別荘「浄月庵」を高原文庫向いに移築。1916年に父親が建てた家で、ここで情死。シロタ夫妻が疎開生活を送ったのもこの家。「一房の葡萄」として活用。母方の親戚関係にある新渡戸稲造別荘にあった楕円形テーブルが設置

4.     1996年北軽井沢にあった野上弥生子の別荘「鬼女山房」が寄贈され軽井沢高原文庫に移築。1933年の建築

5.     1996年タリアセンの北ゲート新設にあわせ本通りにあった郵便局舎を移築。1911年に2等郵便局として建てられた木造2階建ての洋風建築。明治44年館という名称に変更、2階を深沢紅子の花美術館、1階をレストランとミュージアムショップに活用。2008年国の登録有形文化財に登録。本通りの時代、一時観光協会が使っていたが、取り壊されることになった際、町民有志が1992年軽井沢ナショナルトラストの前身「軽井沢別荘建築保存調査会」を発足させ保存運動を展開し、タリアセン保存となった

6.     2008年旧朝吹山荘「睡鳩荘」移築。1931年実業家の朝吹常吉がヴォーリズの設計で愛宕山に建てたもの。2017年国の登録有形文化財に登録

三笠に現地保存されているのが、高原文庫理事だった辻邦生の遺族が2012年寄贈した辻山荘。1976年建築。設計は磯崎新。当地で死去した辻が亡くなるまでの24年間生活

 

l  ハーモニーハウス保存運動で見えた条例の問題点  土屋勇磨(軽井沢総合研究所代表)

アメリカ人音楽教育家エロイーズ・カニングハムが1983年に音楽を学ぶ青少年のために建てた音楽ホール兼合宿施設。吉村順三の設計。カニングハムの設立した公益法人「青少年音楽協会」の所有だったが、経営不振から売却の話が持ち上がり、カフェ・シェアハウス、貸別荘事業で継続することになる

2015年エロイーズカフェ開業、人気店となるが、周辺住民から苦情が出て、町は手続き不備を口実に「軽井沢町の自然保護のための土地利用行為の手続等に関する条例」違反として公表したため、私は町を訴える

藤巻町長は、この15年間で東京ドーム22個分(100ha)の自然が失われたというが、歴史的建造物は歴史や文化を証する地域資源であり、行政が率先して保存・活用すべきもの。軽井沢ナショナルトラストが過去に調査した歴史的建造物のリストには114件の保存すべき建物が記載されていたが、既に40件以上が滅失。軽井沢町の豊かな自然と歴史的建造物を含めた別荘文化が未来に継承されるための本質的な制度を創り上げていくべき

 

l  軽井沢の別荘開発と景観育成住民協定                          澤重照

1945年、ポツダム宣言受諾電報は、軽井沢のスイス、スウェーデン公使館経由打電された

1953年、米軍の浅間山演習基地計画に対し、町を挙げて反対運動を展開、中止に至る

1958年、「軽井沢町の善良なる風俗維持に関する条例」制定――深夜営業禁止、静穏保持

1972年、「軽井沢町の自然保護対策要綱」制定(軽井沢ルール)――土地の分割、建蔽率・容積率、建物の形状、高さ、色を規制し、無秩序な開発や景観破壊を防止(別荘数5,496)

1993年上信越道開通、'97年北陸新幹線開業(2020年別荘数16,312)

1種住居地域は、都市計画上の用途地域指定が建蔽率60%、容積率200%のまま残っていて、マンション開発業者の格好のターゲットとなっているうえ、条令の違反者は公表されるが罰則規定はないため、開発規制をかけにくい

2022年、自主ルール「景観育成住民協定」の策定が地域ごとに進められ、長野県の認定を受けている――建蔽率・容積率とも20%、1戸建て専用住宅のみで必要以上の延床面積は避ける、樹木の伐採は極力回避、夜間のライトアップ禁止、静穏保持、事前合意

 

l  軽井沢文化遺産別荘バンク 設立・運営                       増淵宗一

軽井沢文化遺産保存会では、2019年の三井三郎助別荘、2021年の川端康成別荘の取り壊しを教訓にして、2021年軽井沢文化遺産別荘バンクを設立し、軽井沢の歴史文化遺産の保全と次世代継承の問題に取り組む ⇒ ホームページ参照

登録第1号はウィン別荘、第3号がメロディハウス(カニングハム邸)

 

