こころの処方箋 河合隼雄 2023.5.17.
2023.5.17. こころの処方箋
著者 河合隼雄
発行日 1998.6.1. 発行 2006.12.25. 25刷
発行所 新潮社 (新潮文庫)
初出 『新刊ニュース』1988年2月号~1991年12月号の連載『「こころ」の処方箋』に加筆 単行本1992年刊
「耐える」だけが精神力ではない。心の支えは、時にたましいの重荷になる。――あなたが世の理不尽に拳を上げたくなった時、人間関係のしがらみに泣きたくなったとき、本書に綴られた55章が、真剣に悩む心の声のささやかな震えを聴き取り、トラブルに立ち向かう秘策を与えてくれるだろう。この、短い1章1章に込められた偉大な「常識」の力が、必ず助けになってくれるだろう
1.
人の心などわかるはずがない
私は臨床心理学の専門家で、人の心ということを相手にして生きてきたが、人の心などわかるはずがないと思っている。周囲が決めつけることを予断なく観察し、未来の可能性に注目して観察を続けるうちに「心の処方箋」は出てくる
2.
ふたつよいことさてないものよ
人間の心に関する法則は当てにならないが、いいことづくめにはならないという法則だけは例外。悪いことは、何かよいことのバランスのために存在
3.
100%正しい忠告はまず役に立たない
4.
絵に描いた餅は餅より高価なことがある
5.
「理解ある親」を持つ子はたまらない
6.
言いはじめたのなら話し合いを続けよう
7.
日本人としての自覚が国際性を高める
8.
心の中の自然破壊を防ごう
9.
灯台に近づきすぎると難破する
10. イライラは見通しのなさを示す
11. 己を殺して他人を殺す
12. 100点以外はダメなときがある
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15. いちばん生じやすいのは180度の変化である
心理療法家という職業は人間の変化に関わるもので、そのような変化を援助するのが仕事
180度の変化は生じやすいが、すぐ元に戻りやすい
180度変化したときに生じた変化によって経験したことは、その人が次に自分の在り方と照合しつつ、新たな方向性を見出してゆくための参考になることが多いので、また元に戻ったといって悲観することはない
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26. 「耐える」だけが精神力ではない
スポーツの解説では「精神力」という言葉がよく出てくる
精神力を養うために、いかに耐えたか、という話も好き
耐えることだけを精神力と思う日本のスポーツマンの訓練法が、イマジネーションという豊かな精神の働きを破壊していないか。人生全般についてもいえるのでは
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38. 心の支えがたましいの重荷になる
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48. g
(天声人語)360度、変わる私
2023年5月7日 5時00分
右から左へ。黒から白に。がらりと180度、正反対に変化するというのは、ひとにとって案外と易しいものではないか。心理学者の河合隼雄氏が随筆集『こころの処方箋』で書いている。難しいのはほんの少しだけ変わることだと▼河合氏はある人から言われたのだという。「私も随分と変わりました。変わるも変わるも360度も変わりました」。ぐるり1周回って元に戻り、それで変わったとはどういうことか。言い間違えだろうが、それもまた「素晴らしい変化」だと河合氏は思ったそうだ▼世界保健機関(WHO)が新型コロナの緊急事態の終了を宣言した。あすは日本でも「5類」移行がある。重大な節目に違いない。社会全体がいま、かつての日常に向け、大きく音をたてて動き始めている▼この3年間、私たちの生活は変容を強いられた。失ったものはあまりに重い。死者は692万人。後遺症に悩む人も少なくない。いかにウイルスは怖いか。引き続きの警戒は当然である▼得たものもあっただろうか。孫と会えない。親と会えない。大事な人と過ごす時間の大切さを痛感した歳月だった。どこにでも行ける自由さ、歌を歌う楽しさ。失うことで知った、そんな思いを、忘れてしまいたくはない▼きのう電車でマスクを外してみた。窓から入る爽やかな5月の風が、ほおに当たって心地よい。こうして私は3年前の私に戻っていくのだろう。でも、と思う。それは同じだけど、同じでない。360度変わった私である。
Wikipedia
河合 隼雄(かわい はやお、1928年〈昭和3年〉6月23日 - 2007年〈平成19年〉7月19日)は、日本の心理学者。教育学博士(京都大学)。京都大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。文化功労者。元文化庁長官。国行政改革会議委員[1]。専門は分析心理学(ユング心理学)、臨床心理学、日本文化。
