マネー・ボール Michael Lewis 2023.5.15.
2023.5.15. マネー・ボール 奇跡のチームをつくった男
Money
Ball ~ The
Art of Winning an Unfair Game 2003
著者 Michael
Lewis アメリカを代表するベストセラー作家の1人。ニューオーリンズ生まれ。プリンストン大で美術史の学士号、ロンドン大で経済学の修士号取得。3年間務めたソロモン・ブラザーズを辞めた後、債券セールスマンとしての体験をもとに書いた『ライアーズ・ポーカー』でデビュー。妻・タビサ・ソーレンと2人の娘とともにカリフォルニア州バークレーに在住
訳者 中山宥(ゆう) 1964年東京生まれ
解説 二宮清純
発行日 2004.3.17. 第1刷発行 2004.3.24. 第2刷発行
発行所 ランダムハウス講談社
野球に少しでも興味がある人は、絶対に読んだ方がいい――ニューズウィーク
試合の場面でもドラフト会議の場面でも、数字とスポーツの魅力がぎっしりと詰まった、爽やかでいきいきとした作品――タイム
ここ何年かで、最も面白い野球本!――ニューヨーク・タイムズ
まえがき
メジャー球団の中でも極めて資金力の乏しいオークランド・アスレチックスが、なぜこんなに強いのか?
最近10年余り、「野球はスポーツではなく金銭ゲームになってしまった」と嘆く球団オーナーが多い。チームの貧富の差が他のプロスポーツに比べて遥かに大きい
2002年シーズン開幕時のヤンキースの選手年俸合計は126百万ドルに対し、タンパベイ・デビルレイズは40百万ドル。10年前の最高はメッツの44百万に対し、最低はインディアンスの8百万
ところがここ数年間は、必ずしも資金力に比例していない。各地区の最下位にはレンジャーズ、オリオールズ、ドジャース、メッツといった名前が並ぶ一方、対極に位置するのがアスレチックスで、ヤンキースをギリギリまで追い詰めたのは不思議、「異質な例外」
理由の1つは、資金の量ではなく、どれだけ有効に活用できるかにある
2001年シーズンでは34百万の総年俸で102勝を挙げる――333千ドル/勝
100万ドル未満で1勝したチームは他にツインズ(675千ドル)くらいしかいない
アスレチックス成功の原点は、野球の諸要素を改めて見直そうという姿勢にある
新しいGMビリー・ビーンは、経営の方針、プレーのやり方、選手の評価基準、それぞれの根拠などを見直し、非効率な部分を洗い出す
古い野球観のせいで過小評価されていたプレーヤーを発掘、不遇な選手を偏見から解き放って真の実力を示す機会を与えた。科学的なアプローチを目の当たりにした時、非科学的な人々がどう反応するか反応しないか、野球というスポーツによってよくわかる
第1章
才能という名の呪い
1980年から遡ること数年間、裁判所がプロ野球選手にフリーエージェントの権利を認めたため、選手の値段があっという間に従来の常識の枠を超え、平均年俸が5.2万ドルから15万ドル弱に跳ね上がり、新人採用のリスクが急拡大
サンディエゴのランチョバーナード高校のビリー・ビーンは、大柄でどんなスポーツでも一流、特に野球では投手で4番、メジャーリーグのスカウトが押し寄せたが、ビリーが挫折した時に癇癪を起こすことには目もくれず、またビリーは野球に興味を示さなかったにもかかわらず、メッツが2巡目で指名。クラブハウスに入れられ現役選手に囲まれてビリーの気が変わり125千ドルで契約にサインしたが、その後ありふれたマイナーリーグ選手となり、年俸も高くなく、契約金は不動産への投資につぎ込んだが失敗
第2章
メジャーリーガーはどこにいる
2002年夏、ビリーが懐の寂しいメジャーリーグ球団アスレチックスのGMを引き受けて5年目、ドラフト会議を前に新たなスカウト方法を提案――理性と科学的なアプローチ
メジャーリーグには、自由競争の原理に反する点がいろいろあるが、その顕著な例が新人選手の待遇。ドラフトで指名した新人選手は、マイナーで7年、メジャーで6年間確保し続けることができる。しかも市場価値とは無関係に遥かに安い給料で。メジャーに入って当初3年は不服申し立ての権利がなく、後の3年は賃金調停がある
FAで主力選手を失った球団は、ドラフト会議で移籍先球団の1位指名権を奪い取った上に、1巡目の最後で3選手追加指名できる優遇措置がある
この年、アスレチックスはFAで3人放出したので、計7人の1位指名権があり
スカウトが680人に絞り込んだアマチュア選手の中から候補者を探し出す。自分の経験に照らして直感的に判断するスカウトに対し、ビーンはデータを重視した基準で次々にスカウトの目に入らない点を評価した選手を候補に挙げる――ストライクゾーンを操る術を身に付けているかどうかが打者の重要な資質であり、分かりやすい指標は四球の数であり、ほぼ天性のもの。さらに出塁率と1打席あたりの投球数
高校生選手に比べ大学生選手は試合数も圧倒的に多く、サンプルの規模が十分大きいので真の実力がわかるので、スカウトの偏見に惑わされずに済む。スカウトは、データ重視を軽蔑的なニュアンスで「実績重視型」として斥け、あくまで心の目で見て評価すべきという
最終的に選んだ8人の打者は、スカウトが足で探し出した選手とは明らかに異なり、ネット上から選りすぐった指名候補者――共通点は出塁率の高さ
第3章
悟り
鳴り物入りでメッツに入団したビリーは、ハイレベルの大卒選手向けのルーキーチームに入れられ、1年目の打率が.210。ビリーが唯一対処できないのが挫折という壁。オフには大学に戻ることを考えていたが、2年目の1982年シーズンはメッツが2Aに昇格。ライバルがMVPなのに自分の打率は.220。大学に行きたい気持ちが強くなりながら、野球を続ける。抜群の身体能力を生かしたファインプレーは周囲を驚かせたが、ムラが多い欠点は治らず。'86年ツインズにトレードされ初めてメジャーの先発で出たが、すぐに控に下ろされ、以後3シーズン半、メジャーと3Aを行き来しながら、タイガース、アスレチックスと渡り歩く。’87年のツインズの優勝のときも'89年アスレチックスの優勝のときもベンチにいた。メジャー生活5年間で4人の大物監督についた
1990年春のキャンプで、ビリーは漸く自分の適性のなさに気付き、アドバンススカウトを希望。チームより先に遠征地に出向いて今後対戦する相手の長所や短所を調べ上げる視察係で、メジャーの選手が希望する仕事ではないが、自分の才能との不毛な闘いに終止符を打ち、下積みを経て'93年からフロント入り
当時のアスレチックスのGMアルダーソンも野球経験のない、ダートマス・ハーバード出の弁護士。野球に科学的データを持ち込む
'70年代末以降、アスレチックスのオーナーは博愛主義者で慈善活動のつもりで球団を買収、気前よく資金を提供、'91年の総年俸は全球団で最高。'88~90年ワールドシリーズに進出したが、95年オーナーが死去し不動産開発業者に売却され、コストカットが至上命令になる。打者の評価はいかにアウトにならないかで、出塁率重視の文化を築く
メジャーリーグチームでは、中間管理層の監督が実権を握り、フロントの意向は無視されたが、名監督のトニー・ラルーサが新オーナーの経営方針に造反して辞任したため、アルダーソンのいうことを聞く監督を探す。そういう監督起用は初めて
アルダーソンの指導の下でビリーは過小評価されているマイナー選手の探索を始め、野球に客観的視点を持ち込むことの重要性に気付く
アルダーソンは、ビル・ジェイムズの著作から野球の新しい見方を学んだ
第4章
フィールド・オブ・ナンセンス
ジェイムズは、カンザス大で経済を学んだあと陸軍に入隊、除隊後は食品工場の夜間警備員として働くが、人とのコミュニケーションが苦手で、自分の考えを紙に書き留めるようになる。暇があれば野球のスコアを書き留め分析していた
最初は自費出版で、1977年、『知られざる18種類のデータ情報』――野球の選手や試合をきちんと評価するためには肉眼だけでは無理がある。優れた打者と平均的な打者の見分けは困難。ゲームの根底に横たわる合理性はデータ分析で明らかにできるのではないか
ジェイムズの出版と機を同じくして、コンピューター技術の画期的な進歩と選手年俸の高騰から、選手の正しい評価の重要性が増し、古い固定概念を見直そうとする動きに繋がる
攻撃データで最も評価が高いのは平均打率だが、攻撃の真の目的は打率を上げることではなく、得点を増やすことであり、得点の多いチームこそ上に載せるべき
得点数=(安打数+四球数)x塁打数÷(打数+四球数)
1981年からSTATS社が大勢のスコアラーを送り込んで、メジャーリーグの試合を細かく記録し始めたが、監督や指導者がデータの重要性を認識せず、関心すら示さなかったため、球団ではなくファン向けにデータを販売し始める。同社は急成長を遂げ、ESPNやUSA Todayが顧客となり、1999年FOXに45百万ドルで吸収
メジャーリーグの公式記録を管理するエライアス・スポーツ・ビューローは、データの所有権に拘りつつちっとも活用しないという不可解な態度を取っていたが、ジェイムズの人気上昇に刺激され、似たようなデータブックを出し始める
ジェイムズの読者も、データが主役ではなく、解釈こそ主役であることを理解しなかったために、失望したジェイムズはデータブックの慣行継続を'88年で打ち切る
第5章
ジェレミー・ブラウン狂騒曲
野球に知的な土台があるとはふつう思わないが、実際には存在する。文章の形で本格的に論じたことがなかったため注目されなかっただけで、ビリーはジェイムズの著作を読破して解き明かされた新事実に飛びつく。従来の固定観念を打破すれば遥かに効率よく物事を進められる
1997年、アスレチックスのGMに就任すると、ビリーはジェイムズのノウハウを実践に活用するとともに、独自に研究しノウハウを発展させる
2002年のドラフト会議で、ビリーは無名選手ばかりに注目。他球団からは、まともな選手を雇う資金がないからだと見られていたが、半分は事実で、オーナーが用意した940万ドルで35人は雇いたいと考えた。高額の新人よりも埋もれた変わり者が欲しい
ジェレミー・ブラウンもその1人で、前年メジャーから指名を受けたが拒否、翌年捕手として全米1位のジョニー・ベンチ賞を取ったが、太り過ぎでスカウトの評価が低かったのを敢えて指名、それも1位指名7人の1人として。契約金は35万ドルで他の同ランクの選手より100万ドルは低く、減量が条件
候補に選んだ20人(投手8人、野手12人)、うち4名は他球団と競合したり契約金額の点で難しいので、残るは16人。6人取れれば大成功のところ、13人獲得。背が低すぎてプロには向かないと言われた”四球製造マシン”をなんと5位で指名、本人を感激させた
第6章
不公平に打ち克つ科学
アスレチックスの全選手25名の年俸の予算は40百万ドル。元手がないからにはお買い得の選手を探すしかない
1999年シーズン終了後、メジャーリーグ選手会が球界の財政に関する諮問委員会を立ち上げ、「球団の経営スタイルが試合の勝敗に不公平をもたらしているのではないかという問題」について検討。有識者による報告書は、資金力の乏しい球団は不公平を強いられていると結論付けた。最も資金力のある上位7チームと貧乏な下位7チームの総年俸の差は4対1、NBAでは1.75対1、NFAでは1.5対1だという。ポール・ボルカーからは、下位球団のオーナーになる人間がいることと、下から2番目のアスレチックスの勝ち星が多いことへの疑問が提示され、ビリーが有識者の前でプレゼン
ビリー就任直後の98年は74勝88敗、99年は87勝、00年は91勝、01年は102勝
01年のプレーオフではヤンキースに1勝4敗で敗退した後、ヤンキースがジオンビーを120百万ドルで引き抜いたのはアスレチックスを弱体化させるためだったという
2002年のシーズン前のフロントの予測は、プレーオフ進出に必要な勝ち星数は95、そのために必要な得失点差は135。選手の過去の成績に基づく得点予想は800~820,失点は650~670で、勝利数は93~97で、プレーオフ進出の公算大(実際の得点は800、失点は654、103勝で西地区優勝)
守護神は買うより育てる方が効率がいいし、セーブポイントでクローザーを評価するのは間違い。投手の真価が問われるのはそんな場面ではない。マイナーの無名選手をメジャーで成功させ、FA宣言で高く値のつく選手を安く働かせた上、移籍金で儲ける。移籍させれば、ドラフトで移籍先の1位指名権と補償としての1位指名権の2つが得られる
スター選手に育ったときに球団が雇い続けられるかどうかは重要な問題ではなく、どうやってスター選手を発掘し、失った場合に代わりの選手をどうやって見つけるのか、野球選手はどのくらい代替可能なのか、という点こそが肝心
勝率と関係の深い重要なデータは2つ――出塁率(平均.3~.4)と長打率(同.350~.550)
OPS(出塁率+長打率)が注目されたが、試合に貢献するのは出塁率対長打率が3対1
ジェイムズは守備力のデータは無意味としたが、金融派生商品の誕生によって金融取引のリスクが定量分析できることを応用して、選手のあらゆるプレーや球場に関して情報を得ることによって選手がどのように、どれくらい責任を負ったかを記録すれば、選手のより正確な評価に繋がることを発見したのが野球選手を分析する会社AVMシステム
選手の活躍を測る尺度は「得点」に決まっている
グラウンドを座標化し、すべての位置を数値1つで表せるようにし、ありとあらゆる打球を分類する。そのデータを真っ先に生かしたのがビリーで、AVMと2年契約を締結
試合中のプレーは皆”得点期待値”というバロメーターで測る。打球や捕球がどんな意義を持つかは、場面に応じて客観的に決まる。過去10年のデータをベースに各プレーの価値を判定すると、チームの勝利にとっては守備力より攻撃力が遥かに重大だとわかる
第7章
ジオンビーの穴
ジオンビーの穴埋めについては、最大の長所である出塁率.477(リーグ1位)を他にも放出した3選手と合計で埋めることを考え、他球団で埋もれている”出来損ない”に目をつけ、安く補強。1人はマイナーで埋もれていた選手、1人は急速に衰えつつあるベテラン、3人目は捕手生命は終わったが出塁率の高い選手
第1球がストライクだと打率は約7分5厘下がる、ボールだと逆に同程度アップ。注目は3球目で、メジャーリーグの平均的打者がオールスター級に変身するか貧打者になりさがるか決まる。選球眼はほとんど生まれつきの才能で、野球の成功に一番直結する能力
出塁の才能は、ホームランを打つ才能に比べ、現役の終わりごろまで長続きする
ビリーは、メジャーリーグのGMにしては珍しく野球経験者で、選手の個々のプレーや作戦も含め、あらゆることに関して決定権を握りたがる
第8章
ゴロさばき機械
メジャー6年目で送球ができなくなった捕手のハッテバーグをアスレチックスがジオンビーの穴埋めの先発1塁手として前年の年俸に上乗せして契約
守備はからきし駄目だったが、試合慣れしていくうちにコーチから”ゴロさばき機械”と呼ばれて自信をつけると、1塁に来た相手チームの選手を掴まえて、規則違反だが会話を始め情報を聞き出す。さらにレギュラー出場となって出塁率がリーグ13位まで上がり、投手に球数を多く投げさせるのもリーグ3位、さらに三振をしないのでじっくり待って打つことができ四球対三振比率も4位。打者にとって三振は他のアウトよりも悪い、「三振を恐れるな。しかし三振するな」がいいので、彼を見ながらその秘密を探ると、小さい頃から球にバットを当てるのがうまかった、メジャーに昇格してからもチームのイケイケの精神論主義・結果第一主義に反抗してまで、「よく考えて辛抱強く待ちむやみにバットを振らない」という信条を死守したのが、アスレチックスに来て初めて評価された
