咲かせて三升の 團十郎  仁志耕一郎  2023.5.8.

 2023.5.8. 咲かせて三升の 團十郎

 

一般には「歌舞伎」だが、本書では「歌舞妓」

 

著者 仁志耕一郎 1955年富山県生まれ。東京造形大卒。広告会社勤務。2012年『玉兎の望』で第7回小説現代長編新人賞、『無名の虎』で第4回朝日時代小説大賞受賞し、作家デビュー。13年同2作で第2回歴史時代作家クラブ賞新人賞受賞。東京・深川で長く暮らす。現在山梨県在住

 

発行日           2022.4.20. 発行

発行所           新潮社

 

天災の輝きか、役者の業か

芸と女にどっぷり生きた七代目市川團十郎を描く傑作時代小説

市川萬次郎(歌舞妓俳優) 色恋も芸の肥やしというけれど。。。 夢のようでもあり、危うくもあり、切羽詰まった人生をあなたはどう見る!

酒井順子(エッセイスト) 江戸歌舞妓の明と暗がたっぷり詰め込まれた1冊。その煌めきと闇の深さは、現代の歌舞妓へと繋がっている

細谷正充(文芸評論家) 役者の業と、人の哀歓。團十郎の波乱の生涯から知った・・・・ 一途に生きてこそ咲く花があるのだと

 

江戸歌舞妓の若きスター團十郎。名だたる役者に認められ、粋な姐さんを妻にして、絶頂極めたその時に、お上に睨まれ財産没収、江戸追放。あっという間の奈落の底から、見事復活するが、家族の悲劇を招いてしまう・・・・。悪女に嵌り欲に負け、泥にまみれた晩年でも、最期まで人々に愛された波乱万丈の役者人生を初めて描く本格時代小説!

歌舞妓世界の光と影を濃厚に詰め込んだ傑作

 

 

2022.11.文藝春秋 松井今朝子著『市川團十郎を13倍楽しむ』(「スクラップ 歌舞妓―2022-10 成田屋 市川團十郎」) 参照

 

 

雲上口上(うんじょうこうじょう) 七代目 市川團十郎

こたびは何とも恐れ多いことと存じまするが、我が家の護り本尊成田山不動明王様のお許しを得、私こと七代目市川團十郎の生涯を本にし、ご披露させていただく運びと相成りましてござりまする

 

序幕 江戸の徒花(あだばな)

先代から褒められた、成田屋代々相伝の「睨み」の目。4歳で初舞台を踏み、10歳で七代目市川團十郎を襲名して18年、今ようやく「睨み」も様になってきた。初めの1号升に右目を浮かべ、2つ目の升には左目を、そして3つ目の升には両目を映して飲み干し、升を重ねる。3度重ねて、成田屋市川團十郎家の「三升紋」――これが「睨み」の目の清めと、さらなる天の力を目に宿す團十郎の座頭(ざがしら)としての儀式

江戸歌舞妓は、111日の「顔見世興行」をもって始まりとし、、舞台は年6回、年明け正月の「初春興行」、3月の「弥生興行」、5月の「皐月興行」、7月の「夏興行」、9月の「菊月興行」で〆(しめ)となる

多くの役者が11月の顔見世興行からの1年間、お上から興行を許され櫓を上げることができる中村座(堺町(ちょう))、市村座(葺(ふき)屋町)、森田座(木挽町)の「江戸3座」の、どの芝居小屋で演じるかを決めるのが「寄初(よりぞめ)」。文政元年(1818)の今、中村座のみ櫓を上げ、市村座の控櫓として玉川座が、森田座は河原崎座が務める

團十郎が座頭を務める玉川座でも、寄初で決まった役者や裏方衆を集め手打ちを行う

五代目松本幸四郎は義理の父、高麗屋の「花菱紋」、「鼻高の幸四郎」と呼ばれ、50代半ば、豪快な動きを見せる「荒事(あらごと)」と柔らかく優美な身のこなしの「和事(わごと)」を兼ね備えた2枚目役者、歌舞妓界の重鎮。5年前團十郎が市村座の座頭になる際後押し

