田中耕太郎 牧原出 2023.5.17.
2023.5.17. 田中耕太郎――闘う司法の確立者、世界法の探究者
著者 牧原出 1967年愛知県生まれ。90年東大法卒。同年助手。93年東北大法助教授。06年同大大学院法学研究科教授。11年博士(学術)。13年より東大先端科学技術研究センター教授。専門は行政学・政治史
発行日 2022.11.25. 発行
発行所 中央公論新社 (中公新書)
戦前、論壇人、東大教授として大学自治を守ろうとした田中耕太郎。戦後は文相に就き教育基本法制定に尽力。復古主義・共産主義を排し新憲法を強く支持した。参院議員を経て最高裁判所長官就任後は10年の在任中、松川・砂川事件など重要判決を主導、「反動」と謗られながらも脆弱だった司法権を確立。退任後は国際司法裁判所判事に選出される。激動の時代、学界・政界・司法の場で奮闘し戦後日本を形作ったカトリックの自由主義者の生涯
はじめに
1936年ベルリン・オリンピックから帰国した選手団の品行が新聞紙上で指弾され、体協幹部が総辞職に追い込まれた事件。現地大使館員の批判の声を体協が大島大使館付武官の私信を持ち出して無視しようとしたのに対し、当時渡欧中で選手団と同じ船で帰国した田中耕太郎が国際文化振興会での帰朝報告会で、大学生である選手への教育に問題があったと大学人らしいまとめをしたことが反響を呼んで事件が明るみに出たもの
それだけ田中の発言が影響力を持ったのは、当時田中が国際的経験、東京帝国大学教授、論壇人という3つの役割が重なったことが背景にある
田中は、学界では東京帝大法学部教授として商法学を専門とする
ベートーヴェンの愛好家、カメラの愛好家という趣味人でも知られる。1958年の皇太子のテニスコートのロマンス掲載の『アサヒグラフ』は、その場に居合わせた田中が撮影
戦後の田中は共産主義の危機を強く唱え、最高裁長官としては「反動的」と批判され続けた
批判するメディアを取り上げ、裁判官はこうした「世間の雑音」に耳を傾けるなと訓示した時は、一斉に非難を浴びる。裁判官訴追委員会に最も多く訴追申し立てを受けた裁判官だが、冷戦激化の最中にあって、自らが所属する組織を守ろうとしたための代償といえる
生涯を通じて、危機に立つ制度を守ることに注力――戦前は大学への思想統制強化の時代、法学部長として左右両翼の教授を同時に処分し、学内からの批判で辞職。国際司法裁判所判事の任期中にも、アパルトヘイトを推進する南アに有利な判決がアフリカ諸国の憤激を招いた際、歴史的意義の高い少数意見を書いている。戦後も、行政・立法・司法のすべてに属し、危機の中で新憲法の確立を体現
大学・裁判所時代を通じて、「独立」の理論を守ることを主眼としたが、いかにして独立を求め、それを守ろうとしたのか、近現代の日本で個人とその属する組織の独立はどのように危機に晒され、そこからどのように復元されたのか
大学であれ、裁判所であれ、その独立は脆い。田中を通じてそれを保つことが何を意味するのかを考えることが本書の目的
第1章
鹿児島生まれの「コスモポリタン」
1.
九州時代
父の転勤で学校を転々とするが、お陰で旧制高校では方言の異なる仲間内の通訳を務めたという
2.
第一高等学校への進学――教養とキリスト教に惹かれて
長男なので軍人ではなく一高を選択。剣道に励むが、結核性腹膜炎で1年療養生活を送るが留年はせず、恢復が覚束ない中で内省的思索へと向かう
2年下の矢内原忠雄がすでに内村や新渡戸に感化されキリスト教に傾倒
3.
内務省から商法学者へ
東京帝大の2回生から特待生に選ばれ、卒業時には優等卒業生として銀時計を下賜され、大学に残るよう勧められたが、仲間が官界を目指すのを見て役所の中で最も専門性のない内務省を選択。在学中に高文を首席で合格。内務省地方局に入る
結婚を考え、不自由な官吏の生活から、自由度の高い大学での研究職へ転向。在学中受講した松本烝治の後釜として商法講座に進み、大学院特選給費生、翌年助教授に任官
第2章
法学とカトリックへの目覚め
1.
助教授時代――法哲学・文学・ベートーヴェン
1919年欧州に3年間留学
留学前にお雇いドイツ人について法哲学を勉強、文学熱とクラシック、キリスト教に傾倒
2.
欧州留学というグランドツアー
米英経由渡欧し、フランス、イタリア、ドイツを回る
3.