“初球を振らない率”でリーグ1位、”見送り率”でリーグ3位。何れも地味だが2つ揃うとそれなりの意味を帯びる。シーズン終了後、各選手が打席をどれだけ有効に利用したかを調べる、究極の評価方法は、選手個人につき、その人1人が9人いて試合をしたら何点はいるかを算出する。ハッテバーグの場合は940~950点でチームトップに並び、ヤンキースの重量級打線を凌駕する
第9章
トレードのからくり
7月末がトレードの期限。プレーオフの可能性のあるチームは、それに向けて補強し、可能性のないチームは無駄な出費を抑えるために高額の選手を放出
'99年以来、アスレチックスは8月以降別チームのように勝ちまくる――本当に必要な選手をじっくり見極めてトレードしている
試合開始の直前で相手チームのクローザーをスカウトして、その日からベンチ入りさせることもあれば、メジャーリーグ10年で生涯年金資格が得られるが、その4日前に解雇することもある
第10章
サブマリナー誕生
トレードで別チームに変身したアスレチックスは、8月後半にリーグ記録タイの19連勝で首位に躍り出る。その立役者の1人がサブマリナーのブラッドフォード。アンダーハンドには「陰険な」という意味があるので避けられつつある
アスレチックスで活躍する選手の多くに共通するのは、アスレチックスが発掘するまでどこの球団も全く注目してこなかったことで、優れた投手とはアウトを取る投手であり、どうやってアウトを取るかは問題ではない。頭を使った創意工夫で実力をカバーすればよく、ブラッドフォードはその手本。脳卒中で倒れた父親が利き腕が肩より上に上がらなかったため下から投げていたのを見て育ち、高校生の頃サイドスローに変えた途端に球速とコントロールが増しスカウトの目に留まる。マイナーに入ってさらに腕が下がるとともに成績も上昇。下手投げの場合はキャッチャーとの距離が近いので球速135㎞/hは、上手投げの151㎞/hに相当。シーズン途中でメジャーに昇格したが、変形フォームから成績をまともに評価されず、翌シーズンからまたマイナーに逆戻り
投手力と守備力を明確に区別するのは難しいとされ、投手と野手の責任範囲を線引きすることはできないというのが定説だった。投手単独で関わるデータ(与四死球、被本塁打、奪三振)と野手の守備が絡むデータ(被安打、失点)を分けてみると、単独データによるランク付けでは球界のトップ5がそのままランク入りしている。年度ごとのばらつきも少ないが、被安打率を見ると年ごとの差が大きいし、トップ5の投手でも被安打率はワースト5に入っていたりするところから、フェアグラウンドに飛んだ打球がヒットになるかどうかは単なる運の問題だとする仮説で、DIPS(守備的要因を除く投手力数値)という新基準で一躍脚光を浴びたのがブラッドフォードで、アスレチックスはそれを見逃さなかった
投手が責任を負わなければならないもう1つの要素は長打の数で、ブラッドフォードの場合はゴロとフライが5対1で、平均の1.2対1を大きく上回るゴロを打たせている
第11章
人をあやつる糸
9月4日、20連勝の記録のかかった試合は、リーグ最下位のカンザスシティ・ロイヤルズを迎えて3回ですでに11対0、記録達成は間違いなかったが、4回表に守備のミスから5点を献上、ブラッドフォードがリリーフに行くが、シーズン開幕当初の自信を全く無くしていて、初めて連続フォアボールを与え、皇族が討たれて11対10、9回に追いつかれたが、何とかその裏出場予定のなかったハッテバーグのサヨナラ本塁打で記録達成
第12章
ひらめきを乗せた船
アスレチックスの場合、昔の思い出を大切にしている人間は邪魔になりかねない。経験は大事だが、経験に伴う山勘やら甘ったるい感情やらはいらない
アスレチックスは、年間の盗塁が25、うち8個は選手の独断、10個は打者フルカウントの場面、監督がゴーサインを出したのは7個だけ
ジオンビーを放出したのに、前年より勝ち星が1つ多い。さらにメジャーで最もレベルが高いアメリカンリーグ西地区で順位と総年俸が見事に反比例している
ポストシーズンでのツインズ戦では、短期決戦なのでビリーがより積極的に作戦を変えてくるのではないかとみられていたが、同じスタイルで結局敗退。世間は敗因を「スピードを使わず、得点を作り出そうとしない」として盗塁やバントをしない消極的な野球を非難したが、数字を見る限り、1試合当たりの平均得点はシーズン中より高かったが、主力投手の思わぬ乱調で失点が多すぎたのは明らかで、予期しようのない番狂わせだった
ポストシーズンはサンプルサイズが小さいため、セイバーメトリックスが働きにくい
選手の技能の違いによって生じる得点差は1試合平均1点くらいだが、運の違いによって生じる得点差は4点もあるという。レギュラーシーズンであれば試合数が多いので運の違いは敵味方平等になり、技能の違いだけが残るが、ポストシーズンの短期決戦では何が起こるかわからない。5試合で3勝目指す場合、最弱チームが最強チームに勝つ可能性が約15%あるという
メジャー球団の画期的な運営方法を編み出しても、世間もオーナーも注目しない以上、自らをトレードに出そうと画策
1年前、トロント・ブルージェイズの新しい筆頭オーナーのロジャーズ・コミュニケーションズが、全球団の中で最大の赤字に不満を覚え、球団を独立採算にするとし、新しいCEOのもと球団の経営改革に乗り出す。アスレチックスだけが別の原理で動いていることに目をつけ、GMにビリーの下で管理部長だったJ.P.リッチアーディをスカウト。J.P.は25人のスカウトを解雇、2002年シーズン後半の試合を見て選手の入れ替えを考える
ブルジェイズの大胆なテコ入れを見て、他の球団も科学的アプローチの重要性に気付き始め、レッドソックスを買収したジョン・ヘンリーもアスレチックスを手本に球団改革をしようと考え、ビリーに接触、ビリーは5年で1250万ドルを保証させGMを引き受けたが、ニュースが流れただけで世間に自分の価値を認めてもらいたいという希望は叶ったことになり、移籍する意味はなくなったためアスレチックスに留まる
エピローグ
10月初め、ジェレミー・ブラウンはアスレチックス傘下のルーキーチームでプレーを始める。野球雑誌も彼の外見を揶揄した記事を掲載したが、すぐに5割の出塁率を残し1Aに昇格。シーズン終わりまでに正捕手の座を射止め、ドラフト中ただ1人来シーズンのメジャーの春季キャンプに招かれる。ドラフト指名選手は例外なく生き残りをかけて野球のやり方を変えなければならなかったが、ジェレミーだけは周囲の評価基準を変えさせ、2002年のドラフト指名全選手のベスト3にジェレミーを入れた
解説
潤沢な資金を誇るチームがそれに見合った成績を収めるのがプロスポーツの常だが、2000年代に入ってからのアスレチックスはこの単純な経済原則が当てはまらなかった
年 度 |
2000年 |
2001年 |
2002年 |
2003年 |
戦 績 |
91勝70敗 |
102勝60敗 |
103勝59敗 |
96勝66敗 |
プレーオフ進出 |
プレーオフ進出 |
プレーオフ進出 |
プレーオフ進出 |
|
投 資 額 |
1,156,925 |
1,252,250 |
1,469,620 |
1,889,685 |
全30球団中 |
24位 |
29位 |
21位 |
20位 |
ヤンキースの約1/3の投資額でほぼ同等の成績
著者の言葉を借りれば、「プロ野球をやる人の王国と、プロ野球について考える人々の共和国」の対立で、経験者は主観論に陥りやすく、自らの成功体験にすがっていれば自尊心は保たれ、自問自答の果ての葛藤や内省とも無縁でいられる
ビリーは、幸いなことにメジャーリーガーとしての成功体験がなかった
大切なのは数字に意味を持たせること、理論武装すること
ビリーは、打者を選択するにあたり「出塁率」を重視。バントはみすみす敵に1つアウトをくれてやるようなものだし、盗塁もアウトになる確率が3割もあればチーム戦術として用いることはない。それを監督のみならず選手にも徹底させた
ビリーが戦っているのは、経典と化した”過去の知性”だが、最先端のセオリーもいつかは過去のものと化す
ビリーの右腕だったポール・デポスタが2004年にはドジャースのGMに迎えられた
(MLB 動き出した改革:1)ヒット・盗塁・ファインプレーが見たい
2023年5月3日 5時00分 朝日
米フロリダ州では毎年2月、恒例の行事が始まる。大リーグの春季キャンプだ。シーズン中と違って選手を間近に見ることができることもあり、集まるファンも多い。
今年2月も、フロリダ州ポートセントルーシーで始まったメッツのキャンプでは、気温30度近い晴天のもと、数百人のファンが選手を追うように動いていた。その中にいたマイク・トンプソン(61)は、50年以上にわたるメッツのファンだ。だが、キャッチボールを見ながら、つぶやいた。
「最近の野球はつまらない」。コロナ禍の前はシーズンを通じて入場できるチケットを買っていたが、いまは見送っているという。
なぜか。「投手がボールをずっといじっていたり、打者が打席のまわりを歩いていたり。ホームランも増えすぎた。昔のようにヒットもあれば、守備にも盗塁にも魅力があって、様々な特徴の選手が活躍する――そんな野球を見たい」
こうした思いを抱いているのは、トンプソンだけではない。観客数の減少など、「野球離れ」に危機感を抱いた大リーグは2年前、ファンを対象に意識調査を行った。試合で「見たい」という声が多かったのが、二塁打や盗塁、守備でのファインプレーなど、グラウンドで選手が展開する活力に満ちた動きだった。逆に「見たくない」という意見が多かったのが、投手交代による試合中断や四球、牽制(けんせい)だった。
「つまらないプレー」が増えている理由の一つは、データ分析だ。大リーグではこの20年あまり、「試合で勝つ」ための徹底的なデータ分析が進んだ。その結果、「安打より価値がない」とされてきた四球はむしろ評価され、長打を狙った極端なアッパースイングも奨励されてきた。走塁では「盗塁を試みてアウトになるくらいなら、最初からやめた方がいい」という考え方が定着した。
守備側でも詳細なデータ分析に基づき、極端な守備シフトが一般的となった。先発投手が完投を目指さず、時速100マイル(約161キロ)の豪速球を投げる救援陣が次々と登板して、打者を三振で仕留める戦術も浸透した。
結果的に、プレーの質が変わっている。昨季のリーグ平均打率は2割4分3厘で、1969年以降で最も低い。対照的に、三振率は上昇傾向にあり、昨季は22・4%に達した。データを駆使した駆け引きにより、試合時間も長くなる傾向にある。
現在の大リーグを代表する球団運営者、テオ・エプスタインも、野球の変化を心配する一人だ。
エプスタインは、分析を駆使した「合理化」の申し子だ。02年に28歳の若さでレッドソックスのゼネラルマネジャーに就いた。大胆な選手起用やトレードを繰り返し、チームは86年ぶりのワールドシリーズ制覇を達成する。カブスでも108年ぶりのワールドシリーズ優勝を実現した。
しかし、エプスタインは20年にカブスから退団する際、会見でこう語った。
「分析によって成績を最適化しようとしてきた私のような球団幹部が、ゲームの美的価値や娯楽性に悪影響を及ぼしている」
カブスを去ると、大リーグ機構(MLB)の特別顧問に就き、「野球を再び面白くする」ための検討を重ねてきた。
「ファンが見たいプレーを増やす」ことを狙い、エプスタインらは大胆なルール改正を打ち出した。投手が投球動作に入るまでの時間を規制する「ピッチクロック」で試合のペースを速める。極端な守備シフトを禁じ、安打とファインプレーを増やす。ベースを大きくして塁間を短くすることで、盗塁も容易にする。いずれも、マイナーリーグでの「実験」を経て、今季から大リーグで導入された。
新ルールが、思わぬ結果を招くこともある。2月25日のオープン戦では九回裏2死満塁、フルカウントの場面で、打者が構えなかったとして球審がストライクを宣告し、試合が終了した。前代未聞の幕切れに、客席はブーイングの嵐。実況中継は「これが2023年の野球だ!」と伝えた。
ルール改正に取り組んだMLB幹部のモーガン・ソードは、今後もピッチクロック違反によって試合が決まってしまう可能性があると認める。「試合に影響しない形で変化をもたらすことは残念ながら不可能だ」とも話す。これまでも、試合のペースを速めるよう選手に呼びかけたが、実効性はなかった。「ピッチクロックを導入したところ、一夜にして変わった。驚くべき違いだ」と言う。
=敬称略
(ポートセントルーシー=真海喬生、ニューヨーク=遠田寛生、中井大助)
◇
米国社会の変化にあわせ、大胆なルール改正を進める大リーグ。その背景を4回で詳報する。
(MLB 動き出した改革:2)「つまらない」野球、データ至上主義が拍車
2023年5月4日 5時00分
2003年、大リーグを揺るがす本が出版された。オークランド・アスレチックスを舞台とした「マネー・ボール」だ。後に人気俳優ブラッド・ピット主演で映画化された本のテーマは、明快だ。資金面でライバルに圧倒的に劣るチームが、いかに勝つか――。
ノンフィクション作家のマイケル・ルイスが1年間の密着取材を経て書き上げた。アスレチックスがデータ分析を駆使しながら、他の球団が不当に低く評価している選手を見いだす過程を詳細に描いた。
それから20年が経った。3月4日、米ボストンのホテルの会場では、数百人がルイスの発言に耳を傾けていた。
「実は、野球についての本ではなかった。題材は『人間がいかに評価されるか』であり、野球はその例に過ぎない」
米金融界から作家に転じたルイスは、複雑な経済の問題などをわかりやすく解説することで知られ、いくつものベストセラーを生んできた。中でも「マネー・ボール」は代表作だ。データを使って選手を効率的に評価する考え方は大リーグのみならず、他のスポーツにも広がっている。
本の内容が最初から、大リーグの現場で広く受け入れられたわけではない。データ重視の考え方を嘲笑する関係者もいた。ルイスによると、変化をもたらしたのは資本の論理だった。
「本を読んだ(米投資銀行の)ゴールドマン・サックス幹部が、友人の球団オーナーに『非合理的な球団運営をするのは馬鹿馬鹿しい』と伝えたことが大きかった。『資金を無駄遣いしたくない』という思いが次第にスポーツを変えた」
ルイスは、「データ分析」がビジネスと深く結びついていった様子を振り返った。大リーグの球団首脳陣にはビジネススクールの出身者らが目立ち、この日、聴衆としてルイスの発言に耳を傾けていたのも、米マサチューセッツ工科大のビジネススクールが主催する「スポーツ分析会議」の参加者だった。スポーツの分析などに関する世界最大級のイベントとされ、今年は24カ国から2500人超が参加した。
もっとも、統計分析が野球で始まったのは「マネー・ボール」の出版よりかなり前からだ。ルイスと同じ壇上には、その代表格のビル・ジェームズが座っていた。
カンザス州の缶詰工場で夜間警備員をしながら、野球のスコアなどを分析していたジェームズは1977年、野球についての著作を自費出版する。88年まで毎年出版を重ね、次第に影響力を広げていった。
ジェームズが著作で示した考え方は、アスレチックスのチームづくりの主柱となった。ジェームズも、やがて大リーグのインサイダーとなる。03年にレッドソックスの顧問に就任し、19年まで務めた。その間、チームは4回のワールドシリーズ優勝を果たした。
しかし、その間に大リーグの人気は伸び悩み、「プレーが退屈だ」という批判も増えた。ジェームズも「この数年、野球は時につまらなくなっている」と認め、三振や本塁打の増加、リリーフピッチャーの多用などを要因に挙げた。ただ、「こうした傾向は長期的に見れば20世紀初頭から続いている。(自分が)加速させたかもしれないが、作り出したわけではない」とも付け加えた。
逆に、リーグ側が対策に乗り出さなかったことが大きい、とジェームズは指摘する。今季から始まるピッチクロック(投球時間制限)の導入などのルール改正は「30年前にも始めるべきだった」と歓迎する。