寄初の役者の振り分けは、3座の興行主の座元と、それぞれのスポンサーである大店の旦那衆などの金主が集まり、談合によって決める。男役の立役(たちやく)の中でも主役を演じる「大立者(おおだてもの)」や「立者(たてもの)」、女形の最高位「立女形(たておやま)(「大丈夫」と呼ぶ)など、「名題(なだい)」と呼ぶ看板役者を決め、やがては「名題」に進む筋目の「相中(あいちゅう)」と呼ばれる中堅役者を取る

幸四郎のほかに玉川座で「名題」役者は、立女形の五代目岩井半四郎、女形の筋目を継ぐ若い五代目瀬川菊之丞など。お囃子方は河東(かとう)節の家元・十寸見(ますみ)河東一門

市川團十郎家が座頭を務める芝居小屋では、初代が「初春興行」で初めて演じて以来、序幕は大南北先生の《暫》と決まっている

1809年、日本橋から出火、中村座と市村座が全焼した火災で、團十郎も妻おしなと実母おすみを亡くしたが、今また深川の火が油掘りのどん詰まりにある團十郎の家に燃え移り、幸四郎の娘で妻のおこうと長女のおせんを亡くした

 

第2幕     辰巳芸者の助六

前年の火事で妻と娘を亡くした團十郎の《助六由縁(ゆかり)江戸桜》では2度も噛んで評判がガタ落ち。中村座が音羽屋・三代目菊五郎の《助六曲輪菊(ももよぐさ)》を仁義を切ることもなくぶつけてきて團十郎のスキを突く

色町深川は江戸城の辰巳(東南)の方角にあるところから、浅草寺の北の新吉原を「北里(ほくり)」と呼ぶのに対して「辰巳」と呼び、深川の芸者衆のことを「辰巳芸者」と呼ぶ。冬でも足袋を履かず、男物の羽織を引っかけ座敷に出、男の喋りで客をもてなす。気風がよく、情に厚く、芸は売っても色()は売らない――それが辰巳芸者の誇り(「左褄(づま)を取る」といって、辰巳芸者の誇りと粋を表わす言葉)

中村座の座頭は、「大立者」と呼ばれる三代目坂東三津五郎。深川の永木河岸に住んでいるところから「永木の親方」と呼ばれている。歌舞妓界の重鎮の1人、7年前から座頭

9歳で養父六代目が22歳で病没、16歳で祖父白猿(五代目團十郎)が老衰で66歳で他界したため、代々伝わる成田屋のお家芸の奥義を習得できず、確かな手本もない中、自ら試行錯誤を重ねてきたが、ずっと「本物の〈市川團十郎〉になれ」と言われ続けてきた

菊五郎は、7歳下の團十郎を弟分と思っていて、妻子を亡くして演技に身の入らない團十郎を心配し、《助六》を演じて團十郎を発奮させようとしたが、その思惑通り團十郎の芝居は息を吹き返したものの、容姿に恵まれた菊五郎の演じた助六があまりに好評だったために、贔屓常連同士のいがみ合いが喧嘩沙汰にまで発展。岩井半四郎が間に入って鶴屋南北に2人の顔が立つような芝居を書いてもらう

 

第3幕     團と菊

鶴屋南北作の《双(ふたつ)蝶々曲輪日記》(女を巡って2人の力士が競い合う物語)で無事團十郎と菊五郎は共演を果たすが、肝心の舞台上で助六を巡る喧嘩沙汰の再現をやってしまい、客席も騒然となって芝居は台無しになり舞台は打ち切り

その1年後、ダンボ風邪が猛威を振るったせいで奉行所から芝居打ち切り通告

さらに1年後の1821年、名題役者の大半が上方に出る中、唯一例外で興行が認められた成田山新勝寺の「出開帳興行」で團十郎は寂れた江戸を芝居で華やかにしようと千両を奉納

妻子の死から3年過ぎたところで、馴染みの辰巳芸者おすみと再婚。出開帳興行は予想通りの大盛況に終わり、座頭だった玉川座が櫓を下ろし、代わって中村座の座頭となって再興。同時に市村座も市村羽左衛門が12代目となって復興