商法学の構築の中で――内村鑑三との絶縁、カトリック受洗
帰国後、岡野敬次郎の後任として商法学教授に――商法の統一性を見出し、民法からの独立を説得
1924年、満鉄の理事になっていた松本烝治の長女・峰子と結婚――田中は松本の民商統一論に真っ向から反対したため、緊張感に満ちた結婚だったが、峰子の叔父が小泉信三だったので、田中の交際範囲が広がる
夫婦の性格は正反対だったが、信仰と芸術で一致。峰子は結婚を機に、母の聖公会から離れてカトリックに入信、田中は内村の無教会派(プロテスタント)と決別して峰子に従う
田中が問いかけたのは、宗教と法、宗教と国家、教会と国家の関係づけで、宗教と社会生活の関係も論じている
第3章
技術・自然法・世界法――3つの視角を絡ませて
我孫子で柳宗悦の邸を借りて新婚生活を始めるが、別荘地で白樺派の志賀直哉、武者小路実篤、杉村楚人冠らとの交流が始まる
『法と宗教と社会生活』『世界法の理論』『教養と文化の基礎』の3部作を発表――技術・自然法・世界法という3つの視角を個々に取り上げ、組み合わせを論じる
1.
法も技術の1つである
法律学が宗教を主題としないことに強く異を唱え、宗教とそれを規制する国家との関係について、法の技術的性質は教会秩序を支えるもので、教会の本質と矛盾しないと主張
2.
自然法は実定法の中に隈なくある
法と倫理の関係性についても探求。原点は宗教と法との関係の哲学的考察
自然法思想の系譜を辿り、自然法が実定法の中に反映される関係について着目
3.
世界法の探究
第1次大戦後、ヨーロッパの復興進捗とともに、商法・国際私法の分野で各国共通の法制定の運動が実を結び始めたのを見て、世界法への発展を論じる――1929年『世界法の理論』により法学博士号授与、'32年から公刊
満州事変後特に顕著となった「民族主義的傾向」に警鐘を鳴らし、西洋への理解が浅薄なまま、西洋と東洋を対置し、東洋文化の精神性を強調する点を批判、狭量な日本文化論を基礎に日本固有法を研究する動きに対し、真っ向から反対をしたため、右翼から睨まれる
4.
戦下の商法学者の横顔――法改正と制度設計への参画
1928年、貴族院議員になっていた岳父の下で商法改正作業に参画。38年改正会社法成立
度量衡制度調査会の委員としても、尺貫法に固執する委員に対し、「一民族の誇りの対象たるべく余りに価値が少なきもの」で盲目的民族主義だと主張、両論併記の結論に対しても、貨幣制度と同様、画一にすべき技術であり、併用制は取引の混乱と法への信頼の失墜を招くとして批判
第4章
嵐の中の東京帝大――1930年代~敗戦
大学の自治の基盤は、研究者コミュニケーションとしての学部の自治であり、そのためには教授会の構成員である教授・助教授は強い連帯感で結ばれることが望ましいとして分野を超えた知的交流のみならず、会食やスポーツなど互いをよく知り信頼を深めることが学部の自治を守る心の砦となることから、田中は積極的に若い助教授たちとも交わった
気さくな一面とは別に、自らの学問に厳しく、かつ同僚の教授らに峻厳な評価を下す一面もあって、人柄が気に入らないと評価は厳しい
1.
大学の自治への攻撃――滝川事件・天皇機関説事件
大学の意思決定は、総長が基本方針を評議会に付議した上で決定。評議会は総長・学部長のほか各学部から選任された2名の評議員で構成。東大では人事案件は学部限り
1930年代になると学部の自治が動揺し始め、文相が問題視された教授について総長の申し出なしに進退を決定しようとし、大学との間で激しい緊張が走る
東大総長は、小野塚喜平次('28~34,法)、長与又郎(34~38、医)、平賀譲(38~43,工)
田中は、評議員(30~33)、学部長(37~39)として、深刻な危機に立ち向かう
1933年滝川事件への対応――東大法学部では長老教授らの反対で自重、内部分裂を回避するのが精一杯。田中も評議員として徹底し得ない自身に気落ちが悪かったと述懐
その最中、配属将校増員通知が東大に出され、事前相談のない増員を勅令違反とする大学側と、統帥権を楯に強行する陸軍とが対立。他大学も受け入れ東大も延期という形で妥協
1935年天皇機関説事件――美濃部の支援と同時に、その学説を踏襲する宮沢の擁護と大学自治の確保に向け、長与総長の下に結集、内閣も美濃部個人への措置に留めた
1935年、イタリアへ交換教授として1年弱の赴任、世界法などを講義
2.