リーグ側がルール改正に消極的だった理由について、ジェームズは取材に「指名打者の導入」の影響を挙げた。大リーグは60年代後半、極端な「投高打低」になった。そこで69年にマウンドの高さを下げ、打者を有利にした。さらに、アメリカン・リーグは73年に指名打者を導入し、攻撃側に肩入れをした。
だが、ナショナル・リーグが見送ったこともあり、「全ての選手が打席にもフィールドにも立つという野球の本質を損ねる」という批判が続いた。両リーグが指名打者導入で足並みをそろえたのは、半世紀近くを経た2022年だった。
ジェームズは、今後も各チームが「合理化」を模索すると予想し、リーグも積極的に対策を取る必要があると指摘する。
「これは(チームを有利にするために)野球を遅く、つまらなくしようとする側と、速く、エキサイティングにしようとする人たちの間の闘いなのです」=敬称略(ボストン=中井大助)
(MLB 動き出した改革:3)可処分時間の争奪、市場は全世界へ
2023年5月5日 5時00分
大リーグは今季から、試合の魅力を高めようと「ピッチクロック(投球時間制限)」の導入など大幅なルール改正を進めてきた。ただ、変えるのはルールだけではなく、試合日程の編成も大きく見直している。背景にはビジネスモデルや、消費者の「時間」に対する感覚の変化がある。
大リーグは伝統的に、「ライバル関係」を重視して試合を組んできた。「ヤンキースとレッドソックス」「ドジャースとジャイアンツ」のように、地理的に近いチームの対戦数が多くなるよう工夫してきた。
これに対し、今季からは各チームが全チームと対戦する。年間162試合のうち、「ナショナルリーグ」と「アメリカンリーグ」をまたいだ「交流戦」は、1チーム20試合から46試合まで増える。どのチームのファンも、エンゼルスの大谷翔平やヤンキースのアーロン・ジャッジらスーパースターの活躍を楽しめることを重視した判断だ。
2月の記者会見で、大リーグ機構(MLB)コミッショナーのロブ・マンフレッドは「観客動員やファンへの訴求という観点から、もっと(試合の編成に)変化をつけたほうがいい、と球団から声が上がっていた」と説明した。
米エモリー大教授のマイク・ルイス(マーケティング論)は「大リーグは長く、地域戦略で人気を集めていた。だが、市場は全米、そして全世界に広がっている」と指摘する。
実際、多くのチームは地元スポーツ専門チャンネル(RSN)と契約を結び、地域の放映権を独占することで多額の収益を上げてきた。全米各地のケーブルテレビのネットワークも、こうしたスポーツ中継を売りにしてきた。しかし、ストリーミング配信の普及に伴い、ケーブルテレビに頼るビジネスモデルはかえって成長を妨げている。
他のプロスポーツとの競争でも、大リーグは後れをとっている。
米国では、アメリカンフットボールのNFLが1番人気の座を確固たるものにし、2番手はバスケットボールのNBA、大リーグは3番手争いと言われる。米ニュースサイトのアクシオスによると、年間の放映権などの収入は、NFLが100億ドル(約1・3兆円)で断トツ。NBAが26億ドル(約3400億円)で続き、大リーグは18億ドル(約2340億円)だ。
エモリー大教授のルイスは、アメフトやバスケが野球と異なる点について「選手がポップカルチャーと結びつき、若い世代を含めて国民的な人気を得ている」ことを挙げる。米調査会社ニールセンによると、NFLの優勝を決める「スーパーボウル」は2022年、テレビなどで1・1億人以上が視聴しており、50年前の2倍だ。特に歌手のリアーナが出演した「ハーフタイム・ショー」は1・3億人近くが視聴し、SNSなどでも話題となった。
NBAの看板選手、レブロン・ジェームズ(レーカーズ)のインスタグラムとツイッターのフォロワーは、それぞれ1・5億人と5200万人。大リーグのトップスター、マイク・トラウト(エンゼルス)はどちらも200万~300万人と10分の1以下だ。大リーグが米国の「国民的娯楽」という歴史的な立場にあぐらをかいていては、衰退していく状況なのだ。
スポーツ全体を取り巻く環境も、厳しくなりつつある。ルイスらは世代別にスポーツへの意識調査を進めてきた。X世代(42~57歳)は43%、ミレニアル世代(26~41歳)は41%が大リーグの「ファンだ」と答えたのに対し、Z世代(25歳以下)は33%。スマートフォンやSNSの普及で短時間の娯楽が好まれるなか、若い世代の支持をどう得られるかが重要な課題となっている。ピッチクロックの導入なども「タイパ(時間対効果)」に敏感な若者に訴える狙いがある。
シーズン開幕を控えた2月、大リーグはルール改正について、メディア向けの説明会を開催した。多くの首脳が、人気低迷から抜け出すきっかけになることへの期待感を口にした。フィリーズ球団編成本部長のデーブ・ドンブロウスキーは「娯楽性の観点から、試合展開のペースを速めることが必要だ」と強調した。ただ、3時間ほどだった野球の試合が、仮に30分程度短くなったとして、若い世代にどれほど響くのかは読み切れない。
デジタル空間にあふれる娯楽や情報の海を漂う現代人。その「可処分時間」を、どう野球に振り向けてもらうのか。大リーグのルール改正は、熾烈(しれつ)な競争を生き残るための手がかりに過ぎない。=敬称略(ニューヨーク=真海喬生、遠田寛生)
(MLB 動き出した改革:4)ダルビッシュ有、ジョシュ・ラウィッチ
2023年5月6日 5時00分
米国のプロスポーツで長い歴史を誇る大リーグは、今季から大きなルール改正に踏み切った。時代に合わせた変化をどのように考えるのか。大リーグで投手として10年以上活躍してきたパドレスのダルビッシュ有と、米野球殿堂博物館理事長のジョシュ・ラウィッチに聞いた。=敬称略
■データは過去の自分。長く続けるには才能だけではなく パドレス・ダルビッシュ有
「最初に投げたときは不安でした。でも意外と大丈夫だったので、そこからは特に(不安は)ない」
4月11日、ニューヨークでの練習後、ダルビッシュは、大リーグが今年から導入した「ピッチクロック」について語った。
新ルールでは、投手は捕手からの返球後、一定の時間内に投球動作に入らなければ、原則として自動的に「ボール」が宣告される。これまでのように、投球の「間」を持てない。ただ、ボールの交換を求めれば時計はリセットされる。工夫次第で、自身を落ち着かせる方法がある。
大リーグはデータを重視する傾向が強く、今回のルール改正にも影響した。「重視するあまり野球が面白くなくなった」という意見もあるが、ダルビッシュはデータに基づいた選手起用に理解を示す。
「データには結局、自分の過去が出ている。(選手に)お金を払っているのは球団なので、ある程度、球団の判断は尊重されるべきだと思いますね」
むしろ、選手にもデータ活用が求められるという。
「情報収集ができる人であれば今の時代は楽だろうと思う。逆におっくうに感じ、必要性を感じなくてやらないと、自分に(跳ね)返ってきてしまう」
「長く(現役を)続ける、成功するためには才能だけではなくて、色々なところをクリアしなければならなくなっている」
今年はワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本が決勝で米国に劇的な勝利をおさめ、世界一になった。ダルビッシュも日本代表の一員だったが、「日本の野球がアメリカの野球に勝ったかと言われれば、そうではない」と語る。
「日本の野球界は、アメリカがやっていることを知るべきだと思います。ゴールとして、アメリカの上をいかなければいけない。そこに近づくためには、まず今の位置を知らないと」
ルール改正などだけではない。選手のトレーニングに対する向き合い方、野球を発展させるための取り組みなど、米国の野球界から日本が学べることはまだまだ多い、とみている。(ニューヨーク=遠田寛生)
■社会とともに変化。ルール改正は適応姿勢の表れ 米野球殿堂博物館理事長、ジョシュ・ラウィッチ
野球は米国で「ナショナル・パスタイム(国民的娯楽)」と呼ばれるほど、社会に深く根付いている。その歩みは、移民や若者がもたらす変化のうねりとともに進んできた米国の歴史と重なる。
「野球は19世紀後半に米国中に広がり、関心を集めるようになりました。(第1次世界大戦中の)20世紀初頭にはワールドシリーズで米国歌が演奏されるようになり、2001年の同時多発テロの後は、ブッシュ大統領(当時)がニューヨークのヤンキースタジアムで始球式に臨むなど、象徴的な出来事が多くあります。野球は、米国の歴史とからみあっているのです」
ニューヨーク州クーパーズタウンは「野球発祥の地」といわれる。この地の野球殿堂博物館で理事長を務めるラウィッチはこう語る。
「移民の歴史とも重なっています。20世紀は欧州からの移民が野球を通じて米国に同化し、現在では日本や韓国、ドミニカ共和国からの選手が数多く活躍しています。野球は世界中の人を米国に集めるのです」
一方で、野球は変化もしてきた。野球殿堂博物館ではその過程も描いている。
「競技として始まった時はグローブもヘルメットもありませんでした。マウンドの高さも変わってきました。19世紀には、(ワンアウトまで)『ストライク四つ』を試した時期もあり、その時の球審の道具も展示しています」
ラウィッチは今季のルール改正も、変化に適応しようとする姿勢の表れだとみる。「大リーグは様々な点について検討を重ね、うまくいった場合に採用してきました。指名打者の導入も、延長戦で二塁に走者を置くこともそうです。今回のピッチクロックも、最もいい形でグラウンド上の競技を見せたいという狙いがはっきりしています」
岐路に立つ大リーグの姿は、米国社会の変容も反映している。殿堂博物館も、変化していく必要があるという。「我々の任務で特に重要なのは、野球を通じて世代をつなぐことです。12歳の子どもが来れば、70歳の祖父や祖母とは感じ方が異なります。これまでもテクノロジーを活用し、若い世代に訴えかけていますが、今後も改革を重ね、(時代に)求められるようにしなければなりません」(クーパーズタウン=中井大助)
Wikipedia
メジャーリーグベースボール(英語: Major
League Baseball,略称: MLB)は、アメリカ合衆国、及びカナダ所在の合計30球団により編成される、世界で最高峰のプロ野球リーグであり、北米4大プロスポーツリーグの1つである[注 1]。厳密には、1903年に発足したナショナルリーグとアメリカンリーグの2つのリーグの共同事業機構で、両リーグの統一的運営をしている。日本では「メジャーリーグ」「大リーグ」とも呼ばれる。「大リーグ」の呼称は、メジャーリーグの別名「ビッグリーグ (Big League)」の訳語である。
メジャーリーグベースボール(以下、MLB)は、ナショナルリーグとアメリカンリーグの2リーグ(各々15球団)からなり、アメリカ合衆国に本拠地を置く29球団(アメリカン・リーグ14、ナショナル・リーグ15)とカナダに本拠地を置く1球団(アメリカン・リーグ所在)の全30球団から構成されている。各チームはリーグごとに東地区、中地区、西地区に所属する。アメリカ合衆国外からは過去にモントリオール・エクスポスとトロント・ブルージェイズの、共にカナダの2チームが参加していたが、2005年にエクスポスがワシントンD.C.に本拠を移転(同時にワシントン・ナショナルズに球団名変更)したため、米国外チームは2022年現在ブルージェイズの1チームのみである。
試合形式は、レギュラーシーズンとポストシーズンで構成され、最終的に各リーグの優勝チームがワールドシリーズと呼ばれる優勝決定戦を行いワールドチャンピオンを決定する。レギュラーシーズンは4月初旬から9月下旬にかけて各チームが162試合を行い地区優勝とワイルドカード入りを争う。10月初旬からポストシーズンがトーナメント形式で行われる。トーナメントでは各段階ごとにワイルドカードシリーズ、ディビジョンシリーズ、リーグチャンピオンシップシリーズ、ワールドシリーズと冠される。
歴史[編集]
「野球の歴史」も参照
「メジャーリーグ」の誕生[編集]
1850年代後半、ニューヨークスタイルの「ベースボール」は南北戦争を期にアメリカ北東部を中心に各地に普及し、野球の最初のアマチュアリーグとなる全米野球選手協会(NABBP)が生まれた。NABBPは12年間続き、最も拡大した1867年には400以上のチームがメンバーとなっていた。1860年代前半には選手の中に報酬をもらって野球をする、いわゆるプロ選手が登場しはじめていたとされる。プロ選手に関する正式な規定は1868年に制定され、翌1869年に結成されたシンシナティ・レッドストッキングスは、プロ選手だけで構成された初めてのプロチームとなり、地方各都市を巡業してその名を馳せた[1]。レッドストッキングスの成功をうけ、あとを追うようにプロチームが各都市に次々に誕生したが、次第にプロ選手とアマチュア選手の間で内部分裂がおき、全米野球選手協会はアマチュア組織とプロ組織に分割することとなった。こうして、1871年には最初のプロ野球リーグ、全米プロ野球選手協会(ナショナル・アソシエーション、NA)が創設されたが[2]、リーグ運営は5年で破綻してしまった[3]。この時、現在に残るチーム、シカゴ・ホワイトストッキングス(のちのシカゴ・カブス)とボストン・レッドストッキングス(後のアトランタ・ブレーブス)が誕生している[4][5]。
翌1876年、現在まで続くナショナルリーグ (NL)
が発足。このリーグが最初のメジャーリーグとされる。1876年4月22日フィラデルフィアにあるジェファーソン・ストリート・グラウンズで最初の試合が行われた。ナショナルリーグは所属選手の契約を強制し高額報酬によるライバルリーグへの流出を防ぎ、これまでは頻繁に起きた優勝を逃したチームの消化試合の中止をなくし全てのスケジュールを予定通り行うなど、ナショナル・アソシエーションの欠点を改善していった[6][7]。契約に「リーグ間の移籍禁止条項」を設けたことで初期には選手との対立もあったが結果的にこれが功を奏し、ライバルリーグはユニオン・アソシエーション(UA、1884年)、プレイヤーズ・リーグ(PL、1890年)といずれも短命に終わった。最も成功したアメリカン・アソシエーション(AA、1882年 – 1891年)とは1884年から1890年にかけてナショナルリーグとリーグ優勝チーム同士の対戦(現在のワールドシリーズ)が行われた。
解体した2つのリーグにいたチームは1892年にナショナルリーグに統合されたが、12球団あったナショナルリーグは1900年から8球団へ統合・削減し、ボルチモア、クリーブランド、ルイビル、ワシントンD.C.から球団がなくなる。一方でウエスタンリーグというマイナーリーグが1900年にアメリカンリーグ (AL)
へと改称し、ルイビルを除くナショナルリーグの球団削減でメジャー球団がなくなった都市へ進出。翌1901年にアメリカンリーグは自らを「メジャーリーグ」と宣言したが、ナショナルリーグがそれに反発、シカゴのレランドホテルで他のマイナーリーグも交えた会議が行われた。この会議でアメリカンリーグはメジャーリーグとして容認され、数多く存在するマイナーリーグを総括する新しいナショナル・アソシエーションが設立された。ナショナル・アソシエーションはマイナーリーグベースボール (MiLB) として今日まで続いている[8]。1902年、ナショナルリーグ、アメリカンリーグ、ナショナル・アソシエーションはそれぞれの独立経営と、共同経営を併せ持つ新しい協定に調印した。この合意は、のちにブランチ・リッキーにより洗練され、整備されていった今日のマイナーリーグの基礎となる分類システムも確立した。この翌年から両リーグ勝者によるワールドシリーズが行われることになる[9][10]。
