ゴッホの犬と耳とひまわり  長野まゆみ  2023.5.7.

 2023.5.7. ゴッホの犬と耳とひまわり

 

著者 長野まゆみ 東京都生まれ。1988年『少年アリス』で第25回文藝賞を受賞しデビュー。'15年『冥途あり』で第43回泉鏡花文学賞、第68回野間文芸賞受賞

 

発行日           2022.11.22. 第1刷発行

発行所           講談社

 

初出 『群像』連載 20201月号~’226月号 単行本刊行にあたり大幅改訂

 

Vincent van Goghの犬 署名はほんものか?

 

古いフランス製の家計簿に書き込まれた膨大な文書を翻訳してほしい、と文化人類学者河島からの依頼。最後にVincent van Goghと署名があって、ゴッホ直筆かもしれない。しかも署名付き家計簿は2冊存在するという。贋作ならば、なぜ複数必要だったのか。僕は翻訳を進める一方、家計簿の来歴を追った。だが、謎は深まるばかりだった

 

 

 

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河島から小包が届く

 

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小包は私を、底なしの泥炭地に足を踏み入れさせることになる

低地王国出身の画家が好んだ泥炭やタールのように濃い黝(くろつち)を受け取ったのと等しかった。いまや伝説の画家となったその人は、名もなき一人の若者だった頃、無限の黒であらゆる図像の個性や構造を、さらには目に見えるものすべてを描き、まだ誰も知らない炭鉱労働者や職工の姿を暗闇から救い出そうとした

 

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古書の翻訳の依頼。ただし、書物の余白に手書きされた部分のみで、その手稿を読み解いてほしいとのこと

対象は商品目録。19世紀フランスで、デパートが販促用に拵えたもの。家計簿と呼んで差し支えないが、暦を兼ねたダイアリーと広告ページから成り立つ。乗合馬車の路線情報や、郵便料金、警察署や役所の住所など暮らしに役立つ情報も満載、手紙を書く時に必要なインクの吸い取り紙もついているので、便利帳としてリビングの目立つところに置かれる

1888年版。真価は、手書き文字とその筆者にある。手稿の最後にゴッホの署名がある

 

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最初の送り状に続いて、依頼品の紙の束が送られてきた

 

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標題ページで目に付くのは、AGENDA-BUVARDの文字

AGENDAは日記を兼ねた家計簿、BUVARDは広告を印刷した吸い取り紙

発行元はパリの百貨店「ボン・マルシェ」

フルネームの署名があるが、父親との確執を抱えた画家にとってファミリーネームは忌避すべきものだったので、画家本人のものとは言い難い

 

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僕の父はフランス人、母は画家だが、僕には絵心はない

 

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ゴッホの来歴を調べる

 

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家計簿を手に入れたのは、遠州の製紙業を営む創業家の3代目

1919年次世代の紙の研究のため渡欧。パリで見つけたのが家計簿。その中にあった吸い取り紙BUVARDに目をつけるが、ピンク色では日本では使い道がなかった

家計簿は、富裕層の婦人が予定などを書き込むために使われるが、実際にはほとんど書き込みはなされていないのに、この家計簿だけにはびっしりと書き込みがあるところから、何が書いてあるのか解読が必要になった。しかもそれが2冊ある

 

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製紙業の工場敷地内に資料館開館

 

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ゴッホは弟宛の手紙のほとんどをフランス語で書いている。英語の使い手でもある

資料館の学芸員が論文を書くために、ゴッホの書き込みのある家計簿を持ち出して、精巧なコピーを作成。コピーを資料館に残して、本物は手元に置く

 

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3代目は関東大震災でパリから帰国

 

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翻訳引き受けを決める前に元学芸員に会うことを考える

 

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資料の任意のページをめくると、「ゴッホが浮世絵に描かれた青い空や青い水辺に憧れてアルルに行ったような気がする」と書いてあった

 

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元学芸員は、IPM(総合的有害生物管理)アドヴァイザーの名刺を持っていた

初めて資料館で家計簿を見たとき、シイタケの匂いがしたので興味を持ったという。それはインクの劣化した臭いだが、ゴッホの真筆だとするなら、油絵を描く前に盛んに素描を描いていたが、初期のゴッホは明暗を表現することに夢中になっていたため、常に黒い画材を探求していたので、そのうちの一つから来る臭いかもしれない