平賀粛学――医学部長の決断と辞任
1937年矢内原事件――経済学部内の派閥対立で昇格人事がストップするなか、マル経大内グループの矢内原の論文が軍国主義批判で発禁処分になり、辞職に追い込まれる。同時に大内らの教授陣が治安維持法違反で検挙(教授グループ事件)。大内の辞職要求に対し、異例の評議員会が開かれ、田中らがこぞって反対し、判決確定までは休職不要となる
学外からの攻撃は、法経両学部に及び、他学部からも非難。田中の過去の言動にも及ぶ
1938年荒木文相登場――京大総長選挙に介入した際、田中は文相との懇談で大学の自治を司法権の独立に準え、「行政官は服従、司法官は公平、学者・芸術家は不羈独立を徳とする」と説き、従来の総長選挙方式を維持することに成功
個々の教授への外圧が激化し、全学で守ることが困難になったのが平賀粛学――最初の標的は自由主義経済の河合栄治郎に向けられ、新総長の平賀は河合と土方の喧嘩両成敗で休職を文相に上申、右翼の主導者平沼内閣誕生で上申通り休職が発令され、両者を擁護する教授陣も一掃され、経済学部の再建が進められた。法学部内では、平賀の裁定を支持した田中への先輩教授らの批判が高まり、事態収拾のため田中は辞職。東大への介入は止んだ
3.
ラテン・アメリカ――日本との共通性
1939年中南米を訪問。当時の日本人としては稀な訪問の中で、カトリックを通じた文化交流を精力的に行い、さらに様々な政治体制に触れ政治理論に興味を抱くきっかけとなる
4.
太平洋戦争の中で
戦時下の困難な論壇にあって、田中が取り組んだのがラテン・アメリカ論。政治的に不安定なラテン・アメリカを描くことによって、間接的に日本の状況を批判
商法改正などの法実務に深く関わり、44年には海軍省調査課の法律政策研究会の統轄者に
戦争終結を見据えた行動を取り、反戦的姿勢に憲兵の検挙予定者となる。親しい筋を通じて重臣に対する終戦の働きかけも行ったが、あくまで懇談に留まる
第5章
占領下の文相就任――教育権と憲法の「番人」
1.
敗戦後の同心会――知識人の役割
1945年1月、重光外相の下に「三年会」発足。識者が集まって、戦局が悪化する中日本に何が可能か意見を交換。田中は政治的安定を精神的権威によって確保すべきと主張
三年会は敗戦後、芸術家やジャーナリストも加え「同心会」と改組、翌年には『世界」を刊行、田中が発刊の辞を書き、文化の自主性と権威の回復を訴える
1947年、侍従たちの発案で天皇を囲む文化人の会発足。同心会からも安部、和辻、志賀、谷川、田中らが参加、多岐にわたる話題で天皇と懇談、58年まで続く
1946年、文部省学校教育局長から文相に就任、教育改革に係る諸問題を天皇に奏上
平和を希求する天皇への敬意を深め、憲法発布後の天皇退位論を強く牽制
2.
文部省での1年4カ月――新憲法の普遍性への信念
終戦直後、東久邇内閣の前田文相から教育制度改革への協力を求められ、新設の学校教育局長に就任。第1次吉田内閣では文相として入閣、47年の辞任まで1年4カ月にわたり、教育基本法などに代表されるように、戦後の教育制度の主たる設計者となる
最初に手掛けたのが教職員適格審査、次いで地方教育行政制度の改革を通じた教権の独立
文相に就任後は、新憲法の擁護と、それに合わせた教育改革、教育基本法の制定に注力
3.
教育基本法制定、6・3制導入へ
教育勅語の自然法としての意義を認め、道徳的権威は尊重されるべきと擁護したが、勅語そのものは廃止されたものの、その自然法的性格は新憲法の自然法的性格へと吸収されたとみて、新憲法の番人へと変身し始める
アメリカ教育使節団からの勧告に基づき6・3制導入に踏み切るが、予算折衝で頓挫、組合の強力な突き上げの混乱回避から強硬派の田中は更迭され、’47年の実施が実現する
4.
参議院全国区での当選――緑風会と文教委員長
文相就任後に勅選による貴族院議員になっていた田中に初の参議院議員選挙での立候補要請が舞い込むが、無所属の全国区で立候補。同心会は講義している大学学生の応援もあって第6位の得票数で当選。保守系無所属議員による緑風会を結成。文教委員長に就任し教育改革の仕上げを行う
第6章
闘う最高裁判所長官の10年――判例と司法行政の確立
1.
立法権から司法権の長へ――期待された統率力
1950年、第2代最高裁長官就任――最初の候補は小泉信三だったが固辞。大審院の上告事件を東京高裁に移し、大審院を超える新設の組織として発足、多難の最高裁の行政的統率者としての能力が求められた
権限・財源・人事について独自性が保障され、違憲立法審査権により立法府・行政府への強い統制権を持つ。下級審を統率し司法権の一元化が図られた
政治からの要求と介入の排除に努め、司法行政の確立を目指したのが田中の10年だった
司法行政の重要な業務はGHQとの折衝――アメリカの司法制度を視察
2.