後に短命となったマイナーリーグのいくつかは正式にメジャーリーグとみなされ、その統計と記録は現在の2つのメジャーリーグのものに含まれている。1969年に、アメリカプロ野球100周年を機にMLB機構の指定により『野球記録特別委員会』が設置され、そこで過去消滅したリーグを含め以下の6つのリーグを「メジャーリーグ」として認める、という決定がなされた。
ナショナルリーグ(1876年 - 現在)
アメリカンリーグ(1901年 - 現在)
アメリカン・アソシエーション(1882年 - 1891年)[11]
ユニオン・アソシエーション(1884年)[12]
プレイヤーズ・リーグ(1890年)[13]
フェデラル・リーグ(1913年から3年のうち運営基盤が確立していた1914年・1915年の2年間)[14][15]
それ以外の野球リーグでプロとして活動した経歴を持つ選手の記録については、現在この裁定に基づき、どこからどこまでをメジャーリーグ記録とするかといった分類が行われている。ただしこの裁定には一部研究者が異論を唱えており、ナショナル・アソシエーション(1871年 - 1875年)[注 2]、アフリカ系アメリカ人(黒人)中心に運営された「ニグロリーグ」のうち、特に運営基盤が確立されていた1920年 - 1948年の期間[注 3]、現在のアメリカンリーグの前身でマイナーリーグであった「ウェスタンリーグ」がアメリカンリーグと改称しナショナル・リーグの傘下であった1900年のアメリカンリーグなどもメジャーリーグとして扱うべきなどの意見がある。2020年12月17日、MLB機構は、「ニグロリーグ」に含まれる下記の7つのリーグの記録についてメジャーリーグの地位を与えると発表した[16][17][18]。
ニグロナショナルリーグ
(第1期)(英語版) (1920年 - 1931年)
イースタンカラードリーグ(英語版)(1923 - 1928年)
アメリカンニグロリーグ(英語版)(1929年)
イーストウエストリーグ(英語版)(1932年)
ニグロナショナルリーグ
(第2期)(英語版)(1933年 - 1948年)
ニグロアメリカンリーグ(英語版)(1937年 - 1948年シーズンのみ)
デッドボール時代[編集]
1900年から1919年までの期間は、一般に「デッドボール時代」と呼ばれる。この時代の試合は得点が低い傾向があり、ウォルター・ジョンソン、サイ・ヤング、クリスティ・マシューソン、モーデカイ・ブラウン、グローバー・アレクサンダーなどの投手たちが試合を支配した。その要因はいくつかあるが、ひとつには、この時代に使われていた「デッドボール(飛ばないボール)」と呼ばれた、とても緩みやすく投げるほどに糸がほつれ飛距離が出なくなるボールに原因があった[19]。それに加え、オーナーは3ドル(現在の価値で40ドル程)の新しいボールを購入することを嫌っていたため、ファウルボールもまれだったその当時、ファンはホームランボールでさえ投げ返さなければいけなかった。ボールは柔らかくなるまで、時には革がめくれ上がるまで試合で使い回された。そのため噛みタバコのヤニや、草、泥などで常に汚れていた[20]。
また、極一部の選手ではあったがボールを噛んで傷をつけたり、故意に汚すなどして投球に変化を加えるスピットボールを操る投手もいた。これは1921年にスピットボールの使用が禁止されるまで続いた。さらに、シカゴ・カブスのウエスト・サイド・パークやボストン・レッドソックスのハンティントン・アベニュー・グラウンズに代表される、センターが現在の球場より200フィート (61 m)ほども広い球場があり、そのためホームランはまれで、単打、犠打、盗塁、ヒットエンドランなどの「スモールボール」が当時の戦略の要となっていた[21]。内野安打をかせぐためにボルチモアチョップなどの戦法が編み出された[22]。ボルチモアチョップは、ボールをあえて前に飛ばそうとせず地面にたたきつけ、打球にグラブが届かないほど高く跳ねている間に一塁を駆け抜けるというものだった[23]。
20世紀初頭、ファウルストライクルールが採用された。これによって試合時間が大幅に短縮されたが、これまでのような大量得点試合が減り、試合で1点をとるのがより困難になった。19世紀のルールでは、ファウルボールはストライクとしてカウントされなかったため、打者は、ストライクがカウントされないまま投手に球数を投げさせることが出来たため、打者にとっては大きな利点であった。1901年からナショナルリーグが先にファウルストライクルールを採用し、1903年からアメリカンリーグでも採用された。しかしこのルールによって大量得点試合が減るということがファンの間では不満となっていた[24]。
追い打ちをかけるように1917年、アメリカが第一次世界大戦に参戦すると、開催こそ継続されたものの選手の出征が相次ぎ、1918年にはレギュラーシーズンが短縮された。1919年、シカゴ・ホワイトソックスとシンシナティ・レッズで行われたワールドシリーズにおいて、メジャー史上最悪の不祥事であるブラックソックス事件が起き、メジャーリーグは社会的信用を失うことになってしまった[25]。ホワイトソックスの選手だった、ジョー・ジャクソン、エディ・シーコット、レフティ・ウィリアムズ、チック・ガンディル、フレッド・マクマリン、スウィード・リスバーグ、ハッピー・フェルシュ、バック・ウィーバーは賄賂を受け取ってわざと試合に負けた容疑で刑事告訴された[26]。この8名の選手はメジャーリーグから永久追放処分となった[27]。
ベーブ・ルースの登場[編集]
1910年代に下落した野球の人気は1920年におきた悲劇と、一人の選手の登場によって回復していった。1920年8月16日クリーブランド・インディアンスのレイ・チャップマンがバッターボックスで頭部に投球を受け、数時間後に死亡した。チャップマンは、試合中に死亡した唯一のMLB選手となった。この悲劇は、当時の選手がヘルメットをかぶっていなかったことにも原因があるが、結果的には「デッドボール時代」を終わらせる手助けとなった。それまでは試合後半になると、ボールが軟らかくなり不規則な動きを見せ、汚れ見えづらくなっていたが、ボールが汚れるたびに取り替えるというルールが生まれたからである。ボールを取り換えることにより飛距離が飛躍的に伸びる結果になった。この頃から「ライブボール時代」が始まった。
同年、ボストン・レッドソックスよりニューヨーク・ヤンキースにベーブ・ルースが移籍。これまで投手として活躍していたルースであったが、前年に当時のMLB記録となった29本塁打を記録。ヤンキースでは打者に専念すると、不可能と思われていた自身の本塁打記録を大幅に更新する54本を放ち、翌1921年には59本と3年連続で本塁打記録を塗り替えた[28][29]。ルースを擁するヤンキースは、1921年に初のリーグ優勝を、1923年にはワールドシリーズ初優勝を果たす[30]。1927年、ルースは本塁打記録を60本に更新、さらにルー・ゲーリッグの台頭などで強力打線となったヤンキースは、1930年代の終わりまでに、11度のワールドシリーズに出場し、8度の優勝を果たすこととなる[31]。この時代には1試合当たりの得点も上昇。この打撃戦をファンは支持し観客動員は増加した[32]。
世界恐慌と第二次世界大戦[編集]
1929年頃始まった大恐慌の影響を受けて、野球の人気は再び下降を始めた。1932年までに、利益を上げたMLBチームは2チームだけだった。野球のチケット価格には10%の娯楽税が課せられ、観客動員は減少した。オーナーは契約選手を25人から23人に減らし、最優秀選手でさえも賃金を引き下げた。チームは生き残りをかけて、ナイターゲームの実施、ラジオでのライブ中継、女性の無料入場などの改革を行ったが、大恐慌の前には歯が立たなかった[33]。
追い打ちをかけるかのように1939年、第二次世界大戦が開戦。MLBでもチームに所属している選手500人以上が出兵を余儀なくされ、深刻なプロ野球選手不足を引き起こした。彼らの多くは、出兵している軍人を楽しませるサービス野球チームでプレーした。この時期のMLBチームは、兵役対象外の青少年、年長の選手で構成されていることになった。中には精神的、道徳的に不適格だった者もいた。その一方、肉体的にハンディキャップをおった選手にも機会をあたえることになった。片腕がなかった外野手のピート・グレイのような選手も、メジャーリーグに進出することができた。しかし、黒人がMLBのロースターに含まれることはなかった[34]。黒人選手は、戦争で人手不足であっても、MLBの出場は認められず、依然としてニグロリーグでしかプレーできなかった[35]。はじめて黒人がMLBに登場するのは、1947年のジャッキー・ロビンソンである。
戦時中の灯火管制により、野外照明を暗くしなければならなかったため、ナイターでの試合が困難になった[35]。1942年、国内では開催中止論も広まりつつあったが、1月14日に、初代コミッショナーであるケネソー・マウンテン・ランディスは、フランクリン・ルーズベルト大統領宛てに手紙を送り、新たなメジャーリーグシーズンの開始と戦時中の野球の継続を嘆願した。大統領の返信には「野球を続けるのが最善であると正直に思っている。失業者は少なく、誰もがこれまで以上に長時間厳しい労働を強いられることになるだろう。ということは、今まで以上に全国民がリクリエーションの機会を持つべきだ。」と書かれていた。この手紙は「グリーンライトレター(青信号の手紙)」と呼ばれアメリカ野球殿堂博物館に保管されている[36]。
こうしてルーズベルト大統領の承認を得て、戦時中も試合は継続された。スタン・ミュージアル、テッド・ウィリアムズ、ジョー・ディマジオなどのスターたちのキャリアは中断されたが、チームは引き続きMLBでプレーすることになった[37]。しかし、各球団とも選手の出征が相次いだことによる深刻な選手不足は変わらず、1945年のMLBオールスターゲームは中止となった。
「カラーライン」の打破[編集]
1880年代にはメジャーリーグにも黒人選手が存在したが、選手、リーグの激しい反発により、短期間で姿を消す事となった。それ以降、黒人選手との契約を禁止する規則は存在しなかったものの、1940年代半ばまで黒人選手はメジャーリーグでプレイできなかった。ただし同じ有色人種でも、肌の黒くないヒスパニック系やネイティヴアメリカンの選手はプレイできた[38]。
1945年、ブルックリン・ドジャースの社長兼ゼネラルマネジャーであるブランチ・リッキーは、プロの野球リーグに黒人野球選手を本格的に入団させようと動き出した。彼はニグロリーグの有望選手のリストの中からジャッキー・ロビンソンを選んだ。リッキーはロビンソンに、彼自身に向けられる差別に「やり返さない勇気を持つ」事を求め、月額600ドルの契約を結ぶ事に同意した。ロビンソンは、ドジャースのファームクラブであるモントリオール・ロイヤルズに1946年シーズンから参加、1880年代から続くインターナショナルリーグにおいて57年ぶりの黒人野球選手となった[39]。
翌年、ドジャースはロビンソンをメジャーリーグに呼び寄せた。1947年4月15日、ロビンソンはエベッツ・フィールドで14,000人以上の黒人を含む26,623人の観衆の中メジャーリーグデビューを果たした。黒人野球のファンは、それまでのニグロリーグのチームの観戦を放棄し、ドジャースの試合を見るためにブルックリンに殺到した。ロビンソンの売り出しには、新聞や白人メジャーリーグの選手の大多数が反対であった。監督のレオ・ドローチャーはチームに「私は選手の肌が黄色であろうと黒であろうと、ヤンキースのストライプが好きでも構わない。自分はこのチームの監督だ。チームに必要な選手であれば使う。もし自分に反対する者がいるならトレードで出て行くことになるだろう。」と語った[40]。
対戦相手のフィラデルフィア・フィリーズはドジャースとの対戦を前にロビンソンが出場するなら対戦を拒否すると通告。それに対し、ハッピー・チャンドラーコミッショナーはドジャースを支持し、フォード・フリックナショナルリーグ会長は対戦を拒否したら出場停止処分を課すと発表し、問題の鎮静化を図った。ロビンソンは何人かの選手から励ましを受け、チームメイトのピー・ウィー・リースはチームメイトの前で真っ先にロビンソンと握手をして見せた。球場でロビンソンが誹謗中傷を受けていると、リースは守備時にロビンソンに歩み寄り、黙って肩を組んで観客席を見回した。この光景に観客の誹謗中傷は徐々に減っていった。ロビンソンはどんなときも常に紳士的に振る舞い、シーズン終了時にはチームメイトや報道陣から受け入れられるようになった[41]。ロビンソンは、この年から制定された最優秀新人選手賞を受賞した[42]。
3か月も経たないうちに、ラリー・ドビーがクリーブランド・インディアンスと契約し、アメリカンリーグも黒人選手を受け入れると[43]、翌年、他の多くの黒人選手がメジャーリーグに入った。サッチェル・ペイジはインディアンスと契約し、ドジャースはスター捕手だったロイ・キャンパネラとドン・ニューカムを追加した。ドン・ニューカムは後にサイ・ヤング賞を受賞した[44]。
女性選手との契約の禁止[編集]
1952年、MLBは女性選手との契約締結を禁止した。その禁止条項は1992年に解除されたが、その後も女性選手との契約は現在まで存在しない[45]。
編成と拡張[編集]
1901年から1953年までの間、2つのメジャーリーグは8チームのリーグで構成されていた。16チームはアメリカ北東部と中西部の10都市に集中していた。ニューヨークに3チーム、ボストン、シカゴ、フィラデルフィア、セントルイスには各2チーム存在していた。当時はセントルイスが最南端と最西端だった。最も距離の遠いボストンからセントルイスへの距離は、鉄道で約24時間の距離であった。
1953年、低迷していたボストン・ブレーブスが本拠地をミルウォーキーへ移転し、観客動員が28万人から182万人へ増加。以後、本拠地の移転が起きることに。1954年、セントルイス・ブラウンズはボルチモアに移転。1955年、フィラデルフィア・アスレチックスはカンザスシティへ移転した。
野球専門家の間で、「この頃の初期拡大期に最も影響力があったオーナー」と考えられているブルックリン・ドジャースのオーナー、ウォルター・オマリーは[46]、1958年シーズンの前に、彼はブルックリン・ドジャースを西海岸にあるロサンゼルスに移した[47]。オマリーがTIME誌の表紙になるほどの大事件だった[48]。全米一の熱狂度と評されていたニューヨークのファンから「世界三大悪人はヒトラー、スターリン、そしてオマリー」と非難された[49]。さらにオマリーは、ライバルのニューヨーク・ジャイアンツにサンフランシスコへの移転を持ちかけた。ジャイアンツは1950年代に入り成績、観客動員ともに落ち込み、本拠地ポロ・グラウンズの老朽化もあり、球団幹部はニューヨークからの脱出を考えていた時だった。ドジャースが単独で西に移動した場合、最も近いチームでもセントルイス・カーディナルズの1,600マイル(2,575 km)もあった[50][51]。1球団より2球団で移転した方が、西海岸の遠征が訪問チームにとって経済的だろうとの目的だった[52]。オマリーはジョージ・クリストファー・サンフランシスコ市長をニューヨークに招き、ジャイアンツのオーナーであるホーナス・ストーンハムと面会させた。ストーンハムはミネソタ州に移転することを検討していたが、1957年末に西海岸に移転することを決めた。この会合は、コミッショナーのフォード・フリックの要望を無視して行われた[53]。結果的に2チームの動きは、フランチャイズとMLBの両方にとって大成功だった。ドジャースは1試合で78,672人の観客を動員し、MLBにおける1試合での最多動員記録を叩きだした[47]。一方、3チームのうち2チームを失ったニューヨークでは球団を取り戻す機運が高まり、リーグ拡大の契機となった[49]。