 

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墨汁でも、書き心地をよくするために固形の墨と混ぜて使うことがあり、防腐剤が入っていないために水分が加わると腐って、シイタケに似た臭いになることがある

 

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3代目は、関東大震災で急遽帰国したが、にも拘らず帰路上海に1か月も滞在していた

 

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ゴッホの絵の色使いは、時間の経過とともに変色する

 

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パリの古書店で見つけた絵本の印刷が1928年とあり、出版社は上海フランス租界にあった。100年前の出版にしては、装本も悪くないし、紙の品質にしても良すぎるくらい。にもかかわらず、手頃な値段で買える

 

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キノコが胞子をばらまいて、それが雨水に溶けてインクになり、そのインクで書いた招待状を方々へ配るのは、胞子を拡散させること。インクと一緒に紙の繊維に付着した胞子は菌糸を伸ばす

 

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翻訳の仕事は捗らない。内容は、絵画の技法に関わることで、幾つかの書物から抜き書きしたものに違いない。寄せ集めの文書にも個性は出る。書物のどこに興味を惹かれたのか、著者に共感したか、どんな関心を持ったか、どう理解したかなどを考察すれば、家計簿の手稿の書き手の特徴が現れてくるだろう

ゾラにしてもドーデにしても、ゴンクール兄弟にしても、ゴッホは彼等の作品に登場する人物に共感するのと同じくらいに、それを書いた作者の洞察力にも過分な期待を寄せている。ゴンクールの日記によってゾラの行状や発言が「俗物」のそれであることを知っている僕らにはなぜそこまでと思うが、ゾラの描写に惚れ込んだハーグ時代にはモデルにした子供を宿した女と同棲しその素描に励み、ゾラの小説にうつつを抜かし、描写のもととなった観察眼に惚れ込んだゴッホは、それを自身に置き換えて素描に磨きをかけようとする

中原中也が鎌倉に移ってから日記を書くのに使っていたボン・マルシェの手帳は、家計簿と同じ用途でボン・マルシェが得意客に配っていたもの。中也のは1934年版で、1972年の火災で損傷を受けたが、『新編中原中也全集』編集を機に最新技術で修復された

色に目覚めたゴッホは、技術の面ではそれを「どうしたら生かせるか」がはっきりとわかるようになったと自信を見せ、さらにそのことを書物で確かめようとした

 

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詩と版画の雑誌『月映』が誕生したのは1914年。田中恭吉、恩地孝四郎、藤森静雄が限定3部の私輯として始まるが、IV輯までで廃刊になった後、公刊『月映』として続く

恩地は、北原白秋の全集の装丁や山田耕筰の楽譜などを通じて、主に装幀家、図案家として世に知られているが、それは職人としての面であり、芸術家としての生涯は木版画のために捧げられた。にも拘らず彼の名が人々の記憶から抜け落ちているのは、彼の作品のほとんどが海外の美術館の所蔵で、しかもそれが抽象画だから

恩地の抽象画に強く反応したのが宮沢賢治。『月に吠える』で朔太郎の詩とともに恩地の挿画に敏感に反応したが、大方の同時代人には批判された

ゴッホが理解されなかったのも同じで、彼の絵を写実だと思ったら大間違い。モチーフを正確に描くつもりはなく、刻々と移ろうモノとして捉えようとした。つまり、動画のように描こうとした。4半世紀後のマルセル・デュシャンが試みたように。《ジャガイモを食べる人々」はこの時代の到達点であり、彼の自信作でもあった。不本意ながら両親の下で暮らしていた彼は、自らを「毛むくじゃらの大きな犬」に例えている

 

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ゴッホは7点の《ひまわり》を描いている。そのうちの1点が大正時代の日本にもあったが、震災で焼失。白樺派のパトロンだった実業家が1919年に7万フラン(現在価値で2)で購入

 

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ゴッホの義妹が義兄の遺作を抱えてオランダに帰国し、没後10年くらいまで、子育てと遺作の整理に明け暮れる。オランダの人たちはゴッホの一見すると粗野で色彩も暗いゴッホの絵に冷淡だったが、何度か小さな展覧会を続けているうちに、国立美術館には拒否され続けたが、アムステルダム市立美術館での展覧会に漕ぎ着け、500点ほどの大回顧展となる

 

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