1823年、おすみとの間に男児誕生、2代目新之助を名乗らせ、1か月後には市村座の顔見世興行で團十郎が抱いて初舞台

團十郎と菊五郎はその後も共演しながらも上辺だけに終わり、依然として気まずい関係に

成田山の旅巡業から戻ったところに台風による大川の氾濫で本所深川一帯が水浸しに

次いで、立女形の市川門之助が31歳で早世、重鎮の二代目大谷馬十も卒中で急逝

両者にとっての恩人がぎっくり腰で倒れたのを機に2人の間で5年ぶりの手打ち、菊五郎は生涯助六をやらないと宣言、2人で江戸歌舞妓を仕切るよう約束。1824年の顔見世興行を皮切りに、中村座の新春興行は「團十郎と菊五郎の和解興行」と銘打って大入りとなる

 

第4幕     表の《忠臣蔵》、裏の《四谷怪談》

鶴屋南北が夏興行用に書いたのが《仮名手本忠臣蔵 東海道四谷怪談》。忠臣蔵をそのまま演じることはお上批判と取られかねないため、時代も人物も別物に置き換えるが、お上へのささやかな皮肉を込めた抵抗。2つの話を間に挟みながら2日間で完結

上方歌舞妓(忠臣蔵)と江戸歌舞妓(四谷怪談)の張り合いのようでいて、同時に歌舞妓は世の中を映す鏡であり、お上の奇麗事で誤魔化す表を、裏側から暴いてやろうというのが南北の真の意図

2年後の1827年の河原崎座での新春興行は、正月に中村座と市村座が焼失したため、團十郎や菊五郎、岩井半四郎など江戸歌舞妓の花形役者のほとんどが顔を揃え大入りに

一昨年新之助は六代目海老蔵に改名、1人で何役も「兼ネル」役者を目指すと言って團十郎を唸らせる。「兼ネル」役者は位が高いとされた

 

第5幕     味よしお伝(でん)

1829年の江戸の大火で3座が盡く焼失したため、團十郎は一門を率いて上方へ

江戸歌舞妓では3座を大芝居と呼び、舞台を張れるのは看板役者の立者や立女形ほか、中堅役者の相中だけだが、上方歌舞妓の役者は筋目や名跡ではなくあくまで人気・実力本位

大芝居もあるが、中芝居や子供芝居もあって、芝居小屋自体が3段階に分けられている

「手打連中(てうちれんじゅう)」という贔屓定連が役者の人気・実力を決定する厳しい世界

上方歌舞妓の立役者は三代目歌右衛門(加賀屋)で、初代と團十郎の曽祖父とが昵懇

1831年、坂東三津五郎逝去、享年57。翌年初、五代目瀬川菊之丞肺病で逝去、享年31

三津五郎の糟糠の妻を追い出して後釜に座ったのが深川の妓楼の娘お伝。次々と色目を使っては周囲をかき乱してきたが、菊之丞までが籠絡され、芸が疎かになり、團十郎に厳しく詰め寄られ目が覚め、一番の立女形になると誓ったところで肺病が発覚

 

第6幕     十八番と女難

1832年、8代目團十郎を息子の六代目海老蔵に襲名させ、自らは五代目海老蔵を名乗る

《助六》《暫》《勧進帳》《景清》《矢の根》《外郎売(ういろううり)》《不動》《嫐(うわなり)》《関羽(かんう)》《七つ面》《象引(ぞうひき)》《蛇柳(じゃやなぎ)》《鳴神(なるかみ)》《押戻(おしもどし)》《鎌髭(かまひげ)》《毛抜(けぬき)》《不破》《解脱》の18を成田屋相伝の「荒事」の当たり演目「歌舞妓狂言組十八番」とし、今後一切市川宗家の許しなく他家が演ずることを禁止すると宣言