リーグのチーム数増加の推移 |
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年度 |
アメリカンリーグ(AL) |
ナショナルリーグ(NL) |
チーム |
|
||||
東 |
中 |
西 |
東 |
中 |
西 |
|
||
8 |
8 |
16 |
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10 |
8 |
18 |
|
|||||
10 |
10 |
20 |
|
|||||
6 |
- |
6 |
6 |
- |
6 |
24 |
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7 |
- |
7 |
6 |
- |
6 |
26 |
|
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7 |
- |
7 |
7 |
- |
7 |
28 |
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5 |
5 |
4 |
5 |
5 |
4 |
28 |
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5 |
5 |
4 |
5 |
6 |
5 |
30 |
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5 |
5 |
5 |
5 |
5 |
5 |
30 |
|
1961年、ワシントン・セネターズがミネアポリスに移りミネソタ・ツインズとなった。同年、ロサンゼルス・エンゼルスと移転したセネターズの代わりに新しく作られたワシントン・セネターズの2チームがアメリカンリーグに加盟。続けて翌1962年、ナショナルリーグにはヒューストン・コルト45’sとニューヨーク・メッツが加盟。コルト45’s(4年目からアストロズに改称)は、1899年にルイビル・カーネルズがなくなって以来初めての南部を本拠地とするチームとなった。メッツは、大都市ニューヨークに復活したチームとして多大な期待を受けたが、最初のシーズンで40勝120敗と大敗し、無駄なチームを作ってしまったとファンを落胆させた。その後も最下位が定位置と成りつつあったが、創立8年目の1969年、突如100勝62敗の好成績でリーグ初優勝。そのままワールドシリーズも制してしまった。結果的にメッツは1960年前半に加入した4チームでワールドシリーズタイトルを獲得した最初のチームになった。
1966年、MLBはミルウォーキー・ブレーブスがアトランタに移り「ディープ・サウス」に進出。1968年、カンザスシティ・アスレチックスはさらに西のオークランドに移転した。1969年、両リーグはそれぞれ2チームの拡張フランチャイズを迎え入れた。アメリカンリーグは、シアトル・パイロッツ(シアトルで悲惨な1シーズンをおくった後にミルウォーキーに移転)とカンザスシティ・ロイヤルズを加えた。ナショナルリーグは、サンディエゴ・パドレスと、初のアメリカ国外のカナダフランチャイズとなった、モントリオール・エクスポズを加えた。これによって、両リーグ12チームと巨大化したため、この年から東西2地区制に移行した。2地区に分かれたことで優勝チームが2チームとなったためワールドシリーズの前哨戦としてリーグチャンピオンシップシリーズが始まった。
1972年、ワシントン・セネターズはアーリントンに移り、テキサス・レンジャーズになった。1977年、アメリカンリーグが再び拡大、シアトル・マリナーズとカナダ第2のチーム、トロント・ブルージェイズが加わった。その後、しばらく新しいチームは追加されず、1990年代までチームの移転もなかった。1993年、ナショナルリーグはマイアミのフロリダ・マーリンズ、デンバーのコロラド・ロッキーズを加えた。翌1994年、東中西3地区制に移行した。1998年、ナショナルリーグは西地区にフェニックスのアリゾナ・ダイヤモンドバックス、アメリカンリーグは東地区にフロリダ・タンパのタンパベイ・デビルレイズが加わった。タイガースがアメリカンリーグ東部地区から中部地区に、リーグのバランスをとるため、ブルワーズがアメリカンリーグ中地区からナショナルリーグ中地区に移動。リーグ間の移動が初めて行われた。
2001年のシーズン後、オーナー会議が開かれリーグの縮小、いくつかのチームの廃止が検討され、多くのオーナーによって縮小に賛成票が投じられた。その中でモントリオール・エクスポズとミネソタ・ツインズが廃止に最も近い2チームであった。しかし、ツインズが2002年シーズンのプレーを要求した裁判所命令を受け、MLBの縮小計画は中止された。MLBのオーナーは、少なくとも2006年までリーグの縮小をしないことに同意した[54]。エクスポズは、深刻な財政難で球団経営が行き詰まり、30年以上なかった本拠地の移転が行われ、2005年にワシントン・ナショナルズとなった。結果、セネタースがテキサスに移転して以来33年間不在だったチームをアメリカの首都に戻すことになった。一方モントリオールはフェデラルリーグを除き、1901年以来MLBの本拠地があった都市で現在チームを運営していない唯一の都市となっている。
2013年、インターリーグの開催時期が見直され、試合のスケジュールの関係でチーム数のバランスが悪かった地区の整理が行われた。ヒューストン・アストロズがナショナルリーグ中地区からアメリカンリーグ西地区に移動。前述のブルワーズ以来2例目となるリーグ間の移動となった。これで全地区5チームずつの均等配置となった。
2018年7月17日、MLB機構のロブ・マンフレッドがテレビ番組内にて、32球団に拡張する意向を示した。 候補地としてラスベガスやポートランド、シャーロットやナッシュビル、モントリオールとバンクーバーの6都市を挙げた。その上、メキシコについても「長い目で見ればあり得る」と語った[55]。
投高打低とルールの改定[編集]
1試合当たりの得点の変化
1960年代後半、一旦は打者有利の時代になった野球は再び投手有利の時代になっていた。この時期の1試合あたりの得点は過去最低だった1900年後半の水準まで落ち込んだ[56]。ボストン・レッドソックスのカール・ヤストレムスキーは、1968年にメジャーリーグの歴史の中で最も低い.301の打率でアメリカンリーグの首位打者となった[57]。デトロイト・タイガースのデニー・マクレインは31勝を記録し、1934年のディジー・ディーン以来、1シーズン30勝した唯一の投手となった[58]。セントルイス・カージナルスの投手ボブ・ギブソンは、わずか防御率1.12を達成することで同様の偉業を達成した[59]。リーグ全体でも投手全体の平均防御率が1919年以来の2点代となり[60][61]、アメリカンリーグの平均打率にいたっては.230とMLB至上最低を記録した[62]。
1968年12月、MLBのプレールール委員会は投打の均衡を保つため1969年のシーズンから、従来の肩から膝までのストライクゾーンを肩から脇の下まで引き下げ、投手のマウンドの高さを15インチ(38.1センチメートル)から10インチ(25.4センチメートル)に下げることを決めた[63]。
1973年、ナショナルリーグよりもはるかに低い出場率で苦しんでいたアメリカンリーグは、打者の負担を減らし得点倍増を目指し、指名打者(DH)制を導入した[64]。2022年のシーズンからはナショナルリーグでも指名打者制が採用される予定である。
球場建築ラッシュと人工芝の流行[編集]
1960年代から1970年代にかけて、老朽化した野球場の立て替えとリーグ拡大によりできた新球団の新球場の建設ラッシュが起こった。この頃の流行は多目的球場とドーム球場だった。
野球人気が拡大する中NFLも急速に発展しており、野球とアメリカンフットボール両方のプロチームを持つ都市の多くは、野球のみを目的とした施設ではなく、両方ができる施設を建設したほうが経済的だったことから、1953年に開場したミルウォーキー・カウンティ・スタジアムを皮切りに多目的球場が多く建設された[65]。多目的球場は野球とフットボールの両方を収容する必要があり楕円形のデザインをしていたため、古いスタジアムよりも相対的にいびつな野球場の形になってしまった。いびつで広いグラウンドは普通の広さの外野であれば本塁打になるはずの打球がただの外野フライになったり、ファールがフライアウトになったりという現象がたびたび起こった。このような特徴はプロ野球の本質を変え、本塁打や打撃力よりも防御率の高さが目立つ結果となった。
1965年、世界初の全天候型屋根付き球場アストロドームが開場。球場に屋根を付ける発想は、アストロズの本拠地ヒューストンが夏は高温多湿で雨が多く蚊の大量発生にも悩まされる、そんな気候に左右されない快適な環境をとの発想からだった。開場当初は屋外球場と同じ環境でプレーできるように透明のアクリル屋根であったが、光が選手の目に入りプレーに支障をきたすことから、すぐに太陽光を通さないパネルに替えられた。この際、球場内の芝が光を遮られたことで枯れてしまう問題が起きた。それを解消するため世界初の繊維による人工芝「アストロターフ」が開発された。アストロターフは維持コストが安く天然芝からの転換も容易なことから多くの野球場で採用された。人工芝は打球が早くなる特徴があり、今までより盗塁とスピードが重要視されるようになった。人工芝の表面はボールがより速く移動し、より高く跳ねたので、三遊間や一二塁間の「穴」を通しやすくなり盗塁もしやすくなった。チームは投手を中心にした構成に転換していった。投手の球速を保つため中継ぎがより重要視されるようになった。そのため先発投手は試合を完投する必要はなくなった。先発投手は6から7イニングを投げて中継ぎにつなぐだけで十分だった。この頃は盗塁の増加に反比例して本塁打数は減少した。本塁打はウィリー・メイズが1965年に52本を打った後、50本を超えたのは1990年までジョージ・フォスターが1977年に到達したのみだった。
1980年代、多くの球場で採用された人工芝であったが、下地がコンクリートやアスファルトで固く選手の足腰に負担がかかるという声があがるようになる。1989年、世界初の開閉式屋根付き球場のスカイドームが開場すると、屋根付きでありながら天然芝の生育が可能となる[注 4]。1992年、天然芝のオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズが開場すると、レトロ回帰の新古典式野球専用球場が主流となっていき、徐々に人工芝の球場は減少していった。
現代野球と薬物問題[編集]
詳細は「戦力均衡策」の項および「MLBのドーピング問題」を参照
1994年、サラリーキャップ制度導入を巡って経営者側と選手会側が対立し、シーズン最中の8月から翌1995年4月にかけてMLB史上最長のストライキが発生。ストライキは232日間にわたり、1994年のワールドシリーズも中止された。選手会との協議の結果サラリーキャップ制度の導入は見送られたが、選手の報酬総額が相対的に高い球団に対する課徴金制度(ぜいたく税)が導入された。このストライキで一時大規模なファン離れが生じる結果となってしまった。
1995年、ドジャースに野茂英雄が入団。マイナー契約(40人枠外での契約)であったが5月にMLBへ昇格し、デビューすると13勝と活躍し新人王を獲得した。この日本人の活躍は国外の市場を開拓する契機となり、のちに多くの海外出身選手がメジャーデビューした。1997年、MLB以外のプロスポーツリーグでは積極的に行われてきたインターリーグを導入。これまでサブウェイ・シリーズのニューヨーク・ヤンキース対ニューヨーク・メッツに代表される同都市にあるチーム同士の対戦はワールドシリーズでしかかなわなかったため、好カードがレギュラーシーズンで見られるとあってファンには好評価であった。
1998年のマーク・マグワイアとサミー・ソーサによるシーズン最多本塁打記録争いなどで盛り上がり、観客数もスト前の水準に回復した。1990年代後半から2000年代前半に本塁打量産ブームが起き、2001年にはバリー・ボンズが73本塁打を放ち、現在のシーズン本塁打記録を樹立した。しかし2007年12月13日に発表されたミッチェル報告書と呼ばれる報告書では89人の実名が挙げられ、その中にはバリー・ボンズ、アレックス・ロドリゲス、マニー・ラミレス、マーク・マグワイア、ラファエル・パルメイロ、ジェイソン・ジアンビ、ホセ・カンセコら多くのMLBを代表する強打者がアナボリックステロイドを使用していたことが後に判明した。
強打者が増えてくる中、投手は打者のパワーに対抗するため、様々な球種を開発する必要があった。ジャイロボール[66]のような新しい球種は、力のバランスを守備側に戻すことができた。1950年代から1960年代のスライダーや1970年代から1990年代のスプリットフィンガーファストボールなどの球種で野球の試合が変わった。1990年代にはチェンジアップが復活し、トレバー・ホフマン、グレッグ・マダックス、ジェイミー・モイヤー、トム・グラビン、ヨハン・サンタナ、ペドロ・マルティネス、ティム・リンスカムなどの投手によって巧みに投げられた。近年、リンスカム、ジョナサン・サンチェス、ウバルド・ヒメネスなどの投手はスプリットの握りでチェンジアップを投げる、「スプリット・チェンジ」を投げるようになった[67][68][69][70]。
2008年にビデオ判定が導入され、2014年からはその範囲が拡大されチャレンジ方式が採用された[71][72][73]。
所属チーム[編集]
アメリカンリーグ[編集]
地区 |
チーム |
創設年 |
加盟年 |
本拠地 |
ボルチモア・オリオールズ |
1894 |
|||
ボストン・レッドソックス |
||||
ニューヨーク・ヤンキース |
||||
タンパベイ・レイズ |
||||
トロント・ブルージェイズ |
||||
シカゴ・ホワイトソックス |
1894 |
|||
クリーブランド・ガーディアンズ |
1894 |
|||
デトロイト・タイガース |
1894 |
|||
カンザスシティ・ロイヤルズ |
||||
ミネソタ・ツインズ |
1894 |
|||
ヒューストン・アストロズ |
||||
ロサンゼルス・エンゼルス |
||||
オークランド・アスレチックス |
||||
シアトル・マリナーズ |
||||
テキサス・レンジャーズ |
ナショナルリーグ[編集]
地区 |
チーム |
創設年 |
加盟年 |
本拠地 |
アトランタ・ブレーブス |
1871 |
1876 |
||
マイアミ・マーリンズ |
||||
ニューヨーク・メッツ |
||||
フィラデルフィア・フィリーズ |
1883 |
|||
ワシントン・ナショナルズ |
||||
シカゴ・カブス |
1871 |
1876 |
||
シンシナティ・レッズ |
1882 |
1890 |
||
ミルウォーキー・ブルワーズ |
||||
ピッツバーグ・パイレーツ |
1882 |
1887 |
||
セントルイス・カージナルス |
1882 |
1892 |
||
アリゾナ・ダイヤモンドバックス |
||||
コロラド・ロッキーズ |
||||
ロサンゼルス・ドジャース |
1883 |
1890 |
||
サンディエゴ・パドレス |
||||
サンフランシスコ・ジャイアンツ |
1883 |
リーグの構成と変遷[編集]