反共産主義、反復古主義
カトリックの立場から共産主義を強く批判していた田中は、長官就任後もその姿勢を変えず、さらに復古主義も念頭に置いての発言や振る舞いが際立つ
1950年、国連軍への参加の是非を巡る論争では、「国連警察軍」への加入の可能性に言及
1952年の『裁判所時報』の年頭所感では、長官個人の国民へのメッセージとして、共産主義を「赤色インペリアリズム」だとして批判し、それと闘う田中の強烈な意思を示す
1953年の年頭所感では、「偏狭固陋なナショナリズムへの逆行を警戒」しなければならないと、復古的なナショナリズムに対抗する姿勢を打ち出す
占領終結後の「逆コース」の改革が次々と提起される状況下にあって、新憲法の番人であり、正義と秩序の維持者である裁判官の使命と責任は重大とし、司法権を揺るがす改革を警戒
3.
政治からの介入――機構改革を巡る国会招致
滞留案件増加問題解決のための裁判所改革案と上告制度見直しが衆院で審議され、異例の長官の国会招致となったが、最終的には最高裁の意見が尊重され、滞留案件の削減も進む
4.
荒れる法廷、「世間の雑音」発言への批判
当事者が裁判官の言うことに従わず、法廷が混乱に陥る事件が続いたため、「法廷等の秩序に関する法律」が制定され、訴訟手続きが整備されていく――公安事件や労働事件では、特定の擁護団体が傍聴席から進行を妨害したり、裁判官が被告人に朝鮮戦争休戦を祝って犠牲者への黙祷を捧げることを認めたため、国会が問題視し、裁判官訴追委員会にかけると介入してきたり、マスメディアからの批判や法廷外での大衆運動により裁判を批判する動きに対して田中は55年には「裁判官は、世間の雑音に耳をかさず、流行の風潮に阿らず、裁判官の独立を毅然として維持しなければならない」と訓示
田中の姿勢には、歴史家の家永三郎を筆頭に強い批判が田中の個人攻撃の形で巻き起こる
法定に慣れていない田中は、三鷹事件の公判では一切の発言を認めず異議申し立てを葬る
1957年、新制の裁判所発足後10年を迎え、多くの裁判官の任期が終了、広範囲の人事異動が行われ、一部不適任の裁判官の不再任もあったが、転任が慣行として定着していく
予算獲得も長官の仕事で、機構改革と並行して司法行政上の課題として取り組む
5.
うねる政治と司法権――松川事件・砂川事件・苫米地事件
1959年松川事件判決――上告審では事実認定と異なる新資料が提出され、大法廷も破棄と差戻で真っ二つに割れかねなかったが、最後は破棄差戻で決着
1959年砂川事件判決――下級審の日米安全保障条約違憲の判決につき検察が高裁を飛び越えて特別抗告を行ったのに対する判決で、米軍の駐留を実質合憲とし条約に違憲審査権が及ばないとしたが、田中は全裁判官の合意を目指したため数多くの補足意見が付く。田中は、憲法9条と前文の平和主義の精神は不動だが、自衛のための措置と判断は政府の裁量に係る純然たる政治的性質の問題だとしたが、この主張が政治問題から司法権の独立を守る防衛線とする点は最高裁裁判官の総意だった
2014年には、この判決をもとに集団的自衛権の限定容認を正当化しようとしている
1960年苫米地事件判決――高度に政治的な問題に対する抑制的な姿勢を判例として積み上げる。衆院解散で失職した議員が任期一杯の職の確認と歳費の支給を求めた訴訟で、最高裁は議会という「部分社会」を裁判所の権限外に置き、懲罰等の判断を「政治問題」と見た
1957年、最高裁発足10周年記念式典に天皇の行幸を仰ぎ、10月1日を「法の日」と制定
「法の日」制定は、連綿と続く裁判批判に応答する広報手段であり、続く日米安保条約改定反対運動に見られる街頭デモへの反対声明だった
1973年の尊属殺人事件での違憲立法審査権の初めての行使は、田中時代への訣別
第7章
世界法へ――国際司法裁判所ICJでの9年
1.
国益と結びついた選挙戦
1960年、最高裁長官退職を迎える前に国際司法裁判所裁判官の候補となることを決断
国連加盟前の1954年、国際司法裁判所規定を締結して当事国となった日本は外交現場での国際法実務経験のない田中を裁判官候補とする
1966年、南西アフリカ事件判決で政治的動揺の下に置かれ、発足以来最大の独立の危機を迎える――南アの人種差別を容認するかのような判決に憤激したアフリカ諸国から激しい非難を浴び、付託件数がゼロとなって裁判所は無力化しかける
裁判官は総勢15名、9年任期で3年ごとに5名改選、地域別に振り分け、総会と安保理で別個に投票。田中が立候補したのは60年、米ソの候補とともに選出
2.
国際法律家が集うハーグでの生活
世界法や大陸法に関する豊富な知識が役立つとともに、カトリック信者の日本の代表的な存在だったことが役立つ
3.