兵庫県多紀郡篠山町(現:丹波篠山市)出身。日本人として初めてユング研究所にてユング派分析家の資格を取得し、日本における分析心理学の普及・実践に貢献した。また、箱庭療法を日本へ初めて導入した。臨床心理学・分析心理学の立場から1988年に日本臨床心理士資格認定協会を設立し、臨床心理士の資格整備にも貢献した。霊長類学者の河合雅雄は兄(三男)。7人兄弟で、長男が仁(外科医)、次男は公(篠山市西紀町の内科医)、3番目が雅雄、4番目が迪雄(歯科医)、5番目が隼雄、6番目が逸雄。一人は夭折している
来歴・人物[編集]
幼少期・少年期[編集]
幼少期より、死について考えていた。死ぬと全く何もなくなってしまう、ということが耐え難い恐怖であった。目を閉じ耳をふさぎ、死がどのようなものか知ろうとし、そのように知ろうとしている自分がなくなってしまうのだと気づき、慄然としたことがある[2][要ページ番号]。兄・河合雅雄によると、幼少期の隼雄は繊細で泣き虫で、靴下がはけない、霜焼けがかゆい、好きな先生が転任だというような些細なことで泣いていた。一方で理屈で相手を言いくるめることが得意で逆に理屈で言い負かされたりすると相手を涙目で睨み返すようなことがあったが、同時に人の心を見透かす能力を備えており、母親は「隼雄はこわい」とつぶやくこともあった。このため家族内では「見抜き人」というあだ名を付けられていた。既成概念にとらわれず自分の頭で考え、ときに過激な発言もし、小学5年の時には「進化論的に言えば、天照大神は一番サルに近いということか」と言ったという[3]。
感受性の強い時期に軍国主義が台頭、「日本精神」、「大和魂」などの洗礼を受けたため、「日本嫌悪症」が強くなり、文学、芸術などは西洋一辺倒となり日本に関する文化にはすべて無関心に過ごす。その後、海外へ行く機会が多くなったことでようやく日本嫌悪症は治まり、老年期に至りようやく関心を持ち始める。しかし、能だけは若い頃より関心があった。のちに世阿弥の『九位』に特に関心を示したが、心理療法家として人間の「心の成熟」を常に考えていたため興味をそそられたと述べている[2][要ページ番号]。
大学卒業から米国留学まで[編集]
旧制神戸工業専門学校を経て、1952年京都大学理学部数学科を卒業。京都大学大学院に籍を置き、心理学を学びつつ数学の高校教諭として3年間勤務。学生時代には、雅雄がジークムント・フロイトの「夢判断」を読んで、「すごいショックを受け、夜眠れなかった」と言うと、「そうか?ショックなんか受けなかった。こんな面白い本はないと思うな」と答えた[3]。
河合はロールシャッハテストから徐々に心理学に入っていき、ロールシャッハが彼の心理学の土台を築く上で大きな役割を果たしている。河合は約1000人にロールシャッハを施行した。
河合は、当時カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) の教授であり投影法に精通していたブルーノ・クロッパーのロールシャッハに関する本を読んだ際、間違いと思われる個所を見つけ、手紙で質問した。すると丁寧な返事が来て、河合の指摘が正しく、河合が初めてそれを指摘したと記されていた。この手紙を契機に二人の関係が始まり、後の河合の留学先にも影響を与えた。
英語で努力を積み重ねた後、1959年にフルブライト奨学生としてカリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) へ留学し、クロッパーやJ・M・シュピーゲルマンの指導を受けた。
米国ではロールシャッハに関しては教授から大きな信頼を得た。留学期間が切れた後も助手として採用されて引き続き滞在。ネイティブアメリカンについての共同研究を行った。河合は第二次世界大戦での敗北を経験しており、西欧流の合理主義に傾倒していた。しかし、河合は米国の合理的な社会制度・思想に触れ、自分の日本人としてのアイデンティティについて深く考えさせられたという。
クロッパーはかつてドイツに在住していたが、ナチスの迫害を逃れて米国へ亡命したユダヤ系であった。ヨーロッパの精神医学・心理学に精通し、ユング研究所に1年間の滞在した経験のあった彼は、河合が米国で学位を取るよりも本場のスイスのチューリッヒでユング心理学を修める方がよいと判断し、河合にスイスへの留学を勧めた。この際、河合のために推薦書を書き、河合はユング研究所から奨学金を支給されることとなった。
ユング心理学との出会い[編集]
1962年に天理大学で助教授になった後、大学の許可を得て1962年から1965年までスイスに渡り、ユング研究所 (C. G. Jung-Institut Zürich)