現在、MLBに所属する30チームはアメリカ合衆国の17の州とコロンビア特別区、カナダの1州に本拠地を置いている。ナショナルリーグ、アメリカンリーグともに15チームが所属。さらに各リーグに所属するチームは地図上で東中西の3つの地区に分割される。
各地区はすべて5チームずつで構成される。30チームに増加した当初より、各地区5チームごとの同数に分ける案も出されていたが、2012年まではインターリーグが現在のNPBにおけるセ・パ交流戦と同様に、特定の期間(MLBでは5月から7月の間)のみの集中開催だったため、各リーグ15チームの奇数になった場合試合を組めないチームが必ず1チームでき、年間の試合スケジュールを組むのが困難だったため、当初はアメリカンリーグ(中地区)の1チーム(ミルウォーキー・ブルワーズ)をナショナルリーグ(中地区)に配置しアメリカンリーグを14(東5・中5・西4)チーム、ナショナルリーグを16(東5・中6・西5)チームとしていた。その後、2013年からインターリーグを年間通じて行う方式に改正し、アメリカン・ナショナル両リーグ内の試合を組めない1チーム同士で常に試合が行われることによりこの問題は解消され、同年にナショナルリーグ(中地区)の1チーム(ヒューストン・アストロズ)がアメリカンリーグ(西地区)に配置され、各地区が5チームずつに分けられた。
年間スケジュールと試合システム[編集]
スプリングトレーニング[編集]
シーズンが始まる前の2月中旬から3月下旬にかけて日本の春季キャンプにあたるスプリングトレーニングが行われる。このキャンプが行われる時期はまだ気温が低く雪が降るなどの地域があるため、暖かい地域のアリゾナ州とフロリダ州にあるマイナーリーグの本拠地がキャンプ地に選ばれている。アリゾナ州をキャンプ地にするチームでカクタスリーグ(Cactus League サボテンのこと)、フロリダ州をキャンプ地にするチームでグレープフルーツリーグ(Grapefruit League)が形成され、公式戦と同じような形式でオープン戦が行われるが、この間の記録は公式記録とはならない。
スプリングトレーニング開始時点で各チームの26人ロースター(MLB登録枠)は確定しておらず、40人ロースター(MLB登録拡大枠)の選手と、ロースター外の招待選手と呼ばれるベテランのFA選手や傘下マイナー球団所属の有望選手の中から、レギュラーシーズン開始までに開幕のロースター枠をめぐってふるい分けが行われる。レギュラーシーズンよりもベンチ入り選手数が多いため、チームを2分割し同じ日に違うチームと対戦するスプリットスクワッドなどの方式が採られる場合もある。
レギュラーシーズン[編集]
4月上旬から9月下旬にかけて1チームインターリーグを含む162試合対戦するレギュラーシーズンが行われる。
2023年から導入されるフォーマットでは、同地区4チームと計52試合(各13試合)、同リーグの他2地区10チームと計64試合(4チームと各7試合、6チームと各6試合)、インターリーグ46試合の対戦となる。インターリーグは各チームに定められた「地理的なライバル」(natural rival)[注 5]とは年間4試合、それ以外の14球団とは年間3試合を行う。
なお、2022年までのフォーマットでは、同地区4チームと計76試合(各19試合)、同リーグの他2地区10チームと計66試合(6チームと各7試合、4チームと各6試合)、インターリーグ20試合の対戦となっていた。インターリーグの内訳は「地理的なライバル」と4試合、ある地区1チームと4試合、その地区の残り4チームと3試合となる。ただし、同地区対決となる場合は1チームと6試合、2チームと4試合、2チームと3試合となり、この場合「地理的なライバル」は考慮されない。
2012年以前は、例年5月中旬から6月中旬の間に数試合行い、その後一旦同リーグ内のカードに戻った後、6月上旬から7月中旬の間で再び数試合行うという日程となっており、合計18試合程度行われていた。
自チームの本拠地球場と相手チームの本拠地球場でほぼ均等に試合が組まれるが、インターリーグの対戦によっては、どちらか一方の本拠地球場で全3試合が組まれ、もう一方の本拠地球場では試合が行われないというケースもある。ただし、各チームのホームゲームとアウェイゲームの数が、それぞれ81試合と均等になるように、試合のバランス調整は行われている。
両リーグとも予告先発制度を採用している。先発投手は試合ごとではなく対戦カードごとにまとめて予告される。なお、全試合指名打者制(DH)が採用される(ナショナルリーグでは2021年以前は2020年を除き採用されていなかった)。試合は引き分けなしの時間無制限で行う。降雨などで「タイゲーム」となった場合はサスペンデッドが宣告され、この場合は次の日以降に中断した時点から再開し決着が付くまで試合が行われる。その場合の試合は、移動日や1日にその日予定されていた試合と順延になった試合の2試合行うダブルヘッダーなどで消化される。大乱闘などで試合続行不可能になったり、そもそも相手チームが到着せず、試合ができない場合などは、フォーフィッテッドゲーム(forfeited game、没収試合)となることがある。ただし2020年以降は特別ルールとして延長10回から走者を二塁に置いた状況で攻撃を開始するタイブレーク制を採用する。
怪我や疾病のために試合出場が困難と診断された選手は負傷者リスト(IL)に登録されてアクティブ・ロースターから外れ、所定日数が経過するまでは復帰できない。他にも、忌引や育休などの目的でロースターを一時離脱できる制度がある。その間は傘下マイナーリーグなどから代替選手を補充することができる。
詳細は「故障者リスト」および「ロースター
(MLB)」を参照
レギュラーシーズン中、40人ロースター内の選手のトレードは7月31日まで可能となっている。そのため、特にトレード期限日直前には主力選手が絡む駆け込みトレードが多く成立する。
詳細は「トレード#メジャーリーグ」を参照
9月1日になると、アクティブ・ロースター(ベンチ入りし、試合出場も可能な人数)の枠が26人から28人へ拡大される。なお2019年までは最大40人に拡大されていた(通称「セプテンバー・コールアップ」。コールアップ (call up) は「(チームに)選抜される」の意)。このルールにより、9月以降は傘下マイナーチームに待機していた選手が複数名MLBのベンチに加わることとなり、幅広い選手起用が可能になる。この時期にメジャーデビューを果たす若手選手も多く見られる。ただし、ポストシーズンには26人ロースターの選手のみ出場可能であり、また8月31日時点で当該チームの40人ロースターに登録されていなかった選手は原則、ポストシーズンのロースターには登録できない[注 6][74]。
MLBでは新古典派球場ブームにより、天候に左右されないドーム球場は減る傾向にあるため、雨による中止が多く見られる。ただ、レギュラーシーズンの試合日程が過密であり、20から30連戦という日程が少なくないため[注 7]、数時間にも及ぶ試合中断を挟んだ上でも試合を成立させることは珍しくない。これに加え、国内でも時差が3時間あり[注 8]、気候にも大きな差がある広大なアメリカ本土・カナダを縦横に移動するために、各球団が移動用の専用機を有し、深夜早朝を問わず航空会社のダイヤに左右されず最も都合の良い時間に移動することが可能[注 9]ではあるものの、肉体的な負担はとても大きい。1シーズンの総移動距離は約73,000キロにも達し、これは地球1.8周分に相当する[75]。そのため、たとえ主軸のレギュラー野手であっても疲労回復のため定期的に先発から外すことが多く、162試合全てに出場する選手は毎年リーグに数えるほどしかいない。
前記のような延長時間無制限や過密日程もあってか、大差がつき敗戦が決定的となった試合や、延長戦途中で投手を使い果たした場合などに、日本プロ野球ではまず見られない「野手がリリーフ投手として登板」という場面が発生することがあり、例えば2015年にはイチローを含め、延べ27人の野手がリリーフ登板している[76]。
各チームが基本的に162試合全てを消化するルールだが、162試合すべてが必ず行われるとは限らない。プレーオフ進出の可否が完全に決定し順位が確定した地区のチームは、雨天中止などによって順延されたゲームの再試合は、仮に選手やチームの何らかのタイトル・記録にかかわる場合であっても基本的に行わないこととなっている。
試合数は1960年までリーグ各チーム総当たり(22回戦×7チーム)の154試合であった。アメリカンリーグは1961年から、ナショナルリーグは翌1962年から現在の162試合(18回戦×9チーム)になり、1969年に始まった2地区制時代は12球団時は同地区5チーム×18試合=90試合、他地区6チーム×12試合=72試合の計162試合であったが、アメリカンリーグは1977年から、ナショナルリーグも1993年には14球団に増えたことから、同地区6チーム×13試合=78試合、他地区7チーム×12試合=84試合の合計162試合になった。その後、1994年に3地区制となった上、地区によって所属チーム数が違っていたためばらつきがあるが、同地区と60試合程度、同リーグの他2地区と各45試合程度、その他インターリーグが数試合の合計162試合になった。両リーグ15チームずつとなった2013年以降は同地区4チーム×19試合=76試合、他地区10チーム×6または7試合=66試合、インターリーグ20試合の合計162試合である[77]。
2023年には再び組み合わせが変更され、同地区4チーム×13試合=52試合、他地区4チーム×7試合+6チーム×6試合=64試合、インターリーグ14チーム×3試合+「地理的なライバル」×4試合=46試合の162試合制となる予定である。これにより、全チームが互いに少なくとも3試合は対戦することとなる。
オールスターゲーム[編集]
詳細は「MLBオールスターゲーム」を参照
7月にはオールスターゲームが行われる。当初はオールスター選手の祭典的な位置づけであったが、2003年から2016年までは勝ったリーグにワールドシリーズでの本拠地開催優先権であるホームアドバンテージが与えられることとなったため、引き分け試合がなくなり以前より本気の試合展開になった。
ポストシーズン[編集]
ワールドシリーズ優勝回数と出場回数 |
|||
位 |
優勝チーム |
優勝 |
出場 |
1 |
27 |
40 |
|
2 |
11 |
19 |
|
3 |
9 |
14 |
|
3 |
9 |
14 |
|
5 |
8 |
20 |
|
6 |
7 |
21 |
|
7 |
5 |
9 |
|
8 |
5 |
7 |
|
9 |
4 |
11 |
|
10 |
3 |
11 |
|
11 |
3 |
9 |
|
12 |
3 |
7 |
|
13 |
3 |
6 |
|
14 |
3 |
5 |
|
15 |
2 |
7 |
|
16 |
2 |
6 |
|
17 |
2 |
5 |
|
18 |
2 |
4 |
|
19 |
2 |
3 |
|
20 |
2 |
2 |
|
20 |
2 |
2 |
|
22 |
1 |
1 |
|
22 |
1 |
1 |
|
22 |
1 |
1 |
|
25 |
0 |
2 |
|
25 |
0 |
2 |
|
27 |
0 |
1 |
|
27 |
0 |
1 |
|
27 |
0 |
1 |
|
30 |
0 |
0 |
10月に入るとポストシーズンゲームが行われる。
2022年からは、各リーグとも162試合の成績を元に各地区の勝率1位の3チームとワイルドカード3チームを加えた6チームずつによるトーナメント戦を行う。
2021年までは、ワイルドカードは2チームのみであり、両者の1試合の「ワイルドカードゲーム」の勝者がディビジョンシリーズに進んでいた。
2011年までは、ワイルドカードは1チームのみであった。
ワイルドカードシリーズ[編集]
2022年より導入された「ワイルドカードシリーズ」は、ディビジョンシリーズへの出場権をかけて4チームにより行われる。地区優勝チームは成績順にシード1,2,3となる。そのうちシード3のみがワイルドカードシリーズに参加し、シード1,2は免除される。ワイルドカードとなった3チームは成績順にシード4,5,6と呼ばれる。シード3と6が、シード4と5がそれぞれシード上位の本拠地で最大3試合を行い、先に2勝したチームがディビジョンシリーズに進出する。
2012年から2021年までは、ワイルドカードは2チームのみであり、成績上位のチームの本拠地で行われる1試合のワイルドカードゲームのみの勝者がディビジョンシリーズに進んでいた。
ディビジョンシリーズ[編集]
ディビジョンシリーズ(地区シリーズ)は、前述の「ワイルドカードシリーズ」を勝ち抜いたチームのうちシード4あるいは5にあたるチームとリーグ勝率1位のチーム、そしてシード3あるいは6にあたるチームとリーグ勝率2位のチームの組み合わせで試合を行う。最大5試合が行われ、一方が3勝すればシリーズは終了し、そのチームがリーグチャンピオンシップシリーズに進出する。
2021年までは、ワイルドカードチームと勝率1位のチーム、そして勝率2位と3位のチームの組み合わせであった。さらに2011年までは、最高勝率チームとワイルドカードのチームが同地区の場合、ワイルドカードとリーグ勝率2位のチーム、勝率1位チームと勝率3位チームの組み合わせで行っていた(ワイルドカードから見れば、対戦相手は必ず別の地区の地区勝率1位の2チームのうち勝率の高いほうとなる)[注 10]。
1981年はストライキにより前後期制をとり、前期優勝チームと後期優勝チームによる地区優勝決定シリーズが行われた。
リーグチャンピオンシップシリーズ[編集]
リーグチャンピオンシップシリーズ(リーグ優勝決定シリーズ)は、ディビジョンシリーズを勝ち上がった(1969年 - 1993年は東西それぞれの地区優勝を果たした)各リーグの2チームの対戦となる。試合は7戦4勝制(1969年 - 1984年は5戦3勝制)で行われ、4勝(1969年 - 1984年は3勝)したチームが出た時点でシリーズは終了し、リーグ優勝となりワールドシリーズ出場権を獲得する。
地区制度導入以前は1位に2球団が並んだ場合、アメリカンリーグは1試合制、ナショナルリーグは3試合制のプレーオフを実施していた。
ワールドシリーズ[編集]
ワールドシリーズはアメリカンリーグ、ナショナルリーグの優勝チームが対戦する。7戦4勝制で行われ、4勝したチームがワールドシリーズチャンピオンとなる。例外として、1903年と1919年から1921年の4回は9戦5勝制で行われた。
現在、ワールドシリーズチャンピオンになった経験があるチームは30チーム中24チームで、残りの6チームは一度もワールドシリーズチャンピオンの栄冠を獲得していない。なかでもシアトル・マリナーズはリーグ優勝もかなっていない。これまでの最多出場チームはニューヨーク・ヤンキースの40回でありヤンキースは1960年以前から存在するナショナルリーグの8球団を全部ワールドシリーズで倒している。ヤンキースの優勝回数27回も30チーム中で最多である。
ドラフトとマイナーリーグ[編集]
ドラフトは、戦力の均衡を目的に1965年から導入された[78]。毎年6月または7月に開催され、学生および独立リーグの選手を対象に、ウェーバー方式で1チームあたり数十名の新人選手が指名される。指名選手とはマイナー契約(40人ロースター外での契約)しか締結できないため、ほぼ全ての選手はマイナーリーグで数年間の育成を経たのち、有望選手がMLB昇格を果たしていく。
またシーズンオフの12月(ウィンターミーティング最終日)には、40人ロースター外で且つMLB傘下に一定年数以上在籍している他チームの現役選手を指名し獲得できるルール・ファイブ・ドラフト(ルール 5 ドラフト)が開催される。この制度は選手の飼い殺しを防ぐ目的で行われる。