南西アフリカ事件の衝撃――裁判官たちの亀裂
南西アフリカは、国際連盟時代にイギリスから自治権を得た南アの委任統治領だったが、第2次大戦後南アが信託統治への移行を拒否して実効支配を続け、人種隔離政策を施行したためその違法性が争われた事案で、アパルトヘイトは国連でも非難決議が出ていたが、まずは管轄権を巡る判決で原告のリベリアとエチオピアに対し訴訟資格を認め管轄権ありとした後、本案判決では管轄権が否決されたもので、何れも8対7の僅差。欧米以外の裁判官が反対に回り、田中も非差別・非隔離は法の一般原則として普遍性を備えた自然法的性格を持つとしてアパルトヘイトに反対。外部の批判に加え裁判官の間にも亀裂を生む
アジア・アフリカ諸国は問題解決の場を国連総会に狙い定め、南アの委任統治の終了を宣言、ナミビアとして国連委員会の統治下におく
4.
裁判官の紐帯――独立維持のために
国際司法裁判所は、外からの批判に衝撃を受け、亀裂を乗り越えるために規定や内部司法手続きの改正を進め、威信と独立性を回復することに努める
おわりに
1970年帰国後、72年から衰えが目立ち、翌年には病臥が続き、74年死去
妻峰子は夫の信仰について、「感情的に信心深いタイプ」ではなく、「乾いた状態で、信仰に非常に素直であったということは、ずいぶん心の貧しいことではないかと思う」と振り返る
信仰の入り口の段階で、悩みながら信仰を深めようとし続けていた。峰子は田中の死後修道院での信仰生活に転じる
息子で作家の耕三が捉えた父の知的な資質は、「常に異質な事物に類似性を求めてやまない」姿に現れている
周囲に才人が多い中、田中はやや不器用に鍛錬を重ねる性格の持ち主で、一方的見解に固執する頑なな人物と映り、その頑なさが批判されたが、人間観察が鋭い上に、理論と理論の間の対極性に極めて敏感であり、人間像を対極性の中に言い当てる能力を持っていた。厳格で頑なに見えながら、周囲を観察する田中は、否定し尽くすわけではなく、批判しながら、批判の対象を受け入れていくので、時に演技とばかり際立つ
田中が決定的に否定するのは、状況に迎合し便乗する人物で、論敵を強烈に批判しながらも、柔らかく心の有り様を讃える姿勢で接した
Wikipedia
田中 耕太郎(たなか こうたろう、1890年(明治23年)10月25日 - 1974年(昭和49年)3月1日)は、日本の法学者・法哲学者。学位は法学博士。東京帝国大学法学部長、第1次吉田内閣文部大臣、第2代最高裁判所長官、国際司法裁判所判事、日本学士院会員。日本法哲学会初代会長。文化勲章、勲一等旭日桐花大綬章を受章。大勲位菊花大綬章を没後叙勲[注釈 1]、正二位を追贈された。
生涯[編集]
裁判官・検察官であった田中秀夫の長男として鹿児島県鹿児島市に生まれる。父の出身地は佐賀県杵島郡北方村(現在の武雄市)。
高等小学校2年次に岡山中学入学。次いで父の赴任に従って新潟中学を経て、1908年(明治41年)福岡県立中学修猷館卒業[1]。修猷館の同期には、青山学院院長、古坂嵓城がおり、親友であった。第一高等学校と海軍兵学校の両方に合格し、父の勧めで第一高等学校へ進学。1911年(明治44年)第一高等学校独法科を卒業後[2]、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)に進学。在学中の1914年(大正3年)には高等文官試験行政科に首席合格している。1915年(大正4年)、東大を首席で卒業[3]し、恩賜の銀時計を授かる。同期には唐沢俊樹らがいた。
内務省に勤務するが、1年半で退官。1917年(大正6年)に東京帝国大学助教授となる。この頃、修猷館・一高・東大の先輩である塚本虎二の紹介で、無教会主義キリスト教の内村鑑三の門下生となっている。
欧米留学後、1923年(大正12年)に東京帝国大学教授に就任、商法講座を担当した。1924年(大正13年)、商法講座の前任者であった松本烝治の娘峰子と結婚し、峰子の影響によりカトリック信仰の真理性を確信するようになり、1926年(大正15年)4月に岩下壮一を代父として、上智大学初代学長ヘルマン・ホフマンより受洗している。田中はカトリックへの接近に伴って、それまで必要悪とみなしていた法や国家に積極的な意味を見出して研究に意欲を燃やし、そこから商法学における画期的な「商的色彩論」および大著『世界法の理論』をはじめとする豊かな成果が生み出された。1929年(昭和4年)、法学博士の学位を授与される。1937年(昭和12年)、東京帝国大学法学部長に就任する。
1941年(昭和16年)5月、帝国学士院(日本学士院の前身)会員に選定される。
1945年10月には文部省学校教育局長に転ずる。1946年2月21日、学校教育長として、全国教学課長会議で、教育勅語は自然法的真理であると演説した。5月に第1次吉田内閣で文部大臣として入閣。文相として日本国憲法に署名。6月に貴族院議員に就任[4]。