で日本人として初めてユング派分析家の資格を得る。その際、C・A・マイヤー (Carl Alfred Meier) に師事した。
河合が心理療法家、なかでもユング派に属したことは、幼いころから感じていた自分自身の死の恐怖に導かれてのことであったといってもいいほどで、それは意図的になされたものではなく、多くの偶然の重なりの中で、何者かによってアレンジされたかと思うほどの流れでユング派の分析家となった、と著書『対話する生と死』の中で語り、さらにユング派のサークルでは他派に比べ、死について語られることが多いと述べている[2][要ページ番号]。
帰国後、1972年から1992年まで京都大学教育学部で教鞭を執る。退官後、プリンストン大学客員研究員、国際日本文化研究センター所長(1995年-2001年)を歴任する。
日本文化に根ざした心理療法の模索[編集]
河合は、欧米で修めた心理学を日本では同様に適用できないことに気づき、日本的環境や日本的心性にあった心理療法を工夫して創ることに苦心したという。その影響から岩波書店の編集者大塚信一(後に社長に就任)に勧められ岩波新書「コンプレックス」を出版。その頃、後に親交ある文化人類学者の山口昌男と出会う。
また、彼の著作には「母性社会日本の病理」、「中空構造日本の深層」、「日本人の心のゆくえ」、「日本人という病」、「日本文化のゆくえ」などのように、批判的かつ創造的な問題意識をもった日本文化論がある[注 1]。1979年、大塚の紹介で研究会「都市の会」に参加し、哲学者の中村雄二郎らと出会う。特に親交のある中村雄二郎との対談は「トポスの知」(TBSブリタニカ)に収められている。
そして、著書『ユング心理学と仏教』は、河合隼雄による日本人の深層心理研究の到達点にして、同人の著作の1つの頂点ともされている[4]。同書では、元々は日本文化や仏教に懐疑的・拒絶的で、欧米の学問・思想にばかり親和的であった河合隼雄が、心理療法の臨床経験を積み重ねる中で、日本人の深層心理に根付く日本の仏教の影響を見出すようになるとともに、人間の自我(ego)・自己(self)の構造や心理療法に伴う治癒の過程が、仏教の世界観・人間観によって的確に説明できること、心理療法の方法論としても、「治療」「解決」といった目的にとらわれず、また、合理的思考による解決や意味解釈を性急に求めない姿勢といった面で、自身の心理療法が実は禅と似ていると感じるようになったことなどが、欧米の聴講者向けの講義の形で語られている。また、そこで語られる日本人に典型的な治癒過程が、確固たる「自我(ego)」を出発点とする精神分析学とは逆方向の志向性を持っているとの指摘もされた。
日本心理臨床学会を設立し、同理事長に就任。臨床心理士制度や、スクールカウンセラー制度の確立に尽力し、日本臨床心理士会会長も務めた。
心理療法への貢献[編集]
1965年に河合は、スイスの心理学者ドラ・カルフがクライエントへのセラピーとして用いた箱庭療法 (Sandplay
Therapy) を日本へ紹介した。最初は天理市と京都市に導入され、そこから徐々に日本に広がり、臨床場面で幅広く使用されるに至った。
河合は非言語的な表現が多い日本人に向いていると考えていたという。その後、日本箱庭療法学会の設立に携わる。また、1985年に国際箱庭療法学会が設立され、河合はその創設メンバーであった。
精神科医で風景構成法を考案した中井久夫(神戸大学名誉教授)は、東京で河合の箱庭に関する発表を聞き、箱庭に枠が使用されている点に注目した。そして、患者が箱庭の「枠」があるために、箱庭による自己表現が可能であり、治療効果があることに気づき、自身の風景構成法の「枠付け法」に応用した。中井久夫や山中康裕などの精神科医が、箱庭療法を病院に導入したため、箱庭が教育現場だけでなく、病院臨床でも使用される契機となる。
文化庁長官就任[編集]
2002年1月18日より第16代文化庁長官に就任。民間人(非官僚)の起用は今日出海、三浦朱門に続き17年ぶり3人目となった。2年の任期が終了した後も、お得意の駄洒落で盛り上げる講演をするなど、文化庁の知名度向上に貢献した手腕を買われ、2度に亙って長官留任を要請され、2006年10月31日まで3期4年余在任した。
在任期間中の2002年4月、文部科学省が全国の小・中学校に配布した道徳の副教材『こころのノート』の編集に携わった。また、2004年には高松塚古墳の壁画がカビによって劣化していた事実を文化庁が隠蔽していたことが明らかになり、大問題となった。2006年7月から高松塚古墳壁画問題の件で国内各地で関係者に謝罪し、同年8月に公式謝罪を行った。
2006年8月17日午前、奈良県奈良市内の私邸で脳梗塞の発作を起こして倒れ、天理市の天理よろづ相談所病院に搬送され緊急手術を受けたものの容態は回復せず、2006年11月1日に文化庁長官職を休職。2007年1月17日付で任期切れにて退任した。