詳細は「ドラフト会議 (MLB)」を参照
マイナーリーグベースボール(Minor
League Baseball, MiLB)は、独立採算制で運営されている北アメリカのプロ野球リーグのうち、MLBの傘下に入る協定を結んでいるリーグを指す[79]。MiLB所属チームは、最上位のAAA級を筆頭に5階級のクラスに分かれ、各クラス内でリーグを組み、公式戦を実施している。MLB所属チームは、各クラスのMiLB所属チームを直営するか、または各地域の既存の独立資本チームと選手育成契約 (PDL) を結んで選手およびコーチを派遣することで、自らの下部組織としている。
MiLBは、各フランチャイズでの野球振興のほか、MLBチームがドラフト・インターナショナルFA・FAで獲得した選手、故障したMLB所属選手、MiLBチームが独自に獲得した選手たちの育成・調整目的の場となり、これらの選手をMLBに供給する役割も担っている。
コミッショナー制度[編集]
歴代コミッショナー |
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代 |
コミッショナー |
在任期間 |
1 |
1920-1944 |
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2 |
1945-1951 |
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3 |
1951-1965 |
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4 |
1965-1968 |
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5 |
1969-1984 |
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6 |
1984-1989 |
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7 |
1989 |
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8 |
1989-1992 |
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9 |
(1992-1998)[注 11] |
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10 |
2015- |
1920年にブラックソックス事件が発覚し、野球人気が低迷した。人気を回復するため中長期的な展望、戦略、迅速な意思決定をする必要に迫られた各オーナーたちが話し合い、中立的な意思決定機関として1920年にコミッショナー制度が導入された。そして、連邦地裁判事だったケネソー・マウンテン・ランディスが初代コミッショナーに就任。制度導入以後はしばらくコミッショナーと両リーグ会長の三頭体制をとっていたが、1999年を最後に両リーグ会長職は廃止されている。
経営[編集]
スポーツチームの資産価値トップ50(2022年)[80] |
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順位 |
リーグ |
チーム数 |
1 |
30 |
|
2 |
7 |
|
3 |
MLB |
5 |
4 |
4 |
|
5 |
2 |
|
6 |
1 |
|
1 |
MLBは経営においてはカルテルであり、これについてはアメリカの法令において特別な例外規定により独占禁止法の適用を免れている。このためチームの総数の制限、収益の組織的分配、本来なら個人の自由な経済活動を制限するドラフト制度などを合法的に行える。特にドラフト制度と収益の分配は各チームの実力を均一化させ試合内容を充実することで、観客動員数およびテレビの視聴率を上げている。一方で日本のプロ野球は経営自体はたいてい赤字でチームのオーナー企業の宣伝が経済活動の基盤である。このため強いチーム(のオーナー企業)がわざわざ弱いチーム(のオーナー企業)に便宜を図って実力の均衡を図ることにメリットが存在しない。野球チームの経営はオーナー企業の広報活動の二次的なものに過ぎないからである。MLBでのそれぞれのチームはたいてい独立組織で黒字であり、逆に複数の企業がそのチームの威光の宣伝効果を求めてスポンサーになるという構造になっている。またMLBのチーム数は大都市のステータスとしてプロ野球チームの招致を希望するアメリカの都市の数より少なめに設置されている。これによりアメリカのプロ野球チームはさまざまな経済的優遇措置を招致都市から引き出すことができる。そのもっとも重要なものは、チームが使用するスタジアムを地元の自治体の予算で建設し無料で使用できることで、これだけで毎年で数百万ドル(数億円)にあたる補助金となっている。日本のプロ野球チームが二軍を維持するのがやっとなのに、アメリカのプロ野球チームが五軍まで維持できるのは経営そのものにこのような構造的違いがあるからである。
MLBの2006年の観客動員数は前年比1.5%増の7,604万3,902人と3年連続で増加し過去最高を記録している。30チーム中24チームが200万人を超え、8チームが300万人を超えており、年々入場券の平均価格が上がっているにも拘らず観客動員数は増加傾向である。現在までの年間観客動員数最多チームはニューヨーク・ヤンキースで420万518人、最少チームはフロリダ・マーリンズで116万5,120人、全チームの平均は253万4797人となっている。また、2006年のマイナーリーグベースボールの観客動員数は4,171万357人で、MLBと合わせた観客動員数は1億1,775万4,259人となっている。入場券の売り上げだけで巨額なものとなっており、放送権収入、商標権収入、スポンサー収入、グッズ収入なども含めたMLB全体の総収入は1995年に約13億8,499万ドル、1996年に約17億7,517万ドル、1999年に約27億8,687万ドル、2005年に約47億3,300万ドルなどと年々増加し、2006年には約52億ドル(約6,130億円)に達した。これは、NFLの約60億ドルに次ぐ額となっている。
その後も放映権の高騰などMLBの総収入は増加を続け、2014年には90億ドル、2018年には103億ドルを記録するなど増加の一途をたどっている。
また、チームの資産価値も年々上昇しており、アメリカの経済誌フォーブスが2014年4月に発表したMLB各チームの平均資産価値は8億1,000万ドルとなっている。1位はニューヨーク・ヤンキースの25億ドルであり、2014年8月時点ではNFLのダラス・カウボーイズとニューイングランド・ペイトリオッツに次いでアメリカのプロスポーツチームとして3番目の規模である。 MLB30位(最下位)のタンパベイ・デビルレイズは4億8500万ドルの価値と算定されている。また、2014年の統計ではMLBの30チーム中19チームが黒字である。赤字のチームにヤンキースやドジャースもあるが、後述の課徴金制度のためヤンキースなどの収入の多いチームは多額の課徴金を支払っており、これが赤字の原因の一つとなっている。さらに、各チームの収入にヤンキースはYESネットワークによる収入、カブスはWGNによる収入が含まれていないなど実際には各チームの収入はもっと多いとされている。また、チームの収益が選手年俸の伸びより速く増加しているため、全体の営業利益は2004年の1億3,200万ドルから2005年には3億6,000万ドルにまで増加している。選手の平均年俸も年々増加し、2001年に初めて200万ドルを超え、2006年の平均年俸は269万9,292ドルとなっている。また、2008年の全30チームの年俸合計額は28億7,935万7,538ドルで過去最高を更新している[81][82]。さらに8年後の2016年には年俸合計額が40億ドルを突破し、平均年俸も過去最高の447万ドルを記録するなどこちらも年々増加し続けている。
MLBにおこる問題とその対処[編集]
薬物問題[編集]
詳細は「メジャーリーグベースボールのドーピング問題」を参照
近年、メジャーリーグベースボールではバリー・ボンズやマーク・マグワイアの本塁打量産、ホセ・カンセコの暴露本 『禁断の肉体改造』出版による薬物使用の告白、かつて活躍した選手の急死などでドーピング疑惑が注目されている。以前から薬物使用に甘いと言われてきたが、近年は毎年抜き打ち検査が実施されている。2005年からは薬物検査に関する規定を導入し、その内容は違反1回目で10日間、2回目で30日間、3回目で60日間、4回目で1年間の出場停止、5回目でコミッショナーが裁定を下すというものであった。しかし、導入当初は罰金を支払えば試合に出ることができるという逃げ道も設けていたことを、合衆国下院の政府改革委員会から追及された。さらに、これでも未だに他のスポーツに比べて制裁が甘いという批判があり、2006年から違反1回目で50試合、2回目で100試合の出場停止処分、3回目で永久追放という更に厳しい新規定を導入した。だが、この永久追放に関しても救済措置が設けられている。
2007年12月13日にMLBの薬物使用実態調査「ミッチェル報告書」が公表され、現役、引退問わず89名の選手の名前が記載されている。バリー・ボンズ、ロジャー・クレメンス、アンディ・ペティット、ミゲル・テハダ、エリック・ガニエなど大物現役選手や、アレックス・カブレラ、ジェフ・ウィリアムスら日本のプロ野球に在籍経験のある選手も含まれている。
ストライキ[編集]
詳細は「プロ野球ストライキ#MLBにおけるストライキ」を参照
1972年以来、労働契約が満了するたびに、選手のストライキが5度、所有者のロックアウトが3度発生している。いずれも収益に関する問題だった。1981年には50日間に及ぶストライキの影響により、前後期のスプリットシーズン制で開催されている。1994年から1995年にかけてのストライキはサラリーキャップ制度の導入に反発したもので期間も232日と過去最長に及び、1994年のワールドシリーズも中止になった。またこの他に2002年にもストライキの計画があったが、寸前で交渉が妥結した。2013年時点では1994年から1995年にかけてのストライキを最後にストライキは一度も行われていない。
戦力均衡策[編集]
2014年(2015年1月)までコミッショナーを務めていたバド・セリグは、かつて収益や観客動員の少ないミルウォーキー・ブルワーズのオーナーを長年務め、チームの経営難に苦慮した経験を持っていたため、コミッショナーに就任して以来戦力均衡策の導入に積極的だった。インターリーグ(交流戦)、プレーオフでのワイルドカード、年俸総額が一定の額を超えたチームに課徴金(Luxury Tax、ぜいたく税)を課す課徴金制度などを導入した。また、サラリーキャップ制や収益の完全分配などを導入することも検討されている。1965年に導入されていた完全ウェーバー制ドラフトなどもあり、2001年以降ワールドシリーズの優勝チームが毎年入れ替わっている。ただし、所属選手の年俸総額を比較すれば各チームの戦力差に大きな開きが明らかであり、制度を充実させても、補強に積極的なチームとそうでないチームがあるとされている。
収益分配制度[編集]
MLBの収益分配制度は2つある。1つ目はBase Planと呼ばれるもので、各チームの純収入(総収入から球場経費を除いた額)に20 %課税し、各チームから集められた課税金の4分の3が全チームに均等に分配され、4分の1が全チームの平均収入を下回るチームに下回る額に比例して按分分配するという内容(スプリット・プール方式)である。前述した1994年のストライキを受けて1996年に導入され、その後、2002年8月に締結された労使協定で、税率が34 %で課税額の全てを全チームに均等分配する内容(ストレート・プール方式)に改められた。2つ目はCentral Fund Componentと呼ばれるもので、収入の高いチームに課税して、一定の規則のもと収入の低いチームに再分配するという内容(スプリット・プール方式)[83]。
この制度の目的は、収入の低いチームにより多くの分配金を分配することで収支を改善し、戦力均衡を促すことにあった。ところが、チームがポストシーズンに進出できなくなると球団側は有力選手を放出し、チーム全体の年俸総額を下げて多額の分配金を受け取ることを画策するようになり、結果的に戦力の均衡は達成できなかった。
そのため、2002年8月に締結された労使協定において、球団側が選手に支払う年俸総額が一定額を超えた場合、超過分に課徴金を課す「課徴金制度」(Luxury Tax、ぜいたく税)が導入された。4年間に一定額を超えた回数に応じて税率を引き上げていく内容となっており、2003年は40人枠の年俸総額が1億1,700万ドルを超えたチームは超過額の17.5 %を課税された。以降、2004年は1億2,050万ドルで1回目22.5 %・2回目30 %、2005年は1億2,800万ドルで1回目22.5 %・2回目30 %・3回目40 %、2006年は1億3,650万ドルで1回目0 %・2回目40 %・3回目40 %・4回目40 %課税されることとなっており、年俸の高騰を抑制し戦力の均衡を図った(ポスティングシステムによる入札金に、課徴金制度は適用されない)。その結果、2001年以降ワールドシリーズの優勝チームが毎年入れ替わるなど、一定の成果を上げている。
また、2006年10月24日に締結された新労使協定では、Base Planにおける税率が34 %から31 %に変更され、またCentral Fund Componentでは、Base Planで再分配される全額の41.066 %分の額が、Base Planで支払う側のチームから受け取る側のチームにBase Planとは別に再分配されるよう変更された。支払う側のチームの負担額は、各チームの収入が全チームの平均収入の超過分に応じて、Base Planの41.066 %分の額が按分徴収され、その徴収額は受け取る側のチームにスプリット・プール方式で再分配される。それと同時に、チームの収入の定義を「過去3年間の平均値(変動制)」から「2005 - 2006年の実績値と2007 - 2008年の売上げ予測の平均値(固定制)」に変更された。
チーム収入の定義が変動制から固定制に変更されたことにより、各チームの収入増減が分配額に影響しないようになった。この結果、全チームの限界税率は31 %で統一され、安易な有力選手の放出が抑制されるため戦力が均衡しやすくなっている。
課徴金制度の年俸総額の一定額や、選手の最低年俸は、労使協定によりある程度のスパンをもって決められる[84][85]。
なお、日本のメディアにおいて「ぜいたく税制度によって徴収された課徴金は年俸総額の低いチームに配分される」と報道されることがあるが、これは上述のCentral Fund Componentと混同した誤りであり、課徴金は収益分配の対象ではない。 徴収されたぜいたく税は、最初の250万ドルが内部留保され、それを超えた額については、75 %が選手の福利厚生財源として、残りの25 %が“業界成長基金”(IGF:Industry Growth Fund)の財源として用いられることになる。IGFは1996年の労使協定において、アメリカやカナダをはじめとする全世界で野球を普及させる目的で設置されたものである[86][87][88]。
贅沢税を課された球団とその金額[84] |