1947年に参議院選挙に立候補し、第6位で当選。緑風会に属し、緑風会綱領の草案を作成。その後も文相として教育基本法制定に尽力した。
1950年に参議院議員を辞職して、最高裁判所長官に就任。閣僚経験者が最高裁判所裁判官になった唯一の例である[注釈 2]。長官在任期間は3889日で歴代1位。就任した年に訪米。フォーダム大学から名誉法学博士、ジョージタウン大学から名誉学位を受けた[注釈 3]。
1949年に三淵前長官時代に発生していた最高裁判所誤判事件については、1950年6月24日に担当4判事を1万円の過料を科すことで決着させた[5]
1953年1月には法曹会の機関誌「法曹時報」に寄稿し、法廷の秩序維持を指摘し「法廷秩序の破壊を目的にした傍聴人の入廷は禁ずる。裁判官やその家族を脅迫する電報などは公務執行妨害や強要罪で処罰する。被告の氏名、住所の黙秘は権利として認められない」など具体例をあげて裁判の威信保持、審理妨害の排除を強調した[6]。
松川事件[編集]
最高裁長官時代の田中の発言として有名なものとして、松川事件の裁判について、広津和郎が月刊誌『中央公論』で展開していた裁判批判に対し、1955年5月の裁判所の長の合同での「訴訟外裁判批判は雑音である」と述べた訓示や、同事件の最高裁の差戻し審判決の多数意見を「木を見て森を見ざるもの」であるとした少数意見などがある。最高裁判事に思想検事系列の池田克が起用されていたように、「治安維持の一翼」を積極的に担ってゆく方針の下、「公安事件」には厳しい判断を下していった[7]。レッドパージ訴訟では最高裁大法廷の裁判長としてレッドパージを「GHQの指示による超憲法的な措置で解雇や免職は有効」と判決した。1952年の警察予備隊違憲訴訟では最高裁大法廷の裁判長として付随的違憲審査制を採ることを判決した。
砂川事件[編集]
砂川事件で政府の跳躍上告を受け入れ、合憲(統治行為論を採用)・下級審差し戻しの判決を下す(1959年12月16日)が、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世との“内密の話し合い”と称した、日米安全保障条約に配慮し優先案件として扱わせるなどの圧力があった事が2008年4月に機密解除となった公文書に[8][9]、またマッカーサー大使には「伊達判決は全くの誤り」と述べ破棄を示唆した事が、2011年に機密解除になった公文書に記されている[10]。
果ては上告審の日程や結論方針をアメリカ側に漏らしていたことが、機密指定解除となったアメリカ側公文書で2013年4月に明らかになった。当該文書によれば、田中はウィリアム・カーン・レオンハート(William Kahn Leonhart)駐日アメリカ首席公使に対し、
「判決はおそらく12月であろう。(最高裁の結審後の評議では)実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避するやり方で(評議が)運ばれることを願っている」
と話したとされ、最高裁大法廷が早期に全員一致で米軍基地の存在を「合憲」とする判決が出ることを望んでいたアメリカ側の意向に沿う発言をした[11]。 田中は砂川事件上告審判決において、
「かりに(中略)それ(=駐留)が違憲であるとしても、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに対し適当な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できる[注釈 4]」
「既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である」
機密解除された米国公文書(田中長官砂川事件判決に関するもの)の具体的内容は以下である。
「内密の話し合いで、田中長官は、日本の手続きでは審理が始まったあと、判決に至るまでに少なくとも数ヶ月かかると語った」(1959.4.24)
「共通の友人宅での会話のなかで、田中耕太郎裁判長は、砂川事件の判決はおそらく12月であろうと考えていると語った。裁判長は、争点を事実問題ではなく、法的問題に閉じ込める決心を固めていると語った。彼の14人の同僚裁判官たちの多くは、それぞれの見解を長々と弁じたがる。裁判長は、結審後の評議は実質的な全員一致を生み出し、世論をゆさぶる素になる少数意見を回避するようなやり方で運ばれることを願っていると付言した」(1959.8.3)
「田中裁判長は、時期はまだ決まっていないが、最高裁が来年の初めまでには判決を出せるようにしたいと語った。裁判官のいく人かは、手続き上の観点から事件に接近しているが、他の裁判官たちは法律上の観点からみており、また他の裁判官たちは憲法上の観点から問題を考えていることを田中裁判長は示唆した」(1959.11.5)