2007年7月19日14時27分、脳梗塞のため天理市の天理よろづ相談所病院で死去[5]。79歳没。
2012年5月2日、一般財団法人河合隼雄財団が設立され、主たる事業として「河合隼雄物語賞・学芸賞」が設けられた[6]。
逸話[編集]
冗談好きで、日本ウソツキクラブ会長を自称し、架空人物・大牟田雄三との共著もある。「うそは常備薬、真実は劇薬」という箴言も残している。
対談・座談の名手であり、対談集や共著が多い。また上記の山口昌男や中村雄二郎をはじめ、梅原猛、鶴見俊輔、森毅、白洲正子、安野光雅、山折哲雄、谷川俊太郎、柳田邦男、養老孟司、工藤直子、安藤忠雄、村上春樹、中沢新一など交友関係は多岐に渡った。
趣味はフルートを吹くことで、大学時代に京都大学交響楽団に所属、卒業後中断。58歳から再度フルートを習い始め、演奏会も度々開催していた。
ビジネスとは一線を画した演奏会運営のノウハウをもつ文化ボランティアによる演奏会を開こうと、特定非営利活動法人文化創造を設立。設立作業を整えた1か月後に脳梗塞で倒れ、本人は一度もこの組織による演奏会を聴くこと無く死去した。
家系[編集]
河合隼雄は7人の男兄弟の五男。
長男・仁は外科医、次男・公は内科医、三男・雅雄は霊長類学者(京都大学霊長類研究所元所長)、四男・迪雄は歯科医、六男・逸雄は脳神経学者(京都大学医学部元助教授)。
臨床心理学者の河合俊雄(京都大学こころの未来研究センター教授)、法社会学者の河合幹雄(桐蔭横浜大学法学部教授)、イタリア文学者の河合成雄(神戸大学留学生センター教授)は息子[7]。工学者の河合一穂(京都大学国際融合創造センター元非常勤研究員)、歯科医の河合峰雄(日本歯科麻酔学会理事)は甥。
経歴[編集]
略歴[編集]
1928年 - 兵庫県多紀郡篠山町(現:丹波篠山市)に生まれる。
兵庫県立鳳鳴高等学校(現:兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)卒業
旧制神戸工業専門学校(新制神戸大学工学部の前身)卒業
1952年 - 京都大学理学部数学科卒業。奈良育英高等学校教諭(数学担当)
1959年 -
9月、カリフォルニア大学ロサンゼルス校大学院留学(フルブライト留学生、1961年1月まで)
1962年 -
4月、天理大学助教授、ユング研究所(スイス)留学(1965年1月まで)
1965年 -
ユング派分析家資格取得
1972年 -
4月、京都大学教育学部助教授(教育心理学科 臨床心理学講座)
1975年 -
京都大学教育学部教授(教育心理学科 臨床心理学講座)
1980年 -
4月、京都大学教育学部長(1983年3月まで)
1987年 -
5月、国際日本文化研究センター教授併任(1990年3月まで)
1990年 -
6月、国際日本文化研究センター教授(専任 京都大学教育学部教授併任)
1994年 -
4月、国際日本文化研究センター名誉教授、プリンストン大学 客員研究員
1995年 -
5月、国際日本文化研究センター所長(2001年5月まで)
2006年 -
特定非営利活動法人「文化創造」を設立
学外における役職[編集]
日本心理臨床学会理事長(1985年11月-1991年10月、1994年11月-1997年11月、2000年11月-2003年11月)
日本箱庭療法学会理事長(1987年7月-1996年3月)
日本臨床心理士会会長。
国際箱庭療法学会会長(1990年8月-1995年)
宗教法人審議会委員(1997年-2001年)
中央教育審議会委員(1997年-2001年)
学術審議会委員(1994年-2000年)
「21世紀日本の構想」懇談会座長(1999年)
教育改革国民会議委員(2000年-2001年)
文部科学省顧問(2000年-2002年)
平城遷都1300年記念事業特別顧問
受賞・栄典[編集]
1982年 - 『昔話と日本人の心』で大佛次郎賞
1988年 - 『明恵 夢を生きる』で新潮学芸賞
1992年 - 日本心理臨床学会賞
1996年 - NHK放送文化賞
著書[編集]
単著[編集]
『ユングの生涯』(第三文明社
1978年)のちレグルス文庫
『明恵 夢を生きる』(京都松柏社・法蔵館、1987年)のち講談社+α文庫
『こころの処方箋』(新潮社、1992年)のち文庫
『猫だましい』(新潮社、2000年)のち文庫
『大人の友情』(朝日新聞社、2005年)のち朝日
注釈[編集]
1.
例えば、日本神話では3神が多くあらわれる中で、中心(2番目の神)が消えたり、あまり役割を果たしていないが、河合隼雄は、これを日本神話の中空構造として、独自の神話構造論を展開し、日本人の性格の構造に繋がるとしている。神話についての同様の論は、哲学者、上山春平が同様の説を示したが、河合の方が早い。
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