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チーム |
年 |
総税額 |
2003-2017 |
$319.6
MM |
|
2013-2017 |
$149.7
MM |
|
2004-2007,
2010-2011, 2015–2016, 2018 |
$34.5
MM |
|
2008,
2016-2017 |
$9.0
MM |
|
2015-2017 |
$8.8
MM |
|
2016 |
$2.96
MM |
|
2017-2018 |
$2.65
MM |
|
2004 |
$927,059 |
テレビ放映権[編集]
「テレビでのメジャーリーグベースボール(英語: Major League Baseball on
television)」も参照
自前のチャンネルを持っているチームと放映権料[89] |
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チーム |
放映権料 |
収益年 |
9000万ドル |
2011年 |
|
6500万ドル |
2012年 |
|
6000万ドル |
2012年 |
|
2900万ドル |
2012年 |
|
2900万ドル |
2012年 |
配当が契約に含まれているチームと放映権料[89] |
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チーム |
契約 |
総額25億ドル |
|
2013年 - 2028年、持ち株比率25% |
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総額30億ドル(1億ドルの契約ボーナス込み) |
|
2015年 - 2034年、持ち株比率10% |
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総額32億ドル |
|
2013年 - 2032年、持ち株比率45% |
|
総額14億ドル |
|
2012年 - 2031年、持ち株比率20% |
MLBのテレビ放映権は、全国放送に限りMLB機構が管轄し、ローカル放送は各チームがFOXスポーツネット(FSN)に代表されるRegional Sports Network(RSN、ローカルスポーツ専門チャンネル)や地元放送局などと直接契約を結んでいる。 ただし、WGNや2007年9月までのTBS[注 12]のようなスーパーステーション(地上波ローカル局とサイマル放送を行っている全米向けケーブルテレビ向け放送局)と契約しているチーム(WGNはシカゴ・カブスとシカゴ・ホワイトソックス、TBSはアトランタ・ブレーブス)の試合は結果的に全米で視聴可能となるため、放送局はチームに支払う放映権料とは別に機構に対していわゆる「スーパーステーション税」を支払う必要がある。
チームの本拠地が大都市であれば収入が大きくなり、小都市だと収入が少なくなるため、レギュラーシーズン・ポストシーズン全試合の放映権を管轄しているNFLとは違い、チームによって放映権料収入は大きく異なる。1984年、ボストン・レッドソックスがNew England Sports Network(NESN)を設立したのを皮切りに、ニューヨーク・ヤンキース(Yankees Entertainment and Sports Network(YES))、ニューヨーク・メッツ(SportsNet New York(SNY))など、チーム自らがローカルチャンネルを設立する例もある。これは別会社に入るお金までは課税されないためであり、その別会社がチームに支払う放映権料を低く抑えれば、リーグからの課税額も少なくなるだけにそのメリットは大きい。
なお、このように番組がスポーツ専用チャンネルに特化している米国では、その契約からも、テレビ中継は試合の途中で終わることはない。
また、アメリカでは元々商法行為に対する規制が厳しく、機構側の一括管理による独占・寡占契約はなされてこなかった。しかし、1961年の法律制定により解禁され、NFLがCBSと独占契約を結んだ(1960年に発足したAFL(アメリカン・フットボール・リーグ、1970年にNFLと合併)がABCと5年間の長期契約を結び、NFLを脅かす存在になったことが一因)ことを皮切りに、アメリカのプロスポーツ界では機構側が放映権を一括して複数年にわたる大型契約を結ぶようになった。その機構側が契約した放映権料はコミッショナー事務局のプール分を除いた額が30球団で均等に分配される。
現行の放映権契約[編集]
FOXとTBSの2006年の放映権契約内容 |
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FOX |
レギュラーシーズン土曜日午後の試合 |
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オールスターゲーム |
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奇数年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ |
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偶数年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ |
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ワールドシリーズ |
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TBS |
レギュラーシーズン日曜日午後の試合[注 13] |
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ディビジョンシリーズ全試合 |
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奇数年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ |
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偶数年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ |
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地区優勝やワイルドカードゲーム (2021年まで) |
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従来、全国放送はESPN(レギュラーシーズン。2005年までの6年間8億5,100万ドル)とFOX(ポストシーズンなど。2006年までの6年間25億ドル)の2社が契約していた。
ESPNとは2005年9月、2006年から8年間23億6,800万ドルの新契約にこぎつけたものの、FOXはMLBの視聴率低下によって広告収入が放映権料を下回ったとして値下げを主張、交渉は難航していた。ESPNは主にレギュラーシーズンの平日および日曜夜の試合を中継する。
2006年7月11日、FOXおよびTBSとの間に契約が成立した。放映権料は2007年からの7年間で2社合計で約30億ドル(FOX18億ドル・TBS5億ドルという報道もある[90]。両社の契約内容は右記のとおり。
なお、2006年3月13日に、ヨーロッパのテレビ局「North American Sports Network」(NASN、2007年にESPNの傘下入り)が、2006年から5年間MLBの試合を放映する契約を結んだ。オープン戦からワールドシリーズまでの年間275試合が、イギリス、アイルランド、ドイツ、スイス、オランダなどのヨーロッパ7ヶ国で放送される。
日本での放送[編集]
日本向け放映権は電通が2004年から6年間2億7500万ドルで契約。テレビ放送では、日本放送協会(NHK)・TBSテレビ(TBS)・フジテレビジョンで放送している。2008年まではスカパーJSAT(スカパー!、スカパー!e2)、モバHO!でも放送していた。
NHK・TBS・フジテレビは日本人選手が出場する予定の試合やオールスターゲーム・ポストシーズンを中心に生中継など行っている。当初は地上波では上記3局で月ごとのローテーションを決めていたが、その後週単位のローテーションに変更された。大抵系列BSでの中継であり、特にNHK BSでの中継本数が多く、BSデジタル放送受信世帯数を押し上げる要因のひとつにもなっている。注目カードは地上波で中継される場合もある。2006年のワールドシリーズはフジテレビでダイジェストとして放送された。また、メジャーリーグ開幕戦を日本の東京ドームにて開催する場合は日本テレビが中継を担当している(年度によってはフジテレビで中継する場合もある)[91]。
スカパー!ではスカチャン(旧パーフェクト・チョイス)にて500試合から600試合の生中継に加えて再放送を行っていた。スカパー!e2では、スカチャン(旧スカチャン!)にて毎日1・2試合程度生中継を行っていた。2006-2007年はJ sports
Plus(現J SPORTS
4)でも中継を行っていた(2007年は月曜夜に1試合録画中継)。
2007年4月、モバイル放送(モバHO!)がモバイル放送権を獲得、同年5月より「チャンネルONE」(映像協力・スカパー!)で原則毎日1試合放送していた。また、同年7月より2008年9月まで「モバイル.n」(映像協力・NHK)で月2試合程度放送していた。
2009年、電通は2015年までの契約延長に合意した。新しい契約では、NHK、TBS、フジテレビに加えて、テレビ朝日、テレビ東京、J
SPORTSでも放送されることになった[92]。一方で民放キー局のうち、日本テレビだけは放映権料の高騰を理由として、2009年から放映権を獲得しておらず、試合映像の配信も2022年シーズンまで受けていなかった[注 14][93][94][95]。前述のMLB公式戦を日本で行う場合は例外として、MLBとの間で個別に放映権を購入した上で生中継を行っている[91]。
J SPORTSについては、CS放送の独占放映権に加えて、BS放送(2011年10月よりJ SPORTS 1・2を放送開始、2012年3月よりJ SPORTS 3・4を放送開始)の放映権(非独占)も獲得、同年6月より放送を開始している。
ラジオ放送では、ニッポン放送が1996年頃より独占放送権を持ち、「メジャーリーグ中継」を通常番組を休止して中継したり、通常番組内で日本人選手登板部分のみの中継を行っている。
インターネット配信[編集]
この節の加筆が望まれています。 |
MLB.tv
2002年より配信開始。2012年現在ではMLB.TVプレミアム(1,2MBまたは800k)とMLB.TV(400k)に分かれる。契約には月額、年額があり、契約すると全試合見られる。自動更新されるため解約には事前申請が必要。最初はPCのみだったが最近はAndroid端末、iPhone・iPad等iOS端末やPS3、XBOXの家庭用ゲーム機に対応している。
MLB.TVにも放送権がついており、TV放送と同じで一部の地域ではNFL等他のスポーツ中継と同様にブラックアウトされることがある。
2010年8月30日よりYouTubeにて録画での試合映像などの配信が開始された[96]。
2023年シーズンはカナダ、ドイツ、イタリア、スイス、オーストリアにて配信されている。2016年から2019年までは日本でも配信されていた[97]。
2018年シーズンより週1試合を独占配信することを発表している[98]。
2019年シーズンから一部試合のライブ配信を開始。2022年シーズンは計15試合を182か国で無料独占配信した[99]。
SPOTV
NOW(旧・SPOZONE)
LIVE
SPORTS MEDIAが開始した配信サイト。2020年よりDAZNに代わり日本向け配信を独占的に開始[97]。2021年より韓国向けも独占配信。2023年シーズンはエンゼルス戦全試合を含む1日最大8試合を配信。
2021年7月1日よりSPOZONE(当時)とのパートナーシップによりレギュラーシーズンの中継を開始[100]。
2022年シーズンから毎週金曜日の2試合を「Friday Night Baseball」とのタイトルで配信。アメリカや日本など、世界8か国にて配信[101][102]。
2022年シーズンに1日最大2試合、合計324試合を配信していた[103]。
脚注[編集]
[脚注の使い方]
注釈[編集]
^ 残りの3つはアメリカンフットボール、バスケットボール、アイスホッケー。
^ ナショナル・アソシエーションについては、1951年に発刊された公式のベースボール・エンサイクロペディアで「メジャーリーグ」として扱われていたが、この年の裁定により除外された経緯がある。
^ アフリカ系アメリカ人による野球リーグ機構はこの期間複数存在し、「ニグロリーグ」はそれらの総称である。詳細はニグロリーグの項目を参照。
^ ただしスカイドームはグラウンドは引き続き人工芝であった。屋根付きでの天然芝球場は1998年開場のバンクワン・ボールパークが最初となる。
^ ニューヨーク・ヤンキースならニューヨーク・メッツ、ロサンゼルス・ドジャースならロサンゼルス・エンゼルスといったように別リーグ同地区で地理的に近いチームとなっている。ただしリーグ構成の関係上シアトル・マリナーズとサンディエゴ・パドレスのような組み合わせもある。
^ 2014年までは、8月31日時点で当該チームの25人枠に入っていないとポストシーズンには原則出場できなかった(故障者リスト入り選手発生時には40人枠の選手が代替出場可能)が、2015年から本文記載の規定に変更された。
^ 最長では51連戦という記録がある。
^ 2012年時点で所属する球団都市は太平洋標準時(PST、UTC-8)・山岳部標準時(MST、UTC-7)・中部標準時(CST、UTC-6)・東部標準時(EST、UTC-5)のいずれかに属する。
^ 球場から貸切バスでそのまま空港構内に入場し、専用機(チャーター機)に横付けして金属探知を受けて飛行機に乗り込む。目的地ではやはり空港内にバスが横付けされている。空港は混雑の少ないサブ空港や果てはNASAの施設を使うことすらある。参照:「パ・リーグの遠征は厳しい」は本当か ポストゲームショー(田口壮)、日本経済新聞サイト、2015年7月12日
^ 1995年から1997年はワイルドカードのチームが同地区の地区優勝チームと対戦しないのは同じであるが、ワイルドカードとリーグ勝率3位のチーム、勝率1位チームと勝率2位チームの組み合わせで行われることもあった。
^ 1992年より「MLBの最高諮問会議のチェアマン」との位置づけであったが、MLBの実質的最高責任者だった。1998年7月9日に正式に第9代コミッショナーに就任した。
^ 2007年10月、TBSが運営していたアトランタのローカル局・WTBSが「PeachtreeTV」に改称、TBSとのサイマル放送を中止。2008年よりブレーブス戦は同局で放送。日本のTBSテレビとは無関係。
^ 2007年シーズンはアトランタ・ブレーブス戦を放送していたため、2008年シーズンより適用。
^ そのため、日本テレビ系列のニュース・情報番組でMLB関連の話題を報じる際は現地の新聞社や通信社などから提供を受けた写真(静止画)を使用していた。
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