司法修習生の国籍条項(1956年)[編集]
1956年2月25日は最高裁裁判官会議で「公権力の行使や国家意思の形成に携わる公務員には日本国籍が必要」との内閣法制局の見解を準用して、外国人を司法修習生に採用しないことを決定して司法修習生の国籍条項を設置した[14](1977年3月に司法修習生の国籍条項は残したまま「相当と認めるものに限り、採用する」との方針を示し、2009年に国籍条項が撤廃された)。
最高裁機構改革法案(1957年頃)[編集]
長官在任中に上告事件が急激に増えて事件処理が遅れた1957年頃には、憲法問題のみを扱う最高裁と民事・刑事を扱う上告裁判所を設置する最高裁機構改革法案に意欲を見せていたが、同法案は廃案となった[15]。
国際司法裁判所判事時代(1961年以降)[編集]
1961年から1970年にかけて、国際司法裁判所(ICJ)判事を務めた。5つの事件と1つの勧告的意見に関わり、2つの個別的意見と2つの反対意見を残した。特に、1966年の「南西アフリカ事件」(第二段階)判決に付けた長文の反対意見は、有名であり、非常に権威のあるものとして、今日でもしばしば引用される。ジャーナリストの末浪靖司は、砂川事件差し戻しについて、判決翌年の1960年にアメリカ側にICJ判事選挙立候補を伝え、支持を取り付けている事から、アメリカの論功行賞狙いだったのだろうと見ている[16]。1970年2月9日、帰国[17]。
人物[編集]
聖公会からカトリックに改宗していた妻・峰子の影響を受けて、無教会主義キリスト教からカトリックに改宗している。以後、カトリックの立場からの反共産主義を唱えた。なお、大学時代に「お月さまの妖精」と自ら呼んだ女性に恋い焦がれたエピソードもある。
第二次世界大戦末期には、南原繁、高木八尺らと東京帝大の知米派教授グループによる対米終戦交渉、カトリック信者としての人脈を生かしてのローマ教皇庁を通じた対外和平工作にも関与した。敗戦まで16年獄中にいた日本共産党幹部の志賀義雄が一高の同窓生であることもあって、食料や本などの差し入れを続け、戦時中は軍部にとって要注意人物とされた。しかし、最高裁判所長官就任後に、「田中長官、共産主義の仮面を痛撃『目的は憲法の否定』」と報じられるなど、戦前も戦後も、一貫して反共主義者であった。しかも退官後に東京新聞へ寄稿した中で「独立を保障されている裁判所や裁判官は、政府や国会や与野党に気兼ねをする理由は全然ない」とまで述べたという。東京新聞はコラム『筆洗』で、砂川事件大法廷判決の背景を引き“厚顔とはこのような人物をいう”と評している[18]。
1949年5月13日、参議院で優生保護法による人工妊娠中絶に経済的理由を追加する事に反対し、「一家が貧乏だから四人の子供を二人にしろ、人口八千万が多過ぎるから六千万にしろ、そういう考えこそ、これはフアツシヨ的、全体主義的の思想であります。国がそれを指導するに至つては言語道断だというふうに考えるのであります。外国にそういう事例があるとしても、外国ではこの弊害に懲りておる。日本だけがそういう陰惨な方法を用いなければならないということは国際的正義人道の精神に反する。それを外国で若し日本に押付けようとするものであるならば、我々は堂々と国際的法廷において、それを広く世界人道及び正義の観念から、我我は断乎として今後闘わなければならぬと思うのであります」と発言した[19]。
1957年8月19日の、皇太子明仁親王と正田美智子との軽井沢のテニスコートでの出会いは、田中耕太郎が、カトリック人脈である小泉信三、吉田茂らと共に演出したとされており、田中もその出会いの場に立ち会っている。
松本烝治門下であり、門下生に鈴木竹雄、西原寛一、石井照久、片山金章などがいる。
家族[編集]
父・田中秀夫
- 佐賀藩士・田中関太郎の長男。函館地方裁判所検事正[20]
妻・峰子
- 松本蒸治の娘。峰子の母方の祖父は小泉信吉、母方叔父に小泉信三
妹・スミ
- 朝鮮貯蓄銀行頭取・植野勲(東京帝大卒、元大蔵省)の妻。服部豊子はその娘。義兄(勲の姉の夫)に本多辰次郎。[21]
弟・吉備彦は法政大法教授。松川事件の弁護団に加わる
弟・飯守重任[22] 母の実家の養子となる- ソ連・中国に抑留、田中以上の保守派の裁判官。元鹿児島地方裁判所・家庭裁判所所長。長沼ナイキ事件のいわゆる「平賀書簡問題」では札幌地裁所長(平賀健太を擁護)。嶋中事件の裁判では東京地裁刑事部判事[23]。
学説[編集]