坂東三津五郎は養子の蓑助が四代目を継ぎ、市村座、中村座とも襲名披露興行で大当たり

仏教では、目、耳、鼻、舌などの6つの感覚を「六根(ろっこん)」、それで捉えた色、音、香、味など身の回りにあるものを「六境(ろっきょう)」と呼ぶ。六根で六境を捉えた時、各々生じる心の6つの認識を「六識(ろくしき)」といい、六根、六境、六識を併せて「十八界」と呼び、すべてを意識できた時、初めていかに「今、ここに在る」ことの難しさ――「在り難し」を知る。同時に「吾、在り難し」という己の存在に気付かされ、「今、ここに在るのは、なんと在り難いことか」と感謝の念が自然と生まれるという。それが「ありがとう」の語源で、「悟る」ことだというのが成田山新勝寺の教え

天保5(1834)の大火でまたもや芝居小屋も焼け出され、海老蔵一門は上方に向かうと、さっそく女難が襲い、芝居茶屋の娘に言い寄られる。さらに長崎でも同じことが起こる

1838年、江戸の大火中村座・市村座は難を逃れるが、鼻高の松本幸四郎が逝去、享年75、大坂の三代目歌右衛門が他界、享年61、三代目菊五郎が病を理由に舞台を降りる

「悪銭(あくせん)で穢れた水の(水野)江戸の町」の狂句のように、財政逼迫を通貨の改鋳で切り抜けようとした水野忠邦の天保の改革が進むが、庶民の暮らしは悪化の一途

 

第7幕     茨の花道

1840年、初めて「歌舞妓狂言組十八番」と記した《勧進帳》を市川宗家一門だけで演じる

元々市川宗家が、「身を捨てて弱い者を助ける」という心意気を図柄にした「鎌〇ぬ(かまわぬ)」が流行った江戸だけに、敗者や弱者に同情する江戸っ子には受けのいい内容

長男の團十郎は18歳、市村座の座頭を務めるが、親としては、仁(にん:容姿や人柄、声質など役者が持っている個性=その人らしさを指す)と度胸のなさ、芝居の小ささが気になる

次男の高麗蔵は16歳、3男新之助は8

1841年、11代将軍家斉が没するのを待っていたかのように、水野忠邦が天保の改革に乗り出し、風紀の乱れと賄賂横行による政治腐敗を一新するため、側近衆を刷新。祭礼緊縮令、倹約令、奢侈禁止令など触れの数は「法令雨下(うか)」と呼ばれるほどで半年余りで100を超え、江戸の町は一変。歌舞妓ほど贅沢で江戸の風紀を乱すものはないとしてその一掃を狙い無宿者を使って日本橋堺町に放火、芝居に関わる家屋を焼き尽くす

それに対し町奉行2人が猛然と反発、財性の逼迫の原因は武士、なかでも大奥の華美こそ手を入れるべきと進言、芝居小屋を潰す代わりに浅草寺の向こうに押し込める

舞台で腹いせにお上に喧嘩を売ろうとする海老蔵の心意気で初春興行は大入りとなったが、南町奉行に踏み込まれ、奢侈禁止令に抵触したとして、《景清》の舞台で御用となり、代役を立てることも許されず、上演中止となる。海老蔵は江戸歌舞妓との縁を切る覚悟で剃髪したが、水野の指図は「家屋取り壊し、木品(きしな)召し上げ、江戸十里四方追放」と、「晒し」よりはましで、成田山新勝寺も外であり、江戸以外での興行は可能

 

第8幕     親孝行に親不孝

1842年、歌舞妓と決別を考え旅に出る。成田山に戻って断食参篭するが歌舞妓への未練立ちがたく、上方で再起を期す

江戸を出た直後、成田屋七左衛門と改名、さらに大坂に出る際幡谷(はたや)重蔵と改める

江戸歌舞妓は3座がすべて猿若町に集められ、大看板を失って寂れるばかり。市川宗家を守る團十郎は、苦しい中から父への仕送りもしているのがお上の知るところとなってきた町奉行から孝行息子として褒美をもらう

1850年、海老蔵は江戸を出て8度目の正月を岐阜因幡で迎える。菊五郎が引退から戻って大坂で海老蔵と舞台を共にしたが、無理が祟って江戸への帰路掛川で客死、享年66

前年、「御赦免」の内示があり、正式な知らせがあって、3月河原崎座の舞台に復帰

公演は大評判を呼び、翌春の役者評判記には遂に「大極大上上吉」と番付され、「日本に並びなき富士山」「随一」とまで評された

海老蔵のいない間、市川宗家を1人で守ってきた團十郎は、芸の未熟さを周囲から批判され、莫大な借財を抱え、1人苦労したのを紛らわすため、海老蔵の長崎の妾に手を出す

 