軽井沢「別荘バンク」立ち上げ 所有者と保全・継承希望者橋渡し 町内外有志の文化遺産保存会

2021/11/05 11:01 信濃毎日

「軽井沢文化遺産別荘バンク」登録第1号の「ウィン別荘」

 軽井沢町内外の有志でつくる軽井沢文化遺産保存会は4日、文化的・歴史的な別荘建築を登録する「軽井沢文化遺産別荘バンク」を立ち上げた。保全・継承が狙い。別荘所有者に登録してもらい、相続などで維持が難しい場合、保全に理解のある個人などに同会が橋渡しする。町内では近年、文学者らの貴重な別荘が相次いで失われており「民間レベルで情報共有に力を入れる」としている。

 保存会によると、保全の対象は、歴史的な出来事や著名人に関わりがあるとして銘板を設置する町の事業「軽井沢ブルー・プラーク制度」で認定された建物や、物語性がある建物など。登録に手数料はかからず、当事者の氏名は公表しない。同会の仲介後は、所有者と継承希望者が直接話し合い、土地売買など金銭を伴う契約は不動産業者を介するとしている。

 町内では今年8月、ノーベル文学賞作家川端康成(1899~1972年)旧別荘の解体方針が表面化し、町が移築保存を目指したものの所有者の了解が得られず断念。9月に取り壊された。

 この日、町内で開いた説明会で、保存会長の増淵宗一・日本女子大名誉教授(東京)は「川端別荘は(解体)情報をもっと早く共有できていれば保存できたかもしれない」と教訓を同バンクに生かす考えを示した。米国人宣教師が明治後期に建て、アイルランド文学翻訳家で歌人の片山広子が所有した別荘が、現在の所有者により第1号として登録されたことも紹介された。同保存会のフェイスブックで問い合わせや登録の申し込みができる。

 

 

第3部        取り壊された「軽井沢の川端康成別荘」その後

l  2021年夏 取り壊された軽井沢の「川端康成別荘」                    増淵宗一

20217月、『信濃毎日』が別荘の解体危機を報じ、文化遺産保存会を中心に保存運動が起こり保存のための請願書を提出、静観を決めていた藤巻町長も突然保存の意向を表明し、請願を撤回させたが、直後に町長は議会に保存断念を伝え、気解体工事開始

川端の随筆『美智子妃殿下』(1966)には、前年礼宮文仁親王(秋篠宮)誕生直前の秋にお忍びで別荘に来臨され、暖炉を焚いてお迎えしたことが記されている

当初の所有者は神奈川県内の不動産会社。保存の了解が得られないまま解体工事開始

 

l  川端康成軽井沢別荘 Repositioning プロジェクト概要(略称”KKR”)    

(20211214日 Revised 2022127)             所源亮

KKRは想定予算10百万円で進められ、10tトラック1台分の解体資材を滋賀県の倉庫に搬入。復元の査定を京大建築学科に依頼。CGの作成と資材のコード化を検討

Endpointの想定としては、①完全復元(予算1)、②一部復元(50百万円)、③CG(25百万円)が検討され、②が最も現実的と考えられ、「暖炉のある部屋(main room)」の建設を想定し、それを収納する建物の建設を検討

立地は、室生犀星邸宅そばをベストとする

 

長良川河畔に川端の記念館がある。生涯伊藤初代への想いを秘めた川端の心を汲み、東京・軽井沢・岐阜・京都に繋がる「愛」の中山道プロジェクトを指向

川端は1940年英国宣教師から別荘を購入。木造2階建ての典型的な軽井沢の洋風建築

解体の新聞発表当日、関係者が了解した1週間の猶予では、完全な復元を目指す解体は不可能で、丁寧に解体したうえ資材を倉庫に運搬するのが精一杯

 

l  軽井沢と川端康成『みずうみ』               伊藤光宏(軽井沢文化遺産保存会会員)

『みずうみ』は、月刊『新潮』の19541月号から12月号までの12回の連載

銀平が吸い込まれた軽井沢のトルコ風呂は、東京温泉の軽井沢店で実存したが、1953年の夏だけの営業だけで撤退――浅間山米軍演習地問題で住民の結束が固かった時代

川端が初めて軽井沢を訪れたのは1936年夏。藤屋旅館に滞在して仕事をし、翌年からは藤屋旅館の一室を一夏借り上げ、ハッピーバレーに1307別荘を購入(終戦直前に売却)。この年、追分油屋の焼失で居場所を失った堀辰雄が、川端の別荘の冬季別荘番となって厳冬を過ごし、『風立ちぬ』の終章『死のかげの谷』を書き上げた

1940年、二つ目となる1305別荘を購入

 