専門は商法学であり、教育基本法をはじめとする各種立法にも参加したが、他方、トミズムに立脚した法哲学者としても広く知られ、『世界法の理論』全三巻(1932年-1934年)においては、法哲学・国際私法・法統一に関する論を展開した。商法学者として研究を始めた彼は、手形上の法律関係が、証券に結合された金銭支払いを目的とする抽象的債権が転転流通する性質から、売買等の通常の契約関係と異なることや、その強行法規性、技術法的性質、世界統一的性質を基礎づけたことで知られている。商取引の国際性・世界性に着目し、商法という実定法研究から、名著『世界法の理論』(朝日賞受賞)にいたるような法哲学研究にまで領域を広げていった。実質的意義の商法について「商的色彩論」を提唱した。
家永三郎による批判[編集]
最高裁判所長官としての田中は、日本国憲法で規定されている裁判官の自由裁量権を侵害する職権乱用措置を行ったと家永三郎に批判されている[24]。
前述の「雑音訓示」で、「我々裁判官としては世間の雑音に耳をかさず」云々と、一般市民による裁判批判の必要性を否定したが、訴訟外批判に耳をかすかかさないかなどは、日本国憲法76条により、裁判官の良心の自由に属するものであり、最高裁判所が指示するものではない。
1952年1月の全国刑事裁判官会同における訓示中で、「訴訟指揮に任ずる裁判官は、審理の円滑な進行に努力すべきこと勿論でありますが、摩擦波瀾を回避せんとするの余り、消極的退えい的態度に終始するがごときは裁判の目的達成を不可能ならしめるばかりでなく、延いては裁判の権威の甚しい失墜を招来するのであります」と述べたが、これは刑事訴訟法294条による訴訟指揮権の行使に事前指示を与えていることであり、司法行政監督権の濫用である。
「個人的論文[25]」において、共産主義諸国を「国際的ギャング」と罵り、「国際的ギャング」に対抗しアメリカ等の諸国との連繋を固くする政治的信念をもつことこそ、裁判官に不可欠の条件であり、「これに対し信念を欠き、又懐疑的な者は裁判官として適当であるとはいえ」ず、「安んじてその地位に止まり得ないわけである」と放言した。これは、最高裁の再任指名権を暗示して、下級裁判所の裁判官を威嚇したものであり、裁判官に対する悪質な圧迫である。
栄典[編集]
1958年、イタリア文化勲章受章。
1960年、西ドイツ大十字勲章受章。
1960年11月3日、文化勲章受章。
1964年4月29日、勲一等旭日大綬章受章。
1970年4月29日、勲一等旭日桐花大綬章受章。
1974年3月1日、叙正二位。大勲位菊花大綬章(没後の3月2日に閣議決定したもの)。
主な著作・論文[編集]
法学・法哲学[編集]
『合名会社社員責任論』(有斐閣、1919年、復刻版1989年)
『法と宗教と社会生活』(改造社、1927年)
『商法研究』(岩波書店(全2巻)、1929年)
『世界法の理論』(岩波書店(全3巻)、1932-1934年、復刻版1973年)
『法と道徳』(春秋社、1947年)
『会社法概論』(岩波書店、1953年)
『法の支配と裁判』(有斐閣、1960年、復刻版1997年)
『教育基本法の理論』(有斐閣、1961年、新版1981年ほか)
『田中耕太郎著作集』(春秋社(全10巻)、1954-1966年)
復刻版(新青出版、1998年)
『続世界法の理論』(有斐閣(上・下)、1972年)
「ソロヴィヨフの法哲学――とくに自然法と実定法の関係について」『法哲学四季報』第1号(1948年)
随筆[編集]
『学生の疑問に答える』(毎日新聞社、1956年)
『現代生活の論理』(春秋社、1957年)
『現代知性全集
30 田中耕太郎集』(日本書房、1959年)
『象牙の塔から』(春秋社、1962年)
紀行文[編集]
『ラテン・アメリカ紀行』(岩波書店、1942年)
『南欧藝術紀行』(文藝春秋新社、1952年)
伝記[編集]
『生きて来た道 伝記・田中耕太郎』世界の日本社、1950年。柳沢健の聞き書き
復刻版「伝記叢書」大空社、1997年。新版解説半澤孝麿
『私の履歴書 田中耕太郎』春秋社、1961年
『田中耕太郎 闘う司法の確立者、世界法の探求者』牧原出、中公新書、2022年
注釈[編集]
1.
^ 日本国憲法施行後、皇族と内閣総理大臣経験者を除き、唯一の大勲位菊花大綬章受章者である。また、生前に勲一等旭日桐花大綬章と文化勲章を受章したのは、田中と横田喜三郎のみである。なお、栄典制度改革後は井深大が生前に文化勲章、没後に勲一等旭日桐花大綬章を受けている。
2.
^ 最高裁判所裁判官就任後に閣僚に就任した例は高辻正己が1973年から1980年まで最高裁判所裁判官に在任し、1988年に法務大臣に就任した例がある。
3.
^ 「田中最高裁長官にまた名誉学位」
4.
^ 例として、不法に入国した外国人であっても、国内に在留する限りは生命・自由・財産等は保障されなければならないことを挙げている。
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