8幕返し 浪速に散る江戸の花

2年後の1853年、團十郎が芝居に打ち込み役者として成長したのを見極めて江戸3座に隠居願いを出し、海老蔵は江戸払いになっていた折の大坂での借財を返すために大坂の舞台に上がる

1854年になると黒船の到来で江戸の町は騒然となり江戸3座は7日間の休座、さらに将軍崩御の発喪で「鳴物停止(ちょうじ)令」が出され2カ月近く櫓を上げられず、歌舞妓界は大打撃を受ける中、大坂で父子共演が実現するが、長崎の妾に惚れ込んだ團十郎に妾と逢わせてやるという大坂の妾の悪だくみに引っかかって團十郎が大坂に来たためで、大坂の妾から長崎の妾が死んだことを聞かされ、絶望した團十郎は自害

 

終幕 泥まみれの花道

團十郎の自害で海老蔵が築き上げたすべてが崩壊。大坂の妾が産んで團十郎を継がせようと企んだ4男猿蔵も21歳で病没、妾も團十郎の祟りだと言い出して気がおかしくなる

海老蔵は、妾の賭場の借金の返済で大坂の舞台から抜けられず、漸く大坂から逃げ帰り江戸の舞台に戻ったのは3年後。本妻も團十郎が死んだショックで亡くなり、妾も死ぬ

妾が生んだ5男は河原崎権之助の養子・長十郎改め権十郎として預けられていたが、海老蔵の江戸復帰公演で初の親子共演が実現し大当たりとなったが、その5日目、見得を切ったところで倒れる。病床で、市川宗家の芸を支えていた小團次に権十郎の9代目就任の見極めを一任。海老蔵はそのまま回復せず、舞台復帰もかなわないまま死去、享年69

1874年、海老蔵死後15年、河原崎権十郎が九代目團十郎を襲名。大根役者(大根はどんな食べ方をしても当たらないところから、絶対に「当たらない」との意味)といわれた権十郎が海老蔵の死の床で、「大根だって何度もやれば旨くなるし、どの料理にも合わせられるので好きだ」と言われて発奮、精進に励む。「歌舞妓」の「妓」は京で楽しく歌い舞って神や人を癒した巫女のこと。歌舞妓とは胸躍る歌と舞でこの世の人々を楽しませ支えていくことで、そのために今命がある。そのためには自分が楽しみ、時代が変わっても変わらない己の心こそ大事で、心のままに演じるのが歌舞妓だと言われたことを胸に、これからも精進することを口上で宣言

 

 

 

 

 

 

 

Wikipedia

七代目 市川 團十郎(寛政3年(1791安政63231859425))は化政期から天保にかけて活躍した江戸歌舞伎役者。屋号成田屋定紋は三升(みます)。俳名は三升、白猿、夜雨庵、壽海老人、子福者、二九亭。

天保の改革のあおりを受けて江戸を追放されたことで有名。

来歴[編集]

幼名は小玉。名跡は初代市川新之助市川ゑび蔵、七代目市川團十郎、五代目市川海老蔵を名乗り、江戸追放にあってからは成田屋七左衛門(なりたや しちざえもん)、幡谷重蔵(はたや(新勝寺のある村の名) じゅうぞう)、市川白猿(いちかわ はくえん)などともした。俳名は三升(さんしょう)・白猿(はくえん)。そのほか夜雨庵(やうあん)・壽海老人・子福者・二九亭(にくてい)とも号した。

寛政3年(1791年)、江戸生れ。母は五代目市川團十郎の次女すみで、生後間もなく六代目團十郎の養子となる。寛政6年(1794年)、市川新之助の名で初舞台。2年後には6歳にして『』をつとめた。その後市川ゑび蔵を襲名。