『みづうみ』は、川端康成長編小説。川端の日本的鎮魂歌路線とは異質で、発表当初、好悪の分れる衝撃的な作品として受け取られ、〈魔界〉のテーマが本格的に盛り込まれ始めた小説である。気に入った美しい女を見かけると、その後を追ってしまう奇行癖のある男が、ある聖少女の美しい黒い目の中のみずうみを裸で泳ぎたいと願う物語。様々な女性への秘めた情念を、回顧、現実、妄想幻想などの微妙な連想を織り交ぜた「意識の流れ」で描写し、「永遠の憧れの姿」に象徴化させている。現代仮名遣いでは『みずうみ』表記だが、原題のまま論じられることが多い。

1966年(昭和41年)に、本作を原案とした映画『女のみづうみ』が岡田茉莉子主演で制作された。

あらすじ

桃井銀平は或る女の魔性に惹かれて後をつけ、その女が銀平から逃げる間際に落としていったハンドバッグから金を盗んでしまい、いたたまれなくなり東京から信州へ逃げた。夏の終りの軽井沢トルコ風呂へやって来た銀平は、湯女マッサージを受けながら、高校教師だった頃に初めて後をつけた教え子・玉木久子のことや、母方の従姉・やよいへの少年時代の初恋を回顧する。

銀平の母親は湖近くの名家の出で美しかったが、銀平は父親ゆずりののような甲の皮が厚い醜い足だった。父がその湖で変死して以来、母の親類は銀平の一家を忌み嫌い、やよいも露骨に銀平を見下した。

玉木久子と銀平は、生徒教師の間柄で密会し、そのことが原因で銀平は教職を追われ、久子は別の学校へ転校した。その後も2人は関係を続けて、久子の部屋に忍び込んだことが家人に見つかったこともあったが、結局2人は別れを決めた。

銀平に後をつけられハンドバッグを落とした水木宮子は、元は良家の娘だったが敗戦で家の財産がなくなり、金持の有田老人の愛人をして暮らしている。美貌の宮子はよく見知らぬ男たちにつけられた。落としたバッグの中には通帳とおろしたばかりの大金があったが、パトロンの有田や女中には金を引き出したことは内緒だったので警察には届けなかった。

宮子には大学に入学する弟・啓助がいて、そのための資金だった。啓助と同級の友人・水野には、15歳の恋人・町枝がいた。町枝は両親に水野との交際を反対されていたため、犬の散歩の時に土手で2人は会っていたが、ある日そこへ向う坂道で、町枝は不審な男(銀平)に後をつけられ、声をかけられた。

銀平は我を忘れて、犬を散歩させている可憐な色白の少女(町枝)を追跡していた。その少女は古里のやよいや、元教え子の玉木久子よりも美しかった。銀平は声をかけたが、少女は何も答えず相手にしなかった。少女のその美しい目の「黒いみずうみに裸で泳ぎたい」という奇妙な憧憬と絶望を銀平は覚えた。

恋人らしき学生(水野)と芝生の上で談笑する少女を呪わしく見つめながら、銀平は父親を殺した犯人を見つけて仇討ちを誓った頃のことを思い出す。少女が帰った後、学生にからんだ銀平は土手から突き飛ばされた。銀平は突っ伏しながら、やよいや玉木久子のことを回想する。

6月に堀で催された狩りに少女(町枝)が現われた。必ずそこへ来ると見込んでいた銀平は天女のような少女を見つめ、来世は自分が美しい足の若者に生まれ変って、2人で白のバレエを踊りましょうと、独り言を言った。銀平は帰りの坂道で土手を登るとき、戦時中に自分と関係した娼婦が産んだ捨て子の赤ん坊の幽霊が土手の土の中を這うのを見る。

銀平は、玉木久子が別れの時に、いつかどうしても先生に会いたくなったら、上野の地下道に先生がいても会いに行くと言った言葉を思い出し上野駅に向った。駅を出ると、ゴム長靴をはいた醜い女が、自分に目くばせしたと言ってついて来たので、一緒におでん屋で飲んだ。店を出ると女はしなだれかかり、銀平も自分に似合いの女だと調子を合わせた。

おそらく不恰好で醜いであろう女の長靴の中の足を見たいと銀平は思ったが、それが自分の醜い足を並んでいるところを想像すると嘔吐を催して、安宿へ導こうとする女の腕を振り解いて逃げた。女に小石をぶつけられ、情けない気持でアパートに戻った銀平は靴下を脱ぎ、くるぶしが薄赤くなっているのを見た。

 

川端康成が「みづうみ」執筆の軽井沢の別荘取り壊しへ 町が保存断念

滝沢隆史202197 1030分 朝日

川端康成が所有していた別荘。2階に書斎があったという=軽井沢町、軽井沢文化遺産保存会提供

 ノーベル文学賞作家の川端康成長野県軽井沢町に所有していた別荘が、取り壊されることになった。移築保存を検討していた藤巻進町長が6日、町議会で別荘を所有する神奈川県内の不動産会社との交渉が決裂したことを報告し、保存を断念する意向を示した。町によると、すでに解体作業が始まっているという。

 この日の町議会社会委員会で藤巻町長が説明した。藤巻町長によると、2日に町長自ら不動産会社に電話し、解体費用を町が負担して移築保存することなどを提案。だが、関連予算の議決や解体までに数カ月かかる見込みであることから、「取得のために借り入れた金融機関への金利の支払いがあり、悠長に待てない。スピード感が足りない」との返答があったという。

 出席した議員からは「熱意が足りない」との意見も出たが、藤巻町長は「町が金利の負担までは難しい。(不動産会社は)歴史的、文化的な価値がどうこうというよりも、ビジネスとしての対応だった。どうにもならなかった」と答弁。取材に対し「町内でも一級の別荘だったが、大変残念。解体の情報を事前につかむのは難しく、時間がなかった」と話した。

 別荘は窓枠が外されるなど、1日からすでに解体作業が始まっているという。町は不動産会社の許可を得て、建物内部を写真撮影して記録として残す考えだ。

 軽井沢文化遺産保存会などによると、この別荘は川端が町内に2軒目の別荘として1940年ごろ、外国人から購入した。川端は軽井沢を舞台にした小説や随筆を多く残しており、この別荘で小説「みづうみ」などを執筆したとされる。川端の遺族が今年に亡くなり、売却されたという。

 別荘は木造2階建てで、斜面を利用した地下1階もある。同保存会長で日本女子大名誉教授の増淵宗一さんは「地形を生かしたおもしろい構造で、石積みの暖炉の一部を建物の外壁に出すなど、軽井沢らしい特徴を持った貴重な文化遺産。ノーベル賞作家の創作の場が無くなってしまえば本当に残念」と指摘。「不動産会社が負担する金利分を有志らで一時的に立て替え、翻意してもらえないか交渉したい」と話した。

 この別荘を巡っては、同保存会など複数の市民団体が8月、町議会に保存を求める請願を提出。地元の観光協会なども保存を求めていた。別荘を所有する不動産会社が9月中に取り壊す意向を示していたため、町が早急に業者と交渉できるよう、請願は1日までに取り下げられていた。(滝沢隆史)

 

 

第4部        特集 正宗白鳥と軽井沢      

l  正宗白鳥文学碑の移転について 正宗量子(白鳥の息子の有三夫人、一級建築士)

1965年、正宗白鳥文学碑が一の字山に完成。設計は谷口吉郎

2022年、雲場池近くの旧正宗別荘敷地内に移転

文学碑がいつの間にか詩碑に変わったのは、スウェーデン産の黒御影に彫ってあるギリシャの古詩を白鳥の作詩と思う人が多かったからで、移転を機に元の「文学碑」に戻したい

古詩は白鳥の自筆、石の下には愛用の万年筆と新潮社刊行の全集第9巻の1冊が収められていた

 

l  軽井沢の「正宗白鳥別荘」 避暑と疎開&戦後 正宗家史料からみる暮らしぶり

増淵宗一

正宗別荘は、1940年野沢源次郎より購入、つ弥夫人に贈与され、'68年夫人逝去により息子の養子有三(実の甥)が相続、'05年有三没後は量子夫人と3人の息子たちが相続

居宅1が平屋29.75㎡、居宅2129.32㎡、222.31

正宗と軽井沢の最初の出会いは、1912年伊香保から思い立って外人避暑地を覗きに立ち寄ったもの。高崎経由、アプト式の登山電車で軽井沢について見渡すと、「茫漠たる草原」だったと記されており、駅から旧中山道の宿場町あたりまでの光景は木々や緑が少ない、イギリス人たちが好むmoor(荒野、湿原)として、浅間山登山と並び軽井沢の売り物の1つにされた

室生犀星は、白鳥より9年後の1920年、長野に旅行した折つるや旅館に宿泊したのが最初で、以降毎夏軽井沢で過ごすが、最初の印象を「霧がいっぱい籠っていて、その中から平原や草むらが見えた」と言っているが、それも今日では見られなくなっている

19448月、軽井沢に一家3人で疎開、東京の洋館全焼を知って軽井沢に留まり、'57年まで住み続ける

 

 

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