寛政11年(1799年)に六代目團十郎が急死したため、翌年10歳で七代目市川團十郎を襲名。文化3年(1806年)には祖父五代目も死に、劇壇の孤児となった團十郎は化政期の名優たちに揉もまれながら実力をつけていった。五代目の贔屓筋が後援者として若い七代目を支え、七代目が市川家のお家芸「助六」を初めて演じた際には、贔屓筋のひとり烏亭焉馬の編集による記念本『江戸紫贔屓鉢巻』が刊行された[1]。豪快ななかにも男らしい色気がただよう芸風であったらしく、市川宗家お家芸である荒事をよくするほか、四代目鶴屋南北と組み『東海道四谷怪談』の民谷伊右衛門のような悪役をやって人気を取った。いわゆる「色悪」の領域を確立した人物である。

の七代目。女形の五代目瀬川菊之丞と。勝川春亭画。1819

天保3年(1832年)、息子・六代目市川海老蔵に八代目團十郎を継がせ、自身は五代目市川海老蔵を襲名する。このとき成田屋相伝の荒事18種を撰して「歌舞伎狂言組十八番」と題した摺物にし、これを贔屓客に配った。これが歌舞伎十八番である。こうして歌舞伎の人気演目を独占し、2人の愛人とともに豪邸に住まい、人気役者としての派手な暮らしをしていた。天保5年(1834年)時の福岡藩黒田斉清の招きにより歌舞伎役者として初めて九州博多へ興行におもむく。仙涯和尚との面白い話を当時の博多商人が記録に残している。(博多中洲中島町に團十郎博多来演のが建立されている。)また天保11年(1840年)には初代團十郎没後百九十周年追善興行として『勧進帳』を初演、「隋市川」(「随一」と「市川」を合わせた造語)と呼ばれていた市川宗家の権威をさらに一段高めることに貢献した。こうして七代目團十郎改メ五代目海老蔵は、市川宗家=荒事の本家=江戸歌舞伎の権威、という図式を完成させるに至ったのである。

天保13年(1842年)、天保の改革の旋風が吹き荒れるなかで、海老蔵は突如江戸南町奉行所から手鎖・家主預りの処分を受け、さらに江戸十四方処払いとなる。これによって江戸の舞台に立つことが不可能となった海老蔵は成田屋七左衛門と改名。一時成田山新勝寺の延命院に蟄居したのち、駿府へ移る。その後さらに幡谷重蔵と改名して大坂へ昇り、大津桑名などで旅回り芝居の舞台に立った。追放の直接の原因は、奢侈禁止令に触れる派手な私生活と実物の甲冑を舞台で使用したというものだったが、要するに罪状は何でも良く、その目的は江戸歌舞伎の宗家として江戸っ子の誰もが認める「あの團十郎」を手厳しく処罰することにより、改革への腰の入れようを江戸の隅々にまで知らしめることにあった。

 かまわぬ
「鎌輪ぬ」


七代目團十郎が好んで使った役者文様。「構わぬ」にかけている。

嘉永2年(1849年)の赦免によって翌年ようやく江戸に帰ったものの、團十郎としては異例なことに以後も旅芝居を多くつとめ、幡谷重蔵や二代目市川白猿の名で上方の舞台に多く立った。江戸復帰後、まだ無名の狂言作者・二代目河竹新七(黙阿弥)の才能を見出している。嘉永7年(1854年)、長男の八代目團十郎が突如として自殺するという不幸に見舞われるなど、晩年は家庭的にめぐまれず、係累が多かったこともあっていさかいが絶えなかったという。安政5年(1858年)、久しぶりに江戸に戻り、翌年『根元草摺引』の曾我五郎をつとめたのが最後の舞台だった。翌年323日(1859425日)死去。

愛人との子を含め七男五女にめぐまれた子福者で、男子は順に八代目市川團十郎六代目市川高麗蔵(堀越重兵衛)七代目市川海老蔵市川猿蔵九代目市川團十郎市川幸蔵八代目市川海老蔵。門人には上方で活躍した初代市川蝦十郎、幕末期の名優四代目市川小團次、博識で知られた五代目市川門之助などの人材がいる。

対照的に息子たちは子宝に恵まれず、市川團十郎家は11代目以降養子による別系統となった。

 

コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.